第1節 新技術と日本経済
最近の情報通信技術の長期的なインパクトはまだ十分明らかではないが、過去の蒸気機関、電力、自動車などに匹敵する(1)大きな技術革新の波である可能性が高くなってきた。すなわち、その効果は情報通信関連の製造業、通信業のみではなく、情報通信と情報検索のコストを飛躍的に引下げることによって、広範な産業においてビジネスの形を変容させつつある。また、情報通信技術を用いた新たな商品、サービスの登場により、消費者の生活様式にも影響を及ぼしつつあり、技術革新が持つ経済へのインパクトは非常に大きくなっていく可能性がある。
本節では、まず最近の技術革新が経済に与えている効果について分析する。その上で今後起きるであろう技術革新に対応するために、また技術革新自体を生み出していくために必要とされる、人材育成や労働市場のあり方、企業組織の変革、政府の政策対応などについて考察を加える。同時に、知識基盤型成長、すなわち知恵の時代の日本経済の成長のイメージについても考える。
1. IT(情報通信技術)などの新技術の経済への影響
(需要面への影響)
ITが需要面に与えている最近の影響を投資と消費についてみてみよう。我が国にはアメリカのようなIT投資額の統計がないため、ここではIT関連の設備投資を汎用コンピュータ、携帯電話といった個別分類を集計する方法で試算してみた(第2-1-1(1)図。試算方法は付注2-1-1(1)参照)。IT関連設備投資は、名目、実質とも92年、93年と減少した後、94年に再び増加に転じ、96年には携帯電話の売切制導入とともに需要が大幅に増加したことを背景に基地局等の設備投資が増加したことを主因に大幅に増加した。その後名目ベースでは98年、99年と減少しているが、実質ベースでみると、99年にはコンピュータや通信機器が価格低下によって増加したことから、増加に転じている。この増加によって、99年の実質設備投資は0.6%ポイント押し上げられた。このようにIT関連設備投資は最近の景気改善にもプラスに寄与している(2,3)(第2-1-1(2)図)。また、IT関連の資本ストックが民間企業資本ストック全体に占める割合をみると、90年代後半以降、上昇が目立っている(第2-1-1(3)図)。
消費においてもIT関連支出は増加している。総務庁家計調査でみると、情報関連支出は95年以降パソコン、ワープロを中心に伸びを高めており、99年には前年比で10.4%増と高い伸びとなった。最近の名目消費全体が減少している中で、IT関連支出は消費の下支え要因となっている(第2-1-1(4)図)。
こうしたIT関連消費財の価格低下テンポは速く、実質消費は名目でみるより大きく増加している。情報関連消費財の価格を卸売物価指数でみると、移動体通信機器(携帯電話、P2HS)やカーナビゲーション等を中心に前年比大幅下落が続いている(第2-1-1(5)図)。消費者物価指数でみても、ワープロの価格は92年以降毎年低下し、99年にも前年比2.7%下落している。95年基準の消費者物価指数には、代表的なIT関連財であるパソコン等が含まれていない(4)。そこでやや大胆な前提を置いて卸売物価指数に流通マージンを加えることでIT関連消費財の物価を推計(5)し、同推計値等を用いて個別品目ごとに実質化 する方法で実質消費を試算してみると、99年のパソコン等を含む教養・娯楽の前年比伸び率は5.0%となった。これは教養・娯楽の実質消費を1.0%押し上げる結果となった。パソコン等の価格低下による消費下支え効果が家計調査でみるよりも大きいことが分かる(第2-1-1(6)図)(6)。
その他の新技術についてみると、環境関連の設備投資として環境対策装置(水質汚濁防止装置、大気汚染防止装置等の合計)生産額をみると、90年代に入り大きく増加しており、足下も均してみれば緩やかに増加している(7)。バイオについては、カバレッジが広い統計ではないが、その技術を用いた家庭用生ごみ処理機の出荷は最近急増している(97年:6.1万台→98年:10.9万台→99年:14.5万台)。
(供給面への影響)
技術革新が供給面に与える影響としては、生産性の向上が挙げられる。ここではまず、労働・資本を生産要素とする生産関数を用いて計測することで、資本、労働の増加寄与分以外の全要素生産性(Total Factor Productivity)をみてみよう。この全要素生産性には、労働の質の変化である人的資本(Human Capital)向上分、生産関連のハードな社会資本の影響、さらには社会の構成員の相互信頼関係などの社会的インフラ(Social Capital)の影響などの様々な要因が含まれているが、短期的な変動は技術革新の寄与が大きいと考えられる。最近の動きを稼働率要因を調整しやすい製造業の全要素生産性をみると、素材産業では伸び率を低めているが、加工産業では電気機械等が伸び率を高めており、全体では伸び率が高まっている(第2-1-1(7)図)。
次に、資本をIT関連の資本とそれ以外の資本に分けて生産性の計測を行うことで、IT投資の生産性押し上げ効果を計測した。アメリカにおいて同様の計測を行った分析では、90年代後半からIT投資の生産性押し上げ効果が確認できるとの結果となっているが、我が国においても、90年代後半からIT投資の生産性の押し上げ効果が確認できる結果となった(第2-1-1(8)図)。
さらに資本、労働に加え、企業の研究開発の累積である技術知識ストック(8)を生産要素として明示的に取り入れた生産関数を用いて、技術の経済成長に対する寄与をみてみよう。まず、製造業の技術知識フローをみると、94年度以降景気の低迷を背景に減少していたが、97年度から開発研究を中心に再び増加している(第2-1-1(9)図)。一定の前提を置いて同費用から実質技術・知識ストックを推計すると、98年度には伸び率を高めている。技術・知識の成長に対する寄与をみると、製造業全体では緩やかに上昇している(第2-1-1(10)図)。業種別にみると、素材産業では化学以外は製造業全体よりも寄与が小さいが、加工産業では、電気機械や精密機械等において、相対的に技術・知識が成長を押し上げていることがみてとれる。すなわち、IT関連財を産み出し、最近の景気改善に寄与している産業は、より技術・知識が寄与する形で成長していると考えられる。
(雇用面への影響)
雇用面での新技術の影響をみると、まずIT革命によって情報伝達のコストが低下したこともあり、ホワイトカラー、特に中高年層の労働需要が減少したと考えられる。アメリカでは、90年代初頭のジョブレスリカバリーの時期には、中高年ホワイトカラーが仕事を失い、その後のアウトソーシングの流れの中で、派遣労働者が増加した。最近の我が国の動きをみると、総務庁「労働力調査」では、職種別労働者数の中で管理職が減少傾向にある。また、年齢別にみると、新卒採用抑制の影響を受けた若年層のほか、中高年層も減少している。また、ホワイトカラーの過剰感は97年以降悪化した後、引き続き高い水準にある。一方、プラス面をみると、情報関連の新規求人数が増加していることに加え、派遣労働者数も99年半ば以降増加傾向にある。これはIT革命によってその企業の環境を熟知した正社員でなくても対応できる業務が増加したことが背景の一つになっていると考えられる。アメリカではITが単純労働への需要拡大に寄与したと言われている。このように、IT革命は業務の変革を通じて労働需要の構造を変化させている。他方、通勤を行うことが難しい子育て中の主婦などの在宅勤務等(雇用労働者のテレワーク(9))を可能にすることなどによって労働供給にも影響を及ぼしている。
(金融への影響)
IT等の技術進歩は、実体経済のみではなく、金融部門にも大きな影響を及ぼしている。まず、情報通信技術の発達は、金融取引の電子化をもたらし、効率性を向上させている。金融機関間の取引では従来から電子化が進められてきたが、最近では消費者との取引において、インターネットバンキングの導入やインターネット株取引が始まるなど、ITによる利便性の向上が目立っている(第2-1-1(11)図)。また、既存の銀行のみならずメーカーなどが営業店を持たないインターネット銀行の設立を計画する動きもみられている。この間、金融工学の進歩はデリバティブ市場や債権流動化市場を生み出し、市場参加者のリスクの分解(unbundling)を可能にした。こうした新金融商品の売買、リスク管理にもIT等の技術進歩が大いに役立っている。
このように、IT等の新技術によって金融の利便性は向上しているが、一方でIT等の新技術が金融資本市場を不安定化している側面も否定できない。例えば、インターネット株取引を利用したいわゆるデイトレーダーの増加によって、他の市場参加者の行動を真似て売買を行うハードビヘイビア(群集的行動:herd behavior)が増加し、市場の振れが大きくなっているという指摘がある。また、IT等の技術革新が生み出したデリバティブ取引等の高度なリスク商品を十分理解しないまま売買したことによって、一部では大きな損失を出す企業や個人投資家がみられている。
97年に起きたアジア通貨危機の際には、短期間の間に多額の資本移動が起きたことから、金融市場が不安定化した。このように、国際化、情報化が進んだ市場の動きは急激であり、警告や時間的猶予を与えずに急速に経済不合理性を断罪する性質も強まっていると考えられる。
(ソフトウェアの投資について)
従来、ソフトウェアの企業会計処理については明確な基準がなく、実際には、繰延資産に計上される税務上の処理に従って、長期前払費用に計上されていたケースが多かったと考えられる。
1998年3月に企業会計審議会が「研究開発費等に係る会計基準の設定に関する意見書」を公表し、1999年4月1日以後に開始する事業年度から、ソフトウェアに関する新しい会計基準が実施されることとなった。
新しい会計基準では、ソフトウェアは、①市場販売目的のソフトウェア、②受注制作目的のソフトウェア(10)(発注をうけて制作したソフトウェアで引渡し前のもの)、③自社利用目的のソフトウェア(市販品や自社制作のものなど)の3つに大別され、各々基準が設定されている。このうち、①では研究開発に該当する部分を除く制作費(例えば製品完成後の機能の改良・強化(バージョンアップ)に関わるもの)など、③では将来の収益獲得又は費用削減が確実であるもの(例えばソフトウェアを用いて外部へ業務処理等のサービスを提供する場合)が、無形固定資産に計上されることとなっている。
なお、機械装置等に組み込まれて一体不可分になっているソフトウェアは、機械装置等の取得原価に含めて有形固定資産などに計上される。
一方、国民経済計算上の扱いに関しては、国連統計委員会の採択した「1993年国民経済計算体系」(93SNA)を踏まえて、総固定資本形成の拡張(11)が予定されている(12)。今回の改訂では、生産者が1年を超えて生産に使用するソフトウェアのうち、受注開発分については、総固定資本形成(13)に含め、無形固定資産として扱う予定となっている(従来は中間消費とされていた)。市販のソフトウエアは従来どおり中間消費とみなし、自社開発のソフトウエアもその費用構成に応じて中間消費や雇用者所得などの中に含まれることになり,設備投資には計上されない。
推計は、通商産業省「特定サービス産業実態調査」や総務庁「産業連関表」等により行い、95年で約3兆円強(名目値)と見込まれている。なお、通商産業省「特定サービス産業実態調査」「特定サービス産業動態統計速報」によると、受注型ソフトウェアの売上高は、95年以降、毎年前年比7~14%程度増加している。
2.新技術の特性
(新技術の特性)
近年台頭してきた新技術は、どのような特性を持っているのだろうか。ここでは、ITを中心に若干の整理を試みることとする。
第一は横断的な側面を持っていることである。インターネットによる情報取得コストの低下は、広範な産業に影響を及ぼす。このことは個別分野の変化を促すのみならず、これまでは一見無関係に見えた複数の分野を関連付けた新しいサービスを開発する途を開くことになる。例えば携帯電話端末は、通話、インターネット接続、位置確認サービス、画像等の様々な機能を既に持っているが、今後発達が予想される決済機能、データベース機能、動画機能、自動料金収受システム対応機能、健康管理機能などが一つの端末の中で組み合わされることによって様々なビジネスが展開することが予想される。
第二の特性は、価格の低下をもたらすことである。インターネットによって情報取得コストが低下するが、全ての情報入手が容易になる訳ではない。価格はITによって最も入手コストが下がる(1)情報の一つであることから、インターネットの普及は価格競争を強化し、物価下落圧力を強めると考えられる。また、インターネットを利用することによって最も安い売り手から部品や労働力を調達することが容易にできるようになったことから、生産コストが減少し、製品やサービスの価格の低下要因となろう。さらに、これまでの技術革新が主として財の価格を引き下げてきたのに対してITはサービス価格への影響も大きいことも特徴といえよう。但し、こうした変化は非価格競争力の重要性が低下したことを示唆するものではない。顔の見えないeコマースでは、発注した商品が確実に届くかどうか、納期が守られるかどうか、高品質の商品であるかどうか、といった面での信頼関係を如何に構築していくかについて従来以上に意識的な努力を行う必要があろう。
第三の特性は、スピードが要求されることである。ITにより情報取得コストが低下していることもあり、新商品開発のサイクルが短くなっている。新技術を用いたビジネスの中には、知識集約型ではあるが、その性格が大量生産のプロセスで体得した技術を蓄積していく「ラーニング・バイ・ドゥーイング」(生産を通じた習熟)型というより新しい技術をどう応用するかが重要な「ビジネスモデル」型のものが多い。このような場合、別の新商品・サービスが出てくるまでに速く実用化して販売し利益に結び付けていくことがビジネスの成否を分ける鍵となる。このため、前例のない状況のもとで様々な課題を効率良く解決していく実践的能力が高い人材が、柔軟で機動的に動ける組織でビジネスを行う必要がある。また、ラーニング・バイ・ドゥーイング型では、過去の実績に応じて技術水準が上がっていくので先発企業を後発企業が追い越すのは難しいが、ビジネスモデル型では新たな発想で既存企業とは異なる方式でビジネスを始める余地が大きいと考えられる。このため、先発の利益は必ずしも永続的ではなく、創業者利益の重要性が増していると考えられる。
第四は、消費者参加型消費やネットワーク的消費の拡大をもたらすことである。IT革命によって、消費者のニーズが生産者に伝わりやすくなったため、供給と消費者のニーズのミスマッチが少なくなる可能性が高い。例えば、インターネットを利用することによって、メーカーが商品の改善に関する提案や新商品のアイデアを消費者から得たり、潜在的な需要動向を探ったりすることが、従来より容易に行えるようになった。また、需要者側が希望する量・価格を提示することで入札型の取引を行ったり、一つの商品を企業や消費者が複数集まって共同購入することも容易に行えるようになった。このため、従来供給されていなかった商品を比較的小さいリスクで生産して需要者のニーズを満たすことが出来るようになった。また、IT関連の商品やサービスの中にはネットワーク外部性(2)があるため、普及率がある水準を超えると急速に上昇する性質を持っているものがある。例えばインターネットの普及率は、一定の値を越えた後、急激に上昇し始めており、2003年には87%にまで上昇するとの予測もある(第2-1-2(1)図)。いわゆるデファクト・スタンダードもネットワーク外部性の一つの側面であると考えられる。このような性質から、当面利益が出ていなくても、将来のネットワーク効果を期待して多額の初期投資を行うビジネスもみられている。こうした分野については、後発企業の参入は困難になる可能性があろう。
(新しい時代の経済のイメージ)
かつては、資本と労働が主たる生産要素であり、機械、工場といった生産設備ストックの量と労働投入量に応じて経済活動が決まり、技術革新は外生的要因として成長率引き上げに寄与するとの考え方が主流であったが、近年は、技術・知識も経済成長に大きく影響を与えていくという考え方が広まっている。経済に対するこうした新しい考え方は、「知識集約型経済」、「ナレッジ・ベースド・エコノミー」、「知価社会」といった様々な言葉で表されている。こうした考えの下では経済成長にとって技術・知識が従来にも増して重要な要素となってくるのであり、技術・知識の蓄積は外生的ではなく内生的に起こるものと考えられる。
知識の蓄積がどのように起こるかについては、いくつかの考え方がある。まず、生産を反復する過程で体得した技術が蓄積されて将来の生産に役立っていくという「ラーニング・バイ・ドゥーイング」や、企業が行う研究開発(Reseach&Development)が知識の源泉となる「研究開発によるラーニング」といった考え方がある。また、生産規模の拡大に伴い生産性が上昇するという「規模の利益」の一形態として捉える見方や、技術の「導入」の難易度が技術革新のテンポを決めるという見方もある。但し、現在起きている新技術による経済成長がどの理論にもっとも適合したものであるかは、今のところ明らかではない。
(知恵の競争は不安定なものになるか)
知恵の時代においては、企業は新しいアイディアを持って事業に参入してくるライバルが不断に現れるという厳しい競争に晒されることになる。アメリカの有名な百科事典がCD・ROMの百科事典に取って代わられた話はその典型例であり、個々の企業にとっては、継続的に収益を上げていくことは難しくなっている。顧客が、より好ましい取引相手を探すことに必要となるコストは急速に低下している。類似の商品やサービスを比較することは容易であり、分野によってはそのためのサービスも開始されている。よほどの製品差別化が行なわれない限り、供給者は最も安く商品を供給するものに価格を合わせざるを得ず、収益は短期間で減少に向かう傾向が強まっている。こうしたことから先行して成功した企業といえども安泰とは限らなくなる可能性がある。
(景気循環は小さくなるか)
情報通信技術などの発達が景気循環を小さくするかどうかについて考えてみよう。
売れ筋の把握や、在庫管理技術の発達、さらには需要を把握した後に生産を行うことが広まることなどは、意図せざる在庫変動を縮小させる可能性がある。但し、我が国ではまだこの効果は顕著ではない。次に、技術革新が早く先行きの動向が読みにくくなることから、生産に用いる労働や資本設備などに関して企業が長期的なコミットを避け、雇用については長期雇用割合を減らし、設備についてはリースを増やすといった方向で、より柔軟に生産要素を調整していくことが景気循環を小さくすることも考えられる。雇用については逆に、先読みが難しくなる中で、広範な経験を基に臨機応変な対応のできる長期雇用人材の重要性が増す分野もあろう。こうした場合には、企業内でのより柔軟な対応を通じて雇用の振幅や景気の変動が小さくなることになろう。さらに、耐久消費財は耐用年数に応じたサイクルを持っているが、消費に占める耐久消費財の比率が小さくなっていくことも、消費の安定化要因となろう。
しかし、一方、景気循環を大きくさせる要因も考えられる。まず、事業のハイリスク化に伴って個別の起業にかかるリスクが大きくなることである。もっとも、こうしたリスクを分散するための活動も盛んになっていくと思われる。機関投資家によるリスク分散、企業内での起業の増加、優れた技術を持った新興企業が脅威となる前に既存企業がその新興企業を買収することなどである。また、消費は将来の所得についての見通しに影響されるが、技術体系の変化によって労働市場での各種の技能の評価が大きく変化していく可能性が高まり、将来所得の変動を大きくしていくことも考えられる。さらに、金融資本市場が国際化し、資金移動や情報の伝達が容易になるにつれて、相場がファンダメンタルズの動きを超えて、地球規模で雪崩のように大きく振れるリスクも高まってきた。適切なマクロ経済政策は相場安定化のための必要条件ではあるが、十分条件ではない可能性に留意が必要である。金融工学(3)の発達がこうしたリスクを軽減する程度は限られており、昔に比べて相場が安定化してきたとは言いがたい(第2-1-2(2)図)(4)。
さらに、消費に占める必需品の比率が低下し、消費がヒット商品の有無やネットワークの盛衰などに影響されやすくなることも景気循環を大きくする可能性がある。
アメリカ経済が情報通信技術にも支えられて長期に渡って比較的安定的な拡大を続けてきたことは事実であるが、以上の考察からは、情報通信技術の発達が景気循環を平準化する性格があるとは言いきれないと考えられる。
3.新技術と人材
(創造力のある人材の育成)
これからの知恵の時代には、労働者一人一人が知識、技能を身につけ、それをさらに発展させていくことが期待される。また、与えられた課題に取り組むだけではなく、自ら課題を設定して積極的に挑戦していくような、創造力と行動力のある人材が求められている。特に高齢化が進展し、また人口が減少に転じていく我が国では、労働力の量的拡大は困難であり、労働者の質の向上が重要である。労働市場も、年齢・性別・学歴に関わりなく能力次第で機会や賃金が得られるような柔軟な方向に変化していくことが重要である。
人材育成は、①就職するまでの学校教育(1)、②企業に就職してからの企業内教育訓練、③就職後に社外で受ける社会人教育や生涯学習、に大別されよう。
以下、こうした観点から学校教育、企業内教育訓練、社会人教育・生涯学習の現状を概観してみよう。
①学校教育
1999年度における我が国の高等学校等への進学率は96.9%、大学等への進学率は49.1%となっており、欧米諸国と比べても高い水準に達している。しかし、その教育内容についての学生の満足度は必ずしも高くない。文部省「学校教育と卒業後の進路に関する調査」によると、学生が大学に進学する目的は、「専門的な知識や技術を身につける」、"職業に必要な資格を取る#、"自分にあった職業を考える#などのためであるが、日本労働研究機構「大学卒業後のキャリア調査」によると、実際の職業生活の上で役立っている「大学で身につけた能力」は、「人文・社会」「自然科学」の理論的な知識や「幅広い教養」以外は比較的低い評価に止まっており、大学教育は、専門的な知識や能力などの職業上必要な知識の育成の場としての期待には十分応えていないことが窺われる(第2-1-3(1)図)。また、アメリカでは大学在学中に企業を起こす学生が多いといわれているのに対し、我が国ではこのような例はあまり多くない。この理由として、アメリカと我が国の起業環境の差異などもあるが、アメリカでは学生時代からインターンとして働くといった就業機会があり、学生時代から職業を意識していることが考えられる。
②企業内教育訓練
日本労働研究機構「企業における教育訓練経歴と研修ニーズに関する調査」によると、ホワイトカラーは現在かなり豊富な教育訓練機会を得ている。最近2年間の「受講者比率」をみると、社内研修には6割、社外研修には5割、通信教育と自主的な勉強会・研究会にはそれぞれ4割のホワイトカラーが参加している。産業能率大学「教育研修投資と研修効果の国際比較」によると、日本企業の従業員(2)一人当たりの企業内教育費は、年間10万円強とほぼアメリカ並みで欧州をやや下回る水準にある(第2-1-3(2)①図)。内容をみると、我が国は欧米に比べて集合研修の比率が高く、電子メールやグループウェアといった電子技術を利用した集合研修以外での学習形態である「ラーニングテクノロジー」等の自分のペースに合わせた自己研鑚の比率が低いという結果になっており、全員一律型から選択・選抜型への移行は未だ進んでいないと評価できよう(第2-1-3(2)②図)。
③社会人教育・生涯学習
総理府「生涯学習に関する世論調査」(1999年12月調査)によると、この1年くらいの間に、「職業上必要な技能・知識の取得(仕事に関係のある知識の習得や資格の取得など)」を自主的に行った人は9.4%となっており、1992年調査時(同9.9%)とほとんど変わっていない。アメリカにおいては、過去1年間に業務に関係ある教育を受けた人が23%となっており、我が国は、放送大学など社会人教育・生涯学習を受ける機会は用意されているが、それを受ける者の割合はアメリカに比べて少ないと考えられる。また、「企業における教育訓練経歴と研修ニーズに関する調査」によると、ホワイトカラーのうち最近2年間に通信教育を受講した者の割合は38%、自主的勉強会等に参加した者の割合は41%となっており、通信教育は現在業務や将来のキャリア開発を重視するための研修として、自主的勉強会等は現在や将来のキャリア開発と情報ネットワクーク作りのための研修として参加している。
以下では、これからの教育を知恵の時代に適応したものにしていくにはどうしたら良いか、またそうした人材を活用できる労働市場のあり方はどのようなものか、について考察していくこととしよう。
(質重視への移行が求められる学校教育)
ベビーブーマーの人口に合わせて規模を拡大させてきた学校教育は、既に量的にはかなり充実している。大学・短大入学者数は18才以上人口の減少を背景に93年以降減少し続けているのに対し、大学・短大の定員数は増加し続けている(第2-1-3(3)図)。また、大学審議会の答申(97年)によれば、2009年度には大学進学志願者に対する大学の収容力は100%に達し、収容能力の観点からは大学進学希望者は全員いずれかの大学には入れるとの試算結果もあり、今後大学には学生からの厳しい選別の目が向けられることが予想される。こうした中においては、学校教育の質重視への転換が必要であり、学校間の競争に勝ち抜けない学校は、その存立基盤そのものが危機的な状況に陥ることが予想される。
(受験戦争と学歴の機能)
我が国では、受験戦争と呼ばれるほど受験勉強にエネルギーが費やされているが、これは果たして効率的なことなのだろうか。従来は、新卒採用において、企業が学歴をシグナルとして非常に重視していた。また、長期雇用の前提の下で、研修や海外留学等の企業内教育投資を行って人的資本の形成に努めていた。こうした状況の中では、学生は膨大なエネルギーを使って就職市場で評価が高い大学に合格し、入学後はその反動もあって勉学に割くエネルギーを削減することが合理的な行動であったという面もみられた。また、就職した後に企業が社費で教育してくれたため、大学時代の勉強の不足を就職後に補うことが出来た。しかし、こうした状況の下で高等学校や予備校までにおいて進学を目的とした画一的な教育が行われ、学歴取得のための競争にエネルギーを費やすといった事態になっているなど、高等学校、大学などそれぞれの段階において望ましい教育が行われていない可能性がある。近年は、企業が学歴よりも学生が卒業までに何を学び何ができるようになったか、を重視するようになってきたため、受験に大きなエネルギーを傾けることは、就職の観点からみても合理的ではなくなってきた。99年の学歴別賃金(男性)をみると、大卒労働者を100とした場合、短大・高等専門学校は73、高卒労働者は85となっているが、大学教育の投資効果を計測すると、最近では内部収益率が低下傾向にあり、この観点からは必ずしも大学教育が能力投資として割に合わなくなってきている。また、大学側も、学力検査の結果だけでなく、受験生の多面的な能力、適正・意欲や関心等を評価する方向で入試の改善を行ってきているなど、望ましい方向への変化も起きていると言えよう(3)。
(新技術に対応した教育)
新技術に対応した教育には、①新技術を生み出す技術者の育成と、①新技術を製品化し販売する経営力のある人材の育成、の二面があると考えられる。まず、新技術を生み出す技術者の育成については、教育内容の高度化を図ることが必要であり、大学等における理工系教育充実のための環境整備を図る必要がある。我が国は理系分野での博士号取得者が欧米に比べると少ないことが指摘されているが(第2-1-3(4)図)、これは、我が国では博士号を取得してからの民間企業就職が困難であるという事情を反映している面もあり、関連する企業等における博士号取得者の積極的な採用が期待されるとともに、高度な技術を生み出す人材の育成を進めて行く観点から、博士号取得者数の増加を図る必要があろう。一方、経営力のある人材の育成については、我が国ではアメリカのビジネススクールやロースクールのような「経営・法律」の専門家を教育する機関が非常に少ないのが実情(4)である。経営面の人材育成は、これまで企業内で企業特殊的能力を重視しつつ行われてきたと考えられるが、労働移動の増加や経営手法の標準化などににともなって我が国においても経営・法律の専門家を教育する機関の増加が望まれる。また、特定の分野における優れた才能を一層伸長し、一人ひとりに応じた教育を行っていく観点から、いわゆる飛び入学制度等が有効に機能することが望まれるほか、真に専門性を持つ人材については、少ない受験科目で専門教育を受ける途が用意されることも考えられる。
学校教育における教育の情報化も重要である。アメリカのクリントン政権の教育改革においては、「全ての教室を2000年度までにインターネットに接続し、全ての生徒がコンピュータを使えるようにする」ことが目標とされた。この結果、1998年には89%の学校(高等学校以下)がインターネットに接続されている。我が国では、1999年現在、インターネットに接続している学校数は35.6%であるが、政府のミレニアム・プロジェクト「教育の情報化」においては、2001年度までに、全ての公立小中高等学校等がインターネットに接続でき、2005年度を目標に、全ての小中高等学校等からインターネットにアクセスでき、全ての学級のあらゆる授業において教員及び生徒がコンピュータを活用できる環境を整備する計画を推進しており、今後その効果が期待されるところである(5)。アメリカでは「デジタル・デバイド(情報格差)」(6)が問題視され始めているが、我が国においても、そうした状況を防ぐためにも、学校教育における情報化の推進は重要であり、中学校や高等学校において情報関連の科目が必修化されるなど新技術に対応した教育も進んできている。
教育の情報化は、将来の技術開発力を高めるという面のみならず、需要の裾野を広げるという観点からも重要である。こうした観点からは、高齢者に対する情報教育も極めて重要である。今後高齢化が急速に進む中で、高年層のITリテラシー(機械操作能力、英語力など)が高まれば、技術革新のメリットを享受することができるようになる。高齢層は比較的多額の金融資産を保有していることから、マーケットの拡大テンポを加速する効果も期待できる。新技術を使いこなすための成人教育は、義務教育の補完的な性格を持っていると言える。
(重要性が高まる社会人教育・生涯学習)
これからの知恵の時代の教育制度は、様々な意味で多様でなければならない。我が国においては、30才以上の大学生は全体の1%強と非常に少ないが、アメリカでは70年以降をみると、大学生に占める30才以上の比率が上昇し、95年時点では大学生の1割以上は30才以上となっている(第2-1-3(5)表)。我が国では、1998年度に社会人特別選抜で大学に入学した人は5,243(7)人、大学院に入学した人は7,204人となっており、双方とも年々増加しているが、まだまだ少ないのが実情である。社会人になってから、実務経験を踏まえて、大学や大学院で高度な知識・技術を習得したいというニーズを持っている人は多いと考えられるし、実務経験を踏まえた上での教育は能力開発の観点からみて重要であろう。このようなニーズに応えるため、社会人特別選抜を実施する大学・大学院が年々増加しており、夜間大学%大学院及び昼夜開講制が実施されるなど、機会は広がっている。また、労働者の自発的な能力開発の取り組みを支援し、その雇用の安定及び就職の促進を図ることを目的とする教育訓練給付制度においても、専修学校などに加え、1999年6月より、大学院等の高等教育機関で行われるコース登録制や夜間大学院、昼夜開講制大学院、通信制大学院を新たに対象としている。さらに、大学等において社会人のニーズに応えることができるよう、例えば、産学共同教育プログラムによるカリキュラムの開発に努めていくべきである。
(変化の時代に即した労働市場)
これまで述べてきたように、知恵の時代の教育はより多様化することが望ましい。一方、教育の多様化は、多様な人材が適切な職に就くことが出来る多様な形の労働市場が存在しないと困難である。まず、正社員以外にもパートタイム労働や派遣労働などの多様な就業形態が、労働者が能力発揮のできる良好な就業形態として広まる必要がある。産業構造や技術が変化する時代においては、多様な就業形態が存在することは企業が変化に臨機応変に対応できることにつながるほか、労働者にとっても個々人の志向に応じた働き方を選択できるというメリットがある。また、正社員の中でも、様々な働き方があっても良いであろう。例えば、市場性がある技術を身に付けた労働者は、高い給与を受けて転職も視野に入れつつ働く一方、企業に固有な業務をこなし、長期勤続を基本とする安定的な雇用形態が併存する姿が考えられる。
労働移動が増加する中で、労働者の技能取得における企業内投資と自己投資の比率も変わっていくと考えられる。例えば、我が国では企業で働く修士、博士といった高学歴を持つ人材は、これまで企業が企業内投資を行って学位を取得させてきた例が少なくない。すなわち、企業は労働者に対して教育費をはじめとする投資を行い、労働者を長期雇用することでその投資を回収してきた。労働者の意識をアンケート調査でみても、技能取得に責任を持つべき主体は誰かとの問に対し、「企業・組織」という回答の割合が我が国ではアメリカよりも高く、「労働者」という回答の割合が我が国はアメリカより低い。しかし、終身雇用ではなく移動が活発に行われる労働市場においては、企業が他企業に転職しても活用できる能力の取得に多額の教育投資を行っても回収できる保障はないことから、我が国でもアメリカのように自己投資を行って高いスキルを身につけた人を労働市場から採用した方が効率的な場合も少なくない。こうした観点から言えば、20才前後の新卒、第二新卒の労働市場のみではなく、高い学位を取得した30才台の新卒、中途採用市場の一層の拡大が必要であり、こうした労働市場は、個々人が時間をかけて教育を受け、自分のスキルを高めていくために不可欠なインフラである。
(豊かな時代に労働や革新意欲をどう確保するか)
一人当たり国民所得が25,616ドル(98年:先進国6位)と生活がかなり豊かになっている我が国において、引き続き高い労働意欲や革新意欲を確保していくことが重要であるが、そのためにはどうしたら良いのであろうか。第一には、意欲と成果に対する所得面でのインセンティブを確保し、セーフティーネットを整備する一方で、努力に見合った報酬が得られるようにしていくことである。第二には、敗者復活が出来ることである。失敗したベンチャー起業家の再挑戦の環境を整備することが重要である。また、中高年労働者についても、90年代初のアメリカでは一度リストラされた人が教育訓練を受けることでスキルを高め、再び労働市場に参入する動きがみられた。我が国においても労働者の再教育訓練についての政策が実施されているが、年齢・職歴にかかわらず、技能を身に付けた労働者は就業の機会が得られる労働市場を確立することが労働意欲、革新意欲の支えになると考えられる。
4.新技術と組織
(ロボット技術とITの差)
80年代に我が国はロボットの導入が円滑に進み、製造業の生産性の向上に貢献したが、今回のITの導入は比較的遅れた。その一つの理由は、ITのメリットを生かすためには組織の再編が必要であったことである。ロボットは塗装など一部の生産工程で雇用をまるごと代替した。これに対し、ITは集計、情報伝達、単純事務は代替できるものの、情報のスクリーニング、新しい事態の分析、総合判断、臨機応変な対応、などの機能は代替できない。そこで、単純に情報システムを導入しただけでは、職員の稼働率の低下を招き、業務効率の上昇は期待できない。ITは人間関係に関する技術であるので、それを生かすためには業務の特性を踏まえつつ組織を再編し、これに見合って人事システムや権限の体系を見直していく必要がある。
(ITが企業組織に与える影響)
「企業組織」については極めて多様な捉え方が可能であるが、ここでは、取引コスト、という観点から企業組織の持つ意味を捉え、ITの発展を始めとした様々な経営環境の変化がそれにどのような影響を与え、企業組織のどのような変化を促すかという点について考えてみたい。
製品・サービスが生産され販売に至るまでの間には、企業間、あるいは企業の内部で何段階もの部品やサービスの取引が行われる。こうした取引には一定のコストが発生する。
一般に、取引を外部化(外注化)すると、発注先間の競争強化を通じて価格は低下するが、発注先と密接な経営・技術情報の交流が難しくなり、例えば発注内容の変化に取引先が柔軟に対応できないようなケースが増加する。他方、取引を内部化(内製化)すると、より密接な情報交換が可能であるので情報コストは低下するが、発注先に競争が存在しないため、製造コスト削減や技術開発への取組みが甘くなる。企業は、取引コストを最小化するために、様々な外部取引と内部取引の組み合わせを模索し、内部取引コストと外部取引コストのバランスによって「企業規模」が左右されると考えることができる。
1980年代においては、我が国の大企業の企業組織は経済環境の変化に対して極めて柔軟に対応したが、その背景として下請企業との間に構築された柔軟な協力関係がしばしば指摘されてきた。これを、取引コスト、という観点から見ると、外部取引と内部取引を組み合わせたものであると言える。すなわち取引先である下請企業間の競争を維持し、経営努力を誘引するとともに、取引先との関係を長期化、系列化することにより、積極的な技術移転、製品企画段階からの下請企業の参画など、密接な情報交流を行い、情報コストを低下させたのである。こうした取引方法は、内部取引と外部取引のそれぞれ良い面を併せ持つていたと考えられる。他方、欧米では取引を単純に内部化する方向に進んだが、これは各取引段階における競争を縮小させ、結果として日本企業に比べて取引コストの減少は進まず、欧米企業が競争力を失っていく一因となった。
しかし、1990年代に入ると、ITによる効率的な情報の伝達・処理の進展に加え、アジア諸国など低コスト国における生産技術の向上、経営のグローバル化に伴う経営システムの標準化の進展、といった環境変化が、外部取引コストを大幅に低減させている。
このため、ネットビジネスに携わる企業の中には、コア・コンピタンス(最も得意とする機能)に特化し、商品の製造、配達、代金の管理など、残りのほとんどを外部化しているような経営方法をとるものも増えている。こうして、個人あるいは小人数の起業が容易になったことは、多様なアイデアが実現されやすくなったことを意味するとともに、起業の立地の自由度が増加したことも意味している。
また、欧米の大企業の一部は、こうした変化に積極的に対応し、事業部門の分離・別会社化など、取引の外部化を進めつつある。アメリカの全上場・公開企業に占める上位100社の割合を、資産と営業用設備についてみると、前者は近年割合が上昇しているのに対し、後者は逆に割合が低下している。これは、大企業が製造・営業部門を外部化し、資本を通じた間接的な支配に移行していることを示唆している(第2-1-4(1)図)。
さらに、こうした企業は、内部化されている事業部門についても、部門毎に採算を明らかにし、取引の内部化が企業にもたらすコストと、それを外部化した場合のコストを比較するようになっている。そして、内部の事業部門に対して大きな権限を与える一方で、外部組織との間での潜在的な競争関係にあることを強く意識させることによって内部取引コストの一層の低減を図る、という経営手法をとりつつある。
他方、日本企業の場合、こうした企業形態の変化はそれほど進展していない。この背景としては、日本企業の意思決定メカニズムが分散・合議型であり、企業全体に影響を及ぼすような意思決定に時間がかかる、あるいは様々な生産要素の流動性が欧米に比べ低いといったことのほか、長期間良好に機能してきた形態を変えにくいという点があると考えられる。
では、今後は、我が国においてもこうした取引の外部化が一層進展するのであろうか。取引の外部化は、標準化が進んだ一部の生産財についてはコストダウンをもたらすが、消費者の多様な嗜好に十分に応え得る供給体制という面では障害となる。今後、多様な消費者の嗜好にキメ細かく対応することが一層重要となってくる分野では、外部取引コストの低下があったとしても引き続き長期的な取引関係が維持される可能性もあろう。ただし、いずれにせよ企業は、需要の変化や技術革新に応じて、最適の企業組織形態と取引形態を迅速に構築することが求められており、そのスピードが企業の競争力に重大な影響を及ぼすと考えられる。
(組織の分権化と集権化へのITの影響)
次に、企業、あるいは部門化された内部組織の中では、ITは組織のあり方にどのような影響を与えるのであろうか。ITは企業内部でも情報の管理流通コストを大幅に低減させると考えられるが、それが企業組織を集権的な方向に導くかどうかは一概には言えない。
企業のトップ(中央)と末端(現場)の間には様々な情報がやりとりされている。現場から中央に向かう情報の標準化が可能で、ITに乗せやすいものである場合には、ITの導入によって中央がより迅速に多くの情報を集めて判断し指示を行うことが可能となり、集権化が進むと考えられる。しかし、逆に現場に多様かつ時々刻々変化するようなITに乗せにくい情報がある一方で、中央からの情報が乗せやすい場合には、現場は中央の示すマニュアルやガイドラインなどを踏まえてより主体的な判断を下すことが望ましくなる。こうした場合には一層の分権化が進むこととなろう。どのような情報がITに乗せやすいかは、ハード面での情報技術の発達にも依存するし、創意工夫によって変化する余地のあるものであろう。
ただし、組織の変化が枠組みやルールを大きく変えるものである場合は、それが最終的に組織の集権化、分散化のいずれの方向を志向するものであるにせよ、トップの大胆な決断とリードが不可欠となる。さらに、ITを活用した新たな経営システムの導入は、組織のあり方を大きく変化させる可能性があることに加え、単なる生産工程の自動化や省力化などと異なり、組織全体が新たなシステムに基くマネジメントに慣れるまで、組織全体に大きなストレスを与え、その生産性を押し下げる場合も多い。したがって、ITを用いた組織のリエンジニアリングの導入を決意したトップに対しては、それがもたらしうる短期的な負の効果について、企業内外に対して十分な説明を行い、改革をリードしていくという、強いリーダーシップが求められる。
5.日本経済の体質と新技術
技術の発達と社会・経済の体質は相互依存関係を持っている。一国の社会・経済体質は、様々な経済活動の効率性に影響を及ぼし、ひいては技術革新の方向をも長期的に左右していく。逆に技術革新は生産様式と生活様式を変容させ、社会・経済の体質に影響を及ぼしていくことになる。
ここでは、我が国の社会・経済の特性と新技術の相性について具体的な事例を上げつつ検討してみよう。
(安全が背景にあるコンビニの成長)
近年店舗数・売上高を増加させているコンビニの成長の背景には、我が国の治安の良さという要因がある。人口10万人当たりの犯罪者数は、諸外国に比べてかなり少ないほか、検挙率も高い水準にある(第2-1-5(1)図)。このため、我が国のコンビニエンスストアは、①夜間は人通りが少ない住宅地でも24時間営業を行うことが出来る(1)ほか、②多額の現金を持っても比較的安全なため、ATMの設置や公共料金の決済が行えるなど、利便性が高い生活拠点になっている。また、コンビニは日本人の食品に対する新鮮志向に対応するため、狭い地域に集中的に店舗を構えることで弁当やおにぎりの配送を頻繁に行っているが、その多頻度配送機能を利用して宅急便等の受け渡し場所として横断的な物流の拠点にもなっており、e-コマースと結びつける動きも出てきている。これに加え、マルチメディア情報端末を設置することでコンサート等のチケット販売、旅行の予約等を行うなど、社会的なインフラとして機能し始めている。コンビニの発展は、我が国の社会的条件をうまく利用するともに日本人の志向にうまく対応出来た成功例と言うことが出来る。
(子供関連産業の成長)
我が国では、少子化が進む中で子供関連産業の成長が大きい。家計支出に占める子供一人当たりの子供関連支出の割合をみると、一貫して上昇傾向にあり、99年には8.2%となっている(第2-1-5(2)図) 。こうした環境に加え、国民の同質性が高いため一部での流行が爆発的に普及するケースが少なくない。若年層における携帯端末の急速な普及も、こうした社会環境の影響を受けていると考えられる(2)。また、我が国のアニメやゲームソフトが世界をリードする技術を持っていることの背景にもこうした要因があると思われる。アニメでは、子供の感覚を捉える作品を多く開発し、海外においても非常に評価が高い。ゲームソフトは他のソフトウェアと異なり、論理構築の能力のみではなく、画像、音楽、ストーリー性も重要な要素となっており、画像やストーリーについては、優れたアニメの技術の波及がみられる。また、アメリカのゲームソフトがややマニアックな物が多かったのに対し、我が国では子供を需要の中心に据え、簡単で分かりやすさを重視して作成したことが成功に繋がっている。
(新技術と高齢化社会)
最近のIT関連消費は、若年層中心であるが、今後の技術革新を経済成長に結び付けていくには、潜在的な購買力が大きい高齢者層のニーズに応えていく必要がある。しかし、高齢者のパソコン利用率は5.4%、携帯端末の利用率は僅か0.5%(3)であり、普及率はかなり低い。また、多くの高齢者が銀行ではATMすら使わず、窓口を選好しているとの調査結果もあるなど、ITは未だ必ずしも高齢者が使いやすくなっていない。高齢者がインターネットを使うための条件としては、金銭的な問題よりも「自分に適した機器やソフトウェアがあれば利用する」とした人が多く、使い勝手が良くなれば高齢者もITを利用する可能性がある(第2-1-5(3)図)。操作上の問題点としては、「マニュアルが分かりにくい」、「操作方法が複雑」といった点を上げる人が多いことからみて、音声認識やタッチパネル方式のパソコン開発等、高齢者に使いやすいITを開発することで需要が拡大する余地がある。
急速な高齢化を迎えることは生産能力の点では弱みであるが、医療・バイオ分野、介護分野については数千万人の巨大な市場があり、健康志向が高い国民性を考えると、技術開発へのリターンが大きいことを意味している。高齢者が自宅で受けたいとする情報通信サービスは、「画面を通じて医師に相談や健康診断」を受けることが圧倒的に多く(4)、幾つかの新技術を融合することで新たな需要を喚起することが出来ると考えられる。
(モノ作りの技術を生かした新技術への対応)
これまでの世界における代表的な製商品の発明・商品化がどこで行なわれたかをみると、我が国の技術開発力は、発明、新製品開発に関しては欧米諸国に比べて高水準とは言えないが、商品化する能力は決して劣ってはいない(付表2-1-5(1))。最近の具体例で言えば、デジタル技術をカメラに導入したデジタルカメラは、世界の市場規模536万台に対して日本企業の出荷は506万台と圧倒的に高いシェアを握っている。また、インターネットへの接続機能を持つ携帯電話は、微細小型化技術と通信技術をうまく融合させた成功例である。このように、我が国は既存の技術を利用してそれを消費者のニーズに合わせて商品化する面では優れており、これには販売・生産・技術の関係者がキメの細かい議論を繰り返しながら商品開発を進めるスタイルが奏効している。このように我が国の優れたモノ作りの技術と最新の技術革新を融合させるとともに品質に厳しい消費者のニーズに対応した商品開発を行うことで、需要を拡大する余地はまだまだあると考えられる。
(共通言語と行き届いた基礎教育)
我が国は基礎的な教育が行き届いており日本語を理解しない人はいない。こうした環境は、インターネットのような基礎的な共通インフラが相当高い普及率を達成する可能性を示唆していると考えられる。このところ、パソコン価格やインターネット料金は、低下傾向が続いているが、今後、価格低下が更に進んだり、情報化教育が進展していけばインターネットが急速に普及(5)していくことが見こまれる。
(中小企業の技術力)
我が国の中小企業の保有する優れた技術は、我が国の製造業の国際競争力に大きく貢献してきた。しかし優れた技術を持っている企業の中には、自社技術を宣伝するだけの資金力がなく、またどこに潜在的な需要があるかを見極めること自体が困難であったために、特定の大企業を中心に取引を行ってきたものが多い。
しかし、インターネットを利用することによって、自社技術の潜在的な応用可能性を探索したり、中小企業間の情報交換ネットワークを通じて、一社だけでは難しい商品開発を実現することが容易となってきた。また、特殊分野で高い技術力を持っている中小企業にとっては、インターネットを使って世界を相手に顧客を探し、売上を大きく拡大していく可能性も開けてきた。
(後発でも活かせる新技術)
IT分野の応用という面で、我が国はアメリカに比べて出遅れた感は否めない。しかし、前述のように、新技術関連分野には、先発のメリットが必ずしも大きくない分野も多い。日進月歩のハード面の情報通信技術の進歩と、これまでみてきたような、我が国の社会・経済の特質を組み合わせて新しい分野を切り開いていく余地は十分残されている。そのうちのいくつかは経済の体質の類似したアジア諸国への応用可能性が高いであろうし、人口高齢化を背景としたものは我が国に遅れて高齢化時代を迎える多くの諸国に応用可能なものとなろう。また、ITの発達によって、今まで不利と考えていた時差などの要因が利点に変わる可能性も開かれてきた。
6.知的競争のルール
(重要性の高まる知的財産権政策)
付加価値の源泉が「情報や知識」にシフトするのに応じて、「情報や知識」を生み出す活動が一層重要となる。知的財産権制度はこうした活動を促進するための重要な仕組みであるが、ここでは、特許制度(1)についてみていく。特許制度は、発明が生み出す利益を発明者が一定期間独占することを認めることにより新たな技術開発に対するインセンティブを確保するとともに、先端的な技術の内容を公開して社会全体の技術水準を向上させる、という二つの目的を持った制度である。
まず、我が国における特許出願1件あたりの技術知識フロー(2)をみると、概ね上昇傾向にある(第2-1-6(1)図)。これは、近年、技術の複雑化とそれに伴う技術開発の不確実化により、発明を生み出すコストが上昇している可能性が高く、発明へのインセンティブ確保がより重要となっていることを示している。
こうしたことから最近、特許権等の知的財産権の保護を強化する政策(いわゆるプロパテント政策)の必要性が国際的にも盛んに議論され、様々な制度改正が行われている。例えば、アメリカ(3)においては、既に1980年頃から特許紛争処理の短期化、賠償金の高額化(4)、審査期間の短縮など、知的財産権の「強い保護」に向けての取組みが積極的に行われきた。我が国でも既に特許料の引き下げ、ペーパーレスシステムの導入による審査期間の短縮化、特許関連データベースのインターネットでの無償提供、といった施策が行われているが、より早い段階での特許権の確定、より早期の紛争解決、より強い権利保護などに向けた取り組みが望まれる(第2-1-6(2)図)。特に、技術革新のスピードが上昇すると、出願された特許に関する技術が既に実施されていたり、あるいは急いで実施する必要がある場合が増加する。こうしたケースでは、事業の安定性を確保するために権利確定を速やかに行う必要があり、審査期間の短縮や、権利侵害が生じた場合の解決のスピードを早めることがこれまで以上に重要となっている。
従来、我が国がこうした国際的なプロパテントの流れをリードする機会が必ずしも多くなかった背景として、旧来の産業技術開発のあり方が、欧米の基本技術を導入し、製品製造段階において独自の技術を付加するという、いわば「キャッチアップ」型技術開発が主流であったという点が挙げられる。日本企業の特許は、数は多いものの改良特許や部分特許が多く、強い独創性が要求される基本特許に関するものは比較的少ない(第2-1-6(3)図)。また、実施がなされていない未利用特許が多い(第2-1-6(4)図)。この背景としては、他社の事業展開に対する防衛を目的として特許を取得するケースが比較的多い(5)、ということが言われている。しかし、未利用特許の内訳をみると、実施許諾の意思があるにもかかわらず使われていない特許が60%以上を占めており、我が国の企業が特許制度を事業戦略上活用する明確な意図無しに取得するケースも多いことを示している。また、技術移転を仲介する事業者数を見ると、特にアメリカと比較して我が国の民間事業者数は極めて少ない(第2-1-6(5)図)。これは、我が国では長期的な取引関係にある者同士が技術協力などを通じて技術の移転を行うようなケースが多く、技術を取引・仲介する市場環境が十分育っていなかった可能性が高いことを示唆している。
しかし、我が国と欧米との技術格差が縮小し、他方で東南・東アジア諸国などの技術力が大幅にレベルアップしている現状を考えると、今後は、我が国においても産業のフロンティア部分で創造性の高い技術開発、あるいは産業の基本となるような技術開発へのチャレンジが一層求められる。したがって、こうした技術開発を行うインセンティブを確保する方向に特許制度自体がシフトする必要があり、「プロパテント政策」の推進は今後一層重要になると考えられる。さらに、従来型の製品製造段階における改良特許等についても、これまでは国内企業間でのクロスライセンス(6)の実施といった活用形態が多かったが、最近はアジアを中心とした国外への技術輸出など、技術貿易関連の活用が増加している(第2-1-6(6)図)。このため、海外諸国の特許制度の運用に関しても積極的な協力を行うことが求められている。
ただし、バランスを欠いた「プロパテント政策」は権利者以外の自由な経済活動に対する阻害要因となる可能性もある。こうした問題を防ぐためには、透明性、権利の安定性に十分配慮した制度設計が不可欠となる。例えば、アメリカの特許制度には、先発明主義(7)、公開制度の一部欠如(8)など、権利者以外の者の事業活動に対する阻害効果が高い規定が存在し、これが高額賠償とあいまって企業の技術開発や技術導入に対して抑制的な効果をもたらすケースがしばしばみられる。さらに、企業活動のグローバル化に伴って、各国間の特許制度の違いが企業の事業活動を阻害するケースも多い。このため、知的財産権制度についての予見可能性を高め、国際的にも調和の取れた運用を行うために、先行事例の国際データベースの整備、専門的な審査官の育成などを、各国間で協調しつつ迅速に進めて行くことが重要な課題となっており、こうした動きをリードして行く役割が我が国にも強く求められている。
(大学等による知的財産権への取組み)
我が国の大学には、研究者の26%が所属し、研究費の14%を使用するなど研究開発部門の重要な一部分を占めている(第2-1-6(7)図)。しかし、研究開発の成果について、産業上の活用可能性よりも、学会内における評価の方を重要視する傾向がある。このため、大学が組織として産業界へ円滑に技術移転していく取組みはこれまであまり活発ではなく、知的財産権に対する認識も低かった(第2-1-6(8)図)。しかし、近年、国際的な競争が強まる中で、こうした知的資本を産業で活用して行くことが極めて重要な課題となっている。
産業上の活用可能性は政府が適切な判断を行いにくい観点であり、大学における研究にこうした観点を導入するためには市場による評価に対して大学や研究者が積極的に対応するための仕組みが必要となる。こうした仕組みの一つとして、大学が自ら開発した研究成果について特許を取得し、その実施許諾料を大学の収入源として活用するという考え方は有効であろう。なお、研究結果はなるべく安価(可能であれば無料)で広く希望者全員に利用可能とした方が産業の発展に資する、という考えもあり得るが、実際には、こうした方法では、企業が独自に大学の研究を活用して事業を行う意欲を削ぐこととなり、結局は十分な効果が得られない。アメリカでも、1980年のバイ・ドール法(9)の制定を契機として、大学等から産業界への技術移転の取組みが積極的に行われている。我が国においても知的財産権に係るリエゾン機能(発明の権利化、知的財産権管理、権利行使、ライセンス等を通じて大学と企業をつなぐ機能)を持つ技術移転機関(10)の大学への設置を進め、またその機能を強化することによって、知的財産の活用にともなう収益が新しい研究をさらに促進して行く体制を整えることが重要と考えられる(11)。また、学内でも、今後は、論文に加え、知的財産権取得も研究活動の成果として評価することなどが必要となろう。
(ビジネス方法の特許)
(「ビジネス方法の特許」とは何か)
「ビジネス方法の特許」とは、プライスライン・ドット・コムの「逆オークション」関連特許のように、主として、あるビジネスのアイデアをコンピュータやネットワークシステムを活用して実現した特許を指していると考えられる。こうした「ビジネス方法の特許」が議論されるようになった契機としては、1998年7月にアメリカで出された「ステート・ストリート・バンク事件判決」を挙げることができる。同判決において「特許出願された発明が数学的アルゴリズムやビジネス方法を内容にしているからといって、特許性が否定されるわけではない」ことが明確に示されたため、それ以降、「ビジネス方法の特許」という言葉が急速に関心を集めるようになった。しかし、実は、その具体的な定義、内容については未だに明確化されていない。
我が国では、今のところ、「ビジネス方法」として特許性が認められたものは、基本的にソフトウエアの特許の一形態として認識され得るものに限られている。また、「古くから知られたビジネス方法をソフトウエアに翻訳しただけのもの(12)」や、「抽象的なアイデアそのもの」が、特許対象にならないことについては、アメリカを含め、大きな争いはない。前述の判決においても、特許対象となるためには、「有用で、具体的で、かつ、現実的な結果(useful, concrete and tangible result)」をもたらすことが必要であるとされており、例えば、抽象的な「逆オークション」という仕組み、アイデア自体が特許の対象となる訳ではなく、それを実現化するシステム、ソフトウェアが一体となって初めて特許の対象となり得ることになる。しかし、情報技術(IT)の進歩による技術的制約の減少により、抽象的なアイデアをソフトウェアやネットワークシステムを通じて具体化することがより容易になった。こうした状況が整ったことにより、金融を含めたサービス関連産業などこれまで特許などとの縁が薄かった産業、企業においても、知的財産権分野に配慮した事業構築を行うことが経営戦略上要求されるようになっており、これが「ビジネス方法の特許」に対する関心の高まりの背景となっている(13)。
「ビジネス方法の特許」について適切な運用を行っていくためには、先行事例を網羅したデータベースの構築とその十分な活用が不可欠であり、我が国においてもこうしたデータベースの構築が進められているが、その一層の拡充が望まれる。さらに、「新規性」、「進歩性」など特許性の有無の基礎となる要件についての予見可能性を高め、国際的にも調和の取れた運用を行うために、先行事例のデータベースの共有化、技術動向等に精通した審査官の育成などを、各国間で協調しつつ迅速に進めて行くことが重要な課題となっており、これらに対する取組みが進められている。
7.経済政策への含意
知的競争のグラウンドを整備する上での政府部門の役割は知的財産権分野に限られたものではない。広範な分野で従来にも増して適切な政策対応が求められている。
まず、情報ネットワークに関するインフラの整備及びこれを支える技術開発の推進である。利用者が低廉なコストで広範な情報に接することができるようにするとともに、電子認証などのルールを確立する必要がある。またサイバーテロやニセ情報などの監視・取り締まりも行政の役割であろう。さらに、情報化の進展に応じて多くの家計や企業が国際的取引を行うことが予想されるが、これに伴って増加する紛争の処理についても何らかの対策が必要であろう。なお、電子商取引といった新しい形態の取引への課税にあたっても、中立・公平・簡素という課税原則をいかに適用するか検討していくことが重要である。
ネットワーク外部性の強い分野では、市場のシェアを高めることが利用者にとっての商品やサービスの利便性を高めることとなり、自由競争のもとでは、初期時点での戦略的赤字経営や成熟時点での市場独占が観察されることとなろう。このような性格をもった分野に独占禁止政策をどのように適用するかについてもあらかじめ明確化しておくことが重要と考えられる。
新技術の発達は、これまでの業態間の垣根を崩す効果をもたらす。例えば放送と通信である。公衆による受信を予定する「放送」については放送法により番組に対する規律が課されるのに対し、公衆による受信を予定していない「通信」による情報提供については、特段のコンテンツ(情報の内容)に対する規律は課されない。しかしインターネットの発達は中間の形態を急速に増加させている。こうした中で、何がどのような規制の対象になるかについてあらかじめ明かになっていることが、企業の自由な創意工夫を引き出していくためには重要である。バイオ技術の発達に関しても、生命倫理の問題のみならず、食品と薬品の境界をどう考えるかなどが重要になっている。また、新素材の発達は、各種の安全基準を素材指定型から性能指定型に転換することを促す要因になっている。
さらに、新技術の横断性を利用した複合的なサービスが発達していくためには、様々なサービスの可能性を前広に想像しつつ、関連の行政機関が従来の区分を超えて、柔軟に連携していくことが不可欠であろう。
政府自身も行政の電子化を積極的に推進し、知的集約度を高めつつコスト低減を図っていく必要がある(1)。また、「インターネット博覧会(通称:インパク)=楽網楽座=」(2)などの行事も企業、公的機関、家計の情報化対応を総合的に促進する上で大きな役割を果たすと考えられる。
財政金融政策も政府部門に期待されるこのような役割に即した方向に変化していくことが必要であろう。まず、財政支出の構造を、教育の情報化、知的財産権のためのインフラ、情報ネットワークに関するインフラなど、知的基盤整備ともいうべき分野を重視していくことである。
次に、日本経済が新しい分野への挑戦を続けていくためにリスクマネーの供給を増やすための環境整備を行うことである。家計が豊かになるにつれて安全や安定を志向していくことは自然なことであるが、これをいかにリスクマネーの供給と両立させていくかが課題である。1377兆円の金融資産(99年12月末)を持つ家計が預貯金中心の安全資産運用から、高めのリターンと引き換えに適切に分散されたリスクをテイクするためには、情報開示を進展させつつ直接金融の健全な育成を図る必要がある。間接金融はハイリスク型の事業を支えにくいし、特許権など知的資産を担保として融資を行うことも容易ではない。
技術革新や競争強化(3)にともなって生じる物価下落と金融政策との関係も重要なテーマである。技術革新は、生産性を上昇させることで経済にプラスに働くが、物価水準が変化することは、上昇にせよ下落にせよ、物価の先行きに関する不確実性の増大を招き資源配分を非効率化するほか、債権者・債務者間の予想外の所得再配分をもたらす可能性がある。また、名目金利はマイナスにはならないので、物価水準が下落すると実質金利の上昇につながるということに留意する必要がある(4)。こうした状況を踏まえれば、技術革新などの要因で物価が下がる場合に、個別の価格低下を許容する一方で、全体的な物価水準が中長期的に安定して推移していくようにすることが一つの考え方であろう。
最後に、市場経済のもつ資源配分機能を活用する一方で、国際化、情報化に伴って市場の不安定性が拡大するようであれば、これを緩和する方策を探っていく必要があろう。金融資産の蓄積に伴って、相場の変動が実体経済に与える影響が高まっていると考えられる。ファンダメンタルズから離れた相場の動きが実体経済にも影響を及ぼし、これがさらに相場を動かすという不安を過度に高めないことが必要である。21世紀に向けて、市場の過度な変動を防止するためにどのような政策対応が可能かを十分に検討していく必要がある。