第9節 縮小に転じた経常収支黒字
1. 今回の円高の背景
(急激だった円高の進行)
今回の円高の増価率(対ドルレート)を過去の円高局面と比べてみると,本年1月以降5月までの月平均の増価率は4.1%と,93年前半の円高期の2.7%を上回りプラザ合意以降の4.4%に匹敵する急激なものであった(第1-9-1表)。
また,今回の円高は発端こそマルクへの連れ高と言われたものの,その後4月中旬までは欧州通貨に対しても円の全面高の様相を示したことから,対ドルのみならず実効レートでも大幅に増価した。このことは輸出企業を中心に,輸出代金の円ベース手取り額の減少を意味するものであり,性格的にはドルの全面安で実効レートが大きく変動しなかった94年よりは円の全面高をうけて実効レートでも大幅な増価をみた93年に似ている。
この間,マルクについては,対ドルについては円に先駆けて増価してきているものの,対円等では減価しているほかERM(為替相場メカニズム)により対欧州通貨での一方的な増加はある程度抑制されることもあり,95年以降の実効レートでみた増価テンポは円に比べれば緩やかなものにとどまっている。また,ドルについては,対円,対マルクにおいて大幅な減価がみられるものの,貿易ウエイトの高いメキシコ・ペソ,カナダ・ドルでは逆に増価していることから,実効レートは94年対比おおむね横ばいで推移している(付図1-9-1)。(円高の背景)ここでは為替関数の推計を用いて,購買力平価を越えた円高への動きと我が国の累積経常収支との関係を示すほか,我が国の説明変数だけでは説明できない諸要因が影響を与えている可能性を示す。
まず円ドルの実質為替レートを日米実質金利差要因(アメリカ-日本)と我が国の累積経常収支要因で回帰する。
無論為替レートの決定メカニズムについてはいまだコンセンサスが得られているとはいえないものの,ここでは長期的には名目為替レートは購買力平価(以下,PPP)に収れんしていくが,中期的には実質金利差と累積経常収支によってPPPからかい離させられるとの考え方に準拠している。すなわちここではPPPが為替レートを決定する基本的な要因であり,実質金利差と累積経常収支が,為替レートをPPPからかい離,すなわち実質為替レートを変化させると仮定している。
もちろん,実質金利差と累積経常収支以外の要因(ニュース,バブル等)でも短期的に実質為替レートがファンダメンタルズからかい離することはいうまでもない。今回では,①昨年12月以降のメキシコ情勢と欧州における政治情勢の不透明さ,②アメリカの財政赤字・経常収支赤字の継続によるドルの過剰供給懸念を背景とした投機筋によるドル売り圧力,等が指摘されている。
なお,ここでは購買力平価として日米の国内卸売物価(日本:国内卸売物価,米国:生産者物価)を使って導出したものを用いている。PPPとしては輸出価格を使うことも考えられるが,これ自身が為替レートの変動を受けている可能性があることや,輸出価格のPPPは名目円ドルレートと交差していないこと,等を踏まえて国内卸売物価ベースのPPPを用いた(第1-9-2図)。さらに,ベンチマークを変動相場制に移行した73年としているが,ベンチマークのとり方によってもPPPと名目為替レートの関係が変わり得ることにも留意が必要である。
また,累積経常収支要因は,ドル資産を保有することに対するリスクプレミアムを表すものであるため,累積経常収支額から累積直接投資額と外貨準備高を控除したうえで,我が国の経済規模によってもリスクプレミアムは影響されることに考慮し,名目GDPで割るという調整を行っている。
関数推計からは,為替のPPPからのかい離の説明に当たって,累積経常収支が全期間にわたって有意であった一方,内外実質金利差は80年代前半は有意であったものの80年代後半以降では符号が逆転してしまうとの結果が得られた。しかし87年以降は関数推計の決定係数が低くなっていることから,累積経常収支等の要因では説明できない動きが大きくなっていることに留意すべきであろう(第1-9-3表)。
こうした推計結果は,実質為替レート,実質日米金利差,累積経常収支の推移を重ねてみるとよく理解できる。つまり,83,84年にかけての円安は,累積経常収支が対名目GDP比での絶対額がゼロ近辺にあるなか,日米実質金利差の拡大によって引き起こされたと考えられる。
一方,86年以降は,実質金利差がほぼゼロ近傍を横這うなかで,累積経常収支が増加しており,トレンドとしては円高基調と一致している(付図1-9-2)。
なおこの間,80年代後半においては,機関投資家が実質金利差がフラットだったにもかかわらず外債購入を積極的に続けるという動きがみられたが,これには,バブル期に機関投資家が株・土地の含み益の増加を背景にリスクテイク能力を高めていった可能性が指摘できる。実際,上記為替レート関数での累積経常収支要因の弾性値の変化をカルマンフィルターでみると,バブルによる含み益の急増と時を同じくして弾性値が大きく低下し,投資家がリスクに対して鷹揚になったことがうかがえる(付図1-9-3)。
さらに,最近の名目円ドルレートの動き(前年差)を,PPP,累積経常収支,日米実質金利差で要因分解すると,この中では累積経常収支の要因のウエイトが高いものの,これらの要因では説明できない残差も,93年以降の円高に大きく寄与している(第1-9-4図①)。しかも,この残差は,必ずしも常に円高に作用しているわけではなく四半期毎に大きく上下に変動している(第1-9-4図②)。このことは,こうした残差にアメリカの財政赤字やドイツマルクへの連れ高等を材料とする投機的な動きが含まれている可能性を示している。
このように,我が国の累積経常収支等の要因以外に,足元ではアメリカの財政赤字等を材料とした投機的な動きが為替の変動を一時的に大きくしているといえる。
(マルク高のドイツ経済への影響)
今回のマルク高がドイツ経済に及ぼす影響が我が国に比べれば小さいとみられているのには三つの背景が考えられる。
第一は,マルクの実効レートがマルクの対ドルレートでの増価に比べて緩やかなものとなっている(95年1~3月の増価率:実効レート4.95%,対ドルレート8.94%:IMFベース)ことから明らかなように,今回はマルク高というよりもドルの対マルク安という性格が強い。
第二に,ドイツのドル建て輸出の対GDP比は日本の約半分であり,また自国通貨建て輸出対GDP比は日本の約9倍になっているために,短期的にはマルク建ての輸出金額の減少の影響は小さくなっている。
第三は,輸入に占めるドル建て比率が輸出より高いことから,輸出金額の手取りの減少分に比べて,マルク高メリットが物価押下げ効果を通じて経済に浸透しやすい構造にあることが指摘できる。
(為替レートに影響を与えない累積経常収支黒字水準について)
最近の円高の背景として,一つには我が国の累積経常収支黒字の増加が考えられるが,実際にはそれのみで説明できない動きがあることをみてきた。こうした現実を踏まえた上で,ここでは為替レートに影響を与えない累積経常収支黒字の水準とはどの程度かという議論に対する考え方を整理する。
まず,考えられるのは,外貨保有に対するリスクプレミアムが,経常収支黒字の累積額に加えて我が国の経済成長規模にも影響されることから,名目GDPの増加テンポに見合った累積経常収支黒字の増加であれば追加的な円高要因には働かないという点である。
4月14日の「緊急円高・経済対策」等,これまで内需拡大策が取られてきたのも,結果として経常収支黒字を削減することと経済成長率を高めることによって,円高に影響を与えない水準に累積経常収支黒字をとどめようとする効果があったとの見方が可能である。
次に,為替水準がファンダメンタルズであるPPPに向けて調整される際に考えられる累積経常黒字水準について検討する。
ここで,過去実際に名目円・ドルレートとPPPが交差していた4時点(75,76,82,85年)における累積経常収支黒字(対名目GDP比)をみると,上方トレンドが確認できた(付図1-9-4)。こうしたトレンドの存在は,我が国の経済が右肩上がりで拡大してきたことに対するリスク許容力の増加を背景に,許容できる累積経常収支黒字の金額が増加してきたことが影響していると考えられる。
したがって,累積経常収支黒字が増加し続けたとしても,その増加率が経済成長を下回る範囲内に止まるとすれば,為替レートもPPPに収れんしていく可能性が見込まれ,このためには累積経常収支黒字が経済成長によるリスク許容力を上回らない範囲での増加となるように,フローの経常収支黒字が,為替レートの調整メカニズムと内需拡大という二つのルートによって調整されていくことが必要である。
ただし,その場合でもどれくらいの期間とテンポで累積経常収支黒字が調整されていくかについては,事前に予想することはできない。これは経常収支が,国内に経済活動はもとより,海外における景気動向や為替レート等の外部要因に大きく左右されるからである。また,そもそも為替レート自体,上にみたように投機的な動きに大きく左右されるリスクがある。従って,こうした累積経常収支黒字の調整を経済政策上の目標とすることは不可能であるとともに適切でもない。
(円の供給と為替レート)
平成7年4月14日における「緊急円高・経済対策」では,政府の対応として,「円建て取引は企業の為替変動リスクの回避に資することから,円建て取引推進のための企業の積極的努力を歓迎する」とともに,「円の国際化及び為替市場の安定の観点も踏まえ,アジア諸国の通貨当局との関係の一層の緊密化に努める」との円の国際化を推進する姿勢が示された。円が国際化する過程においては,円に対する需要が高まることから短期的には円高につながる可能性に留意する必要があるものの,円の国際化の進展と同時に海外への円の供給が増加すれば為替の安定につながるものと思われる。そのためには,輸入の一層の拡大や資金の流出等を通じた円の供給の拡大,また,海外の経済主体が円を運用・調達するに当たって大きな役割を果たす日本の金融市場の十分な開放性,広さ,深さ等が重要であると考えられる。
2. 経常収支黒字の展望
94年度の経常収支黒字は1,250億ドルと,貿易黒字がほぼ前年並となる一方貿易外収支の赤字幅が拡大したため,4年振りに縮小するなど,91年以降みられた増加基調に頭打ちがみられている。
こうした現状を踏まえ,経常収支黒字の縮小が過去において,何によってもたらされたかを検討することを通じて,増勢に頭打ちがみられている最近の経常収支黒字の先行きを展望する。
(経常収支黒字縮小局面の比較)
まず,過去経常収支黒字が縮小を示したのは,第一次(71~74年),第二次石油危機前後(78~80年)と円高不況以後(86~91年),それに今回(92年以降),の四つの局面であり,ともに円高が加速した時期とほぼ一致している。
そこで,最初に,経常収支が貿易,貿易外,移転収支のどの収支によって縮小がもたらされたかをみると,前3回については貿易黒字の減少が主因であることが分かる。一方,今回は,貿易収支の変動が小さくなるなかで貿易外収支赤字の拡大が全体の経常収支黒字を縮小方向に振らしている(第1-9-5図)。
次に,貿易黒字の縮小が輸出と輸入のどちらによってもたらされたかをみると,貿易黒字縮小局面当初は輸出金額の大幅な縮小が寄与しているものの(79,87,89年),縮小基調を持続させたのは輸入金額の増加であった(付図1-9-5)。
そこで,最後に輸出入金額を数量と価格に要因分解することで,輸入金額の増加をもたらしたものが何だったのかをみてみる。これによれば,第一次,第二次石油危機前後では石油を中心とする燃料価格の上昇が輸入金額を増加させて貿易黒字,経常収支黒字を縮小させた姿がみてとれる。一方,円高不況以後と今回では燃料を除く輸入数量の増加が価格の上昇とあいまって輸入金額を押し上げている(第1-9-6図)。
以上から,過去3回のいずれの局面においても,輸入の増加による貿易黒字の縮小が経常収支黒字の縮小をもたらしてきたといえる。もっとも,第一次,第二次石油危機前後では輸入増が石油危機に端を発する燃料価格の上昇という一時的な要因によって生じていたことから,そもそも持続性は期待できなかった。この点では,持続性をもちながら経常収支黒字が縮小したといえるのは,内需中心の経済成長への構造転換を図り,燃料以外の輸入数量が増加した円高不況以後だけだったといえる。
この間,経常収支と事後的には一致する貯蓄・投資バランスの変遷をみると,上記の経常収支黒字縮小局面では,企業部門の貯蓄不足額の拡大がみられており,設備投資による内需拡大の中で貯蓄・投資バランスの縮小が生じたことを示している(第1-9-7図)。
(今回の経常収支黒字縮小局面の特徴)
まず,貿易黒字の対名目GDP比と円の実質実効為替レート(2年ラグを取ったもの)の動きを重ねてみると,両者はこれまでほぼ一致した動きを示しており,為替の変動が価格,数量に影響を及ぼし2年のラグをもって貿易不均衡を調整してきたことを示している。
今回についても,90年以降上昇してきた貿易黒字の対名目GDP比率は,92年をピークに低下傾向をたどっており,今回についても為替による貿易不均衡調整メカニズムが働いている( 第1-9-8図)。
もっとも今回の経常収支黒字縮小局面では次のような特徴がみられる。
(1)輸出金額が急速な円高にもかかわらず縮小しにくいこれには93年以降3年連続して円高が進行していることから,①Jカーブ効果によるドルベースの輸出金額の増加の影響が先に出やすくなっていること,②輸出数量の価格弾性値が傾向的に小さくなっているため,輸出価格への転嫁に伴う数量の減少が小さくなっていること,③この間世界経済の拡大を眺めて企業が前回の円高局面に比べて価格転嫁をすすめていること,等が背景にある。
(2)輸出を上回る輸入金額の増加これには輸入数量の価格・所得弾性値が最近上昇してきていることが影響している。
特に,94年以降の輸入数量の増加テンポは,プラザ合意以降を推計期間とする関数推計でも説明できず,最近の輸入数量の増加基調が一段と加速していることが認められる(付図1-9-6)。
また,こうした輸入数量の増加は耐久消費財等を中心にもたらされているために,結果として国内製品との代替によって国内生産を抑制している。過去においては,国内生産の持ち直しを反映して部品等資本財輸入が増えて,必ずしも国内生産の抑制にはつながりにくかったことからすると対照的である。
以上から今後の経常収支黒字の動きを展望すると,輸出金額が従来よりも落ちないなかで,輸入金額がそれ以上に伸びるという形での経常収支黒字の調整が行われる可能性が強い。
今後の経常収支調整テンポを展望するうえでは,経常収支と事後的に一致する貯蓄・投資バランスの変動に対し,企業部門の貯蓄不足額の動向が重要な意味をもっていることを考えると,今後の設備投資の動向が注目される。
3. 経常収支調整を可能とする貿易構造の変化
以下では,今回も経常収支調整メカニズムが期待できる具体的な背景を,貿易構造の変化にみていくこととする。
(数量指数の推移)
輸出入数量指数の推移をみると,輸出がおおむね横ばい圏内で推移する一方,輸入数量が93年以降増加傾向をたどり,94年に入ると一段とその増加テンポを高めてきたことから,数量収支(輸出数量/輸入数量)は93年以降明らかに縮小してきている(第1-9-9図)。
財別の動きをみると,輸出では耐久消費財が93年以降大きく減少する一方,資本財や工業用原材料が堅調に伸びている。この結果,輸出金額の構成比をみると耐久消費財のシェアが低下する一方で資本財のシェアの上昇が顕著である(付図1-9-7)。
次に,輸入については,工業用原材料が横ばいで推移しているものの,耐久消費財が93年以降増加傾向にあるほか,資本財や非耐久消費財が94年以降増加に転じている。この結果,輸入金額でみた財別構成比は,工業用原材料のシェアが低下するなか,耐久消費財,資本財,食料品等がそのシェアを上げてきている(付図1-9-8)。
なお,94年にみられた輸入数量の増加テンポの加速は,前掲付図1-9-6でみたように従来の動きでは説明できないものであったが,これには,耐久消費財の増加基調に加えて,企業が93年以降の円高の進行を眺めて,コスト削減を図るべく資本財の輸入を積極化させてきていることも影響している(付図1-9-9)。
ここでは輸出・輸入数量の変動の背景をみるために,輸出・入関数を推計する。
分析の手順としては,まず所得要因と価格要因で回帰してみて,推計期間によってパラメータがどう変化しているかをみる。
次に,最近の貿易構造に大きな影響を及ぼしつつあるとみられる海外直接投資の影響をみるために,上記の関数に直接投資要因を追加して,その効き方や他の説明変数のパラメータへの影響をみる。
(輸出数量が横ばいで推移した背景)
まず,輸出については,推計期間が最近に近づくに連れて,所得要因(実質世界輸入),価格要因(相対価格)ともに弾性値が小さくなってくるという結果が得られた(付注1-9-10①)。
この背景としては,価格弾性値の低下には円高にも関わらず資本財輸出が増加したことが影響したとみられる。また,所得弾性値の低下は,海外需要には海外生産で対応しようとする企業行動を反映して耐久消費財が堅調な海外需要にも関わらず減少してきたことによってもたらされたと考えられる( 付注1-9-10②)。
次に,直接投資が輸出数量に与えた影響を考える。
第1-9-10図は,累積直接投資額の増加にともなって各財の輸出数量がどの様に推移していったかをみたものである。これによると,耐久消費財が93年以降顕著に減少し始めている一方,資本財については直接投資の増加と相まって増加してきている。こうした財ごとの違いからは,おそらく輸出代替効果が耐久消費財に集中的に現れる一方で,誘発輸出が資本財に顕著である可能性がうかがえる。
事実,関数に直接投資要因を追加してみると,全体では直接投資要因は符号が正で有意に効いたものの,耐久消費財で推計すると有意ではなかったものの符号が負になっており,直接投資が耐久消費財の輸出を減少させる効果を持つ可能性があることを示している( 付注1-9-10③)。
以上の分析からは,93年以降の急激な円高局面にもかかわらず輸出数量が横ばいで推移してきたのは,価格弾性値の相対的に低い資本財が,海外需要の拡大や直接投資に伴う誘発輸出もあって増加してきたことが影響してきている。
(為替転嫁率の状況)
93年以降の円高局面における輸出価格転嫁率を,前回のプラザ合意以降の円高局面と比較したのが第1-9-11図である。これからは,ドルベース,実効レートベース共に,前回よりも転嫁率が高いことがみてとれる。
これには,先にみたように輸出に占める価格弾性値の低い資本財のウエイトが高まってきていることや,海外需給がひっ迫していることが背景にある。
次に,最近の価格転嫁率の水準を相対的に比較するために,国内生産の稼働率との関係でみると,前回のプラザ合意以降の円高局面では,稼働率が低い水準では国内生産の稼働率維持を優先させるため転嫁を小幅に抑え,稼働率の高まりとともに転嫁率を引上げてきた(付図1-9-11)。
ところが今回の円高局面では,国内の稼働率水準が相当に低い段階から価格転嫁を積極的に行ってきており,これまでの輸出価格設定スタンスとは異なった動きをみせている。
なお,転嫁率を高めて輸出価格を引上げれば,輸出金額(ドルベース)が減少して貿易黒字が調整されるのではないかとの見方があるが,これが成立するのは,輸出数量の価格弾性値の絶対値が1より大きい場合に限られることに留意する必要がある。最近の輸出の価格弾性値は0.45と絶対値が1より小さくなっているため( 付注1-9-10①),現在の状況では価格転嫁率を上げても輸出金額は減少するどころか緩やかな増加をたどることになり,輸出の減少による貿易黒字の調整は期待できない可能性がある。
最後に,今後の輸出価格引上げ余地についての考え方を整理する。
これには,これまでの輸出価格が何によって引上げられてきたかを検討するのが有益である。
そこで,最近までの輸出価格上昇を高付加価値化,為替,国内物価要因に要因分解してみると,93年後半以降の引上げの大部分が為替要因であった。このことは,90年から92年にかけての輸出価格の引上げが製品の比較優位を背景とした高付加価値化でほとんど説明できたことと極めて対照的である( 第1-9-12図)。
以上からは,最近では海外の需要が強いことから輸出価格の引上げが通っている側面が強い可能性がうかがわれ,今後海外景気の増勢が弱まってきた場合には,高付加価値化が持ち直さない限りこれまでと同程度の価格引上げは難しいことも予想される。
(輸入数量が増加した背景)
次に輸入数量関数を推計すると,輸出と対称的に,推計期間が最近に近づくにつれて所得,価格弾性値ともに上昇しているという結果を得た(付注1-9-12①)。
この背景を詳しくみるため,所得要因を国内消費と国内資本形成の二つに分けて回帰すると,個人消費に対する弾性値が最近になるに連れて有意にかつ大きくなっている一方,資本形成の弾性値は80年代前半は有意であったものが,80年代後半に入ると弾性値も著しく小さくなり有意に効いていないことがみてとれる( 付注1-9-12②)。
また,資本財と耐久消費財に分けて輸入数量関数を推計してみると,耐久消費財での両説明変数の弾性値が絶対的に大きいことから,最近の輸入数量の所得,価格弾性値の高まりには個人消費に関連した耐久消費財の増加が影響を与えていると考えられる(付注1-9-12③)。
次に,直接投資が輸入数量に与えた影響をみるために,直接投資要因を関数に追加してみる。すると,80年代前半に符号が逆で有意でなかった直接投資要因が80年代後半では符号が正で有意に効き始めており,直接投資による逆輸入等の増加を通じて輸入数量の増加がもたらされている姿がみてとれる。
また,直接投資要因を加えることによる他の説明変数への影響をみると,価格要因に比べて国内所得要因の弾性値が明らかに小さくなるという結果がみられ,耐久消費財についてそれがより顕著となっている(付注1-9-12④)。
このことは,耐久消費財の輸入が水平分業の進展を背景に,国内需要(消費)にビルト・インされてきている可能性を示すものである。従って,今後円安局面になったとしても,耐久消費財を中心とした輸入は減るどころか,価格要因が1~2年程度のラグをもって効いてくることとも考え合わせれば,増加基調が続くことを示唆している。
以上にみた関係を,累積直接投資額の推移と財別輸入数量指数の動きでみたのが 第1-9-13図である。これによれば,耐久消費財等が,直接投資の増加とともに93年以降増加している。また,資本財も,企業の積極的なコスト削減を目的とした中間財輸入の積極化の動きを反映して,94年に入り横ばいから増加に転じている。
(数量指数関数でみた経常収支黒字縮小の可能性)
なお,今回推計した輸出・入関数からは,為替のみならず今後の需要増に伴っても,貿易収支の不均衡が調整されていく可能性が認められる。
第一には,輸入の所得弾性値の絶対値が輸出の所得弾性値を上回っていることから,限界的な新規需要に対しては,輸入の増加が輸出の増加を上回ることを通じて,限界的に輸出入数量収支が縮小していくことが予想される。
こうした見方は,カルマンフィルターを使って弾性値の変化をみても,93年前半まで常に輸出の所得弾性値が輸入を上回っていたのが,93年後半以降輸入の所得弾性値の急激な上昇によって逆転していることからも確かめられる(付図1-9-13)。
第二には,輸出・入の価格弾性値の絶対値の和が1を越えていることは,マーシャル=ラーナー(Marshall-Lerner)条件が満たされていることを意味しており,為替が数量ベースのみならず,金額ベース(ドルベース)でも貿易収支を調整していくメカニズムが働くことを示している(付注1-9-14)。
こうした背景があって,最近の貿易黒字の対名目GDP比率が低下に転じているのである(前掲第1-9-8図)。
(海外直接投資の推移)
我が国の貿易構造に大きな影響を与えている海外直接投資の推移を簡単にみる。まず,製造業の直接投資の推移をみると,フローでは89年度の162.8億ドルをピークに減少していたが,93年度には円高の進行もあって増加に転じている(付図1-9-15)。
もっとも,輸出入に影響を与えたのは直接投資だけではなく,現地での再投資や稼働率の引上げも大きいと思われる。実際,国内収益の低迷から直接投資が減少した91~92年にかけても,その間の海外生産比率がほぼ横ばいで推移していることを踏まえると,企業は現地工場の稼働率の引上げや現地で生じたキャッシュフローの再投資等によって生産を増やしてきたと考えられる(付図1-9-16)。
こうした動きを映じて,製品輸入比率は80年代後半以降上昇傾向をたどってきており,最近では55.2%にまで達している。このうち,通産省のアンケート調査から推計した逆輸入も製品輸入の2~3割程度を占めるようになってきている(付図1-9-17)。
4. 貿易外収支の動きを考えるに当たってのポイント
経常収支黒字の縮小シナリオを考える場合には,貿易外収支の動向も重要となってくる。特に,経常収支の前年差の変化のうち貿易外収支の与える影響が大きくなっている今次局面では,先にみたように,貿易収支面で調整が進むことに加えて,貿易外収支も一段の経常収支黒字縮小要因に作用する可能性がある。
そこで貿易外収支の変動が何によってもたらされてきたかをみると,投資収益収支と旅行収支の変動による面が大きいことが分かる。特に最近では旅行収支の赤字幅拡大と投資収益の黒字の縮小があいまって貿易外収支赤字は拡大する傾向にある(付図1-9-18)。
今後の貿易外収支の帰趨をみるに当たっては,旅行収支赤字と投資収益黒字がどうなっていくかが重要な鍵といえる。
(旅行収支の推移)
まず,旅行収支について,その変動の主因とみられる旅行収支支払いを出国者数,一人当たり旅行支払額等で要因分解してみると,94年以降の支払いが増加してきているのは,旅行支払額の抑制寄与が小さくなってきたことと,出国者数が円高もあって増加していることが背景にあることが分かる( 第1-9-14図)。
今後については,景気の緩やかな回復基調から,旅行支払額の抑制による押し下げ効果が徐々に解消していくとみられるほか,出国者数についても,旅行費用の内外価格差の存在もあって引き続き底堅い伸びが続くとみられる。この結果,旅行収支の赤字幅は,景気の回復とあいまって緩やかに拡大してゆき,経常収支黒字を減らす方向に寄与するとみられる。
(投資収益収支の推移)
ここでは,投資収益の変化が海外直接投資や対外資金還流の動きを写す鏡であるとの視点に立って,投資収益黒字の前年比増減が何によってもたらされているのかについて検討する。
投資収益は89年にかけて緩やかに前年比で増加したのち,90年に一旦前年比微減となったが,91年以降93年までは再び増加傾向をたどった後,94年には若干の減少となった。
まず87年から89年にかけての投資収支の項目別の動きをみると,証券利子・配当金の黒字が投資収益の増加に大きく影響している(第1-9-15図)。
こうした動きには当時の対外資金還流が長期資本の流出で行われており,その中心となっていたのが対外証券であったことを考えれば,対外証券投資の積極化を映じて証券利子・配当金の受取が増加したのである(第1-9-16図)。
なお,この時期は対外直接投資も長期資本の流出に大きく貢献していると思われるが,それほど前年比増加額に占める直接投資収益のウエイトは大きくない。これには,89年以降の現地の売上高経常利益率が進出後の現地の景気低迷の影響もあって総じて低くなってしまっていることが影響しているとみられる(後掲 付図2-4-5)。
一方,91年以降93年までの投資収益の増加には,為銀利子が大きく寄与していることが分かる。こうした91年以降の為銀利子の増加は,長期資本収支の流出超幅が縮小したため,再び拡大した経常収支黒字の還流が短期資本取引とりわけ金融勘定を通して行われるようになってきたことを反映している。金融勘定での資本流出を担ったのは為銀であり,結果として為銀利子が増加しているのである。
この間の長期資本収支の流出超幅が縮小したのは,バブルの崩壊以降本邦機関投資家のリスクテイク能力の低下や景気低迷をうけて対外債券投資や海外直接投資が後退したからである。
なお,94年に投資収益は4年ぶりに前年水準を若干下回ったが,これは為銀利子が赤字に転化したこと及び証券利子・配当金の黒字が縮小したことによる。為銀利子が赤字に転化したのは,ユーロ円債の購入積極化や直接投資の増加等を受けて長期資本流出超幅の拡大したため,短期資本の流出が減少したためである。一方,長期資本流出超幅の拡大にもかかわらず証券利子・配当金も縮小していることには,対外証券投資残高の構成において,ドル債に比べ相対的に金利水準の低いユーロ円債の割合が高まってきていることなどが影響しているとみられる。
5. 対米貿易黒字の考え方
最近アメリカの対日貿易赤字の拡大がクローズアップされることが多い。あたかも対日貿易収支だけが特別な動きをしているようなとらえ方がなされるが,こうした見方が適切でないことを明らかにする。
(米国の対日貿易赤字の推移)
93年以降の米国の対日貿易収支の推移をみると,対日輸入の増加を主因に対日貿易赤字はやや拡大してきている(第1-9-17図①)。
もっとも,アメリカの対世界貿易赤字は92年以降,対日赤字を上回る割合で拡大しており,最近の対日赤字の増加には,アメリカの景気拡大に伴う輸入増のなかで引起こされている面があることがうかがえる( 第1-9-17図②)。
さらに,対日輸入のアメリカGDP比率の局面比較をしても,アメリカ経済との対比でみた増加テンポは,今回は前回(82年)を大きく下回り前々回並み(80年)となっており,今回のアメリカの景気回復に伴った我が国からの輸入が過去に比べて異常に高いということもいえない( 付図1-9-19)。
(財別の動向)
次に,こうした対米輸出がどのような製品によって増加してきているのかを,金額ベースの対米輸出金額の構成比でみると,自動車を含む耐久消費財が現地生産に伴う輸出代替を映じてシェアを低下させる一方,自動車部品,半導体等を加えた資本財のシェアが高まってきている(第1-9-18図①)。
この結果,対米貿易黒字のなかでも,自動車(完成品)の収支が横這うなかで,資本財に関する黒字額のシェアが増加してきている(第1-9-18図②)。
こうした変化は対米輸出数量指数の動きでも確かめられる。すなわち,自動車を含む耐久消費財の輸出数量は,91年後半以降,現地生産の増加を受けて減少傾向をたどってきている一方,部品を含む資本財については92年後半以降一段と伸びが高まっている(付図1-9-20)。
(資本財輸出の背景)
こうした対米輸出に資本財の増加が与えた影響をみるために,対米輸出数量関数を推計してみる(付注1-9-21)。
これからは,最近に近い推計ほど,価格要因の弾性値が小さくなる一方,アメリカ側の需要要因の弾性値が高まってくるという結果が得られた。
こうした背景としては,我が国の資本財の比較優位を反映して,自動車部品も含めてアメリカの生産工程にビルトインされている製品が多く,価格の変動に関係なく輸入され続けてきた可能性が考えられる。
実際,こうした製品の比較優位は輸出価格転嫁率の高さにも現れており,94年以降の対米輸出の価格転嫁率は対世界の輸出転嫁率を常に上回っている。
なお,上記関数推計で,アメリカ側の需要要因を個人消費と設備投資に分けて回帰してみると,最近になるほど個人消費の弾性値が大きくなり,逆に設備投資は有意でなくなるとの結果が得られた。前者については,本邦自動車メーカーの現地生産の拡大が,現地の消費の盛り上がりに平仄を合わせるかたちでコンスタントに行われており,これが我が国からの自動車部品等資本財の輸出増加をもたらしていることも影響している。また後者については,アメリカでの情報通信関連投資の一部が,アジア等海外現地工場からのパソコン等の逆輸入の増加によって代替されているため,米国内の設備投資と対米輸出の関連が希薄になっている可能性が考えられる(付図1-9-22)。
(対米貿易黒字に対する考え方)
以上みたように,最近の対米輸出増の背景には,円高の影響を受けにくい資本財の輸出増があることから,アメリカの景気拡大が続けば,短期的には輸出金額が拡大する可能性もある。
しかし,数量ベースでは,輸出価格への転嫁が他地域に比べ進んでいることや,耐久消費財の現地生産の拡大から輸出数量が横ばいから減少に向かう一方,輸入数量が増加する形で94年以降明らかに調整が進んでいる(第1-9-19図)。このため,中長期的には,対世界同様,対アメリカについても輸入金額の拡大が輸出金額を上回る形で金額ベースの貿易黒字が調整されていく可能性が高いことをを示唆するものといえる。
対米貿易収支だけに何か特殊なメカニズムが働いているわけではなく,先にみた全体の輸出・入構造の変化のなかで十分にとらえられる筋合いのものである。