平成11年度

年次経済報告

経済再生への挑戦

平成11年7月

経済企画庁


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平成11年度年次経済報告(経済白書)の公表に当たって

1998年度の日本経済は,極めて厳しい不況を経験し,ある時期には危機的な様相さえ呈した。1991年以来のバブル景気の崩壊で生じた様々な問題が十分に処理されないまま引き継がれていた上,1997年初期を頂点として景気は下降局面に入っていたが,景気の拡大が続くと信じて行った財政構造改革は,その基本的な考え方においては誤りではなかったものの,極めて時期の悪いものとなってしまった。また,同年7月から顕在化したアジア諸国の通貨危機に加えて,秋口からの金融システム不安が顕在化した。

しかし,政府の実施した迅速で大規模な対策によって最悪の事態を回避,1999年3月頃からは,一部に回復の動きも出て,上げ潮と引き潮の入り混じる様相を呈している。

この白書は,厳しかった1年間を回顧し,これを乗り切るために政府の探った経済政策とその効果を解説する(第1章)と共に,我が国経済の再生に不可避な産業再生の在り方とその影響(第2章)並びに,これに必要な前向きの行動に付きまとう経済的危険性(リスク)の実態とそれを許容できる社会にする条件(第3章)について記述している。

11年前に1988年度の日本経済は絶好調にみえた。急激な円高を克服して経済は順調に発展,卸売物価は安定基調にあり,雇用は完全に満たされ,失業率は2.2%にまで下がっていた。企業の利益は史上最高,倒産件数は近年最低,株価と地価は急騰を続け,半導体をはじめとする設備投資は旺盛で,大都市には大型開発が,地方にはゴルフ場とコンドミニアムの並ぶリゾート開発が進められていた。高騰した土地を担保とする融資やエクイティー・ファイナンスで低利資金を入手した日本の企業は,海外の不動産や企業を数多く買収,日本型経営は「無敵不敗」のようにいわれた。しかし,この時期にこそ,経済の矛盾が積み上げられていた。株価は1989年大納会の日(12月29日)を頂点として90年年初から急落,事業採算をはるかに越えて上昇していた地価もそれを追うように暴落を始めた。高度成長循環の末期には,実需の裏付けのない値上がり期待によって特定の資産の価格が急騰する現象が発生し易い。高度成長循環においては,所得の向上で貯蓄率が高く保たれて資金が貯えられ,投資が急速に進む。しかし,これも長期にわたると投資対象が減少,過剰となった資金が株式や土地等の資産購入に集中,資産価格が急騰するのである。これを古の例(1720年ロンドンにおける南海泡沫事件)に因んで「バブル景気」という。80年代末の日本の株価や地価は正しく「バブル」だった。

90年代に入ると株価が,続いて地価も急速に下落,大規模な景気後退,つまり「バブルの崩壊」が起こった。90年から94年にかけての日本経済は,そんな「下り坂」を転がり落ちていた。

しかし,当時はまだ,長かった成長の熱気が残り,株価や地価の再上昇を期待したい気持ちが強く,経済に発生している大事件を深刻に受け止めるには至らなかった。誰もが「改革」の必要性を感じながら敢えて痛みの伴う手術に踏み出そうとはしなかった。日本経済が本質的な変質を起こしていたこの時期に実現したのは政治改革(選挙法の変更)の方である。

ところが,1995年1月,阪神淡路大震災が発生,日本経済に予想外の需要が追加された。加えて,この頃には,携帯電話,家庭用ファクシミリ,RV等の新製品が普及,巷にもカラオケ・ボックスやプリクラ等の新規事業が広まるなどの新需要があり,設備投資や生産が好調だった。1また95年4月の1ドル79円を天井として円為替レートが下降し出したことも景気波動には有利に働いたといえるだろう。90年のバブル崩壊後で比較的経済が良好だったのはこの2年間である。

GDP成長率は,95年度3.0%,96年度4.4%,平均株価も95年7月から96年6月までの間には56%も上昇している。官民ともに,不良債権問題の経済に与える影響の深刻さについての認識が不十分であった状況の中で,日本経済は税収増を含む一連の改革に耐えられると考えたのも不思議ではない。

しかし,これとて「バブル崩壊」による巨額の損失を埋めるほどのものではなかった。バブル期の過剰投資と過剰負債は解消されず,新たな起業を生む活力と事業審査の眼は養われなかった。このため,97年3月頃を頂点にして景気が下降局面に入ると,各方面に様々な綻びが現れた。その第一が金融機関の巨額の不良債権である。

バブル期には金融機関が不動産担保で巨額の融資を行ったが,地価下降と地型不良等による利用不能地の多発によって融資先企業が大きな損失を抱える結果とな9,金融機関側には膨大な不良債権が発生した。

このため,金融機関の自己資本は激減,大手銀行の一部は国際業務を行うのに必要とされる自己資本比率8%を割り込み海外業務から撤退したし,地方銀行や第二地銀の中には国内銀行の健全基準とされた自己資本比率4%を大幅に下回るところさえ現れた。1997年11月には,株式や土地の「飛ばし」による損失隠蔽が判明した山一證券や,債権評価に問題があった北海道拓殖銀行が破綻してしまった。幸い我が国では預金保険制度によって2001年3月までは預金等は全額保護されているので,連鎖的なパニックは生じなかったが,日本金融界にとって戦後初の本格的危機であった。

これに対して政府は,1997年12月自民党の金融システム安定化のための緊急対策の制定を受けて金融機関に対して公的資金の注入を決意,1998年3月には金融危機管理審査委員会の審査を経て,当時の主要行等21行に合計1兆8,156億円を注入した。

しかし,この時点での金融機関の認識は至って微温的であり,厳格な審査のできる機関も欠けていた。このため政府は,平成10年6月,金融監督庁を新設して厳格な検査・監督に乗り出した。

80年代までの金融規制時代には,全社横並びの「護送船団方式」によって保護され,金融機関のリスクは「社会化」されていると信じられていたため,事業審査眼が養われなかったのである。

この間に各金融機関は低金利による営業利益の拡大で不良債権の償却を進める一方,自己資本比率の改善を目指して同比率の分母に当たる総資産の圧縮,つまり貸出総額の縮少に努めた,いわゆる貸し渋りである。

このため,日本経済は資金の流動不全の危機に立ち至った。バブル期の過剰投資によって不良資産を抱える企業はもちろん,通常の営業活動を続ける企業までが,景気が減退する中で金融機関の貸し渋りによって資金不足となり,倒産閉業に追い込まれた例もある。1998年春から秋に至る期間の日本経済は,経済の血液ともいうべき資金が,その循環を司る心臓に当る金融機関の不全によって循環しない危機的情況に陥った,といえなくもない。

金融機関の貸し渋りは,実物経済にも深刻な影響を与えた。貸し渋りで企業の資金事情が悪化したことなどから,設備投資は劇的に縮小,個人の住宅建設も値下り予想で減少した。これにアジア経済の危機による輸出の減少も加わって,企業の売上げは低迷,残業手当てやボーナスの減少から給与所得も低下した。このことが,勤労者多数の不況感と不安感を煽って消費性向をも押し下げた。日本経済は1998年度には,主要な需要項目が前年を下回り,大部分の業種が減収減益に見舞われる「日本列島総不況」に陥ったのである。こうした需要の低迷を背景に物価も弱含みとなり,物価の下落が企業経営の悪化や雇用の減少を招き,それがさらに景気を悪くする「デフレ・スパイラル」に陥る可能性さえ考えられた。「日本経済はデフレ・スパイラルの入り口の前を通り過ぎようとしている」状況だったのである。

◎消えた三つの「神話」

こうした中で日本経済の本質と気質も変わりつつある。1955年頃「戦後体制」が確立されてから90年の「バブル崩壊」に至る35年間,日本経済がほぼ一本調子に拡大する「右肩上がり」の情況が続いた。この背景には「三つの神話」が存在した。

その第一は「土地の値段は決して下がらない」という「土地神話」,第二は「不況になっても消費需要だけは減少することはない」という「消費神話」,そして第三は「完全雇用神話」,「日本の企業経営は集団主義,全従業員が終身雇用を前提として仲間意識で結ばれているから,大規模な従業員解雇などあり得ない」というものである。

ところが,バブル景気の崩壊で「土地神話」が信じられなくなり,金融機関に多額の不良債権が発生すると「消費神話」も消滅,総需要が長期減少することとなった。そんな中では,「完全雇用神話」も生き延びることができない。1998年も春になると日本の完全失業率は4%を超え,1999年3月末には4.8%にまで上昇した。好景気を続ける米国が4.3%,英国が4.8%,オランダが4%以下だったことを考えると,雇用の面でも日本は「普通の国」になったといえるだろう。「日本的経営が失業を生まない」というのは誤りで,成長続きだったからこそ失業は少なく,日本式の終身雇用経営ができたのである。

「完全雇用神話」の消滅は,多くの勤労者に将来不安を感じさせ,より一層に消費態度も悪化した。言わば「財布の紐を固くした」のだ。そしてそれが景気の後退をますます深刻なものとした。

これに対して,1998年7月30日に発足した小渕内閣は,迅速かつ大規模な対策を実行した。すなわち,企業と家計とに存在する二重の不況の環を断ち切るべく金融,需要,雇用の三つの面で大胆な対策を早期に採った。

まず金融の面では発足早々,臨時国会において金融機能再生法案,金融機能健全化法案等,総計60兆円に達する金融対策スキームが決定された。

この間に政府は,中小企業に対する信用保証協会による貸出し保証枠の20兆円の拡大や政府系金融機関を通じての20兆円の追加貸出し等を決定,金融機関の貸し渋りに対応した強力な政策をとった。

また,金融再生委員会が発足し,金融監督庁の検査結果に基き,債務超過となっていた金融機関の処理が実行された。このことは,政府がこれまでの主要金融機関は破綻させずに保護するという「護送船団方式」の官僚保護を排し,自由競争市場経済を目指していることを示す強烈なメッセージとなったはずである。

金融政策においては,日本銀行は一層の金融緩和を目指して潤沢な資金供給を実行,1999年3月上旬からはコールレートが事実上ゼロ金利となり,10年物長期金利も1%台という極めて低い利率を保っている。

以上の準備を整えた上,政府は3月末,主要行等15行に対して合計7兆5千億円弱の公的資金も注入,これに銀行自身が増資によって民間企業から得る約2兆2千億円を加えれば,約9兆6千億円の資本増強となった。

この間に日本経済が一部で明るさを取り戻したこともあって,日本の金融に対する危機感は国際的にも消え,一時は約1%にも及んだジャパン・プレミアムも,3月にはほぼ解消した。

その後も政府は地方銀行,第二地銀等の早期健全化に努めており,債務超過とみられた幾つかの金融機関は破綻のやむなきに至っている。

小渕内閣が進めた第二の経済対策は需要の拡大である。小渕内閣は11月16日に公共事業の追加等事業規模17兆円に上る緊急経済対策を決定すると共に,6兆円をはるかに上回る減税を決定した。個人所得課税では最高税率を50%(従来は65%)に引き下げるなど総額4兆円の恒久的減税を行ったし,法人所得に対しては実効税率を約40%に引下げる2兆円の減税を行った。このために政府は12月に財政構造改革法を一時凍結する法案を成立させている。

さらに1999年度予算においては,公共事業等予備費も含めて公共事業関係の支出を前年度より10%上回る規模とすると共に,住宅取得に対する税額控除の拡大や情報機器の償却優遇等3兆円の減税を追加した。

こうした大規模な需要創造によって1999年に入ると,公共事業が大幅に拡大,民間住宅建設も急速に回復している。需要の大宗である消費は依然として個人所得が伸び悩んでいることからなお厳しい状況にあるが,全体として明るい動きも見られている。また,社会構造の変化を反映した消費支出の構造的変化も感じられるところがある。

これに対して,民間設備投資は1999年春にも依然大幅に減少しており,回復の兆しはまだみられない。また,輸出はアメリカ経済の好調に支えられ,アジア経済の急速な回復によってやや上昇に向かいつつある。

このように小渕内閣は,発足以来,従来の慣例に捕らわれない発想で,迅速かつ大胆な政策対応を講じてきた。この結果,景気の状況は下げ止まり,おおむね横ばいとなった。しかし,それが直ちに本格的な景気回復につながるかどうかは明らかではない。当面の緊急事態は脱したとはいえ,日本経済の持つ問題はなお数多い。中でも重大なのは,多くの企業が過剰設備,過剰雇用,過剰債務の「三つの過剰」を抱えるなどの構造問題である。

いわゆる「三つの過剰」は,近時の不況による需要の低迷だけで発生したものではない。より大きな理由は,高度成長期からバブル景気の時期まで,経営の効率よりも業界シェアの拡大を志向してきた企業経営の価値観にある。

「消費神話」が存在して常に需要の拡大が期待でき,「土地神話」が健在で資産価格の上昇が信じられた「右肩上がりの経済」なら,長期的にみると先行投資は経営成績にも有利に働いた。少し早めに少し大きめの設備を造れば,一時は操業率の低さに苦しむことがあっても,やがては需要が拡大して操業率が上昇,後発者よりは割安な生産ができたからである。そうした経験を積み重ねるうちに,日本の経営者の間には当面の利益よりも長期的な規模拡大を,経営の効率化よりも事業内容の多角化を重要とする考え方が定着してしまった。

しかし,「消費神話」が潰えて,需要の拡大が必ずしも保証されなくなり,「土地神話」が崩れて資産価格の上昇が期待できなくなった今では,過剰な設備を抱えることは経営の負担となり,企業の発展と国民経済の効率化に反することが多いだろう。

バブル景気の崩壊によって,成長期に積み上げた含み益も急減している。

いつまでも政府の需要喚起政策に頼ることはできない。産業の再生のためには各企業が経営効率を高め競争力を強化することが重要であり,そのための政策対応の在り方が注目されるところである。

しかし,過剰設備も多くの場合は債務と雇用を背負っている。これを整理しても,企業は負債の返済を免れず,雇用の縮減を考えねばならない可能性が高い。それが一般化すれば雇用問題を一段と深刻化させるおそれもある。また,政府が過剰設備や過剰債務の処理を促進するとなれば,民間経済への過度の介入につながらないか,という危惧も禁し得ない。20世紀の臥では,不況を契機として,官僚が経済や生活に介入した例は多いからである。

本白書の第2章では,いわゆる「三つの過剰問題」の実態を明らかにしつつ,企業の効率化のための課題を検討した。こうした企業経営や社会の雇用問題について考察していくと,この国の社会の一つの大きな問題が浮かび上がってくる。それは新しい事業や技術を立ち上らせる場合に不可欠の起業リスクを,どのように負担していくかという点である。企業経営の効率化を進める一方で,雇用の確保+経済の活力を維持するためには,新規の起業や技術開発が不可避だからである。

新規起業や新プロジェクトの発足,新しい技術の開発利用等,およそ新しい経済活動には結果として裏目に出る可能性がある。つまり,リスクが付き物なのだ。これまでは,そうしたリスクの受け皿となってきたのは,地価上昇を背景とした既成企業等の含み益や,「護送船団方式」による社会全体への拡散,いわゆる「リスクの社会化」であった。後者では,リスクを含めたコストが官僚主導によって価格に反映させる方式が一般化していたばかりか,時には官僚主導の救済さえ行われていた。

しかし,「土地神話」が潰えた今後は含み益の増加は期待できないし,経済のグローバル化が進む中では,官僚主導の価格維持や救済も難しい。

ところが現実には,バブル景気下でのリスク管理の失敗とその後の急激な信用収縮によって,金融機関も一般企業もリスクを冒すことをひどくおそれ,敢えて新規起業に資金を提供しようとはしない。また家計も,少子・高齢社会への危惧や成功報酬の小ささのためか,リスクの高い投資を避ける傾向が強まっている。何よりも重要なことは,長い社会的安定と経済的成長の中で,終身雇用慣行が定着し職縁社会が確立したため,青少年もリスクのある自営や起業を避け,安全確実とみられる大組織への参加を選ぶようになっていることだ。日本は過去10年間に非農業の自営業の数が減少したほとんど唯一の先進国である。

今や日本は,外国に手本のない段階に入っている。外国の成功例を模倣したり,部分的に改造したりするだけで,リスクなくしてビジネスが成立することもなくなった。これからは自らリスクを冒して新しい経済活動を切り開いていく必要がある。多様な知恵の時代には,価値そのものが多様化し流動化する。そんな時代(世の中)では,経済的なリスクを処理し分担する機能に対する需要はますます増大する。

それにも関わらず,日本のリスク処理機能は縮小,この点での需要(必要性)と供給(引受け手)のギャップは著しく拡大しているわけである。

それにもまた,前述の「三つの過剰」の存在が深く関わっている。過剰の整理とリスク処理機能の拡大との間には,そのような循環的因果律が存在するのだ。本白書の第3章において,リスクという観点から日本経済の過去と現状を評価すると共に新しいリスク処理機能の構築について考察を加えてみた。

長い成長とその結末としてのバブル景気,そしてその劇的な崩壊と長期にわたる放置の結果,傷みきった日本経済の中では,敢えてリスクを冒してまで夢を実現しようとする者は少ない。あまりにも長く「三つの神話」に支えられた成長を続けた日本では,事業の将来性や起業家の素質を見る審査能力が失われ,担保となる土地や証券の評価能力だけが蔓延した。

「護送船団型保護行政」が不変のように思われたため,官僚規格に従順なことが優秀な組織として評価された。記憶力に長け,辛抱強く協調性に優れた者だけが良き人材といわれた。臆病は慎重といい換えられ,旧習の踏襲が「粛々とことを進める」と美化された。

こうした中では夢も冒険心も育たない。青少年すら未来を暗く考え,純心な夢と冒険心を失っているかにみえる。これがそのまま将来も続くとすれば,この国は「老いたる発展途上国」になってしまうだろう。

この白書が敢えて構造改革問題(第2章)とリスクテーキングな社会への転換(第3章)とに踏み込んだのは,そうした危惧に答えるためである。

平成11年7月16日

堺屋 太一

経済企画庁長官


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