第5節 引締まり基調の労働力需給
91年度の雇用情勢をみると,有効求人倍率が低下したものの,労働力需給は依然引締まり基調で推移した。有効求人倍率は91年度1.34倍となり,88年度から四年連続で1を上回ったものの,91年3月の1.47倍をピークに低下し,92年5月には1.14倍となった。また,完全失業率は,91年度は前年度に続き2.1%と安定成長期以降では低い水準となった。
1. 堅調な雇用者の増加
91年度の雇用者数は,企業の根強い人手不足感を背景に堅調な増加を続け,3.2%増となった。常用雇用者は製造業,非製造業とも高い伸びをみせたが,景気の減速もあり,臨時,日雇労働者の伸びは低下した。就業者数の伸びが雇用者数の伸びを下回る1.8%の増加となったのは,従業上の地位で自営業主・家族従事者の割合が減少し,雇用者化が一層進展しているためである。15歳以上人口は1.1%増となり,中期的に伸びが鈍化しているが,男女とも労働力率が高まったことから,労働力人口は前年度に引き続き1.8%増加した。
(労働力需給の動き)
第一次石油危機以降の安定成長期においては,労働力需給は緩和基調であった。この背景には,重厚長大から軽薄短小へという産業構造転換のなかで減量経営が徹底したため,縮小する産業からの離職者,転職者があったこと,新規採用抑制の動きがみられたことなどがある。輸出主導による前回の景気拡大が短い拡大期間の後,減速に転じたのに対し,今回は幅広い需要項目に支えられた内需主導による景気拡大であり,それが長期に及んだため,生産拡大が雇用の堅調な増加をもたらした。
景気拡大期における雇用弾性値(実質GNP1%の増加に対する雇用者数の増加率の比)をみると,高度成長期から,安定成長期に入って80年代前半までは0.18程度で安定していたが,今回の景気循環では91年前半までで0.35に上昇しており,雇用者数の伸びが相対的に高い。この理由として,製造業では,「円高不況」期にとられた減量経営の際にかなりの雇用調整を実施した反動や,中長期的な労働力人口の伸びの鈍化・減少を踏まえ,企業の雇用態度が極めて積極化していたことがある。長期的な人口動態をみると,生産年齢人口は90年代後半から減少に転じ,2000年をピークに労働力人口は減少すると見込まれている(経済審議会2010年委員会報告)。また,雇用弾性値を産業別にみると,卸売・小売業,飲食店,サービス業の雇用弾性値は,製造業の弾性値を大きく上回っており,内需主導の景気拡大がこれら産業の雇用需要を生み出した(第1-5-1図)。
労働力の動きについてみると,今回の景気拡大局面では今まで同様に女子労働力率の高まりがみられた。しかし,景気が緩やかに減速してからの女性雇用の状況には,減速を反映して,それまでの高い伸びに比べ雇用者数の伸びに低下がみられる。そして,就業していた者のなかには失業する者がやや増え出している。しかしながら,同時に,女子労働力の流れとして失業者のなかには非労働力化する者も増加している。このような動きは,我が国の女子労働にとって一つの特徴であり,かつての景気循環局面においてもみられた動きである。このような動きが現在みられていることから,景気の減速がもたらす女子失業率の高まりは,この特徴がない場合に比べて減殺されることになる。
(労働時間の調整)
これまで通常みられた景気調整局面における失業率の上昇は,92年前半までの時点では発生していない。この背景には,有効求人倍率が1倍を上回り,企業の人手不足感も全体としては「不足」超にあることが考えられる。また,労働力供給面からは,男女とも就業から失業への動きが増えているものの,一方で失業者が非労働力化する現象がみられており,今回失業率の上昇が生じていないことの一つの説明である。また,労働力需要面からもその要因を指摘することができる。製造業労働投入量(一人当たり労働時間に雇用者数を乗じたもの)では,景気動向を反映し月々の動きはかなり変動しているものの,88年からの増加は小幅にとどまっている。しかし,内訳では,雇用者数が堅調に伸びている反面,時短の流れもあって労働時間数は減少傾向を続けるという対照的な姿となっている。このように,現在までのところ,生産の減少に対する労働投入量の調整は,主として労働時間の調整で対応している段階であり,労働力需要面からもこれまでのところ失業率の上昇とはなっていない。
今回の景気拡大期ではすべての業種において,雇用の生産に対する弾性値が労働投入量の生産に対する弾性値を上回る結果となっている(前掲第1-5-1図)。これは,時短の動きや短時間雇用者の増加を反映して,時間を加味した労働力に対する需要以上に雇用需要が増加したことを示している。なお,景気が減速し調整過程に入ってからは,所定外労働時間が急速に減少し,92年第1四半期には月平均13時間となっている。所定外労働時間の減少は時短の動きをも反映したものとなっているが,法定労働時間の週46時間から44時間への短縮(91年4月実施)や,週休二日制の普及を中心とする時短の流れから所定内労働時間も着実に低下したことから,91年度年間総労働時間(従業員三十人以上の事業所における一人当たり)は,前年度に比べて36時間減り2008時間となった。また,92年5月から国家公務員に完全週休二日制が導入され,地方公務員についても,各地方公共団体において順次導入されている。
(低下した有効求人倍率)
91年度において,労働力需給は引締まり基調で推移したものの,有効求人倍率は低下した。有効求人数は91年半ばより減少に転じ,年度としては86年度以来五年振りに前年度比マイナスとなった。有効求職者数は91年央以降増加をみせ始め,やはり五年振りに前年度を上回った。業種別にみると,月を追って製造業の新規求人数の減少が顕著となっている。とりわけ,電気機械,輸送機械,精密機械では,92年に入って前年比3割を超す減少がみられた。非製造業では卸売・小売業,飲食店,不動産業で求人数の減少が目立っている。このように,労働力需要面では,このところ景気の調整を映した弱い動きがみられている。製造業における事業主都合解雇者は91年後半より増加がみられる。また,来春の新規採用を今春に比べ一部には大幅に削減する動きもみられる。他方,雇用人員判断(日本銀行,全国企業短期経済観測調査)をみると,92年5月時点で,雇用人員が不足していると答える企業が過剰と答える企業を19%ポイント上回っており,根強い人手不足感が存在しているが,このところ「不足」超幅は縮小している。このように,景気が減少するなかで企業は現在までのところ主として労働時間の調整で対応しているが,今後の雇用動向については引き続き注視していく必要がある。
2. 緩やかに増加した賃金
今回の景気拡大局面では,人手不足下で賃金が全体として安定していたことが特徴であった。その背景には,物価が安定していること,パートタイム労働者等の相対的に賃金が低い労働力の増加が平均賃金の伸びを抑制したことが挙げられる。また,安定成長期に入ってからは,労働力需給が賃金上昇に与える影響が小さくなっていることが関係している。
(失業率と賃金の動き)
第一次石油危機以降完全失業率は構造的に上昇し,景気循環的要因も加わり,87年第2四半期には3.0%のピークに達した。その後の景気拡大局面において完全失業率は89年末に2.1%程度まで低下し,それ以降は一貫して安定した動きをみせ,景気が調整過程にある92年前半においても2.0~2.1%で推移している。そして,この二年半の間にインフレ圧力がこうじたことはあったものの,予防的な金融引締めもあり,物価上昇は緩やかなものにとどまった(第1-5-2図)。
フィリップス曲線の考え方に基づくと,今回の景気拡大期において労働力需給が引き締まるにしたがい,賃金上昇圧力の高まりを通じて,完全失業率の低下は消費者物価上昇率への影響を高める要因になったと考えられるものの,資本装備率の高まりなどによる労働生産性の着実な向上や円高・原油価格下落等による交易条件の改善が,物価上昇率を引き下げる要因として働いたことなどが,物価安定の背景にあるとみられる。
我が国の賃金決定は諸外国に比べて伸縮的に行われてきたのが,大きな特徴であった。すなわち,生産水準の変動に対して雇用調整の程度が小さい一方で,高度成長期においては労働力需給関係は賃金交渉において大きな役割を果たしてきた。しかし,安定成長期に入ってからは,労働力需給の賃金上昇に与える影響が低下し,また物価上昇の影響も低下する一方,生産性の影響がやや高まっている。この背景としては,二度の石油危機を始めとする経済環境の激しい変化を経験するなかで,長期的な視点にたった賃金決定がなされるようになっていることが考えられる。
(産業別単位労働コストの動向)
労働力市場の動向を産業別にみると,今回の景気拡大局面では,いくつかの産業で単位労働コスト(生産物一単位当たりに要する賃金費用)が上昇した。労働力需給が需要超過に転じてからの動向をみると,例えば建設業では,雇用者数は高い伸びをみせ,賃金が大幅に増加した(第1-5-3表)。労働生産性の向上は小さなものにとどまったため,単位労働コストは大きく増加した。また,前述したように,サービス業の雇用拡大は顕著であった。しかしながら,単位労働コストの高まりは抑えられている。今回の景気拡大期と前回の拡大期におけるサービス業を比べると,この理由として今回は労働生産性の改善が前回よりみられたこと,そして賃金の上昇が他の産業と比べて相対的に低いものであったことが挙げられる。
91年から92年初めにおいては,賃金は緩やかに増加しつつ,雇用者数の伸びは堅調に推移した。他方,生産活動は停滞しているため,経済全体の単位労働コストは増加している。
3. 総じて安定している物価
(需給緩和の影響がみられる国内卸売物価)
91年度の国内卸売物価指数は前年度比0.6%の上昇となり,前年度上昇率の1.5%を下回った。今回の景気拡大局面では,力強い内需の拡大に伴い稼働率の上昇や労働力需給の引締まりがみられたが,国内物価は総じて安定した動きを示した。88年半ばから90年央までは稼働率の高まりにより,需給要因は国内卸売物価の引上げ要因として働いていたが,労働生産性の高い伸びに支えられ,単位労働コストが大きく低下したため,物価は安定的な動きを示した(第1-5-4図)。90年後半から湾岸危機に伴う原油価格上昇の影響もあり,国内卸売物価上昇率は高まりをみせたが,賃金上昇が穏やかであったこと,湾岸危機がもたらした原油価格の一時的上昇が国内物価を悪化させることなく収束したこと,さらに,円上昇による価格効果が働いたこと等により,景気が調整過程に入った91年後半からは更に安定化した。この間,輸入数量の増加は一貫して物価の安定に寄与している。92年第1四半期に入って,繊維製品,鉄鋼などの需給緩和が物価押し下げに寄与している。
また,企業向けサービス価格指数は,89年度に前年度比5.4%の上昇とピークに達した後,91年度は3.1%増に低下した。92年第1四半期には前年同期比で2.3%の上昇と伸びは緩やかになっている。しかしながら,不動産賃貸料,建物サービス(衛生管理,警備)等では,これまでの地価高騰要因,人手不足要因等の理由から高い上昇が続いている。
(基調として安定した動きの消費者物価)
91年度の消費者物価指数(総合)は前年度比2.8%の上昇となり,前年度上昇率の3.3%よりはやや低い伸びとなった。国内卸売物価の前年同月比上昇率は,前年の湾岸危機の影響の剥落や景気の調整局面入りに伴う需給緩和を背景に,91年後半から急速に低下しているが,消費者物価の動きはそれに比べると緩やかなものであった。この理由としては,国内卸売物価指数においてはウエイトの低い農水畜産物と,それには含まれないサービスの物価上昇が消費者物価指数に影響したことが挙げられる(第1-5-5図)。農水畜産物は,天候要因を主因として91年中に前年同期比で0.7%前後の寄与度となった。92年に入ってからはマイナスの寄与に転じた。サービスについては,単位労働コストの高い増加は押さえられているものの,1%強の高い寄与度となっている。
湾岸危機による原油価格上昇の影響は,90年末以降の大企業性製品の価格上昇に表れているが,91年末までに一巡した。他方,中小企業性製品の価格は92年に入っても上昇を続けており,1%弱の寄与度を示している。これは,人手不足に起因するコスト上昇圧力が,労働集約度の高い中小企業性製品に影響を与えている面もあると考えられる。
天候要因や原油価格の変動に大きく影響される品目を除くことによって,消費者物価の基調をみるため,生鮮食品及び石油3品(ガソリン,灯油及びプロパンガス)を除いた総合指数をみると,91年中は消費者物価指数の上昇率を下回り,2%台後半で安定的に推移した。しかし,92年に入ってもサービス価格や中小企業性製品の価格上昇が持続していることから,消費者物価の基調は緩やかな低下となっている。
今回の地価高騰は全般的な物価上昇につながることなく終息し,地価下落が始まった。この影響を考えるため,地価と物価の関係を振り返っておく。地価高騰は家賃,地代の上昇を通じて物価上昇をもたらす危険があった。しかしながら,90年までの地価高騰が物価に与えた影響は極めて限定的であった。企業向け不動産賃貸料,オフィス賃料,家賃,駐車場料金,車庫借料等は上昇したものの,地価上昇と比べてその程度は緩やかなものにとどまっている。この要因の一つとして,地代や家賃の引上げは,新規契約については速やかに行われるものの,既存分については次の契約更改時まで遅れる結果,全体として上昇が緩やかになったことが考えられる。さらに,土地関連費用を除いた建築コストが落ち着いていたこと,オフィス等の供給が旺盛であったことに加え,経済活動の伸びの鈍化に伴う需要の低下も土地関連物価の安定に寄与している。したがって,90年後半以降の地価下落が消費者物価に与える影響については,土地関連物価を弱含みに推移させる要因であるが,大幅な低下は期待しにくいと考えられる。