第4節 円レートの上昇と日本経済
93年2月以降,円レートが急上昇し,6月15日には104.80円という戦後最高値(瞬間値)を記録した。本節では,こうした円レート変動の背景,その日本経済に及ぼす影響について考えてみる。
1 93年に急上昇した円レート
(93年に入ってからの円レートの上昇)
93年に入って円レートは上昇している。円の対ドルレートの推移を月中平均値でみると,1月の125.01円から,6月には16.5%円高の107.34円となった。
この93年に入ってからの円高局面を過去の場合と比較したのが,第3-4-1図である。これによっても分かるように,今回の円高は,上昇率としてはそれほど大きなものとはいえない。例えば,85年2月からプラザ合意を挟んで88年1月初まで続いた円高局面では,上昇率は104.0%に達していた。日本経済はこれ以外にも,何回も今回の円高を上回るマグニチュードの円高局面を経験してきている。
ただ,円高のスピードという観点から,1か月平均の上昇率をみると,今回の場合は過去の円高と比べても,比較的急ピッチである。また,今回の場合,景気が依然として低迷しているなかで円の対ドルレートが戦後最高値を更新していったことなども心理面に大きく影響しているものと考えられる。
この円レートの変化を,他の国々の通貨との間の為替レートも加味した,実効レートでみると,基本的には対ドルレートと同じ動きをしている。このことは,円がドル以外の通貨に対しても同様に円高となっていることを示している(同じ円高でも,ドルが他の全ての通貨に対して下落した結果として円の対ドルレートが上昇したのであれば,実効レートは円ドルレートほどは上昇しない)。
(購買力平価と円レート)
では,円レートはどのような要因によって変動するのであろうか。次にこの点を考えてみよう。
まず,長期的な要因として考えられるのが,購買力平価説である。
「一物一価」は,経済の最も基本的な原則の一つである。この原則が国際的な場でも成立すると考えると,国際的に取引される財(貿易財)の価格が同じになるように為替レートが決まることとなる。これが購買力平価の考え方である。これはまた,為替レートの変化は,内外の物価上昇率格差に応じて変化するということでもある。ただし,現実には,競争が不完全であったり,取引関係に継続性があったりすることから,このような財の間の裁定は,長期において成立するものと考えられる。
そこで,貿易財価格に相当する価格をとって日本の購買力平価を長期的に描いてみることにする。この場合,輸出物価を用いるのが自然のように思えるが,日本のように為替レートの転嫁が完全ではなく,為替レートの約5割が企業収益で吸収されると推計されるような場合には,輸出物価は必ずしも企業の本来の競争力を反映しない。むしろ,国内卸売物価による購買力平価の方が現実的であろう。第3-4-2図は,円の対ドルレート,輸出物価に基づく購買力平価,国内卸売物価に基づく購買力平価の三つを描いたものである(ただし,便宜上,73年において三者が一致していたと仮定しているので水準自体には意味がないことに注意)。これによれば,現実の円レートは長期的にはおおむね国内卸売物価による購買力平価の動きと並行していることが分かる。国内卸売物価による購買力平価の動きは,日本の物価上昇率が国際的にみても安定していること,日本の生産性上昇率が国際的にみても高いことなどによるものと考えられる。
(経常収支,金利差の動きと円レート)
次に,もう少し短期的な側面から円レートに影響する要因について考えてみよう。ここでは様々な要因のなかから経常収支と金利差を取り上げる。
経常収支と円レートの動きとを対比させてみると,両者にはかなり高い相関がみられる。しかし,なぜ両者が相関するかは,必ずしも自明ではない。
為替レートは外国通貨建て金融資産に対する需給関係によって決まる。70年代のように資本移動に制限がある場合には,フローの経常収支がほぼ対外資産の増減額に相当するから,フローの経常収支が為替レートに影響する(黒字増→円高)ことは自然である。
しかし,現在のように,資本移動が自由化され,対外資産全体が常に裁定の対象となる場合には,フローの経常収支によって円レートの変動を説明することはできなくなる。近年の外国為替市場での取引高は,フローの貿易の流れの60倍程度(92年4月時点の比較による)となっていることをみてもこのことが分かる。こうした状況の下では,対外資産額全体を考慮したストック面からのアプローチが適当となる。
そこで,フローの経常収支黒字の累積がストックの対外資産であるという関係に着目して,経常収支と為替レートへの関係を説明すると次のようになる。まず,経常収支の黒字が持続すると,その分対外純資産が増加する。それが外貨建ての場合には為替リスクを伴うので,その為替リスクを補償するに足るプレミアムがなければ国内の投資家はこれを保有しようとしない。したがって,現在の為替レートはリスクプレミアムが高まる分増価し,将来の減価(外貨の増価)が期待されなければならない。このようなルートでフローの経常収支の黒字は,円高圧力として作用するものと考えられる。
次に,内外実質金利差は,証券投資等の資本移動を通じて円レートに影響を及ぼす。金利差が大きくなると,金利差と将来の予想為替レート変化率が見合う水準になるまで資本移動を通して金融資産の間の裁定が行われる。例えば,アメリカの金利が上昇した場合には,将来の円の増価率がそれを償う水準になるまで,現在の円は減価することになる。81~85年には,経常収支の黒字が拡大するなかで,円安が進行したが,これは,当時アメリカの金利上昇によって内外実質金利差が拡大し,これが日本からの証券投資を活発化させたためである。
こうした要因が実際にどの程度円レートの変動と関係しているかをみるために,円の対ドルレートを累積経常収支と内外金利差によって説明する関数を計測した結果が第3-4-3表である。ここでは,73年から78年までと,79年から92年までの二つの期間について推計している。これによると,累積経常収支の影響力は70年代に比べ80年代以降において低下しているのに対して,逆に,内外金利差の影響力は上昇していることが分かる。
このように80年代以降,累積経常収支の影響力が弱まった背景としては,次のような点が考えられる。
第一は,80年の外国為替管理法の改正以降,金融の国際化が進展し,外為市場の規模が拡大したことである。これによって,これまでに比べてより大規模の取引が,より小さい為替レートの変動によって吸収されるようになった。
第二は,円建て資産の増加である。輸出の円建て比率は85年の39.3%から87年の33.4%まで低下した後,92年(9月)には40.1%まで上昇している。この間,輸入の円建て比率も,85年の7.3%から92年の17%まで一貫して上昇しているが,比率そのものは輸出の方が高いこともあって,円建ての収支差は増加傾向にある。また円建ての対外資産比率も上昇しているが,これらは日本の累積経常収支に伴うリスクプレミアムの必要性を小さくし,それに伴う円高圧力も弱めているものと考えられる。
このほか,為替リスク・ヘッジ手段の多様化が進んだことも影響しているものと考えられる。為替リスク・ヘッジに関連しては,先物為替取引における実需原則の撤廃(84年4月),インパクトローンの自由化,オプション取引,スワップ取引,金融先物取引等の進展がみられる。これによって,多様で機動的なリスクヘッジが可能となっており,それが外貨建て資産のリスクを減少させるように作用しているものと考えられる。
2 円レート上昇の経済的影響
変動レート制の下では,円レートの変動要因として,以上みてきたような経済パフォーマンスがある。しかし,他方では,その円レートの変動が経済パフォーマンスを動かすということも事実である。93年2月以降の円高についても,それがようやく始まりかけた景気回復の動きに水を差すのではないか,という懸念も生じている。
しかし,ここで重要なことは,円高は経済的にデメリットだけがあるのではなく,メリットもあるということである。したがって必要なことは,円高が経済の各面に及ぼす影響について注視し,円高のデメリットを出来るだけ小さくし,メリットを出来るだけ大きくすることである。
こうした点をみるため,ここでは,円高のデメリットの典型として,企業収益への影響を,メリットの典型として物価への影響を考える。
(円高の企業収益圧迫効果)
円レートの上昇による企業収益に対する一次的な影響としては,輸出代金の受取額や輸入代金の支払額を減少させることが考えられる。
この影響をみるために,90年の産業連関表を基に,10%の円高が企業収益に与える影響を計測してみたのが第3-4-4表①である。
この計測に際しては,次のような前提を置いている。まず輸出については,円高に対応して企業が外貨建ての輸出価格を引き上げる率(パス・スルー率)は約5割としている。しばしば,外貨建てか円建てかによって,価格転嫁率が異なる(円建てであれば転嫁率は100%)という指摘があるが,これは必ずしも正しくない。円建て契約の下であっても,円高が急速に進行すれば,相手国からの値引き要求が強まり,円建て価格が低下する(ドル建て価格が100%は上昇しない)ことが多いからである。ここでは,こうした影響をも織り込んだマクロベースの平均的な転嫁率を想定した。一方,輸入については,現実に輸入価格(円建)が低下する率(低下実現率)を8割強としている。これら輸出入の転嫁率は,84年以降の為替レートと輸出入価格の関係から得られる平均的な数値である。
試算結果によると,企業収益への影響は業種によりかなり異なる。これは,輸出依存度(輸出金額/売上高)が高いほど円高はマイナス要因として作用し,輸入コストの比率が高いほどプラス要因として作用するからである。具体的には,輸送機械や精密機械等の加工型産業では輸出代金の減少が大きく,営業余剰を1~2割程度減少させる。しかし,化学,鉄鋼等の素材型業種では輸入コストが低下することによりメリットが生じ,円高は収益にプラスの効果をもつ。製造業全体としては営業余剰を0.1%低下させ,非製造業全体では輸入コスト低下による効果が大きく,営業余剰比0.6%の円高差益が発生するという結論が得られる。
なお,この試算結果については,①価格変化を通じた一次的な効果のみを計測したものであり,価格変化が輸出入数量に及ぼす影響,ひいては,それによる経済全体への波及効果等を通じた景気への影響については考慮していないこと,②パス・スルー率や低下実現率の大きさは,市場の需給や企業の経営戦略等に応じて変化しうるものであることに十分注意する必要がある。
次に,こうした価格変化を通じたメリット,デメリットの現れ方が長期的に変化しているかどうかを調べてみる。これをみたのが, 第3-4-4表②である。ここでは,仮に,輸出入依存度が85年当時のものであった場合に,同じく10%の円高が営業余剰に与える影響を試算している。製造業の各業種をみると,円高の収益圧迫効果は,ほとんどの業種において85年当時よりも90年のほうが小さい。これは,企業の輸出依存度が85年以降低下しているためである(製造業の輸出依存度は85年の13.3%から90年には11.4%に低下。または,第3-4-5図)。
(円高の物価への影響)
円レートの上昇は,日本が輸入する財・サービスの価格を低下させ,国民経済的なメリットをもたらす。いわゆる円高差益である。この差益がどのような形態を取って経済に現れてくるかは,それが最終財価格に反映されるか(いわゆる還元されるか)否かによって異なる。輸入価格の低下が最終財価格の低下として反映されなければ,差益は企業収益の増加となるし,反映されればいずれは消費者物価が低下することとなり,家計の実質所得が上昇するという形で差益が実現する。いずれにせよマクロ経済にもこれがプラスに作用することには変わりはないが,円高のメリットが広く国民全体に実感され,実質所得の上昇となって実現されるためには,差益の物価への還元が必要である。
しばしば,消費者物価の低下は消費者にとっては見えざるボーナスだとも表現される。物価の低下要因が国内にあるときには,物価の低下はその反面で所得の減少となっている場合もあるので,物価の低下が純粋の意味でのボーナスとはいえない場合があるが,円高による物価の低下は,国内でそれに見合った所得の減少が発生しているわけではないから(所得の減少は海外で発生している),これについてはまさしくボーナスのようなものだといえる。
円高の物価引下げ効果をみるために,91年の産業連関表を使って,仮に10%の円高に伴う輸入価格の低下が,すべて末端の消費者価格の引下げとして実現した場合のインパクトを計算すると,消費者物価を1.03%引き下げる効果があると試算される。
このインパクトの大きさが,過去に比べてどのように変化しているかをみるために,86年の産業連関表を使って同じ仮定の下に計算してみると,消費者物価への影響は,0.87%となる。つまり,同じ程度の円高に対して,かつてよりも物価へのインパクトが大きくなっているのである。これは,80年代後半以降の製品輸入の増加などにより,特に,精密機械,繊維等の部門で,国内総需要に占める輸入の割合が大きく上昇しているためである(第3-4-6図)。
3 円レートの変動と経常収支
最後に,円レートの変動が経常収支黒字にどのような影響を及ぼすかをみる。
(為替レートの変動の国際収支への影響)
為替レートの変化が国際収支に及ぼす影響は,輸出入価格に与える効果と,数量に与える効果が合成されたものとして現れる。
簡単に言うと,円レートが上昇すると,外貨建ての輸出価格は上昇し(ただし,日本の場合輸出価格へのパススルー率は5割程度なので,円レート上昇分の約半分程度,外貨建て輸出価格が上昇する),輸出数量は減少する。輸入については,外貨建ての価格にはほとんど影響はないが,円建て価格が大きく低下し,輸入数量が増加する。
ここで,輸出入数量面に影響が現れるまでには,タイムラグがあると仮定すると,短期的には輸出価格上昇の影響が強く現れるため,経常収支は黒字方向に動き,中・長期的には数量効果が強まってきて,黒字減少方向に動くという,いわゆるJカーブ(正確には円高の場合は逆Jカーブ)効果が現れる。
このJカーブを実際に描いてみたものが第3-4-7図の①である。これによれば,1年目までは,黒字拡大効果が現れる(つまり円高は経常収支黒字を増加させる)が,2年目から黒字削減効果のほうが大きくなるという結果が得られる。
しかし,実際に経常収支がどのように変化するかは,初期時点の輸出入金額の差がどの程度あるかによって異なってくる。初期時点で,輸出金額が輸入金額を大きく上回っていると,輸出価格の上昇による輸出金額の増加額が,輸入金額の増加に比べてかなり大きなものになってしまい,両者の差額としての黒字は減りにくくなるからである。
実際,初期値として92年の輸出入実績を与えて試算してみると,(前掲第3-4-7図の②)のように,貿易黒字は4年目になって当初の黒字幅をわずかに下回るという結果が得られる。ただし,この場合にも,1年目については黒字拡大効果が現れるが,2年目以降は輸出入の数量変化によって黒字拡大効果が小さくなるため,黒字幅は前年水準を下回っていくことになる。
以上のような点からみて,円レートの変化が,現時点での日本の経常収支黒字を縮小させるという効果は限られたものであると言わざるをえない。
(地域別にみたJカーブ)
さらに,このJカーブの考え方を地域別の貿易収支に当てはめてみたのが,第3-4-8図である。
最初に,初期時点で輸出入が均衡していたと仮定する。この時のJカーブが図の①に描かれている。これによると,アメリカについては,輸入の増加がまず現れるため第一四半期に黒字縮小効果が見られるが,すぐに輸出価格の上昇による輸出金額拡大効果がこれを上回る状態となる。その後,黒字拡大要因は次第に小さくはなるものの,消滅することがないまま終わってしまう。ECの場合にも,輸入の価格弾性値が低いため,輸出価格上昇による輸出拡大効果が最初から大きく顕在化し,黒字削減効果が現れないままに終わっている。同様なことは,ASEANについても言える。特徴的なのはNIEsで,輸入の価格弾性値が大きいため,一年目から大幅な黒字減少効果が現れている。
図の②には,輸出入の初期値として92年の実績値を与えた場合のJカーブが描かれている。この場合には,日本全体についてみたのと同様に,どの地域においても黒字拡大効果が現れるだけに終わってしまうことになる。
地域別にみても,円高による経常収支黒字の削減効果は限られたものであること,またJカーブによる黒字拡大効果は,特にアメリカ,ECについて大きく現れやすいことが分かる。