第7節 景気の持続可能性
本章においては,今回景気上昇局面を長期化させてきた要因を分析し,その多くが現在も維持されていることをみてきた。また,景気の成熟化はみられるものの,日本経済の諸バランスも全般に望ましい状況にあることを確認した。
それでは,近い将来,景気が反転して景気下降局面に入るおそれはないのであろうか。言葉を換えていえば,景気の現局面はどこにあるのであろうか。
これまでに景気の反転が引き起こされた例をみると,①設備投資循環,在庫循環などの自律的な循環要因によって反転した場合,②需給バランスを始め経済の各種バランスが崩れた結果,物価上昇圧力が高まるなどして財政金融政策が引き締められ,その政策効果によって反転した場合,③外的ショックによって反転した場合がある。これらの可能性について,これまでの分析を踏まえて検討してみよう。
(自律的な反転の可能性)
まず,自律的な循環要因によって景気が反転する可能性についてみてみよう(国内民間需要の各項目の動きの詳細については第2節を参照)。我が国では,高度成長期では景気過熱から引き締めに至ることが多く,安定成長期では外的ショックで反転することが多かったので,自律反転した例は少ない。とはいえ,今回景気上昇局面にいくつかの点で似ているといわれる「いざなぎ景気」の場合には,自律的な反転の要素が大きかったものと考えられる。旺盛な設備投資が行われた結果,設備ストックの伸びが需要の伸びを上回り,生産と設備ストックのバランスが失われ,設備投資が急激に鈍化したのである。
そこで,今回景気上昇局面における設備投資の動向をみると,能力増強投資の盛り上がりもみられるが,設備投資の中心は技術革新の進展にリードされた研究開発投資などの独立投資と急速に陳腐化した設備の更新であり,最近はこれに人手不足に対応するための省力化投資が加わっている。この点では規模の利益を追求するための生産能力増強投資が中心であった「いざなぎ景気」の場合とは大きく異なっている。
また,設備ストックの面でも,このところ生産能力増強投資が盛り上がりをみせているとはいえ,設備はむしろ不足気味である。また,元年度の経済白書でみたようにストック調整メカニズム自体の働きが弱まっているので,設備投資循環が安定化していることも忘れてはならない。したがって,今後,長期金利上昇の影響が現れるようになったり,設備ストックが積み上がるにっれて設備投資の増勢が徐々に弱まらたりすることはあっても,自律反転を引き起こす程に急激に鈍化するとは考えられない。
在庫循環についても,税制改革に伴う需要の不規則な変動が生産と在庫の動きを撹乱したが,その影響を除けば在庫率の水準はまだ低く,需要の増加に応じた緩やかな積み増し局面にあるとみられ,本格的な在庫調整局面に入る可能性は極く小さい。在庫変動は,それ自体が景気変動を引き起こす原因であるばかりでなく,緩やかに起こった他の需要項目の変動を短い期間に集中させて増幅するという点にも注意が必要である。しかし,この点でも在庫管理技術の進歩,そして,柔軟に調整可能な生産体制の確立が影響を小さくしている。加えてサービス経済化も進展しているので,在庫変動が景気に与える影響は小さくなっているものと考えられる。
(インフレ圧力が高まる可能性)
次に,財政金融政策の引き締めの可能性についてみてみよう。高度成長期においては,「神武景気」末期に典型的にみられたように,国内需給の逼迫からインフレ圧力が高まり,金融引き締めが行われ景気が反転に到ったという例がある。このほか,高度成長期における引き締め政策発動による反転の例としては,国内需給の逼迫から輸入が急拡大した結果,国際収支の天井に突き当たり,金融引締めによる国内需要抑制を余儀無くされた「岩戸景気」などの場合がある。これに対して,安定成長期に入ってからは,労働力需給が緩和基調を続けるなど国内需給の逼迫はみられず,第一次・二次石油ショックの直後を除けば経常収支は黒字基調であったので,石油危機の際の輸入インフレへの対応の場合以外には財政金融政策の引き締めの例はみられていない。
ところが,今回景気上昇局面では,安定成長期としては初めて40か月を超える長期にわたって景気上昇が持続しており,労働力需給を始め需給バランスの面で引き締まりがみられている。また,マネーサプライは高い伸びを続けている。しかし,いまのところ,賃金上昇は穏やかなものとなっており,生産性の向上もあって単位労働コストの上昇は落ち着いている。また,企業の経営態度の面でも慎重な価格設定が行われている。さらに,このところ円安化したとはいえ従前に比べれば大幅に円高となっている為替レートの下で「輸入の安全弁」効果が引き続き作用している。このように賃金,物価は安定した動きとなっている。こうしたなか,金融政策は,物価の安定を図ることによって内需中心の成長を持続させることを目指したスタンスに移行しており,金利は上昇している。また,高めの成長から巡行速度の成長へと移行してきているなかで,今後,需給がさらに引き締まっていく可能性も小さいと考えられる。したがって,本格的な財政金融政策の引き締めが必要になり,景気が反転に至るような事態になるとは考えにくい。
現在,経常収支の黒字幅は着実に縮小しつつあるが,これが引き締めを必要とさせるであろうか。縮小しつつあるとはいえ依然として大幅な黒字であり,経常収支の赤字化のおそれを理由に財政金融政策が引き締められるとは考えられない。また,現在は60年代とは違って金融・国際資本移動が自由化され,為替相場も変動相場制となっているので,そもそも「国際収支の天井」,すなわち,国際流動性の不足ということはほとんど問題にならない。また,仮に為替レートが円安化して経常収支の黒字縮小ないし赤字化を抑制する場合には,財政金融政策に対する負担は軽減される可能性があるものと考えられる。金融,為替市場の調整機能を重視した金融政策の運営によって,金利の上昇による内需の鈍化と為替レートの円安化による外需の回復という形で生産の急激な鈍化やインフレ圧力の高まりをあまり招くことなく,新しいバランスを達成させることができるものと考えられる。
(海外要因による反転の可能性)
最後に,海外要因によって景気が反転する可能性についてもみてみよう。過去には,第一次,第二次の石油ショック,プラザ合意後の急激な為替調整のような国際経済情勢の急変から景気が反転した例があるからである。
本章ではわずかに触れただけであるが,最近の国際経済情勢をみると,経済政策の国際協調が図られており,アメリカの景気もどうやら軟着陸(ソフト・ランディング)の経路を辿りつつある。また,原油価格や一次産品価格も基本的に安定しており,日本経済の景気反転を引き起こすほどに大きな国際経済情勢の急変が起こるとは考えにくい。しかしながら,いくつかの懸念材料がないわけではない。
一つは世界的な高金利の可能性である。アメリカでは,需要が予想以上に強く,物価上昇率も高い状況が続いているとしてFRBが金利を高い水準に維持している。西ドイツでは,東西ドイツの通貨同盟結成が実現したなかで将来の財政支出増,通貨増発によるインフレ増進を回避するため,西ドイツ連銀は金融政策を引き締め気味に運営している。今後,世界的な貯蓄不足の傾向がさらに進み,インフレ圧力が強まると,海外の金利水準がさらに高まる可能性がある。こうした海外金利の上昇は,為替レートの円安化をもたらすことも考えられ,そうした場合には日本の金利水準を押し上げて,内需の拡大を抑制するかもしれない。また,累積債務問題の悪化等から国際金融システムの安定性を損う可能性も否定できない。
もう一つは世界的にアメリカのスーパー301条のような保護主義的な措置が応酬される懸念である。その方向を決定付けるのはGATT(関税及び貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンドの帰趨である。このラウンド(貿易自由化のための多角的な交渉)はGATTにおけるラウンドとしては8回目に当たるが,農業,繊維のように従来のラウンドでは本格的に取り上げられなかったものや,サービス,知的所有権等の新分野を取り扱う野心的な試みである。
GATT加盟各国は年内に内容のある合意を目指して折衝を続けているが,世界的に保護主義の圧力は強い。なかでも,アメリカ議会による通商交渉権限の付与が91年3月までであることを考えると,もし,年内合意に成功しなかった場合にはアメリカの保護主義を抑えることは難しくなり,ウルグアイラウンドで実り多い成果を挙げることが望めなくなるおそれがある。そうなると,各国産業界の将来見通しは大きく不透明感を増し,これが世界景気に与えるマイナスの影響は甚大なものとなろう。
しかしながら,ここに示したようないわば最悪のケースを回避するには各国の努力に期待することができる。その意味で,我が国の経済構造調整の推進,アメリカの財政赤字の削減,通貨同盟結成が実現した西ドイツの財政節度の保持は,ウルグアイ・ラウンドへの参加各国の積極的な取り組みとともに非常に重要となっている。
なお,最近の東欧情勢等にかんがみると,たとえば,ソ連,中国で世界の趨勢に影響を与えるような突然の重大情勢が発生する可能性も排除できないが,そうであるとしても,その推移,影響にはあらかじめ予測し得るものではなく,ここでの視野を超える問題であろう。
以上のように,当面,景気が反転し,景気下降局面に入る可能性は小さそうである。もちろん,国際経済情勢における懸念材料もなくはないが,今回の景気上昇局面はまだしばらくの間,持続する力を持っていると思われる。