第2節 企業の海外生産移転の背景
前節では、企業の海外生産移転が進んでいる状況について分析したが、本節では、その背景となっている企業を取り巻く内外環境の変化について検証する。最初に、国際比較を通じて、製造業から非製造業への産業構造のシフトとその背景にある製造業の海外生産移転が、主要先進国で共通する現象であることを確認する。次に、グローバル化の流れの中で、我が国の企業がアジアを中心とする新興国などで海外生産を拡大している背景を、消費市場の拡大、高い収益率という観点から整理する。また、企業が海外生産移転を加速させる要因として、円高・為替変動、新興国の技術水準向上を巡る論点を取り上げる。
1 海外生産移転の国際比較
我が国における海外生産移転の背景を調べるには、まず、他の先進国と比べてみるのがよい。それにより、先進国共通の因子、我が国特有の要因を分けることができる。ここでは、国際比較を通じて、主要先進国における産業構造シフトの趨勢を概観する。また、我が国より先に海外生産移転が進んだアメリカの経験と比較しつつ、海外生産移転を行った我が国企業の雇用調整プロセスの特徴を考察する。
(製造業の国内シェアの低下は主要先進国に共通する現象)
先進国では、企業の海外生産移転などを背景に経済のサービス化が進展し、国内経済に占める製造業のシェア(以下、製造業の国内シェア)が低下傾向にある。そこで、主要先進5か国について、製造業の国内シェアの動きと為替レート、人口構造、対外直接投資残高の変化との関係を確認し、先進国共通の現象は何か、我が国の特徴は何かを整理する。
全体的な傾向として、日本はドイツと類似の動きをしているが、その他の国とでは様相が異なっている(第3-2-1図(1)~(4))。
実質実効為替レート(85年=100)は、日本とドイツは通貨高傾向で推移してきたが、アメリカやフランスは通貨安傾向にあった。人口増加率は、日本とドイツが90年代半ばから鈍化傾向を強めたが、英国は緩やかに上昇しており、アメリカとフランスは横ばいである26。生産年齢人口比率は、日本とドイツは低下傾向にあるが、他の国はおおむね横ばいで推移している。
こうした中で、製造業の国内シェアは、いずれの国においても低下傾向にある。日本とドイツは85年には30%弱の水準であったが、2010年には20%程度まで低下している。この間、アメリカ、フランス、英国は20%程度の水準から10%強の水準まで低下している。また、これと同時に、製造業の海外生産移転などを背景として、各国で製造業の対外直接投資残高(対GDP比)が拡大している。
このように、製造業の国内シェアの低下とその背景にある製造業の海外生産移転の拡大は主要先進国に共通して見られる現象である。この現象は、各国における為替変動や人口構造の変化の違いにかかわらず生じている。
(我が国の製造業の国内シェアの低下ペースは米独並み)
次に、我が国を含む主要先進5か国に韓国と中国を加えた7か国について比較しつつ、我が国の産業構造の調整過程の特徴をやや詳しく見てみよう。まず、製造業の国内シェアの推移を比較すると、次の二つの特徴が指摘できる(第3-2-2図(1))。第一に、我が国の製造業の国内シェアは、2000年代に入ると、輸出の増加に伴う国内生産の拡大などを背景に、しばらく横ばいで推移していたが、リーマンショック後に大きく低下した。他方、韓国の製造業の国内シェアは、90年頃からおおむね横ばいで推移しており、リーマンショック後は、主要先進国が低下する中、直近は幾分強めの動きが見られる。韓国では、通貨安や技術水準の向上によって、製造業の競争力が維持されていると考えられる。
第二に、我が国の製造業の国内シェアの低下ペースは、80年を基準にすると、アメリカやドイツとほぼ等しく、英国よりも緩やかであった。製造業から非製造業へのシフトという国際的な産業構造変化の中で、我が国のシェア縮小は、決して急速に進んだわけではなかった。製造業の国内シェアが大きく低下した国として目立つのは英国である。これは、英国において、80年代半ば以降に金融ビッグバンなどの規制改革が実施され、経済のサービス化が進んだことによる。
世界経済に占める各国の製造業のシェアについても確認すると、我が国は、90年代半ばから縮小傾向にあり、我が国の生産拠点としての存在感が弱まっている(第3-2-2図(2))。他方、韓国は水準こそ低いものの、技術水準のキャッチアップが進み、通貨安の追い風もあり、着実に世界シェアを伸ばしている。世界の工場と呼ばれる中国は、2001年の世界貿易機関(WTO)加盟や製品の品質向上などもあって、世界シェアを上昇させており、2010年にはアメリカを初めて追い抜いた。
(我が国の製造業の賃金は他国よりも弱い動き)
我が国を含む主要先進5か国に韓国を加えた6か国について27、製造業雇用者数の推移を比較すると、2000年以降、全体的に減少傾向にある(第3-2-3図(1))。我が国は90年代初めまで雇用者数が増加していたが、それ以降は減少を続けている。韓国では、2009年を底に雇用者数が堅調に増加し、リーマンショック前の水準を回復している。また、85年を基準にすると、我が国の雇用者数の減少ペースは、ドイツより急速ではあったものの、英国よりは緩やかであり、アメリカと同じ程度であったことから、国際的に見ると、著しく速かったとはいえない。
次に、全ての国で製造業の実質時給(時間当たり実質雇用者報酬)は増加傾向にある(第3-2-3図(2))28。特に、韓国は、主要先進国へのキャッチアップの段階にあったことから、実質時給を大幅に増加させている。他方、我が国では、2000年以降、実質時給がほぼ横ばいで推移し、他国よりも弱い動きとなっている。これは一人当たり名目雇用者報酬が低迷していることが主因であり、この背景としては、企業が賃金を抑制している影響などが考えられる。
(製造業では、各国とも雇用者比率が低下しつつ、労働生産性が高まる傾向)
企業の海外進出が進み、技術の流出や高付加価値産業の海外移転などが起こると、国内製造業の雇用者比率と労働生産性がそろって低下する可能性がある。現時点では、いずれの国においても製造業雇用者比率が低下傾向にある中で、製造業の労働生産性が高まっている。(第3-2-4図)。特に、韓国の労働生産性が最も上昇している。長期的には、企業の海外進出などを背景に製造業雇用者比率の低下が見られるものの、それは国内製造業の労働生産性の低下を伴ってはいない。
(賃金の抑制により単位労働費用は低下、しかし円高がそれを相殺)
次に国際競争力を測る上で重要な単位労働費用(ULC)29を見ると、我が国は賃金の抑制によって、自国通貨ベースのULCを他国よりも低下させてきた(第3-2-5図(1))30。しかし、ドルベースのULCを見ると、為替変動の影響により、我が国はアメリカと比べて大きく上昇している(第3-2-5図(2))31。国際競争力を維持するために、日本企業が絶えずコスト削減に努めても、それが円高によって打ち消されてしまっている。
(アメリカにおいては、製造業の多国籍企業は雇用の下支え役とならず32)
我が国より先に海外生産移転が進んだアメリカの経験に学ぶため、アメリカの多国籍企業(製造業)の雇用動向を見てみよう。多国籍企業の海外子会社の雇用者数は、企業の海外展開の拡大を背景に徐々に増加しているが、親会社では減少傾向にある(第3-2-6図(1))。多国籍企業全体(親会社+子会社)の雇用者数は、親会社の減少ペースの方が海外子会社の増加ペースよりも速いため、緩やかに減少している。この点は、海外生産移転を行った企業の国内雇用が拡大する傾向にある我が国とは異なっている33。海外子会社の地域別の動向を見ると、雇用者数はヨーロッパが最も多いが、リーマンショック後はやや減少している(第3-2-6図(2))。他方、アジア・太平洋地域においては、雇用者数が増加傾向にあり、国別では中国とインドの寄与が大きい。
多国籍企業の海外子会社の雇用者数は全体では増加傾向にあるが、業種別に見ると様相が大きく異なっている(第3-2-7図)。雇用者数の増加に大きく寄与しているのは、食料・飲料・たばこである。この業種は、最終消費地である自国から遠く離れた海外で生産を代替するメリットが他の業種より少なく、実際、親会社の雇用はほとんど維持されている。そのため、海外での生産代替ではなく、現地需要を獲得するための海外展開が積極的に行われていると推察される。こうした傾向は我が国の当該業種にも見られる。
海外子会社の雇用を増やす一方で、親会社の雇用を減らしている業種では、海外子会社で生産代替が進められている可能性がある。これらに属する業種は、機械類、化学、輸送機器、鉄鋼・非鉄・金属製品、プラスチック・ゴムである。海外子会社と親会社をともに減少させているのは、家具関連、木製品・紙製品、繊維・衣料、コンピュータ・電子機器、電気機械である。労働集約型という特徴を有する軽工業は、安い労働力を抱える新興国との価格競争において太刀打ちできず、海外生産移転が急速に進展していると考えられる。また、電気機械においても雇用者数が大きく減少しているが、この背景には、日本、それに続いて中国、韓国、台湾などのアジア勢の躍進があると考えられる。
多国籍企業の親会社とアメリカ製造業全体の雇用者数減少ペースを比較すると、両者に大きな差は見られない(第3-2-8図(1))。業種別に見ると、親会社の雇用削減ペースの方が遅い傾向にあるのは、プラスチック・ゴム、コンピュータ・電子機器である(第3-2-8図(2)~(4))。プラスチック・ゴムは、海外子会社の雇用者を増やしていることから、海外での事業拡大が国内雇用の減少を抑えている可能性がある。ただし、その他の業種には、多国籍企業が国内の雇用を下支えしているような傾向は見られない。
2 海外生産移転の背景
以上では、製造業の国内シェアの低下とその背景にある企業の海外生産移転は、為替レートや人口構造の変化にかかわらず、主要先進国に共通に見られる不可避な流れであることを見た。これは、企業がグローバル化の流れの中で積極的に海外市場に進出し、産業立地の最適化を図った結果であると考えられる。こうした流れの中で、このところ、我が国企業はアジアをはじめとする新興国を中心に海外生産を拡大している。ここでは、この背景を、消費市場の拡大、高い収益率という観点から整理する。また、企業が海外生産移転を加速させる要因として、円高・為替変動、新興国の技術水準向上を巡る論点を取り上げる。
(1)我が国の市場縮小と新興国の市場拡大
我が国の企業の海外生産移転という潮流の根底にあるのは、今後の国内市場の縮小と海外市場の拡大という不可逆的な世界経済の構造変化である。企業は、人口減少が進み、長期にわたって低成長が続く我が国に留まっていては、将来展望を描くことができないため、国内よりリスクは大きいが、高い成長が見込める海外市場に活路を見出そうとする。
(人口に続いて世帯数も減少へ)
我が国では、少子・高齢化の進行によって、生産年齢人口は、すでに90年代前半にピークを迎え、総人口も、2010年から減少過程に入った(第3-2-9図(1))。総世帯数も今後の減少が見込まれる(第3-2-9図(2))。世帯種類別に見ると、未婚化と高齢化の進行などを背景に、単独世帯数が大幅に増加しており、単独世帯割合が上昇傾向にある。財別の消費に関して、世帯数減少の影響が大きいのは住宅関連の耐久消費財であり、広く普及し世帯の保有比率が高い財については、新たなニーズの発掘がない限り、市場規模の縮小が着実に進むと見られる。
(世界経済における我が国のシェアは低下傾向)
このように市場の縮小が続く我が国の経済は、世界における経済的地位が低下傾向にある(第3-2-10図(1))。世界経済との比(世界経済/日本経済)を見ると、人口は、海外人口の堅調な増加や我が国の少子・高齢化などを背景に、70年から一貫して上昇傾向にある。名目GDPと名目家計消費は、我が国の高度成長やバブル景気の影響もあって、90年頃までは低下(経済的地位は上昇)を続けてきたが、バブル崩壊などをきっかけにその後は上昇に転じている。
世界経済(名目GDP)と世界消費(名目家計消費)の構成比を主要地域・国別に見ると、欧州は70年から低下傾向にある(第3-2-10図(2)、(3))。他方、アジア地域(日本、中国を除く)は世界シェアを伸ばしており、2000年代前半には我が国を追い越した。中国も同様に世界シェアを堅調に高めている。アメリカの世界シェアは、2000年前半まで横ばいで推移していたが、アジア地域(日本を除く)の存在感が高まるにつれ、その後は緩やかに低下している。人口は、中国やインドなどの人口超大国を抱えるアジアの存在感が圧倒的に高い(第3-2-10図(4))。
(企業は収益拡大のために海外直接投資を推進)
こうした世界経済の大きな構造変化の中で、企業が収益を拡大するためには、輸出の拡大や海外生産移転が求められる。しかし、我が国の人口減少に伴う労働供給制約を考えると、国内で輸出財の生産を拡大させることには限界があり、中長期的には、海外生産移転が重要になる。そこで、我が国の対外直接投資残高の動向から、企業の海外展開の状況を確認する。地域別では、アジアや中南米などの新興国向けが近年増加傾向にあり、アジア向けは2009年にEU向けを追い越した(第3-2-11図(1))。企業は、我が国から地理的に近く、消費市場の拡大が期待されるアジアへの進出を強化している。なお、製造業の直接投資残高はリーマンショックの影響で2008年に大きく低下した(第3-2-11図(2))。
直接投資収益率を比較すると、2000年代前半からアジアの投資収益率が北米やEUなどの先進国を上回って推移している(第3-2-11図(3)、(4))。また、97年に発生したアジア通貨危機後にアジアの投資収益率はマイナスに転落したが、リーマンショック後の収益悪化は限定的で、収益率の低下幅は北米やEUよりも小さかった。なお、ASEAN地域と中国の収益率の差は小さく、ともに10%を超えている。
以上の議論から、企業の海外生産移転は、消費市場の拡大が見込まれ、先進国より高い投資収益率が期待できる新興国を中心に、今後も進むと見られる。特に、我が国から地理的に近く、世界の人口の過半を占めるアジアに対する直接投資は、企業の海外生産移転において、引き続き重要な鍵を握ると考えられる。
(2)円高・為替変動
我が国の企業は、国内市場の縮小と海外市場の拡大という大きな潮流の中で、長期的に生産拠点の海外移転を進めていくと見られる。しかし、リーマンショック以降に、海外設備投資比率の上昇が加速した要因としては、内外経済の成長率格差よりも、急速な円高進行の方が多く指摘されている34。一般的に、自国の通貨が上昇すると、輸出関連企業の収益悪化、貿易財の価格競争力の低下などを通じて、国内経済にマイナスの影響を及ぼすとともに、企業の海外進出を促すことになる。ここでは、為替レートの計測方法や計測期間の違いを考慮しながら、現在の円高水準をどのように考えれば良いか検討する。
(名目為替レートは、企業収益の悪化などの経路からマイナスの影響)
今回の円高局面を振り返ると、ドル円レートは アメリカのサブプライムローン問題の影響などによって、2007年夏頃から円高ドル安基調に転じた。2008年9月のリーマンショック後は、リスク回避による円買いや円キャリー・トレードの巻き戻しが起こり、円は急伸した。その後も、日米金利差の縮小、リスク回避による円買いの継続、アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)による大規模な金融緩和政策などを背景に、円高ドル安が進行した。その間に政府による為替介入や日本銀行による積極的な金融緩和策などが実施されたが、円高トレンドが反転するには至らず、歴史的な円高局面が長期化している(第3-2-12図(1))。
複数の通貨に対する為替レートを、我が国の貿易構造に基づいて加重平均した名目実効為替レートを見ても、現在の為替水準は歴史的に高い。この名目実効為替レートの変動を寄与度分解すると、今回の円高局面における主要通貨ごとの特徴が確認できる(第3-2-12図(2))。リーマンショックが発生した2008年の円高局面においては、その震源地である米ドルが円の増価に大きく寄与したが、それ以上に韓国ウォンの影響の方が大きかった。この背景として、韓国ウォンは、信用力や流動性の低さなどから、国際的な金融危機が起こると暴落しやすいという特徴を有していることが挙げられる。
こうした名目為替レートでみた円高の進行は、輸出関連企業の収益悪化を通じて、日本経済にマイナスの影響を及ぼすとともに、企業の海外進出を促す要因となりうる。具体的な経路としては、輸出関連企業が円高によって輸出採算の大きく悪化した製品の輸出や生産を減らす、国内生産に対する期待収益率の低下に伴って国内設備投資が抑制される、為替変動リスクへの対応策として海外現地生産比率を高めるなどが指摘できる。他方、円高には海外から輸入する原材料費を低下させるという円高メリットがあり、また、為替ヘッジなどによって円高の影響は軽減できるという見方もある。しかし、現在のところ、輸出関連企業にとっては、原材料費の低下よりも円ベースでみた海外収益低下の影響の方が大きく、企業の想定を超える円高局面においては、為替ヘッジの効果にも限界があるというのが実態だと考えられる35。
このように、輸出関連企業の収益面を評価する際には、名目為替レートの急激な変動に注意する必要がある。現在、我が国では歴史的な円高水準が長期化しており、輸出関連企業の収益悪化という経路を通じて、企業の海外生産移転を後押ししている可能性があろう。また、今回の円高局面においては、我が国の輸出競合国である韓国をはじめとする新興国の影響が大きいという特徴があることから、ドル円レートやユーロ円レートだけでなく、韓国ウォンをはじめとする新興国通貨の動向も重要である。
(実質為替レートで物価上昇率の差を考慮)
価格競争力を測るには、各国の物価上昇率の差を考慮した実質為替レートを利用する必要がある36。我が国は歴史的に他の主要先進国より低インフレの状況が続いてきたため、名目為替レートの変動分を除くと、我が国の物の値段は他国よりも相対的に安くなっている。そして、日本製品の価格競争力は、その価格差の分だけ他国よりも高まっていることになる。名目為替レートではこうした物価変動の影響を捉えることができないため、価格競争力の比較においては、実質為替レートが重要な為替指標として利用される。
名目実効為替レートの変動に大きく寄与した米ドルと韓国ウォンとの、実質為替レートの推移を確認すると、両者に共通する特徴として次の二点が指摘できる(第3-2-13図(1)、(2))37。
第一に、名目為替レートは、リーマンショック後の円高進行によって、歴史的な円高水準にあるが、実質為替レートはそのような高い水準には達していない。我が国の物価上昇率が、アメリカや韓国よりも低い状況が長期間続いた結果、実質為替レートの増価が抑えられたのである。そのため、実質為替レートについては、長期推移からみた現在の為替水準と、リーマンショック後の急激な円高進行という変化の速さを区別する必要がある。企業の海外生産移転を促進させるリスク要因としては後者が特に重要だと考えられる。
第二に、消費者物価指数(CPI)ベースの実質為替レートよりも生産者物価指数(PPI)ベースの実質為替レートの方が円安となっている。これは、我が国では小売よりも川上の企業部門において、アメリカや韓国よりも物価上昇が抑えられてきたことを示唆している。この背景の一つとして、日本メーカーがコスト削減努力を絶えず行ってきたことが挙げられる。今後も日本メーカーのコスト削減効果が、実質為替レートの増価を抑えると見込まれるものの、円高の長期化や電力供給問題などによって、企業を取り巻く環境は厳しさを増しつつあり、これまでのようなコスト削減が行えない可能性がある。
また、企業が直面する実質為替レートは、産業ごとに異なっていることにも留意する必要がある(第3-2-13図(3)、(4))。対ドルでは、電気機器が円高方向にかなり振れていることが注目される。95年の円高局面と比べると、まだ10%以上の円安水準にあるが、一国全体でみた実質為替レートよりも大きく円高が進行していることがわかる。対ウォンにおいても、電気機器は一国全体でみた実質為替レートより円高水準にある。さらに、輸送用機器については、リーマンショック後に過去最高値を更新した。現在、自動車産業においては、日本企業が「技術力」を武器に世界をリードしているが、今後は、韓国企業が通貨安によって高まった「価格競争力」を武器にして、世界シェアを高めていく可能性もある38。
(我が国の実質実効為替レートの比較)
最後に、各国の物価上昇率の違いに加えて、我が国の貿易構造を考慮した実質実効為替レートの推移を確認しておこう。実質実効為替レートは、実質化の際に消費者物価指数(CPI)と単位労働費用(ULC)のどちらを利用するかによって動きに差が生じる(第3-2-14図)。過去20年の平均値と比較すると、ULCベースの実質実効為替レートは約7%の円高となっている一方で、CPIベースだと3%程度の円安である。リーマンショック以降に両者のかい離が拡大していることも注目される。これは、他国と比べた場合、我が国のCPIの低下幅の方がULCよりも相対的に大きくなっていることを示唆している。
CPIベースの実質実効為替レートには、他の物価指標を利用する場合より多くの国と比較できるという長所がある一方で、国際競争力と関連性が低い非貿易財が含まれるという短所もある。他方、ULCベースは比較可能な国が減るという欠点こそあるものの、主要国はカバーされており、ULC自体が国際競争力という観点から重要な指標である。そのため、以下の国際比較においては、ULCベースの実質実効為替レートを利用する。
また、実質実効為替レートを利用する際には、基準時点の影響に留意する必要がある(付注3-2)。以下では、過去20年程度の長期的な動きを概観できるように、90年1月を基準時点にして比較を行った。
(実質実効為替レートについては、円高進行ペースとその持続性が論点)
ULCベースの実質実効為替レートを国際比較すると、我が国は、95年まで円高が進み、特に93年以降の円高進行ペースは、我が国と同じように通貨高が進んでいたドイツやスイスと比べても急速であった。2000年代に入ると円安傾向がしばらく続いたが、リーマンショック後に再び円高方向に転じた。今回と95年の円高局面と比較すると、主な特徴として、①円の上昇ペースは両者とも同じように急速であった、②為替水準は前回の方が高く、今回は過去20年平均より8.4%高い水準にとどまっている(CPIベースでは過去20年平均より3.9%円安)、③円高進行期間は今回の方が長い、という三点が指摘できる(第3-2-15図)。そのため、今回の円高が輸出関連企業に与えるマイナスの影響については、名目為替レートの議論のように為替水準に注目するのではなく、円高の進行ペースと円高の長期化という視点が重要となる。企業経営者の立場からすると、実質実効為替レートが歴史的な円高水準でないとしても、円高が急速に進み、円高基調に反転の兆しがなかなか見えてこなければ、海外生産移転を選択せざるを得ない場合が出てこよう。
海外の動向を見ると、韓国は、通貨の信用性や流動性の低さなどから、アジア通貨危機やリーマンショックのような世界的な金融危機が発生すると、通貨が大きく売られ、その後しばらくは通貨安の状況が続く傾向にある。先進工業国として我が国と比較されることが多いドイツは、現在、90年1月と同じような水準にあり、我が国との差もあまりない。ドイツの特徴として、為替変動が小さいという点が指摘できる。つまり、ドイツの輸出関連企業は、日本企業とは異なり、これまで急激な為替変動に直面してこなかったことがわかる。
スイスは、20年近くほぼ一貫して通貨が上昇してきた。ただし、スイス中央銀行が、欧州政府債務問題を背景に通貨高が加速した2011年9月、通貨高を阻止するために無制限の為替介入を行うことを決定したため、通貨上昇に一旦歯止めが掛かった。リーマンショック発生直前からスイス中央銀行が無制限介入を発表する直前(2008年8月~2011年8月)までの通貨上昇率は、我が国の方がスイスよりも高く、今回の円高進行ペースの速さがうかがえる。
(3)新興国の技術水準向上
これまで、アジアを中心とする新興国市場の拡大という世界経済の大きな潮流の下で、持続的な円高が進んでいることが企業の海外生産移転を加速させる要因となっていることを見てきた。ここでは、海外生産移転を加速させるもう一つの要因として、新興国の技術水準の向上に着目する。企業が新興国に生産拠点を移転し始めた当初は、安価で豊富な労働力を大量投入することによって、生産コストを抑えることが主な目的であった。しかし、新興国の技術水準の向上に伴い、高付加価値製品の生産拠点を海外に移転して、我が国に逆輸入する企業や第三国にそのまま輸出する企業が増えている。新興国の技術水準を測定することは困難であるものの、海外への生産移転という潮流の変化を読むには、こうした経済情勢の変化を無視することはできない。また、前項で取り上げた円高・為替変動に関して、新興国の技術水準向上という要素を加味することにより、改めて検討を行う。
(海外現地法人への技術移転が進展)
日本企業の海外現地法人の技術水準について、経済産業省の「海外事業活動基本調査」のアンケート結果を見てみよう39。製造業全体を見ると、いずれの進出形態においても、「日本より高い若しくは同等の技術水準」という回答が増加傾向にあり、技術水準の向上は進出形態に依存せず進んできたことがわかる(第3-2-16図(1))。96年度から2002年度と2002年度から2008年度の変化幅を比較すると、後者の方が大きい。
機械業種の動向を比較すると、「一貫生産」の技術水準は、いずれの業種においても着実に高まっている(第3-2-16図(2)~(4))。かつて海外現地法人が一貫生産する製品は付加価値の低いものが中心であったが、我が国からの技術移転が進められたことによって、現在では、より付加価値の高い製品が生産されるようになったと考えられる。第1節において見たように、輸送機械や一般機械では海外設備投資比率の上昇が加速しているが、その背後には、こうした海外現地法人の技術水準向上も影響していると考えられる。
輸送機械は、「日本より高い若しくは同等の技術水準」という回答が、いずれの進出形態においても増加している。特に、2002年度から2008年度の増加幅は、製造業全体よりも大きく、同期間に海外現地法人の技術水準のキャッチアップが速いペースで進んだことがわかる。昨今、日本メーカーがタイの工場で生産した自動車の逆輸入を拡大させているが、海外現地法人の技術力という観点からは、すでに2008年度頃には、その実現に向けた素地が整いつつあったと推察される。
他方、一般・精密機械は技術水準の上昇ペースが限定的なものに留まっている。より高い技術を要する製品の生産拠点は国内に留め、それ以外を海外で生産するといった棲み分けが行われている可能性が指摘できる。電気・通信機械は、2008年度の調査において、「日本より高い若しくは同等の技術水準」という回答が他の業種よりも高く、全ての進出形態で80%を超えている。国内と海外現地法人との技術力格差が、他の業種と比べて縮小していると考えられる。
(中国や韓国では研究開発投資に勢い)
我が国を含む6か国について、国際機関が公表している科学技術指標を見ると、我が国の貿易競合国である中国や韓国の勢いが読み取れる(第3-2-17図(1)~(6))40。研究開発費対名目GDP比は、韓国が2000年頃から上昇ペースを速め、2004年にアメリカ、2009年に我が国を追い抜いた。中国も研究開発投資を進めた結果、EUに近い水準まで上昇した。研究開発費の負担主体を比較すると、我が国は民間による負担が大きい一方で、政府による負担が非常に小さいという特徴がある。
特許シェアを見ると、我が国の2010年のシェアは約30%と高く、アメリカやEUと同じく高い水準を維持している。韓国は2000年代半ばまでシェアを伸ばしてきたが、このところ横ばいで推移している。中国は水準こそ1.8%と低いものの、2000年頃から上昇傾向にある。
人口100万人当たりの研究者数は、我が国が5,000人を超えており、他の国よりも多い。韓国の研究者数は、2000年代に入ってから、大幅に増加しており、現在は我が国に近い水準となっている。科学技術に関する論文数は、我が国が緩やかに減少している一方で、中国が大きく数を伸ばしている。
科学技術指標からは、我が国は今後も高い技術水準を維持することができると考えられる。しかし、企業の生産拠点の海外移転という観点からは、中国や韓国が、我が国、アメリカ、EUへのキャッチアップを進めている点が重要である。一般に、国際競争において、競合国間の技術水準の差が縮まれば、生産コストの差の影響が相対的に強くなるため、新興国よりも生産コストが高い我が国に生産拠点を留めておくことは難しい。長期的に、新興国の技術水準が先進国に近づくことが見込まれるなかで、我が国は優位性のある分野や将来的に市場拡大が期待できる分野を見極めて、戦略的な研究開発投資を行うことが求められている。
(輸出の構造変化から推察される新興国のキャッチアップ)
こうした新興国の技術水準の向上は、世界的に見て製造業の「輸出拠点」の配置転換をもたらしているか。この問題を検討するに当たり、我が国を含む11か国の製造業輸出シェアの推移を確認する。
製造業全体の輸出シェアを比較すると、我が国は80年代前半までアメリカやドイツと首位争いをしていたが、それ以降、輸出シェアは低下傾向にある(第3-2-18図(1))。2000年以降の輸出シェアの低下は、アメリカや英国と同じようなペースであった。中国は輸出シェアを急速に上昇させており、2008年にはドイツを抜いて世界最大の輸出国となった。なお、ドイツは輸出シェアで中国に抜かれたが、2000年以降はシェアの低下に歯止めが掛かっている。韓国も堅調に輸出シェアを伸ばし、英国を2007年に追い抜いた。ASEAN地域を見ると、2000年代に入ってからタイとベトナムが、輸出シェアを上昇させている。他方、インドネシア、マレーシア、フィリピンは伸び悩んでいる。
業種別の輸出シェアを見ると、自動車については、我が国の輸出シェアは低下傾向にあるが、その低下ペースは緩やかなものに留まっていること、ドイツに次ぐ第2位を維持していることを踏まえると、輸出拠点としての我が国の存在感は依然として大きい(第3-2-18図(2))。韓国は輸出シェアを着実に伸ばしており、技術水準向上や通貨安に伴う価格競争力などを考慮すると、今後もシェアを拡大させることが見込まれる。ASEAN地域では、タイの輸出シェア拡大が注目される。前述したように、タイについては、我が国の自動車メーカーが逆輸入できるほど技術移転が進んでいることを鑑みると、技術水準向上に伴う輸出シェア拡大が起こっていると考えられる。
電気機器等については、中国が3割近くのシェアを占めて他国を圧倒している(第3-2-18図(3))。我が国は95年まで世界トップにいたが、それ以降は急速にシェアを低下させている。この背景としては、電気機械において、企業の海外生産移転が大きく進展したことが挙げられる。衣服についても中国が他国を圧倒しており、ASEAN地域においては、ベトナムが輸出シェアを伸ばしている。衣服は労働集約的な軽工業であることから、ASEAN地域の中でも賃金が安く、縫製技術が向上しているベトナムに輸出拠点がシフトし始めていると見られる(第3-2-18(4))。
以上を整理すると、製造業の輸出拠点という点からは、日本、アメリカ、英国といった主要先進国の地位が低下傾向にある一方で、中国の躍進が際立っており、韓国の存在感も高まっている。また、業種別に見ると、タイは自動車、ベトナムは衣服のシェアを大きく伸ばしており、両国とも技術水準向上を背景に、輸出拠点として台頭し始めている。
(為替変動と新興国の技術水準向上)
前項で見たように、国際的な価格競争力を測る実質実効為替レートは、リーマンショック後に円高が急速に進行したが、95年の円高局面と比べるとまだ円安水準にある。他方、新興国の技術水準に関するこれまでの検討からは、新興国の95年頃の技術水準は現在ほど高くなかったことが指摘できる。具体的には、日本企業の海外現地法人の96年度の技術水準は2008年度と比べて低く、輸送機械では「日本より高い若しくは同等の技術水準」という回答が50%を下回っていた。また、製造業輸出シェアにおいて、中国が躍進し始めたのが2000年代に入ってからであることを踏まえると、90年代の中国の技術水準は我が国の輸出と競合できるほど高くはなかったと推察される。
企業の海外生産移転という観点からは、現在の実質実効為替レートが95年より円安水準である事実のみを見ては大局を見誤る可能性がある。当時の円高局面では、新興国の技術力の低さが障害となり、企業が海外生産移転を加速させることは容易でなかった。タイから自動車を逆輸入することは、到底考えられなかったと思われる。しかし、新興国の技術水準が向上し、生産コストの差が依然として大きい中で起こった今回の円高局面では、技術力という障害が低くなった分、企業が海外生産移転を進めやすくなっている点に留意が必要である。
コラム3-1 海外生産移転を巡るリスクへの対応
海外生産移転にはリスクも伴う。日本企業は、尖閣諸島を巡る問題をきっかけに、中国リスクを改めて意識するようになった。2012年9月以降、中国各地で発生した大規模な反日デモによって、日本企業の現地法人は、小売店舗の破壊と商品の略奪、工場の操業停止などの被害を受けた。我が国の対中直接投資残高は増加傾向にあるが、過去2回の反日デモの後には直接投資の大幅な減少は確認できず、外生的ショックである反日デモと直接投資との関係は必ずしも明確ではない(コラム3-1-1図)。ただし、中国景気の減速や尖閣諸島を巡る状況の影響については、今後も注視が必要である41。
2010年10月に尖閣諸島沖での漁船衝突事件を契機に反日デモが起こった際の日本企業の意識調査によれば、中国ビジネスは引き続き重要だとする企業が多いものの、他国・地域への取り組みを強化する企業やリスク分散の重要性を認識する企業も多い(コラム3-1-2図)。反日デモが今後再び起こる可能性があるとしても、潜在成長力が高く、長期的な需要拡大が見込まれる中国市場から企業が全面的に撤退することは考えにくい。そのため、現在考えなければならないことは、中国に対する直接投資のリスクがどの程度あるのか検討することである。リスク分散という視点からは、特定の国に対する投資比率を過度に高めないようにすることが重要である。そこで、我が国の直接投資残高(世界)に占める中国の比率を業種別に確認する。
2011年は、繊維、木材・パルプ、ゴム・皮革などの軽工業のシェア(対世界)が高い(コラム3-1-3図)。これらは直接投資残高が少ない業種であるため、全業種への影響は小さい。しかし、技術的に他国で代替しやすい業種であることを考えると、地政学的リスクを回避するという観点からも、生産拠点の再配置が検討される可能性がある。直接投資残高が多い業種で、中国の占める比率が相対的に高いのは、輸送機械、一般機械、電気機械であり、今回の尖閣諸島を巡る問題でも影響を受けている業種である。これらの業種については、ASEAN地域のシェアが高まっていることから、中国国内市場向けでない製品については、生産拠点をASEAN地域内に分散してシフトすることが選択の1つとして考えられる。