総 論
1. 日本経済の現状
日本経済は難しい局面に立っている。短期的には,景気が調整過程にあり,経済活動の減速が各部門に波及している。1970年代以降,外的要因による景気減速を経験してきたため,今回のような,自律的,内生的な景気変動に対して,各経済主体にとまどいが見られる。そして,高い成長から調整過程に入った時の落差感が大きく,実態以上にマインドの冷え込みにつながっている。また,長い景気拡大の中で,株価,大都市圏等の地価が経済の基礎的条件(ファンダメンタルズ)と整合的な水準を上回って高騰し,その後下落するという,いわゆる「バブル」の発生と崩壊が起こり,その過程で金融・証券不祥事が発生した。今後,中期的に,金融・証券業を含む各業種において財務体質の健全化を行っていくことが必要となっている。更に,国内的,国際的に,長期的な問題が,あらためて明らかになってきている。すなわち,国内的には,企業の成長,国民経済の成長を第一の目標としてきた日本の経済発展において,国民一人一人の生活は,物質的な消費水準では豊かになったが,長い労働時間,住宅・社会資本整備の立ち遅れ等,生活の質が犠牲にされてきたのではないか,という問題である。これは,国民が自らの需要の充足をすることを主体として経済が成長する,という意味での内需主導型の経済成長が維持できるのか,という問題にもつながる。国際的には,アメリカ,ヨーロッパ,日本が競争しつつ協調しながら,世界経済を支えていく上で,相互に,相手国の経済構造の特徴のうち,よい点は取り入れ,また問題点は指摘し,改善を求める,という傾向が強まっている。日本については,市場経済ではない,という極論は別として,市場経済がどのような構造で,どのように機能しているのか,どのような要因が成長に寄与し,どのような要因が生活の質の犠牲につながっているのか,どのような点が課題となっているのか,を明確にし,自主的に対応していくことが求められている。
よりグローバルな観点からみると,旧ソ連,東欧の旧社会主義国,それに先んじてアジア,中南米等の発展途上国が,中央統制型の経済から,市場経済に移行するという,歴史的潮流の中で,日本,アメリカ,ヨーロッパは,市場経済の中核として,世界経済の安定的発展を確実なものとするための重要な役割を担っている。それだけに,お互いの市場経済の相違をことさらに強調して,対立的になることは避けなければならないのである。このため,インフレなき持続的成長を目指したマクロ経済政策や構造政策における政策協調や協議,自由貿易体制の維持・強化のためのウルグアイ・ラウンドが成果をあげる必要があり,そのための基礎として,日本,アメリカ,ヨーロッパがそれぞれの市場経済の構造に関し,相互に理解を深め,構造調整を図ることは意義があることと考えられる。更に,旧社会主義国や発展途上国が市場経済に円滑に移行することを支援するため,日本,アメリカ,ヨーロッパとも,市場経済のノウハウの移転等の技術的支援や資金協力を適切に行うとともに,直接投資を推進することが重要である。また,世界経済と地球環境との共存についても重要な役割が要請されている。
このような,日本経済の直面する,短期的,中期的,長期的問題及びそのグローバルな意味合いについて,過度にその困難や不透明さを強調し,悲観的になることは賢明ではない。日本経済はこれまで,多くの景気後退を経験し,また多くの構造調整と取り組んできた。そして,最終的には,国際的に見て,比較的高い経済成長を維持し,また健全な経済構造に転換することが可能となってきたのである。今回の拡大においても,内需主導型の成長への転換,経常収支黒字の縮小,高度な技術革新に裏づけられた資本ストックや人的ストックの蓄積,国民の消費水準の向上,経済活動のグローバル化と高度な工業製品と豊富な資金の国際的供給等の成果を得たことは評価すべきである。困難というならば,日本経済よりも大きな困難と取り組んでいる国が多いことは指摘するまでもないだろう。日本経済の現状を短期的,中期的,長期的視野で明確に把握し,各経済主体はどういう行動をとるべきか,政策はどうあるべきかを,よりプラグマティックに検討し,実行することが必要である。
このような観点からは,問題の解決には至らないまでも,問題の全貌が明らかになってくるにつれて,解決の糸口が見出せる状況ができてきていると言える。
第一に,短期的な,景気の調整過程については,その性格,波及状況が明らかになってきており,金融・財政政策や個別分野別政策がとられ,その効果もあって,住宅建設に回復の動きが出る等,今後の景気回復に向けたプラス要因が出てきている。
第二に,「バブル」の発生と崩壊の短期的な消費,投資等の需要面に及ぼす影響は限定的なものと考えられる一方,各企業において財務体質の悪化について,中期的にその健全化を図っていく,という方向が出てきている。
第三に,長期的な経済成長と生活の質のバランスをどうとるか,については,「生活大国」を目指す経済計画が目標,政策を基本的に示しており,430兆円の公共投資基本計画等がその裏づけとなっている。更に,日本の市場経済の特徴は何であり,どのような構造調整が必要か,については,我が国自身の分析・構造調整努力,及び日米構造問題協議等を通じた国際協議等を通じて,その内容が明らかとなってきており,また産業組織論の最近の発展により,経済学的なアプローチが可能となってきている。
以上の,日本経済の直面する課題につき,以下では,景気の調整過程,バブルの影響と今後の回復要因,日本の市場経済の特徴,日本経済の課題の順に,更に詳しく検討しよう。
2. 景気の調整過程,「バブル」の影響と今後の回復要因
日本経済は87年から,長期にわたり高い成長を続け,90年末頃より拡大テンポの減速がみられ,91年後半には低い成長へ減速し,調整過程に入ったと考える。拡大から調整過程に入ったのは,長期に設備投資,住宅建設,耐久消費財需要がそろって拡大し,それらへの需要が一巡し鈍化する,というストック調整に,インフレ予防のための金融引締めの影響も加わったことによるものである。これに加えて,株価,地価が経済の基礎的条件(ファンダメンタルズ)と整合的な水準を上回って高騰し,その後下落する,という「バブル」の発生と崩壊が,景気に影響を与えた面もあった。このように最終需要が鈍化し,91年央より在庫が積み上がり,生産調整,在庫調整の動きが続いている。これを反映して実質GDPの成長率は今回の調整過程平均で年率1%台に低下し,鉱工業生産は減少している。70年代以降,日本経済は,外的要因によって景気後退に入る経験を重ねたが,今回は,むしろ高度成長期の景気後退の経験に近い,自律的,内生的な要因によるものとなっている。
ストック調整,在庫調整,「バブル」崩壊による財務面での体質悪化等,調整過程の進行によって明らかとなった経済の状況は,今までの経験から予想される程度を超える面もあったことに加え,高い成長から調整過程に入った時の落差感が大きかったことは,相当程度のマインドの冷え込みにつながった。「バブル」の発生と崩壊に伴う財務体質の悪化等については,今後の教訓として,その健全化に努める必要がある。
今回の調整過程の深さ,長さを考えるため,以下では,①足もとの水準をどう考えるか,②「バブル」の影響をどう考えるか,③ストック調整,在庫調整のメカニズムはどう働いているか,④これまでの経験からどのような示唆が得られるか,⑤政策面の対応はどうか,について検討しよう。
第一に,足もとの水準についてみると,これまでの長期にわたる高い活動水準からの調整であるため,なお比較的高い活動水準の中での低下が続いている。需要面では,20%近い設備投資/GDP比率や,80年代前半と比べて5割以上水準が高まった乗用車販売台数,企業面では,80%に近い稼働率,雇用面では,1を上回る有効求人倍率,2%強の失業率等がその典型例である。このため減速感が広まっているものの総じてみれば深刻さが軽度なものにとどまっている。特に,企業面,雇用面の指標は厳しい減量経営が行われた70年代後半から80年代の安定成長期と比べると,比較的高いものがある。しかし,高度成長期の景気後退局面においては,このような状況が通常見られたところであり,今後も需要や生産の鈍化ないし減少が続くとすれば,企業面,雇用面の指標の水準に影響を及ぼすと考えられる。
第二に,株価,地価の経済の基礎的条件(ファンダメンタルズ)と整合的な水準を上回る高騰とその後の下落,「バブル」の発生と崩壊の景気への影響についてみると,株価の下落によるキャピタルロス自体は90年中が大きく,92年の下落によるキャピタルロスはその1/3程度にとどまっている。このため,家計の消費に及ぼすマイナスの影響(逆資産効果)は軽微なものとみられる。設備投資に及ぼす影響は,金融・証券・不動産業の財務面の健全化や構造調整に数年を要すると見られることから,その間,資金のアベイラビリティ低下や資本コスト上昇がどの程度のものとなるかに依存する。生保,政府系金融機関の貸し出し,普通社債の発行等,資金循環のチャネルは多様であること,設備投資意欲の回復があれば,それは株価上昇要因であること等から,資金のアベイラビリティ低下が大きな制約になることはないと考えられる。また,かつての低すぎるコストから通常のコストに復帰した資本コストは,金利の低下のもとで,全体として低下傾向にある。このように,「バブル」の崩壊自体は設備投資の回復を緩やかにする要因ではあるが,回復に深刻な悪影響を与えるものではない。住宅建設についても,不動産業の財務面の健全化を図っていくプロセスは回復を緩やかにする要因であるが,地価の下落は,需要側にとってはプラス要因である等,必ずしも,住宅建設の回復に悪影響を及ぼすものではない。
第三に,ストック調整,在庫調整のメカニズムについてみると,企業設備,耐久消費財,住宅のストック調整及び在庫調整は景気変動を生ずる基本的要因となっているものの,景気変動の小幅化をもたらす変化がみられる。まず,企業設備については,資本ストックの伸びの鈍化にみられるように更新投資のウエイトが高まっている。また,純投資に占める,合理化・省力化等の独立投資のウエイトが高まっている。耐久消費財については,ストック要因とともに,所得,価格,資産要因が大きい影響を持っている。住宅についても,金利,人口,世帯要因が働き,貸家,分譲のストック調整が進展している。更に,在庫残高の最終需要に対する比率は一貫して低下している。これらの変化は,ストック調整,在庫調整による実質GDP成長率の変動を小幅化する方向に働くと考えられる。
第四に,これまでの景気変動の経験を振り返ってみると,今回の景気変動を考える上でいくつかの示唆が得られる。第一に,長期にわたり高い成長が続いた後のストック調整という点では,岩戸景気後,いざなぎ景気後の景気後退と類似している。いざなぎ景気後は急速で短期間の調整,岩戸景気後は緩やかで長期間の調整が行われた。今回は,期待成長率の大幅な下方シフトが起こっている訳ではないこと,前述のような設備投資の下支え要因があること等から,急速な調整が生じる可能性は低いが,急速な再拡大の可能性も低く,回復は緩やかなものとなろう。また,岩戸,いざなぎ景気後と同様に,長期にわたる業容拡大により,固定費が増加テンポを高め,高コスト体質をもたらし,大幅な減益につながっていることも,設備投資の回復を緩やかなものとする要因となろう。第二に,資産価格の大幅下落の影響については,列島改造ブーム後,第一次石油危機時の73~74年及び65年の証券不況の例がある。73~74年時と今回のキャピタルロスを比較すると,国民所得比で,今回の方が大きい。不動産業の国民経済に占めるシェア,金融機関の株式保有シェアや対不動産業向け貸出が今回大きい。不動産業や金融機関等の収益に対する影響についても,今回の方が大きいものとなろう。しかし,これら業種の財務面の健全化を図っていくプロセスは,時間を要するが,経済の基調に大きな悪影響を与えるものではないと考えられる。
第五に,政策面の対応を考えると,91年7月以降の4次にわたる公定歩合引下げ(6.0%→3.75%へ)により,金融政策からの条件整備がなされた。また,92年度予算では,税収の鈍化など極めて厳しい財政事情の下,歳出の徹底した見直しに努めたうえで,建設国債の増発等を行っており,その中にあって,財源の重点的・効率的な配分を行い,更に景気にも最大限配慮するため,公共投資について,財政投融資の大幅な拡大等にもより,十分な伸びの確保を図っている。さらに,このように拡充が図られた公共事業等について,その施行促進が92年3月の緊急経済対策により実施に移されている。
以上の検討を踏まえて,今後の回復の要因を考えてみよう。
第一に,金利の低下により,住宅建設には回復の動きが出てきている。公庫金利,住宅ローン金利の低下により,持家は回復しつつあり,また,生産緑地法,ストック調整の進展も加わって,貸家も回復の動きとなっている。分譲マンションは,まだ在庫水準は高いものの,需要には下げ止まりがみられるようになってきた。
第二に,労働力需要は,循環的には鈍化してきているものの,時短の必要,将来の労働力人口の減少に備えて雇用を確保する必要等,構造要因は需要を支えるものとなっている。このように,雇用者数の伸びが持続しており,名目賃金上昇率がやや鈍化しても,物価が安定的な動きとなっているため,実質雇用者所得は堅調な伸びとなっている。このため,消費の5割を占めるサービス消費は下支えの役割を果たしている。乗用車,家電等の耐久消費財,衣料等の半耐久消費財においては,需要が鈍化ないし減少する等厳しい状況があるものの,今後は更新需要が期待される。また,逆資産効果は軽微なものにとどまるとみられる。こうしたことから,個人消費は基調として堅調に推移するものと期待される。
第三に,設備投資については,各機関のアンケ-ト調査では製造業を中心にマイナスの伸びと厳しい結果が出ているが,ストック調整を小幅化する要因である更新投資,合理化・省力化投資のウエイトの高まりや,非製造業のウエイトの高まりは,設備投資の下支え要因となっている。非製造業では,不動産,建設,卸小売,金融・証券・保険では減少ないし低い伸びとなっているが,電力,鉄道,通信等が堅調であり,また金利の低下により,借入れ依存度の高い中小企業非製造業の設備投資がプラスの影響を受けよう。このように,厳しい状況の中で,今後の下支え要因も見られる。
第四に,公共投資は,契約ベースで高い伸びが続いている。92年度予算等でも,国,地方,財政投融資とも十分な伸びを確保しており,更に,その施行の促進を図っている。
第五に,世界経済は,アメリカ,ヨーロッパの景気が回復の動きを見せており,またアジア,中近東,中南米等で需要が堅調であることから,緩やかに回復の方向にある。このため,輸出は緩やかに拡大しよう。また輸入は,上記のように国内最終需要の回復の動きが出れば,それに伴い拡大していこう。
以上のような,最終需要の回復の要因が働けば,在庫調整の一巡,生産の回復も見られるようになろう。このような要因が相互にプラスの影響を及ぼすようになれば,92年度の後半には,最終需要全般に回復の動きが明らかとなってくることが期待される。
今後予想される回復は,急激なものではなく,各需要項目がそれぞれ自律的な調整を経て改善に向かい,その改善が重ね合わさっていくという,緩やかな回復である。それは国内需要の各項目に依存している,という意味で内需主導型であり,いわゆる輸出ドライブのように,大幅に輸出の伸びに依存するようなものとはならないと考えられる。今後とも,以上のような内需主導型の回復という姿を実現するため,引き続き適切かつ機動的な経済運営に努めることとし,インフレなき成長と財政の健全化という目標と矛盾しない形で行い,振れの大きいストップ・アンド・ゴーの弊害に陥ることのないようにすることが重要である。
回復により,新たな持続的な成長が始まる時が来るが,この新たな成長は,マクロ的には引き続き内需主導型であるのに加えて,次項で検討するように,日本の市場経済を,国民の生活の質を高め,国際社会の中で各国と調和が可能となるよう構造調整を図っていく,という構造的な意味でも内需主導型とする必要がある。
3. 日本の市場経済の特徴
日本経済,アメリカ・イギリス経済,ドイツやフランスの大陸ヨーロッパ経済は,それぞれの歴史的,文化的背景を持ちながら,それぞれの経路をたどって発展してきた。現在,日本はこれらの諸国とともに,自由,民主主義,市場経済の価値観を共有し,国内的にも,国際的にも,その価値が現実の形として浸透し,定着するよう努力してきている。このような中で,日本は,これまでの企業や国民経済の成長や効率性を重視した発展から,より国民の生活の質を重視し,国際的に調和のとれた発展へと変わっていく必要がある,という認識が国内的にも,国際的にも高まってきている。日本経済は現実に,そのような方向への変化が現れつつあり,その変化の難しい点については,構造調整が必要である。同時にアメリカ,ヨーロッパ諸国は,日本の経験のうち,自国の企業や国民経済の効率性を高めるのに役立つ点は参考とし,取り入れるという動きが進んでいる。日本,アメリカ,ヨーロッパがそれぞれの市場経済について相互に理解を深め,構造調整を図っていくことは,世界経済の安定的発展のため大きな重要性を持っていると考えられる。
日本経済を歴史的,文化的理由で市場経済と異なる特殊なものと見たり,国際経済の攪乱要因と見たり,あるいは今次の景気調整過程入りから,その基礎が立ち行かなくなるのではないかと懸念する見方がある。これらの見方については,次のように考える。
第一に,歴史的,文化的理由で,日本経済を市場経済と異なる特殊なものと見る見方については,上述のように,どの国をとっても,それぞれの歴史的,文化的背景を持ち,ブロック経済,保護主義,戦時経済,企業国有化等の経験を経て,現在の市場経済に至っているのであり,日本だけを特殊視する必然性はないと言えよう。むしろ,各国の市場経済が,どのような特徴を持っているのか,その問題点は何か,改革の方向は何かを経済学的に普遍性のある概念で分析し,その理解を深めるために,歴史的,文化的視点を加える,というアプローチが建設的な議論のために必要である。
第二に,日本経済を国際経済の攪乱要因とみる見方は,経常収支不均衡の発生原因は日本だ,とするものであるが,持続可能な成長や経常収支不均衡縮小を目指し,85年以降とられた日本,アメリカ,ヨーロッパの政策協調においては,各国がそれぞれマクロ的,構造的政策をとったことに示されるように,日本のみを発生原因とすることは当を得ていない。
第三に,今次の景気の調整過程において,日本経済の基礎がゆらぐと見る見方については,循環的な特徴は前項でみたように明らかとなっており,資産価格の下落が金融・証券・不動産業の財務面の健全化と構造調整を必要としているものの,いたずらに悲観論を強調することは当を得ず,むしろ回復を確実にするためのマクロ面,構造面の努力をいかに行うか,を考えることが建設的であろう。
日本の市場経済の特徴を経済学的に分析する上で,最近の産業組織論の成果を利用することにより,アメリカ,ヨーロッパと共通のフレームワークで分析することが可能となる。その基本的考え方は,これまで経済を理想的な市場と考えるか,すべてが中央で決定される統制経済と考えるか,の両極端のモデルをあてはめる傾向にあったのに対して,現実の経済では情報が完全ではないとか,取引にコストがかかる等,摩擦のある中で,資源配分をいかに効率的に行うか,いかにリスクを最小限にとどめるか,の問題を解決するため,いろいろの制度ができている,というものである。この考え方によれば,制度的に固定されているように見える長期的取引関係においても,取引費用の節約,取引固有の投資の節約という経済合理的理由があり,また,長期的関係に安住した非効率的行動は,信用の低下,他の主体への取引先変更等のペナルティーがあるため,競争が働きうるメカニズム(以降,これを競争メカニズムと呼ぶこととする)が存在することがわかる。このように,現実に存在する制度の経済合理的側面が説明できると同時に,それぞれの制度のためにどのような問題が生じているか,もまた分析することができる。
このような観点から日本の市場経済を見ると,安定株主,メインバンク,終身雇用,生産系列・流通系列,プロセス・イノベーションという特徴は,いずれも,摩擦のある現実の市場経済の問題を,長期的取引関係の中に,競争メカニズムを生かすことによって解決する一つの方法であると理解することができる。
第一に,安定株主の存在についてみよう。現代の株式会社制度のもとでは,利益の最大化を求める株主と,企業活動の長期的発展を必要とする経営者の間では,利益の対立が生ずることが多い。これは,企業の経営や財務に関する情報が株主には十分入手できないという,情報の非対称性のためであり,経営者が放漫経営等,株主の利益に反した行動をとらないよう,株主の企業に対する監視を強める方向と,経営者の長期的視野からの活動が行いやすくなるよう経営者の立場を強める二つの方向が解決策として考えられる。企業及び金融機関が株式を安定的に保有する,いわゆる持合いは,経営者を資本市場からの過度のプレッシャーから解放するとともに,企業間の相互監視を可能とすることにより,企業の長期的発展を図るという機能を果たしているとも考えられる。
第二に,メインバンクの存在についてみてみよう。企業の資金調達においては,貸し手は借り手の経営,財務状態についての情報を十分入手できない,という情報の非対称性がある。社債等の公開取引においては,貸し手がその取引に伴うリスクを十分に評価できるように,情報開示(ディスクロージャー)や格付け機関がその問題の解決方法となっているのに対し,貸付金等の相対(あいたい)取引においては,これまでは主にメインバンクが継続的取引を通じて,債権者としての立場から企業をモニターしてきた。もっとも,メインバンクの存在は日本特有のものではない。
第三に,終身雇用についてみよう。職能と賃金に応じてスポット的に需要と供給の均衡を図る外部労働市場に対し,終身雇用は,職場内訓練(OJT),配置転換,人事制度,労使取り決め等によって,長期的契約関係の中に競争メカニズムを組み込んだ内部労働市場と考えることができ,労働者にとっても,雇用や所得の安定が図られる等,メリットがあるほか,企業の長期的発展のために必要な,企業内の人的資本蓄積の点で優位性を持っているとも考えられる。また,アメリカ,ヨーロッパでは職種間の移動が比較的少ないのに対し,日本では複数の職能を職場で体得する多能工化が行われやすく,人的能力の開発に寄与している。
第四に,生産系列についてみよう。機械の部品生産から組立てに至る工程においては,設計・開発から本格生産までのサイクルにおける各工程部門の情報交流が重要であるが,組立て企業による部品のスポット的調達と,垂直統合による部品の内製化,という両極端の解決方法には,欠陥部品の可能性や組織の肥大による非効率性の問題がある。生産系列は,長期的取引関係により,情報の効率的な伝播を可能とするとともに,取引先変更の可能性を常に織り込むことにより,競争メカニズムを維持するものと考えられる。日本の流通機構は,高密度,小売段階の小規模性,卸売段階の多段階性が指摘できるが,従業員一人当たり売上高や,粗マージン率を国際比較すると,全体としては,必ずしも非効率と結論することはできない。生産者と流通業者の間の関係が安定的なのは,生産者と流通業者の間をつなぐために必要な投資がなされるためである,という経済的理由による面も強い。
第五に,プロセス・イノベーションについてみよう。新製品を開発し,新たな市場を創り出すプロダクト・イノベーション,および,ある製品を生産する工程をいかに効率的なものにするか,というプロセス・イノベーションは,それぞれ技術革新の重要な方向であるが,企業内の人的資本の蓄積に優位を持つ場合には,小きざみで連続的な工程の改良が可能なため,プロセス・イノベーションに成果が現れ,その点での国際競争力が高まることになる。
以上のように,日本の市場経済は,長期的取引関係の中に競争メカニズムを組み込むことにより,現実の市場経済の問題を解決する方法をとってきている,と説明がつく。そして,以上見てきた特徴は,長所だけでなく,短所もはらんでいる。また,このような特徴は決して固定的なものではなく,それぞれの経済主体にとってのメリットとデメリットの比較衡量の中で変化していくものである。第一に,安定株主については,「なれ合い」等非効率的な取引につながる面は除いていく必要がある。また,今回の株式市場低迷の下で銀行の株式保有もやや流動化している。第二に,メインバンクについては,企業との関係を一元的に捉えることはできないし,その取引の内容もかなり変化してきている。その中で,銀行は,今後とも各種金融サービスの提供が引き続き期待されているし,メインバンクであるかどうかにかかわらず,経営の健全性確保の観点から,その審査・管理体制の充実に努めていく必要がある。また,金融システム全体についても,今後,公開型の比率が高まることが予想される中で,公開市場の条件整備が必要となろう。第三に,終身雇用については,雇用の安定,人的資本の蓄積のメリットと同時に,労働者が「会社人間」となり,労働者個人の企業外での生活がおろそかにされている,というマイナス面もあらわれている。これは,長い労働時間とも関わりがあると思われる。更に,終身雇用というシステムそのものも,環境の変化に対応しようとする企業側のニーズ,自由時間を選好する労働者側のニーズから,変化する動きもみられる。第四に,生産系列については,第三者にとって,そのしくみが透明性に欠け,ルールが不明確であるため,排他的と受け止められ易い。このため,広く参入の可能性を高めることが求められている。流通系列については,建値,返品,リベート,系列店,差別価格等,経済合理的かどうかを検討し,改善を図る必要がある。第五に,プロセス・イノベーションについては,やはり企業内の人的資本蓄積のメリットを受けるが,それが行きすぎるとそれだけ長い労働時間が投入される可能性がある。更に,プロダクト・イノベーションの能力を高めるため,基礎的研究を充実することが必要となっている。
市場経済が長所,短所を持ち,またその特徴が変化していくのは,アメリカ・イギリス経済,ドイツ,フランス等の大陸ヨーロッパ経済においても同様である。例えば,アメリカでは経営の安定のため,経営者が株式を取得するMBOが盛行し,また機関投資家も企業に対する判断を株の売買だけで表明するのではなく,企業の経営に関して建設的に参画する傾向が出てきている。社債等の公開市場における資金調達が発達した反面,預金保険制度を前提として,貯蓄貸付組合(S&L)等が不動産やジャンク・ボンド(格付BB以下の社債)への過大な投資を行い(モラル・ハザード),大量に倒産し,連邦政府財政赤字を拡大させ,立ち直りに数年要していることは記憶に新しい。安定的な雇用が,企業の人的資本の蓄積に貢献すること,生産系列等の長期的関係の中に競争メカニズムを組み込むこと,プロセス・イノベーションの重要性等も評価されるようになってきた。このように,各国の市場経済はそれぞれの基本的特徴は維持しつつ,相互に刺激しあい構造調整を行うという意味で,相互乗り入れの動きが見られるといえる。
4. 日本経済の課題
日本の市場経済の経済合理性,長所とともに短所を持つことを上で見てきた。このような日本の市場経済の今後の望ましい姿と構造調整の方向をより詳しく検討してみよう。その際の評価基準としては,日本の市場経済が企業や国民経済の効率性や成長を高めているか,国民の生活の物質的な消費水準及び生活の質によってあらわされる社会的厚生を高めているか,国際経済と調和したものであるかどうか,の3点が挙げられる。これまでの日本経済の考え方は,現在の生活水準をある程度犠牲にしても,効率性と成長を高め,国際競争力を高めることにより,パイを大きくすることによって将来の生活水準を高めることを期待する,というものであった。日本の市場経済は,このような考え方を具体的に実現し,国民の物質的な消費水準を高めることが可能であったといえよう。しかしながら,国民の生活の質という点で考えると,長い労働時間,住宅・社会資本整備の遅れ等現在の生活の質が犠牲にされてきている,という認識が国内的に高まっている。このため,国内的には,労働時間の短縮等生活の質の改善が大きな課題となってきている。国際的には,高い国際競争力を持ち巨大化した日本経済は,市場の透明性の確保,ルールの明確化等,各国と調和していくことが求められている。今後の日本経済の考え方としては,国民の現在の生活の質を高める,という目標に重点を移し,それに合致するような構造調整を行っていく必要がある。そして,日本経済が,構造的にも,内需中心の経済になることは,国際経済との調和に大きく寄与すると考えられる。これは必ずしも,日本の企業や国民経済の効率性を損なうものと考えるべきではなく,生活の質の向上,という目標の実現と両立するような効率的な経済の姿は,依然望ましいものである。
日本の市場経済の構造調整の基本的方向は,効率性の高い光の部分を可能な限り維持しつつ,生活の質を犠牲にしたり,国際的調和に欠けるようなその影の部分を改革することである。その具体的方向は,これまで述べてきたところから明らかであるが,あらためてまとめると次の通りである。
第一に,さまざまの理由から長時間化している労働時間を短縮することである。内部労働市場という点から見ると,絶えざる情報交換と調整にはメリットがあるものの,長い労働時間となっている可能性がある。生産,流通等の企業活動の効率性の維持のために,個々の労働者の長い労働時間の投入が必要となっている面が,過度の多頻度少量輸送,短期間のモデルチェンジ等にみられる。所定外労働の割増賃金率が低いことは,労働者の所定外労働の誘因を低めるものの,経営者にとっては所定外労働による労働投入量の追加がコスト的に有利なものとなっていることに注意する必要がある。労働時間の短縮は,労働時間が長い職場に労働者が定着しない傾向等で,おのずと実行される面,他の先進国と比べて,明らかに日本の労働時間が長く,国際的調和の観点から必要となる面がある。しかし,労働時間短縮は,企業には消極的な態度もみられる。このため,政府の積極的な取り組みが労働時間短縮の社会的気運を醸成する上でも極めて重要であり,「生活大国5か年計画」においても「計画期間中(92~96年度)に年間総労働時間1800時間を達成することを目標とする」という政府の方針を示している。企業には,労働時間短縮という前提のもとで,企業活動の効率性を維持していく自己変革努力が望まれる。
第二に,長期的・継続的取引は,第三者にとって,透明性に欠け,またルールが不明確である場合があるため,特に国際的に見て,新規参入を困難にしている面がある。これについては,日本の取引そのものが,公開取引にシフトしていく必要があり,取引の透明性の確保とルールの明確化を推進していく必要がある。公正取引委員会の「流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針」の公表,「ガイドライン」等を参考とした各企業による独占禁止法遵守プログラムの作成がなされており,この方向を維持するとともに,独占禁止法の厳正な運用を今後とも図っていくことが不可欠である。また,このような長期的取引の不透明性,ルールの不明確性の中から,金融・証券不祥事が多発した。これは,「バブル」の中での放漫経営により,システムの中に組み込まれているはずの,競争メカニズムや監視メカニズムがまひすることがあるということを如実に示したものであり,金融・証券業の本来の金融仲介機能の回復努力とともに,情報開示等の透明性の確保,ルールの明確化が急務である。
国民生活の質の向上を図り,また国際的に調和した経済とするために,以上に加えて,政府の果たすべき役割は大きい。
第一に,国民生活の質の向上に必要で,かつ効率的な経済活動が維持できるような,住宅及び社会資本の整備である。住宅については,第2項で既に述べたような,住宅建設の回復を確実にする総合的な土地対策,住宅対策が必要である。社会資本は今後とも,着実に充実を図っていくこととする。「公共投資基本計画」の着実な実施に際しては,今後ますます多様化,高度化する国民のニーズに対応し,重点的に配分していく必要がある。また,国土のバランスある開発を図るための首都機能の移転等の検討が必要である。
第二に,国際的に調和する経済とするためには,日本経済の構造調整を進める必要がある。このため,アメリカ,ヨーロッパとともに,マクロ経済政策,構造政策における政策協調を推進するとともに,自由貿易体制の維持・強化のため,ウルグアイ・ラウンドが早期に成功するよう努力する必要がある。また,国際社会において我が国にふさわしい貢献を行うことが重要であり,発展途上国や旧ソ連,東欧等の市場経済への移行と経済発展を支援するとともに,人類の経済社会と地球環境との調和を図るため,広範な経済協力の展開が必要である。なお,こうした公共支出の水準は,究極的には今後の国民負担のあり方と表裏をなすものであり,財政事情を踏まえ,どのように対処していくかは,最終的には財政需要の動向と負担のバランスを眺めつつ,その時々の情勢の下で国民的な選択が行われていく問題である。
第三に,市場経済が有効に機能するためには,政府が情報を提供したり,中期計画等のヴィジョンを作成すること等を通じて,各経済主体が,経済がどのような方向に向かっているのか,どのような構造調整を必要としているのかを的確に把握することを助ける役割を演じることが必要である。これは,政府が中央から指令を発するのではなく,国民,企業,市場の間の媒介役というソフトな役割を果たすことが要請されているのである。このためには,政府においても,過去必要であったが現在は必要性の薄れている市場制限的な規制を行う役割は縮小していく必要がある。
以上のように,国民生活の質の向上,国際的な調和に向けた市場経済の構造調整と政策により,もともと存在する経済の効率性と両立を図っていくことにより,日本経済は,マクロ的な意味でも,構造的な意味でも,内需主導型の持続的成長が可能となろう。