第3節 雇用形態の多様化に対応した賃金、雇用条件の交渉過程
雇用・労働に関する制度が変わり、企業同様、家計もそうした制度を適切に活用しているところである。雇用形態が多様化している中で、労働者の選択の幅が広がってはいるものの、企業と個人とがそれぞれ自主的に賃金などの雇用・労働条件を取り決める場合、労働者個人と企業とでは、情報や交渉力に差があり、対等な立場で効率的な賃金水準を決定することは、一般的には、困難と考えられる。
これまでも、労働契約の分野では行政の側の関与、労働者の保護のための法制が経済理論上の視点からも正当化されてきた。労働者自身も、自ら労働組合や任意の団体を組織し、また利用して団体交渉力を持つことにより、雇用・労働条件の改善を図ろうとする試みが行われてきた。
本節では、団体交渉力を持つことによって効率的な賃金水準を設定し、労働者の雇用・労働条件の改善を図ろうとする交渉の仕組みの整理を行う。その上で、そうした労働者側の取組が、雇用形態の多様化が進む現状において、賃金交渉や労働条件の改善を通じた労働市場の効率化にどの程度有効性を有しているのかについて、定量的な分析を行うこととする。
1 賃金・雇用条件の決定方法の歴史的な進展
● 産業革命の過程で生まれた労働組合28
近代の産業革命の発生は、工業化を通じて形成された広範な労働者階級によって組織化された労働組合を生んだ。18世紀半ばに英国で発明された蒸気機関及び各種紡績機関の発明、また、そうした機関の導入は、商品の大量生産を可能にし、これまでの手工業生産から近代的な工場生産への切替えを促した。こうして、それまでの熟練労働の制約が外れ、大量の賃金労働者が生まれると、工場を所有する産業資本家と、工場において労働を対価に賃金を受け取る労働者、という二つの階級が形成され、両者の対立が生まれた。こうした状況は、英国のみならず、産業革命が起こった各国においてもみられ、産業資本家に対峙する形で、賃金労働者が労働組合を結成することになった。
始めに労働組合の組織化がみられた英国では、当初、資本家に対する暴力的な抵抗運動という形式をとったが、19世紀前半には、熟練工によって組織化された近代的な職能別労働組合が結成され、後半には半熟練、未熟練工を中心とした一般労働組合も結成された。あわせて、労働関係保護法制の整備も進められた。次いで、イギリス産業革命の影響を受けたアメリカにおいて、18世紀末に、一部の地域で熟練工による小規模組織が形成され、19世紀に入って全国に展開された後、19世紀後半には、職種別の労働組合の全国組織が次々に誕生した。その後、職種別労働組合を統合した組織が誕生し、アメリカで支配的だった独占資本家との労働条件改善、賃金交渉に当たった。さらに、産業革命の影響がやや遅れたドイツにおいても、19世紀後半に入り、熟練労働者の組合が誕生し、その後まもなく、それらを束ねた組織が結成された。1880年代には、一時的に労働運動の勢いが失われたものの、90年に、労働運動を規制していた法律が失効したことにより、再び労働組合の運動が活発化された。
我が国では、19世紀後半以降の工業化の過程で、賃金・労働条件改善のための労働組合が形成された。明治維新以降、資本主義的な近代産業の振興が図られる中で、鉱山、炭鉱、製糸などの職場において自然発生的に労働運動が起こったほか、明治時代後半には、アメリカを手本とした労働組合が結成されたが、当時は、社会的に労働運動を容認する土壌もなく、労働運動は規制され、争議は減少していった。その後、大正時代に入って、経済の発展、自由主義・民主主義の思潮の高まりなどを背景に、労働運動は急速な発展をみせたが、1937年(昭和12年)以降の戦時体制により、多くの労働組合は、政府の労働関係調整の下、個別の組合は解散が進んでいった(第3-3-1図(1))。戦後は、連合国軍の管理の下で労働組合育成策が取られ、新憲法においても、団結権、団体交渉権、団体行動権が保障されたこと、労働関係法制が整備されたことなどもあり、労働組合は戦前以上の発展をみせた(第3-3-1図(2))。
● 労働者の賃金・労働条件の積極的な交渉が行われていた労働環境の変動期
このように、諸外国同様我が国においても、明治維新後半以降に起こった産業革命による工業化社会への移行、第二次世界大戦直後の産業の近代化など、経済社会の仕組みの変化が比較的大きな時期に、労働組合の発生、又は組合員数、組織率の大幅な上昇が起こった(前掲第3-3-1図)。その背景として、経済社会、制度の大きな変化のある時期に労働者が対応していくためには、個人の力のみでは情報収集や交渉力の点で限界があり、効率的な賃金決定ができないこと、そのために、自発的に利害関係を同じくする労働者が一緒になって賃金や労働条件の改善に関する交渉に取り組むインセンティヴが比較的強く働いたことが考えられる。
● 我が国労働組合の推定組織率は長期的に低下傾向にあり、構造的にも上昇は困難
我が国の労働組合の最近の状況をみると、その組織率、組合員数が趨勢的に低下している(第3-3-2図)。組合員数自体は、1994年に過去最高の約1,270万人に達したものの、それ以上に雇用者数自体が増加したため、推定組織率は94年でみても低下している。なお、推定組織率は、先にみたとおり戦後直後、一時的に急上昇したものの、その後はほぼ横ばいか低下で推移しており、1975年以降は、一貫して低下している。
その主な要因として、産業構造の変化、組合に対する考え方の移り変わりに加え、近年の雇用の多様化の進展が挙げられる。従来の日本型経営にあった正規雇用中心の雇用形態ではなく、近年増加している非正規雇用者が、次第に労働市場で重要な役割を果たしている現状において、その組織化が進まなければ、労働組合の組織率の上昇は難しいと考えられる29。
2 経済理論的な視点からみた労使交渉過程
● 労働者側・企業側の交渉力の強さに応じて賃金・雇用が決定される
労使交渉過程において、労働組合を含め同様な機能を有する労働者側の取組が賃金・雇用にどのような影響を与えるかにつき、経済学的な観点から整理することが可能である。なお、ここでは、標準的な理論に従い、労働者側の取組の代表例として労働組合を想定する。
始めに、労働組合の交渉力が強く、企業に対して独占的に賃金・雇用交渉力を持つケースを考えてみる(第3-3-3図(1))。
この場合には、労働組合の目的に応じて、以下の三つの交渉方針が考えられる。
1)個々の労働組合員の賃金水準を最大化
労働供給をL1に設定し、労働需要との交点E1における賃金水準W1を得る。
2)賃金総額の最大化
労働供給をL2に設定し、労働需要との交点E2における賃金水準W2を得る。
3)雇用数の最大化
労働供給をL3に設定し、労働需要との交点E3における賃金水準W3を得る。これは、労働市場の完全競争の場合と同じである。
実際、労働組合がどれを選択するかは、組合員たる労働者の意思にかかわってくることになる。
次に、企業のみに独占的に交渉力があるケースを考えてみる(第3-3-3図(2))。企業に賃金、雇用に関する決定の支配力がある場合には、当該企業は、利潤の最大化のため、労働供給をL4に設定し、労働需要との交点E4における賃金水準W4を得ることが示される。このE4で決定される賃金水準W4は、労働市場が完全競争の場合と比較しても低い水準である。供給される労働量L4も相対的に少ないものにとどまり、労働供給の主体である労働者にとっては不利なものとなる。
最後に、労働組合と企業双方が交渉力を持つ場合を考える。この第3-3-3図(3)は、第3-3-3図の(1)及び(2)を統合した双方独占のケースである。このとき、E1、E2、E4全て均衡点になっておらず、賃金並びに労働量は労働組合と企業それぞれの交渉によってW1~W4、L1~L4の間で決定される。
こうした交渉の過程では、労働組合と企業とが協力しない場合に達成される状況よりも、繰り返しの交渉を通じて協力するような戦略がとられることによって、両者が共に利得を改善させることができることが知られている30。
このように、効率的な交渉を行うためには、労働組合(労働者)、企業側双方が賃金・労働力の調整に際して独占的な状態にならないことが望ましく、むしろ、それぞれが交渉力を持つことにより、協調しながらお互いの利得を向上させるような仕組みの存在が重要になることが分かる。
3 団体交渉の賃金決定に対する経済効果の検証
● 賃金プレミアムは2000年以降に顕在化
実証面では、2000年に入ってから、労働者の賃金、労働条件向上のための取組に効果がみられるとする研究が多く示されている。ここでも、労働者の取組の代表例としての労働組合を取り上げることにする。まず、1992年7月時点での個別訪問形式のアンケート調査に基づき、労働組合に加入している労働者の賃金と、加入していない労働者31の賃金との差(この差を賃金プレミアムという)があるかどうかを検証した先行研究によれば、そうしたプレミアムの存在は見いだせなかったとされる32。同じく、90年代前半のデータを用いた研究でも労働組合の賃金プレミアムについて有意な結果が見いだされなかったとされている33。
しかしながら、2004年4月時点でのアンケート調査に基づく研究結果によれば、組合の賃金プレミアムが男性のみについて有意にみられたとしている34。また、「日本版総合的社会調査(2000~2003年10、11月)」を用いた研究結果によっても、同様に労働組合の加入者に賃金プレミアムがあったとされている35。
このように、労働組合の賃金プレミアムが90年代から2000年代にかけて変わってきた背景には、長期的な経済低迷による春闘の変質が考えられる。例えば、好況期であった90年前後では、春闘のスピルオーバーによって、賃金プレミアムが計測しにくくなっていたのに対して、その後の経済の低迷が続いた後、2000年に入ってからは逆に、非組合員へのスピルオーバー効果が弱くなってきたという可能性が指摘されている36。2000年代に入ってから、企業によるコストダウンが盛んになる中でも、組合加入の労働者については、ベースアップをあきらめたものの定期昇給分は確保された可能性が高い。
● 雇用環境の改善が続く状況でも確認される団体交渉による賃金プレミアム
今回の長期間に及ぶ景気回復の中で、失業率も低下し、有効求人倍率も1倍を超えるなど、雇用環境が改善している。それにもかかわらず2006年後半から「毎月勤労統計」でみた労働者の平均賃金は横ばい、又は低下しており、その背景説明について様々な検証を行ってみた結果でも、その明確な理由が明らかにされていない。こうした中、その理由を構造要因としての賃金交渉過程に求め、労働組合への加入が賃金・雇用条件に違いをもたらしているかどうかを検証することには意義があると考えられる。
そこで、内閣府が2007年2月に実施したアンケート調査に基づき、従業員の労働組合の加入の有無が賃金や福利厚生といった労働条件の改善に現実に寄与するのかを調べた37。まず、労働者個人の労働組合加入については、男性で賃金に違いがあることが有意にみられた(第3-3-4表)。この結果からは、過去の歴史や理論的示唆にあるような組合の役割が見いだされていることが分かる。
ただし、女性については、賃金のプレミアムがみられなかった。これは、他の2000年に入ってからの先行研究と同様であり、男性と女性の賃金決定における組合の意味合いが異なる可能性が示唆される38。
● 交渉力が影響する福利厚生満足度、転職意思
労働条件のうち、賃金以外の要素について調べることによって、労働者による交渉の有効性を幅広く考えてみる。そこで、福利厚生の満足度について、労働組合加入の有無で違いが出るか(福利厚生満足度プレミアム)をみると、組合加入があれば福利厚生に関する不満足度が低下することが分かる(第3-3-5表)。これは、男性、女性ともにみられ、労働組合加入の効果が、福利厚生に対する満足度にプラスの影響を与えていることがうかがえる。この結果からは、組合加入が労働者の福利厚生といった雇用条件の満足度の改善にも寄与していることが示唆される。
また、職務満足度とともに、労働者の離職率についての研究がなされている39。それは、労働者のための組織が、職場の問題解決の役割を持つことによって、労働者の離職が抑制されると考えるものである。そこで、内閣府の調査(2007)の「この先1~2年を考えて、現在の勤め先にとどまっていたい」という意識に基づき、労働組合加入の有無で有意な違いがあるかどうかの関係をみると、男性については負の相関、すなわち、転職希望を抑制する結果が有意にみられた(付表3-3)。一方、女性については、そうした効果はみられなかった。
4 労働組合以外の賃金交渉の仕組み
● 企業内の発言型組織や労使協議機関を活用した賃金交渉の仕組み
これまでは、団体交渉による賃金プレミアムの結果を主として労働組合加入の有無を基準としてみてきたが、実際には、労働者の属する企業に労働組合が存在しない場合がある。内閣府のアンケート調査(2007)は、一部の先行研究40を参考にしながら、労働組合のみならず、労働組合以外での発言型従業員組織41、労使協議機関42といった企業内の非組合型組織が、どの程度、労働組合の代替的な役割を果たしているのかについてカバーしており43、同調査によれば、全体のうち50%以上が「労働組合はない」と回答している44。そうした事実を考慮すれば、労働組合のない企業に勤める労働者に分析の対象範囲を広げることが必要であろう。
そこで、同調査に基づき、労働組合がない企業に勤める労働者について、組合以外の組織に賃金などの効果があるかどうかを調べる。始めに、発言型従業員組織の有無により賃金プレミアムをみると、男性従業員については、その存在が有意に確認され、発言型従業員組織の役割が見いだされた(第3-3-6表)。一方、女性についてのプレミアムの存在の有意性は見いだせなかった45。
このように労働組合がない企業であっても、少なくとも男性労働者においては、その代わりとなる発言型の従業員組織が用意されていることによって、労働組合がある場合と同じように、賃金プレミアムが生じ得ることが示される。
● 労使協議機関の存在を反映する賃金プレミアム
労働組合がない場合の代替としては、上記でみた発言型従業員組織の他に、労使協議機関がある。そこで、労使協議機関の賃金プレミアムについて調べると、労働組合加入や発言型従業員組織同様、男性のみについて有意に存在が確認された(第3-3-7表)。一方、女性についての賃金への影響は、発言型従業員組織と同様、みられなかった46。
この結果からは、発言型従業員組織と同様に、少なくとも男性労働者にとって労使協議機関の意義があることが確認された。
5 賃金決定の仕組み
● 賃金の改定に際して企業が重視するのは主に企業業績と世間相場
賃金のうち、定期昇給やベースアップは、春闘を始めとする労使交渉の結果による影響が特に大きいとされている。一般に、年に一度行われる賃金改定により決定される所定内給与が、一年間の賃金水準を確定させる。そのため、こうした賃金改定の決定プロセスを明らかにすることには意味があると考えられる。
企業が賃金改定に当たり最も重視した要素をみると47、組合の有無にかかわらず、これまで最も高い割合を占めてきたのが「企業の業績」であり、その次におおむね「世間相場」であった48(第3-3-8図)。そのうち、企業業績重視については、労働組合の有無にかかわらず2000年以降おおむね低下してきており、特に2006年に顕著に低下している。また、最近の景気回復を反映して、労働力の確保を重視する回答が組合なし企業で増えている。その代わりに、組合あり企業では、労使関係の安定を重視する割合が高まっている。
このように、2002年以降、企業側が労働者との関係をより一層考慮するようになっていることが示唆されている。また、特に組合のない企業で、2006年に世間相場を重視する企業が増えていることから、直近、他の労働組合あり企業の賃金改定の結果が、組合なし企業に与える影響の変化もうかがえる。なお、減少傾向とはいえ、業績を重視する企業が引き続き最も大きなシェアを占めており、賃金決定には引き続き景気回復が重要であることも示されている。
● 組合がある企業から組合がない企業への賃金決定の波及
賃金交渉に当たり、世間相場の重要性がみられたが、どのような決定時期の違いがあるのかを確認する。1995年に実施された調査に基づく先行研究によれば、「労働組合がある企業」と「労働組合がない企業」とでは賃上げ決定時期に比較的大きな違いがみられ、前者から後者への波及メカニズムが相当程度明確にみられている49。ここでは、同様に「賃金引上げ等の実態に関する調査」の特別集計の結果を用いることによって、労働組合のあり、なしに分けた賃金改定決定時期の企業の分布状況をみる。その結果、90年代以降、最近においても、組合がある企業の方がない企業に比べて早期に決定しているケースが多いことが示されている50(第3-3-9図)。また、ばらつきを示す標準偏差も組合なし企業でおおむね大きくなっていることが示されている(付表3-4)。なお、過去、組合あり企業と組合なし企業とでは、相当程度分布の乖離がみられていたが、90年代から2000年にかけて両者の乖離が小さくなる傾向が示されている。
こうした結果は、労働組合がある企業の賃金の決定を受けた後に、組合なし企業の賃金決定を行うとする先行研究の結果を支持している。また、90年代から2000年まで、賃金改定の決定時期の違いが縮小していること、世間相場重視の割合も、90年代に比べ、2000年に入るまで大幅に低下していることは、90年代から2000年にかけて、「労働組合がある企業」から「労働組合がない企業」へのスピルオーバー効果が弱まってきたとする指摘とも整合的なものとなっている。
なお、最近は、そうした変化に歯止めがかかっていることから、早期に決定される労働組合がある企業の影響が残されている可能性がある。また、世間相場重視の企業も業績重視に次いで2番目の地位を占めており、労働組合の賃金改定の状況が組合なしの企業にも引き続き影響を与え得ることがうかがえる。
● 厳しい雇用環境期に検出される労働組合の賃金プレミアム
波及に加え、労働組合の交渉力が賃上げの改定額や改定率そのものにどの程度の規模で影響を与えているのかを時系列でみることも重要であろう。すなわち、労働者個人を対象とした調査に基づく分析結果では、組合の賃金プレミアムがあることが示されたが、組合と企業の賃金交渉の結果が最も明示的になる時期(通常は春)に、どのように賃金改定が行われ、また、企業側がどのように対応したかをみることは、労働者の賃金交渉力の相対的な大きさを測る上での目安になると考えられる。
その結果をみると、賃金改定額については、過去から現在に至るまで、組合の有無におおむね有意な違いがみられている(第3-3-10図)。ただし、91年は、差がそれほど大きなものにはなっていない一方で、2000年から2003年についてはその差が比較的大きな差になっていることが分かる。また、賃金改定率については、特に最近では、組合の有無に差がみられないものの、2001年~2003年という比較的雇用環境が悪く、そもそも賃上げ改定率が低く、賃上げの額そのものが小さかった時期で有意に違いが出ていることが分かる。
これらの結果からは、労働組合の存在は、景気が悪いときに賃金の下支えをしてきた可能性があることが示唆される。
6 賃金決定に関する新たな動き
● 賃金による成果主義への定量的な評価は困難
雇用者に対して適切な動機付けを行い、企業活動の生産性を高めることを目指す、新しい企業の労働者評価の仕組みとして成果主義が挙げられる。内閣府のアンケート調査によれば、成果主義的な賃金を職員の一部にでも導入していると回答した企業は8割を超えているが51、その導入は、企業にとっての生産性の影響のみならず、労働者の賃金の増減を通じて家計にも影響を与える。昨年度の経済財政報告では、成果主義を導入している企業においては、賃金上昇を抑制することが見いだされたが、成果主義の導入が、労働者個々人に実際どのような意味を与えるのかは、その定量的把握が難しいとされている。日本企業においては、そもそも賃金による成果主義の効果について疑問視する見方もある。また、仕事の動機付けとして強いのは、賃金といった金銭ではなく、次の仕事の内容であるという可能性があること、日本企業の賃金システムは、動機付けのためというよりもむしろ、生活費を保障する観点から平均賃金カーブが設計されてきており、賃金による成果主義の評価は、これまでの日本企業の強みを失わせることになるなどの指摘もある52。
個別企業のレベルでの成果主義の導入とその成果に関して、先行研究による実証分析によれば、管理職の労働インセンティヴは高まったが、彼らの業績が高まったことは、明確には確認できなかったとする結果がある(第3-3-11図)。具体的には、査定と賃金の関連性を強める人事制度改革の対象となった管理職とそうでない職員との間で、労働意欲と業績に変化がみられたかどうかを検証したが、労働意欲については変化がみられ、業績には変化が統計的に有意にみられなかったという。その背景として、景気変動といった外部要因、部下の育成といった個人業績に関わりのない仕事があるといった要因などが挙げられている。
成果主義の効果については、個別企業ベースでの実証研究の蓄積が待たれるところである。その際、景気変動という外部要因との峻別や、本来業務とは別の職務要因、個別業務の難易度をどのように考慮するかなどの課題があると考えられる。
● 若者の労働観では、勤続年数重視から成績重視へ
一方、若者に対する意識調査の結果から労働観をみると、我が国の若者は、成績重視を求める傾向が強まっていることが分かる(第3-3-12図(1))。従来、我が国の若者は、昇進・昇給の方法について、勤続年数を中心に、勤務成績を加味することを希望する割合が最も高かったが、最近は、むしろ勤務成績を中心に、勤続年数を加味する割合が最も高くなっている。ただし、勤続年数中心として成績も加味することを望ましいとする割合も引き続き高く、極端な「勤務成績のみ」や「勤続年数のみ」の評価はそれほど割合が高くない。また、成績重視のみの評価が望ましいとする回答はやや増加する傾向がみられる。なお、全体として、90年代以降の3回の調査では、傾向自体に大きな変化はみられなくなっている。
こうした日本の若者の職業意識の傾向を比較可能な諸外国と比べると、韓国、スウェーデンと近く、アメリカ、ドイツとは異なることが分かる(第3-3-12図(1)~(5))。韓国、スウェーデンにおいては、我が国同様、勤務成績を中心に、勤続年数を加味する昇進・昇給の評価、あるいは、勤続年数を中心に勤務成績を加味する、とする評価を希望している若者の割合が多い。その一方で、アメリカやドイツでは、勤務成績を中心に勤続年数を加味する評価の希望が最も高いが、「勤務成績のみ」が望ましいとする回答の割合が目立って高い。
日本、韓国、スウェーデンの3カ国では、仕事の評価方法について、成果主義と経験年数のどちらかが極端に望ましいとする考えの割合は小さいが、アメリカやドイツの2カ国については、成果主義への傾倒が強いことがうかがえる。
こうした成果主義、勤続年数重視の各国での相違については、様々な社会的な背景なども考えられるが、雇用機会の確保や経済的安定の確保が依然重要な課題になっている場合においては、勤続年数がある程度重視される傾向があるとされる53。
我が国で、経済が成熟化し、年功序列型の賃金形態が変わりつつある中では、勤続年数以上に成績重視を求めることが多くなる可能性がある。ただし、我が国では、引き続き勤続年数を加味することを希望するものも相対的に多くみられ、雇用の安定や経済の安定を希望する若者が多いことにも留意する必要がある。
● 雇用の安定を重視する雇用者の属性
近年、雇用と賃金の関係について、賃金よりも雇用を選択する労働者が多くなっている可能性が考えられる。企業部門の過剰雇用の解消によるリストラを経験してきた労働者が、賃金の上昇に比べて雇用の安定を志向する傾向が強まり、賃上げについては消極的になっていることが全体の賃金上昇に抑制的に効いていることも考えられる。
内閣府アンケート調査(2007)に基づき、賃金と雇用安定の選択に関する意識についてみると、全体で19.2%が「賃金水準」、21.5%が「どちらかといえば賃金」、43.2%が「どちらかといえば雇用の安定」、15.6%が「雇用の安定」という結果になった。すなわち、賃金水準の傾向が強い割合は40.7%、雇用安定の傾向が強い割合は58.8%となり54、おおむね4:6の比で雇用の安定を重視するようになっていることが分かる。
こうした関係について、それぞれの属性で区別し、違いの有意性を確認したものが第3-3-13表である。それによれば、男性が雇用の安定を重視するのは、賃金に対する満足度が高い場合や勤続年数が長い場合などであることが分かる。また、女性で雇用の安定を求めるのは、仕事内容の満足度が高い場合、学歴が高い場合、また勤続年数が長い場合などであることも分かる。男女で共通しているのは、勤続年数が長い場合などで雇用の安定を求める傾向があることが分かるが、男女間で相当程度違いがみられる。
● 帰属意識の強さにつながる賃金の満足度
以上のとおり、労働者の間では、賃金水準よりも雇用の安定を求める割合が相対的に高いという結果になったが、労働者が雇用の安定を重視する背景には、勤め先企業への帰属意識の高さが考えられる。とりわけ日本的経営の特徴として、長期雇用を約束し、外部からの中途採用を極力抑制しながら、労働者個人の年齢や勤続年数に応じた年功序列型のシステムを構築することで、組織内部のつながりを強めていったとされており55、こうした日本的経営の会社組織においては、従業員の帰属意識も一般的に強いのではないかと推察される。
こうした考え方の下、同アンケートにより帰属意識の強さとその属性との関係をみる。まず、全体としての割合では、12.5%が「帰属意識を持っている」、36.3%が「どちらかといえば持っている」、12.6%が「どちらかといえば持っていない」、15.0%が「持っていない」、22.9%が「どちらともいえない」という結果であった56。したがって、帰属意識を持っている傾向が強い割合が5割弱となり、持っていないとする割合3割弱を上回っていることが我が国の労働者の特徴として浮かび上がっている。
次に、こうした帰属意識について、労働者の属性との関係をみたものが第3-3-14表である。その結果によれば、男性は、賃金、福利厚生、雇用の安定、人事査定、仕事内容それぞれの労働条件について満足度が高い場合、また労働組合に加入している場合、そして企業規模が小さい場合、あるいは勤続年数が長い場合などに、帰属意識が高くなる傾向がみられる。一方、女性は、賃金の満足度が高い場合、また正社員である場合、あるいは男性とは逆に企業規模が大きい場合に帰属意識が高い傾向がみられることが分かる。
このように、男女ともに賃金の満足度が高い場合に帰属意識が高いという傾向がみられる。ただし、帰属意識についても、賃金と雇用の安定の選好でみた結果と同様、性別の違いが相当程度大きいことにも留意しておくべきと考えられる。
コラム11 社会心理学による実験―成果主義による賃金の差と労働インセンティヴの関係
労働者の業績によって賃金体系で差をつける成果主義のインセンティヴについて、我が国でも議論が行われているが、成果主義の導入について先駆的な立場にあるアメリカにおいては、社会心理学の観点から、幾つかの実験が行われている。そのうち、伝統的な結果の一例をコラム11図に示している。これによれば、全体で、労働者の生活の満足度合いとの相関で最も大きかったのは、当該労働者の生活の基準でみた賃金水準の絶対額でも、当該労働者の昨年と比べた賃金水準でもなく、むしろ同じような技術、経験、年齢などの労働条件を持つ他の労働者と比較した収入の大きさであった。また、その中でもいわゆるホワイトカラー労働者とブルーカラー労働者で分けた場合、前者の方が特にそうした傾向が顕著であった。なお、こうした満足度に関する相対性の重要性を示す結果は、その後の社会心理学の領域においても様々に検証、確認され、「相対的不満relative deprivation」などの考えとして、広範に用いられている57。
このように、労働の満足度合いが相対的賃金の水準によって影響されるという結果は、成果主義の労働者への影響をみる際に参考になると考えられる。個人の労働インセンティヴは、賃金の絶対水準や過去との増加幅から影響を受けることは当然のこととされるが、あわせて、本人と同程度にあると考えられる他者の賃金水準も労働者個人にとっては重要な要素であり、企業が成果主義を導入するに当たっては、当該労働者の経歴に相当する周囲の賃金水準がどの程度であるかを把握しながら、適切な賃金水準の体系を構築することが、労働者一人ひとりの意欲を引き出すために必要になっていることが示唆される。