第3節 経済・金融動向と期待物価

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デフレからの脱却を確実にするためには、現実の物価上昇率をプラスにするだけでなく、デフレ予想を払拭して先行きの期待物価上昇率をプラスに安定化させることが必要である。本節では、こうした問題意識の下、期待物価上昇率と各種経済変数の関係を統計的に分析する。その際、「日本とアメリカの期待物価上昇率は経済状況や金融政策の変化に対し、どのように反応する特性があるか」、「逆に、各種経済変数の変化に対し、日米の金融政策はどのように反応しているか」といった視点で分析する。最後に、第1節で推計した期待物価上昇率を活用し、長期金利に関するリスクプレミアムを計測する。

1 経済動向に対する物価・期待物価の反応

前節では、日米の期待物価上昇率がどのような経済変数と相関しているかを分析した。ただし、過去20年程度の平均的な相関関係を確認しただけであり、期待形成の時間的な動きについては考慮しなかった。ここでは、データの時系列情報を活用した統計分析(ベクトル自己回帰分析)を行い、日米の期待物価上昇率が経済変数の変化に対してどのように反応するかを分析する。

(日本の期待物価上昇率は現実の物価動向に敏感に反応)

まず、現実の物価上昇率の変化に対して、家計の期待物価上昇率がどのように反応するか見てみよう。その際、物価の基調的な動きに加え、原油先物価格の変動に伴う期待物価上昇率の反応についても検討する。すなわち、一般物価の動向と資源価格の動向の両面から、期待物価の反応の特徴を探る。推計に当たっては、期待物価上昇率は家計の先行き1年間の期待物価上昇率を使用し、推計期間は80年以降とした13第3-3-1図)。

その結果を見ると、まず、日本の期待物価上昇率は、物価の基調的な動き(生鮮食品を除く「コアCPI」、食料及びエネルギーを除く「米国型コアCPI」)に対し、アメリカよりも大きく反応することが分かる。他方、アメリカの期待物価上昇率は、物価の基調的な動き(米国型コアCPI)に対して反応が緩やかである。前節では、アメリカの期待物価上昇率は、日本に比べて物価の基調的な動きと平均的な相関が低いと指摘したが、それと整合的な結果となった。

このように、日本の期待物価上昇率は物価の基調の変化に大きく反応するものの、その影響は5四半期(1年強)程度をピークに徐々に低下する。他方、アメリカの場合、現実の物価の基調の変化に対する反応は小さいものの、その影響はほとんど減衰しない。日本の期待物価上昇率はアメリカに比べて振れが大きいが、その背景には、日本の期待物価が現実の物価変動に敏感に反応しやすいことが指摘できよう。

一方、原油先物価格の変動に対しては、日本とアメリカで同程度の反応を示している。ただし、日本の期待物価の反応はやや遅く、原油先物価格に対してはアメリカの家計の方が短期間で反応しやすい傾向が見られる。また、一般物価の変動に対する反応と比べると、日本は原油先物価格に対する反応は相対的に小さい。この意味でも、アメリカの家計は原油価格に敏感な期待形成をしていることがうかがわれる。また、最終製品価格の需給環境などの要因により、原油先物価格と家計が現実に直面する価格動向とは必ずしも一対一とはならないことも考えると、アメリカの家計は原油価格のニュースに反応して早めに期待形成を行っている可能性も示唆される。

(円高は期待物価上昇率の押下げ要因に)

次に、マクロ的な需給環境や金融政策、為替レートの変化に対し、期待物価上昇率がどのように反応するかを検討しよう。マクロ的な需給環境はGDPギャップ、金融政策は短期金利(日本はTIBOR3か月物、アメリカはTB3か月物)、為替レートは名目実効為替レート(日本のみ)を変数として採用した14。なお、金融政策の変数においては、日本の場合、政策金利(コールレート)がゼロ%近傍で変動しない期間が長く、変数としての情報量が乏しいため、日米ともに3か月物の短期金利を使用した15。このため、金融政策以外の市場要素も含まれている点に留意する必要がある(第3-3-2図)。

結果を見ると、まず、日米両国とも、期待物価上昇率はGDPギャップの変化に時間的な遅れを伴って反応する。日本においては、GDPギャップの変化後1~1年半程度で期待の反応が最大になり、その後も比較的高水準で影響が維持される。他方、アメリカについては、半年程度で期待の反応が最大となり、その後減衰することなく反応が持続する。ただし、日本よりも反応の大きさは小さい。日本の期待物価上昇率の方がマクロ的な需給環境に対する感応度が高いと見ることができよう。

金融政策に対する反応を見ると、日本では、短期金利が上がると期待物価上昇率が反応して低下する関係が見られる。ただし、金利変動の効果は3四半期後をピークに減衰し、1年程度でいったん消失する傾向が見られる。なお、アメリカの期待物価上昇率については、短期金利の変動に対して日本とは逆向きの反応になっている。例えば、2004~2007年における金利正常化(政策金利を1.0%から5.25%へ段階的に引上げ)と景気拡大を通じた期待物価上昇率の上昇の並存など、短期金利と期待物価の動向が必ずしも連動しなかったことが反映されていると考えられる。

為替変動の影響については、日本の期待物価上昇率は円高になると押し下げられる傾向が見られる。反応の大きさは、為替変動が生じてから1年半程度で最大となり、その後同程度の時間をかけて減衰する特徴がある。一回限りの為替変動の影響でもこれだけ効果が持続することを考えれば、円高の進行はデフレ予想の改善に対する障害となる可能性が高いといえる。

(日米の物価はともにGDPギャップと期待物価上昇率に反応)

これまで期待物価上昇率がどのような変数に反応するかを見てきた。ここでは、実際の物価上昇率が、期待物価に対する反応も含め、種々の経済変数にどのように反応するかを確認してみよう(第3-3-3図)。

まず、日米に共通する点として、物価上昇率(米国型コアCPI)はGDPギャップの変動にプラスの反応を示すことが挙げられる。景気状況が改善してGDPギャップが正の方向に変化(マイナスのギャップの場合はマイナス幅が縮小)すれば、3四半期程度遅れて物価上昇率はプラスに反応する傾向が見られる。また、効果は減衰せず永続的である。反応の程度については、アメリカの方が大きく、期待物価上昇率の反応とは対照的な結果となった。日本の場合、期待物価に比べて現実の物価が景気状況に反応しにくい傾向があるともいえる。

現実の物価動向は、期待物価上昇率の変動にも反応する。期待物価が高まれば、現実の物価動向も高まる傾向が見られ、さらに、期待物価に対する反応はGDPギャップよりも半年程度早く反応する傾向も見られる。これらの傾向は日米共通である。反応の大きさとしては、GDPギャップの方が物価に与える影響は大きいものの、即効性という意味においては、期待物価を高めることがデフレ状況の改善には重要といえる。

なお、GDPギャップや期待物価上昇率に比べると、原油先物価格に対する物価の反応は、日米ともに弱い。期待物価上昇率が原油価格に反応しやすいことと対照的であり、期待物価が反応するほどには現実の物価は原油価格変動の影響を受けないといえる。また、日本について、為替レートの変化が物価に与える影響について見ると、反応の度合いは他の変数と比べて大きくはないが、円高は物価上昇率に対してマイナスに寄与することが分かる。ただし、反応のスピードについては、為替変動が実際の物価に影響を与えるまでに3四半期から1年程度かかっており、比較的緩やかなペースで物価に影響する結果となっている。為替レートの変動についても、期待物価が反応するほどには現実の物価動向に影響しないことが示唆される。

2 金融政策と物価・期待物価の相互作用

次に、金融政策に焦点をあわせ、日米の期待物価上昇率や現実の物価上昇率が金利の変更にどのように反応するか、逆に、各種の経済指標に対し、金融政策がどのように反応するかを検討しよう。

(日本の物価とGDPギャップは金融政策に対して緩やかだが安定的に反応)

最初に、金融政策の動向を短期金利(3か月物)の変化で解釈し、金融政策の変更がどのように期待物価上昇率や物価の基調的な変化につながっていくか、また、実体経済や株価がどのように反応するかといった点を分析する(第3-3-4図)。

日本では、期待物価上昇率とともに現実の物価上昇率も金利上昇に対してマイナスの反応をしている。前述のとおり、期待物価上昇率は金利変動に対して短期的に大きく反応するが、現実の物価上昇率は緩やかかつ安定的に反応する。金利が引き上げられると、物価上昇率は時間をかけて徐々に減速することが示されている。また、金利変更から7四半期程度経過すると、期待物価と現実の物価上昇率は似たような反応経路に落ち着いてくることも特徴である。なお、図には示していないが、アメリカについては、期待物価上昇率、現実の物価上昇率ともに、期待される反応は計測されなかった。

金利変動に対するGDPギャップの反応についても、日本のGDPギャップは、金利上昇に対してマイナスに反応する傾向が見られる。例えば、経済がマクロ的に需要不足の状態であれば、金利上昇によってさらに需要不足が拡大することになり、理解しやすい結果といえる。また、反応速度は緩やかであり、かつ安定的である。物価動向と同様に、金融政策の影響が時間をかけて徐々に実体経済に効いてくることがうかがえる。アメリカについては、ここでも期待された結果が得られなかった。

このほか、株価も金利の引上げに反応して下落することが予想される。実際、日本では4四半期程度は株価に対する押下げ効果が拡大する。ただし、その後は徐々に影響が薄れていき、6四半期程度で金利引上げの効果は剥落する。その後も上下に波を打つような反応となっており、株価の金融政策に対する反応は長期的には不安定な結果となった。なお、株価については、アメリカにおいても日本とほぼ同様の反応が検出された。

(日米の金融政策は物価よりも景気動向により大きく反応)

今度は逆に、日本とアメリカの金融政策が、実体経済や物価動向等の変化に対してどのように反応するか見てみよう。具体的には、これまでと同様に、GDPギャップ、消費者物価、原油先物価格や株価といった指標を取り上げて、それらに対して金融政策の代理変数である短期金利がどのように反応したか検討する(第3-3-5図)。

結果を見ると、日本、アメリカともに、金融政策はGDPギャップの動向に対して明確な正の反応を示している。すなわち、GDPギャップが悪化すれば金融が緩和され、GDPギャップが改善すれば金融が引き締められる結果となった。両国ともに、マクロ的な需給バランスに対応して金利政策を行ってきたことがうかがえる。また、反応経路に上下の振れがなく極めて安定した反応となっていることも特徴である。

消費者物価の変動に対しても、金融政策は振幅が小さく、安定した反応を示している。しかし、GDPギャップに対する反応と比べると、その度合いは小さい。日米両国ともに、実体経済の動向を重視して金融政策を行っていることが示唆される。

期待物価上昇率の変動に対しては、アメリカでは現実の物価変動よりも大きく反応し、GDPギャップに対する反応に近い動きとなる一方、日本については、期待物価と金融政策の間に明確な関係は得られなかった。この分析を見る限り、アメリカの金融政策は、期待物価上昇率の動向をGDPギャップの変化と同程度に重視していると解釈することもできよう。期待を重視した政策運営ともいえる。

なお、原油先物価格の変動に対しては、アメリカでは金融政策が反応するものの、日本の金融政策はほとんど反応しない。原油先物価格が上昇する場合、アメリカの短期金利は引上げ方向に反応し、しかも、CPI上昇率の変動に対する反応よりも大きな反応が推計されている。アメリカにおいては、家計の期待物価上昇率が原油先物価格に反応しやすく、結果として金融政策が原油先物価格に反応している可能性が指摘できる。

3 リスクプレミアムの推計

これまで様々な期待物価の計測を試み、期待物価上昇率には物価動向の先行きを占う際に有用な情報が含まれていることが分かった。また、期待物価上昇率を定量的に把握できれば、それと名目及び実質長期金利の関係を活用することにより、金利に目に見えない形で含まれている情報、例えば財政のリスクプレミアムを抽出することも可能になる。以下では、期待物価上昇率の推計結果を用いて、長期金利のリスクプレミアムを算出してみよう。

(長期金利のリスクプレミアムはプラス基調)

ここでは、名目金利が理論上、実質金利と期待物価上昇率の和に等しくなるとの関係を踏まえ、その理論値と現実の名目金利の差をリスクプレミアムと捉える。リスクプレミアムには債券市場における流動性リスクプレミアムや財政に関するリスクプレミアムが含まれると考えられるが、ここでは、市場規模が大きく流動性が高いと考えられる国債10年物の金利を使うことにより、主として財政に関するリスクプレミアムが表現されているとみなす。また、期待物価上昇率については、長期的な時系列が取れる家計の期待物価上昇率を使い、実質金利については、それが持続可能な成長率と整合的になるという考えに基づいて潜在成長率を代理変数として使う16。そうして得られたリスクプレミアムの系列から、次のような点が指摘できる(第3-3-6図)。

まず、我が国の長期金利に関するリスクプレミアムは過去10年程度プラス基調が続いている。2000年代半ばにリスクプレミアムはほとんど観察されなくなったものの、最近、特に2009年以降、リスクプレミアムは拡大傾向にある。この試算からは、2010年において0.4~0.5%程度のリスクプレミアムが生じている可能性が指摘できる。

その理由を見ると、潜在成長率(実質金利の代理変数)の低下と期待物価上昇率の低下の両方が寄与している。潜在成長率は2006年頃を山として低下傾向にあり、2010年には0%台半ば程度まで低下したと推計される。期待物価上昇率については、循環要因を取り除いたトレンド部分で見れば、2008年後半からディスインフレ化が顕著に進んだことが分かる。このように、潜在成長率と期待物価上昇率の低下が生じるなか、名目長期金利は1~1.5%程度で安定して推移している。この差を埋めるのがリスクプレミアムであり、近年それが拡大傾向にあることが示されている。

ただし、近年の潜在成長率の低下が一時的である可能性を考慮し、内閣府「企業行動に関するアンケート調査」による5年間の経済成長見通しを基に試算すると、2010年のリスクプレミアムは0.3%程度と算出することもできる17。また、同調査によれば、今後5年間の実質経済見通しは1年間の見通しを平均して0.5%強程度上回る傾向がある18。その差を考慮すれば、実質長期金利の代理変数としての潜在成長率は最近時点の推計値(0%台半ば程度)よりも0.5%程度高いとみなすことも可能であり、その場合、リスクプレミアムの推計はさらに縮小して0%近傍と考えることもできる。このように、リスクプレミアムの大きさについては推計方法によって差が生じるため、相当の幅を持って見る必要がある。

なお、日本銀行「生活意識に関するアンケート調査」から5年後の物価上昇率見通しと1年後の見通しの差を見ると、デフレ時には5年後見通しが高めに、インフレ時には5年後見通しが低めになる傾向はあるものの、平均すれば1年後と5年後の見通しにほとんど差は見られない19

(アメリカのリスクプレミアムは名目長期金利の押下げ要因)

次に、日本のリスクプレミアムの特徴を明確にするため、同様の方法で、アメリカのリスクプレミアムを算出してみよう。アメリカにおいても、期待物価上昇率はアンケート調査に基づく家計の期待物価上昇率を用いた(第3-3-7図)。

それによれば、日本のリスクプレミアムが名目金利の押上げ要因であったことと対照的に、アメリカのリスクプレミアムは、90年代末以降、名目金利を押し下げる要因となっている。アメリカにおいては、国債発行残高の約5割が海外保有であるなど国債市場における海外からの資金流入が多い。他方、日本国債の海外保有割合は5%程度に過ぎない。海外からの潤沢な資金流入が金利の抑制要因となり、アメリカにおけるリスクプレミアムをマイナスにしている可能性が指摘できる。

また、アメリカの場合、潜在成長率(実質金利)と名目長期金利がそれほど連動していない。例えば、90年半ばから2000年代前半にかけて、アメリカの潜在成長率は長期的な上昇基調を示していたが、名目長期金利はむしろ低下傾向にあった。日本でも潜在成長率と名目長期金利が逆方向に動く時期はあったが、その要因は主としてデフレやディスインフレ予想によるものであった。しかし、アメリカにおいては、主としてリスクプレミアムの低下が理由となっている。ただし、2009~2010年においては、アメリカにおいても、リスクプレミアムの上昇(マイナス幅の縮小)が名目金利の上昇に寄与しており、この点は日本と同様である。リーマンショック後の潜在成長率の低下と財政出動に伴うリスクプムレミアムの上昇が背景にあることがうかがわれる。

(名目金利の期待物価上昇率に対する感応度の低さが過去の日本の平均的な姿)

前項では、我が国の最近時のリスクプレミアムは0~0%台半ば程度である可能性を指摘した。ここでは、こうした計測結果の頑健性を確認するため、リスクプレミアムの算出において、単純にそれぞれの変数の差し引きで求めるのではなく、回帰式を用いて変数間の構造的な相関関係を求め、その上で構造的な関係では説明できない部分をリスクプレミアムとして計測する。具体的には、過去20年程度のデータを用い、名目長期金利(10年国債利回り)を潜在成長率と期待物価上昇率のトレンドで回帰して関係式を求め、その式から得られる理論値と実際の名目長期金利の差をリスクプレミアムとみなす(第3-3-8図)。

計測結果を見ると、我が国のリスクプレミアムは、回帰式を用いた推計においてもほとんどの期間でプラスであり、2010年では0.4%程度となっている。一方、アメリカのリスクプレミアムはマイナス基調となっており、前述の単純な算出方法による結果と同様である。

また、日本の名目長期金利は、潜在成長率の変動に大きな影響を受ける一方、期待物価上昇率の変動に関してはその半分程度の影響しか受けないことが分かった。我が国では、過去20年間の平均的な姿としては、実体経済の影響をより強く受ける金利構造であったといえる。他方、アメリカの名目金利は、潜在成長率よりも期待物価上昇率の影響を強く受ける結果となっている。この構造が今後も変わらないとすれば、アメリカにおいてディスインフレ予想が拡大した場合、長期金利が大きく低下しやすい傾向にあるといえる。

回帰式推計によるリスクプレミアムと単純な方法で算出したリスクプレミアムに関して、年々の動きについて比較しても、日本、アメリカともにほとんど同じ推移を示している。推計値については相当の幅を持って見る必要があるが、複数の方法で確認しても、日本のリスクプレミアムは、近年0~0%台半ばの範囲に収まっているということができそうである。

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