第2節 GDPデフレーターと交易条件
前節では最近の物価動向を振り返りつつ、デフレ状況の背景には需給ギャップやデフレ期待が根強く残っていることを確認した。また、こうした状況を打開するはずの金融政策が非負制約によって機能を大きく損なわれていることも示された。本節では、こうしたデフレ状況が、賃金や利潤といった、企業の生みだす名目付加価値を圧縮するという悪影響をもたらしていることを示しつつ、物価下落が「付加価値デフレ」として我が国経済の成長力を蝕んでいることを指摘する。
1 デフレと企業行動
上述の問題意識に沿って、まずはデフレのコストを試算した上で、「付加価値デフレ」の動きをデータから示していこう。
(デフレによる需要損失は設備投資に集中)
先に試算したテイラー・ルールによって示される望ましい金利がマイナスになっている状態とは、金利を所与のものとして事業を営む主体は、実体経済において期待される実質的な収益よりも高い実質的な借入金利に直面している可能性が高いことを意味する。
元々、デフレによって生じたコストについては、内閣府(2001、2010)等において、実質金利の高止まりや実質債務の増加が投資を押し下げる効果、あるいは、将来の物価下落を見越して家計が消費を先送りする効果が指摘されている。また、内閣府(2011)では、デフレ下では中央銀行が金利の非負制約に直面するため、景気動向に配慮して金利を引き下げたいにもかかわらず、引き下げられないために生じる追加的な需要の下振れをデフレのコストとみなした場合の試算が示されている7。ここでは後者と同様の観点からデフレが需要面に与えるコストを試算した。
具体的には、先に求めたテイラー・ルールによって示される望ましい政策金利の変化が成立する場合に実現する経済と現実との比較によってデフレのコストを求める。結果は相当の幅をもって見る必要があるが、金利調節が可能であったならば、2009年第3四半期から2012年第2四半期の3年間の年平均で、実質設備投資は1.3~2.4兆円程度の増加となっていたと試算される(第2-2-1図)。同様に、輸出は0.4~0.6兆円程度、輸入は0.2~0.4兆円程度は増加していたため、純輸出は1~2千億円程度増加していたとみられる。一方、実質消費は1~2千億円弱減少していたと考えられる。その結果、経済全体としては、1.7~3.2兆円程度の実質需要が失われたことになる。これは、同期間の平均的なGDPの0.3~0.6%程度に相当する規模である。
ところで、本試算では、金利引下げが可能であったケースよりもベースラインである実績の実質消費の方が若干大きいという結果となった。これは、利用した経済モデルにおける金利引下げの効果が現れるスピードが物価と名目所得で異なるためである。すなわち、最初の数四半期は、金利引下げによる需要拡大効果で労働所得は増加するものの、利子所得などが減少し、家計所得全体としてはあまり変化がないが、消費者物価は上昇するため、一時的に実質所得が減少し、実質消費が減少する。その後、次第に金利引下げによる所得増加の効果が物価上昇の効果を上回るため、実質消費も増加に転じるが、当初の実質消費の減少が大きく、3年間を平均すると、実質消費は金利引下げが可能であったケースの方が小さくなる。
(最近の「付加価値デフレ」は利潤を圧迫)
デフレによって総需要が不足する程度は明らかになったが、企業にとっては、デフレであれインフレであれ、物価が変動したときに付加価値を生み出せるかどうかが重要なポイントである。すなわち、物価上昇が物価下落より良い、ということでは必ずしもなく、仕入れ価格をできるだけ抑えて販売価格を維持ないし引き上げられることが望ましいことは言うまでもない。また、設備投資をする以上は期待収益が十分高く、従業員にも利益還元できることが望ましい。以上のような理解のもとでは、仮に名目金利が低く維持されていたとしても、付加価値が名目で目減りするような予想があると、設備投資が増加するような環境とはいいがたい。
そこで、付加価値の値段とも言うべきGDPデフレーターの変化を所得面から(累積)寄与度分解すると、我が国経済がデフレ状況にある2000年以降、幾つかの重要な動きを指摘することができる。第一に、2000~2007年においては、付加価値デフレーターの低下が専らULCの低下によって実現されてきた(第2-2-2図(1))。これは、デフレ状況に対峙する企業が労働分配率の引下げによって対応していたことを示唆する。第二に、2008年以降は、ULCよりも単位利潤の下落を主因に下落してきた。これは、マクロ的に見たとき、企業(より本質的には株主)が受け取る利潤が圧迫されてきたことを示している。また、GDPデフレーターの変化を需要面から(累積)寄与度分解すると、2008年以降は、輸入デフレーターと輸出デフレーターの変動、特に輸出デフレーターの下落が大きく影響している(第2-2-2図(2))。したがって、上記のような企業利潤の圧迫は、主として交易条件の悪化によって生じていることが示唆される8。
(リーマンショック後、多くの主要製造業種で利潤圧迫が発生)
先のGDPデフレーターの変化を産業別という供給面から見ると、全体の下落に対して製造業も非製造業も同じ程度の寄与度となっているが、電気機械の下落寄与度がとりわけ大きく、一般機械・輸送用機械及びその他製造業はあまり大きく動いていない(前掲第2-2-2図(3))。こうした点を詳しく見ていこう。具体的には、産業別の付加価値デフレーターの動きをULC、単位利潤、固定資本減耗という三つの要因に分解する。製造業の場合、GDPデフレーターは2001年から2010年の間に24%近く下落したが、2007年までは専らULC要因で下落していたものの、2008年以降は単位利潤の圧縮を伴う下落となった(第2-2-3図(1))。製造業内の産業レベルで付加価値デフレーターを分解した場合でも、2007年までの低下は専らULC要因によってもたらされている。特に、窯業土石、金属製品、一般機械、電気機械、輸送用機械、精密機械、その他製造業では、こうした傾向が見られ、また、何れも2008年以降は利潤要因も低下に寄与する傾向が見られる(第2-2-3図(2)~(5)及び付図2-1)。
同様の傾向は非製造業においてもおおむね変わらないが、産業別の違いは大きい。運輸・通信・その他サービスでは、ULC要因による押下げが2007年まで続き、その後は横ばいとなっているが、卸売・小売業では、ULC要因の押下げが2004年で終わり、その後は上昇要因に転じている。単位利潤要因は反対の動き方をしており、2004年までは押上げ要因、それ以降は下落要因となっている。電気・ガス・水道業や不動産業では、ULC要因はほとんど動かず、デフレーターの下落は単位利潤要因(及び固定資本減耗要因)による。(第2-2-3図(6)~(8)及び付図2-1)。
2 交易条件の変化と国内調整
前項で明らかになった交易条件の悪化による利潤の抑制は、平成24年4月以降開催している「デフレ脱却等経済状況検討会議(平成24年4月13日内閣総理大臣決定)」におけるデフレを生みやすい経済構造の議論の中でも指摘されている9。以下では、交易条件の推移を見た上で、我が国においてその変化が物価や生産にどの程度影響を及ぼしているのかを確認する。その後、2008年以降の「付加価値デフレ」の主要因であり、交易条件の動きを決める輸出物価に着目し、ミクロ的な観点から、財別輸出価格がどの程度為替レートの影響を受けるかを計測する。そして、こうした財別の変化の違いがどのような要因によって生じているかを分析する。
(交易条件は80年代後半以降悪化傾向)
我が国の交易条件の長期的な推移を輸出入物価動向とともに確認しよう。一般的に、輸出入の構造的な特徴は、当該国の相対的な生産要素賦存から決定され、交易条件の動き方もこうした構造に制約される。我が国の場合、原燃料を輸入して鉱工業製品を輸出するという貿易構造となっているため、輸出物価は加工型製造業の製品価格、輸入物価は原燃料価格によって最も影響される10。輸入物価は、その変動幅が大きく、特に、80年代や2000年代に大きな水準変化が生じている(第2-2-4図(1))。80年代には、85年秋のプラザ合意以降に進展した円高や86年に生じた原油価格の5割程度に及ぶ急落が影響している。また、2000年代には、原油価格が2003年からの4年間で3倍以上に急騰し、リーマンショック以降急落した影響が出ている。他方、輸出物価は、輸入物価ほどの変動はないものの、継続的に下落している。
こうした輸出入物価の動きを合成した交易条件は、86年の第3四半期以降、悪化を続けており、2012年第3四半期の水準は当時の5割以下である(第2-2-4図(2))。なお、この間に名目実効為替レートは約1.9倍に増価し、実質実効為替レートは約0.9倍に減価している。つまり、86年の第3四半期の内外価格比を基準とすれば、我が国の物価水準に対する外国の物価水準は2.2倍、逆に見れば、外国の物価水準に対して我が国の物価水準は0.5倍になっており、我が国ではデフレによる名目水準の大幅な低下が生じている。
(我が国の交易条件悪化はOECD諸国内で8番目の大きさ)
次に、リーマンショック後の期間について、我が国を含めたOECD加盟国における交易条件の動向を比較してみると、その悪化の程度は比較可能なOECD加盟の33カ国のうち8番目に大きい(第2-2-5図)11。
2008年以降の交易条件が大きく悪化した国の特徴を探ると、いくつかの共通点が挙げられる。まず、リーマンショックによる通貨下落が輸入物価の押上げ要因となっていた。カナダやニュージーランド、そしてアイスランドやメキシコがこれに該当する。スロバキアやエストニアでは燃料の輸入価格が上昇することで交易条件が悪化していた。また、カナダやニュージーランドの場合は商品市況の軟化により輸出物価も低迷して交易条件が悪化した。なお、トルコについては、2010年に入ってから欧州政府債務危機を背景に通貨安となった。
我が国も8番目に交易条件を悪化させた国であるが、これらの国々とは輸出入物価の動きが異なっている。つまり、我が国では輸出入物価のいずれも下落しており、その大小関係から悪化となっている。こうした状況と似た経験をした国はスイスのみであり、これは両国の通貨が対ドル、対ユーロといった主要国際通貨に対して増価した影響が大きい。しかしながら、スイスにおいては輸入物価の下落が我が国と同程度であるにもかかわらず、輸出物価の下落幅が小さいため、交易条件は改善した。交易条件の悪化を防ぐ鍵は輸出価格にある。
(輸入物価の下落による交易条件の改善に対して物価は下落、生産は増加)
輸出価格について詳細に見ていく前に、マクロ的に交易条件の変化が我が国の物価や生産に与える影響から示そう。具体的には、90年から2012年の四半期データを基に、交易条件を構成する輸出入物価、名目実効為替レート、国内企業物価、鉱工業生産指数の5変数で構成されるVAR(Vector Auto Regressive)モデルを推計し、輸入物価下落と為替レート増価の影響を分析した。
まず、輸入物価下落の影響について考えてみよう。輸入物価の下落によって、交易条件は改善し、為替は増価すると見込まれる。また、企業の投入コストが低下し、その一部は企業収益や賃金の押上げ要因、また、残りは販売価格の低下を通じて他産業や消費者の利益となる。その結果、実質所得が増加して実質総需要が喚起され、生産は増加すると期待される。なお、輸出については為替増価と輸出価格低下の大小関係次第で増加する場合もあれば減少する場合もある12。
こうしたメカニズムを念頭に試算結果を見ると、国内企業物価は、わずかではあるが当初から下落しており、輸入物価の低下が波及していることを示唆している。生産は当初2四半期ほど下落するが、累積的には実質所得の増加の恩恵から増加する。輸出物価の下落は輸入物価下落の半分程度に止まっており、残りが国内メリットとなる。名目実効為替レートも増価するものの、おおむね交易条件の変化程度に止まっている(第2-2-6図)13。
(為替レートの増価に対して交易条件は若干改善し、物価は下落、生産は増加)
次に、為替レート増価の影響について考えてみよう。為替レートの増価は輸入物価の下落要因であるから、交易条件の改善と同様の効果を生む。ただし、同時に輸出物価にも影響を与えるため、両者の動きの大小関係によって交易条件の改善幅が決まる。為替増価は輸出による外貨受取分の邦貨建価値の減少を意味するので、同量の輸出によって得られる円建て収入は減少し、所得減要因となる。
こうしたメカニズムを念頭に試算結果を見ると、交易条件は小幅な改善にとどまっているが、国内企業物価は輸入物価下落の影響を受け、交易条件が改善した場合と同様に下落する。生産については、最初の数四半期の間に多少の増減を見せるものの、おおむねゼロ近傍に止まる。これは、物価水準の低下によって実質所得は多少増加するものの、輸出に起因するマイナスの所得効果が大きいためと考えられる(第2-2-7図)14。
3 輸出価格と企業行動
次に、企業の輸出価格設定行動の違いが交易条件に与える影響について考える。リーマンショック後の交易条件変化について示した際にも触れたが、同じような輸入物価の下落が生じる環境下において、我が国の交易条件が悪化し、スイスの交易条件は改善した(前掲第2-2-5図)。違いは輸出物価の動きにある15。ここでは、企業が設定する輸出物価の変化に着目し、財別輸出価格がどの程度為替レートに影響されているかを計測する。そして、こうした財別に見られる変化の違いがどのような要因によって生じているのかを検討する。
(電気・電子機器によって下落する輸出物価)
最初に輸出入物価全体の変動がどのような財によってもたらされているのかを確認しよう。輸入面の動きについては、石油等の燃料や原材料となる素材系の財によって大きく変化していることがわかる。情報通信機器、電気機器、電子部品・デバイスといった製品は、基本的に輸入物価の押下げ要因であり、2000年以降の累積では、これら3財だけで輸入物価を19.6%ポイントの押下げ要因となっている(第2-2-8図(1))。他方、輸出面では、同じく情報通信機器等の占めるウェイトが大きいこともあり、同じく2000年以降の累積では、同じ3財だけで輸出物価を24.5%ポイントも押し下げている(第2-2-8図(2))。特に、電子部品・デバイスの下落寄与度は単独で13.5%ポイントにも上る。こうした電気機器等の動きによって、交易条件が悪化している16。
(財によって異なる為替レートに対する輸出価格の変化)
為替レートが増価した場合、円建ての輸出価格を引き下げなければ、外貨建ての当該財価格は上昇する。一定の市場シェアを維持しようと考える場合や価格競争が激しい場合であれば、円建て輸出価格の引下げは個別企業の行動としては合理的なのかもしれない。他方、輸出価格の引下げは結果として人件費を含む投入コストの削減圧力へとつながり、マクロ的な有効需要の弱さやデフレを引き起こす遠因となりかねない。
こうした為替レートの変化に対する企業の価格設定行動については、転嫁率(pass-through ratio)の研究としてこれまでも取り上げられてきており、財や業種によって転嫁率は大きく異なることが知られている17。ここで改めて財別に為替転嫁率の推移を計測してみたところ、長期に渡って安定的な財もあれば、傾向的に転嫁率を下げる、または上げる財もあることが見て取れる(第2-2-9図)。
(為替転嫁率の変化には企業の海外活動や生産性が影響)
為替転嫁率が財別に異なる背景を探るために、企業行動に関連するいくつかの指標と為替転嫁率の関係を確認しよう。電気・電子機器を除く全ての財・業種において、世界輸出に占める日本の市場シェアが高いほど為替転嫁率は低い傾向が見られる(第2-2-10図(1))。
次に、海外現地法人売上高比率、海外現地生産比率、労働生産性(実質GDP/雇用者数)は、それぞれが高いほど為替転嫁率が高い傾向が見られる(第2-2-10図(2)、(3)、(4))。
他方、為替転嫁率と市場シェアや海外における企業活動の程度の間には、幾つか理論的な関係が指摘されている。例えば、競争的な市場環境を前提とすれば、輸出シェアが高いほど為替転嫁率は高く、海外現地法人売上比率や海外現地生産比率が高いほど、為替転嫁率は低くなるとされている18。直感的には、市場シェアの大小は、他の供給者を含めた総供給に与える影響力の程度であるから、市場シェアが大きい際には市場価格に対する自らの影響力が大きくなり、結果として転嫁率が高まると考えられる。同じように、現地生産比率の高まりは相対的に輸出シェアを押し下げるので、為替転嫁率を引き下げると考えられるだろう。
(海外事業展開の拡大は為替転嫁率の押上げ要因)
我が国の為替転嫁率についても、こうした理論的な動きが見られるであろうか。これらの要因を用いて、データの揃う86年から2010年の期間について、財別の為替転嫁率の変化を要因分解した(第2-2-11図)。その結果、世界輸出に占める我が国の市場シェアの拡大/縮小は、繊維製品、化学製品、金属・同製品や輸送用機器において為替転嫁率の押下げ/押上げ要因となっている。電気・電子機器とその他産品・製品のみが、市場シェアの拡大/縮小が為替転嫁率の押上げ/押下げ要因となっている。先の議論を踏まえると、競争的な市場においては、理論的な関係はプラスであった。符号がマイナスになるということは、例えば製品差別化が進んで非競争的な市場であったり、独占的な市場である可能性を示唆している。
次に、海外現地生産比率は、はん用・生産用・業務用機器、電気・電子機器、輸送用機器、そしてその他産品・製品において、統計的に有意な為替転嫁率の押上げ/押下げ要因となっている。また、有意ではないものの他の全ての財についても同様の要因となっている。符号がプラスとなる場合は、市場参加者が少なく、お互いに相手の価格設定行動を見込んで自らの価格を決めるような想定が妥当な場合だと指摘されている。具体的には、自動車のように特定少数の企業が、既知の相手と競争をするような市場であろう。
最後に労働生産性の上昇/下落は、金属・同製品等では為替転嫁率の上昇/低下要因となるが、はん用・生産用・業務用機器や電気・電子機器、輸送用機器においては為替転嫁率の低下/上昇要因となっている。
このように、同じ要因であっても財によっては有意にならない場合や逆の関係になることは、それぞれの財特性や直面する市場構造の違いによると考えられる。特に、労働生産性の高さが積極的な価格低下要因となる加工型製造業製品と資本設備によって規模の経済性を享受する金属・同製品では、財特性も市場構造も異なる。こうしたこともあり、一概に結論を出すことは容易ではないが、有意水準の低いものも含め、全ての財で海外現地生産比率と為替転嫁率がプラスの関係であることから、これまでのところ、海外事業展開の拡大は、為替転嫁率を高める方向に資する可能性が高いといえよう。