第2章 賃金の持続的な上昇と個人消費の力強い回復に向けて(第2節)
第2節 賃金上昇の持続性~2010年代後半との違いを中心に~
第1章第2節では、2024年の賃金動向について確認し、フルタイム労働者の所定内給与について、相対的に規模の小さい企業では賃金上昇に遅れがみられるものの、より規模の大きい企業を中心に、過去30年間には見られなかった高い賃上げが実現していることを議論した。一方、本章第1節では、こうした賃金など所得の増加に比べて、個人消費が伸び悩んでいる要因として、老後不安があることや、一時的ではなく持続的な賃金上昇(恒常所得の増加)が重要であること等をみた。これらの議論を踏まえ、第2節では、賃金上昇率の高まりの背景について、コロナ禍前の景気回復期であり、かつ現在と同様に歴史的な企業の人手不足感が生じていた2010年代後半との比較を中心に、いくつかの仮説を検討し、現時点における状況の変化を確認しながら、持続的な賃金引上げのために何が必要かを議論する。
(企業の人手不足感と賃金上昇率には緩やかながら正の関係)
改めて、一般的な賃金上昇のメカニズムを確認すると、賃金は労働市場の需要と供給が一致する水準に決定されると考えられる。労働需要は、一般的には、経済活動の活性化により増加する一方、労働供給は、人口動態や制度(女性や高齢者の労働参加のしやすさを含む)といった要因で増減する。人手不足とは、ある賃金水準の下で労働需要が労働供給を上回っている状態と考えられ、基本的な市場メカニズムの下では、賃金が上昇することで労働需要が減少、労働供給が増加し、均衡点へと至る。すなわち、基本的な労働市場のメカニズムでは、理論上、人手不足の状況においては賃金が上昇することになる。
それでは、これまで人手不足が指摘されていた時期には、賃金は上昇していたのだろうか。企業の人手不足感を表す代表的な指標である日銀短観の雇用人員判断DI(値が低いほど人手不足と考えている企業が相対的に多い)と名目賃金上昇率(就業形態計の現金給与総額の前年比)の時系列推移を第2-2-1図(1)でみると、大まかな傾向としては、企業の人手不足感が高まる時期においては、名目賃金の上昇率が上昇する(人手不足感が低下する時期には、賃金上昇率も低下する)という緩やかな関係性がみられる。ただし、第2-2-1図(2)のように、両者の関係を散布図でみると、例えば2019年は左上領域、すなわち「人手不足感は高いが、賃金上昇率は低い」といった逆の関係も見られるなど、時期によって両者の関係は安定していないことも分かる。
ここで、過去、人手不足感が特に高い時期として、1990年代初頭のバブル期、コロナ禍前のピークであった2018年頃、2022年以降をみると、まず、バブル期においては、雇用人員判断DIがマイナス46と高水準になる中で、名目賃金上昇率が4%前後で推移するという状況にあった。これに対し、2018年には、雇用人員判断DIは、6月調査時点に全規模全産業でマイナス36とバブル期以降で最も高い人手不足感となり、名目賃金上昇率も幾分上昇したものの、前年比で1%未満という限定的なものであった。一方、2022年以降についてみると、コロナ禍から経済活動が正常化されるにつれて、再び人手不足感が高まり、2024年12月時点では再びマイナス36とコロナ禍前のピークに達する中で、名目賃金上昇率については、2024年5月以降、前年比で2%以上の伸びを続けている(第2-2-1図(1))。

(人手不足感が同様に高い時期でも、企業の賃金設定行動は大きく異なっている)
次に、厚生労働省「賃金引上げ等の実態に関する調査」により、1990年代初頭(バブル期)、2010年代末、2023年以降の3時点について、企業が賃金を設定する際に最も重視している要素を確認する(第2-2-2図(1))1。いずれの時点でも、「企業業績」が最も高い回答割合となっているが、1990年代初頭は40%台前半、2010年代末は50%前後に対して、2023年~24年は35%前後と、重要度が低下していることが分かる。2番目、3番目に重視される要素については、1990年代初頭は「世間相場」(35%前後)、「労働力の確保・定着」(10%台後半)、2010年代末は「重視した要素なし」(15%前後)、「労働力の確保・定着」(9%程度)となっている。このように、同じ人手不足感の高い時期であっても、バブル期は、人手不足対応の観点から独自に自社の賃金を引き上げるというよりも、横並び志向での賃金設定の要素が強かったこと、2010年代末は、そもそも人手不足対応が、賃上げの積極的な誘因として2023~24年ほど強いものではなかったと推察される。
これに対し、2023年以降においては、「労働力の確保・定着」(15%前後)や「雇用の維持」2(10%台前半)、さらに「物価動向」(8%程度)が、賃金改定に当たっての相対的な重要度を増している。これらの要素を時系列で比較すると、人材の確保や維持に係る要素は、近年急速に高まっており、バブル期を実質的に超える状況3となっている(第2-2-2図(2))。また、物価動向は、1980年代初に9%程度となった後は、回答割合は長期にわたり僅少であったが、直近では40年ぶりに重要度を増している。このように、今回局面においては、過去と同様の人手不足感の水準の中にあっても、人材の確保・引留めの必要性が増し、物価上昇の継続に対応して雇用者の生計費を維持する観点も相まって、企業が賃金設定行動を大きく変容させている可能性があると考えられる。

コラム2-2 労働需給のひっ迫度合を測る様々な指標
本論では、人手不足や労働需要のひっ迫度合に関する指標として、日銀短観の雇用人員判断DIを使用している。これは、企業に対し、現在の雇用人員について「過剰」「適正」「不足」の3つの選択肢から選んで答えてもらい、「過剰」と答えた企業の割合から「不足」と答えた企業の割合を差し引いたものである。
これ以外に労働需給のひっ迫度を測る指標としては、「欠員率」や「有効求人倍率」がある。「欠員率」は、企業における労働者数に対する未充足求人の比率であり、厚生労働省「労働経済動向調査」の欠員率をみると、相対的に振れが大きいが、雇用人員判断DIと大まかには連動していることが確認される(コラム2-2-1図)。例えば、2018年に欠員率は3%を超え高い水準となった後、新型コロナウイルス感染症の影響で2020年に急落し、その後2024年にかけて上昇し、均してみると、2024年は2018年を若干上回る姿となっている。

次に、「有効求人倍率」は、公共職業安定所(ハローワーク)における有効求人数と有効求職者数の比率である。一般的には、1倍、すなわち求職者1人に対して1つの求人がある状況を上回るか下回るかが、労働需給のひっ迫度を表す基準として用いられる。一方、雇用人員判断DIと比較すると、両者の動きにはかい離が生じるようになっている。具体的には、2022年以降、雇用人員判断DIが人手不足感の高まりを示しているのに対し、有効求人倍率は1を超えているものの緩やかに低下している(コラム2-2-2図)。これは有効求人倍率のもととなる「職業安定業務統計」が、ハローワークの求人・求職のみを対象にしている影響が考えられる。特に2010年代末以降、入職経路の多様化により、ハローワーク経由で入職する人は減少傾向にある。厚生労働省「雇用動向調査」によると、2013年から2023年にかけての10年間で、ハローワークで仕事を見つけたと回答した人の比率は10%ポイント近く低下し、1割強にとどまっている(コラム2-2-3図)。これに代わり、民間職業紹介(インターネット広告も含む)等を経由した入職の割合が増加している。労働需給の分析に際しては、ハローワークでの求人・求職状況のみを反映した有効求人倍率のみを用いることに限界が生じており、欠員率や民間職業紹介の求人など幅広い指標を総合的に確認していく必要があると言える。


(2010年代は、人手不足感と賃金上昇率の関係がやや弱かった可能性)
以上の議論を踏まえつつ、同じ人手不足感の高い状況であった2010年代末に賃金上昇が見られなかった背景を確認し、今後の賃金上昇の持続性の評価に係る議論につなげることとしたい。まず、2010年代において、人手不足感の高まりの一方で、賃金上昇率が低迷していた背景について行われてきた様々な議論や論点を振り返ることとする。
まず、労働市場の需給構造とその調整メカニズムに関する問題がある。何らかの理由により労働需要または労働供給の賃金弾力性が高い場合、賃金が上がりにくくなることが考えられる。特に、高齢者や女性などがパートタイムなど非正規労働で就労する場合については、労働供給の賃金弾力性が高いという可能性が指摘されている4。このため、2010年代に女性や高齢者の労働参加率が上昇する中で、労働市場における賃金の弾力性が高い状態が続き、賃金をあまり引き上げずに人員を充足できたと指摘されている。また、内部労働市場と外部労働市場の違いに着目し、内部労働市場、すなわち企業内での賃金の決定は、採用や転職等の外部労働市場の需給に影響されづらいため、外部労働市場において人手が不足していても賃金が上がりにくいとする議論もある5。
次に、労働者の構成の変化に注目した議論である。例えば、パートタイム労働者はフルタイム労働者よりも月給ベースの賃金水準が低いため、労働者に占めるパートタイム労働者の比率が上昇すると、フルタイム労働者、パートタイム労働者それぞれの賃金が上昇していたとしても、これらの加重平均としてみた雇用者一人当たり賃金上昇率が下方に抑制される傾向がある。こうした効果は、統計の性格上生じる問題であり、各主体別にみれば賃金が上昇している場合もある。ただし、正規雇用・非正規雇用という観点からみると、統計の性格上の問題にとどまらない場合もある。例えば、非正規雇用が報酬や訓練機会といった面で正規雇用と区別され、フルタイム労働者同士で比較しても、正規・非正規労働者間の賃金には説明できない差が残るとするものもある6。一方、年齢効果に着目し、継続して雇用されている労働者の賃金は上昇していた一方で、高齢者の退職・再雇用等に伴い、平均賃金が押し下げられたとする研究もある7。
景気後退期において賃金を減少させることが難しいという賃金の下方硬直性があるため、景気回復局面でも、過去の賃金水準の調整不足を解消するまで企業が賃金引上げを抑制する、あるいは、内部労働市場では長期的な雇用安定が優先される中で、将来の賃金引下げリスクを回避するために、景気回復局面でも賃金引上げを抑制するといった「上方硬直性」も、2010年代の賃金上昇が限定的だった背景として議論されている8。さらに、2010年代において雇用の成長が著しかった医療・福祉業は、診療報酬・介護報酬等により価格が公的に決定されており、賃金が上昇しづらいという規制・制度面に着目した議論もある9 10。
本節では、これ以降、主に、労働供給の弾力性、労働者の構成変化(年齢や産業構成の変化を含む)、外部労働市場(転職による賃金上昇)といった点を取り上げ、2024年現在の状況と2010年代の状況を比較し、現在の賃上げが持続的なものかどうかを検討していく。
(非労働力人口の就業希望者は減少傾向だが労働時間の追加を希望する人は横ばい)
賃金に対する雇用の弾力性、特に、労働供給の賃金に対する弾力性は、人手不足と賃金上昇率の関係を規定する主な要因の一つであると考えられる。例えば、失業者・求職者が多い、つまり人手が過剰な状況においては、企業が新たな求人を提示すれば、多くの人がその求人に応募することとなり、結果として賃金はさほど上昇しない。一方、失業者・求職者が少なく、人手が不足しているような状況では、新たな求人への応募者があまり集まらず、企業は募集賃金を引き上げることにより応募者を増やそうとする。その結果、賃金上昇率は高まる。
ここで、失業者・求職者に限らず、非労働力人口(現在働いておらず、求職活動も行っていない人)であっても、潜在的に就業を希望している人が多く存在し、こうした人口が積極的に労働市場に参入して、新たに働き始めるような場合、上記と同様に、結果として、賃金が上昇しにくい状況となると考えられる。こうした潜在的な就業希望者数の長期的な動向について、「労働力調査(詳細集計)」から確認すると、2023年時点では男女計で233万人存在する一方で、2013年からの10年間では、454万人から約220万人減少しており、非労働力人口に占める比率でみると、10%から6%程度まで4%ポイント程度低下していたことが分かる(第2-2-3図(1))。男女別でみると、元来、就業希望者数は女性の方が多いこともあるが、女性では2013年から2023年にかけて335万人から156万人へと180万人程度減少し、非労働力人口に占める比率では11%から6%程度まで5%ポイント程度低下しており、男女計全体の就業希望者の減少の主因となっている。なお、65歳以上の高齢層についてみると、元々の就業希望者数が大きくないこともあるが、40万人~50万人程度でおおむね横ばいとなっている。
さらに、就業希望者のうち、仕事に「つける」と回答している人数をみると、男女計で、2013年から2023年にかけて152万人から84万人へと減少している(このうち、「すぐつける」は79万人から30万人に減少)。このように、潜在的な就業希望者数からみると、非労働力人口からの人数ベースの追加労働供給の余地は、まだ存在する一方で、2010年代よりは相応に縮小した状態にあると言える。
こうした就業希望の非労働力人口について、求職活動をしていない理由別にみると、全体では、約3分の1に相当する79万人が「適当な仕事がありそうにない」と答えている。このうち、「つける」と回答した者についてみると、約半数に当たる45万人が「適当な仕事がありそうにない」と答えている(第2-2-3図(2))。同回答は、「勤務時間・賃金など希望にあう仕事がありそうにない」(16万人)や「自分の知識・能力にあう仕事がありそうにない」(9万人)といった広い意味で労働需給のミスマッチに起因する理由が含まれていることから、こうした就業希望者に対しては、職業紹介におけるマッチングの効率性を高めるとともに、リ・スキリングの促進等が引き続き重要と言える。
一方、既に何らかの形で就業しているが、追加就業(労働時間の追加)を希望している人も、労働時間ベースとして、潜在的な労働供給余地を構成するものである。「労働力調査(詳細集計)」から、週34時間以下の短時間労働者の「就業時間増減希望の有無」に対して「増加希望」と回答した人数をみると、この項目の集計が開始された2018年に255万人であったのに対し、2023年は265万人と、おおむね横ばいとなっている11(第2-2-3図(3))。このように、人数ベースとは異なり、労働時間ベースでは、2010年代後半と比べて、潜在的な労働供給の余地が縮小しているとは言えない。内訳をみると、女性の短時間労働者が全体の7割と多くを占めており、計260万人超(就業者の約4%程度に相当)の就業者が追加的な労働時間を希望しているという状況には変わりがなく、「年収の壁」への対応や副業・兼業の促進等により、就業増加希望を阻害せず、これを後押しするような取組が引き続き重要となる。

(労働参加率は、見通しを上回って推移してきたが、頭打ちの兆しも)
人数ベースでの就業者の更なる増加余地について、労働参加率上昇の持続性という観点からも検討する。まず、労働参加率の長期的な動向を振り返ると、男女計の労働参加率は、2012年の59.1%から2024年の63.3%まで、4.2%ポイント程度増加した。特に、仕事と育児等の両立支援の効果もあり、54歳以下の女性の労働参加率は2012年の66.3%から、2024年には77.2%まで上昇した。また、継続雇用の取組の効果もあって、65歳以上の高齢者(男女計)の労働参加率は、2012年の20.0%から2024年に26.1%に上昇している。この間、15歳以上人口は、2017年をピークに減少に転じており、近年にかけて減少幅が拡大している12。労働力人口は、2010年代後半までは、15歳以上人口が横ばい圏内の中で、労働参加率の上昇により大きく増加していた。これに対し、近年は、労働参加率の上昇分が15歳以上人口の減少により一部相殺され、労働力人口の増加は、2010年代後半に比べると緩やかなものとなっている(第2-2-4図)。

これを、非労働力人口と労働力人口の間の遷移(フロー)からみると、まず非労働力人口から労働力人口への遷移については、女性の労働力人口への流入は依然として押上げに寄与している一方で、母数となる非労働力人口が減少傾向にあることから、これらが相殺し、近年はおおむね横ばいとなっている(第2-2-5図)。また、労働力人口から非労働力人口への遷移については、母数となる労働力人口が緩やかながら増加しているのに対し、(継続雇用に伴う)高年齢層の非労働力人口へのフローの緩やかな減少傾向が続いていることから、これらが相殺し、近年はやはりおおむね横ばいとなっている。このように、人数ベースとしては、労働力人口の増加余地は徐々に限られてきていると言える。

今後の人数ベースの労働供給をみるうえでは、引き続き、15歳以上人口の減少圧力を補って労働参加率が上昇するかが鍵となる。労働参加率の先行きについては、ここでは、労働政策研究・研修機構(JILPT)が5年に1回程度公表している「労働力需給の推計」を参照する。当該推計は、経済成長や労働参加について、いくつかのシナリオを設定して、将来の労働力人口の展望を示している。この中で、各種の政策の効果により経済成長と労働参加の進展が実現する想定である「成長実現・労働参加進展シナリオ」(2013年度版では「経済再生・労働参加進展シナリオ」)と照らして、日本の実際の労働参加、労働力人口の動向はどのように推移したのかを確認する。第2-2-6図は、2012年以降の日本の労働力人口(実現値)と、各時点でのシミュレーション(いずれもシナリオは最も経済成長し、労働参加が進展するケース)の結果を比較したものである。これをみると、黒線の実現値は、いずれの時点でのシミュレーションも上回って推移してきたことが分かる。特に、2013年度推計(2012年実績からスタート)や2018年度推計(2017年実績からスタート)では、それぞれ事後的に現実の労働力人口が大きくシミュレーション結果を上回っている。これは、いくつかのシナリオの中でも、相対的に労働参加が進むケースにおける想定も超えて、労働供給が増加したことを意味する。一方、2023年度推計(2022年実績からスタート)では、2023年・24年の労働力人口はシミュレーション結果を上回っているものの、その幅は現時点では小幅なものとなっている。
2018年前後と近年では、日銀短観から見た人手不足感はおおむね同程度の水準にあり、一般論としては、人手不足に直面した企業は、労働力確保のために賃金を同様に引き上げるはずであると考えられる。しかし、2018年前後の時点では、上述したように、非労働力人口に占める潜在的労働力の比率が高く、相対的に緩やかな賃金引上げをもって人手を確保できていた可能性が高い。一方、近年においては、潜在的な就業希望者数で計測される労働供給余地が、2010年代末よりも減少しており、賃金をより強く引き上げないと人手が確保できない状態になってきているものと考えられる13。

(労働供給の賃金弾力性はコロナ禍後、低下傾向にある)
この点について、労働供給の賃金に対する弾力性を定量的に分析する。労働供給の賃金弾力性は、賃金が1%増加した時に、労働供給が何%増加するかを表す値である。例えば、賃金の1%の増加に対して労働供給が1%増加する場合、弾力性は1となる。潜在的な労働供給が減少すると、一般に、弾力性は低下すると考えられる。すなわち、潜在的な労働供給余地が大きい状況では、留保賃金(その賃金水準以下では、非労働力のままでいることを選択するような賃金水準)が低い労働者が多く、市場の賃金が小幅に上昇する下でも、潜在的な就業者の労働市場への参入が進むこととなる(賃金弾力性が高い)。これに対し、潜在的な就業希望者が少なくなってくると、より留保賃金水準の高い非労働力人口のシェアが増加し、こうした潜在的就業者は、より大幅な賃金上昇の下で初めて、労働参加を選択することとなる14(賃金弾力性が低くなる)。
そこで、先行研究15を参考に、労働供給の賃金弾力性を計測する指標の一つである「フリッシュ弾性値(Frisch Elasticity)」を推計する。フリッシュ弾性値は、ライフサイクルモデルと整合的な賃金弾性値であり、一時的な賃金の変化(長期的に得られる平均的な賃金水準16と実際の賃金水準の差)に対してどのように人々が労働供給(マンアワーベース)を変化させるかを捉えたものである。被説明変数である労働供給量として労働時間(マンアワー)の対数値を用いて、年齢、消費者物価指数、失業率等をコントロールしたうえで、主な説明変数となる賃金(対数値)に係るパラメーターを確認する17(例えば、パラメーターが1であれば、弾性値が1を意味する)。
推計に際しては、フリッシュ弾性値が性別ごとにどのように異なっているか、また、時系列としてどのように変化しているのか注目する。具体的には、男性、女性に分けて弾性値の推計を行うとともに、賃金水準と年ダミーとの交差項を設定することにより、各年における賃金弾性値を計算した。さらに、コロナ禍で構造変化が起きている可能性を考慮し、コロナ禍前とコロナ禍後で分けて推計をしている。結果をみると(第2-2-7図)、まず、男性のフリッシュ弾性値は、女性のそれよりもかなり低いなど、先行研究と整合的な結果を得られている。また、時系列変化をみると、2021年以降のコロナ禍後においては、男女ともに弾力性が低下していることも分かる。弾性値の低下は、労働供給の制約が強まっており、新たな雇用確保のために、従来よりも賃金を高く設定する必要が生じていることを示唆していると言える。上述したように、潜在的な労働供給の減少という現象と整合的であるとともに、コロナ禍前と同様の人手不足感の状況にあっても、賃金の上昇度合いが高まっている要因の一つの可能性として考えられる18。

(2010年代末にかけてのパート比率上昇による平均賃金の押下げ効果は大きかった)
次に、雇用者の構成変化に伴う平均賃金への影響を見てみよう。雇用者の平均的な賃金をみるうえで主に参照される指標は、「毎月勤労統計調査」における「雇用者一人当たり賃金」であるが、こうした指標は、上述したように、相対的に月収の低いパートタイム労働者の比率の上昇による平均賃金の押下げなど、構成変化による影響が大きい。実際、フルタイム労働者、パートタイム労働者それぞれについて、時給換算の所定内給与を求め、パートタイム比率が2001年の水準で固定されていた場合、2001年以降、雇用者一人当たりの平均の実質賃金は緩やかながら増加していたと指摘とする研究19もある。また、パートタイム労働者比率以外に、労働者の性別、年齢、職業といった要素の構成変化も、平均賃金上昇率に影響を与える可能性があるとも指摘されている。そこで以下では、いくつかの角度から、雇用者の構成変化に伴う賃金指標への影響を確認していく。
ここでは、年一回の統計20にはなるが、よりサンプルサイズが大きく、年齢階級別・性別といった属性別の情報が充実している「賃金構造基本統計調査」を用い、パートタイム労働者21比率の上昇が、一人当たり平均賃金(所定内給与額)22に与えてきた影響について確認する(第2-2-8図)。まず、直近までの、パートタイム労働者比率の推移をみると、2012年には26%程度であったものが、女性・高齢者の労働参加の進展もあって、緩やかに上昇し、2023年には30%程度になっている23。パートタイム労働者比率が、仮に2012年以降横ばいだった場合の雇用者一人当たりの平均賃金をみると、2023年時点では、実際の賃金水準と比べて3%程度高くなっていたと試算される(パートタイム労働者比率の上昇は、年平均0.3%ポイント程度賃金上昇率を押下げ)。ただし、こうした構成変化による賃金の押下げ効果のほとんどは、2019年頃にまでに徐々に発現しており、近年にかけては、総じてみれば、パートタイム労働者比率の上昇による影響はかつてよりも幾分縮小している。

(2010年代末までは、フルタイム労働者の賃金上昇はパートタイムに比べ緩慢)
ここで、フルタイム労働者とパートタイム労働者のそれぞれの賃金上昇率をみると、後者については、月給ベースでは伸びが緩やかである一方、時給ベースでは、これを大きく超えたペースで上昇しており、2010年代後半においても着実な増加がみられていたことが確認される(第2-2-8図(4))。これに対し、フルタイム労働者については、2010年代後半の賃金上昇ペースは限定的であり、近年(2022年以降)になってようやく上昇ペースが高まってきたことが分かる。そこで、以下では、フルタイム労働者に絞り、その業種・性別・年齢の構成変化が、平均賃金やその上昇率に影響を与えたのか否かについて確認していく。
(業種の構成変化の影響は押下げ・押上げともにみられるが、全体としては中立)
まず、産業構成の影響について確認する。業種ごとに賃金水準が異なる場合、パートタイム労働者比率の上昇が賃金を押し下げるのと同様に、相対的に賃金の低い業種において雇用者のシェアが高まれば、各業種内において賃金が上昇していたとしても、平均として見た賃金の上昇幅が押し下げられることとなる。まず、業種ごとのフルタイム労働者の賃金水準を比較すると(第2-2-9図)、全産業平均の31.8万円に対し、最も高い電気・ガス・熱供給・水道業で41.0万円、最も低い宿泊業,飲食サービス業で26.0万円と、1.6倍程度の差があることが分かる。

ここで、労働者の業種別シェアを2012年時点で固定した場合の賃金を試算すると、総じて実際の賃金水準との差は小さく、幾分差がみられた2010年代末時点でも、実際の賃金水準より0.3%ほど高い水準にとどまっていたことが分かる(第2-2-10図)。また、直近の2023年にかけては両者のかい離はほぼなくなっている。

ただし、このことは、労働者の業種別シェアがこの間変化していなかったことを必ずしも意味しない。具体的には、賃金の相対的な水準が異なる業種の労働者シェアが変化した結果、賃金水準の押上げ効果と押下げ効果が相殺して、結果的に業種構成変化の賃金への影響が限定的になった可能性もある。そこで、いくつかの期間(2012年~2023年の全期間、2012年~2016年、2016年~2019年、2019年~2023年の4つ)に分けて、業種ごとの相対的な賃金水準と業種別の労働者シェアの変化の関係を確認する。第2-2-11図は、縦軸に、各期間の始点となる年の各産業と全産業の所定内給与の差、横軸に当該期間のシェアの変化をとったものである。左上(右下)の領域は、平均賃金が相対的に高く(低く)、シェアが低下(上昇)した業種であることから、全業種平均の賃金の押下げに寄与することになる。まず、2012年から2023年の期間全体では、左上の領域に情報通信、金融が、右下の領域に医療・福祉、その他サービスなどが位置しており、平均賃金の相対的に高い情報通信、金融業のシェア低下と、平均賃金の相対的に低いサービス業のシェア上昇が全業種平均の賃金を押し下げる方向に作用した。他方、右上の領域に学術研究、左下の領域に運輸・郵便、宿泊・飲食、生活関連サービスが位置しており、平均賃金の高い(低い)業種のシェアが上昇(低下)したことから、賃金を押し上げる効果も発生し、結果として全期間を通じた平均賃金への影響としては限定的であったことが分かる(第2-2-11図(1))。
内訳期間別にみると、まず2012年~2016年については(第2-2-11図(2))、期間全体の姿とおおむね変わらず、情報通信のシェア低下、医療・福祉等のシェア上昇といった賃金押下げ効果を、学術研究のシェア上昇、運輸等のシェア低下といった賃金押上げ効果が相殺していた。次に、産業構成変化が賃金水準の若干の押下げに寄与していた2016年~2019年についてみると(第2-2-11図(3))、この時期は、業種シェアの変化が全体として小さい中で、賃金水準が相対的に高い情報通信のシェアの低下(左上領域)が、主に平均賃金の押下げ要因として働いたとみられる。最後に、直近期間(2019年から2023年の変化)をみると(第2-2-11図(4))、宿泊・飲食のシェア低下(押上げに寄与)、医療・福祉のシェア上昇(押下げに寄与)等は、期間全体とほぼ同様である。ただし、賃金水準が高い情報通信のシェアが上昇し、賃金の押上げに若干寄与するようになっているという特徴もある。コロナ禍を経たデジタル化の更なる進展もあり、こうした構成変化が生じているとみられる。
このように、労働者数に占める産業構成の変化は、総じてみれば、平均賃金の押下げにはほぼ影響してこなかった。これは逆に言えば、生産性の相対的に高い業種への労働移動が進んでいないことでもある24。引き続き、リ・スキリングを含む三位一体の労働市場改革を進めること等により、産業間・企業間を含めて、賃金がシグナルとなって、より生産性の高いセクターに労働者が円滑に移行するという姿が実現できるかが重要となろう。労働移動の賃金への含意については、後述の転職に係る分析で再論する。

(労働者における男女比の変化は賃金押下げに影響)
次に、男女別の労働者の構成変化の影響を確認する。まず、フルタイム労働者に占める女性の比率は、2012年には32.3%であったものが緩やかに上昇し、2020年に35.8%、2023年には36.9%まで高まっている(第2-2-12図(1))。次に、男女の賃金水準の違いをみると、業種や勤続年数等の違いもあって、平均賃金はそれぞれ男性で35.1万円、女性で26.3万円(2023年時点)と、男女間で単純には1.3倍程度の差がある(第2-2-12図(2))。フルタイム労働者に占める女性比率を2012年で固定した場合の平均賃金を計算すると、2023年時点では実際の賃金よりも1.3%程度高くなっている(第2-2-12図(3)、(4))。ただし、年平均でみると、賃金上昇率の0.1%ポイント程度の押下げ効果であり、必ずしも大きなものではないことも分かる。

また、近年、女性の賃金上昇率は男性のそれを上回っており、結果として、男女間の賃金差は緩やかながら縮小している(第2-2-13図)。具体的には、男女のフルタイム労働者の所定内給与について、2012年以降の累積変化率をみると、男性の7.1%に対し、女性は13.0%と倍近くとなっており、結果として、2012年には女性の賃金は男性の71%だったものが、2023年には75%とやや縮小している25。ただし、男女間賃金格差は、国際的には、欧米主要国と比較すると依然大きい点には留意が必要である。引き続き、同一労働同一賃金の推進、非正規雇用者の処遇改善、継続就業等に向けた仕事と家庭の両立支援等の取組により、男女間の賃金差が更に縮小していくこととなれば、雇用者に占める男女比率の変化に伴う平均賃金の変化の影響は小さくなるものと考えられる。

(年齢構成変化は、団塊ジュニア世代を中心にこれまでは平均賃金を押上げ)
最後に、年齢構成の影響について確認する。年齢構成を固定した賃金水準を試算したものが、第2-2-14図である。これをみると、年齢構成の変化は、傾向としてむしろ賃金水準を押し上げていたことが分かる(2023年時点で、実際の賃金水準の方が、年齢構成を固定した場合の賃金水準よりも1.2%程度高い)。では、なぜ年齢構成の変化が平均賃金の伸びを押し上げたのだろうか。賃金水準は、日本では若年層で低く、中年層になるとともに上昇していき、高齢層になると再び低下する。賃金カーブをみると(第2-2-14図(3))、過去10年の間に、中年層の水準がほぼ変わらないのに対し、特に男性ではより若い年齢層の賃金水準が上昇するなど全体として幾分フラット化しているものの、賃金カーブの構造自体に大きな変化はない26。また、男女計でみると、2023年時点で、全年齢の平均を上回っているのは、40代前半~50代後半のみとなる。このため、こうした年齢層の労働者のシェアが増加すれば賃金押上げ効果、それ以外の世代のシェアが増加すれば賃金押下げ効果として作用する。
この点を確認したのが第2-2-14図(4)であり、この10年間で、賃金水準が相対的に高い40~50代のシェアが上昇し、賃金水準が低い30代以下のシェアが低下している。ただし、2020年以降は40~50代のシェアの伸びは低下している。また、高齢者の労働参加率の高まりにより、賃金水準が切り下がる60代以上のシェアも特に2016年以降増加している。より詳細に10歳刻みでみると、2012年から2016年にかけては40代のシェアが上昇する一方、2020年から2023年にかけては同シェアが低下しており、代わりに2016年以降、50代のシェアが上昇している。これは、いわゆる「団塊ジュニア世代」前後の人口の多い層に大きく影響を受けた結果である27。すなわち、2010年代前半はこうした人口のボリュームゾーンの世代が30代から40代に入ったことで、賃金水準全体を押し上げた。その後、団塊ジュニア世代が2020年代に入り50代に入る中で、40代のシェアが低下、50代のシェアが上昇した。前述のとおり、賃金カーブ上、50代にかけては賃金が上昇することから、引き続き団塊ジュニア世代が賃金押上げに寄与する結果となったと考えられる。
ただし、先行きについて、年齢構成の変化は、今後、平均賃金の押下げ方向に作用する可能性には留意が必要である。これは、先述のとおり、団塊ジュニア世代が2031年以降、徐々に60代に突入することから、相対的に賃金の低い年齢層のシェアが上昇することによる。一方、賃金カーブ自体に変化がみられるという点も注目する必要がある。すなわち、60代の賃金水準は28、60~64歳を中心に、2012年以降、他の年齢層よりもかなり高い伸びとなっている(第2-2-14図(5))。これは、内閣府(2024)で指摘されているように、高齢者の継続雇用が進む中で、企業が高齢者に対して、より若い層への指導等の役割も期待して、定年後の継続雇用時の賃金水準を引き下げないようになっていることを反映しているとみられる。ただし、今後、団塊ジュニア世代という人口のボリュームゾーンが60歳以上に入る中で、企業によるこうした処遇改善の動きが継続的に生じていくかは不確実であり、労働者の年齢構成変化が、2030年代前半にかけては平均賃金を緩やかに押し下げる方向に作用する可能性があるという点を念頭に置いておく必要がある。

以上でみてきたように、労働者の構成変化が賃金に与えた影響としては、第一に、フルタイム労働者とパートタイム労働者という就業形態を合わせた平均賃金については、パート比率の上昇が、特に2012年以降、コロナ禍前の2010年代末にかけて、賃金を押し下げてきた効果が確認される。ただし、第二に、フルタイム労働者の賃金に限って、労働者の各種の構成変化(業種、性別、年齢)の影響をみると、賃金を押し下げる方向にも押し上げる方向にも作用し、全体としては賃金に対しておおむね中立的であったとみられる。つまり、2010年代後半において、人手不足感が高かった一方で、フルタイム労働者の賃金の伸びが抑制された点については、労働者の構成変化の影響は限定的で、各労働者の賃金が伸び悩んでいたことを示している29。
(転職者数は正規間を中心に増加傾向、転職で賃金が増加する人の割合も近年上昇)
それでは、2010年代末にかけて、なぜフルタイム労働者の賃金上昇率は伸び悩んでいたのか。後述するように、様々な背景がありうるが、ここでは転職市場の発展を取り上げ、「外部労働市場」と「内部労働市場」の違いに注目して分析する。まず、労働市場には、ある労働者が、今雇われている企業の外で仕事を探す「外部労働市場」と、今雇われている企業の中で、配属や昇進等を通じて配置が決まる「内部労働市場」が存在する。転職活動を通じて労働力の需給調整と賃金水準の決定が行われる市場は、外部労働市場の一例である。逆に、内部労働市場では、賃金が労働需給の影響を受けにくい30。
我が国においては、「日本型雇用システム」と呼ばれるような、終身雇用や年功序列型賃金が多くの企業で採用され、その結果として、転職市場やそこでの労働移動が、他国と比べて相対的に活発でなかったことは多くの研究で指摘されている31。転職市場の拡大や労働移動の活発化は、希少な労働力が適材適所で活躍するという意味で望ましいものであるが、同時に経済全体の賃金を引き上げる効果をもたらすのであれば、持続的な賃金上昇の実現という観点でも重要となる。
我が国においては、フルタイム労働者については、内部労働市場の役割が大きく、外部労働市場は、主にパートタイム労働者等の非正規雇用者の労働需給調整に限られていたとされる。このため、労働需給が引き締まる中で、転職(外部労働市場)が賃金を上昇させる効果があるとしても、フルタイム労働者がその恩恵を享受しにくかった面があり、結果として、フルタイム労働者の賃金上昇率を抑制してきた可能性がある。一方、近年においては、より好条件の職場で賃金を向上させたい労働供給側の要因と、人手不足感が高まり人材獲得競争が激化する中で、高い賃金を提示して即戦力を雇用したいという労働需要側の要因等から、転職市場が活性化している。実際、2010年代前半からの転職の動向をみると、転職者数は、男女ともにコロナ禍前まで増加し、コロナ禍で一旦減少した後、2024年にかけては、再び増加傾向に転じている。特に、正規雇用者から正規雇用者への転職者数は、特に女性においては、コロナ禍中においても減少することなく、増加傾向で推移していることが分かる(第2-2-15図)。

転職と賃金上昇の関係として、まず、厚生労働省「雇用動向調査」から、転職により賃金が1割以上上昇した労働者の割合の推移をみると、年齢ごとに水準は異なるものの、総じて、コロナ禍を経た直近数年間において、明確な上昇傾向がみられることが分かる(第2-2-16図)。こうした傾向は、企業の人手不足感が近年と同様の水準にあった2010年代後半には見られなかったことから、近年は、全体的な賃上げの流れも相まって、転職を通じた賃金上昇が定着してきている可能性があると言える。

(転職等を通じた労働移動の活性化は経済全体の賃金の押上げに寄与する可能性)
次に、転職と賃金上昇の因果関係を捉えるため、リクルートワークス研究所「全国就業実態パネル調査」に基づく、傾向スコアを用いた分析を試みる。傾向スコアとは、ある施策や活動等の事象の効果を測定したい場合に、その事象の対象となるグループ(ある施策を受けた群や、ある活動を行った群)と、対象とならないグループとの間の各種属性の違いをコントロールする手法である。ここでは、転職の有無以外の労働者の属性(例えば、年齢、性別、職種等)に基づいて各個人の転職確率(傾向スコア)を推定し、それを用いて属性の違いを調整することにより、転職の有無が賃金をどの程度変化させているのかを計測する。
ここでは、先行研究の内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2023a)や内閣府(2023)で行った分析32をもとに、推計期間を2023年の賃金上昇局面にまで延長して分析を行う。具体的には33、性別、年齢といった説明変数を用いて、転職の有無についてロジスティック回帰を行うことにより、個人の傾向スコア(転職確率)を求める。このように求められた傾向スコアから算出したウエイトにより補正した非転職者(対照群)の賃金と転職者(処置群)の賃金の差分を計算し、転職による賃金の増加効果を平均処置効果(ATT)という形で推計する34。
その際、転職動機に関する2種類のグループを考える。一つは、先行研究と同様に、賃金への不満を含めた「環境改善を目的」とした転職者を対象とする場合と、もう一つは、その中で特に「賃金への不満」を動機として転職した人を対象とする場合である。また、コロナ禍前後の変化を確認する観点から、期間ダミーを設けて、コロナ禍(2019年~21年に転職)35やコロナ禍後(2022年に転職)における変化を識別した。結果をみると(第2-2-17図)、環境改善を目的とした転職者の場合、転職前後の2年間で、賃金が1~2%程度上昇していたことが分かる。また、コロナ禍時の転職ではコロナ禍前後のそれよりも賃金上昇効果が低下しているが、これは、コロナ禍時は労働需給のひっ迫度が低かったことから、内部労働市場と外部労働市場の賃金形成にさほど差が生じていなかったことが示唆される。次に、特に賃金への不満を動機として転職した労働者だけに絞った場合、賃金の上昇率は5~6%程度に上昇することが分かる。コロナ禍時の転職では賃金上昇率が他の期間よりも低下していることは、環境改善を目的とした転職の場合と同様だが、コロナ禍後の転職では賃金上昇率が有意に高まっている。労働需給が更にひっ迫していく中で、より高い賃金を求めて転職した労働者が、外部労働市場において高い賃金を獲得している姿がうかがえ、近年の人手不足局面における賃金上昇率の押上げにも一定程度寄与していることが推察される。

それでは実際に、より高い賃金を求めて転職した人の割合はどの程度だろうか。「全国就業実態パネル調査」から、前職退職理由について集計したデータをみると、賃金を理由に前職を退職した人は、年によって異なるが、10~20%程度となっている(第2-2-18図(1))。2020年、21年のコロナ禍の時期においては、人手不足感が緩和し、求人数も低調になったこともあって、賃金を理由に退職した人は減少したが、2022年以降再度上昇していることが分かる36。ただし、2023年時点では、2010年代半ばの水準には回復しておらず、こうした高い賃金を求めた転職活動が着実に増加していくか、十分注視していく必要がある。
また、より高い賃金を求めて転職した人の満足度に注目すると、それ以外の理由により転職した人や、転職をしなかった人よりも上昇していることが分かる。具体的には、「全国就業実態パネル調査」における生活満足度(5段階評価、高い方が満足している)のスコアについて、2年間(2015年から2017年、2016年から2018年、等)のスコアの差を求め、転職の有無や理由といった属性ごとに平均を算出した。結果をみると、当該2年間で転職しなかった人の満足度はほぼ変化がないのに対し、賃金への不満を理由に転職した人の満足度は0.35ポイント37増加しており、これは、賃金以外の労働環境への不満を理由に転職した人(0.2ポイント程度)、それ以外の理由で転職した人(0.1ポイント程度)よりも大きい(第2-2-18図(2))。
このように、賃金をシグナルとした円滑な労働移動の促進は、経済全体の賃金上昇率の向上に一定程度寄与するとともに、個々の労働者のウェル・ビーイングの改善にも資するものであり、引き続き、リ・スキリングによる能力向上支援や、個々の企業の実態に応じた職務給等のジョブ型人事の導入促進等の取組が重要と言える。

(賃金上昇の持続性は高まっているが、その他要素も検証する必要)
以上、本節においては、今後の賃金上昇の持続性を展望する観点から、近年と同様の企業の人手不足感がみられたにも関わらず、賃金上昇が限定的であったコロナ禍前(2010年代後半)と比較し、潜在的な労働供給余地、労働者の構成変化の影響、外部労働市場の活発化といった観点から検証を行った。まず、潜在的な労働供給の余地については、女性や高齢者の労働参加が進んできた中にあって、人数ベースでは、着実に縮小傾向にあり、労働供給の賃金弾力性(フリッシュ弾性値)を計測すると、コロナ禍後の近年では以前よりも低下していることがわかった。これは、企業がより良い賃金面での条件を提示しないと、人材の確保が難しくなっていることを示し、賃金上昇率を構造的に高める要因であると言える。次に、この点と表裏一体な面はあるが、労働者の構成変化という観点からみると、コロナ禍前においては、主にパートタイム労働者比率の上昇が賃金上昇率を抑制してきたとみられるが、近年においては、影響は緩和し、賃金上昇率を押し下げる効果が減衰していると考えられる。業種や年齢・性別といった労働者の構成変化は全体として相殺しあって、これまでフルタイム労働者の平均賃金に与えた影響はさほどみられなかったが、年齢効果、特に団塊ジュニア世代の高齢化による今後の影響には留意が必要である。最後に、転職による労働移動は、コロナ禍前の時期においても、近年と同様に活発化していたが、人手不足感が強まる中で、労働者側のバーゲニングパワーが増したこともあって、より良い条件や高い賃金を求めた労働移動によって賃金が押し上げられる効果が強まっている可能性を確認した。
このように、近年の賃金上昇は、人手不足感が歴史的な水準に高まる中にあって、継続する物価上昇への企業側の対応という観点もあって、より持続的なものに変容しつつあると考えられる。ただし、本節では明示的に議論しなかった論点も残されており、賃金上昇の持続性を評価するには尚早な面もある。
まず、労働市場におけるモノプソニー(いわゆる買い手独占)の影響である。具体的には、地域や産業別の労働市場において、就職先となるような企業が少数に限定されている、つまり労働需要の集中度が高い状況においては、均衡となる望ましい水準よりも賃金が抑制されるという議論である。実際、米国では、労働市場におけるモノプソニーが賃金を抑制しているという研究もある38。我が国においても、モノプソニーがみられるのか、これが賃金抑制に効いてきたのか、コロナ禍前後で変化がみられるのか等の検証は、地方における賃金動向を把握し、地域経済活性化に向けた課題を把握する観点を含め、極めて重要と言える。
また、労働生産性と労働分配率も重要な論点ある。第2-2-19図は、日米の時間当たり労働生産性と時間当たり実質雇用者報酬を1980年からの長期で比較したものであるが39、いずれの国においても、長期的に見て、実質雇用者報酬は、労働生産性の伸びほどは高まっておらず、賃金に対しては、生産性のみならず労働分配率の低下等の他の要因も影響していることが示唆される。労働分配率の低下には、上述したパートタイム労働者比率の上昇や、企業の生産活動のグローバル化の影響等のほか40、モノプソニーや後述する賃金の上方硬直性も影響してきた可能性もある。今後の労働分配率の動向や実質雇用者報酬への影響には注意が必要であるが、労働生産性の上昇ペースという側面に着目すれば、2000年代後半以降については、日本は米国よりも低位にとどまっており、DXや省力化投資、無形資産投資を通じた生産性の向上が、今後の賃金の継続的上昇の観点で重要であると言える。

最後に、本節冒頭でも触れた名目賃金の下方硬直性とそれに伴ってデフレ状況下で生じた上方硬直性の議論である。名目賃金上昇率をマイナスに切り下げることが難しい、あるいは、雇用安定が優先される下で、将来の賃金引下げリスクを回避するために、景気回復局面でも賃金の引上げが抑制されるといった賃金の硬直性は、デフレ状況下における特有の現象と言え、内部労働市場での賃金の決定が中心であるフルタイム労働者ないし正規雇用者に当てはまるものである。こうした賃金の上方硬直性は、2010年代の賃金上昇率の低さにつながったという可能性が指摘されている41。近年において、こうした硬直性がどの程度存在し、賃金動向に影響しているか否かについては、2020年の新型コロナウイルス感染症の影響42を含めた検証を行うためのデータの蓄積を待つ必要があるが、物価上昇が定着していく中で、賃金の調整機能が再び働き始め、下方硬直性に由来する上方硬直性が解消されることにより、賃金上昇が着実に進みやすい環境が実現している可能性もある。この点に係る傍証の一つとして、縦軸にフルタイム労働者の所定内給与の上昇率、横軸に正社員の人手不足感をとった賃金版フィリップスカーブをみると(第2-2-20図)、デフレ期間を含む1999年~2009年においては、両者の関係がみられず、2010年代についても、人手不足感が強まっても賃金上昇率の高まりが限定的であるというフラットな状態にあり、賃金の上方硬直性が存在していたことを示唆している。これに対し、コロナ禍以降の近年については、賃金版フィリップスカーブの傾きがよりスティープ化、すなわち、人手不足感と賃金上昇率の関係が強まっており、上方硬直性の影響が薄れている可能性を示唆している。日本で生じていたとされる賃金の硬直性に関するより精緻な検証は、今後の賃金上昇の持続性を占う上でも重要と言える。
このように本稿では扱わなかった、上記のような賃金抑制をもたらした可能性のある要素が、過去に比べてどのように変化しているのかによって、賃金上昇の持続性の評価も異なりうることから、引き続き、多様な観点からの分析を不断に行っていくことが重要である。
