第2節 エコノミスト、マーケットの期待物価

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前節では、家計と企業の期待物価上昇率について、その特徴や変動要因について検討した。本節では、期待形成の主体の範囲を広げ、エコノミストの物価予測や名目債と物価連動債の金利差から得られる期待物価上昇率の情報について検討する。その際、「それぞれの期待物価上昇率の特徴とそこから得られる有用な情報は何か」、「金融政策の変更に対してどのように反応しているか」といった視点で議論する。

1 エコノミストの期待物価

家計や企業の物価予想のほか、エコノミストも景気予測の一環として将来の物価上昇率を予測している。エコノミストの予測では、家計や企業の物価予想とは異なり、実感ではなくGDP成長率など他の経済指標の予測との整合性や予測結果の理由付けが求められる。経済的なファンダメンタルズに基づいた物価予想ということもでき、こうした特性を活かすことで、期待物価上昇率に関する有用な情報が得られる可能性がある。以下、エコノミストの期待物価上昇率の特徴を検討していこう。

(エコノミストの期待物価上昇率は変動が小さい)

「ESPフォーキャスト調査」から得られる各時点における1年後の消費者物価上昇率予測の平均をエコノミストの期待物価上昇率とみなし、家計や企業の期待物価上昇率と比較してみよう(第3-2-1図(1))。

エコノミストの期待物価上昇率は、家計や企業、さらに現実の物価上昇率に比べて安定した動きを示している。例えば、2008年前後の資源価格等の上昇・下落に伴う変動については、エコノミストの期待物価上昇率は0.5%ポイント程度の変動幅に収まっており、家計や企業の半分以下の変動幅となっている。エコノミストは、資源価格変動が消費者物価に与える影響の多くは一時的なものであると判断したと考えられる。

また、エコノミストの物価上昇率予測は、資源価格高騰時を除けば、家計の期待物価と近い動きをする。2004年から2005年半ばあたりまでは、エコノミストや家計はともにゼロ%近傍の期待物価上昇率であり、その後は両者とも若干の上昇基調にあった。企業の期待物価上昇率のようなデフレ予想への偏りは見られない。

以上を踏まえると、エコノミストの物価予測が経済ファンダメンタルズに基づく合理的な予測であるならば、家計の期待物価上昇率は資源価格高騰時にはインフレバイアスを持ちやすく、また、企業物価と消費者物価の違いがあるため単純な比較はできないものの、企業の期待物価上昇率には景気悪化時にマイナス幅が大きくなりやすいという特徴が示唆される(第3-2-1図(2))。もちろん、リーマンショックなど突発的な事象が起こり得るため、エコノミストが1年後の物価動向を合理的に予測できているとは限らない。しかし、少なくとも、経済ファンダメンタルズから導き出せる期待物価とのかい離という意味において、家計や企業の期待物価上昇率には上記のようなバイアスがあると見るべきであろう。

なお、直近時の2010年7-9月期において、エコノミスト、家計、企業それぞれの期待物価上昇率がゼロ%近傍に収束しているのは興味深い。実際の消費者物価上昇率(コア)は依然として-1%程度のマイナスであるにもかかわらず、エコノミスト、家計、企業揃って先行きはゼロ%近傍までデフレが改善すると見込んでいることになる7

(エコノミストの期待物価上昇率は日米ともにGDPギャップと相関)

次に、エコノミストの期待形成の特徴を探るため、家計や企業のときと同様、期待物価と各種経済変数の相関について見てみよう。また、アメリカのエコノミストの期待物価上昇率についても、から1年先の物価予測平均値を時系列で入手し、「ブルーチップ・コンセンサス」エコノミストの期待形成の日米比較を行うこととする(第3-2-2図)。

結果を見ると、日米ともに、エコノミストの期待物価上昇率はGDPギャップとの相関が最も高い。この点が、家計や企業の期待形成と異なる特徴的な点である。経済全体の需給状況(GDPギャップ)と物価上昇率に一定の関係があるという、いわゆるフィリップス曲線の考え方に基づいて、日米のエコノミストは物価予測をしていることがうかがわれる。

また、エコノミストの期待物価上昇率は、物価の基調的な動き(食料及びエネルギーを除く総合指数)とエネルギー価格双方との相関が高い。家計の期待物価上昇率においては、アメリカでは物価の基調的な動きよりもエネルギー価格との相関が高かったが、エコノミストは物価の基調的な動きをより重視して予測していることが示唆される。一方、日本では、エネルギー価格の変動もエコノミストの物価予測に大きな影響を与えている。

株価動向については、日米ともにエコノミストの期待物価上昇率とあまり相関がない。アメリカの方がやや相関が高いが、GDPギャップやエネルギー価格、物価の基調的な動きなどと比べると、株価と期待物価上昇率の相関は相対的に低い。エコノミストは、資産価格である株価の動向と将来の一般物価の動向とを必ずしも直接結び付けて考えているわけではないことが示唆される。なお、賃金動向と期待物価上昇率の相関も低い。日本の方が両変数の相関はやや高いが、GDPギャップやエネルギー価格等に比べると低い。賃金も景気感応的であると考えられるが、ここでは単位当たり賃金(日本は一人当たり、アメリカは時間当たり)を変数としているため、労働投入量の調整を雇用者数等の数量調節で行う場合は、賃金はGDPギャップ等に比べてあまり変動しない。こうしたことが賃金と期待物価上昇率の相関の低さにつながっている可能性がある。

(日本の物価予測は需要要因、アメリカは需給両方の要因に影響)

エコノミストの期待物価上昇率の特徴として、それが将来の景気見通しの一環として行われていることから、他の景気指標の見通しとも整合的な予測となることが挙げられる。予測時点における合理的な期待形成とも捉えることができ、各種の期待物価上昇率を見る上で重要な情報が含まれている可能性がある。以下では、日米のエコノミストの期待物価上昇率について、予測と現実の物価上昇率との誤差、その誤差が生じている背景を検討することにより、有用な情報が得られないか見てみよう(第3-2-3図)。

エコノミストの物価予測は、エネルギーや食料品を除く物価の基調的な動きにおおむね等しい。日本の場合、エコノミスト予測の方が実現値よりもやや水準として高い傾向にあるものの、変化の方向としては日米ともに物価の基調的な動きをおおむね予測できている。エネルギーや生鮮食品といった海外要因や天候要因等の外生的な要因で変動する部分を捨象すれば、エコノミストの物価予測は期待物価上昇率の指標として一定の信頼が置けるといえよう8

エコノミストの物価予測値を他の経済指標の予測値等で回帰分析すると、日本の場合、失業率の将来見通しとの関係が強い。需要要因として失業率とGDP成長率の見通し、供給要因として原油価格を説明変数に含めて推計したところ、日本の物価予測値は失業率の見通しとの相関が高い結果となった。失業率が景気に遅行して変動する傾向があること、GDP成長率に比べると変動が緩やかであることなどを考えれば、エコノミストは「日本の物価は景気に遅れて緩やかに変動する傾向がある」と見ているともいえる。一方、アメリカの物価予測値は、失業率に加え、GDP成長率の見通しや原油先物価格とも相関しており、需給両面から期待形成が行われていることが示唆される。

以上の回帰式で得られる推計値と実際のエコノミストの予測値の差を見ると、日本において、リーマンショック後の物価下落は両者にほとんど差がなかったものの、2010年の持ち直し局面ではエコノミストは推計値よりも低めに予想を立てていることが分かる。2010年においては、失業率の水準は過去と比べて高いものの、リーマンショック後の急激な悪化からの持ち直しという要因もあり、一時的に失業率の改善テンポが速まる場面があった。エコノミストはこうした失業率の動きを物価予測の上方修正にあまり反映しなかったことが考えられる。なお、2010年7-9月期には、実際の物価予測値と推計値は同程度となっており、失業率の見通しなどと整合的な物価予測となっている。

(エコノミストの期待物価上昇率は現実の物価上昇率に対して先行する傾向)

以上のようなエコノミスト予測の特徴を踏まえ、エコノミストの期待物価上昇率がデフレ予想からインフレ予想、あるいはインフレ予想からデフレ予想に転換した時期を捉え、期待形成の変化がどのように行われたか検討する。具体的には、期待物価上昇率が上昇局面に入ったと考えられる2006年と2008年、下落局面と見られる2009年と2010年について、各調査時点においてエコノミストの物価予測がどのように変化したかを見てみよう(第3-2-4図)。

2006年の上昇局面においては、期待物価上昇率は現実の物価動向に先んじて動いている。特に、2005年後半においては、物価上昇率の実績値(調査時点での直近値である調査時点2か月前のCPIコア前年同月比)は下落を続けていたが、対照的にエコノミストの物価予測は上昇テンポが加速した。先に見たように、エコノミストの物価予測はGDPギャップと相関が高いことを踏まえれば、堅調な景気動向が先行きの物価上昇につながると予測していたと考えられる9。また、2006年春頃には、物価上昇率の実績値(2000年基準)がエコノミストの物価予測に追い付く形で上昇テンポを高めている。

その一方で、2008年の上昇局面においては、エコノミストの期待物価上昇率は現実の物価と同様の動きを示しており、期待物価が先行きの物価動向の有用な情報とはなっていない。当時の物価上昇が、資源価格の高騰等を背景としたものであることが影響していると考えられる。エコノミストの期待物価上昇率を活用する際には、それがマクロ的な需給動向等の経済ファンダメンタルズに沿った物価予想である点を踏まえる必要がある。

2009年の下落局面では、エコノミストの期待物価上昇率は現実の物価動向に先行して下落に転じており、将来の物価の転換点に対する有用な情報を提供している。2008年9月のリーマンショック後、エコノミストは急速な景気悪化を予測し、それに伴い物価上昇率の先行きを相当程度下方に修正したことがうかがわれる。

また、直近2010年の期待物価上昇率を見ると、2009年時点で-1%前後の物価下落が予想されており、現実値と近い予測値となっている。2010年の物価下落は経済のファンダメンタルズにおおむね沿った下落率になっているということもできよう。

2 マーケットの期待物価

期待物価上昇率については、アンケート調査やエコノミスト予測のほか、債券市場における金利情報(名目債と物価連動債の利回りの差(ブレークイーブンインフレ率))を活用しても算出することもできる。ブレークイーブンインフレ率の変動が名目利回りと実質利回りそれぞれの変動に分けて議論できる利点を生かして、マーケットで形成された期待物価上昇率の動きを見てみよう。

(金利指標で見ても日本の期待物価上昇率は低い水準で推移)

物価連動債は元利償還が物価上昇率と連動する債券である。購入者にとっては将来のインフレリスクを回避することができ、実質的な利回りが保証される債券といえる。この特徴を活用し、同年限の名目債(固定利付債券)利回りを名目利回り、物価連動債の利回りを実質利回りとみなし、両者の差をとることで期待物価上昇率(ブレークイーブンインフレ率)を計測することができる。ブレークイーブンインフレ率の特徴として、日次のマーケットデータから算出できること、先進国間での比較がしやすいこと、金融市場の動きが直接反映されることなどから、金融政策と期待物価上昇率の関係が議論しやすい利点がある。まず、欧米各国と日本のブレークイーブンインフレ率の推移を比較してみよう(第3-2-5図)。

我が国のブレークイーブンインフレ率は欧米各国よりも低い水準で推移している。この点は家計に対するアンケート調査から算出した日米の期待物価上昇率の関係と同様であり、ブレークイーブンインフレ率によれば、欧州各国と比べても日本の期待物価上昇率は傾向的に低いことが示されたことになる。なお、ここでは名目債と物価連動債それぞれ10年債を用いてブレークイーブンインフレ率を算出していることから、今後10年間の平均的な期待物価上昇率が示されていると考えることができる10

ブレークイーブンインフレ率は、日次データということもあって短期的な振幅は大きいものの、長い目で見れば1%程度の変動範囲に収まっている。しかしながら、2008年から2009年においては、リーマンショック後の金融市場の混乱を受け、各国のブレークイーブンインフレ率は大きく変動した。ブレークイーブンインフレ率が、市場の流動性状況など金融市場特有の影響を受けやすいことを示しており、この点はブレークイーブンインフレ率を利用する上での留意点である11

2009年春以降の状況に着目すると、各国とも景気持ち直しとともにブレークイーブンインフレ率も上昇が続いていたが、2010年春頃から、特に欧米諸国において、ブレークイーブンインフレ率は再び弱含んでいる。欧州における財政問題やアメリカの景気回復テンポの弱まりなど世界的な景気下振れ懸念が背景にあると考えられる。実際、物価上昇率が減速するディスインフレ、あるいはデフレ懸念が欧米諸国においても議論されるようになっている。我が国についても、2010年に入って以降は、期待物価上昇率のマイナス幅の目立った縮小が見られない。物価連動債の需要につながるような長期的なインフレリスクは予想されていないといえよう。

(日本は2006~2008年にインフレなき成長期待の高まり)

ここでは、ブレークイーブンインフレ率の変動について、名目債の利回り(名目利回り)と物価連動債の利回り(実質利回り)それぞれの動きに分解して見てみよう。その際、名目利回りには、期待物価上昇率に加え、将来のインフレリスク等も含まれること、実質利回りには、物価連動債の流動性の低さなどに起因する流動性プレミアム等も含まれることを考慮する(第3-2-6図)。

その結果を見ると、日本のブレークイーブンインフレ率は2006~2008年にかけて低下しているが、これは実質利回りが徐々に高まるなか、名目利回りが横ばいないし緩やかな低下傾向にあったことが要因である。実質利回りが経済の成長期待や潜在成長率等と連動することを考えれば、景気拡張局面のなかで、インフレなき成長期待が予想された時期と見ることもできる。

2008年の急激なブレークイーブンインフレ率の低下については、実質利回りの急上昇が主因である。リーマンショック前後の金融市場の混乱から流動性が急速に縮小し、特に市場規模の小さい物価連動債の流動性プレミアムが急上昇したことが、その背景として考えられる。実際、日本のみならず、欧米各国においても、2008年に実質利回りの急上昇が生じている。

なお、これも各国共通であるが、2010年に入ってからのブレークイーブンインフレ率の低下については、実質利回り、名目利回りの両方が低下するなかで、相対的に名目利回りの低下が大きかったことが要因となっている。将来のインフレリスクの低下も含め、各国ともインフレ期待が低下していることがうかがわれる。

(日本では実質利回りが高まっても期待物価上昇率が上がらない傾向)

さらに日本の特徴を探るため、実質利回りと名目利回りの相関関係を見てみよう。実質利回りを横軸に、名目利回りを縦軸にとって散布図を描き、実質利回りと名目利回りの関係が各国とどのように異なっているか見てみよう(第3-2-7図)。

まず、日本の実質利回りと名目利回りは変動の範囲が狭い。リーマンショック以前について見れば、実質利回り、名目利回りの両方ともおおむね1%程度の範囲内にとどまっている。欧米諸国、特にアメリカに比べると変動範囲は狭いものとなっており、我が国の長期金利が名目・実質ともに安定していることが示されている。

散布図に傾向線を引くと、日本の傾向線は傾きが小さい。傾向線の傾きは、実質利回り1単位の変動に対して、名目利回りがどの程度反応するかを示す。例えば、日本のように傾きが緩やかな場合、リスクプレミアム要因を捨象すれば、成長期待が高まることなどで実質利回りが高まったとしても、名目利回りの上昇は相対的に小さなものにとどまる。その結果、名目利回りと実質利回りの差である期待物価上昇率は下落することになる。他方、カナダのように傾きが1を上回るような場合、実質利回りの高まり以上に名目利回りは高まる傾向がある。カナダにおいては、成長期待が高まるとそれ以上に期待物価上昇率が高まる関係となる。

なお、リーマンショック後のデータも考慮して比べると、日本の場合、傾きがさらに緩くなる。このことは、流動性プレミアムの高まり等によって実質利回りが上昇しても、名目利回りはほとんど変化しなかったことを意味する。結果として、算出されたブレークイーブンインフレ率は大きく低下した。リーマンショック後のブレークイーブンインフレ率の急低下は、こうした金融市場の混乱によって生じたと考えることができよう。

また、傾向線と縦軸の切片を比較すると、日本の切片は最も低い位置にある。切片の位置は、リスクプレミアムの影響を捨象して考えれば、理論上仮に実質利回りがゼロになったとしても観察される名目利回りの値を示す。これは平均的な期待物価上昇率に等しい。ここでも、日本の期待物価上昇率は欧米各国に比べて低いことが示されている。

3 金融政策イベントと期待物価

デフレ脱却を目指して政策を行うに当たっては、人々の期待形成を意識しながら政策を行うことが重要である。特に、金融政策において、現在のように政策金利がゼロ%近くにまで低下している場合、マーケットの期待形成に働きかける政策が一層重要になる。以下では、ブレークイーブンインフレ率の動きを中心に、金融政策イベントと期待物価の関係を検討する。

(「中長期的な物価安定の理解の明確化」の発表後、デフレ予想は緩和)

最初に、最近の金融政策と期待物価上昇率の関係について、金融政策のイベントごとにブレークイーブンインフレ率がどのように変化しているかを追うことで調べてみよう。ここでは、我が国が「緩やかなデフレ状況にある」と月例経済報告において判断した2009年11月以降の動きを日次データで確認する(第3-2-8図)。

日本銀行は2009年12月1日に固定金利オペの導入(固定金利方式の共通担保資金供給オペレーション(期間3か月)の導入、規模は10兆円程度)、同月18日に「中長期的な物価安定の理解の明確化」の公表など、連続して金融市場に対する緩和的な金融スタンスのメッセージを発した。ブレークイーブンインフレ率から判断すれば、期待物価上昇率がより大きく反応した政策は、後者の「中長期的な物価安定の理解の明確化」であったと見ることができる。「中長期的な物価安定の理解の明確化」では、日本銀行の政策委員は2%以下のプラスの領域で、中心は1%程度の消費者物価上昇率(前年比)を物価安定と理解していることが明確化された。それがマーケットにおけるデフレ予想の緩和に寄与したと解釈することができる。逆に、3か月物金利をはじめ、短期金利市場は、固定金利オペの導入に反応して顕著な金利低下を見せているものの、「中長期的な物価安定の理解の明確化」の発表時にはあまり反応していない。この点は、政策内容が金利に働きかける内容なのか、人々の物価予想に直接働きかける内容なのかという視点で考えると興味深い動きである。

また、同年3月17日に固定金利オペの拡充(規模を10兆円から20兆円に拡大)などが発表され、さらなる金融緩和スタンスが示された際には、期待物価の下落率は緩和している。3月17日よりもやや早くマーケットが反応しているように見えるが、このときは、政策決定会合前に、マーケットにおいて追加緩和措置に対する期待が醸成されていたことなどが背景にあると推察される。実際の政策決定会合に先んじてデフレ予想が緩和に転じたと見ることができよう。また、短期金利についても、3か月物や6か月物を中心に低下している。

さらに日本銀行は、同年8月30日の追加金融緩和(上記の固定金利オペの対象に6か月物(規模10兆円程度)を追加等)、10月5日の包括的な金融緩和政策12と緩和姿勢を明確にした。発表直後は期待物価上昇率に明確な反応が見られなかったが、2010年11月頃から徐々にブレークーブンインフレ率で見た期待物価上昇率は高まり始めている。追加緩和策の効果が実体経済や金融市場に実際に波及し、デフレ予想の緩和につながっていくことが期待される。なお、9月に一時的に期待物価上昇率の下落幅が縮小しているが、このときは、名目10年債利回りが一時的に上昇したことが反映されており、財政リスクプレミアムの上昇など金融政策以外の要因による変動と考えられる。一方、短期金利については、3か月物、6か月物、1年物それぞれが追加緩和発表時に低下した。金融政策によって、長めの短期金利の低下が促されたと理解することができよう。

(2006年の量的緩和政策解除時、期待物価上昇率は堅調な景気を反映して上昇)

2010年10月5日以降、政策金利(無担保コールレート、オーバーナイト物)の誘導目標は0~0.1%と極めて低い水準に設定されている。2006年7月のいわゆるゼロ金利政策解除(0%から0.25%に引上げ)以来の低い水準である。ここでは、ブレークイーブンインフレ率が算出可能な2004年4月から2007年にかけて、量的緩和政策やゼロ金利政策解除等の影響が、ブレークイーブンインフレ率で見た期待物価上昇率にどのように反映されたかを確認しよう(第3-2-9図)。

2006年3月9日に量的緩和政策を解除した際は、期待物価上昇率は反応せず、それ以前から続く上昇基調は変わらなかった。方向性としては、量的緩和政策の解除によって期待物価上昇率が下がっても不思議ではないが、期待物価上昇率の上昇基調は途切れなかった。一つの解釈としては、当時の金融市場は、量的緩和政策の解除を織り込んだとしても景気拡張局面が続き、物価上昇率も先行き上がっていくとの予想を変えなかったと理解することもできよう。実際、日経平均株価も上昇基調を続けており、マーケットが量的緩和政策の解除が可能なほど景気の足腰が強まっていると解釈した可能性が指摘できる。

2006年7月14日の金利引上げ(いわゆるゼロ金利政策解除)においても、ブレークイーブンインフレ率で見た期待物価上昇率は低下しなかった。ゼロ金利政策解除は、量的緩和政策の解除時とは異なり、期待物価上昇率が低下傾向にあるなかで実施された。しかし、ゼロ金利政策解除の後、1か月程度は期待物価上昇率の低下基調が止まっているようにも見える。ブレークイーブンインフレ率の動向を見る限り、当時のゼロ金利政策解除は少なくとも期待物価上昇率を押し下げる要因にはならなかったようである。なお、2006年8月末に期待物価上昇率が急低下しているが、これは消費者物価指数の2000年基準から2005年基準への改定(2006年1-6月平均で0.5%ポイント程度の下方改定)が影響していると見られる。

2007年2月21日の金利引上げ(無担保コールレートを0.25%から0.5%に引上げ)についても、期待物価上昇率の低下基調を反転させる方向に寄与している。金利引上げが惹起しうる期待物価上昇率の低下は生じておらず、むしろ、利上げ判断の前提となる景気の堅調さを評価した動きとなっている。実際、株価動向も利上げ後一時的に値を下げた期間はあったものの、均して見ると上昇トレンドは変わっていない。

また、2004年6月や2005年6月など、物価連動債の入札日に期待物価上昇率が大きく変動しているが、これらの時期についても、好調な経済指標の発表が続いたこと(2004年6月)や景気減速懸念の広がり(2005年6月)など、マーケットの景気に対する見方の変化が背景にあると見ることができる。

(将来の金融政策の選択肢を示すことで期待物価上昇率を引上げ)

リーマンショック後の景気後退を受け、世界的に金融緩和が行われた。ここでは、アメリカにおける期待物価上昇率(前述の日本における議論と同様、10年物の名目債と物価連動債の利回りの差(ブレークイーブンインフレ率))と金融政策との関係について、リーマンショック後から現在までの動きを見てみよう(第3-2-10図)。

リーマンショック以降下落基調にあったアメリカの期待物価上昇率は、2008年12月16日の連邦準備制度理事会(FRB)による実質ゼロ金利政策発表後、上昇基調に転じている。株価動向が依然として下落基調にあったことを考えると、大胆な金融政策の発表によって、景気指標に先んじてマーケットの期待物価上昇率が反転したと考えることができる。

その後、2009年2月から3月にかけて期待物価上昇率はやや弱含んだものの、同年3月18日の追加緩和策(住宅ローン担保証券の追加買取等)の発表前後、期待物価は上昇基調に戻っている。ただし、2008年12月時とは異なり、このときは株価も同様に反転上昇しており、株価の動向に期待物価上昇率がつられて上昇した可能性がある。

2010年8月末にも期待物価上昇率の反転上昇が見られる。同年春以降、ギリシャにおける財政問題や世界的な景気動向への懸念等を背景に、アメリカの期待物価上昇率も低下基調を続けていたが、8月末に期待物価上昇率が再び上昇基調に転じた。これは、8月27日のバーナンキ議長のジャクソンホールにおける講演が転換点になっていると考えられる。バーナンキ議長は講演において、今後の金融政策として、(1)長期の証券買入れの増加、(2)金融緩和期間の長期化など連邦公開市場委員会(FOMC)声明文の変更(いわゆる時間軸効果に相当)、(3)超過準備に対する付利水準の低下、さらに、(4)中期的なインフレ目標(inflation goals)を物価安定と整合的な水準以上に引き上げること、といった緩和策の選択肢を明確に示して議論した。中期的なインフレ目標の引上げについては、多くのエコノミストが提案する政策として議論に取り上げ、期待物価上昇率が安定している現時点では採用すべき選択ではないと明言しつつも、デフレが長期化する場合には意味があると述べている。また、FOMCは物価の下振れに対して断固とした措置をとるとも述べている。このように、具体的な政策決定ではないが、FOMCにおいて議論の俎上にある政策の選択肢について、それを事前に示すことで市場に追加緩和期待を醸成し、期待物価上昇率の上昇にも寄与したことが示唆される。

こうしたなか、FRBは11月2~3日のFOMCにおいて、中長期国債の追加購入(2011年6月末までに6,000億ドル)など具体的な追加金融緩和策を発表した。バーナンキ議長が示した第一の選択肢に相当する。しかし、発表後のブレークイーブンインフレ率はほとんど反応していない。具体的な購入額も含め、市場は事前予想の範囲内の追加緩和策であったとみなしたことが考えられる。期待形成においては、実際の政策とともに事前の市場とのコミュニケーションがいかに重要かを示した一例といえよう。

コラム3-3 日米中央銀行のバランスシート

ここでは、本文で述べたような日本とアメリカの最近の金融政策が、中央銀行のバランスシートをどのように変化させたか確認しよう。まず、バランスシートの規模(総資産残高)を見ると、2010年10月時点で日本は120兆円程度、アメリカは2.3兆ドル(約186兆円)程度であるが、名目GDP比にすると日本は25%程度、アメリカは16%程度となる。バランスシートの規模は、金融システム安定化やデフレ懸念払拭など種々の政策目的に沿って変動するものであり、必ずしも金融緩和の程度を示すものではないが、敢えて規模を比較しても大小を一意的に論ずることはできない。

ただし、リーマンショック後の拡大幅については、アメリカが圧倒的に大きい。リーマンショック前と比較すると、FRBのバランスシートはGDP比で10%ポイント程度拡大した。他方、日銀の場合はリーマンショック以前から同20%程度と高水準であったこともあり、5%ポイント程度の拡大にとどまっている。

2010年10~11月には、日米ともにバランスシートの拡大につながる追加策を打ち出した。民間の資金調達コストの低下に加え、金融市場の反応や期待形成への影響を通じ、金融緩和の効果が実体経済に波及することが期待される。(コラム3-3図

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