序 明治以来の日本の経済

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一人当たりの実質国民所得をみると、1885年(明治18年)から1998年で約28倍にもなっている(第2-序-1図)。この間、経済構造は大きく変化し、第1次産業から第2次産業へ、そして第3次産業へと労働と付加価値がシフトした(第2-序-2表)。

(発展のための賦存条件)

明治維新(1868年)当時、欧米では、1830年代に産業革命を既に完了していたイギリスをはじめ、各国は資本主義経済を確立していた。

日本経済は、江戸時代において、既にいくつかの点で発展のための基礎的な条件が整えられていた。

商品の流通については、江戸時代初期に隔年の参勤交代に伴って、五街道や脇街道などの道路網が整備され、年貢米を商品集積地大阪や消費地江戸に廻送するために東廻り海路と西廻り海路が開拓されて、18世紀初頭には世界で初の米の先物市場が大阪で機能していた。また、寺子屋は、明治維新までに1万を超え(2)、読書と習字、あるいは算術が教えられていた。藩士の子弟の養成を目的として設立された藩校も200以上設立され、庶民に門戸が開かれている場合が少なくなかった。明治当初の就学率は男子43%、女子10%と推計するデータもある。さらに、開国以降、日本の輸出を担ったのは生糸であるが、その生産は慶長元和(1596年~1623年)から正徳享保(1711年~1740年)のころまでの約100年の間に生産量が4倍増となるなど、問屋制家内工業を主体として定着しており、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていた。

(明治維新当時の日本経済)

明治維新(1868年)を経て、政府は欧米諸国へのキャッチアップのための環境整備を始動させた。それらは、廃藩置県(1871年)による中央集権化、秩禄処分(1873年)による士農工商制度の解体、地租改正(同年)による政府収入の確保、内務省設置(1873年)による殖産興業政策の推進等多岐にわたり、新しい時代の要請に合わせて、国の仕組みを同時に改革するという大裁断であった。教育面では、学制(1873年)を公布し近代教育制度を構築した。その後教育令(1879年)で義務教育が最低16ヶ月(毎年4ヶ月以上を4年間)、小学校令(1886年)で4年、改正小学校令(1907年)で6年と定められ、そのころまでに小学校への就学率はほぼ100%近くにまで高まった。欧米諸国の産業革命の成果を導入するための条件を急速に整えたと言えよう。

(明治政府の殖産興業政策)

欧米諸国へのキャッチアップ過程は政府主導で行われた。

いわゆる殖産興業政策は、工部省(1870年設置)及び内務省を中心に進められた。富国強兵をキャッチフレーズとして、特に軍事工業に重点が置かれ、旧幕府直営鉱山であった佐渡や生野鉱山の官営化や横須賀などで官営の軍事工場の経営が進められた。また、官営の模範工場が設立されたが、そのうち富岡製糸場(1872年設立)や新町紡績所(1877年設立)などが名高い。これは、当時生糸が輸出の中心的存在だったため、生糸の生産に力を入れていたことによるものである。1890年代に、繊維産業の輸出に占める割合は50%強、製造工業生産額に占める割合は40%強となっており、産業の担い手の役割を務めていた。

殖産興業政策の進展する中、特定の民間事業家が特権的地位を与えられ、政商と呼ばれた。これらは後の財閥の芽生えとなった。

(明治初期の技術移転)

殖産興業は欧米からの技術移転により近代工業を育成することに重点が置かれていた。技術移転の方法としては、外国人技術者を日本に招へいし、技術移転を促進する、いわゆるお雇い外国人という方式が取られたことはよく知られている(3)。お雇い外国人は元々開国後に江戸幕府や各藩が直轄の軍事工場等の能力増強のために取った方法であり、維新後は中央政府のみならず地方政府や私企業にも雇用されるようになった。彼らの人件費は高く、一般の公務員の約20倍ほどの俸給を受けていた(4)。その数は1875年をピークとして減少し、代わって技術の担い手は日本技術者になったのである。

(技術移転と教育制度)

お雇い外国人の帰国後、技術の担い手となったのは日本人技術者であり、それは初期留学生と大学卒業者、高等工業学校卒業者の3つに分けられる。

初期留学生は、江戸時代末期は藩から、維新後は文部省などから欧米諸国に派遣され、帰国後は官庁や民間企業の上級技術者となり、お雇い外国人の帰国後の技術導入の役割を担った。

工学教育に大きな役割を果したのは、1871年設立の工学寮に起源を持つ工部大学校である(現在の東京大学工学部の前身)。工部大学校の学生は、欧米で体系化されたばかりの工学の知識を習得し、卒業後は工部省等の官庁や財閥企業の技師となった。

一方、能力はあっても大学に進学するほど経済的余裕のない学生は、中学卒業後に高等工業学校に進学するケースが多かった。東京職工学校、大阪工業学校は1903年の専門学校令による高等工業学校となり、民間企業の基幹技術者を多く輩出した。1910年代になると、大学卒と高等工業学校卒の雇用者数は逆転し、高等工業学校は技術者の量的供給という面で大きく貢献したのである。

なお、明治の後半から大正期にかけて就学率が急速に高まり、実際に作業に従事する職工の質に影響を及ぼした。

(工業化の進展)

日本の工業化は、1880年代半ばから20世紀初頭にかけて始まったと言われる。その始期において、綿紡績業では1882年の大阪紡績会社の創業を皮切りに、大型輸入機械を導入した近代的な綿紡績工場が次々と開業し、飛躍的に生産量が増加し、1890年に国内生産量が輸入量をはじめて上回った。一方、生糸生産においても、器械の導入が進み、1894年に器械製糸が座繰製糸を上回った。重工業の発展は軽工業より遅れを取ったが、1901年に官営八幡製鉄所が設立され、日本製鋼所、釜石製鉄所など民間の製鉄所の設立が相次ぎ、重工業の基礎となる鉄鋼の国内生産が本格的に行われるようになった。この時期造船技術は世界水準に追いつき、1905年に池貝鉄工所がアメリカ式旋盤の完全製作に成功するなど、技術面で大きな進展がみられた。また、1910年代から20年余りの間に、工場の動力源として電力の普及が急速に進んだ(5)。

(戦前の組織の特徴)

殖産工業政策の過程で政商と呼ばれる民間事業家が現われた。これらは官営工場や直轄鉱山の払い下げを受け、特権的地位を有しており、やがて財閥と呼ばれる企業形態に変化を遂げる。1909年に三井財閥が三井合名会社を設立し、他の財閥も1910年代~1920年代にかけて持株会社を中心とする組織形態を整えた。財閥は「中心的産業の複数部門における寡占企業を傘下に有する、家族を頂点とした多角的事業形態」(6)であり、金融・貿易・鉱山業等を中心とした多角的経営を行っていた。1927年の金融恐慌を経ると、財閥への産業資本の集中は一層進み、日本経済界に支配者的な地位をもって君臨するようになった。財閥という組織形態の評価は論者によって様々であるが、戦前の我が国の工業化を進める上でその存在が重要な役割を結果的に果したことは否めないだろう。

(戦時経済への傾斜と日本経済)

第一次世界大戦後に始まった不況は、関東大震災(1923年)、金融恐慌(1927年)、1929年の世界恐慌を経て、1930年の金解禁に伴う昭和恐慌へと事態を深刻化させていった。経済の停滞色が強い中で、1920年代には電力業をはじめとして諸産業が勃興した。日本経済は1930年代になって、低金利、円安、財政支出の拡大を柱とした高橋財政によって昭和恐慌を脱出した。こうした状況の下で、さらに産業発展が進み、鉄鋼業、自動車、航空機、機械工業などの重化学工業分野でいわゆる「新興財閥」が急成長を遂げた。一方で重要産業統制法(1931年)によって、日本製鉄や大王子製紙などが成立し、企業合併が進んだ。大企業の支配力は高まったが、一方で政府の企業活動への規制がもたらされた。

1937年の日中戦争の勃発以降、政府は経済統制を強め、1938年国家総動員法、1943年軍需会社法が制定された。こうした経済統制が、後述する日本的経済システムの源流となったという指摘もある。

長い戦時経済は、日本の一方的な敗戦という結果で終了する。戦争遂行のために全ての資源を軍需産業に集中させたが、資源・労働力の不足により技術開発力は停滞した。

(戦後経済の混乱と構造改革の進展)

太平洋戦争によって引起こされた損害は、①人については、死者185万人、負傷・行方不明者68万人、②国富については、平和的国富(非軍事のストック)の被害率25%などとなっている(7)。生産活動面では、鉱工業生産のレベルは戦前の10分の1まで落ち込み、その後も3分の1前後で推移した。

戦後の経済的混乱への対応策の柱は、1946年の金融緊急措置(8)、1949年以降のドッジ・ラインに基づく超均衡予算の策定などの需要面からのインフレ対策と、傾斜生産方式に代表される基礎的生産能力の増強策から成っていた。また、戦前経済からの脱却を図るために、重要な構造改革が矢継ぎ早になされた。第一は財閥の解体であり、1947年以降83社にのぼる財閥の解体が行われ、同年独占禁止法と過度経済力集中排除法が制定された。これにより、経済成長の基盤となる競争的環境が整うこととなった。第二は農地改革であり、農地の多くが農民(それまでの小作農家)に売り渡された。第三は労働改革であり、労働者の地位向上を図るため、労働組合法(1945年)、労働関係調整法(1946年)、労働基準法(1947年)の労働三法が制定された。

(戦後を越えて)

「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言したのは1956年である。

戦前水準への回帰は、図らずも朝鮮特需(1950年)がきっかけとなった。すなわち、日本の産業界はアメリカ軍から毛布、トラック、鋼材などの戦地用資材の大量の発注が舞い込み、輸出も急拡大した。日本経済は、鉱工業生産指数、実質個人消費、民間投資が51年、実質国民総生産、実質賃金(製造業)が52年に戦前水準(35年レベル)に回帰し、戦後の混乱期からの復興をほぼ終え、本格的な高度成長過程に入っていった。

(高度成長期を支えた要因-供給面、人・技術・組織を中心として)

戦後の混乱期を10年弱で終え、日本経済は再びキャッチアップ過程に入っていく。

1955年から72年を高度成長期とすると、この間の実質経済成長率は平均9.3%にも達する。この時期の経済発展を支えた要因は需要と供給の両面から説明できるが、ここでは供給面をみてみよう。

(高度成長期の技術移転)

欧米諸国との技術水準のギャップが拡大していたことから、導入可能な技術革新の種が豊富に存在した。戦前から人的資源が蓄積されていたことによって速い成長が可能になったのである。キャッチアップ過程においては、欧米から導入した技術を応用し、工夫を凝らしていくという日本に特徴的な技術移転が行われたのである。

例えば自動車は、輸入車を管理体制に置き、外国メーカーのライセンス生産をすることで短期間で技術を取得した。また、家電産業は、50年代後半からトランジスタを利用した白黒テレビなどの新製品が、家電ブームとあいまって量産体制を通じたコスト削減が可能になり、さらに需要拡大に寄与するという好循環のもとに発展を続けた。

(高学歴化の進展)

戦前においても日本の初等教育の普及率は高いものであったが、戦後、高学歴化が急速に進んだ。高校や大学への進学率は、55年には高校等進学率51.5%、大学等進学率10.1%であったが、72年には高校等進学率87.2%、大学等進学率29.8%となり、1999 年現在、高校等進学率96.9%、大学等進学率49.1%となっている。

また、企業内でのOJTも大きな役割を果たした。長期雇用の慣行が形成されていったため、企業は教育費をかけて技術者を養成しても技術者が他企業にそのノウハウを持っていってしまうという恐れが少なかった。故に企業内での教育・訓練が充実し、技術者の能力は向上した。

(日本的経済システムの形成)

高度成長期は、いわゆる「日本的」と呼ばれる経済システム、制度・慣行が確立していった時期であった。すなわち、①「系列」、株式持合いにみられる企業グループの存在、②年功賃金、長期雇用に代表される雇用システム、③メインバンク、固定的な主幹事証券を中心とした金融仲介システム、④経済の様々な分野におけるきめ細かい公的規制等である。

これらは、戦後の経済成長の過程で根付いたものであり、それほど古いものではない。各経済主体が成長を続ける経済に適合しようとする中で自然発生的に生まれてきたものであるだけに、当時の経済環境に良くフィットしたシステム、制度・慣行であった。例えば、年功賃金は企業の成長を条件として成立する制度であり、OJTは次々に導入される新技術を企業内で消化していく上で大きな力を発揮した。

(オイルショックと環境規制への対応)

オイルショックによって、日本経済は物価の急騰、戦後初めてのマイナス成長、経常収支の赤字の3つの悪影響を被ったが、一方で、エネルギーの持続性に対する関心が高まり、省エネルギー・省資源の取り組みが進んだ。また、世界でも有数の厳しい排ガス規制が敷かれたことで、自動車業界あげての取り組みの結果、燃費効率改善やエンジン性能向上がもたらされ、結果的に技術開発競争を促進し、国際競争力が高まった。自動車産業は77年には鉄鋼に代わって輸出トップの座を占め、80年には世界一の生産台数を記録するようになるまで成長した。

(日本の経済発展の要因と今後)

以上を振り返ってみると、日本経済が大きな発展を遂げた背景には ①人材を重視し、教育に資源を投入し、人材が能力を発揮するような環境を整えたこと、 ②外国の文物を柔軟に吸収し、日本の状況に合わせた改善を行ったこと、 ③時々の経済情勢や発展段階に応じた経済体質を作り上げたこと、という3つの要因があったと考えられる。

しかし、80年代後半、日本は株価や地価等の資産価格が急騰し、90年代に入って急落した。いわゆるバブルの発生と崩壊である。日本経済は不良債権問題等のバブル後遺症に喘ぎ、数次にわたる経済対策、歳出の増加、税収減などにより、2000年度末の国及び地方の長期債務残高は645兆円程度にまで増加する見込みとなった。また、情報技術等の面で米国に大きな遅れをとったとの認識も広まっている。

また、現在の世界経済をみると、地球環境問題、エネルギー、水資源、食料など持続的発展の可能性に関連する物的側面にも懸念が生じている(9)。個別分野についての詳しい分析は本白書の枠を超えたものである(第2-序-3表)が、こうした問題を世界が解決していく上で、技術革新を促進・普及させるような環境や市場原理の活用、また公的部門はそれを促すような機能を担うことが期待され、日本も大きな役割を果たすことが求められている。

そこで今回は、①技術革新に上手に対応し、また技術革新を持続的に生み出しそれを実用化していくための、人材面・社会面の環境、と、②経済発展を促進し続けるための公的  部門のあり方、に焦点をあてることとする。

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