第2章 賃金上昇の持続性と個人消費の回復に向けて(第2節)
第2節 持続的な賃金上昇の実現に向けて
2024年度を振り返ると、一人当たりの名目賃金の上昇率は、1991年度以来33年ぶりとなる高さを記録した。これに加え、2025年の春季労使交渉の賃上げ率についても、連合集計によれば、2024年を更に上回る状況となっている。賃上げを重視する政労使の一致した認識の広がりに加え、企業における人手不足感の歴史的な水準への高まりや物価上昇への対応等もあいまって、過去30年間にはみられなかった力強い賃上げのモメンタムが実現・継続していると言える。一方、名目賃金を消費者物価指数(総合)で除した実質賃金でみると、2024年度は前年度比0.0%と3年ぶりにマイナスを脱したが、食料品を中心に高い物価上昇率が継続する中で、名目賃金が安定的に物価上昇を上回る状況には至っていない。GDPの過半を占める個人消費の回復を力強いものとするためにも、2%の安定的な物価上昇を実現するとともに、これを上回る名目賃金の上昇を持続的に実現することが不可欠となっている。
こうした中、賃金を巡っては、医療・福祉分野等の公的部門での賃上げに遅れがみられているほか、年齢別には、初任給を含め若年層では高い賃上げが実現している一方で、中年層では賃上げが抑制されている。また、中小企業での賃上げに二極化の兆しが指摘されるなど、賃上げの程度や広がりにはばらつきもみられている。本節では、まず、近年において、企業規模、産業、年齢別といった側面で、賃上げの広がりがどの程度確認されているのかを検証する。次に、過去30年にはみられなかったレベルの賃上げが実現しているにもかかわらず、労働者側において、賃金が上昇している、あるいは上昇するだろうという実感は必ずしもみられない。こうした賃上げの受け止めの実態について、賃金カーブの長期的な変化等に着目しつつ分析を行う。コロナ禍前までは、人手不足の中でも賃金が十分上昇しない背景について様々な議論がなされてきたが、内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2025a)でも分析したように、これまで賃上げを抑制的なものにしてきた要因の多くは変化し、賃上げを促す方向に作用し始めている。これに関連して、本節では最後に、デフレ下において特有の現象として、我が国の賃上げを阻害してきたと指摘される「賃金の下方硬直性に伴う上方硬直性」-景気後退期に名目賃金の引下げが困難であるが故に、景気回復局面においても賃上げが控えられるというメカニズム-について、コロナ禍以降のデータを含めて詳細に分析し、構造変化の有無を検証する。
1.賃金上昇の広がりはどの程度みられるのか
(平均賃金では、フルタイム、パートタイム労働者共に30年超ぶりの賃上げが実現)
「毎月勤労統計調査」における名目賃金(現金給与総額)を、フルタイム労働者とパートタイム労働者という就業形態を合わせた雇用者一人当たりの平均賃金1でみると、2024年度は前年度比+3.0%と、1991年度の4.4%以来の33年ぶりの高い伸びとなった。就業形態別にみても、フルタイム労働者は、所定内給与、残業代等を含む定期給与、ボーナス等を含む現金給与総額のいずれにおいても、2024年度は3%前後と、統計上遡及可能な1994年度以降で最も高い伸びとなり、パートタイム労働者の所定内時給も4%超と1994年度以降最高となった(第2-2-1図)。一方、これらは、飽くまで平均賃金の伸びであり、賃金上昇率の属性ごとの特性や分布・ばらつきを示すものではない。例えば、ある特定の属性を持った労働者の賃金が大幅に上昇し、その他の多くの労働者の賃金が変化しない場合、平均として計算される賃金上昇率は上昇する一方、労働者間における賃金上昇率のばらつきは拡大している可能性もある。ここではまず、厚生労働省「賃金構造基本統計調査」に基づき、様々な属性の労働者について、上位、下位の10%点や25%点、中央値(50%点)といった賃金の分布を示すデータを用い、賃上げの動きの広がりについて確認する。
(賃金水準が相対的に低い労働者において、賃金がより上昇している)
まず、フルタイム労働者全体の所定内給与(月額)について、上位・下位10%、同25%点や中央値(50%点)の動向を確認する(第2-2-2図(1)、(2))。2009年から22024年にかけて、相対的に賃金水準が低い下位10%点(第1・十分位)の賃金は15.8万円から19.2万円に21%増加しているのに対し、相対的に賃金水準の高い上位10%点(第9・十分位)の賃金は47.4万円から51.2万円に8.1%の増加となっており、下位10%の労働者の賃金の方が、上位10%のそれよりも、賃金上昇率が2倍以上大きくなっている。同様に、下位25%点(第1・四分位)の賃金は、同期間に19.7万円から23.0万円に16.4%増加しているのに対し、上位25%(第3・四分位)の賃金は35.2万円から38.0万円に8.0%の増加となっている3。
より近年の動きとして、2019年から2024年の伸びをみると、下位10%点の伸びが10%超なのに対し、上位10%点の伸びは6%弱となるなど、2020年代の賃金上昇局面においても、賃金水準の相対的に低い労働者の賃金の方がより大きく上昇していることが確認される。こうした結果、上位10%点と下位10%点の賃金比(以下「上位10%・下位10%比」等という。)は、2009年の3倍から、2024年の2.7倍弱に緩やかに低下し、上位賃金と下位賃金のかい離幅が縮小していると言える(第2-2-2図(3))。
(中小企業における賃金の底上げが進み、企業規模間の賃金差は縮小)
次に、企業規模別に、上記と同様に賃金のばらつきをみると、前提として、大企業の方が中小企業4よりも、上位10%・下位10%比が高く、企業内における労働者の賃金のばらつきが大きい(第2-2-3図(1)、(2))。その上で、企業規模別の賃金比の推移をみると、従業員1,000人以上の大企業では、上位10%・下位10%比は、2009年の3.2倍強から、2024年には2.9倍強に低下しており、従業員10~99人の中小企業では、2009年の2.7倍弱から2024年には2.4倍弱に低下している。このように、企業規模の大小によらず、相対的に賃金の低い労働者において、より高い賃金上昇率が実現していることが確認され、2020年代の賃上げ局面についても同様のことが言える。
さらに、大企業と中小企業の間での格差の状況を確認するため、下位10%点、下位25%点、中央値、上位25%点、上位10%点の各点について、大企業と中小企業の賃金比をとり、その推移をみると(第2-2-3図(3))、例えば上位10%点については、2009年時点では1.41倍、つまり大企業の上位10%点の方が、中小企業の上位10%点よりも約41%賃金水準が高い状況であったのに対し、2024年時点では1.34倍(大企業の賃金は中小企業より34%高い状況)まで低下しており、企業規模間の賃金差の縮小が確認される。上位25%点等についても同様に、大企業と中小企業の賃金差は縮小しており、2020年代の賃上げ局面でもこうした傾向に変わりはない。このように、総じて、大企業と比較して、中小企業における賃金の底上げが進んできたことがうかがえる。
(中小企業の一部には賃上げの遅れ。価格転嫁や生産性向上、経営基盤強化が重要)
このように、中小企業の賃金底上げが進んできた一方で、中小企業内で賃金上昇率の減速や二極化の兆しがみられていないかにも留意が必要である。例えば、2022年から2024年までの賃金上昇率を企業規模及び年齢別にみると(第2-2-4図)、3年通算では、従業員10~99人の中小企業と1,000人以上の大企業でほぼ同程度の賃金上昇率になっているが、23年は、全体的に10~99人の中小企業の方が賃金上昇率が高かったのに対し、2024年の賃金上昇率は全体的に1,000人以上の大企業の方が高くなっている。サンプルの振れの影響もあり得るが、中小企業の賃上げの勢いに減速感が生じていないか注意が必要である。
また、日本商工会議所の調査によると、正社員について、5%以上の賃上げを実施した企業の割合は、2024年度は24.7%であったのに対し、2025年度は30.3%と上昇している(第2-2-5図(1))。その一方で、賃上げを実施しない、又は賃金を引き下げたという企業の割合は、2024年度の19.2%から2025年度は20.2%とわずかながら上昇している。小規模の企業に限定しても、5%以上の賃上げを実施した企業の割合は、2024年度の23.5%から2025年度に27.0%と上昇した一方、賃上げなし、又は賃金を引き下げたという企業の割合は30.1%から31.1%にやや上昇している。中小企業は、全体として、付加価値に占める人件費の割合である労働分配率が大企業と比べて高い水準にある中(第2-2-5図(2))、高い賃上げを実施できる企業と、付加価値を高められず賃上げの余力が低下し、賃上げがままならない企業への二極化が生じつつある可能性には留意が必要である。
この点に関して、詳細は第3章第2節で議論するが、経済産業省「経済産業省企業活動基本調査」と中小企業庁「中小企業実態基本調査」の調査票情報から、労働生産性と一人当たり賃金の状況を比較すると、全体として、大企業、中小企業共に生産性水準にばらつきがある中で、生産性の高い中小企業は、大企業に比べて遜色ない状況にあり、こうした中小企業では、労働者に対して、大企業と遜色ない賃金を支払っていることが確認される(後掲第3-2-30図参照)。このように、中小企業の持続的な賃上げのためには、労務費の価格転嫁の更なる促進に加え、省力化投資をはじめとした投資促進による生産性向上、さらには事業承継・M&Aによる経営基盤の強化といった取組が不可欠であると言える。
(2023年は若年層中心の賃上げであったが、2024年以降、中高年層にも一定の広がり)
次に、年齢別の賃金上昇率のばらつきについて、今回の賃上げ局面における動向として、フルタイム労働者の年齢階級別の所定内給与について、2021年から2024年までの3年間の累積上昇率を確認すると(第2-2-6図)、30代前半以下の若い年齢層において9%程度と、中高年層に比べて高い伸びが実現している5。こうした傾向は、30年ぶりの高い賃上げとなった2023年に顕著であったが、2024年においては、50代前半を除いては6中高年層にも賃金上昇の広がりが確認される。また、第1章第2節でも示したとおり、2025年について、給与計算代行サービスのビッグデータから確認すると、対象企業のサンプルの偏りには留意が必要なものの、若年層のみならず中高年層でも、賃金上昇率が着実に高まっており、人手不足感が高まる中で、賃上げについても広がりがみられるようになっている可能性がある。なお、年齢別賃金に関しては、生まれ年(コーホート)別も考慮しつつ、賃金カーブの構造的な変化に着目し、賃上げの実感にどのような影響を与えているかについて後述する。
コラム2-3 新卒初任給のばらつきに変化はあったか
本論では、年齢別のフルタイム労働者の所定内給与における賃上げ率のばらつきを確認したが、ここでは、29歳以下の入職者における割合が50%程度7を占める新規学卒者の初任給について確認し、過去に指摘されていたように横並びの傾向が強い8のか、近年では変化が生まれているのかについて検討する。「賃金構造基本統計調査」を用いて新卒初任給9のばらつきを確認すると(コラム2-3-1図(1))、まず、大学卒業の新卒者については、上位10%・下位10%比をはじめ、いずれの指標でみても、2009年から2019年にかけて、ばらつきの程度はほぼ変化がなかったが、2019年から2024年にかけては、ばらつきが大きく拡大していることが分かる。例えば、上位10%・下位10%比では、2009年の1.29倍から2024年の1.41倍に上昇し、その上昇の大部分が2019年から2024年にかけて生じている。高校卒業や大学院卒業の新卒者についても、同様の傾向が確認され、全体として、2019年から2024年にかけて、新卒初任給のばらつきがやや拡大したことが分かる。
また、大企業と中小企業の間における初任給の差も、上位10%点など初任給水準が相対的に高い層を中心に拡大傾向にある(コラム2-3-1図(2))。中央値と上位10%点のそれぞれについて、大学卒業の新卒者初任給について、大企業と中小企業の比をとると、中央値では、2009年の1.05倍から2024年に1.09倍に、上位10%点では、2009年の1.00倍から2024年の1.11倍にそれぞれ上昇している。一方、下位10%点でみると、2009年の1.08倍から2024年の1.07倍とほぼ変わりがない。新卒の初任給は、同じ学歴・企業内のばらつきに加えて、初任給水準が以前から高かった属性の新卒者を中心に、企業規模間でもばらつきが拡大している(初任給が以前から高かった属性の新卒者に対し、大企業が更に高い初任給を提示している)ことが示唆される。
以上は2024年までの状況だが、2025年においては、更にばらつきが拡大している可能性がある。例えば、帝国データバンクの調査によると、2025年に初任給を引き上げると回答した企業は、大企業、中小企業では70%前後なのに対し、小規模企業では62%程度となっている(コラム2-3-2図(1))。また、東証プライム市場上場企業の中で、初任給を引き上げる企業は、大学新規卒業者の初任給の引上げ額について、1万円以下と答えた企業の割合が低下(28.8%→21.3%)した一方、3万円以上と答えた企業の割合が上昇(5.2%→15.5%)し、初任給の引上げ幅が拡大しているとみられる(コラム2-3-2図(2))。
このように、小規模など一部の企業では、初任給が据え置かれる一方で、大企業を中心に初任給の引上げ幅が拡大しており、初任給におけるばらつきが拡大している可能性があると言える。人手不足感が極めて高い中、資金余力が相対的に高い大企業を中心に、初任給を引き上げることにより若手人材の確保に取り組んでいるのに対し、初任給を引き上げる余力に乏しく人材獲得に競り負けている企業があり、そうした差によって初任給時点から賃金のばらつきが拡大している可能性なども含め、今後の動向を注視する必要がある。
(労働需給のひっ迫にもかかわらず、賃金が伸びていない産業がある)
次に、産業ごとのばらつきを確認する。まず、フルタイム労働者の所定内給与月額について、2019年と2024年の水準を確認すると(第2-2-7図(1))、2019年は産業計で30.6万円であるが、最も水準が低い宿泊・飲食サービス業で24.9万円、最も高い電気・ガス・熱供給・水道業で41.6万円となっていた。2024年には産業計で33.0万円(対2019年比+8.0%)となる中、最も水準が低い産業(宿泊・飲食サービス業)、高い産業(電気・ガス・熱供給・水道業)は2019年時点と変わらず、それぞれ27.0万円、43.8万円となっている。ここで、2019年時点の賃金水準を横軸に、2019年から2024年にかけての賃金の伸び率を縦軸にした産業別の散布図を作成し、各産業の相対的な位置を確認する(第2-2-7図(2))。同図において、第1象限は2019年時点の賃金水準が相対的に高く、2024年にかけての賃金の伸び率も高い産業、第3象限は2019年時点の賃金水準が低く、2024年にかけての賃金の伸び率もゼロ未満の低い産業が含まれ、これらは産業間の賃金のばらつき拡大に寄与する産業である。逆に、第2象限は元の賃金水準が低い一方、2024年にかけての伸び率が高い産業、第4象限は元の賃金水準が高い一方、2024年にかけての伸び率がゼロ未満の低い産業が含まれ、いずれも産業間の賃金のばらつきの縮小に寄与する。この中で、産業間の賃金のばらつき拡大に寄与している産業としては、不動産・物品賃貸業、金融・保険等(第1象限)、医療・福祉等(第3象限)である一方、ばらつき縮小に寄与している産業には、宿泊・飲食サービス、運輸・郵便(第2象限)、情報通信、教育・学習支援(第4象限)等がある。全体として、産業間格差は必ずしも縮小する方向には向かっていないと考えられる10。
賃金は、市場メカニズムの下では本来、労働市場における需要と供給が均衡する水準に決定され、労働需要が労働供給を超過している場合は上昇、逆に下回っている場合は低下する。また、需要が一定の下では、労働者がより賃金水準が高い産業での就業を希望すれば、賃金水準が高い産業では労働供給が相対的に増加して賃金が低下し、逆に賃金水準が低い産業では労働供給が減少して賃金が上昇し、産業ごとのばらつきは縮小することになる。一方、産業ごとに生産性水準や成長性が異なるほか、労働者に求められるスキルの違い等により、産業によって労働市場が分かれているとも考えられる。異なる労働市場では労働需給の状況も異なることから、必ずしも異なる産業の賃金が同水準に収束するとは限らないとも言える。ただし、少なくとも、人手不足感の強い産業では賃金をより引き上げて必要な労働者を惹きつけようとするが、人手不足感の弱い産業ではさほど賃上げに積極的にならない、といった構造は、通常の労働市場のメカニズムからも想定されると言える。
そこで、産業ごとの賃金水準に影響を与えると思われる産業ごとの人手不足感と、その産業の賃金上昇率との関係をみると(第2-2-8図)、人手不足感が相対的に高い(低い)が、賃金上昇率が相対的に低い(高い)という、労働市場の一般的なメカニズムと異なる動きをしている産業が散見される。例えば、人手不足感が高いが賃金が伸びていない産業としては、先述の産業間のばらつきの拡大に寄与していた医療・福祉に加え、建設業、情報通信業がある。このように人手不足感が高いにもかかわらず、賃金が十分に伸びていない産業では、賃金引上げに当たっての制度的あるいは必要なスキルのミスマッチなど市場メカニズムだけでは解決が難しい何らかの制約に直面している可能性があると考えられる。
(職種別にみても、保安職業従事者、建設・採掘業従事者等において高い人手不足と低い賃金上昇率が共存)
また、現実の労働市場では、事務職や販売職などの職種の単位でも、人手不足感と賃金の関係が成立している可能性がある。実際、労働者が仕事を探す場合、「職種(例えば、経理か販売か製造ラインか等)は問わず、特定の産業(例えば、自動車製造業等)での仕事を希望する」というケースよりも、「産業(例えば、自動車製造業か外食サービス業か小売業か等)は問わず、特定の職種(例えば、経理等)の仕事を希望する」というケースの方が多いと考えられる11。
そこで、職種ごとの人手不足の度合いと賃金水準の関係をみる。人手不足の度合いを示す一つの指標として、ハローワークにおける職種ごとの有効求人倍率をとると(第2-2-9図(1))、2024年平均は、全職業計(パートタイムを除く常用)では1.22倍12である一方で、最も低い事務従事者では0.43倍、最も高い保安職業従事者では6.91倍、建設・採掘従事者で5.72倍であるなど、大きなばらつきがみられる。ハローワークを通じて入職する人の割合が持続的に低下している状況を踏まえると、有効求人倍率が労働市場全体の人手不足の状況を表しているとは必ずしも言えない点には留意が必要であるが、ある民間雇用仲介事業者における転職求人倍率13を見ても、事務・アシスタントの倍率が0.5倍を割り込む一方、営業職は3倍程度、IT・通信系のエンジニアでは10倍超が続くなど、職種間のばらつきの大きさは共通している。
一方、賃金上昇率(2020年から2024年にかけての累積上昇率)をみると(第2-2-9図(2))、有効求人倍率の低い事務従事者で+11.2%と平均(9.6%)より高い伸びとなる一方、保安職業従事者で+3.7%、建設・採掘従事者で+2.4%と、平均の賃金上昇率を大きく下回っている状況にある。散布図で確認すると(第2-2-9図(3))、第1象限(第3象限)が「有効求人倍率が相対的に高く(低く)、賃金上昇率が高い(低い)」という、経済学的な市場メカニズムが働いている職種であるが、全ての職種がこれらの領域に位置するわけではなく、上述のとおり、事務従事者や建設・採掘従事者はそれぞれ第2象限、第4象限に位置している。このように、産業単位と同様に、職種単位でも、人手不足が厳しいにもかかわらず、賃金水準を引き上げることによって求職者を引き寄せ、人手不足度合いを緩和させられるのではなく、市場メカニズムだけでは解決が難しい何らかの制約があって賃金が十分に引き上げられないため、求職者を引き付けることができず、高い人手不足度合いが続く、という構図がみられる。
(市場メカニズムが機能しにくい分野の賃上げを政策的に補完することが重要)
このように、人手不足感が高いにもかかわらず賃金が十分に上昇しない状況は、何らかの形で市場メカニズムが機能していない、公的部門や、官公需の動向に影響を受けやすい業種や職種に多くみられると言える。内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2025b)では、公的部門やそれに近い産業として、公務のほか、医療・福祉、教育・学習支援業、建設業を挙げ、こうした部門に従事する労働者は全体の3割程度を占めていると指摘している。ここに含まれるうち、医療・福祉関連については、診療報酬や介護報酬等により、事業のサービス単価が決まる。医療・福祉分野の代表的な職種として、男女別に、看護師や介護職員の賃金(年収換算)を抽出し、大学卒業や高校卒業の正社員における職種平均賃金と比較する。看護師について、男性の場合には、全年齢を通じて高校卒業の正社員の平均賃金と同等となっており、大学卒業のそれを下回る一方、女性の場合は、全年齢を通じて高校卒業の正社員の平均賃金を上回っており、大学卒業のそれとの比較でも20代では上回っているが、35歳以上では下回る。介護職員については、男性では全年齢通じて高校卒業の正社員の平均賃金を下回り、女性も同等以下の水準である(第2-2-10図(1))。同様の比較を建設関連職種について行うと、各種建設機械を運転する職種や大工、土木等の建設作業に従事する職種について、いずれも高校卒業の男性14の正社員の平均賃金水準を下回っている。建設業界は重層的な下請け構造を特徴とすることに鑑みれば、過度な重層下請になると、構造上、下請け事業者における労務費の価格転嫁がまだ十分ではなく、結果として、有効求人倍率でみた人手不足感が高いものの、高い賃金を提示して人材を確保することが困難になっている状況がうかがえる(第2-2-10図(2))。
以上のように、人手不足感が高くても、賃上げを十分に行えていない産業・業種も散見される。こういった分野では、産業ごとの特性から、経済学が想定するような価格や賃金をシグナルとする市場のダイナミズムだけに頼るのではなく、それを補完する政策的対応によって、事業者が賃上げしやすい環境を整備することが必要と考えられる。賃金と物価の好循環を定着させていくためには、こうした市場機能の補完を通じたきめ細かい政策対応を粘り強く進めていくことが重要である。
2.なぜ賃金上昇が実感されにくいのか
(賃金上昇の実感は広がりを欠いている)
既に見てきたように、2024年度の経済全体の平均的な名目賃金上昇率は33年ぶりの伸びとなり、賃上げの広がりも着実にみられつつある。これに対し、賃金が上昇したという実感を持つ人は、さほど増加しているわけではない。例えば、日本銀行「生活意識に関するアンケート調査」をみると、現在の収入が1年前と比べて増えたと答えた人の割合は、2019年から2025年にかけて、13.0%から16.3%へと小幅な増加とはなったものの、依然として限定的なレベルにとどまっている(第2-2-11図(1))。同様に、1年後と現在の収入を比べて「増える」と答えた人の割合も、同期間で10.2%から11.1%と、ごくわずかな増加にとどまっており、期待賃金上昇率も高まっていない15。また、消費者マインドの指標である消費者態度指数を構成する四つの要素のうち、名目賃金の上昇見込みに関する見方に相当する16「収入の増え方」をみると(第2-2-11図(2))、近年の賃上げの進展もあって、消費者態度指数全体よりは高い水準にあるものの、賃上げが緩慢であった2010年代後半の指数水準と同程度かやや低いものにとどまっている。同じく「収入の増え方」を世帯主年齢階級別にみても、勤労世代に当たる各年齢層において、指数水準は2010年代後半と同程度かそれよりも低い状態にある。賃上げのノルムの定着という意味では、労働者・家計サイドにおいて、賃金が継続的に増加しているという実感を持ち、将来的にも賃上げが持続するという予想が広く共有されることが極めて重要である。ここでは、長期的な賃金カーブの構造の変化という観点に着目し、なぜ賃金上昇の実感が十分に広がっていないのかを検証する。
(年齢別にみた賃金カーブは上方にシフトしてきた一方、フラット化が進む)
まず、長期にわたる年齢階級別の賃金水準の変化を確認する。「賃金構造基本統計調査」により、フルタイム労働者について、1984年以降の5年ごとに、年齢別の名目賃金(所定内給与の月額)のプロファイル(以下「賃金カーブ」という。)を描くと(第2-2-12図(1)①)、1984年時点では、20~24歳の13.5万円から始まり、年齢を追うごとに賃金が上昇し、40代の25.3万円をピークに賃金が低下する形となっている。一方、直近年である2024年の賃金カーブをみると、20~24歳の23.3万円から始まり、55~59歳の39.2万円まで上昇していることが分かる。この間、1984年から1990年代後半までは、各年齢層の賃金水準が増加し、賃金カーブが上方にシフトしていたが、その後は、長引くデフレの下、2019年頃までは、賃金カーブの水準はほとんど動かず、専ら年齢ごとの賃金のパターンが変化していた。これに対し、2024年にかけては、若い年齢層を中心に賃金水準が上昇した形となっている。各年齢別に40年間にわたる累積の賃金上昇率をみると(第2-2-12図(1)②)、1984年から2024年の40年間で、20代前半は72.6%の上昇であるのに対し、最も賃金上昇率の低い40代前半では38.7%の上昇となっており、若年層の賃金の伸びが相対的に高く、中年層が相対的に弱いという賃金カーブのフラット化が進んだことが確認される。また、10年おきに寄与度分解すると、賃金上昇の大半は1984年から1994年と、2014年から2024年の間に生じており、1994年から2014年の間は横ばい、あるいは中年層では賃金水準が低下していたことが分かる。
さらに、賃金カーブのフラット化をより明確にみるために、各年について、各年齢階層の賃金が20~24歳の賃金水準の何倍かを確認すると(第2-2-12図(1)③)、1984年から2024年にかけて、40代を中心に倍率が低下している。なお、男女別にみると(第2-2-12図(2)、(3))、男性は「男女計」とおおむね同様の動きをしているが、女性の場合は、総合職で働く女性が増加していることや、産休・育休制度の充実等により継続雇用しやすい環境整備が進んだこと等により2014年まではむしろ賃金カーブがスティープになっていたが、2024年にかけては男性と同様にフラット化している。
こうした賃金カーブは、ある特定の年時点で、各年齢階級に位置している労働者の賃金水準をつないだものであり、各年時点において、自身の賃金が5年後や10年後などの将来時点でどの程度まで増加するかの目安として認識され得るものと考えられる。本章第1節で議論したように、個人消費の着実な回復のためには、現在の所得に加え、賃金が持続的に上昇し、将来得られる所得が増加すると予想できることが重要である。ここでは、フルタイムの男性労働者を例として、各年時点において、就労初期に当たる20代前半の労働者が、賃金カーブを踏まえて、将来得られるであろう賃金の予想を形成すると仮定して、60歳まで継続して働いた場合の賃金を合算した疑似的な予想生涯賃金を確認する17。各年の比較に当たっては、その時点の賃金カーブに基づき、22歳時点の労働者が、退職までに得られるであろう賃金を合計し、就労開始の22歳時点の賃金で除した値を求める(以下「予想生涯賃金の対初任給倍率」という。)。
第2-2-13図(1)で結果をみると、予想生涯賃金の対初任給倍率は、1984年から2004年頃まではほぼ変化がないのに対し、2009年以降は低下し、2024年時点では1984年時点と比べると12%ほど低下した状態となっている。具体的には、1984年時点では予想生涯賃金は20~24歳時点の賃金の62.2倍だが、2024年時点では54.4倍となっており、将来にわたっての賃金上昇(昇給)幅に対する期待が過去よりも低下している可能性がある。特に、賃金カーブがフラット化したことによって、いわゆる働き盛りであり、子育て期にも相当する30代後半~40代で得られる賃金は、1984年時点では就労初期と比べて8割程度上昇していたものが、2024年時点では4~5割程度の上昇にとどまっているなど、近年になるにつれて、予想される生涯賃金(初任給に対する生涯賃金の上昇期待)の低下が進んだことがうかがえる18(第2-2-13図(2))。
(団塊ジュニア世代以降のコーホートでは、年齢上昇に伴う賃金上昇ペースが鈍化)
以上では、ある特定の年における賃金カーブとその変化をみたが、次に、同じく「賃金構造基本統計調査」に基づき、生まれ年別の世代(コーホート)に着目し、あるコーホートに属する労働者が、年齢を重ねる中でどの程度賃金上昇を経験してきているかを確認する。コーホートとして、1960-64年生まれ(2024年時点では60-64歳)から1995-99年生まれ(2024年時点では25-29歳)のコーホートを取り出し、それぞれのコーホートが各年齢段階において平均的にどの程度の名目賃金を得てきたかを示す19。第2-2-14図(1)は、フルタイムの男性労働者のケースであるが、例えば、1965-69年生まれのコーホートは、20-24歳時点に比べて、25-29歳時点で1.5倍弱、30-34歳時点で約1.8倍、35-39歳時点で2倍超となるなど、20代~30代を中心に賃金上昇が続いていたことが分かる。一方、いわゆる団塊ジュニア世代が含まれる1970-74年生まれのコーホートは、25-29歳時点で20-24歳の約1.23倍、30-34歳時点で約1.43倍、35-59歳時点で約1.61倍と賃金上昇ペースが鈍化し、50-54歳時点でようやく20-24歳時点の2倍の賃金水準に到達するペースとなっている。それ以降の年に生まれたコーホートについても、おおむね1970-74年生まれの上昇ペースに近いものとなっているが、各コーホートにとっての直近の賃金の伸び(2019年から2024年にかけての賃金の伸び)は、いずれのコーホートでもやや上向いていることが分かる20。これは、人手不足感の高まりと物価上昇への対応から、ここ数年の賃上げ率が高まっていることを反映している。なお、名目賃金の絶対額で評価すると、20代時点の賃金は、1960-64年生まれから1965-69年生まれにかけては着実に上昇していたが、その後の世代では大きな変化がなく、近年の1995-99年生まれや2000-04年生まれで再び上昇している。フルタイムの女性労働者については、生まれ年が早い世代を中心に、全体的に賃金水準が男性労働者より相対的に低く、出産・子育てによる退職等から勤続年数が短くなる傾向があったことから、年齢を重ねることに伴う賃金の伸びが緩やかであるという違いはあるものの、コーホート間の賃金上昇ペースの違い等については、フルタイムの男性労働者と同じ傾向がみられる。
次に、各コーホートについて、前掲第2-2-13図で議論したように、20-24歳時点において、その年時点の賃金カーブから予想された将来にかけての賃金のパス(以下「事前想定賃金」という。)と、実際に実現・経験した賃金のパス(以下「事後経験賃金」という。)を男性フルタイム労働者について比較すると(第2-2-14図(2))、まず、1965-69年生まれのコーホートでは、25-29歳以降のいずれの年齢段階においても、事後経験賃金が事前想定賃金を大きく上回って推移していたことが分かる。一方、1970-74年生まれから1980-84年生まれのコーホートでは、事後経験賃金が事前想定賃金を総じて下回って推移していることが確認される。過去数年の高い賃上げの結果もあり、これらのコーホートでも直近時点では、事後経験賃金が事前想定賃金にようやく追いついた形にはなっているものの、長期間にわたり実際の賃金パスが、事前に想定していた賃金パスを下回る状態が続いた中で、現在あるいは今後に賃金が継続的に上昇するという点に関して、肯定的な受け止めが難しくなっている可能性が考えられる21。
なお、より生まれ年の遅い若いコーホートについては、例えば1990-94年生まれ世代では、25-29歳段階以降において、事後経験賃金が事前想定賃金を上回るようになっているなど、賃金上昇の持続性に対する受け止めが変化していてもおかしくはない22。この点については、近年になって物価上昇がみられるようになったことから、物価上昇分を割り引いた実質賃金水準としての評価も必要であり、この点は後に議論する。
(勤続年数に応じた賃金の上昇ペースは近年にかけて緩やかに)
ここでは、賃金カーブに関わる別の論点として、勤続年数と賃金の関係も変化しつつあることを指摘したい。日本では、終身雇用や年功序列型賃金といった、メンバーシップ型のいわゆる日本型雇用システムの下で、勤続年数に応じた賃金上昇の度合いが強いと言われる23。この度合いが強いほど、労働者は、ジョブ型雇用のように職務と賃金が結びついている場合と異なり、転職等を行わず一つの企業に勤め続けた場合でも、賃金が上昇する傾向にあることとなる。一方、この度合いが弱ければ、労働市場全体で賃金が上昇していたとしても、自社の賃金表が変わらない限り、転職等により新たな職を見つけなければ賃金が上昇しないこととなる。言い換えれば、一つの企業に勤め続けている労働者は、いわゆる「内部労働市場」における定期昇給等による賃金上昇の影響を大きく受ける一方、転職市場等の「外部労働市場」を含めた労働市場全体の賃金上昇の影響は間接的なものにとどまる。そのため、労働市場全体の賃金上昇率が高まる一方で、内部労働市場における定期昇給等による賃金上昇が弱まれば、一つの企業に勤め続けている労働者の賃金上昇率は相対的に低下することになり、それが賃上げの実感がないことの原因になっている可能性がある。
そこでまず、勤続年数の上昇に伴う賃金の上昇ペースの国際比較をすると(第2-2-15図(1))、2018年時点では、男性を中心に、日本の賃金上昇ペースは英国やフランス、スウェーデンなどと比べて高い傾向にあった。一方、2022年時点をみると、主に日本の賃金上昇ペースが低下したことにより、日本の賃金上昇ペースはフランスやドイツなどに近づきつつある。
次に、フルタイム男性労働者を例にとり、20-24歳において新卒として採用されて以降、同じ企業に勤め続けている場合の勤続年数版賃金カーブ24について、より長い期間の動きを確認すると、2009年から2024年にかけて、勤続年数15~29年に対応する40代~50代前半を中心に勤続年数版賃金カーブのフラット化が進んでいることが分かる(第2-2-15図(2))。特に、2014年から2019年、更に2024年にかけてフラット化が進んでおり、日本型雇用システムの多様化や人口構成の変化に伴い、長期勤続の場合における賃金カーブのフラット化はここ10年程度の現象であることが分かる25。また、フルタイム女性の場合も、男性ほど顕著ではないが、2014年から2024年にかけてフラット化がみられる。
次に、各年時点で、勤続年数(0年、3~4年、5~9年、以降5年刻み)ごとに、勤続年数0年に対する賃金比を求め、勤続年数プレミアムとして示したものが第2-2-15図(3)である。まず、フルタイム男性について、勤続年数が最も長い(新卒採用時から同じ企業に勤め続けている)と考えられる労働者の賃金と、勤続年数0年の労働者の賃金を比較すると、2009年時点では、勤続30年以上(55歳~)の段階で、勤続年数0年の労働者と比較して賃金が約1.8倍(+81%)となるなど、極めて高い勤続年数プレミアムとなっていた。同プレミアムは、最近にかけて縮小しており、2014年では+62%、2019年では+54%、2024年では+35%と、2009年から比べると3~4割程度縮小している。同様に、勤続15~19年(40~44歳)のプレミアムも大幅に縮小するなど、全年齢で2024年にかけて減少がみられている。フルタイム女性でも同様に、勤続年数プレミアムの大幅な縮小がみられる。
このように、従来前提とされていた年功序列型の賃金構造が徐々に崩れつつあることによって、転職等によって、より待遇の良い企業に移動することが何らかの理由で困難な人々を中心に、賃金の先行きに対して楽観的な見通しを持てないという状況につながっている可能性もある(転職の実施に与える影響の分析は本章第3節で議論する。)。
(実質で見た賃金水準カーブは水準も低下)
最後に、上述したコーホートベースの賃金カーブについて、物価変動の影響を取り除いた実質ベースで評価し、各世代における賃金上昇の実感との関係を議論する。第2-2-16図では、各コーホートについて、20-24歳時点基準として、年齢を重ねるにつれて得られる名目賃金を、その間の物価変動分を除去して実質化している。その際、例えば、1999年に25-29歳の状況から2004年に30-34歳に移行する際には、世帯主年齢階級別の消費者物価指数の情報に基づき、1999年に20代後半の世帯主が直面する物価指数から2004年に30代前半の世帯主が直面する物価指数への変化を考慮した。結果をみると、男女共に、名目ベースの賃金カーブと比べると、1960~64年や1965~69年生まれのコーホートが、それより若いコーホートと比べて高い水準になっている点は同じだが、その差は名目ほど大きくない。一方、名目ベースでは1970~74年生まれよりも賃金カーブがややスティープとなっていた1980年生まれ以降のコーホートでは、実質ベースでは、1970~74年生まれと比べ賃金カーブの傾きがややフラットな傾向がみられる。名目の賃金水準としては着実に上昇しているものの、近年の物価水準の高まり26もあって、実質ベースで見た賃金上昇ペースは、より以前の世代よりも低下している傾向があると考えられる。上述の「生活意識に関するアンケート調査」や「消費動向調査」における「収入の増え方」は、現役層にとっては「名目賃金」の動向に関する認識を尋ねる質問であるが、こうした質問への回答結果において、幅広い年齢層において、賃金上昇の実感が希薄であるのは、以上のように年齢を重ねる中での実質的な収入の伸びが、物価上昇によって抑制されていることにも起因している可能性があると言える。
(円滑な労働移動の促進により、転職を後押しする環境整備が重要)
以上をまとめると、近年の30年超ぶりの賃上げは、平均的な賃金上昇率の着実な高まりにつながっているものの、必ずしも賃金上昇の実感が労働者全体に広がっているわけではなく、継続的に賃金が上昇していくというノルムが定着するという状況には至っていない。その背景としては、①現役の世代の中では、若い時点での将来の賃金に対する期待値と比べて、実際の賃金が十分に伸びてこなかった世代が多いこと、②勤続年数に応じた賃金上昇が過去10年程度で抑制的になっていること、③実質で見た賃金カーブの傾きが、物価上昇に直面する中で、相対的に若い世代においてややフラット化している傾向がみられること、といった要素があると考えられる。これらを踏まえると、①に対しては、まずは持続的な賃上げが今後も継続する環境を整えるとともに、②円滑な労働移動の促進など労働市場改革を通じて、転職を希望する労働者がそれを実現しやすい環境を整備すること27、さらに、③2%の緩やかで安定的な物価上昇を実現するとともに、実質賃金が継続的に上昇する環境を整えること、などが賃金上昇の実感が広がり、ノルムが定着していくことに資する意味で重要と考えられる。
3.賃金の下方硬直性は解消したか
賃金上昇が持続的なものとなるか、という点を評価するに当たっては、コロナ禍前において、人手不足感が高いものの、賃金上昇を抑制的なものとしていた各種の背景・要因が変化しているかを検証することが極めて重要である。この点に関し、「2024年度日本経済レポート」(内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2025a))においては、女性の労働参加等の潜在的な労働供給余地の影響、パートタイム労働者比率の上昇など労働者の構成変化の影響、転職等の外部労働市場が発展していないことによる影響といった賃金上昇を抑制する要素が変化し、賃金上昇の持続可能性が高まりつつあることを議論している(議論の概略についてはコラム2-4参照)。本節では、残された主な論点の一つとして、いわゆる賃金の下方硬直性とこれに由来する上方硬直性について、2022年までの賃金に関するパネルデータ等を活用して、コロナ禍前後で何らかの変化がみられているのかを分析する。
コラム2-4 人手不足にもかかわらず賃金上昇が抑制された背景と近年の変化~「2024年度日本経済レポート」における議論の概要~
「2024年度日本経済レポート」では、賃金上昇が持続的なものとなっているかを評価するために、同様に人手不足感が高かった2010年代後半との違いを中心に、潜在的な労働供給余地の低下、労働者の構成変化、外部労働市場の活発化という3つの観点から議論した。本コラムでは、その議論の概要を紹介する。
第一に、潜在的な労働供給余地の低下である。コロナ禍前に比べると、2020年代に入って以降は、女性を中心に非労働力人口における就業希望者数が減少傾向となり、企業側は、より高い賃金を提示しなければ人材が確保できない状況になっている可能性がある。実際に、労働供給の賃金に対する弾性値を推計すると、コロナ禍を経た2021年以降、女性を中心に弾性値が低下しており、より高い賃金が企業から提示されないと、労働供給が進まなくなっている可能性が確認された(コラム2-4-1図)。
第二に、労働者の構成変化の影響である。マクロ的な一人当たり賃金の上昇率は、相対的に賃金水準の低い労働者の比率が上昇すると、それぞれの労働者の賃金自体は上昇していても、平均としては押し下げられる。実際、相対的に賃金水準が低いパートタイム労働者の比率は2010年代を通じて高まり、仮にパート比率が2012年と同じであったと仮定した場合と比べると、パート比率の上昇により、2023年時点では平均賃金水準は3%程度低くなっていた(平均賃金上昇率を年平均0.3%ポイント程度押下げ)(コラム2-4-2図(1))。一方、「賃金構造基本統計調査」では、パート比率は近年にかけて上昇ペースが緩やかになっており、こうした労働者の構成変化による賃金上昇率の押下げは弱まっている可能性がある。また、フルタイム労働者における産業別、性別、年齢別の構成変化による賃金上昇率の押上げ・押下げ効果は、全体として、おおむね相殺し、賃金上昇率に対して中立的となっている(コラム2-4-2図(2)、(3)、(4))。
第三が、転職等の外部労働市場の活性化である。日本の労働市場においては、特にフルタイム労働者は、今雇われている企業の中で配属や昇進等を通じて配置が決まる「内部労働市場」の役割が強かったが、結果的に、労働需給が引き締まる中で、転職市場等の外部労働市場における賃金上昇の恩恵を受けられていなかった可能性がある。転職希望者数が増加する中で、実際、賃金水準への不満を理由に転職した労働者については、転職後にかけての賃金上昇率は、コロナ禍を経て着実に高まっており(コラム2-4-3図)、人材確保の観点からの賃上げ(外圧)が企業内の既に働いている雇用者の賃金を押し上げる効果(内圧効果)を通じて、マクロ的な賃金上昇率の押上げにも一定程度寄与している可能性がある。
(過去、経済が大きく悪化した年でも賃金引下げを実施する企業は限定的)
まず、「賃金の下方硬直性」とは、一般に、景気後退期であっても名目賃金を容易に引き下げることが困難であることを指し、従前の名目賃金水準が心理的な参照点となり、労働者が、その水準からの賃金水準の引下げを強く忌避するという認知的な特性(損失回避)や、賃金の低下に伴って生じるモチベーションの低下等が下方硬直性をもたらす要因とされる28。さらに、こうした下方硬直性が、翻って、景気拡張期であっても賃金の上方硬直性をもたらすという可能性も指摘されている29。これらは、物価や賃金の上昇率がゼロ近傍にあるというデフレ的な環境下に特有の現象とも言え、下方硬直性(やこれに伴う上方硬直性)が現時点において弱まっているかどうかは、今後の賃金上昇の持続性を占う上で重要な要素と考えられる。
次に、実際に賃金の下方硬直性がみられるかを確認する。厚生労働省「賃金引上げ等の実態に関する調査」により、賃金の改定状況(又は意向)を確認すると(第2-2-17図)、「1人平均賃金を引き下げた・引き下げる」と回答した企業の割合は、2014年以降、おおむね2%以下で推移している。また、比較可能な過去の中でこの比率が最も高かったのは2009年(世界金融危機直後)だが、名目GDP成長率が▲6%超となるような経済悪化局面においても、「1人平均賃金を引き下げた・引き下げる」と回答した企業は1割強であった。また、同様に新型コロナウイルス感染症の感染拡大により▲3.3%の名目GDP成長率となった2020年についても、賃金を引き下げたと回答した企業の割合は2%程度であった。このように、大幅なマイナス成長となった時期においても、企業が賃金を引き下げる例は限定的であり、賃金の下方硬直性の存在を示唆するものと言える。
(賃金の下方硬直性は、過去よりも緩和されているが、依然として存在)
一方、この調査の対象は「1人平均賃金」であり、個々の労働者について下方硬直性が働いているかどうかは、同調査からは確認できない。そこで、厚生労働省「賃金構造基本統計調査」の調査票情報を用いて30、個々のフルタイム労働者の所定内給与でみた賃金上昇率の分布とその変化を確認する(第2-2-18図(1))。まず、2016年以降、マクロ的な平均賃金の上昇率が高まるにつれて、賃金上昇率の分布も徐々に右(プラス)側に移動していることが分かる。同時に、下方硬直性、すなわち、賃金上昇率の分布が0以上に偏る現象も確認される。仮に下方硬直性が存在しない場合、こうした分布は基本的に左右対称になると考えられるが、実際の分布(密度関数の形状)をみると、いずれの年でも左右非対称となっており、0の右側(賃金が増加)は確率密度が緩やかに低下しているのに対し、0の左側(賃金が減少)は急速に低下しており、左右非対称になっている。このことは、下方硬直性がなければ賃金上昇率がマイナスとなっていたであろう労働者の賃金上昇率が、下方硬直性の存在により0(近傍)に据え置かれていることを示している。また、平均の賃金上昇率が高まり、分布が全体的に右側にシフトした2024年においても、一定程度緩和したものの、0%近傍の左側(マイナス領域)で急速に確率密度が低下し、分布が左右非対称となるという構造自体は維持されている。
続いて、賃金の下方硬直性の度合いを定量的に確認するために、下方硬直性の影響を受けていると考えられる労働者の割合を推計する。まず、先行研究を踏まえつつ、下方硬直性の影響を受けている労働者として、賃金上昇率が+0.1%~▲0.1%の間に入る労働者と定義する31。例えば、下方硬直性がなければ賃金上昇率が▲2%になるはずであったところ、下方硬直性の存在により0%近傍に賃金上昇率が据え置かれた場合、下方硬直性の影響を受けていると言える32。このような労働者がどの程度存在するかが、下方硬直性の度合いを測る一つの指標となる。そこで、所定内給与を用いて、賃金の下方硬直性を経験した労働者の比率を時系列で確認すると(第2-2-18図(2))、2010年代はおおむね9~10%で推移していたが、2020年代以降、労働者全体に占める下方硬直性を経験した人の割合は低下し、2024年には5%程度となっている。ただし、名目賃金上昇率が全体的に上昇している中にあっては、賃金上昇率が0近傍にいる労働者の割合自体が低下していることから、その点を加味して、「賃金上昇率が+0.1%以下の労働者のうち、下方硬直性を経験した労働者」の割合を計算すると、2010年代は25~30%程度であったもの、2024年では20%程度となっており、賃金上昇率が0%近傍以下であった労働者に限定しても、下方硬直性の度合いは相応に低下していることが分かる。
なお、賃金の下方硬直性の度合いは、賃金の定義・範囲、すなわち所定内給与月額か、時間当たり所定内給与か、時間当たり定期給与(所定内給与+残業代等の所定外給与)か、時間当たり現金給与総額(定期給与+ボーナス等の特別給与)かによって異なり得る。実際、賃金の定義・範囲別に推計すると、賃金の下方硬直性の度合いは、所定内給与月額で最も高く、時間当たり現金給与総額で最も低くなる(第2-2-19図)。基本給である所定内給与月額の下方硬直性が最も高い点については、日本の企業の多くにおいて、賃金表等の形で基本給が定められていることと関係しているとされる33。すなわち、基本給を引き下げることは、賃金表に記載された賃金テーブルを減額することを意味し、これに対する労働者側の抵抗感も大きくなると考えられる。一方、残業時間を含む労働時間や賞与・ボーナスといった要因により賃金が減額されることは、労働者にとって、基本給に比べて相対的に受け入れられやすい可能性が高く、下方硬直性の度合いも低いと考えられる34。
(年齢別には60代、企業規模別には中小企業で下方硬直性の度合いが相対的に大きい)
次に、どのような労働者において、下方硬直性の度合いが高いのかを確認する(第2-2-20図)。年齢階級別にみると、年齢が上昇するほど、下方硬直性に直面する割合が緩やかに増えているが、特に60代で高くなっている。50代以下については、賃金カーブ上、定期昇給により賃金が上昇する傾向が強い年代であるため、負の経済ショック等に対応する観点から、企業が賃金上昇率を一定程度低下させるという調整が比較的容易であると考えられる(ショックがなければ3%賃金を引き上げる予定であったところ、2%にとどめる等)。一方、60代の場合は、定期昇給による賃金上昇がないケースが多いと考えられ、その際に、負の経済ショックに応じて賃金上昇率を引き下げる場合には、賃金の減額(ショックがなければ0%の賃金上昇率であったところ、上昇率を引き下げると▲1%となる等)を意味することとなり、労働者の抵抗感やモチベーション低下のリスク等から、下方硬直性が発生する蓋然性が高くなると考えられる。同様に、近年は、若年層において、相対的に賃金上昇率が高い状況にあることから、若年層の方が賃金の調整余地が大きく、下方硬直性の度合いが低くなっていると考えられる。
企業規模別でみると、99人以下の小規模企業において、下方硬直性を経験した労働者の比率が多く、企業規模が大きくなるにつれて、同比率が低下することが分かる。背景として、例えば、中小企業では人手不足がより厳しい中で、労働者の引き留めのために賃金を引き下げることが難しいという可能性のほか、大企業においては、中小企業に比べ、配置転換や役職手当の変更といった形で、賃金表自体の変更を行うことなく基本給を調整する手段が多く、これが大企業における下方硬直性の度合いを相対的に低めている可能性等が考えられる。
なお、男女別にみると、若干男性の方が下方硬直性を経験した比率が高いものの、大きな違いはない。また、産業別には多少のばらつきがあるものの、明確な傾向は見いだせない。
(コロナ禍でも下方硬直性に伴う賃金の上方硬直性が存在も、早期に解消した可能性)
ここまで、賃金上昇率が高まり、賃金上昇率の分布が全体的に右方向にシフトした2020年代前半において、賃金の下方硬直性の度合いは弱まったと言える一方で、依然として、一定程度の下方硬直性がみられることを確認した。最後に、こうした下方硬直性に伴う「賃金の上方硬直性」について確認する。賃金の上方硬直性は、上述のとおり、賃金の下方硬直性が存在する下で、企業側が、下方硬直性による過去の超過払いを回収する、あるいは将来賃金の引下げが必要となる状況に備えるなどの理由から、賃金上昇率が低く抑えられるという現象である。実証的には、2000年代後半の世界金融危機時における下方硬直性が、その後の賃金の上方硬直性をもたらし、賃金上昇率を押し下げたと指摘されている35。この点に関し、2020年の新型コロナウイルス感染症の感染拡大でも、大きな負の経済ショックが発生したが、この際に生じた下方硬直性は、賃金の上方硬直性をもたらしているのかを検証することとしたい。
ここでは、慶應義塾大学パネルデータ設計・解析センター「日本家計パネル調査」の個票を用いる36。分析に先立って、2021年と2022年37の賃金上昇率の分布を比較すると(第2-2-21図(1))、特に2021年においては、2020年時点で賃金上昇率が▲0.1%に満たなかった労働者38(下方硬直性を経験しなかった人・破線)の方が、2020年時点で賃金上昇率が+0.1%~▲0.1%だった労働者(下方硬直性を経験した人・実線)よりも、賃金上昇率が高い傾向にあることが分かる。2022年についても、賃金上昇率の差は幾分か縮小したものの、特にゼロ近傍では、下方硬直性を経験した労働者の方が相対的に賃金の上昇率が低いようにみえる。
さらに、先行研究39を踏まえ、同パネルデータを基に、DID(差の差)分析の手法により、2020年における賃金の下方硬直性が、2021年及び2022年の賃金上昇率にどの程度影響を与えていたかを確認する。第2-2-21図(2)①は、2020年に下方硬直性を経験した労働者(処置群、定義は第2-2-21図(1)と同じ。)とそうでない労働者(対照群)で、2020年、及び2021年・22年平均の賃金上昇率がどの程度異なったかをみたものである。これをみると、まず2020年は、下方硬直性を経験した人と経験しなかった人の賃金上昇率の差は11%ポイント程度となっており、本来であれば平均して11%程度賃金が低下していたところ、下方硬直性の存在により結果的に賃金水準が維持されていたことが分かる。一方、2021年・22年平均においては、2020年に下方硬直性を経験した人は、経験しなかった人に比べ、賃金上昇率が統計的に有意に1.5%ポイント程度低下していたことが分かる。下方硬直性を経験した人は、2020年時点で下方硬直性がなかった場合の賃金よりも平均して11%程度高い賃金水準にあったことから、望ましい賃金水準に近づけるために、2021年の賃上げ幅を抑えたり、賃上げを見送ったりしたケースがあると考えられ、賃金の上方硬直性が一定程度介在している可能性が示唆される。また、下方硬直性を経験していた労働者の割合から計算すると、2021年~2022年の賃金上昇率は、上方硬直性の存在により、0.33%ポイント程度下押し40されていたと考えられる。
一方、2021年と2022年の影響を分けて分析すると(第2-2-21図(2)②)、2020年の下方硬直性による影響は①とほぼ同じ(11%ポイント程度)であるが、上方硬直性の影響については、2021年には統計的に有意に▲3.5%ポイント程度であった一方、2022年は有意な影響が観測されない状況となっており、2022年には上方硬直性の影響はほぼ解消していたことが示唆される。先行研究によれば、2000年代後半の世界金融危機時の上方硬直性は、数年以上にわたり継続していた可能性が指摘されている一方41、コロナ禍の下方硬直性に起因する上方硬直性は比較的早期に解消しており、このことが、人手不足対応等の他の要因とあいまって、2023年以降の賃金上昇率の押上げに寄与した可能性があると考えられる。
以上の分析で確認されたように、2020年代以降、全体として名目賃金上昇率が高まる中で、下方硬直性の影響を受ける労働者の割合は低下しつつあるものの、下方硬直性自体は引き続き存在している。また、世界金融危機後にみられたように、2020年の新型コロナウイルス感染症の感染拡大に際しても、賃金の下方硬直性がその後の上方硬直性をある程度もたらしていたと言える。下方硬直性・上方硬直性による賃金調整の遅れは、賃金をシグナルとした市場メカニズムを損ない、経済全体の効率性を低下させる要因となる。賃金の下方硬直性やその影響を防ぐ観点からは、名目賃金上昇率が安定的に一定程度のプラスを維持することで賃金調整をより柔軟にしやすくすることが重要であり、引き続き、2%の安定的な物価上昇の実現とともに、これを上回る力強い賃上げの継続的な実現に向け、企業の生産性向上とその取組の支援、三位一体の労働市場改革等の政策を進めていくことが重要である。