第1章 着実に持ち直す日本経済 第2節
第2節 物価の動向と金融資本市場
第1節では、今回の景気の持ち直しの特徴について、設備投資や雇用など景気に遅行性のある指標の改善ペースが鈍いことなどを示し、これらが急速かつ深い景気後退に伴う経済活動水準の低さと関連していることを指摘した。本節では、こうした経済活動水準の低さがもたらすもう一つの側面である、デフレ状況について検討する。最初に、現在のデフレの特徴について、過去のデフレ期と比較しつつ検討する。その上で、日本の物価上昇率が基調的に低い背景について分析する。最後に金融資本市場の動向についても議論する。
1 デフレの現状-2000年代前半との比較を中心に
政府は2009年11月の月例経済報告において、デフレの定義が「物価の持続的な下落」であることを改めて確認した上で、我が国経済は「物価の動向を総合してみると、緩やかなデフレ状況にある」と判断した13。同様の定義に基づき、我が国がデフレ状況にあると判断したのは2001年3月から2006年6月の時期であったが、それから約3年半ぶりのデフレ判断となった。以下の分析では、2000年代前半と対比しつつ、「品目別に見た物価の動きの特徴は何か」「物価下落をもたらした直接の要因は何か」「デフレは実体経済を下押ししているか」といった点を考察しよう。
(1)品目別に見た物価の動きの特徴は何か
最初に、品目別の物価動向を分析し、どのような品目の価格下落によってデフレが生じているのか、前回のデフレ期と比べて品目的な広がりは見られるか、といった点を明らかにする。その特徴を踏まえ、消費者の低価格志向の高まりやサービス価格の下落について議論する。
●今回のデフレ期にはサービス価格も下落
消費者物価(生鮮食品除く総合)の前年比上昇率を品目別に寄与度分解すると、今回のデフレの特徴として、以下のような点が指摘できる(第1-2-1図)。
第一に、今回の下落は2000年代初頭のデフレ期における下落よりも急速であった。石油製品価格の前年の反動減といった影響が大きいが、その影響を除いても、2009年半ば以降に下落率が急拡大している。内訳を見ると、耐久消費財の下落基調は2000年代初頭と変わらないものの、その他工業製品などの一般商品やサービス価格の下落幅が大きくなっている。
第二の特徴は、サービス価格も下落基調となったことである。2000年代初頭のデフレ期では、財価格の下落が進む一方、サービス価格は下落せず、ゼロ%近傍で安定していたことが特徴であった。サービス価格に硬直性が見られたともいえる。しかし、2009年のサービス価格の動向を見ると、2009年4-6月期以降、小幅ながら前年比下落に転じている。個人サービス価格や家賃の下落がその要因であるが、特に、個人サービス価格の下落寄与が大きい。個人サービスには、外国パック旅行等に含まれる燃油サーチャージ料金など、原油価格の影響を受けやすい品目があり、寄与度がやや大きめに表れている可能性はある。しかし、その点を割り引いて考えても、個人サービス価格の下落が継続していることは今回のデフレ期の特徴である。サービスには労働集約的なものが多いことから、今回のデフレ期では賃金動向が相当弱いものであったことが推測される。この点は後述する。
第三に、2009年7-9月期以降、石油製品価格の下落幅が縮小するとともにコアCPI(生鮮食品を除く消費者物価)の前年比下落率は縮小したものの、一時的な要因を除いたコアコアCPI(生鮮食品、石油製品及びその他特殊要因を除いた消費者物価)は下落率を拡大させた。すなわち、基調としての物価下落テンポは2009年を通じて一貫して拡大傾向を続けたことになる。特に、2009年秋から年末にかけては、物価基調の下落テンポは加速した。
●日用品などで価格が下落した品目に広がり
次に、今回のデフレの特徴を「広がり」の点から見てみよう。消費者物価指数における下落品目の割合について、前回のデフレ期と比較すると、次のような点が指摘できる(第1-2-2図)。
第一に、価格が下落した品目数が急増している。全品目に対する下落品目の割合を見ると、前回のデフレ期では、99年や2000年あたりから徐々に下落品目の割合が増加し、2002年にピークを迎えた。下落品目割合は50%前後の水準から3年程度かけて65%程度に増加した。他方、今回のデフレ期では、2009年1年間だけで、下落品目の割合は30%程度から60%台半ばにまで上昇している。下落品目の広がり方は今回の方が急速である。
第二に、下落品目の特徴を見るため、前回のデフレ期において下落品目の割合が最大となった2002年7-9月期と直近2010年1-3月期を比較すると、今回においては、繊維製品の下落割合が低下する一方、日用品などが多い「その他工業製品」の下落割合が高まっていることが特徴として指摘できる。なお、その他工業製品には石油製品(ガソリン、灯油、プロパンガス)も含まれるが、これらについては2002年7-9月期には3品目が下落したのに対し、2010年1-3月期は灯油とプロパンガスの2品目だけの下落となっている。
第三に、下落品目の価格下落幅が大きいことである。すでに見たように、今回のデフレ期では、前回のデフレ期と下落品目割合は同程度であるが、消費者物価の下落率は今回の方が大きいことから、下落品目の下落率も大きいことが分かる。品目別に見ると、やはり「その他工業製品」の下落率が大きくなっている。
●消費者の低価格志向が顕著
「その他工業製品」には、日用品(洗剤やラップ、ティシュペーパーなど)や文房具などが含まれる。これらの商品は、品質やブランド力などの非価格競争よりも、純粋な価格競争で購入者に訴えかける傾向が強いと考えられる。例えば、スーパー等によるプライベートブランド商品やいわゆる100円ショップといった形態で売られることも多い品目であり、消費者の低価格志向を反映しやすい商品とも捉えることができる。また、プライベートブランド商品などは銘柄の代表性等の観点から、消費者物価指数の算出に含まれないことも多く、消費者の日々の購買価格は消費者物価で示される以上に低下していることも考えられる。
そこで、ここでは、「その他工業製品」について、消費者が実際に支払った購入金額を購入数量で除して算出した平均購入単価の動きと消費者物価指数の動きを比較することで、消費者の低価格志向を確認する。また、比較のため、最近プライベートブランド商品が多く見られる食料品(一般食料工業製品)についても合わせて見てみよう(第1-2-3図)。特徴として次の点が指摘できる。
第一に、「その他工業製品」の平均購入単価は、2008年後半から顕著に下がり始め、2009年7-9月期まで連続して、消費者物価の下落率よりも大きく下落している。消費者物価指数は、品目ごとに代表的な銘柄を指定し、その価格を継続的に調査したものである。そのため、採用銘柄はナショナルブランドが多くなる傾向がある。それに対し、平均購入単価は消費者が実際に購入した商品の単価を示しているため、例えば、スーパー等で台所用品を買う際に、ナショナルブランド商品ではなく、より安価なプライベートブランド商品を購入する消費者が増えれば、その他工業製品の平均購入単価は消費者物価を下回ることになる。こうした傾向が2008年後半から顕著になっていたと見られる。
第二に、平均購入単価の下落率が消費者物価の下落率を上回る傾向は、90年代末から2001年頃の「一般食料工業製品」でも観察された。しかしながら、近年では、平均購入単価と消費者物価の下落率のかい離はほとんどなくなっている。食料品については、近年コンビニエンスストア等によるプライベートブランド商品開発などが広がり、消費者の低価格志向とともに話題に取り上げられることが多かった。こうしたプライベートブランドの広がりが、競争を通じてナショナルブランドの価格引下げにもつながることとなり、今回のデフレ期においては平均購入単価と消費者物価がおおむね同様の動きをすることになったと考えられる。
第三に、平均購入単価の動きが「消費者の物価に関する実感」を反映していると考えれば、2009年10-12月期以降では、「その他工業製品」、「一般食料工業製品」ともに、CPIの下落率は実感にほぼ等しい数字となっている。消費者の低価格志向の広がりがCPIに採用される「代表的な銘柄」にも浸透し、統計数字と実感がより近いものになっているということもできよう。
(2)物価下落をもたらした直接の要因は何か
次に、今回の物価下落の特徴について、その背景にある経済的な要因を検討する。まず、物価全体の動きを需給要因や物価予想要因などの基本的な経済要因で説明することを試みる。その上で、財とサービス物価を分けて、それぞれの物価動向を規定する特徴的な要因を探る。
●物価の基調は需給要因と人々の物価予想で決まる
物価の基調を規定する要因としては何が考えられるであろうか。第一の候補は、国内経済の需給動向、すなわち需給ギャップである。第二は、原油価格等の輸入品価格の動向である。国内需要が弱く、マイナスの需給ギャップがあったとしても、原油価格など輸入品価格が上昇すれば、国内物価の押上げ圧力になる。逆に、海外からの安価な輸入品の流入が増えれば、国内物価の押下げ圧力となり得る。第三は、人々の物価予想である。企業の価格設定や賃金設定においては、その時々の物価動向のみならず、将来の物価予想に左右される面がある。多くの人が将来物価は上がると考えれば、企業の価格戦略や賃金交渉はその予想を前提としたものとなるだろう。物価予想は中長期的な物価動向を規定する要因として重要である。さらに、賃金動向も物価を規定する要素として重要と考えられる。特に労働集約的なサービスの価格について、賃金と物価は連動しやすいことが予想される。
以上を考慮して、消費者物価(コアCPI)の動向について、[1]需給ギャップ、[2]輸入物価、[3]物価の将来予想、[4]時間当たり所定内賃金の4要素で説明する式を推計し、その結果を基に要因分解を行った(第1-2-4図)。この分析から、次のような点が指摘できる。
第一に、90年代以降、需給要因はほとんどの期間で物価の押下げ要因となっている。我が国ではバブル崩壊後、ほとんどの期間でGDPギャップがマイナスであった。恒常的な需要不足の状態に近く、こうした長期にわたる需要の弱さが、物価の基調を継続的に押し下げる要因となっている。持続的な物価下落は持続的な需要の弱さと言い換えることもできよう。また、この推計では、GDPギャップが1%変化すれば、1年後のCPIは0.1%程度変化する関係と推計された。リーマンショック後の大幅なマイナスギャップの影響は2009年10-12月期や2010年1-3月期から表れ始めることになり、需給要因は今後も物価の下押し圧力として働くことが予想される。息の長い景気回復がデフレ状況を脱するために必要である。
第二に、物価予想の役割が中長期的な物価の基調を規定する上で重要である。物価予想(ここでは1年後の物価予想14)は変動が比較的緩やかであることに加え、ほとんどの期間で物価の押上げ要因となっている。需給ギャップのマイナスが長く続いた期間であっても、1年後の物価を「上昇する」と予想した世帯数は「下落する」とした世帯数を上回っており、物価の下落を緩和する役割を果たしている。例えば、2003~2004年頃に消費者物価の下落率が大きく縮小した際、需給ギャップは依然としてマイナスを続けていたものの、物価予想が需給ギャップの縮小に先んじて上昇することで、デフレ状況は緩和した。逆に、2000~2001年頃は、需給ギャップのマイナス幅は縮小したものの、物価予想が低下したことで、消費者物価は下落幅を拡大している。物価予想をいかに安定させ、デフレの予想に陥らないようにするかが、デフレ状況の改善のためには重要である。
第三に、輸入物価がコアCPIに与える影響については、安価な輸入品の流入よりも、原油価格など輸入素材価格の変動が重要である。中国を始めアジア諸国の工業化などを背景に、90年代末頃は安価な輸入品の流入が国内物価を押し下げるとの議論は強かった。実際、この推計でも、98~99年において、輸入物価は国内物価の押下げ要因となっていた。しかし、2004年頃から2008年頃までの世界的な原油価格上昇局面においては、輸入物価はむしろ国内物価を押し上げる要因となっている。また、リーマンショック後の2008年後半から2009年にかけての原油価格下落局面においては、逆に消費者物価を前年比で大きく押し下げる要因となった。このように、資源価格等の変動によってコアCPIは大きく変動する傾向があり、国内物価の基調を見るためには、そうした影響を除いて解釈することが重要である。
なお、賃金が物価に与える影響については、統計的に有意な結果が得られなかった。もっとも、後述するように、財とサービスに分けて物価変動の要因を分析すると、サービス価格については賃金動向が有意な決定要素となっている。
●財物価の変動には需給や物価予想とともに輸入物価も影響
これまでは財とサービスを合わせた一般物価の動向を決定する要因について議論した。次に、財物価とサービス物価に分けて、それぞれの決定要因を見てみよう。まず、財物価について、一般物価と同様の要因分析を行い、その特徴を抽出する。なお、ここでは需給要因として、日本銀行「全国企業短期経済観測調査」における小売業の需給判断DI(「需要超過」-「供給超過」)を用いた。推計結果を見ると次のような点が指摘できる(第1-2-5図)。
第一に、需給要因は、推計期間中一貫して物価の押下げ要因となっている。90年代以降、景気拡張局面は93年11月~97年5月、99年2月~2000年11月、2002年2月~2007年10月、さらに現在の持ち直し局面と4回あったが15、小売業の需給判断DIといういわば主観的な判断は常に「需要不足」の状態であった。これが財物価の第一の押下げ要因となっている。
第二に、物価予想が財物価に与える影響は大きい。消費者物価全体でも物価予想は重要な物価安定要因であったが、財物価においては特にその傾向が強い。物価予想がほとんど唯一の押上げ要因である期間も多く、需給要因が財物価を継続的に押し下げる一方、物価予想が安定したインフレの予想として財物価の安定に寄与している。ただし、2001年前後に財物価が前年比-2%近い下落率を示した際には、需給判断の悪化とともに物価予想も低下要因となったことが、財物価の大幅な下落に寄与している。物価予想の安定が中長期的な物価安定にとって重要である。
第三に、輸入物価の変動も財物価の動向に影響を与えている。ただし、需給要因や物価予想要因に比べると、その影響は大きくない。輸入原材料価格などが上昇しても、最終財の需給環境が緩和状態であり、消費者が輸入物価の変動を一時的と判断している場合には、最終財価格への転嫁が容易でないことがうかがわれる。逆に、原油価格の高騰などが永続的と捉えられれば、需給判断が弱くても、物価予想の上昇を通じて財物価の上昇要因となり得る。この意味でも、物価予想の安定が最終財物価の安定にとって重要である。
なお、賃金動向は財物価とは統計的に無関係であった。この点は消費者物価全体と同様である。また、需給判断DIと財物価の関係を散布図にすると、両者の関係は過去5年程度で強まっている可能性が見て取れる。需給環境の悪化が進めば、財物価は下落しやすくなる傾向が強まったといえる。しかし、これは逆にいえば、今後需給環境の改善が進めば、財物価は上がりやすい可能性も示している。
●サービス物価には賃金動向も重要な要因
次にサービス物価の決定要因について見てみよう。財物価と同様に、[1]需給要因、[2]物価予想要因、[3]賃金要因、[4]輸入物価要因に分けて推計し、要因分解を行った。なお、サービス物価については、これらの要因とは関係が薄いと考えられる「持家の帰属家賃」を除いて推計した。また、輸入物価要因についても、サービス物価と有意な関係が得られなかったため、最終的な推計式から除いている。結果を見ると次の点が特徴として指摘できる(第1-2-6図)。
第一に、需給要因は、財物価と同様、サービス物価の主たる決定要因となっている。ここでは需給要因としてサービス業の需給判断DIを用いているが、推計期間の90年代以降、一貫して需要不足の状態にあり、サービス物価の継続的な下押し圧力となっている。サービス物価についても、需要不足感の改善が下落傾向に歯止めをかける点で重要である。また、サービス物価と需給判断DIの関係を散布図にプロットしてみると、右上がりの関係が見られ、需給環境の改善がサービス物価の上昇につながる傾向が観察できる。ただし、最近時点の傾向線の傾きは緩やかになっていることから、過去に比べ、需給環境が改善してもサービス物価は上昇しにくい傾向が見られる。
第二に、需給判断が恒常的な下押し要因となるなか、物価予想の安定がサービス物価下落の緩和要因となっている。ただし、需給要因に比べると、物価予想要因はそれほど大きくない。この点は財物価の決定要因と異なる。いずれにしても、物価予想の安定がサービス物価の安定にも重要である。
第三に、サービス物価においては、財物価と異なり、賃金動向が重要な決定要因である。ここでは、需給要因を表現する説明変数が他にあるため、残業代やボーナスといった景気変動に左右されやすい要素を除いた所定内給与を賃金変数として用いている。それによると、時間当たり所定内給与が上昇すれば、1年程度のラグをもってサービス物価の上昇につながる傾向が見られるが、最近はその上昇幅が小さくなっていることが、上昇寄与を弱めている。サービスは財に比べて労働集約的な面があり、賃金動向がサービス物価に反映しやすいことを示している。サービス物価の下落傾向を止めるためには、需給環境の改善やデフレ予想の払拭とともに、賃金の安定的な上昇も重要な要素である。
(3)デフレは実体経済を下押ししているか
物価下落の要因について、財とサービスに分けて分析し、いずれについても需給環境の改善や物価予想の安定がデフレ状況から脱するための必要条件であることを示した。次に、デフレが需給環境の悪化につながっている面、すなわち、デフレによる景気押下げ効果について、企業の設備投資と家計の消費行動を取り上げて分析する。
●デフレは実質金利と実質負債の負担増を通じ、設備投資の抑制要因に
デフレが景気に悪影響を与える経路として、実質金利の上昇や実質負債の増加、実質賃金の上昇等が指摘される。ここでは、企業の設備投資への影響を見るため、特に実質金利や実質負債を通じた設備投資抑制効果について、物価下落の影響を明示的に考慮した設備投資関数を推計することで分析する。なお、実質金利は本来、名目金利から期待インフレ率を差し引いたものとして定義されるが、ここではデータの制約上、現実のインフレ率を期待インフレ率とみなして推計している。結果として以下のような点が指摘できる(第1-2-7図)。
第一に、2008年後半以降の設備投資の減少局面において、設備過剰感の高まりとともに、デフレと関連する実質金利や実質負債要因も明確な投資抑制要因となっている。また、前回のデフレ期である2000年代前半と比較すると、実質金利要因と実質負債要因による投資抑制効果は拡大している。
第二に、なかでも、実質金利の上昇による投資抑制効果が拡大している。2009年の設備投資減少においては、設備過剰感要因は徐々に縮小しているのに対し、実質金利要因は逆に拡大している。前回のデフレ期においても、実質金利による投資抑制効果は見られたが、2009年の抑制効果はその規模が大きい。2001年から2009年にかけて、名目貸出金利がおおむね1%台半ばで安定的に推移していたことを考えれば、この要因はほとんど物価下落率の違いに起因すると見ることができる16。この分析での仮定のように、期待インフレ率と現実のインフレ率が等しいとすれば、現在のデフレは実質金利の上昇を通じて設備投資を抑制していることが示される。企業のデフレ予想を払拭することが設備投資の回復には重要な課題である。
第三に、実質負債の負担増による投資抑制効果も2009年の設備投資減少に寄与している。ただし、実質金利効果の場合とは異なり、この効果は物価下落による影響というより、主として名目負債の増加による投資抑制効果である。負債残高の前年比変化率は、時には10%を超えるほど変動が大きく、物価変動による影響を大きく上回る。このため、緩やかなデフレであれば、実質負債増の影響は名目負債残高の変動に比べて相対的に小さい。この点は、実質金利効果と対照的である。
●デフレ予想世帯ほど耐久消費財の購入を先延ばしする傾向
次に、デフレと消費行動の関係について見てみよう。家計は企業とは異なり、現預金や証券保有などの金融資産残高が借入等の負債残高を上回る純資産保有主体である。住宅ローンを抱える世帯など負債超過世帯はあるが、家計全体としては貯蓄超過、純資産保有となっている。このため、デフレ予想による実質金利の上昇や現実の価格下落に伴う実質資産価値の上昇などは消費にプラスに働く可能性がある。しかし、同時に、デフレ予想は賃金の下落を想起させるなど、マインドを通じた消費抑制効果も考えられる。以下では、内閣府「消費動向調査」の個票を活用し、家計の物価の将来予想と耐久消費財の購入行動の関係を分析する。その際、住宅ローンの有無など世帯の属性別に購入行動が異なるかもあわせて検討する。まず、全体的な傾向を確認しよう(第1-2-8図)。
第一に、デフレ予想世帯は耐久消費財の購入を先延ばしする傾向が強い。半年あるいは1年後に物価が上昇すると予想する世帯(以下、インフレ予想世帯という)と下落すると予想する世帯(以下、デフレ予想世帯という)について、耐久消費財の購入態度を比較すると、デフレ予想世帯はインフレ予想世帯に比べ、耐久消費財の購入を先延ばしする世帯が多い。世帯割合で見ると3倍程度の違いが見られる。この傾向は、前回のデフレ期17においても、今回のデフレ期18でも、同様に観察される。
第二に、デフレ予想世帯の中では、住宅ローンを抱える世帯が特に耐久消費財の購入を先延ばしする傾向があるとはいえない。住宅ローン世帯の多くは負債超過世帯と考えられるため、デフレを予想すれば、同時に将来の実質債務負担も増加すると予想する可能性は高い。そうであれば、デフレ予想世帯の中でも、住宅ローン世帯は特に消費に慎重になることが考えられる。しかし、データからは、この傾向は見られなかった。一つの解釈としては、前回と今回のデフレ期はともに「緩やかなデフレ」であり、実質負債額の変動が実感されないほど小さかった可能性が指摘できる。
第三に、純資産世帯が多いと考えられる高齢者世帯(65歳以上世帯)についても、デフレ予想世帯全体の傾向と大きな違いは見られない。このデータから見る限り、デフレ予想世帯の中において、属性の違いによる消費行動の変化は見られなかった。
●物価下落予想による消費先延ばし効果は今回デフレ期の方が弱い
デフレ予想世帯は耐久消費財の購入を先延ばしする傾向が観察された。デフレ予想が浸透すると、消費が抑制される可能性が示されたといえる。それでは、前回と今回のデフレ期において消費者の行動に何か違いが見られるだろうか。ここでは、物価下落予想による耐久消費財購入の先延ばしの程度について、前回と今回のデフレ期でどのように異なっているかを統計的手法により検証する。結果を見ると次のような点が指摘できる(第1-2-9図)。
第一に、物価下落予想による消費先延ばし効果は、今回のデフレ期の方が弱い。物価予想について、予想物価上昇率の高さに応じて5段階に分け、その段階が1段階上がることによる耐久消費財の先延ばし効果(限界効果)を推計すると、2000年前後よりも2009年の方が低い。前回のデフレ期の方が、マインド面からデフレが消費抑制に影響した可能性が高いといえる。逆にいえば、現在の消費者の方が、デフレ予想が消費の意思決定に影響を与える程度が低いということになり、前回に比べてデフレに慣れているということもできよう。
第二に、種々の属性ごとの影響を見ても、物価予想ほど明確に耐久消費財の購入態度に影響を与えている属性はない。前回及び今回のデフレ期について、各月ごとに推計を行うと、物価予想の係数はすべての推計で有意となる。しかし、それ以外の属性については、耐久消費財の購入判断とは明確な関係は検出されない。住宅ローンの有無についても同様である。この意味では、ローン返済に係る実質負担増が耐久消費財購入の意思決定に影響を及ぼしているとはいえない。
第三に、物価予想ほど明確ではないが、年間収入の多寡や世帯主の年齢については、耐久消費財の購入判断に有意な影響を与える結果も複数見られた。年間収入については、推計期間の半数以上で有意な結果が得られている。有意な結果が得られた推計においては、年間収入が高い世帯ほど耐久消費財の購入を先延ばしする結果となっている。解釈は難しいが、例えば、年間収入の高い世帯はすでに耐久消費財を保有している可能性が高く、例えば2台目のテレビなど買い替えの機会を先延ばしすることができるのに対し、収入の低い世帯では、必需品としての性格がより強い耐久消費財の購入判断を行っていることも可能性としては指摘できよう。
いずれにしても、耐久消費財の購入判断に対して、物価下落予想は統計的に有意な負の影響、すなわち購入を先延ばしする影響があることが分かった。デフレによる消費抑制効果を顕在化させないためにも、デフレ予想を加速させないことが重要である。
2 物価上昇率の基調的な低さの背景
以上、デフレの現状について、現象面とその背景にある要因分析を行った。次に、我が国が長期にわたりデフレから脱却できないでいる構造的な背景について検討しよう。すなわち、「日米における物価予想の差はなぜ生じているのか」「需要不足期間の長さ、外需依存の大きさが問題なのか」「賃金の決まり方が問題なのか」といった論点を考えていく。
(1)日米における物価予想の差はなぜ生じているか
中長期的な物価安定には、物価予想の安定が不可欠である。それでは、物価予想はどのような要因に依存しているのだろうか。物価予想の要因と現実の物価上昇率との関係についてやや詳しく見てみよう。
●物価予想は現実の物価の動きに影響される
現実の物価上昇率が低下し、物価下落が長期化してくると、物価予想も徐々に低下する傾向が見られる。まず、物価予想が現実の物価上昇率にどの程度影響を受けているのか、それは他国でも見られる現象なのか、について確認しよう。日本とアメリカについて、期待インフレ率を利用し、現実の物価上昇率と比較すると、次の点が特徴として指摘できる(第1-2-10図)。
第一に、日本の期待インフレ率はアメリカのそれよりも、恒常的に2%ポイント程度低い。比較可能な2004年以降を比べると、日本の期待インフレ率がプラス1%程度を中心に、0%~3%程度の範囲で変動しているのに対し、アメリカの期待インフレ率はプラス3%程度を中心に2%~5%程度の範囲で推移している。現実の物価上昇率に両国で2%程度の差が生じていることから、インフレ予想もそれを反映したかい離幅になっていると見られる。
第二に、期待インフレ率は現実の物価上昇率に依存して形成される傾向が強い。アメリカについては、2004年から2008年まで、期待インフレ率はCPI総合の変動率とほとんど同じ動きをしている。アメリカの調査では、消費者に対して「今後12か月の間の平均物価上昇率の予想」を聞いていることから、消費者は直近の物価動向を基に今後1年程度のインフレ予想を形成していることになる。しかし、この傾向も2009年に入ると変化する。リーマンショック後の景気後退や原油価格の低下などを受け、CPIの総合指数は前年比で大きく下落したものの、期待インフレ率はあまり変化しなかった。消費者はこうした物価下落は一時的なものであり、今後の物価上昇率に影響を与えないと捉えたと考えられる。日本の期待インフレ率についても、現実の物価上昇率に連動する傾向が見られる。しかし、「期待」と「現実」の間にはおおむね1%程度のかい離が見られ、期待インフレ率の方が高めに出る傾向がある。
第三に、アメリカの期待インフレ率の形成においては、食料やエネルギーを除く基調的な物価動向よりも、より幅広い品目を含んだ指数との相関が高い。2008年頃の石油製品価格の高騰時には、日本、アメリカともに期待インフレ率は大きく上昇した。人々が輸入物価の上昇をある程度永続的な変化と考え、インフレ予想を高めたことがうかがわれる。また、人々の物価に対する実感は、身の回りに起きている物価の上昇・下落の感覚によって形成される傾向も見られる。政策運営においては、一時的な要因を除いた物価の基調を判断するとともに、幅広い品目の価格動向を把握し、物価予想の形成に目配りをすることが必要である。
●需給ひっ迫はインフレ予想の高まりにつながるが、その程度は近年低下
物価予想は現実の物価上昇率に左右される。そうすると、需給のひっ迫・緩和といった需給動向が物価予想にも影響を与えていることが想定される。この点について確認するため、GDPギャップと物価予想の相関関係を見てみよう(第1-2-11図)。
第一に、GDPギャップと現実の物価上昇率は比較的明確な関係にあるが、GDPギャップと物価予想の関係になると明確さが薄れる。人々が物価予想を行う際には、景気要因以外の要素も重要な判断材料になっていることがうかがわれる。例えば、石油価格など必ずしも国内需給だけでは決まらない製品の価格、あるいは食料品価格など購入頻度が高く、日々の生活に密着した財・サービス価格の変動に物価予想が影響されやすいことが考えられる。なお、ここでは1年後の物価予想との関係を見ているため、当期のGDPギャップを用いている。
第二に、GDPギャップと物価予想の関係には、近年下方シフトが生じている。この点はGDPギャップと現実の物価上昇率との関係(フィリップス・カーブ)が下方シフトしていることと整合的である。例えば、フィリップス・カーブを見ると、GDPギャップがゼロ近傍になり、需給がほぼ均衡している状態であったとしても、2001年以降においては、現実の物価上昇率はゼロ近傍にとどまる傾向が見られる。90年代前半に比べると1.5%ポイント程度の下方シフトである。このシフトについては、理論上、期待インフレ率の低下が寄与しているといわれているが、ここでの物価予想とGDPギャップの散布図を見ても、この点が確認された形となる。
第三に、前述のとおり、物価予想が現実の物価上昇率に影響を与えていることを思い起せば、需給バランスの改善に加えて、人々の予想形成に直接影響を与えるような政策もデフレ脱却のためには重要である。将来の成長期待を高めるような経済成長戦略や、期待に働きかけるような金融政策といった、先を見据えたフォワードルッキングな政策を打ち出していくことが重要となろう。
●アメリカにおいても需給ギャップと物価上昇率の関係は下方シフト
以上のような、需給ギャップと物価動向、物価予想の関係の変化は他の国でも見られるのであろうか。ここでは、アメリカにおけるGDPギャップと物価上昇率、期待インフレ率の関係を調べてみよう。日本における3指標の関係と比較すると、次の点が特徴として指摘できる(第1-2-12図)。
第一に、GDPギャップと現実の物価上昇率の間には、日本と同様、明確な相関関係が見られる。しかし、GDPギャップと物価予想の相関は、日本に比べてやや不明確である。人々のインフレ期待の形成において、マクロ的な需給環境は一定の影響を与えていると見られるものの、その他の要因にもかなりの程度左右されていることが示唆される。アメリカの場合、期待インフレ率は、金融政策などで重視される食料・エネルギーを除く指数(アメリカ型コア)よりも、すべての品目を含んだ総合指数とより近い動きをしている(前掲第1-2-10図)。GDPギャップのような国内の需給環境を示す指標は、物価の基調とは関連性が高いが、人々の物価予想はそれ以外のエネルギー価格など一時的な動向も反映することがうかがわれる。なお、ここでは、アメリカの物価予想アンケートが「今後12ヵ月の間の平均」を尋ねていることから、GDPギャップは当期ではなく、4四半期前のGDPギャップを用いている。
第二に、日本と同様、GDPギャップと現実の物価上昇率、物価予想の関係には、近年下方シフトが見られる。アメリカの場合、GDPギャップがゼロで需給が均衡している場合、物価上昇率は2%程度となっており、日本のそれに比べて2%ポイント程度高い。前項において、両国の期待インフレ率の間には2%ポイント程度のかい離が見られる点を指摘したが、GDPギャップと物価上昇率の関係においてもこの点が確認されたことになる。
第三に、アメリカの物価予想は近年ばらつきが大きくなっている。2000年代において、原油価格の変動や住宅価格のバブル的な高騰・下落など、消費者物価に直接含まれない資源価格や資産価格に大きな変動が生じたことがあった。人によってはこうした広い意味での価格動向を物価予想の形成に反映させた可能性が考えられる。
(2)需要不足期間の長さ、外需依存の大きさが問題なのか
リーマンショック後の需給環境の悪化については、程度の差こそあれ世界共通である。しかし、現時点では日本だけが主要先進国において明確なデフレ状況にある。これは、我が国がリーマンショックという急激な物価下落圧力が加わる前からデフレに陥りやすい体質にあったことを意味している。以下では、この点を見るため、OECD諸国に共通するGDPギャップと物価の関係を観察し、日本だけが長く需要不足の状態にあったことや物価予想が低かったことなどを確認する。その上で、日本の経済構造に特有の要因として輸出寄与率の高さが物価の低下圧力になっている可能性を指摘する。
●90年以降、GDPギャップのマイナス基調が続くのは日本だけ
さきに、物価動向の基調は需給要因と物価予想によって決まる要素が強い点を指摘した。ここでは、分析対象をOECD諸国に広げ、他国との対比で日本の物価動向の特徴を抽出する。分析に当たっては、物価予想のデータが入手できる国が限られていることから、GDPギャップとそれ以外の各国固有の要因(固定効果)を説明変数にしたパネルデータ分析を行い、各国固有の要因にインフレ期待が含まれると解釈した。結果を見ると次のような点が日本の特徴として指摘できる(第1-2-13図)。
第一に、日本は他国と異なり、90年代以降現在までの約20年間、GDPギャップがマイナス基調にある。このような長期間を平均すれば、景気循環が均されて、GDPギャップは平準化されることが普通である。しかし、日本においては、平均してもGDPギャップはマイナスであり、マクロ的な需要不足の基調にあった。こうした傾向は他の国では見られない。
第二に、需給ギャップ以外の各国固有の要因についても、日本では物価の押下げ要因となっており、その程度は他国に比べて大きい。各国固有の要因の中には、GDPギャップ以外のすべての構造的な要因が含まれており、人々の物価予想が基調的に低いことが反映されていると見られる。それ以外にも、例えば、日本の経済構造の特徴として、成長に対する輸出寄与率の高さなども含まれると考えられる。この点については、後ほど検討する。
第三に、GDPギャップと各国固有の要因がともに明確なマイナスとなっているのは日本だけである。対象国の中では、オランダや英国においてもGDPギャップと固有要因の両方が物価に対してマイナス寄与となっているが、日本に比べるとその規模は極めて小さい。我が国だけが、需給要因と他の構造的な要因(固有要因)の両面から、物価上昇率が大きく押下げられている状態にある。
●90年代以降の慢性的な需要不足の背景にはバブル崩壊後の調整の長期化
上記の分析の結果、我が国だけが需給ギャップのマイナス基調が長く続き、それが構造的なデフレ的体質をもたらしている可能性が分かった。それではなぜ、我が国だけがそのような状態に陥ったのであろうか。90年代以降の現象ということを踏まえると、我が国における資産価格の高騰と下落、いわゆるバブルの生成と崩壊が背景として考えられる。この点について考えてみよう(第1-2-14図)。
第一に、確かに我が国は90年代に大規模なバブル崩壊を経験し、土地や株価等の資産価格が大幅に下落する時期が続いた。90年以降の土地と株式のキャピタルロスは、累計で1,500兆円を超えるほどの大規模な資産価値の下落であった(90年から2008年までの累計値)。これに対して、他の先進国では、ほとんどの国で、この間、少なくとも地価が持続的に下落する状態にはなっていない。90年代初めには北欧諸国でもバブルの崩壊と金融危機を経験したが、その後の対応が奏功して我が国とは異なった経路をたどっている。
第二に、我が国では、こうした資産価値の下落に伴う不良債権処理や過剰債務削減など、バブルの負の遺産に対応する時期が長く続くとともに、資金の流れの面でも通貨供給量の増加率が低下するなど資金循環が滞る傾向が見られた。こうした状況の下、長期間にわたり、経済成長率は低い水準で推移し、需給ギャップは多くの時期でマイナスとなっている。同時に、人々の物価予想も低くなったと考えられる。80年代後半から90年代初めのバブルの生成と崩壊、その後の調整の遅れが、日本の基調的な物価上昇率の低さに影響していると見られる。
第三に、我が国と同様、資産価格の下落に需要不足が連動し、デフレにつながった国(地域)としては、アジア通貨危機後の香港がある。香港は、90年代末のアジア通貨危機において、通貨価値の下落を回避するために国内金利を高めに維持した結果、それが不動産価格の下落を招来して資産デフレになったと指摘される。経済成長率は低迷し、98年にはマイナス成長、99年には物価上昇率もマイナスとなった。その後も物価の下落は続き、消費者物価は99年から2004年まで6年連続で下落を続けた。我が国とは通貨制度が異なる点に留意が必要だが、資産価格下落と需要低迷、物価の持続的な下落という経路をたどったという意味においては、日本と似た状況にあったといえよう。
●輸出寄与率が高い国ほど物価や賃金上昇率は低い傾向
日本の経済構造の特徴として、経済成長に対する輸出寄与の大きさがある。輸出物価は輸出企業の国際的な価格競争力で決まる面がある。価格競争力を維持するためには、輸出企業は国内での生産コストを抑制する必要がある。こう考えると、輸出寄与度の高い国ではコスト削減等による物価押下げ圧力が生じやすいことが想定される。この点を探るため、OECD諸国を対象に、GDP成長率への輸出寄与率と物価上昇率の関係、さらに、生産コストの動向を規定する賃金上昇率と物価上昇率の関係を見てみよう(第1-2-15図)。なお、対象期間は、世界的なITバブル崩壊後の拡張局面である2002年から2007年とした。
第一に、輸出寄与が高い国ほどCPI上昇率が低い傾向が見られる。傾向線を推計すると、右下がりの直線を描くことができ、その傾きは統計的に有意である。輸出主導の成長になっている国の物価は上がりにくい傾向にあり、そのなかでも、日本の位置は傾向線よりもかなり下方に位置している。日本のCPI上昇率は、輸出寄与率の高さから平均的に想定される程度よりも相当程度低いことが示されている。
第二に、日本と同程度の輸出寄与があるドイツやオランダは、日本よりも物価上昇率は高く、傾向線の近傍に位置している。この要因としては、ドイツやオランダはEU域内の他の先進国が主な輸出相手国となっている一方、日本は中国を始めとするアジアの新興国が主要輸出先になっていることが考えられる。賃金など生産コストの低い新興国への輸出寄与が高いとさらに物価上昇率は低くなる可能性が指摘できよう。
第三に、賃金上昇率と輸出寄与率の関係を見ても、同様に負の相関が観察される。輸出寄与率の高い国ほど一人当たり賃金の上昇率が低くなる傾向が見られ、輸出企業が海外との価格競争力維持のために、賃金を始めとする労働コストを抑制していることがうかがわれる。また、賃金と輸出寄与率の関係についても、日本は傾向線から下方に離れた位置におり、この点もCPIとの関係と同様である。
●新興国との競争が物価や賃金の上昇率を抑制している可能性
成長への輸出寄与が高い国ほど物価や賃金上昇率が低くなる傾向を確認した。さらに、そのなかでも日本は、輸出寄与の高さ以上に物価や賃金上昇率が上がりにくい傾向も分かった。その背景として、賃金水準の低い新興国向け輸出の寄与の高さが考えられる。この点を確認するため、輸出寄与率を途上国や新興国向けの輸出に限定して物価や賃金上昇率との相関を見てみよう(第1-2-16図)。
第一に、CPI上昇率と途上国・新興国向け輸出寄与率の負の関係は、全体の輸出寄与率との関係よりも明確である。日本は、主要先進国の中で途上国・新興国向け輸出の寄与率が最も高く、CPIの上昇率は最も低い。輸出全体を対象にした分析において、日本と同様の輸出寄与率であったドイツは、途上国・新興国向け輸出に限定した寄与率で比較すると、日本よりも相当低くなる。外需への寄与率が高いだけではなく、途上国・新興国向け輸出の寄与率が高いことが、物価の押下げ要因として重要なことが示唆される。
第二に、新興国の代表例として中国を想定し、中国と取引が多い香港を散布図に加えると、日本と似たような位置になる。また、データの制約から散布図には含まれないが、中国への輸出の多いシンガポールや台湾においても、物価上昇率は低めに推移している。中国を始めとする新興国における価格競争が、輸出企業の生産コスト削減圧力等を通じ、一般物価の上昇を抑制する傾向があると考えられる。
第三に、賃金上昇率との関係を見ても、途上国・新興国向け輸出の成長寄与率が高い国ほど、賃金が上がりにくい傾向が見られる。途上国・新興国向け輸出に係る生産コストの抑制が、その国の賃金上昇率を押し下げていることがうかがわれる。日本はその典型ともいえよう。
個々の企業は当然、今後も競争力を維持するための努力を続けるであろう。輸出企業の競争力の維持がデフレ圧力をもたらすからといって、コスト削減努力それ自体は否定すべきものではない。政策対応の方向性としては、国際標準を巡る指導力発揮や研究開発の支援など非価格競争力強化への環境整備等が考えられよう。
1-3 デフレを経験した国
近年デフレを経験した国にはどのような特徴があるのだろうか。IMFのデータベースから、1980年以降に消費者物価が前年比で2年以上続けて下落した国をデフレ経験国として取り上げ、それらの国の特徴を経済成長率との関係で見てみよう(コラム1-3表)。
まず、80年以降にデフレを経験した国を見ると、ほとんどが開発途上国であり、主要先進国でデフレになった国は日本だけである。また、物価と経済成長率との関係は一様でなく、高成長とデフレが共存している国もある。これは、開発途上国の多くが独立した為替制度や金融政策を持たないことが影響している可能性がある。
先行きについても、主要先進国で2年以上物価下落が続くと予想されている国は日本だけである。デフレが予想されている国には、いずれの国もリーマンショック後に経済成長率を大きく落としたという共通点がある。たとえば、ラトビアやリトアニアは2009年に15%を超えるマイナス成長となった(日本は-5.2%)。これらの国は、リーマンショックのような大規模な外生ショックに特に脆弱な経済構造であったことが示唆される。
(3)賃金の決まり方が問題なのか
賃金上昇率の低さは、特にサービス財価格の低下を通じて、物価の下押し圧力となっている。それでは、日本の賃金上昇率はどのような要因で決定されているのだろうか。最初に、日米の賃金上昇率の決定要因を比較することで全体的な特徴を確認し、次に、製造業とサービス業に分けて業種ごとの特徴を比較する。また、日本とアメリカの労働コストの調整方法を比較し、日本が雇用量ではなく賃金を中心に労働コストを調整していることを示す。
●日本の賃金は失業率の動向に影響を受けやすい
最初に、賃金上昇率の決定要因について日米比較を行う。決定要因としては、[1]景気要因を表す「失業率」、[2]将来の物価見通しを示す「物価予想」、[3]労働1単位当たりの付加価値の増加分を示す「労働生産性上昇率」の3要因を日米共通の説明要因として、それぞれの国の名目賃金上昇率との関係式を推計した。結果として次の点が指摘できる(第1-2-17図)。
第一に、日本の賃金上昇率は、失業率が改善すると上昇する傾向が見られるのに対し、アメリカの賃金は、失業率の変動との間に明確な関係が見られない。ここでの失業率は、経済全体の失業率であり、マクロ的な労働市場の需給ひっ迫度を示している。景気回復が続けば、労働市場の需給環境は改善し、失業率は低下する。この場合、日本では賃金上昇率も上向く傾向にあるのに対し、アメリカでは必ずしも賃金上昇率が加速するとは限らない結果となった。日本においては、労働市場全体の動向が、企業の賃金設定において重要な要因となっている。
第二に、労働生産性上昇率は、日本、アメリカともに賃金上昇率の重要な決定要因である。特に、アメリカでは労働生産性の上昇率だけが賃金上昇率を決定する有意な要因となっている。労働生産性が上昇すれば、企業としては労働の対価である賃金を引き上げる誘因となる。日米両国ともに、こうした生産性要因によって賃金が決定される傾向が見られる。しかし、その一方で、日本の場合、失業率というマクロ的な景気要因によっても賃金上昇率が規定される傾向がある。したがって、例えば、景気が悪ければ、たとえコスト削減等によって労働生産性が高まったとしても、日本の賃金は労働生産性の高まりほどには上昇しないことになる。それに対し、アメリカの賃金は、景気悪化時のコスト削減であっても、労働生産性がそれによって高まれば、賃金上昇率は高まる傾向があるということになる。
第三に、物価予想と賃金上昇率の関係は、日米ともに不明確である。インフレ率が高かった時代には、賃金の生活費的な役割が重視された可能性はあるが、90年以降の低インフレ期においては、物価予想が賃金上昇率を決定するような関係は見られない。
●業種別の賃金上昇率の決定要因
日本の賃金上昇率は、景気要因と生産性要因の両方に左右される要素が強い一方、アメリカの賃金上昇率は、労働生産性の上昇率に規定される面が強いことが分かった。しかし、日本のなかでも、国際競争にさらされやすい製造業と内需の動向に左右されやすいサービス業では、賃金上昇率を決定する要素は異なるかもしれない。ここでは、製造業とサービス業に分け、賃金の決定要因が異なるかどうかを検証してみよう。なお、業種別の賃金関数を推計するに当たり、失業率、将来の物価予想、労働生産性上昇率に加え、交易条件の変化(当該産業と全産業の製品価格上昇率の差)を説明変数に追加した。結果を見ると以下のような点が指摘できる(第1-2-18図)。
第一に、日本では、製造業・サービス業ともに、失業率が賃金上昇率の主たる決定要因となっているのに対し、アメリカでは、製造業・サービス業ともに失業率は賃金上昇率への説明力を持たない19。
第二に、労働生産性の上昇率は、アメリカのサービス業において主要な賃金決定要因となっている。アメリカのサービス業の賃金上昇率は、景気要因やその他の要因とはほとんど無関係であり、労働生産性だけが有意な決定要因である。他方、日本については、労働生産性は失業率に比べると、賃金上昇率に対する説明力が劣る。
第三に、物価予想と交易条件については、日米の製造業・サービス業ともに賃金決定には有意な影響を及ぼしていない。なお、日本の製造業の係数は有意ではあるが、符号条件が逆であるとともに、係数はほとんどゼロであり、意味のある数字とはいえない。
日本では、業種を問わず、失業率の動向、ひいては景気動向が賃金決定の主な要因となっている。他方、アメリカでは、サービス業において労働生産性の上昇率が主な要因となっている。見方を変えれば、日本の方が賃金決定において業種間の裁定が働いているともいえよう。日本では、サービス業の賃金上昇率を高めることが課題となっているが、そのためには、まずはマクロ的な景気状況を改善することが重要ということになる。生産性の上昇それ自体は必要なことではあるが、賃金上昇という点に限定していえば、業種横断的な需要を喚起して経済全体の失業率を低下させていくことが重要である。
●日本は労働コストを賃金で調整する傾向
最後に、企業の労働コストの調整方法について、日米間で比べてみよう。具体的には、日米の単位労働コストの変動について、それが賃金の変動によるものか、労働生産性の変動によるものかを要因分解して比較する(第1-2-19図)。
第一に、日本では、製造業・サービス業ともに、時間当たり賃金が柔軟に変動することで、単位労働コストが調整されている。時間当たり賃金がマイナスになる現象は、日本独特であり、アメリカでは見られない。アメリカの賃金上昇率はほとんどの期間でプラスであり、特にサービス業においては、長期にわたり安定的な上昇を続けている。
第二に、アメリカの単位労働コストを低下させているのは、主として労働生産性の上昇である。アメリカでも製造業においては、単位労働コストはマイナスになる時期もあるが、その場合であっても、賃金上昇率を上回る生産性上昇率を実現することで労働コストを削減している。生産量一定の下で、雇用量(雇用者数と労働時間)を削減すれば、労働生産性は上昇する。アメリカでは、景気悪化時などの労働コスト調整局面においても、賃金水準はある程度保った上で、雇用量を中心に調整している姿が浮かび上がる。
第三に、日米のサービス業の労働コストの違いは、賃金上昇率の違いによって生じている。アメリカのサービス業の単位労働コストは90年以降常に上昇を続けている。サービス業についても、労働生産性はおおむね単位労働コストの引下げ要因となっているが、それを上回る賃金上昇率が起きているため、サービス業の単位労働コストは期間を通してプラスを続けている。他方、日本のサービス業においては、労働生産性とともに賃金変動率が大きく、柔軟な労働コストの調整を可能としていることが分かる。
3 金融資本市場と金融政策
リーマンショック後の世界的な金融資本市場の混乱を経て、景気は持ち直し局面に入った。ここでは、その後の我が国の金融資本市場や金融政策の動きを追ってみよう。具体的には、「我が国の株価はなぜ回復が遅れているのか」「企業の資金調達環境は回復したか」「金融政策はどう運営されているか」といった点について説明する。
(1)我が国の株価はなぜ回復が遅れているのか
世界的な景気の持ち直しとともに、各国の株価にも上昇傾向が見られている。その一方で、日本の株価は他国と比べると、戻り方が鈍いとの指摘もある。各国の株価の動きを比較しつつ、日本の株価動向の特徴を見てみよう。
●日本の株価の戻りは他国に比べて相対的に遅れ
日本の株価の回復は他国に比べて遅れているのであろうか。まず、この点について確認しよう。リーマンショック前の2008年8月末の株価を基準時点として、日本とアメリカ、英国、ドイツの株価指数の動きを比較すると、次のような点が特徴として指摘できる(第1-2-20図)。
第一に、リーマンショック前と比較すると、日本の株価の回復は相対的に遅い。2008年8月末と比較すると、日本の株価は2010年6月末時点で7割程度となっており、8~9割程度のドイツや英国、アメリカよりも低い水準にとどまっている。
第二に、株価の動きに着目すると、2009年3月頃を底にして、各国とも株価は回復を始めたものの、2009年9月から11月頃にかけて日本の株価だけ下落基調に転じている。その後、日本の株価も2009年12月には上昇に転じ、他国と似たような動きを辿るが、下落して生じた水準の差は依然として取り戻せていない。2009年9月から11月にかけて、何か日本特有の要因があったのだろうか。一つ考えられる要因は、円高の進展であろう。2009年9月から12月にかけて、円は対ドルで6%程度(5円/ドル)の大幅増価となった20。名目実効為替レートを見ても、4%程度の増価と貿易相手国全体に対して円高が進んでいる。日本の株価は輸出関連企業を中心に、円高になると株価を下げる場合が多い。こうした円高要因が日本の株の回復の遅れに寄与していると考えられる。
第三に、株価の長期的な動向を見ても、日本の株価の動きは他国に比べ停滞感が強い(後掲第1-2-21図)。この点を考慮すると、リーマンショク後の回復の遅さだけでなく、長期的に日本の経済パフォーマンスが他国に比べて劣っていることが、より本質的な株価の押下げ要因になっていることが示唆される。
●名目成長率よりも実質成長率の方が株価との相関は高い
次に、日本の株価回復の遅れについて、実体経済のパフォーマンスの違いから見てみよう。株価は景気を映す鏡といわれる。ここでは、景気を端的に示す指標としてGDPを例にとり、リーマンショック前の2008年4-6月期と直近の2010年1-3月期の間の変化率を比較する。なお、アジアの他の先進国として、韓国を追加して比較する。特徴として、次のような点が指摘できる(第1-2-21図)。
第一に、名目GDP成長率と株価動向の間には、おおむね各国とも正の相関がある。しかし、相関係数を比較すると、日本は他国に比べて低い。逆に、韓国の株価は名目GDP成長率と強く相関している。また、アメリカとドイツについては、日本とともに、株価がリーマンショック前の水準を下回るが、名目GDPも依然としてリーマンショック前の水準にまで回復していない。他方、英国については、名目GDPはリーマンショック前の水準を回復していないものの、株価はすでにリーマンショック前の水準に復しており、株価が実体経済よりも強い動きとなっている。
第二に、日本の場合、名目GDP成長率よりも実質GDP成長率の方が株価との相関係数は高い。株価が景気を映す鏡だとすれば、日本の株価が映しているのは、名目ではなく実質成長率で見た景気状況といえる。名目成長率の方がより「景気実感」に近いともいわれるが、株価との関連でいえば、景気実感よりも実質的な経済パフォーマンスにより連動しているということになる。
第三に、GDPデフレーターの動向と株価の間には明確な相関は見られない。ただし、日本の場合、デフレ下での株価上昇という時期が対象期間に含まれているため、相関係数はマイナスとなっている。この概観から見る限り、日本の株価はデフレによって押し下げられているのではなく、実質ベースでの景気動向の弱さによって押し下げられている要素が強いということになる。
●日本は経済成長率の低さが株価の抑制要因
日本は90年代初めのバブル崩壊以降、経済成長率は他国と比べ概して低調に推移してきた。実体経済と株価に相関が見られるのであれば、日本の株価は長期的にも他国に比べて低いパフォーマンスにとどまった可能性がある。この点について、90年代以降の株価変動率を実体経済(実質GDP成長率)と金融環境(長期金利)で説明する式を推計し、日本の株価が実体経済パフォーマンスの弱さによって押し下げられていることを確認しよう(第1-2-22図)。
第一に、長期的に見ても、日本の株価は他の先進国よりも低いパフォーマンスにとどまっている。実際、上記5か国のうち、92年4-6月期以降の株価の平均変化率(前四半期比)がマイナスになっているのは日本だけである。リーマンショック後の回復の遅れだけでなく、長期的に見て日本の株価は他国よりも概して弱い動きをしていたといえる。
第二に、実体経済の弱さ(実質経済成長率の低さ)が日本の相対的な株価上昇率の低さにつながっている。この点はリーマンショック後の株価回復の遅れと同様である。ここでの推計期間において、日本は実質GDP成長率が最も低い。このため、実質成長率の株価上昇に対する寄与度も日本が最も低くなっている。なお、前述の相関関係と同様に、GDPデフレーターを説明変数に含めて推計したところ、株価変動率に対する有意な影響は得られなかった。長期的に見ても、物価上昇率が株価変動の決定要因になっているとはいえない。この意味では、日本の株価はデフレによって下押しされているのではなく、デフレの背景にある実体経済のパフォーマンスの低さが下押し要因になっていると解釈することができる。
第三に、長期金利と株価の関係を見ると、日本は他国に比べ、金利要因によって株価が押し下げられる程度は低い。低金利の継続により、金利面からの株価押下げ効果は小さくなっている。例えば、韓国においては、実質経済成長率が高く、実体経済面から大きな株価押上げ要因となっているが、同時に、長期金利も高水準で推移していたため、金利面からは株価の上昇はある程度抑制されている。長期金利は実体経済の動向と連動する側面があり、経済成長率が高まると金利も上昇することが多い。株価の良好なパフォーマンスのためには、長期的な経済成長率を高める戦略的な政策を行うとともに、財政の健全化へのコミットメントなどを通じて市場の信認を高め、長期金利の無用な上昇を防ぐことが重要である。
(2)企業の資金調達環境は回復したか
金融資本市場はリーマンショック後の混乱から正常化に向かいつつある。ここでは、景気の持ち直しとともに企業の資金調達がどのように回復してきたかを振り返る。
●資本市場を通じた資金調達に回帰
企業の資金調達は、設備投資資金の需要減などを背景に、2008年に大きく落ち込んだ。そのなかで、資金調達手段を見ると、金融資本市場から直接調達するような株式やそれ以外の証券による調達を減らす一方、銀行等からの間接金融による調達が増加した。こうした傾向はどの程度変化したのであろうか。
第一に、金融機関からの借入は減少に転じ、株式等の直接金融による調達が増加した。金融資本市場の正常化とともに、一時的に借入にシフトしていた資金調達も株式等の金融資本市場を通じた調達に回帰する動きが見られた(第1-2-23図(1))。
第二に、2009年において、民間金融機関からの借入は減少した一方、公的金融機関からの借入は増加した。また、民間金融機関からの借入についても、政府は中小企業に対する緊急保証制度等を始め、企業の資金繰り支援を行っている。こうした支援策が企業の資金繰りを安定化させた面があると考えられる。実際、中小企業向けの貸出を公的保証付き貸出と保証なし貸出(プロパー貸出)に分けると、2008年10-12月期以降、公的保証付き貸出の増加が全体の貸出減を相当程度緩和していることが分かる(第1-2-23図(2))。
第三に、2009年後半において株式発行による資金調達が顕著に増加した。株式による資金調達はリーマンショック以前の2008年前半から減少を続けていたが、2年ぶりに増加に転じている。株式市場が比較的堅調に推移したことに加え、最近の特徴として、金融機関や企業の公募増資が活発化したことも指摘できる。
●財務基盤の強化を目指し、公募増資が活発化
公募増資の拡大は、2009年の金融資本市場の特徴の一つである。公募増資の動向とその背景について、2009年の特徴を見てみよう。
第一に、2009年の公募増資額は5兆円程度と、直近ピーク時の2006年と比べても3倍以上の大幅な増資額となっている(第1-2-24図(1))。財務基盤の強化を目指し、金融機関や事業会社がともに大型の公募増資を行った。特に、金融機関については、金融危機後の自己資本強化の動きとともに、国際的な金融規制の見直しの議論において、自己資本における普通株式等の役割を重視する議論が行われていたことも増資活発化の背景として指摘できる。
第二に、その一方で、増資は1株当たりの価値の希薄化や市場需給の悪化などを想起させ、増資企業や金融機関の株価を下落させる要因にもなったとの指摘もある。例えば、東証株価指数(TOPIX)と公募増資の動きを重ねて見ると、2009年11月に公募増資が大きく増加した際、ドバイショックの影響はあったものの、TOPIXは下落している。2010年1月においても公募増資の増加と株価の低迷が同時に起きている。
第三に、企業は財務基盤の強化を目指して増資を行っている例が多いと見られるものの、必ずしも財務基盤が弱い企業だけが増資に踏み切っているとは限らない。2009年1月から11月末までに公募増資を発表した企業54社を対象に、増資企業の自己資本比率とその企業が属する業種の平均的な自己資本比率を比較し、企業が財務基盤強化のために公募増資に踏み切っているか確認した(第1-2-24図(2))。結果を見ると、増資企業の自己資本比率は、企業間のばらつきは大きいものの、平均を下回る場合が多いことが分かる。この意味では、企業は、財務基盤の弱さを強化するために増資している場合が多いといえる。業種別には、自動車・輸送機や電気・精密、運輸・物流にその傾向は強い。しかし、医薬品産業のように、すでに自己資本比率が高く、財務基盤が強固である企業が公募増資を行っている例もある。こうした企業では、自社の財務基盤の弱さを補完するために増資を行っているのではなく、例えば、買収合併(M&A)戦略など、個々の企業の財務戦略の一環として行われていることも考えられる。
●自己資本比率は上昇しているが、不良債権比率は主要行等で近年やや上昇
バーゼル銀行監督委員会は、2009年12月に自己資本規制と流動性規制に係る市中協議文書を公表した。そのなかで、自己資本規制については、損失への耐性を高めるなど自己資本の質の向上を目指し、基本的項目(ティア1)における普通株式等21の割合を引き上げることの重要性が指摘されている。こうした国際的な動きを受け、金融機関は公募増資等を通じて自己資本比率を高める取組を進めている。ここでは、金融機関の不良債権比率の動向について確認するとともに、銀行の自己資本比率の状況を見てみよう(第1-2-25図)。
第一に、主要行等の不良債権比率は2002年から2008年にかけて低下してきたが、2008年9月期以降、景気の悪化とともに幾分上昇している。なお、地域銀行の不良債権比率についてはおおむね横ばい圏内で推移している。
第二に、銀行の自己資本比率の推移を見ると、主要行等、地域銀行ともに2002年度以降上昇傾向を続けている。自己資本比率は2007年にいったん低下したが、2009年度は増資の影響などもあり、自己資本比率が再び上昇している22。なお、現在(2009年9月期末)の自己資本比率は、主要行等で14%程度であり、国際統一基準行の最低所要自己資本比率(8%)を大きく上回っている。
第三に、日本と欧米の金融機関について、2008年と2009年のティア1比率の動きを見ると、日本の金融機関のティア1比率は欧米金融機関に比べ概して低い。リーマンショック後の金融危機の経験を踏まえ、自己資本の質の向上に向けた世界的な取組は今後も継続していくと見込まれる。
(3)金融政策はどう運営されてきたか
デフレ状況から脱し、物価安定の下での持続的な経済成長を実現するためには、政府と日本銀行が一体となって政策努力を重ねていくことが重要である。リーマンショック後の国際金融市場の動揺や世界的な景気後退を経て、現在、景気は着実に持ち直してきている。しかし、自律的回復には至っておらず、脆弱性は依然として残っている。物価の面から考えても、景気の面から考えても、我が国経済には金融政策による下支えが必要である。以下では、金融政策について振り返る。
●日銀当座預金残高は量的緩和期の2002年前後の水準に増加
リーマンショック後の急激な景気の落ち込みや世界的な金融市場の動揺に対応し、日本銀行は政策金利の引下げや金融市場安定化策、企業金融の支援策など、いわば危機対応モードで種々の措置を講じてきた。その後、景気は持ち直し局面に入り、金融政策も各種の政策効果を見守る状況が続いてきた。しかし、11月下旬において、いわゆるドバイショックを契機として国際金融市場に再び動揺が走るとともに、日本においても円高や株安が生じ、金融市場の脆弱性が再認識された。また、政府が月例経済報告において、我が国は「物価動向を総合してみると、デフレ状況にある」と判断したのもこの時期であった。こうしたなか、日本銀行においても、我が国経済がデフレから脱却し、物価安定の下での持続的な経済成長を実現するための追加緩和策等を行っている。
第一に、2009年12月1日、臨時の金融政策決定会合を開催し、金融緩和の一段の強化策として、新しい資金供給手段を導入し、無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導目標水準と同じ0.1%の固定金利で、期間3か月というやや長めの資金を潤沢かつ安定的に供給することを決定した。量が制約となって金融機関の行動が制約されることがない状況を作り出すとしており、「広い意味での量的緩和」とも呼ばれている23。2001年3月から2006年6月まで続いた「量的緩和政策」は、日銀当座預金残高を操作目標とする政策であった。それに対し、現在の政策は、潤沢な資金供給という意味では同じであるが、当座預金残高を目標にはしていない。しかし、当座預金残高の推移を見ると、2010年4月時点において、2002年前後の量的緩和政策期の水準まで拡大している(第1-2-26図)。
第二に、12月18日の金融政策決定会合において、「中長期的な物価安定の理解」の意味するところを明確化した。中長期的に見て物価が安定していると理解する物価上昇率を「消費者物価指数の前年比で2%以下のプラスの領域にあり、委員の大勢は1%程度を中心と考えている」とし、ゼロ%以下のマイナスの値は許容していないこと、中心は1%程度であること、などを文書で示し、「中長期的な物価安定の理解」を明確化した24。こうした金融政策の一連の動きを受け、市場では低金利の長期化観測が生じ、また、金利低下による日米金利差の拡大などを背景に円ドルレートが円安方向に動くこともあった。
第三に、2010年3月17日には、企業金融支援策の一部(企業金融支援特別オペ)が3月末で完了することなどを踏まえ、上記の固定金利方式の共通担保資金供給オペレーションの金額を10兆円程度から20兆円程度に増額することを決定した。また、6月15日には、成長基盤強化を支援するための資金供給の枠組みの導入を決定している。
●2009年12月以降、低金利の長期化観測が強まる
以上の金融政策の動きを踏まえ、市場がどのように反応したか見てみよう。ここでは、ユーロ円3か月金利先物の動向から、追加的な金融緩和等の措置を受け、市場参加者の先行きの見方がどのように変化したかを検討する(第1-2-27図)。
第一に、市場が予想する実質ゼロ金利政策の継続期間は、追加緩和策等が決定された2009年12月に長期化した。リーマンショックの1年前程度におけるユーロ円3か月金利先物の平均値(0.85%)を当時の政策金利(0.5%)に対応する先物平均金利とみなし、ユーロ円先物金利で描いたイールドカーブにおいてその金利を上回る限月までを現行金利の継続期間とみなすと、2009年12月以降は4年を超える継続期間となった。先物金利から見る限り、市場は、現在のような実質ゼロ金利政策から0.5%程度の利上げに転じるまでには、4年以上かかると見ていることになる。
第二に、低金利の長期化観測は、リーマンショック後、2008年10月に政策金利を0.5%から0.3%に引き下げたときから高まり始めたが、2009年12月の追加的な金融緩和等を受け、さらに大きく上昇した。リーマンショック後の金融市場の動揺時を上回る、低金利の長期化観測が生じたことになる。この意味では、危機対応モード時よりも現在の政策態度の方が、市場には低金利の長期化シグナルとして受け止められていることになる。「広い意味での量的緩和」や「中長期的な物価安定の理解」の明確化等によって、日本銀行のデフレ脱却に向けた確固たる姿勢を市場に示したことが、低金利の長期化観測につながったと考えられる。
第三に、インプライド・フォワード・レート(現時点での市場金利を前提とした将来の特定期間に対応する金利)から、市場参加者の将来の予想金利を見ると、2009年12月に低下したことが分かる。2009年11月と同年12月の1年物インプライド・フォワード・レートを比較すると、1年先から7年先の予想金利において低下している。8年先や9年先の予想金利は変化していないため、12月の追加金融緩和等は1年から7年程度の「やや長め」の期間の予想金利を押下げたことがうかがわれる。
なお、リーマンショックから日が浅い2009年1月のインプライド・フォワード・レートと比べると、5年先以降の予想金利が上昇している。同年春以降の景気の持ち直しとともに、将来の成長期待にやや楽観的な見方が広がっていることが示唆される。
●物価と景気の両面において、金融政策による下支えが不可欠
今回の景気持ち直しは、デフレ状況の下での持ち直しという特徴がある。また、景気は自律的回復には至っておらず、その足取りは依然として脆弱というべきだろう。こうした状況の下、金融政策においては、より一層、物価と景気の両面を見据えた対応が求められている。最後に、政策の一つのベンチマークとしてテイラー・ルールを用い、現実の物価・景気動向と将来の予想から推計される政策金利の試算値がどの程度になるか確認しよう(第1-2-28図)。なお、推計においては誤差が伴うこと、前提の置き方などによって結果は大きく異なる可能性があることから、結果は相当の幅を持って解釈すべきである。
第一に、本推計による政策金利の試算値は、現在ではマイナスである。現実の金融政策においては、名目金利をゼロ%以下にできないという非負制約があるが、物価と景気の現状から機械的に算出される金利水準はマイナスという推計になった。過去にも金利の試算値がマイナスとなった時期はあり、例えば、99年のゼロ金利政策時や2001年3月から2006年3月までの量的緩和政策期において、その例が見られる。いずれも政策金利は下限に張り付いていた時期である。
第二に、先行きについて民間エコノミストの予測平均値を基に試算すると、金利試算値のマイナスが今後2年程度継続する結果となっている。景気については、今後1年程度、1%台半ばの実質成長率が続くと予測されているものの、景気改善が物価に影響を与えるまでには時間がかかることなどから、物価上昇率は今後2年程度はマイナスが続くと予想されている。このため、金利試算値のマイナス幅は徐々に縮小するものの、依然としてマイナス圏内にとどまる結果となっている。物価と景気の両面において金融政策による下支えが必要であることが示されている。
第三に、金利の試算値は、マイナスのGDPギャップと物価下落の両面によって押し下げられているが、どちらの影響がより大きいかは、想定目標インフレ率をどの程度にするかに依存する。現在のようなデフレ期においては、当然、1%の物価上昇率よりも2%の上昇率を目標とする方が、現実と目標とのかい離が広がり、理論上の金利水準は低く算出される。金利設定においては、どの程度の物価上昇率を想定して政策運営を行うかが重要ということもできよう。