第1節 家計、企業の期待物価

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本節では、家計と企業の期待物価の形成に焦点を当て、アンケート調査のバイアス(偏り)を修正した期待物価上昇率を計測し、その変動要因を探る。その際、デフレ状況が改善した時期など物価動向の転換点に着目し、期待物価が果たす役割を検討する。また、アメリカの期待物価と比較し、日本の期待物価はどのような経済変数に反応しやすいかといった視点でも分析する。

1 家計の期待物価-計測と特徴

期待物価上昇率の計測方法には、大きく分けて二つある。一つは、アンケート調査などにおいて、家計や企業、エコノミスト等に直接、将来の物価動向や物価上昇率についての予想を聞く方法であり、もう一つは、物価連動債の利回りと名目債の利回りの差等の市場情報を用いて算出する方法である。本章ではそれぞれについて順次検討していくが、ここではまず、家計の期待物価上昇率の計測を試みよう1

(家計の物価予想は現実の物価上昇率より高め)

アンケート調査に基づく家計の物価予想の把握は直接的である。例えば、内閣府の「消費動向調査」では、「あなたの世帯が日ごろよく購入する品目の価格について、1年後どの程度になると思いますか」という質問を行っている。選択肢としては、「上がる」、「変わらない」、「下がる」、「分からない」という区分とともに、具体的な物価変動率を選択する調査方法となっており、今後1年間の期待物価上昇率を具体的な数値で把握することができる。ただし、こうした定量的な質問項目が開始されたのは2004年4月からであり、それ以前は、「低くなる」、「高くなる」などの定性的な質問のみとなっている(第3-1-1図)。このため、具体的な期待物価上昇率を把握するためには、統計的処理などによって定性的な回答を定量的な回答に変換する作業が必要となる。この点は後述するが、ここではまず、家計の物価予想を概観してその特徴を明らかにしよう。

最も顕著な特徴は、家計の定性的な物価予想においては、現実の消費者物価が下落していても、常に「上がる」との回答が「下がる」との回答を上回っていることである。仮に、「上がる」超をインフレ予想、「下がる」超をデフレ予想とみなせば、2000年代前半や2009~2010年頃のデフレ状況下であっても、家計はデフレ予想を抱かなかったことになる。当時や昨今のデフレに関する報道の増加等も踏まえれば、この結果はやや奇異に映る。アンケート調査において、家計は物価見通しを高めに回答する傾向、すなわち上方バイアスが存在する可能性がある。

この傾向は、2004年4月調査以降、回答の選択肢が定量的なものとなってからも続いており、家計の期待物価上昇率は、実際の物価動向に比べ、常に1%程度高い上昇率となっている。家計が物価を予想する際、現実の物価上昇率を考慮して予想することを考えれば、恒常的な1%程度のかい離は、アンケート調査における上方バイアスと捉えることができる。また、家計は購入頻度の高い品目の価格動向に敏感であると考えられることから、アンケート調査においては、耐久消費財を始め、購入頻度が低く価格下落の顕著な品目の価格動向が期待物価に反映されにくい可能性も指摘できよう。

その一方で、アンケート調査による物価予想に上方バイアスがある可能性はあるものの、変化の方向はおおむね現実の消費者物価と同様の動きをしている。特に、2004年4月以降の定量的な回答において、物価予想と現実の消費者物価の動きはよく似たものとなっている。ただし、2005年前後など、ところどころで両者の動きが異なる時期があり、期待物価上昇率が必ずしも現実の物価動向だけに依存しているわけでないことも同時に示唆される。

以上を踏まえると、アンケート調査に基づいて家計の期待物価を把握する際には、インフレ予想になりやすいという上方バイアスを考慮しつつ、期待物価上昇率の動き方を確認することが重要である。また、現実の物価上昇率と動きが異なるところは、期待物価上昇率が有する情報を丹念に見ることで、現実の物価上昇率だけでは分からない人々の期待独自の情報を得ることが可能となる。

(家計の期待物価は現実の物価に先行して動く傾向)

アンケート調査の上方バイアスを修正し、より適切な期待物価上昇率を算出してみよう。まず、2004年までの期間について、定性的なアンケートの回答結果を定量化する。その際、ある特定の物価上昇率を超えると「物価が上がる」と回答すると仮定するが(カールソン=パーキン法)、その物価上昇率は一定ではなく期間とともに変動すること、現実の物価上昇率と期待物価上昇率が大きくかい離しないような制約を課すことなどもあわせて仮定した(修正カールソン=パーキン法。詳細は付注3-1)。

こうした処理によって、期待物価上昇率固有の動きを残しつつ、水準的には現実の物価上昇率と近い試算値を推計する。また、2004年4月調査以降については、定量的なアンケート結果を直接利用しつつ、期待物価上昇率の水準を修正カールソン=パーキン法で求めた期待物価上昇率の水準と等しくなるように水準調整を行い(上方バイアスの修正)、同年3月以前の試算値と接続した。この方法の利点は、定量的なアンケート結果の動きには加工を施さず、水準調整だけを行うことにより、アンケートによる直接の情報を最大限活用できることである。

結果を見ると、期待物価上昇率は現実の物価上昇率とおおむね同様の動きをしている(3-1-2図)。80~90年代半ばまでは、期待物価上昇率は現実の物価上昇率を上回って推移していたが、90年代末以降は両者の差は相当縮小し、比較的近い動きを示すようになった。なお、97年前後の期待物価の上昇は、消費税率引上げの影響と見られる。物価上昇が常態であった時期には、家計の期待物価は現実の物価上昇率よりもややインフレ傾向であったが、ディスインフレあるいはデフレの傾向が続いた90年代末以降は、現実の低い物価上昇率に期待形成が適応し、低めの期待物価上昇率に変化したと考えられる。

ただし、家計がデフレ予想となった時期は、2001~2003年頃と2009~2010年頃の2期間にとどまる。90年代末以降、我が国経済は基調的にマイナスあるいはゼロ%近傍の消費者物価動向を続けてきたが、家計がデフレ予想となったのは、消費者物価上昇率が明確に前年比マイナスとなったこの2期間に限定されている。

また、家計の期待物価上昇率は現実の物価上昇率に先行して動く傾向がある。例えば、2002年から2003年にかけて、現実の物価上昇率がマイナス幅を徐々に縮小していくなか、家計の期待物価上昇率はそれに先駆けてマイナス幅を縮小し始めた。マイナス幅の縮小テンポも速く、2003年には期待物価上昇率がプラスに転じている。さらに、2006年頃や2007~2008年前半についても、現実の物価上昇率に先行して家計の物価予想が変化していることがうかがわれる。

もっとも、2009~2010年においては、例外的に、家計の期待物価上昇率は現実の物価上昇率よりも若干遅れて動いているように見える。現実の物価が下落し始めてから、期待物価が遅れて下落に転じている。この点については、2009年前半の急速な物価下落が前年の資源・穀物価格高騰の反動を反映していることを考えれば、家計は期待物価を形成するに当たり、反動減は一時的に過ぎないと判断した可能性がある。中長期的な物価の基調を考慮しつつ、家計が期待形成を行っていることが示唆される。

デフレ脱却に向けた進捗状況の点検に当たっては、期待物価上昇率の先行性を活用しつつ、物価の基調的な変化を見通していくことが重要といえる。

(2000年代半ばの期待物価上昇率のプラス化はデフレ予想払拭には至らず)

次に、家計の期待物価が変化した時期について、それがどのようにもたらされたかを見てみよう。例えば、期待物価が下落から上昇に転じる場合、「物価が下がる」と予想する家計数が減少することによっても、あるいは、「物価が上がる」と予想する家計数が増加することによっても、全体の期待物価は上昇する。前者をデフレ予想の緩和、後者をインフレ予想の拡大と捉えれば、デフレ脱却を目指すに当たっては、家計のデフレ予想が緩和されることによってデフレ脱却に近づくことが望ましいといえる。この点を確認するため、期待物価上昇率の転換点(第3-1-3図(1))における物価予想の分布を見ると次の点が指摘できる。

90年代末~2002年頃においては、家計の物価予想は徐々にデフレ予想に変化したが、内訳を見ると、「やや高くなる」との回答が年々減少する一方、「やや低くなる」との回答が2001年に急増している(第3-1-3図(2))。すなわち、2001年以降のデフレ期は、家計のデフレ予想の増大とともに生じていたことが分かる。また、2003年に家計のデフレ予想はやや改善しているが、これは「やや低くなる」との回答が減少すると同時に、「やや高くなる」との回答も増加した結果である。2003年はデフレ予想の緩和とインフレ予想の高まりが同時に起きた時期と見ることができる。

2005~2007年頃のデフレ予想からインフレ予想への転換期を見ると、デフレ予想世帯(主として-2%未満の物価下落を予想する世帯)はやや減少したものの、インフレ予想世帯(主として2%以上~5%未満の物価上昇を予想する世帯)がより顕著に増加した(第3-1-3図(3))。さらに、5%以上の大幅な物価上昇を予想する家計も年々増加する傾向にあった。この時期は、原油価格や穀物価格などが世界的に高騰した時期でもある。こうした輸入原材料価格の上昇を発端とするインフレ懸念が、家計全体のインフレ予想につながったといえよう。デフレ脱却に向けた動きとしては、望ましい動きとはいえない。

(2010年に入り、家計のデフレ予想は弱まる傾向)

さらに、リーマンショックを含む2008年以降の状況について世帯分布を確認しよう。具体的には、2008~2010年の変化を年平均(2010年は1~10月まで)の推移を見るとともに、2010年における四半期ごとの変化を追う。

2008~2010年の年平均からは、2009年においてデフレ予想が高まっていたことが指摘できる(第3-1-3図(4))。また、「0%程度」と物価が横ばいで推移すると予想する世帯数も大きく増加している。前述のとおり、家計が物価予想を高めに回答するバイアスがあることを踏まえれば、「0%程度」との回答には実質的なデフレ予想が含まれていると考えることができる。その一方で、「2%未満」の物価上昇予想世帯が2009年に増加していることも特徴的である。デフレ予想の増加とインフレ予想の増加という矛盾にも見えるが、これはむしろ、「2%以上~5%未満」と「5%以上」のより大幅な物価上昇を予想する世帯が、「2%未満」という緩やかな物価上昇期待に変化したことが原因と考えられる。2008年前半までの原油価格・資源価格高騰による大幅な物価上昇・インフレ懸念が取り除かれたことが背景にあろう。この意味では、2009年はインフレ懸念の後退とともにデフレ予想が顕現化することによって、家計全体がデフレ予想に変化した時期といえる。

それでは、2010年に入ってからの状況はどうであろうか。期待物価上昇率の下落幅は四半期ベースで縮小してきている。その内訳を見ると、デフレ予想世帯の割合が低下し、「2%未満」の緩やかな上昇を予想する世帯の割合が増加している(第3-1-3図(5))。2010年において、現実の消費者物価からはデフレ状況に目立った改善の動きは観察されなかったにもかかわらず、少なくとも7-9月期までは、景気の持ち直しとともにデフレ予想が弱まっている。ただし、これを一時的にデフレではない状況となった直前の2005年の場合と比較すると、2010年7-9月の方でデフレ予想世帯が多い。したがって、最近の家計の期待物価上昇率はデフレ傾向の改善へ向けたシグナルを発してはいるものの、依然として楽観できる状況ではないといえよう。

コラム3-1 今後1年間と5年間の期待物価上昇率

本文では、これまで今後1年間の物価予想を基に期待物価上昇率を議論してきた。しかし、中長期的な物価安定を政策目標と考えれば、より長期的な期待物価を計測することも重要である。ここでは、日本銀行「生活意識アンケート調査」が今後5年間の平均物価上昇率を質問していることを利用し、家計の短期と中長期の期待物価上昇率の特徴を見てみよう(コラム3-1図)。

まず、最近の動きを見ると、家計は今後1年間の物価上昇率について、平均値で2~3%程度、中央値で0%程度の予想であるのに対し、今後5年間の平均では、平均値で3~4%程度、中央値で2%程度と高めに予想している。家計は、物価上昇率が中長期的に高まっていくと考えていることになる。この質問項目が始まった2004年3月以降、デフレ期には5年間の期待物価を1年間の期待物価よりも高めに、物価上昇期にはその逆を予想する傾向が見られる。家計は、予想期間が長くなるほど、足下の物価動向の影響が弱まると考えていることになる。

その一方で、2005年前後と2010年の動きを比較すると、今後1年間の期待物価上昇率に大きな違いはないが、今後5年間については、2010年の期待物価上昇率の方が高い。両期間ともデフレ期であるが、2010年においては、2007~2008年半ばまでの資源価格等の高騰を受けて高めの期待が定着した可能性がある。ただし、調査方法の変更により、2006年半ばにデータの断層があることから、こうした結果については幅をもって解釈する必要もあろう。

2 家計の期待物価-日米比較

我が国は低い物価上昇率が基調的に続いたため、期待物価上昇率も低くなっているといわれる。ここでは、家計の期待物価上昇率のデータが入手可能なアメリカと比較することにより、日本の期待物価上昇率の特徴を探る。

(日本の期待物価上昇率はアメリカより恒常的に低め)

日本とアメリカの家計の期待物価上昇率を比較してみよう。なお、日本については、前述の分析で用いた期待物価上昇率(2004年1-3月期までは定性的な回答を修正カールソン・パーキン法で定量化した値、2004年4-6月期以降は定量的な回答を水準調整した値)、アメリカについては、ミシガン大学による定量的なアンケート調査の中央値を比較した(第3-1-4図(1))2

第一の特徴は、日本の期待物価上昇率は97年度の消費税率引上げ期を除き、アメリカの期待物価上昇率を下回っていることである。日本とアメリカの期待物価上昇率の差は、93年頃から徐々に拡大し、2000年代においては2%強~3%程度のかい離が生じている。我が国においては、90年代初頭の資産価格下落等、いわゆるバブル崩壊の影響が続くなかで、家計の期待物価上昇率も低下してきたことが示唆される。なお、我が国の期待物価上昇率について、2004年4-6月期以降の定量的なアンケート回答を水準調整する前の数値を用いても、日本はアメリカよりも2%前後低い値で推移している。

また、消費税率引上げが行われた97年度の日本の期待物価上昇率の急上昇や、同時多発テロが発生した2001年のアメリカにおける期待物価上昇率の急低下など、外生要因を背景とした期待の変化は、1年程度の一時的な変化にとどまり、その影響は永続しない。その一方で、リーマンショック後の2008年後半以降の日米両国の期待物価上昇率の低下、バブル崩壊後の90年代の日本の期待物価上昇率の低下については、一時的な影響のみならず、中長期的な期待物価上昇率の低下をもたらしているように見える。家計は足下の物価動向がどのような背景によって生じているかを冷静に見極めつつ、期待形成を行っていることが示唆される。

さらに、日本の期待物価上昇率の低さは、経済の需給環境が改善しても物価が上昇しにくい背景となっていることが示唆される。日本とアメリカにおけるGDPギャップと消費者物価上昇率(食料とエネルギーを除く)の関係をプロットして比較すると、日本の場合、2001年以降、需給がおおむね均衡、すなわちGDPギャップがゼロ%近傍となっても、消費者物価上昇率はゼロ%近傍にとどまる傾向がある(第3-1-4図(2))。他方、アメリカにおいては、96年以降の傾向線を見ると、需給が均衡していれば、2%を超える物価上昇率となる関係が見られる(第3-1-4図(3))。これらの結果は、日米の期待物価上昇率のかい離とおおむね整合的である。

(日本の期待物価上昇率はデフレ予想の定着とともに粘着的に)

日本の期待物価上昇率は90年代に低下傾向となり、アメリカの期待物価上昇率を恒常的に下回るようになった。我が国では、低い期待物価上昇率あるいはデフレ予想が定着しているともいえる。こうした期待形成の粘着性ともいうべき点を含め、日米の家計の期待物価上昇率の特性を比較してみよう(第3-1-5図)。なお、ここでは当期の期待形成がどの程度過去の期待に依存しているか、という点を期待形成の粘着性と捉えて分析する。

まず、日本の期待物価上昇率は過去の値に引きずられる傾向が強い。日米の期待物価上昇率について、自己回帰式を推計して係数の大きさを比較すると、日本の係数は80年代以降どの時期においてもアメリカの係数を上回る。日本の期待物価上昇率を瞬時に高めることはアメリカよりも難しいといえる。

日本の期待物価の粘着性は、特にデフレ基調が明確となった2000年代に最も高くなっている。我が国の低い期待物価上昇率は、デフレ予想の定着によってさらに押し下げられる傾向にあるとともに、いったんデフレ予想が定着してしまうと、それを払拭することが難しくなることを示している。また、デフレ予想の改善においては、単発的な政策対応等による一時的ショックではなく、時間をかけた継続的な対応が求められるともいえる。

一方、日本の期待物価上昇率はばらつきが大きい。日米の期待物価上昇率の標準偏差を比較すると、推計期間を通じて日本の標準偏差がアメリカのそれを上回る3。この傾向は、89年度の消費税導入や97年度の消費税率引上げ時を除いて比較しても、同様である。ただし、日本の標準偏差は近年低下傾向にあり、デフレ予想の定着とともに、ばらつきが縮小してきた可能性も指摘できる。

(日本の家計の期待物価は物価の基調的な動きと高い相関)

家計の期待形成を探るため、家計の期待物価上昇率がどのような経済変数と相関しているかを見てみよう。ここでは、日本とアメリカの家計の期待物価上昇率について、期待形成時の物価の基調的な動き(食料及びエネルギーを除く消費者物価総合)に加え、食料価格、エネルギー価格といった家計に身近な物価動向、賃金動向、さらに、景気状況と関連の深い株価やGDPギャップとの相関を検討する。結果として、次のような点が指摘できる(第3-1-6図)。

日本の家計の期待物価上昇率は、食料価格やエネルギー価格よりも、それらを除いた基調的な物価動向との相関が高い。食料価格やエネルギー価格も期待物価上昇率と相関はしているが、基調的な物価動向の方が期待物価の形成により連動する結果となった。我が国においては、期待物価上昇率の情報が物価の基調的な動きを判断する上で参考になるといえる。

これに対し、アメリカの家計の期待物価上昇率は、物価の基調的な動きよりもエネルギー価格との相関が高い。自動車社会のアメリカにおいては、家計はエネルギー価格の動向に敏感に反応している可能性がある。他方、食料価格と期待物価上昇率との相関は日本よりも低い。背景には、家計消費に占める食料品購入の割合が、アメリカは日本に比べて低いことがあると考えられる4。なお、アメリカにおいては、物価の基調的な動きよりも、賃金上昇率と期待物価上昇率の相関が高くなっており、この点も日本と対照的である。

一方、日本の期待物価上昇率と株価動向の間には有意な関係が見られず、符号が逆転している。日本の場合、推計期間の2000年以降は、デフレから脱却できない状況と景気回復が並存した時期であり、期待物価が上がらなくても株価は上昇した時期が多く見られた。株価が景気に先行する指標と考えれば、2000年代においては、景気の先行きと期待物価には必ずしも相関関係がなかったことになる。一方、GDPギャップについては、日本の場合、期待物価上昇率との相関が見られる。日本の場合、先行きよりも足下の景気動向を踏まえて家計が期待形成を行っていることがうかがわれる。期待形成の面でもマクロ的な需給環境の改善が重要といえる。

3 企業の期待物価

家計の期待物価上昇率は、消費者、すなわち需要側から見た物価予想と考えることができる。逆に、供給側から見た物価予想は企業の期待物価上昇率ということになろう。ここでは、企業の期待物価上昇率を計測し、家計の期待と比べた特徴や産業別の特徴を検討する。

(企業の期待物価はデフレ予想が定着)

まず、企業の期待物価上昇率を試算する。企業については、定量的な期待物価上昇率を直接尋ねるアンケート調査が頻繁に行われていないため5、日本銀行「全国企業短期経済観測調査(短観)」の定性的な調査項目(販売価格判断DI)を基に定量化を行い、企業の期待物価上昇率を算出する。その際、短観は産業別の価格判断が入手可能なことを利用し、産業別の期待物価上昇率をあわせて計測する(第3-1-7図)。

結果を見ると、企業の期待物価上昇率は、過去30年程度のほとんどの期間において、デフレ予想となっている。91年前後や2008年前後の短期間を除き、企業の期待物価上昇率は基本的にマイナスである。期待物価上昇率を押し下げているのは、主として非製造業である。特に、2004年から2008年にかけて、非製造業の期待物価上昇率が上がりにくい傾向が見られた。前回の景気拡張局面(2002年1月~2007年10月6)が主として製造業の輸出をけん引力とし、非製造業に対する需要が強くなかったことが背景として考えられる。

また、非製造業のうち小売業の期待物価上昇率を見ると、その変動が大きい。特に2007年後半から2008年7-9月期までの上昇が顕著である。この時期については、食料品やエネルギー価格の上昇が小売業の期待物価上昇率に反映されていると考えられ、家計の期待物価上昇率と近い動きとなっている。家計が実際に目にする価格の多くが小売価格であることを考えれば、小売業と家計の期待物価上昇率が似たような動きをすることは理解しやすい。

最近については、2009年4-6月期を谷として、企業のデフレ予想は緩和傾向にある。また、今回のデフレ予想の緩和は、産業ごとのばらつきが小さく、業種横断的に物価下落予想が緩和している点も特徴である。こうした改善傾向は2003年前後にも見られたが、景気の谷から1年半~2年程度という共通点があり、景気持ち直し期には業種横断的なデフレ予想の緩和が見られる傾向がうかがわれる。過去の例を参考にすれば、今後は業種間のばらつきが出てくる可能性があり、企業の期待物価上昇率がどのような産業をけん引役として変化するかを見ることが重要となる。

(2010年に入り、企業のデフレ予想は緩和傾向)

以上の観察を踏まえ、企業の期待物価上昇率が変化した時期について、産業ごとの特徴を見てみよう。具体的には、期待物価上昇率の転換点について、物価予想の変化が主として上昇予想と下落予想のどちらの動きによってもたらされたかを確認する。ここでは、期待物価上昇率が上昇あるいは下落幅が縮小した局面として、2002年初め~2003年半ば、2005年後半~2006年末、2007年末~2008年半ば、2009年半ば~2010年を取り上げ、期待物価上昇率が下落あるいは下落幅が拡大した局面として、2003年半ば~2004年半ば、2006年末~2007年末、2008年半ば~2009年半ばを取り上げる。特徴として次のような点が指摘できる(第3-1-8図)。

まず、2007年末~2008年半ばの期待物価の高まりについては、製造業、非製造業、小売業ともに、図表で見ると推移線が右に向かって水平となっており、主として物価上昇を予想する企業の割合が増加したことによる。言い換えれば、デフレ予想の減少・改善によってもたらされたものとはいえない。一方、2005年後半~2006年末の期待物価の動きは、製造業、非製造業ともに図表の推移線は右下がりとなっており、物価下落予想の減少と物価上昇予想の増加が同時に起きている。また、小売業については、推移線は下に向かっており、デフレ予想の緩和が期待物価の下落幅縮小の主たる要因となっている。両期間の違いについて、2007年末~2008年半ばは資源価格等の高騰に伴う価格上昇懸念、2005年後半~2006年末は堅調な景気動向が期待物価変動の背景にあったと見ることができる。デフレ状況の改善においては、当然、後者の動きの方が望ましい。政策運営に当たっては、期待物価上昇率の上昇がデフレ予想の改善を伴っているか否かについて注意を払うことが重要である。

期待物価の下落局面について見ると、2008年半ば~2009年半ばの下落は、リーマンショックを含む時期でもあり、業種横断的に上昇予想から下落予想に大きく変化している。各業種とも、2008年半ばには物価上昇予想企業の割合が下落予想企業の割合を上回っていたが、2009年半ばには物価上昇を予想する企業はほとんどゼロに近づいた。期待の変動幅についても、他の期間と比べて圧倒的に大幅である。一方、2003年半ば~2004年半ばにかけての下落幅拡大については、業種間の違いが観察できる。製造業においては、当初は物価上昇を予想する企業の割合が減少することで期待物価上昇率の下落幅が拡大した。その後、2004年に入ってからは、物価下落予想企業の割合が高まることによって期待物価の下落幅が拡大している。非製造業ではそのような特徴は見られない。むしろ、小売業においては、一意的に物価下落予想の割合が増加することによって、期待物価が押し下げられている。

また、2010年における期待物価の下落幅の縮小は、主として、デフレ予想の修正によってもたらされている。物価上昇を予想する企業の割合は極めて低い水準にとどまっており、インフレ予想はほとんど生じていない。2009年春以降景気が持ち直してきたなか、企業はリーマンショック後の急激なデフレ予想を修正してきたことがうかがわれる。その一方で、景気の脆弱性などから物価上昇予想にまで期待を変更する企業が生じていないとも解釈することができる。

(企業の期待物価はエネルギー価格と高い相関)

企業の期待物価は下落基調が長期間続いているものの、そのなかにおいても物価予想の転換点が見られることを確認した。また、変化の方向については、資源価格高騰の前後やリーマンショック後など家計の期待物価と類似した動きをしていると見ることもできる。しかし、変動幅について見ると、企業の期待物価の変動は家計よりも概して大きい。こうしたことを踏まえ、ここでは、企業の期待形成の特徴を把握するため、企業の期待物価上昇率と経済変数の相関について、家計と比較しつつ検討してみよう(第3-1-9図)。

エネルギー価格との相関については、企業の期待物価の方が高い。家計においては、物価の基調的な動きと期待形成が最も強く相関していたが、企業の場合はエネルギー価格との相関が最も高くなっている。企業の期待物価の変動が大きい一つの要因といえよう。企業としては、エネルギー価格を原材料や中間財価格のコストとして捉え、コスト面から先行きの物価予想を形成していることが考えられる。他方、食料価格との相関については、家計の期待物価上昇率よりも低くなっている。家計と企業の経済活動の違いが期待物価の形成に違いをもたらしていると見ることができる。

GDPギャップとの相関が高いのも、企業の期待物価である。企業は、家計よりもマクロ的な需給状況を重視して物価予想を立てる傾向が示唆される。また、賃金動向と期待物価上昇率にある程度の相関が見られることも企業の期待形成の特徴である。企業の期待物価は、家計と比較すると、概して物価関連以外の経済指標とも相関する結果となっている。

以上のほか、家計の期待形成と異なる点として、株価とも相関している点が挙げられる。企業収益の動向をはじめ、株価と企業活動には密接な関係がある。例えば、リーマンショック後の株価急落とその後の回復において、企業の期待物価上昇率は連動して大きく変化した。企業の期待形成は株価動向に連動する面が強いことが示唆される。

コラム3-2 企業の業種別期待価格上昇率の推計

本節で用いた企業の期待物価上昇率の推計方法は、各業種別の販売価格の期待上昇率の推計を可能にする。業種ごとのサンプル数が大きく異なるため、単純な比較には注意を要するものの、2000年代の平均を見ると業種別の特徴がよく分かる。

まず、平均期待価格上昇率がプラスの業種は、石油・石炭製品産業と電気・ガス産業の2業種にとどまる。それ以外の業種はおしなべて下落予想であり、幅広い業種において下落予想が広がっている。石油・石炭製品産業や電気・ガス産業は、原材料に占める原油価格の割合が圧倒的に高い業種である。2000年代後半の原油価格の高騰がなければ、下落予想は全業種に広がっていた可能性もある。

また、期待販売価格の下落幅が大きな業種は、電気機械産業、建設業、不動産業などである。電気機械産業については、長期的な価格下落傾向にある耐久消費財が多く含まれること、建設業や不動産業は土地価格の下落や建設需要の停滞等が背景にあると考えられる。このほか、一般機械産業や輸送用機械産業、サービス業も顕著な下落予想となっている。(コラム3-2図

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