日本経済2006(全文)第5章 金融市場の正常化と金融政策の動向
第5章 金融市場の正常化と金融政策の動向
2006年の金融市場は、過去5年程度の間に続いてきた量的金融緩和とゼロ金利という金融政策が転換される重要な節目となった。ゼロ金利政策の開始は1999年2月に低迷の続く日本経済に対する金融緩和措置が実施されたところまでさかのぼる。その後2000年8月に一時的にゼロ金利政策が解除されたものの景気が後退局面に入る中で、2001年3月には量的金融緩和が実施されるとともに再びゼロ金利が実施されることとなった。その後は金融システムの不安定性が解消し、長期にわたる景気回復の過程で構造調整が進展し、経済は正常化に向かった。こうした状況を背景に日本銀行は2006年3月に量的緩和政策を解除し、7月にはゼロ金利を解除した。
デフレが払拭された通常の世界では金融政策も正常化し正の水準の金利が復活することとなる。その意味で経済全体の正常化の動きに合わせて、金融政策も次第に正常な姿に向けて歩を進めてきた。金融政策をめぐる大きな環境変化がみられる中で、金融市場は緩やかに成長を続ける経済の動きを反映しつつ、総じて落ち着いた動きを辿っている。ゼロ金利解除後も依然として緩和的な金融環境の継続は、長期化している景気回復を下支えしている。企業金融をみると、企業の資金需要が高まりをみせる中で、リスクテイク能力を回復した金融機関が前向きな融資姿勢に転換しており、銀行貸出は増勢基調を辿っている。
以下では、3月の量的緩和政策の解除、7月のゼロ金利の解除後の金融市場や銀行貸出市場の動向を中心に分析する。さらにそこでみられる特徴的な動きを踏まえ、長期化する今回の景気回復の先行きを展望し、金融面からみた留意点を整理する。
第1節 量的緩和政策・ゼロ金利解除後の金融市場動向
1.ゼロ金利解除後上昇した後安定的に推移する長短金利
(日銀当座預金残高の減少と短期金利の上昇)
日本銀行は、2006年3月に量的緩和政策を解除した。金融政策決定会合で量的緩和政策を変更し無担保コールレート(オーバーナイト物、以下O/N)を金融市場調節の操作目標とし、これをおおむねゼロ%で推移するよう促すことを決定した。量的緩和政策解除の際には金融政策運営における機動性と透明性を確保する観点から「物価の安定」の明確化を含め、「新たな金融政策運営の枠組み」が導入された。続いて7月にはゼロ金利が解除された。金融政策決定会合は経済・物価情勢が着実に改善し金融政策面からの刺激効果が次第に強まってきているとの評価のもと、無担保コールレート(O/N)を0.25%前後で推移するよう促すことを決定した。量的緩和政策から金利正常化の過程では、公表された「新たな金融政策運営の枠組み」の下で、金融政策運営の透明性を確保し市場参加者などの期待形成にも配慮していくことが期待された。量的緩和政策では同政策の継続に関するコミットメントが将来にわたりゼロ金利が継続されるとの期待形成を生み出し、短中期を中心にイールド・カーブを押し下げる効果がみられた。
量的緩和政策解除後の無担保コールレート(O/N)の動向(第5-1-1図)をみると、一時的に上ぶれする局面もみられたが、8月以降は0.25%近辺で安定的に推移している。解除前は30兆円を超えていた日銀当座預金残高が相当程度減少していく過程で、補完貸付金利の水準(0.1%)近くまで上振れる局面があった。7月のゼロ金利解除直後にも、主に外国銀行が積極的に資金調達に動く中で、誘導目標である0.25%を超える水準で強含む場面もみられた。その後は、日本銀行による機動的な金融市場調節の下、短期金融市場における資金の融通が徐々に円滑に行われるようになってきており、同レートは誘導目標である0.25%付近で安定している。
(政策金利調整に対する市場の見方)
政策金利のレートコントロールが徐々に円滑化していく下で、市場参加者は各種経済指標の公表や要人発言等を消化しながら先行きの金利見通しに基づき、市場取引を活発化させている。
先行きの金融政策スタンスに対する市場の見方を観察する際には、例えば海外の場合、アメリカのFF金利先物のように金融政策の直接の操作目標を取引対象としているデリバティブ市場が存在する。我が国においても、一定期間の無担保コールレート(O/N)と固定金利を交換する金利スワップ取引であるOIS (Overnight Index Swap) 取引が活発化している。OISレートの1ヶ月物フォワードレートの推移(第5-1-2図(1))から先行きの政策金利に対する市場の見方をみると、5月上旬には7月時点での0.25%の利上げをおおむね織り込んでいたことがわかる49。また、3ヶ月物ユーロ円TIBORを取引対象とした先物商品であるユーロ円金利先物から無担保コールレート(O/N)に対する市場の見通し(第5-1-2図(2))をみると、1月末以降、3月の量的緩和政策の解除を経て、夏場にかけてゼロ金利解除が行われると市場が織り込んでいたことがうかがわれる。
(緩やかな上昇傾向をたどった長期金利)
長期金利(新発10年国債流通利回り)の推移をみると、量的緩和解除後、2005年後半の1.4~1.6%のレンジを切り上げて上昇した(第5-1-3図)。景気回復と物価上昇の基調が長期金利の上昇圧力として作用するもとで5月上旬には1999年8月以来の2%まで上昇した。その後、7月のゼロ金利解除以降は、1.8~2.0%のレンジでもみ合う展開となった。この動きの背景には、先行きの利上げペースに関する思惑が交錯する中で、国内景気や株価の底堅さに影響を受けた金利上昇圧力と、アメリカでの景気減速感を反映した米国長期金利低下の影響を受けた金利低下圧力が併存したことがあげられる。
しかしながら8月下旬になると、基準改定に伴うCPIの市場予想比下振れにより政策金利の利上げ期待が後退したことから、レンジを脱して量的緩和政策の解除前の水準である1.6%台前半まで一時急低下した。現在11月下旬時点では1.6%台後半で推移している。
(ゼロ金利解除に向けて短中期ゾーンの金利が上昇)
国債金利の年限別動向(国債イールドカーブの形状変化)をみると、ゼロ金利解除への見方が高まる中で、7月にかけて短期ゾーンを中心に上昇がみられた(第5-1-4図(1))。市場参加者の有する金利見通しに基づき形成されるイールドカーブ(第5-1-4図(2))から将来の金利水準(インプライド・フォワードレート<IFR>)を予測することができる。1年物フォワードレート(将来の期待1年物金利)の動き(第5-1-4図(3))をみると、当面の政策金利の影響を受けやすい1年先のIFRが1%を超えたほか、5年先のIFRまでがゼロ金利解除への見方が強まる中、大きく上昇した。
一方で、より長期の9年先のIFRをみると、デフレ下の2003年初には2%を割り込んでいたが、先行きの景気見通しが改善していく過程で2%を超える水準まで上昇してきた。今年に入ってからは、政策変更を挟んでおおむね2.5~3.0%に安定的に推移している。我が国の成長力や物価見通しに対して、市場がデフレ脱却を視野に入れつつも長期的にはおおむね2%程度の緩やかな成長を見込んでいることがうかがわれる。
ゼロ金利解除後の金利の動きをみると量的緩和政策により極めて低い水準に設定された政策金利は、1年から5年程度の中短期の金利だけでなく、10年程度のある程度期間の長い金利に対してもいわゆる時間軸効果を通じて下押し圧力を加えていたことが確認できたと言える。
こうした金利の年限別の動きは、金利の変動率(ボラティリティ)にも表れている。過去一定期間(20日間)における国債金利変動率の標準偏差を年率換算してみると、長めのゾーンの変動見込みは小幅に止まっていたことが示される。一方、2年債の金利の変動率(ボラティリティ)は、[1]量的緩和政策解除前、[2]ゼロ金利解除前という重要な政策変更の転換時近辺で拡大する動きがみられ市場に期待のばらつきが増加したことがうかがわれる。なお、8月のCPI基準改定時に新基準のCPI上昇率が市場予想比に比較して下振れした直後に金利の変動率は大幅に拡大しており、基準改定の結果が市場の期待形成に与えた影響の大きさが確認できる(第5-1-4図(4))。
(クレジット市場はゼロ金利解除後も落ち着いた動き)
これまで量的緩和政策による「金利の低位安定化」効果が、緩和的な金融環境を実現させてきた。しかしながら国債金利が短中期ゾーンを中心に上昇する局面では、これまで極めて低位に安定していた社債の信用スプレッドの動きにも変化がみられた。
社債スプレッドの動き(第5-1-5図(1))をみると、6月以降、AA格やA格といった信用力の高い企業の格付けでも幾分スプレッドが拡大する動きがみられた。こうした動きの背景には、ゼロ金利解除への見方が高まる中で、金利の上昇や変動率(ボラティリティ)の拡大にみられたとおり、マネーフローの変化を見越した投資家の買い控え姿勢があったと考えられる。もっとも8月以降は、[1]企業収益の堅調さ継続、[2]銀行の貸出姿勢の積極化、[3]国債金利の低下などから、スプレッドは横ばいないし若干縮小しており、落ち着きを取り戻している。
一方、社債スプレッドに比べて信用リスクに対して迅速かつ柔軟に反応しやすいとされるクレジット・デフォルト・スワップ50のプレミアム(CDSプレミアム)(第5-1-5図(2))を主要企業についてみると、やはり6月下旬より幅広い業種で上昇がみられたが、10月以降は量的緩和政策解除前の年初の水準まで回帰しており、極めて安定している。
なお、BBB格の社債スプレッドは4月以降大きく拡大したものの特殊要因によるものと考えられる。これは、巨額LBO投資による財務負担懸念に伴うIT企業関連先や消費者金融会社(個社の業務停止命令やグレーゾーン金利問題)のスプレッドが拡大したことによるもので、その他通常銘柄の社債スプレッドは安定的に推移している。
(預金金利や住宅ローン金利、企業向けの貸出金利の上昇はいずれも抑制的)
今年に入って政策変更による金融環境の大きな変化がみられたが、市場では政策金利水準の調整を織り込みながら、長短金利が比較的安定的に推移しており、各経済部門にとっても緩和的な金融環境が継続している。
比較的緩やかな上昇に止まっている市場金利の動きに対応して、家計が直面する預金金利や住宅ローン金利の上昇も抑制的なものとなっている。各銀行の預金金利設定方針をみると、普通預金金利や短期の預金金利の引上げが抑制されている(第5-1-6図(1))。一方で、住宅ローン金利については、短期プライムレートの引上げ51から変動金利型の住宅ローン金利が6年振りに上昇したが、固定金利型の住宅ローン金利は、10年物金利を中心に落ちついた動きとなっている52(第5-1-6図(2))。
企業部門を含めた国内銀行の貸出約定平均金利(新規)をみると、3月の量的緩和解除以降、やや強含んでいる53。主要銀行貸出動向アンケート調査によると、主要銀行の貸出先に対する利鞘設定は、下位格付け先がプラスに転じたものの、大企業向けを中心とした上位・中位格付け先は依然縮小している(第5-1-7図(1))。こうしたことから、貸出残高の金利別構成比にも大きな変化はみられておらず、金利1%未満の貸出は2割強を占めている(第5-1-7図(2))。企業サイドの受け止め方を借入金利水準判断DI(第5-1-8図(1))でみると、同DIは中小企業を中心に大幅に上昇しており、「金利が上昇した」と感じる先が増加していることがわかる。ただし、同DIは前期からの金利の「方向性」を示しており、資金繰り判断DIや金融機関の貸出態度判断DI(第5-1-8図(2))の「水準」をみると、これまでの緩和的な金融環境の認識に大きな変化はみられない。
2.年後半緩やかに上昇した国内株式市場
(投資家のリスク許容度の低下から前半株価は調整)
緩やかな景気回復が続く下で、株価(日経平均株価)は2005年5月の11,000円割れの水準を底に上昇を続け06年4月上旬に2000年7月以来となる17,563円を記録した(第5-1-9図(1))。2005年秋から06年春にかけての株価上昇の要因には、[1]大企業を中心とした企業収益面の好調と[2]投資主体の裾野の広がりにみられる需給環境の改善があげられる。特に後者の現象面として、海外投資家による日本株の大幅な買い越しに先導される形で個人投資家による株式売買も活発化した。
しかし、上昇基調にあった株価は、海外投資家が5月に2年振りに日本株の売越しに転じる(第5-1-9図(3))など、投資家のリスク環境の変化をきっかけとする形で下落に転じた。こうした環境変化の背景としては、第一に、世界的に金融政策が引締め方向に推移してきたことから、これまで緩和的な金融環境を前提としたグローバル投資家のリスク許容度が低下したことがあげられる。米欧株価のみならずエマージング市場や商品市場へ向かっていた投資資金が安全性の高い債券市場へシフトするなど、マネーフローに変化がみられた。その際、昨年来株価が上昇しバリュエーション(予想PER)上の割高感(第5-1-9図(4))が強かった日本株は相対的に大きく下落した。第二に、一部IT関連企業の粉飾決算事件などをきっかけに国内新興企業に対する不透明感が強まり、新興市場の株価が大きく下落したことがあげられる(第5-1-9図(5))。このことが信用取引面での需給環境の悪化とともに個人投資家の投資姿勢を慎重化させ特に新興市場には深刻な影響を与えることとなったと考えられる。第三に、経済のファンダメンタルズや企業業績の底堅さにもかかわらず、5月中旬にみられた急激な円高や米国景気の減速懸念による実体経済や企業業績面からの先行き不透明感が意識されたことがあげられる。
(米国景気のソフトランディング期待から、緩やかな上昇基調に回帰)
昨年までは企業部門の構造調整進捗やデフレ状況の改善といった日本経済の成長条件の復元を評価し、上昇していた株価は、上記のような投資環境をめぐるリスクが意識される下で、6月以降はむしろ海外市場、特に米国株式市場との相関を高めている(第5-1-10図)。
5月に始まったグローバルな株価調整は6月中旬に一服し、これに伴って日本株も下げ止まった。その後は、7月頃よりアメリカの企業収益の堅調さや利上げ打止め期待の台頭から米国株価が底堅く推移し、9月下旬に入り、米国景気のソフトランディング期待や原油価格の落ち着きからダウが過去最高値を更新すると、国内株価も上昇基調を辿った。この背景には、米国株価の上昇やそれに伴う海外投資家の日本株への投資姿勢の持ち直しに加え、円安に伴う企業収益の増加期待、個人投資家の信用買い残の整理による需給面での好転などがあげられる。このように株価は今年秋口にかけて当初投資家のリスク許容度を低下をさせてきた要因が徐々に剥落ないし緩和していく中で5月半ばの水準まで復元した。もっとも、11月以降、企業業績の先行きに対する不透明感や、為替が円高方向で推移していること等を背景に、国内株価の回復基調にやや一服感がみられた(11月30日時点で日経平均株価:16,274円)。
この間、業種別株価の年初来の上昇率をみると、電気・ガス業や医薬品などの昨年出遅れていた業種での上昇が目立った。6月の年初来安値以降の上昇率をみると、原油価格の落ち着きを受けて海運株が上昇しているほか、地価の持ち直しや金利が総じて安定していること等を背景に不動産株が上昇している。また、米国景気のソフトランディング期待や為替相場の動向などを背景に、輸送用機器や精密機器といった輸出関連株も伸び率を高めている(第5-1-11図)。投資主体別には、M&Aの活発化や資本効率の向上を企図した自社株買いなどが引き続きみられており、事業法人が買い越し基調となっている(前掲第5-1-9図(3))。
3.ゼロ金利解除後も続く円安傾向
(足下、証券投資フローは流出超へ)
貿易ウエイトや内外の物価上昇率を考慮した実質実効為替レート(第5-1-12図(2))をみると、1985年以来の円安水準となっている。第1章でみたとおり、世界経済の順調な回復に伴い日本の輸出市場が拡大する中で、安定的な円安基調が維持されてきたことが日本の輸出関連企業の収益にプラスに働いてきた。
円の対米ドル相場(第5-1-12図(1))をみると、昨年、内外金利差拡大の下で円安方向で推移したが、年明け後はアメリカの金利先高感の後退のほか、同国の対外不均衡問題の残存から5月に一時109円/ドル台まで円高が進んだ。もっとも、その後は、日米経済・金融政策の先行きをめぐる思惑から揉み合いながらも、依然として大幅な金利差が意識され、円安傾向を辿った(11月30日現在:116.40円/ドル)。
この間、為替に影響を与える証券投資フロー(第5-1-12図(3))の動きをみると、昨年のネット流出超から今年に入りネット流入超に転じたものの、足下の第3四半期には再びネット流出超となり、円安を示唆する動きとなっている。なお、内外の証券投資フローのうち、昨年来の海外投資家による日本株への大幅な投資(2005年7月~2006年4月までの買越額9.9兆円)は、円売りヘッジ付き投資ないし低金利の円資金調達による投資(後述コラム5-1の円キャリートレードの一形態)の形態によるものも含まれるため、必ずしも円買いに繋がっていないとの見方がみられる。一方で、外貨建て投資信託(2005年:約19.8兆円)(第5-1-12図(4))や外貨建て金融商品購入が引き続き大幅に増加しており、ドル買い等による円安傾向をもたらしているとの見方がみられる。
(内外金利差による為替取引の活発化)
内外金利差と円相場の関係を改めてみると、主要各国で政策金利の引上げが始まる直前の2003年12月以降、円は欧州通貨や豪ドル・カナダドルなどの資源国通貨など、対米ドル以外の主要通貨に対していずれも10%以上大きく下落している(第5-1-13図)。特に内外金利差が大幅に拡大した2005年以降、相対的な日本の低金利がいわゆる円キャリートレードの増加などによって円安基調を強めているとの見方もみられる(コラム5-1参照)。こうした市場取引の定量的な捕捉は容易ではないが、実物面での貿易取引などを中心とする経済活動とは異なる経路で為替市場における価格形成が急激に変化し、それが経済活動に悪影響を及ぼすリスクについては注意する必要がある。
コラム5-1 円キャリートレード
最近の円安要因の一つとして円キャリートレードの存在がとりあげられている。国際通貨基金(IMF)54や国際決済銀行(BIS)55でもその状況を論じている。
一般に、低金利で資金を調達し高金利で運用する取引を、キャリートレードという。円キャリートレードとは、外国為替を利用したキャリートレードであり、低金利の円で調達した資金を、米ドルやニュージーランドドルといった高金利の通貨に換えて運用すること等により、金利差収益を生じさせる取引である。キャリートレードについては、取引主体等により幾つかのケースに分類される。
第一は、外国人投資家が円で調達した資金を高金利通貨で運用するケースである。通貨先物取引における円のショートポジションの積み上がり(コラム図5-1(1))、主要国銀行の円建て債権の増加(コラム図5-1(2))が、円キャリートレードの可能性を示唆するとの指摘がみられる。特にIMFでは、邦銀がオフショア市場でのデリバティブ取引やオルタナティブ投資を最近増加させてきている点、BISも同様に、英国やケイマン諸島といった金融センター向けの円建て貸出が近年増加傾向にある点にふれ、これらの資金の一部が円キャリートレードに回されていたのではないかと論じている。
第二は、日本の機関投資家が、円建て借入資金を元に、金利差収益を求めて外国債券等にヘッジ無しで投資するケースである。また、個人投資家による外貨建て投信・金融商品の購入も円売り圧力となる。
第三は、為替市場の需給に影響を与えるものではないが、日本国内の金融市場で円資金を調達して、中長期の日本国債や日本株に運用するケースがある。これは、長短金利差や運用益を稼ぐ円調達・円運用型のキャリートレードといえる。
IMFは、円キャリートレードが国際資本フローを通じて世界の流動性供給に与えた影響についての見方を紹介している。それによると、今年5-6月に生じたエマージング市場からの資金流出に際し、円売り持ちポジションの解消による大幅な円高がみられなかったことから、最近の円キャリートレードは実際には国際資本フローに影響を与えるほどの規模ではなかったのではないかとの指摘がある。一方で、円売り持ちポジションの解消による円高圧力が生じたのと同時に、外国人投資家がリスク回避のために5-6月に日本の株式市場から資金を引き上げたことに伴う円安圧力が生じた。このため、円キャリートレードは実際には相当に行われていたにもかかわらず、円高は大幅には進まなかった可能性を指摘している。
4.緩やかな景気回復下で続く銀行貸出の増加
(銀行貸出の増加と企業キャッシュフローの関係)
民間銀行貸出は本年2月に増加に転じ、その後も前年比プラスで推移している(2006年10月前年比+1.1%)(第5-1-14図(1))。その内訳をみると、住宅ローンが引き続き増加している。一方、長らく減少が続いてきた民間企業向け貸出は、大企業向けがやや減少しているものの、中小企業向けを中心に増加している(第5-1-14図(2))。また、業種別の貸出伸び率をみると、製造業では電気機械、輸送用機械、化学、非製造業では金融・保険業、不動産業向け等の貸出が伸びている(第5-1-14図(3)(4))。
民間企業向け貸出回復の背景を財務省の「法人企業統計季報」を用いて企業のキャッシュフローと資金需要(設備資金+運転資金)の動向からみると、資金需要はいまだキャッシュフローの範囲内に止まっている。しかし、2003年度以降、資金の余剰幅は縮小している。企業規模別にみると、大企業では2005年度の資金需要はキャッシュフローの範囲内であるが、中小企業では資金需要がキャッシュフローを上回っている(第5-1-15図)。これは、大企業、中小企業ともに資金需要が増加基調にあるが、中小企業の場合、企業収益の改善傾向を反映するキャッシュフロー水準が大企業に比べて低いことがあげられる。設備投資や運転資金需要増に伴う資金需要が、企業のキャッシュフローにかなり近い水準になっていることが、中小企業向けの貸出増加に繋がっていることがうかがわれる。
(設備投資が上場企業の資金需要の増加に寄与)
上記のようなマクロ的な企業部門のキャッシュフローと資金需要の動向を詳細に把握するため、上場企業2635社の公表財務データを用いてキャッシュフロー動向を分析56した(したがって分析対象は大企業に限られる)。分析対象会社合計の有利子負債の増減をみると、2005年度に入り下げ止まりの状況にある(2004年度▲6.4兆円→2005年度▲1.7兆円)(第5-1-16表)。貸出統計にみられた大企業向け貸出残高の減少幅の縮小と整合的な動きであり、過去数年間負債返済を進めてきた結果、過剰債務の返済にめどをつけ、借入れをめぐる環境が変化しつつある点がみてとれる。
資金需要のキャッシュフロー57に対する比率(資金需要・キャッシュフロー<CF>比率)(第5-1-17図)をみると、資金需要の伸びが、キャッシュフローの伸びを上回ることから、当比率は上昇傾向にある。負債減少の下げ止まりの背景を確認するため、企業の資金需要(第5-1-18図)を、[1]運転資金の増減、[2]有形固定資産の取得・売却、[3]貸付金や有価証券の増減、[4]その他に分解してみると、運転資金の増加に加え、有形固定資産の取得増加、貸付金・有価証券の取得増加が寄与している。このように最近の資金需要の高まりの背景には、設備投資の増加やM&A等企業買収関連の資金需要増加が考えられる。
(全体の貸出増にもかかわらず借入増加企業数の増加は緩やか)
上場企業全体としてはこれまでみてきたような資金需要の回復がみられるものの、業種別にみると資金需要の強さにはばらつきが存在し、特に一部業種、一部企業の資金需要の高まりが目立つ結果となっている。業種別の有利子負債増減額(前掲第5-1-16表)をみると、2005年度には、製造業では化学、非製造業ではノンバンク、不動産業といった業種で負債増加に転じている一方で、製造業では電気機械58、鉄鋼、繊維製品、非製造業では、建設業や卸小売業といった業種で負債圧縮が続いている。特に負債増加先であるノンバンク、不動産業、サービス業といった業種においては、2005年度に入って資金需要・CF比率が100%を超えるなど、資金需要が増加している。
次に実際の借入増減企業数(第5-1-19図(1))にどのような変化がみられるかをみると、借入れの減少幅が大幅に縮小する一方で、借入増加企業数の割合自体はあまり増えておらず、借入れを減少させている企業の割合は依然として全体の6割近くにのぼっている。このため、全体として負債返済が下げ止まりつつある中で借入増加先における1社当たりの借入増加額が拡大している結果となっている。借入増加企業の割合を業種別(第5-1-19図(2))にみると、製造業では輸送用機械、非製造業では、ノンバンク、不動産業といった業種で相対的に高く、増加傾向にある。
以上、上場企業においては、ノンバンク、不動産業等において資金需要の回復を背景に借入増加に転じる企業がみられるほか、負債返済を続ける企業の借入減少幅も徐々に縮小するなど、貸出統計にみられる民間企業向けの貸出増加を裏付ける動きがみられている。2006年入り後も設備投資の大幅な増加が見込まれているほか、全体としてみれば資金需要の高まりから負債返済額の減少や借入増加の動きが拡がっていると考えられる。もっとも、個社ベースでみると、借入れを増加させる上場企業が大幅に増加しているわけではない。借入需要の増加先も業種に偏りがみられている。こうした借入スタンスをめぐる業種間や企業間のばらつきが景気回復の持続性や金融機関の貸出内容などに与えていく影響には留意する必要があると考えられる。
(マネーサプライ伸び悩みの背景)
貸出が2%前後で増加している一方で、企業や個人の保有する現預金の総量であるマネーサプライの伸びは、鈍化傾向にある(第5-1-20図)。
やや長い目で振り返ると、マネーサプライは、1990年代後半以降の低成長と物価の下落傾向の中で、名目GDP成長率を上回る高い伸びを示してきた。その背景には、[1]預金金利の低下余地が次第に乏しくなる中で、預金以外の金融資産の収益率が大幅に低下したため、銀行預金の利回りが相対的に有利になったこと、[2]金融不安が相次いで生じたことから、預金保険の全額保護の対象であった銀行預金へのシフトが大規模に発生したこと、などが挙げられる。最近の動きは、預金以外の金融資産の収益率が高まり、金融システムも安定する中で、これまでとは逆に、家計や企業が資産選択の幅を広げ、現預金から、投資信託や国債など銀行預金以外の金融資産へのシフトが続いていることがあげられる。
マネーサプライの変化要因を見ると、従来より企業における有利子負債の返済や金融機関の貸出姿勢の慎重化を背景に「金融負債減少要因」がマネーサプライを押し下げる方向に寄与してきた。上記のとおり貸出は全体として増加基調にあるが、現段階では借入増加企業数の割合があまり増えておらず、企業の借入需要が活発な信用創造プロセスを通じてマネーサプライの伸びを明確に高めていくまでには至っていないと考えられる。
第2節 経済正常化へ向けた金融政策面での対応に関する議論
これまで見てきたとおり、本年3月の日本銀行の量的緩和政策の解除、7月のゼロ金利の解除を経て、我が国の金融市場は正常化への動きを進めている。こうした状況を踏まえて、今後、金融政策面での対応について考察を行うこととする。
1.金融政策の有効性に関する議論の経緯
経済学の理論的な観点から金融政策の有効性については、インフレ現象、インフレ期待の形成などに対する考え方の違いを基に、これまで様々な議論がなされてきた。
Phillips (1958)59では、失業率とインフレ率とのトレード・オフの関係が見出され、緩和的な金融政策がインフレ率の上昇を通じて失業を減らす可能性が示される端緒となった。その後、Phelps (1967)60とFriedman (1968)61は、緩和的な金融政策は、短期的にはフィリップス曲線に沿って、失業減(労働供給増)を通じて産出を増やすことができるが、長期的にはインフレ上昇による実質賃金の下落による労働供給減を伴い、自然失業率に帰着するため、インフレ率の上昇のみが弊害として残ることを指摘した。さらに、1970年代に入り、合理的期待形成学派(Lucas-Sargent-Barro他)からは、期待インフレ率の期待値と実際のインフレ率が常に一致するため、金融政策の有効性は見出せないという主張がなされた。その後、Kydland-Prescott (1977)62やBarro-Gordon (1983)63においては、金融緩和による景気対策とインフレ抑制という二つの目標を持つ中央銀行に裁量がある場合、最適化行動の結果、実際のインフレ率は最適なインフレ率を上回るというバイアスがあることが指摘された(付注5-1参照)。このように、金融政策の有効性については、その理論的な変遷の過程で様々な評価が検証され、金融政策の有効性を主張するものから裁量的な金融政策の負の効果を指摘するものまで議論は広がりをみせている64。
金融政策による負の効果としての最適インフレ率を上回るインフレの発生などが指摘されることに伴い、そうしたインフレを防ぐための金融政策の手法に関し、特に中央銀行の役割に関する理論的なアプローチの議論が盛んに行われるようになった65。一つの例は、中央銀行が実際にインフレ抑制を達成することに対して市場からの高い評価を確立するためにはどのような手法が有効であるかを模索する試みである。すなわち、複数期間にわたるインフレ率を含む効用の最大化問題を考え、当初のインフレ率を低くすることで、将来のインフレ期待を低くとどまらせることができるとされた(Backus and Driffill, 1985)66。また、中央銀行の政策目標をインフレ抑制のみに設定する者にその運営を委任することにより、市場からインフレ抑制の信認を得、インフレへの期待を低くすることができることも示された(Rogoff , 1985)67。この他、中央銀行の独立性とインフレ率との負の相関関係を諸外国のパネルデータから導出した実証面での分析例もみられる(Alesina, 1988)68。
これらインフレ抑制のための中央銀行の役割に関する議論に加えて、近年、明示的なルールに基づく金融政策に関する議論が数多くなされるようになった。Taylor (1994)69 は、金融政策運営のガイドラインとして考えられる幾つかのルールを示した。具体的には、為替レート、将来のインフレ率、実質産出、潜在的GDP、自然失業率等の指標を政策金利設定の判断に利用することが可能で、そうしたルールに基づく幾つかのモデルが紹介されている。また、低インフレ、低金利下での金融政策運営について名目金利の非負制約が政策運営に与える影響への関心が高まっている70。より最近では、Bernanke and Woodford (2005)71 において、特に将来の期待インフレ率の目標の設定、明確化に焦点を絞った金融政策手法、いわゆる「インフレ・ターゲティング」の意義、利点、留意点、あるべき運用指針等について、理論的、実証的なアプローチを行った研究報告が紹介されている。
2.新たな金融政策を採用する各国の取組の整理(1990年代から2000年代初頭)
こうした金融政策に関する理論的、実証的な発展に伴い、各国の金融政策当局は、近年、物価安定の定義の数値による明示化、あるいはインフレ率の数値目標(インフレ・ターゲット)の採用に取り組んでいる。Castelnuovo, et al. (2003)72 には、この15年間、中央銀行の独立性の高まりに併せ、そうした独立した中央銀行の金融政策により透明性の高いアプローチが求められるようになった経緯が示されている。その際、数値目標を明示的に公表することで、物価安定を図ろうとする取組がみられるようになったとされた。あわせて、
1) 主要先進国中、明示的な数値目標を設けていない国は、日本とアメリカのみであること
2) ユーロ圏及びスイスでは、欧州中央銀行ECB、スイス国立銀行が「物価安定の定義」として、それぞれ調和消費者物価指数(HICP)、消費者物価指数(CPI)を2%以下とすること
3) その他OECD加盟諸国を中心に、多くの国で、CPIの伸びをおおむね1~3%の範囲内に収めようとする「インフレ・ターゲット」を有していること
4) 1990年~2002年の期間において、数値での物価安定の定義、インフレ・ターゲットを持たない日本とアメリカについて、アメリカでは、期待インフレ率が実際のインフレ率にうまくつながっているのに対し、日本は、期待インフレ率のボラティリティ(標準偏差)が諸外国に比べ、低下が限定的であり、期待インフレ率が十分安定化していないように見えること
が指摘されている。
1)について、日本銀行は、2006年3月に、「新たな金融政策運営の枠組みの導入について」73を公表した。そこでは、「金融政策運営に当たっての各政策委員が理解する物価上昇率は、消費者物価指数の前年比で見て、0~2%程度の範囲とされ、各委員の中心値は、大勢として、概ね1%前後であった」という数値が初めて示された。これは、「中長期的な物価安定の理解」とされ、金融政策運営のルールとしての目標値や参照値という位置付けではないとされているものの74、物価安定に資する金融政策の方針に相当するものをある程度対外的に「数値」で示したものとして評価されるべきものであろう。ただし、後述するように、0%を含むことについては、その問題点がOECD等から指摘されている75。
また、2)及び3)に関して、各国は、数値による物価安定の定義付け、インフレ・ターゲットの設定を行ってきたが、その在り方は一様ではない。そもそも物価安定の定義又は目標とするインフレ率は各国の状況によって異なっている。また、幅を持ったターゲットか、幅のない一つの物価安定値のターゲットかの違いもあり、時々によって変更される76。更に、目標とするインフレ率が達成できない場合の免責条項も異なっている77。加えて、中央銀行も、一般には独立しているとはいえ、制度的位置付けは、各国で異なっており、金融政策決定過程における政府の関与の有無、主要目的としての雇用創出や経済成長の有無、総裁や政策委員の任免にかかる規定の相違もある78。したがって、各国が導入している新しい金融政策の枠組みは、定性的な理論、実証研究の範囲を超えて、各国に固有の制度や経済情勢にも依存しており、単純なものではないと言える。
4)の期待インフレ率のボラティリティ分析に関連し、我が国の実証研究においては、近年、将来の期待に働きかける金融政策のコミットメント効果、いわゆる「時間軸効果」が確認されている。鵜飼(2006)79 には、量的緩和政策(2001年3月から2006年3月)の時間軸効果として、将来にわたる予想短期金利の経路に働きかけるチャネルを通じた効果があったとする実証研究が紹介されている。一方で、総需要、物価への直接的な押上げ効果は、限定的との実証結果が多いとし、その理由として、ゼロ金利制約以外に、企業のバランスシート調整等に依るところが大きいとの分析結果を紹介している。
3.デフレ下での日本の金融政策の考え方の整理
デフレ下にある我が国の金融政策に関する議論が国内外で行われるようになった。Eggertsson (2003)80 は、名目金利がゼロにあるデフレ下において、中央銀行は、実質金利を通じてのみ実質と均衡との産出ギャップを埋めることができるため、自然利子率がショックによりマイナスに陥った場合は、期待インフレ率を上昇させることで、実質金利を下げ、総需要を増加させることができる。その際、インフレ期待を上げるため、将来において高いマネーサプライを行うコミットメント政策により、インフレ率を高めることができるが、裁量政策では、正のインフレ率にコミットできない(市場の信認が得られない)ため、相対的にインフレ率は低くなる(「デフレ・バイアス」)。
また、Eggertsson and Woodford (2003)81 は、将来の金融政策に関する最も望ましいコミットメントの形として、名目利子率がゼロになる前の価格水準(それよりやや高めが望ましい水準)を最終的に達成させることとした。この物価水準ターゲットは、流動性の罠が続いた結果、物価がターゲットを下回る場合(デフレ状況)、自然利子率が再びプラスになった後でも、緩和的な金融政策が続けられるであろうという期待を人々は持ち続けるという意味で、望ましい形で「歴史依存性」を政策コミットメントに持たせているとした。一方で、デフレ下において、フォワード・ルッキングなインフレ・ターゲットの導入は、流動性の罠にある状態では、効果的ではないとしている。それは、名目利子率がゼロの状態で、物価水準を低下させ、かつ経済を潜在的産出量より更に押し下げるようなデフレ・ショックがある場合には、実質金利を低下させてより景気刺激的なものにするために、(実現可能性の難しい)より高い期待インフレ率を必要とするためとしている。
これらの指摘を踏まえ、Ito and Mishkin (2004)82 は、まず、1997年10月から始まるデフレがなければ達成していたであろうパスにまで物価水準を引き上げる金融政策、いわゆる「物価水準ターゲット」の実施を明示し、それが達成された後に、2%インフレ率の長期目標を持つインフレ・ターゲット方式への移行を明示する、という二段階アプローチを提唱している。我が国においては、まず、インフレ率ではなく物価水準の目標を明定し、デフレのショックがあった場合には、反動としての期待インフレ率の上昇を通じ、実質金利を押し下げ、景気刺激策とすることができる。その後、デフレからのショックがなくなれば、物価水準目標に比べてより変動の小さいインフレ・ターゲットの明確化へと移行する。こうして、我が国の金融政策の透明性や説明責任の向上に資することになり、望ましいとされている。
4.デフレ脱却を展望した金融政策の考え方
以上のとおり、金融政策の在り方については、近年、理論、実証面から研究が進み、様々な提案がなされてきた。とりわけ、独立した中央銀行の裁量にかかわる点に注目し、金融政策のルール化、目標の数値による明確化の効用が提唱されるようになっている。そうした趨勢に応じ、各国では、数値による物価安定の定義付け、インフレ・ターゲットの採用という比較的新しい枠組みに移行し、金融政策の透明性、説明責任の向上に寄与してきた。我が国でも、物価安定の理解という形で数値が対外的に示されたことは新たな動きとして評価される。
これまではデフレ下における日本の金融政策に対する理論的な提言として、物価水準ターゲットなどの考え方も議論されてきた。しかしながら、このところ、そうしたデフレ状況はみられなくなり、むしろデフレ脱却が視野にはいるという段階でのデフレからインフレへの移行期という微妙な段階における金融政策の在り方が問われる状況となっている。この段階では標準的なインフレ・ターゲッティングの手法を直接適用することには困難が伴う可能性もある一方で、デフレ下で議論されてきたような極めて刺激的な金融政策が必要とされる状況でも無くなっているといる可能性がある。今後は、各国で異なる中央銀行の制度的位置付けや経済情勢等にも留意しながら、デフレ脱却を確実なものとするために有効な金融政策の手法について議論を深めてゆく必要がある。
第3節 今後の我が国の金融政策運営にかかわる諸課題
第2節では、金融政策に関する一般論について述べてきたが、我が国がデフレを脱却した後になされる金融政策として、具体的にどのような課題があるのか。ここでは、前節の基本的な議論を踏まえ、今後の在り方を展望する。
1.物価安定の指標と消費者物価指数の上方バイアス
日本銀行第2条においては、通貨及び金融の調節の理念として、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」が定められている。また、日本銀行が行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、日本銀行は、政府の経済政策の基本方針と日本銀行が行う金融政策の整合性の確保を図っており83、政府と日本銀行は、物価安定の下での民間主導の持続的な成長を図るため一体となった取組を行っている84。そこで、我が国の今後の金融政策の在り方に関する議論の前提として、「物価の安定」の考え方について考察を行う。
日本銀行は、物価安定の指標として他の多くの諸外国同様、「国民の実感に即した、家計が消費する財・サービスを対象とした指標」85としての消費者物価指数(CPI)を用いている。しかしながら、CPIについては、これまで、我が国及び多くの国において、上方バイアスの存在に関する議論がなされてきた。前述のIto and Mishkin (2004) においても、Shiratsuka (1999)86 による0.9%の上方バイアスを考慮し、物価安定のためにはCPI伸び率として1%が必要であるとし、のりしろを含め2%物価上昇率を持つ長期的なインフレ・ターゲットをとることを提案している。一方、日本銀行は、2006年3月の「新たな金融政策運営の枠組みの導入について」の中で、「物価の安定」とは、「概念的には、計測誤差(バイアス)のない物価指数でみて変化率がゼロ%の状態である。現状、我が国の消費者物価指数のバイアスは大きくないとみられる。」としている。しかしながら、物価指数には、そもそも前提としてバイアスがあるというのが一般的な見方である。CPIの上方バイアスの概念についてまとめたものが、第5-3-1図である(第5-3-1図)。
バイアスの種類を分類すると、(i)上位レベル代替バイアス(価格が低下する品目に需要がシフトする場合、ウエイトを基準年で固定する固定基準ラスパイレス算式では消費パターンの変化が反映できないことにより生じる)、(ii)下位レベル代替バイアス(同一品目の銘柄単位で(i)と同様の消費パターンの変化があった場合のバイアス、(iii)品質調整バイアス(品質変化を捉えきれないことにより生じるバイアス)、(iv)新品目バイアス(価格変化する新製品の調査バスケットへの取込みが遅れることによって生じるバイアス)等が考えられる。第5-3-1図にある固定基準ラスパイレス算式による上方バイアス(ゾーン1)は、連鎖ラスパイレス算式や最良指数に近い算式により見ていくことである程度解消することができる。しかしながら、依然として新品目バイアス等を要因とする上方バイアス(ゾーン2)や、サービス品目の品質調整など現実的に解消困難なバイアス(ゾーン3)は残る。
こうしたバイアスを定量的に測定することはそもそも困難である。基準年から離れるほどバイアスが拡大する一方、基準改定等を経てCPIの作成方法も改良される傾向にあるため、時点によってバイアス量は変化する。また、バイアスは上方にばかりに生じるとは限らない。例えば、財・サービスの品質低下や財の需要低下(増加)と価格下落(上昇)がある場合は、下方のバイアスが生じることもある。ただし、こうしたバイアスの可変性を考慮しても、多くの研究によれば、「上方バイアス」があるというのが一般的な理解となっている。
このように、物価安定の指標として金融当局がCPIを採用する際には、こうしたバイアスを考慮されることが適当であろう。特に、日本銀行が本年3月に導入した「新たな金融政策運営の枠組み」の中で示された「中長期的な物価安定の理解」では、消費者物価指数の前年比を「0~2%程度」としていることから、CPIの上方バイアスについて認識しておくことが重要と考えられる。例えば、OECD (2006)87 は、インフレ・ターゲットを採用している25か国のほとんどが0%を含めておらず、1)CPIの上方バイアス、2)スムーズな価格調整のための余地、3)デフレ・ショックからの余地を考慮すれば、0%を含むインフレ率を物価安定の定義とするおくことは、負の需要ショックなどによって経済をデフレに陥らせるリスクを増大させると論じている。
2.適切な形成が望まれる政策金利に対する市場の期待
金融政策を運営するに当たり、金融当局が市場に対して発するメッセージは、市場を混乱させることがないような明確なものであることが望まれる。ここでは、本年7月に行われた政策金利の引上げに関する市場の織り込み状況についてデータに基づいて検証する。
本章第1節で見たとおり、日本銀行は、7月に金融市場調節方針を変更し、無担保コールレート(O/N)を0.25%前後で推移するよう促すことを決定した。第1節の第5-1-2図では、OISレートの1ヶ月物フォワードレートから、短期金利の期待を個別時点で見たが、ここでは、日本銀行の7月の利上げに向け、市場が過去どのような期待を形成したかをより平滑化した時系列で見てみる(第5-3-2図)。この図からは、4月11日の金融政策決定会合直前において、市場は、50%程度の確率で3ヵ月後の7月に0.25%の政策金利引上げを織り込んでいったことが伺える88。その後、徐々に利上げの期待が形成され、5月19日の会合直前には7月0.25%の期待形成が確率90%程度に上昇していることを示唆している。6月15日においても同程度であったが、7月14日の会合直前には、ほぼ100%に達していた。これらの事実は、7月の日銀による利上げに関して、市場は約3ヶ月前に約半分程度まで織り込んだ後、徐々に、時間をかけて、織り込みが進んでいったことが分かる。
我が国において現状の金融当局のメッセージに基づく市場の期待形成が適切かどうかについては、今後の実績を踏まえながら議論を深めていく必要がある。日本銀行による政策金利調整は、本年7月に再開されたばかりであり、いまだ時期が経っていないこともあり、現状での検証、評価は難しい。引き続き、今後の期待形成の在り方が注目される。
3.まとめ
我が国においても、新しい金融政策の枠組みについての議論が活発に行われている。その中で、物価安定の指標とされているCPIについては、その上方バイアスの存在が一般に認められるところであるが、CPIは、本年8月に基準改定されたばかりである。また、日本銀行の政策金利引上げについても、本年7月に実施されたばかりのことであり、今後、検証材料の蓄積を待って、十分な検証を行うことが求められる。
新しい金融政策の枠組みについては、様々な考え方はあるものの、重要なことは、金融政策運営に際し、中央銀行の金融政策上の独立性が担保された上で、当該金融当局と市場との適切な対話により、政策の透明性、説明責任が向上することである。物価安定の定義の数値化、又はインフレ・ターゲットは、そうした目的を達成させるための手段の一つに過ぎない。どのような手法をとるにしても、市場との絶えざるコミュニケーションによって、中央銀行は市場からの信認を得られ続けるような努力が求められることになる。金融当局から発せられるメッセージが市場を混乱させることなく、明快で予見可能性が高いものとなることで、企業行動のリスクを低減させ、より活発な生産活動を促進させることにもなると考えられる。