第1章 政策効果に下支えされる日本経済
第1節 概観
(バブル崩壊後の10年)
バブル崩壊後の日本経済は厳しい調整局面を経験し,1992年度以降,95,96年度を除いてゼロ%台の成長,あるいはマイナス成長が続いている。こうした状況にもかかわらず,今から思えば,事態の深刻さに対する認識が甘かったといわざるを得ない。近い将来に再び景気が回復するとの期待の下で改革は先送りされた。バブルの崩壊で生じた不良債権問題を始めとするさまざまな問題の影響が過小評価され,十分に処理されないまま残されていた。
この間,政府は需要面からの景気拡大策を中心に対応してきた。92年度から96年度にかけての5年間で,一般政府の財政赤字はGDP比で見て7.5%拡大したが,そのうち景気対策などの政策的要因による財政赤字(構造財政赤字)はGDP比で見て6,5%も拡大した。(1)このことは,政府の需要拡大策がいかに大規模なものであったかを示している。確かに,95,96年度には,このような大規模な需要拡大策は,移動体通信市場の急速な拡大や消費税率引上げに伴う駆け込み需要などとあいまって,景気の回復をもたらした。しかし,これらの景気回復要因が剥落すると景気は再び後退に向かい,持続的な景気回復にはつながらなかった。97年秋以降,アジア経済・通貨危機が影響するとともに,バブルの後遺症が顕在化する中で,複数の金融機関の破綻によって金融システムヘの信頼が低下した影響などから,景気は急速に厳しさを増していった。
第1章では,バブル後遺症の影響を受けて厳しい状態が続いている98年以降の景気動向を見ていこう。
(連続したマイナス成長)
景気後退局面に入った日本経済は,97年10~12月期以降98年10~12月期まで,5四半期連続のマイナス成長が続いた。99年に入ってからは,1~3月期にプラス成長に転じた。
需要項目別の動きをみると,97年中は,消費や住宅投資が低迷し,家計支出の減少が先行する形で景気は厳しさを増していった。しかし,98年に入ってからは,設備投資が景気後退を主導した。まず,自己資本不足を背景として金融機関の貸出態度が慎重となった影響などにより中小企業の設備投資が減少し,次いで大企業の設備投資も減少に転じた。また,アジア経済危機の影響などから輸出も滅少に転じた。消費は,景気低迷の主因とはならなかったものの,これまでの不況期に働いていた景気下支え効果が弱まり,小幅な減少が続いた。
98年秋口以降は,政策効果が現れ始めて公的需要が増加に転じ,99年に入ってからは政策効果が徐々に本格化していった。99年6月現在,景気は民間需要の回復力が弱く,引き続き厳しい状況にあるが,政策効果に下支えされて下げ止まり,おおむね横ばいで推移している(第1-1-1図)(2)。
(三つの不況の環)
今回の不況では,需要の減少が生産の減少を招いて所得が減少し,これが更に需要を滅少させるという,通常の不況期にみられる悪循環(不況の環)が生じていただけでなく,金融システムと家計の不安を通じた不況の環も生じており,これらが景気後退を一層深刻なものとした。
すなわち,97年秋の大手金融機関の相次ぐ破綻を契機として,金融機関の財務内容に対する評価が厳しくなった。これに伴い,金融機関の自己資本不足を背景に金融機関の貸出態度が慎重となった影響などにより,中小企業を中心に設備投資が滅退した。こうして景気後退が深まるにつれ,企業業績の悪化や地価の下落による担保価値の減少等によって不良債権が増加した。また,株価下落によって金融機関などで含み益が減少したり評価損が発生したりした。こうして金融機関の自己資本面の制約が一層強まり,金融システムを通じた不況の環が生じた。
また,大手金融機関が破綻したことは,更に大幅なリストラの必要性などを想像させ,雇用の安定や賃金の見通しについての家計の不安感を高めた。さらに,近年の財政赤字の長期的帰結に関する議論の進展に伴って,我が国財政の将来に対する悲観的認識が広まり,家計の不安が強まった可能性も考えられる。
こうして初期の景気後退が,現在の生産や所得を減少させるのみならず,雇用不安や将来負担の増加懸念を高めたものと考えられる。その結果,将来,これまで期待していたほどの所得が得られないのではないか(将来所得の低下や将来所得の不確実性の高まり),といった不安を家計が抱くようになり,これを通じた不況の環が生じた。
(金融システムを通じた不況の環の改善)
三つの不況の環に陥って厳しさを増してきた景気は,民間需要の回復力が弱く,引き続き厳しい状況にあることに変わりはない。しがし,98年秋口以降現れ始めた政策効果が99年に入ってから本格化し,景気は政策効果に下支えされて下げ止まりの様相を呈しており,不況の環がら脱却しつつある。
まず,大手銀行に対する公的資本増強などの一連の金融システム安定化策や金融緩和政策の効果が浸透してきた。その結果,ジャパンプレミアムがほぼ解消するなど金融システムに対する不安感は大きく後退した。ただし,一般論としては,金融機関の自己資本面の制約により,貸出の伸びが抑制される可能性も否定できない。また,98年末から99年初にかけて上昇していた長期金利も落ち着きを取り戻し,株価も98年10月に比べれば持ち直した。信用保証制度の拡充等の貸し渋り対策は,直接的に企業の資金繰りを改善し,中小企業の倒産件数も前年と比べて大幅に滅少した。こうして,金融システムを通じた不況の環は改善に向かっている。
(生産・所得・需要の不況の環に歯止め)
不況期に通常みられる生産・所得・需要を通じた不況の環も,公共投資や住宅減税などの政策効果,アジア向け輸出の底打ち,在庫調整の進展などを背景に悪化に歯止めがかかっている。
すなわち,公共投資は,98年4月の総合経済対策,11月の緊急経済対策に,99年度当初予算(公共事業関係費は前年度当初予算比5%増)が加わり,99年に入ってその効果が本格的に現われている。
住宅滅税の効果は住宅の取得コストを低下させており,地価が下がってきたことや住宅ローン金利に下げ止まりがみられることがら,住宅投資を押し上げている。
アジア経済は,韓国などが底を打ち,日本とアジアとの輸出入はともに回復に向かっており,アジア経済と日本経済が景気回復の好循環に入る兆しがみられる。現地の日系企業についても,不良債務問題は予断を許さないものの,現地調達・域外輸出型企業を中心に業況感や売り上げが改善している。
こうした需要動向の下で,在庫調整が進展し,滅少していた生産も横ばい状態となっており,需要が回復してくれば生産が増加に転じることが期待できる。
(家計不安を通じた不況の環は緩和)
家計の将来に対するコンフィデンス(景気や雇用の見通し)は,水準は低いものの98年末頃から下げ止まりつつあり,家計の不安を通じた不況の環も緩和している。
家計支出に大きな影響を与えると考えられる所得や雇用の見通しがやや改善しているのは,景気が下げ止まる中で,所定外労働時間や新規求人の下げ止まり,中小企業を中心とする倒産の減少,株価の持ち直しなどを反映したものであると考えられる。
しかし,雇用削減の動きが広がる中で失業率が上昇していることなどから,家計は所得や雇用の見通しに根強い不安感を抱いているものと考えられる。家計支出が回復に向かうためには,家計のこうした不安感を払拭する必要があり,そのためには,成長期待が高まり雇用の安心感が広まることが重要である。
(「デフレスパイラル」懸念の後退)
98年には,物価下落と実体経済の縮小とが相互作用的(スパイラル的)に進行する「デフレスパイラル」に陥るのではないかと懸念された。しかし,企業収益の滅少は主として売上数量の減少によるものであり,売上価格の下落が価格面から直接的に企業収益を圧迫して実体経済の縮小に結び付いていたわけではなく,その意味では「デフレスパイラル」の状態にあったとは言えない。また,最近では,景気は下げ止まっており,物価も前年比でみれば,消費者物価やこれまで物価押し下げ要因となってきた輸入物価は下落テンポが緩和されてきている。
一方,株や土地などの資産価格の下落によって,企業はリスク負担能力の低下や担保価値の下落による資金調達難などを通じて,設備投資に慎重になる。
また,家計は逆資産効果を通じて消費を抑制する。資産価格の下落が含み益減少等を通じ自己資本比率の押し下げ要因となり,銀行は貸出に慎重になり,設備投資の滅少につながる。こうして,資産価格の下落(いわゆる「資産デフレ」)と実体経済の縮小とが相互作用的に生じていた面がある。もっとも,株価は98年10月以降持ち直しているし,地価も,バブル崩壊後下落してきたが,住宅投資の持ち直しなどを背景に大都市圏の住宅地を中心として下落幅が縮小している。不良債権の本格的処理が進めば,地価の下落圧力として働く面もあるが,むしろ資産価格に下げ止まり感が生まれ,これが反発に結び付く可能性もある。金融緩和も広い意味でのデフレ傾向をある程度押しとどめる効果を持つ。
(自律的回復に向けて)
このように,三つの不況の環はひとまず弱まりをみせている。99年度においても,98年度の公共事業の相当部分が繰り越される見込であり,上半期に契約が相当程度進み,それが年度後半に進捗することから,公共投資は高水準の事業の実施が続くと期待される。また,住宅投資も持ち直しが続くとみられ,これが若干の遅れを伴って耐久財消費などを押し上げる効果も期待できる。
現在,民間需要の回復力は弱い。今後,下げ止まっている景気が回復に向かうためには,政策効果が下支えしている間に民間需要が回復に向かって行かなければならない。
(強い企業の調整圧力)
企業はこれまで,需要の減退に応じて,まず調整コストが比較的小さい所定外労働時間や稼働率を調整し,次に調整コストが相対的に高い雇用者数の調整へと進んできた(3)(第1-1-2図)。そうした中,賃金に下方硬直性があること等から,家計の所得の減少に比べて企業収益の減少がより大幅となり,労働分配率が高まる一方で,利益率は低下している(4)(第1-1-3図)。景気後退が長引き,含み益というバッファーが底をついている状態の中で,企業の負担も限界にきている。また,市場で企業の実態が厳しく評価され,収益の状況が資金調達コストに大きく影響するようになっており,企業も収益性の改善を重視するようになっている。こうしたことを背景に,設備投資の調整と雇用や貨金の調整が進んでおり,これが民間需要の回復力を弱いものとしている。
設備投資は,98年度末はやや増加したが,企業収益の大幅な減少や期待成長率の低下を背景に減少傾向にある。金融システムを通じた不況の環には改善がみられ,この面から設備投資を抑制する圧力は低下している。金融機関の貸出は依然低調であるが,企業金融のひっ迫感はやや緩和している。
また,企業は厳しい雇用調整を行っている。ここ数年はパートタイム労働者の活用の増加が見られていたが,98年後半からは一般労働者の減少分がパートタイム労働者の増加分を上回って,全休として常用雇用者が滅少する局面に入っている。また,賃金決定にも企業収益の動向がより反映されるようになってきた。
消費は,労働分配率が上昇していることもあって,98年に入ってがらは落ち込みは小幅にとどまっているが,低調な動きが続いていることには変わりがない。所得税減税や地域振興券は消費の下支えに一定の効果を果たしてきたが,消費全体を押し上げる効果は必ずしも確認できていない。個別の企業にとってみれば,収益性を重視して雇用や賃金の調整圧力を強めるのは合理的な行動であるとしても,消費の回復力が弱い中で,今後の雇用情勢によっては,家計不安を通じた悪循環に再び陥るリスクも否定できず,合成の誤謬(個々の企業は立ち直ってもマクロ経済が悪化する)に陥る懸念もある。
政府は,6月11日に,「緊急雇用対策及び産業競争力強化対策」を取りまとめたところであり,これらの効果が顕在化してくれば,雇用・所得環境の一層の悪化によって家計の不安を通じた不況の環に再び陥ることは避けられるものと期待される。
(本章の構成)
本章の構成は次のとおりである。まず,需要動向を点検すると,設備投資は減少し(第2節)雇用や賃金の調整も進んでいる(第3節)。そうした中で個人消費は低調さを脱していないが持ち直しの動きもみられ,住宅投資は政策効果が発現して持ち直している(第4節)。また,アジア経済が底入れしつつある中で,輸出もおおむね横ばい状態となっている(第5節)。次に,供給面に目を転じると,鉱工業生産は下げ止まっており(第6節),「デフレスパイラル」懸念からも後退している(第7節)。政策面を見ると,財政政策(第8節)と金融政策(第9節)が景気を下支えしている。