第7節 後退した「デフレスパイラル」懸念

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厳しい景気状況が続く中で,98年には「-デフレスパイラル」に陥るのではないかと懸念された。ここでいう「デフレスパイラル」とは,物価下落と実体経済の縮小とが相互作用(スパイラル)的に進行することである。すなわち,①物価下落によって企業の売上が減少する,②賃金などが短期的には下方硬直的であるため企業収益が滅少する,③企業行動が慎重化し設備や雇用の調整が行われる,④設備投資や個人消費などの需要の滅少が物価下落につながる,という悪循環が生じることを意味している。

先行き,「デフレスパイラル」のリスクがなくなったわけではないが,物価下落が実体経済を縮小させる主因とはなっておらず,最近では景気が下げ止まって横ばい状態となり,デフレ圧力にも歯止めがかかりつつある。

(需給の緩みが物価下落要因)

需要が低調な動きを続けるなか,現実のGDPと潜在GDPの差を示す需給ギャップは,97年後半以降,マイナス成長が続いたことから急速に拡大した(1)(第1-7-1図)。足元では99年1~3期がプラス成長となったことによって縮小していると考えられるが,依然として存在しているとみられる。

こうした需給の緩みは,原油価格等海外市況の低迷を反映した輸入品価格の下落,規制緩和などとあいまって,物価に下落圧力をもたらしている。

国内卸売物価は,弱含みで推移しており,輸入コスト要因に加え,国内需給の緩みが下押し圧力となっている(第1-7-2図)。また,消費者物価(生鮮食品を除く総合,医療保険制度改革の影響および消費税調整済み)は,98年2月以降前年同月比マイナスで推移している。97年秋以降,需給の緩みを反映して商品価格の低下率が拡大した。98年に入り,景気低迷の影響を受けて賃金上昇率が前年比滅少となったのに併せて,賃金コストのウエイトが大きいサービス価格の上昇率も鈍化してきた(2)。

(「デフレスパイラル」懸念の後退)

物価の下落の要因は,規制緩和や生産性上昇などの供給面の要因と,需要の減退という需要面の要因に分けて考えることができる。供給曲線の下方シフトは物価の下落と数量の増加をもたらすのに対して,需要曲線の下方シフトは物価の下落と同時に数量の減少をもたらす。実質GDPと名目GDPは,ともに97年10~12月期以降98年10~12月期まで5四半期連続で前期比マイナスが続いていた。特に98年4~6月期,7~9月期は実質GDP,GDPデフレータともに前期比マイナスとなり,需要の減少と物価下落が同時進行するデフレ的状況にあった。しかし,10~12月期は,マイナス成長が続く中で,GDPデフレータは前期比0.1%の上昇に転じ,99年1~3月期には実質GDPも前期比プラスに転じており,「デフレスパイラル」懸念は後退している(3)。

(製品価格下落が収益悪化の主因ではない)

このように,物価の下落と実体経済の縮小が同時にみられていたが,下記の分析によれば,製造業については,実体経済の縮小の主因は売上数量の滅少であり,物価の下落ではない。

製造業の売上高経常利益率(前年差)の変動を,交易条件要因(産出価格と投入価格の比である交易条件の変化による変動),数量要因(売上・投入数量の増滅による変動),売上価格要因(単位当たり固定費の増減による変動),固定費要因(固定費の増減による変動)に要因分解した。それによると,製造業の利益率は,97年10~12月期以降前年を下回っているが,これは主として売上数量の減少によるものである。価格面をみると,産出価格以上に投入価格が低下したことから,交易条件が改善し収益を大幅に押し上げている。一方,製品価格(産出価格)が下落すると売上高が滅少して売上一単位当たりの固定費が上昇するため,採算が悪化して企業収益を圧迫する面はあるが,売上価格の低下による収益押下げ幅は小幅なものにとどまっている(第1-7-3図)。

(業種や規模によって異なる影響)

ただし,製造業を業種別にみると,鉄鋼や化学などの素材産業では,売上価格の下落が相対的に大きな収益圧迫要因となっている。また,電気機械や輸送機械などでは,為替レートの変動が競争条件に大きな影響を与えることから,98年秋口以降の円高による輸出価格の下落が収益圧迫要因となっている(4)。

次に,非製造業や中小企業の収益が物価面からどの程度圧迫されているかをみてみよう。損益分岐点売上高比率をみると,中小企業は大企業をやや上回っている。また,製造業ではバブル崩壊後のピークを下回っているのに対して,非製造業ではバブル崩壊後のピークとほぼ同水準にある。このように,中小企業や非製造業の収益環境が厳しいのは確かである。

しかし,売上高固定費比率をみると,非製造業の中でも陸運や運輸通信などの業種では高いものの,非製造業全体では製造業を下回っている。一方,中小企業では大企業よりも固定費の割合が高い。したがって,中小企業やこれら一部の非製造業では,企業収益が売上価格下落の影響を受けやすい構造となっている。

また,企業向けサービス価格は,上昇テンポが鈍化し,94年以降は消費税の影響を除くと前期比マイナスで推移しており,かつては製造業の産出価格よりも上昇率が高かったが,最近ではその差は縮小している。こうしたことから,以前に比べて非製造業の収益が物価面から圧迫されやすくなっていると考えられる。

このように,現状は「デフレスパイラル」に陥っているとは言えないものの,中小企業や一部の業種で物価面の要因が収益圧迫要因としてより大きく寄与している可能性は否定できない(5)。

(デフレスパイラル的メカニズムへの警戒は必要)

政府は,98年4月の総合経済対策,11月の緊急経済対策などの景気対策を実施に移し,日本銀行も98年9月の金融緩和に続いて,99年2月にも一層の金融緩和を実施しており,現在はこうした政策面の効果が顕在化してきている。99年1~3月期には,実質GDPは6四半期ぶりに増加に転じ,GDPデフレータも2四半期連続で上昇しており,ひとまず「デフレスパイラル」に陥る危険性は遠のいている。ただし,これ以上の名目金利の低下余地がない中で,「デフレスパイラル」のリスクがなくなったわけではない。今後とも,以下のような「デフレスパイラル」的メカニズムへの警戒が必要であろう(6)。

(資産価格下落を通じた悪循環)

企業の保有する株や土地などの資産価格が下落すると,企業にとってみれば,リスク負担能力が低下したり,担保価値が下落して資金を調達しにくくなったりして,設備投資に慎重になる。また,家計もいわゆる逆資産効果を通じて消費を抑制する。

こうした影響に加えて,金融機関の自己資本面の影響があったことから,資産価格の下落(いわゆる「資産デフレ」)と実体経済の縮小とが相互作用的に生じていた面がある。資産価格の動向を見ると,株価は99年2月以降持ち直しているものの,地価は91年以降下落が続いている。地価が弱含んでいる要因としては,法人企業部門がリストラ等の一環として,遊休地処分等を継続する一方で,景気低迷の影響もあり,土地購入を抑制していることが挙げられる。こうした企業の姿勢は98年になって更に強まっており,こうした傾向は地価の下落圧力として働くものと考えられる(第1-7-4図)。

もっとも,地価はバブル前の水準程度まで下落しており,いわゆる収益還元法の考えに基づき計算した理論地価(東京圏・商業地)と比較しても,その差は縮小している(7)。今後1年間の地価の見通しについてのアンケート調査をみると,98年末においては,首都圏,近畿圏で,下がると回答する人の割合が増加している。しかし,99年に入ってからは,都市部で,下落しているとする人が減少しており,首都圏では土地取引件数も増加している(8)。

景気の下げ止まり傾向を背景に,株価の持ち直し傾向が持続し,地価下落傾向にも歯止めがかかれば,資産価格を通じた悪循環を緩和する効果があるものと考えられる。

(金融システムを通じた悪循環)

97年秋以降,金融システムが動揺するなか,自己資本不足を背景に銀行が貸出に慎重となったことなどによって,設備投資が減少したことや,家計のマインドが冷え込んで個人消費が落ち込んだことが景気に悪影響を及ぼした。株価の下落は,銀行が低価法を採用していたときには,評価損計上による収益減や含み益減少を通じて銀行の自己資本比率押し下げ要因となっていた。地価の下落も担保価値の減少を通じて不良債権を増加させ,貸出を抑制する効果をもった。こうして,総需要が従来以上に資産価格に敏感になったために,景気後退の間に悪循環が生じた。例えば,97年9月時点で日経平均株価が1,000円下落すると,主要18行の自己資本比率(国際基準)は0.2%程度低下する効果があったと試算されていた(平成10年度年次経済報告第3章第3節参照)。

こうした状況の中,銀行の経営内容をより保守的に表すため低価法が採用されていた株式の評価方法が,商法の原則に則り原価法との選択制となった。98年3月期決算で多くの銀行(主要16行のうち13行)が原価法を採用したことは,株価が自己資本比率に直接的に与える影響を軽減させた。

また,98年3月期より3年間のうち1回に限り所有不動産のうち事業用の土地について含み損益を計上できるようになった。金融機関は,この土地再評価後の帳簿価額と再評価前の帳簿価額の差にあたる再評価差額金(含み益)のうちの45%までを自己資本の補完項目とすることが可能となり,これによって主要16行(うち11行が評価替えを実施)でみると,自己資本(98年3月期)を0.4%程度(11行ベース)引き上げる効果があった。

もっとも,株式について原価法を採用し,土地の評価替えをした場合でも,株価や地価が下落すると,金融機関は含み損を抱え実質的な価値が減少することとなる。例えば,平成10年9月を基準に考えると,主要16行でみて,日経平均株価が1,000円下落したとすると約1兆8,000億円(98年9月期のリスクアセットの0.5%),地価が10%下落したとすると4,100億円(98年9月期のリスクアセットの0.1%)の資産価格の下落が生じると試算され,土地の評価替えを実施した金融機関の含み損は拡大する(9)。時価会計への移行が進む中,経営の健全性という観点から,含み損については早期の処理を求められるため,資産価格が下落すれば,金融機関の行動がある程度慎重化することはやむを得ないと考えられる。

このため,99年3月には15行に対して公的資本増強が行われ,その結果,自己資本面からの制約は解消に向かいつつある(第1章第9節参照)。

(弱まった貨幣錯覚)

物価の下落が個人消費に影響を与えるメカニズムとしては,資産・所得の実質価値を増加させて消費を刺激する効果(ピグー効果)と貨幣錯覚が指摘されている。

貨幣錯覚が存在すれば,実質所得の伸びが同じであっても名目所得の伸びが低い方が実質個人消費の伸びが低くなる。例えば,名目所得が5%増,物価下落2%の場合と,名目所得7%増,物価下落0%の場合を比較すると,貨幣錯覚が働かない場合には実質所得はいずれも7%増となり,実質消費への影響は同じになるが,貨幣錯覚がある場合には,名目所得5%増の方が,実質消費の伸びが低くなる。

簡単な消費関数によって貨幣錯覚の有無を調べたところ,消費全体でみると,80年代半ばまでは貨幣錯覚の存在が認められるが,それ以後は貨幣錯覚の存在は認められないとの結果となった。財別にみると,耐久財には貨幣錯覚が認められないが,非耐久財には若干の貨幣錯覚が認められる。低成長,低インフレ下では貨幣錯覚の存在は消費を抑制しデフレスパイラルへの圧力を強める可能性があるが,その程度は小さいといえよう。また,耐久財はより価格に感応的であり,耐久財消費持ち直しの一因となっている(10)(第1-7-5表)。

(アンチ・デフレ政策のメリット)

アンチ・デフレ政策とは,金融緩和によって,①期待物価上昇率を高めることにより実質金利を低下させ設備投資等を下支えするとともに,②資産価格の下落に歯止めをかけることで実体経済の悪化を食い止めることを目的とするものである。

アンチ・デフレ政策が政策提言として妥当性を持つためには,インフレ率がマイナスまたは非常に低い水準におけるインフレ率低下に伴うコストが,インフレ率が高い水準におけるインフレ率低下に伴うコストを上回っている必要がある。失業率と物価上昇率の関係(短期のフィリップス曲線)を推計してみると,両者の関係は状況によって異なることが分かる(すなわち非線型性が強い)(第1-7-6図)。すなわち,物価上昇率が数%の状況では,インフレ抑制に伴う失業率増大が比較的小幅である。しかし,インフレ率がゼロの近傍では,賃金の硬直性や価格修正コストの影響等から,フィリップス曲線の傾きがほぽフラットになっているため,短期的には,物価下落のコスト(失業の増大)が大きくなることも考えられ,デフレ傾向を緩和することによって失業率を大幅に低下させることができる可能性もある。

(アンチ・デフレ政策の実行可能性)

しかし,アンチ・デフレ政策には限界もある。

VARモデルを使って,金融緩和がどのような効果を持つかを検証した。それによれば,金融緩和が為替レートを減価させ,輸出を促進することによって景気を刺激する効果が期待でき,また,金融緩和は資産価格を上昇させ,設備投資や消費を刺激する効果も生じると考えられる。一方,金融緩和は必ずしも人々のインフレ期待に影響を与えることができるとは限らない。しかし,仮に期待物価上昇率を高めることができれば,名目金利の調整が遅れるため,短期的には実質金利を引き下げることができ,設備投資を刺激することが可能となる(第1-7-7図)。

このように,アンチ・デフレ政策については,為替レートの減価を通じた効果が期待できるほか,株価の上昇などを通じた効果が生じ得ると考えられる。

しかし,期待インフレ率を容易に操作できるわけではなく,予想以上のインフレが生じた場合にそれを終息させるためのコストが大きい。したがって,政策としての有効性を慎重に判断する必要があろう。

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