第4節 金融緩和と実体経済
バブル崩壊後金融政策は緩和基調を続け,特に95年半ばからはかつてない低金利が続いてきた。特に96年度は,財政政策が景気中立的となるなか,金融緩和策が景気の下支えに寄与してきたと考えられる。
しかし低金利が長期間に及ぶに従い,我が国経済の問題点も表面化している。金利には低下局面と上昇局面も存在する以上,個々の経済主体も日本の経済システムも,その対応力を強化していかなければならない。
1. 金融緩和の継続と影響
(金融緩和の継続と実質金利の低下)
今回の景気回復の背景には,金融面における金融緩和の継続がある。景気が足踏み状態にあった95年9月,日本銀行は,「経済が回復基調に復することを金融面から十分サポートするため,一層強力に金融緩和を推し進めることが必要と判断し」,公定歩合を史上最低の0.5%まで引き下げた。また,短期の市場金利(オーバーナイトコールレート)は,平均的にみて公定歩合水準をやや下回って推移している(前掲第1-3-1図)。
この結果として,実質金利も着実に低下した(第1-4-1図)。実質金利については,その正確な測定は困難であるが,期待インフレ率が現実のインフレ率と同じであるという仮定をおいて試算すると,アメリカで92~93年ごろに実質短期金利がゼロ近傍にまで低下していたのに対し,日本は95年初までは実質ベースで2%となっていた。しかし,一層の金融緩和とその後の物価の安定により,実質ベースでもかなり低下しており,低金利政策が実効性を持つ形で遂行されてきたことは確かである。
(低金利政策の影響)
こうした低金利政策が,実体経済が「回復基調に復する」ことに寄与する直接的な理由は,金利変動が消費や投資といった支出面に影響を与えるということであるが,低金利政策の影響はそれだけにとどまらない。低金利政策の主たる影響を概念的に再整理すると,①異時点間の財の相対価格の変化が経済主体の支出行動に影響するルートのほかに,②為替相場及び資産価格の変動を通じて間接的に支出,分配に及ぶルート,③利子所得の変化による所得再分配効果とこれに伴うマクロの支出性向に影響するルート,に分けられる。しばしば,投資は増えるが,分配がゆがむという形で,低金利の功罪が語られるが,これは,ここでいう①がプラス効果,③がマイナス効果という理解であろう。しかし,低金利政策の効果を考えるに当たっては,それぞれのルートにおいて,低金利の影響がどの程度現れるのか,また,それぞれのルートに存在するプラス・マイナスとは何かをチェックしておく必要があろう。以下,各々のルートを考察しよう。
2. 低金利政策と支出行動
(金利変動と家計支出)
家計の支出のうち,上記①の金利変動が異時点間の相対価格を変化させて実際の支出行動に影響を与えるケースは,耐久消費財の購入や住宅投資のように一定期間を置いて支出されるものについてである。
このうち,住宅投資については,従来から金利弾性値が高いとされてきたが,今回の低金利も,96年中の高水準の住宅着工に結び付いており,この方面で低金利政策が家計の支出行動に影響を与えたことは間違いない(第1節3.参照)。
一方,消費支出については,関数推計によると,マクロの消費支出全体,耐久財等の財別ともに明確な金利効果は検出されない。ただし,所得階層別には,高額所得層において,金利の低下が消費を抑制する姿がうかがわれ,高額所得層の利子所得の減少が消費を抑制するという上記③のルートを通じた効果が一部検証された形となった。
ただし,間接的な効果を考慮するならば,金利低下がマクロの所得を増加させる効果等,様々なルートが相互に影響を与えるため,これをもって金利低下が消費抑制に寄与したということにはならない。実際,金利が低下した91年度以降の家計受取をみると,財産所得の減少を補う形で雇用者所得が増加しており,金利低下が雇用者所得の増加に寄与し,景気を下支えした可能性を示唆している(注1)。
(金利変動と設備投資)
設備投資と金利の関係についても,上述の①のルートでは,金利の低下は現在時点の資本コストを引き下げ,設備投資を押し上げると考えられるが,日本の設備投資の動きをみると,ストック調整と資本コストの両者を加味した単純なモデルでは,金利の影響度合いは極めて弱い。こうした背景には,「投資が投資を呼ぶ」といわれたように,投資決定が需要面に多くを依存していたこと(このことは企業が投資の収益性よりも売上高を重視していたことになる)や近年は企業の自己資金が潤沢になったこと等が指摘されるが,いまなおコンセンサスはできていない。しかし,このような関数推計でも,業種・規模別にみると,非製造業の中小企業では,理論通りの推計結果が得られ,金利の設備投資に対する関係が明確にみてとれる(注2)。つまり,中小非製造業のように負債比率の高い企業にとっては金利コストが投資決定に一定の役割を果たしていることが示唆される。
さらに,設備投資決定が既存ストックと望ましいストックからのかい離を調整するというストック調整原理に基づいているとしても,金利の低下が資本と労働の相対価格を変化させるならば,利潤最大化企業にとっての望ましい資本ストックは変化する。実際,第1節4.でみたとおり,近年の低金利は資本の相対価格を大きく低下させており,このことは,企業にとっての望ましい資本ストックを増加させ,設備投資の回復を支えたものと思われる。(注3,4)
(金利変動と在庫投資)
金利低下が実体経済へ与える影響として,消費や設備投資に比べて直接的といわれるものが建設財等の在庫投資である。なぜならば,在庫投資においては生産者が生産時期を選択できるため,金利変動に伴う異時点間のコストの差に敏感になるからである。
そこで,こうした金利と在庫投資の関係を,見込み生産の多い建設財と,受注生産の多い資本財について,金利の生産に与える影響を比較して検証すると,建設財は金利変化の翌月から反応を示し,かつその動きも半年余りの間は資本財より大きいという結果を得ることができる(第1-4-2図)。つまり,金利が建設財の在庫投資に直接影響を与えることが実証される。
もっとも,このデータを期間を区切ってみると,バブル崩壊後は金利の建設財生産への影響が検出されない(注5)。在庫投資といえども,当然将来の需要が見込めることが前提となるわけであり,結局,バブル崩壊後のような大規模な調整局面でかつ円高といった外生要因もあった時期では,在庫を通じた金利効果も限定的にならざるを得ないということも示される。
3. 金利変動と資産価格
(低金利に伴う円高是正効果)
金利低下が間接的にもたらした影響で無視できない点は,95年来の円高是正効果である。金融政策は為替相場の安定を目的とするものではない。しかし,金利は異時点間の相対価格を変化させることで,資産価格に影響を与えるが,これを外貨建て資産と円建て資産の交換レートである為替レートとの関連でいえば,低金利は外貨建て資産の期待収益を相対的に有利にすることによって,円レートの減価を促す一要因となる。ちなみに,ドル円レートに対する日米金利差の影響を関数によってみると,1%ポイントの実質金利差で,結果的に実質ドル円レートを平均的には3~4%程度変動させたとの結果が得られている(前掲 1-2-1図③備考)。
(金利効果が十分にはみられない地価,株価)
金利低下は,資産の割引現在価値を高めるため,国内の資産市場にも本来影響を持ち得るはずである。確かに95年秋以降は,株価が回復を示したほか,地価についても徐々に下落率が縮小してきている。しかし,90年代初の水準に比べ,金利が低下したにもかかわらず,株価は低下し,地価も下落した。これら資産価格については,バブル崩壊後の期待収益率の低下やバランシート調整等の問題があるため,金利低下がこれら価格の上昇をもたらさないからといって,あえて問題視すべきことではないが,資産価格を通じた金融政策の波及経路の一部が,妨げられているということは認識しておくべきであろう(注6 )。
4. 金利変動と所得分配
(金利低下が所得分配に与える影響)
金利低下による所得再分配は,一般的には支出性向の高い企業部門への所得移転により,マクロの支出性向を高めると考えられる。ただし,今回については企業のバランスシート調整もあって,その効果は定かではなく,金利水準が極めて低いこともあって,再配分自体が社会的公正の面から問題となることがある。すなわち,債権者である家計から債務者である企業への所得移転が生じるほか,金融機関も調達金利の低下にもかかわらず貸出金利を下げ渋っているのではないか,という批判である。
そこで,まず,91年度以降の部門別にみたネットの利子所得をみると,金利低下局面における家計の利子所得の減少と法人利払いの減少が顕著にみられ(第1-4-3図),金利低下の直接効果としては,家計から企業へ所得移転があることは事実である。しかしながら,金利低下は各経済主体の支出行動に影響を与え,家計部門を含めた所得にプラスに寄与するという間接的な効果も有している。一方,金融機関(注7)についていえば,91年度以降の累計では利子所得は若干減少しており,利子所得の増減という点では,今次金利低下は金融機関にとってプラスの効果をもたらしていない。つまり,金融機関は資金を仲介するという点では,所得面で中立的である。上記の金融機関は公的・民間金融機関全体であるが,このうち民間の銀行部門では,調達金利よりも貸出金利が幾分遅れて変化する分が所得に反映される(金利低下局面では,調達金利がすぐに低下する一方で貸出金利は幾分遅れて低下することから,利ざやが発生する。また,上昇局面ではその逆のケースが生じる)ものの,それも金融機関全体としてはさほど大きくないことが分かる。
ちなみに,銀行の95年度の業務純益は極めて高い水準となったが,その内訳をみると資金利益も増加しているものの,債券等関係損益の方が主要な増益要因となっている(第1-4-4図)。このことは,金利低下局面での利ざやの拡大等による増益よりも,堅調な債券相場を背景とした債券のディーリング益の増加の方が,銀行部門の収益に大きく寄与したということを示している(注8)。
(家計部門における問題)
家計については,金利低下の中,前述のとおり,雇用者所得の増加があるが,一方で91年以降,確かに利子所得は減少した。この部分が企業部門に移転され,企業収益の下支えとなっていることは,しばしば指摘されるとおりである。家計における世帯当たりの財産収入はさほど大きいものではないが,財産収入が相対的に多い高齢層では,近年財産収入の減少が目立つ(第1-4-5表)。
しかし,こうした事実から明らかになる問題点の一つは,我が国の個人資産運用ビジネスの立ち遅れということであろう。我が国の家計が保有する金融資産の内訳をみると,海外に比べて定期性預金の比率が極めて高い( 第1-4-6図)。したがって,金利の低下が直接財産収入に影響する。もしこれらの資産が,他の金融商品や海外に分散投資されていれば,為替変動リスク等は存在するものの,こうした影響については緩和することができる(国際分散投資のメリットの詳細は第2章第3節参照)。しかしながら,現在,我が国の資産運用ビジネスは必ずしもこのような家計の要求に十分にこたえているとはいえない。金利は中長期的に変動するものである以上,家計が状況に応じて各々のリスク許容度に基づいた多様な資産運用を行うことができるよう,こうした金融サービスの充実も検討されなければならない。
5. 今後の課題
かつてない低金利は,かつてない低成長に対応したものであるが,低金利により我が国経済の需要は支えられた。一方では,低金利が長期間継続する下で,日本経済の抱える幾つかの問題点が表面化することとなった。金利には経済成長率と同様,低下局面も上昇局面も存在する以上,個々の経済主体そして我が国の経済システムは,こうした金利変動に柔軟に対応していかなければならない。そこで,ここではこれらの問題点を考慮しながら,日本経済が抱える課題を考える。
(企業年金の適切な対応)
今次低金利の中で表面化した問題点の一つは,企業年金の運用である。私的年金でも個人年金の新規加入時の予定利率は経済実勢に応じて変更されてきたが,企業年金の場合はこれまで予定利率が5.5%で固定されていた。したがって,今回の低金利下では運用利回りが5.5%を下回り,年金財政を圧迫することとなった。年金財政の悪化が母体企業の収益や資産との対比でどの程度の規模となっているかは,開示データが存在しないため,はっきりしたことは分からないが,アメリカで開示されている優良企業においてさえ,積み立て不足はかなり深刻である(注9)。
ただし,これをもって低金利のマイナス面と捉えることは正しくない。運用利回りが予定利率を大きく上回っていた過去においても,ある意味では,同じ問題はあったはずである。実際の運用で得られた収入が,過去においては,年金財政の積み立てに全てまわったわけではなく,その一部が各種事業に充てられた。過去における問題点は,企業年金の予定利率が実勢と大きくかい離しても,その変更がなされなかった点である。
政府は,こうした状況をかんがみ,97年度から,一定の範囲内で基金が予定利率を主体的に設定できるような措置を講じた。企業年金が金利変動に対応できる制度的な枠組みが整った今日,企業年金の課題は,金利が変動するなかで,いかに,柔軟に予定利率を設定し,年金財政の健全化を図るかということになる。予定利率の引下げは,掛け金の引上げ,あるいは掛け金を引き上げない場合は,給付水準の引下げを伴うこととなるが,今後は,経済変動に応じて更なる柔軟な対応が求められることになる。
(家計のリスク管理の徹底)
低金利は受取利子を減少させるが一方で借り手にとっての金利負担軽減という効果がある。しかし,低金利下で借入れを増加させた経済主体は,様々なリスクを考慮した返済計画が求められる。特に一般の家計では,住宅ローン等が好調に伸びている一方,年功賃金等による収入の確実な増加が見込めない今日,一層のリスク管理の徹底が必要である。
ちなみに,住宅ローンのうち,変動金利による借入分については,将来の金利上昇リスクが内在していることから,モデルケースを設定して,金利上昇が住宅ローンに与える影響を試算した。これをみると,例えば,今後年1.1%のペースで金利が上昇するという極端なケースを仮定した場合,2年6か月後に金利が 5.375%に達した段階で利息の支払ができなくなるという事態が発生することが判明した。また,その段階で返済期限を変更せずに支払額を見直すということになると,返済計画がかなり厳しいものになることも分かる(第1-4-7表)(注10)。
一方,金利の上昇速度がこれより緩やかな年0.55%のケースであれば,ある程度の年収の伸びが見込める場合には,こうした問題は生じない。しかしながら,年収と住宅ローンの関係からいえば,雇用システムの変化とともに,年功賃金等これまでの収入面の前提が成立しないケースが増加していくと考えられ,更に深刻な問題が発生するケースも考えられる。
(企業,金融機関の更なる収益性の向上)
今回の景気回復局面では,企業や金融機関はリストラを進めることで収益性の向上を図ってきたが,現実には低金利による企業への所得再分配の寄与は大きい。売上高経常利益率の上昇に対する営業外利益の寄与度を業種・規模別にみると,足元では寄与度が小さくなっているものの,特に非製造業において,その割合が高いことが分かる(注11)。ちなみに,貸出金利が1%上昇した場合の企業収益への影響を96年の実積値をベースに試算すると,製造業大中堅企業はさほどの影響を受けない一方,それ以外は大幅な減益要因となる(第1-4-8図)。足元は,企業収益は改善が見込まれているが,中小企業や非製造業は更なる収益性の向上が求められているといえよう。
同様のことは金融機関にもいえる。金利変動の影響は金融機関によって異なるが,銀行のケースでいえば,金利の上昇は調達金利と貸出金利の上昇タイミングにラグがあることから,資金利ざやは一時的にせよ縮小する。また,不良債権については,金利収入が十分に獲得できない債権であるため,機会費用である市中金利上昇の影響は,その他の条件を一定とすれば,結果的に保有コストの増加につながることとなる(第1-4-9表)(注12)。現段階ではこうした保有コストの増加が金融機関の収益を大きく圧迫するとは思われないほか(注13),市中金利の上昇が景気の回復を伴っていれば不良債権の正常化や貸出しの増加から金融機関の収益面に寄与する面もあろうが,いずれにせよ,金融機関には不良債権の早期処理を含め収益性を向上させる努力が求められる。なお,この点については第6節で詳述する。
(資産運用システム確立の必要性)
低金利がもたらす家計の利子所得の減少については,家計の資産運用が十分になされていないという問題がある。家計が運用する資産は個々には小さく,各々がとれるリスクには限界がある。例えば,グローバリゼーションの進展に伴い,投資機会は多様化するが,海外投資には,為替,金利,信用リスク等のリスクが存在する。金利変動に対応して資産運用を行うためには,自己責任の下,専門的な知識とより一層のリスク管理能力が求められる。
そして,資産運用ビジネスが,専門家としてこのような期待にこたえられるよう,一層の運用能力の強化を図ることが必要である。こうしたことを背景として,現在,金融・証券市場の抜本的改革が行われているところである(この点については,第2章第3節で詳述する)。
(物価安定のための金融政策の確立)
表面化している問題ではないが,低金利によって仮に景気が過熱した場合には,インフレのリスクが高まることになる。他方,現在のところ,物価は安定しており,マネーサプライも上昇する様子はなく,先行きにかけてのインフレ圧力もない。しかし,インフレ期待はいったん上昇すると,これを遮断することが容易ではないというのは歴史的事実が示している。このためにも,インフレ再発が予想される状況には,機動的に金利の引上げが行われることが必要であることはいうまでもない。
金融政策は本節で述べたように,実体経済に様々な影響をもたらす。したがって,政策が有効に機能していくことが求められる。金融政策運営の独立性を十分確保するとともに,透明性を高めることによって,国民や金融市場の信認を得ることが重要である。これらの主旨も踏まえ,今般日本銀行法が改正され,この法律の下で,今後とも日本銀行が適切な金融政策を行っていくことが必要である。