第1章 日本経済の動向と課題(第2節)
第2節 物価・賃金の動向~好循環の実現に向けた動き~
本節では、2025年前半までの物価動向を詳細にレビューするとともに、回り始めた賃金と物価の好循環についての現状を確認しつつ、米国による関税措置の影響を含め、好循環を回し続けるための課題について整理する。
1.2025年前半までの物価の動き
(国際商品市況は、米国の関税措置の影響等によるかく乱を除けば、総じて安定)
我が国の物価動向を確認するに当たり、まず輸入物価への影響が大きい国際商品市況の動向から確認する(第1-2-1図)。ガソリン価格や電気・ガス料金などの国内のエネルギー価格に影響を与える原油価格(ドバイ原油、米ドル建て)については、2024年以降、2025年春頃にかけて、最大の需要国の一つである中国経済の内需の弱さを反映し、振れを伴いながら緩やかな下落傾向で推移していた。2025年4月2日以降行われた、米国による相互関税の詳細発表や中国からの輸入品に対する追加関税率の大幅な引上げ、これに対する中国の報復措置により、世界経済の減速やこれに伴う原油需要の停滞への懸念が高まったこと等から、価格水準は1バレル70ドル半ばから60ドル半ばまで切り下がった。その後、同年5月12日の米中間での関税率の引下げ合意を受け、原油価格は1バレル60ドル程度の水準で下げ止まった。同年6月13日のイスラエルによるイランへの攻撃を機に、中東情勢が緊迫化し、供給懸念が高まったことから、1バレル75ドル程度まで急騰したが、両国の停戦合意により一旦下落し、その後は緩やかな上昇傾向で推移している。中東情勢によっては原油価格の変動リスクは大きく、今後も、その動向には留意が必要である。
また、需要が拡大するデータセンター向けの電力用電線ケーブル等に用いられる銅の国際市況1については、2024年後半は、振れを伴いながらおおむね横ばいで推移した後、2025年春頃にかけては、米国が銅輸入に対する追加関税の検討に入ったことに伴い2、今後の不確実性から米国で駆け込み需要が生じたことなどにより上昇傾向にあった。米国による相互関税の発表・発動に際しては、原油価格と同様、銅価格は一旦大きく下落したが、その後は、生成AI関連の需要の堅調さを支えに持ち直し、米中間の関税率引下げ合意を経て、緩やかな上昇傾向が続き、相互関税発表前の水準近傍に回帰してきた3。この間、食糧価格について、小麦価格等は比較的安定的に推移した。
(2025年前半は円高方向の動きがみられたことにより、円ベースの輸入物価は下落傾向)
次に、輸入物価指数について、契約通貨ベースの総平均でみると、2024年以降おおむね横ばい圏内で推移している。内訳については、上述のように原油市況の緩やかな下落等を映じ、石油・石炭・天然ガスが2024年以降緩やかに下落している一方、食料品については、産地における異常気象頻発の影響等によるカカオ豆やコーヒー豆、オレンジ等の価格高騰の影響もあって、2025年春頃まで緩やかな上昇傾向が継続してきた。こうした中、円ベースの輸入物価は、為替レートの変動の影響を大きく受けながら推移した。すなわち、2024年中は、円安の進行を受け、2024年8月に一時的に円高方向への動きがみられた局面4を除いて上昇傾向が続いた。一方、2025年1月以降は、米国の第二次トランプ政権の発足により、関税政策に関する不確実性が高まる下で、再び円高方向への動きがみられたことから、2025年半ばにかけて下落傾向で推移している(第1-2-2図)。ただし、2025年6月には、上述のとおり、原油価格が、中東情勢が緊迫化する中で一時的に乱高下した後、緩やかな上昇傾向にあるほか、為替レートの動向によっては、再び円ベースの輸入物価が上昇するリスクに留意が必要である。
(BtoBの財物価は、米価格の高騰が押上げ要因となり、上昇傾向が続く)
次に、国内物価について、企業間(BtoB)の財の取引価格を示す国内企業物価指数の動きをみると、2024年以降、2025年春頃にかけて緩やかな上昇傾向が続いている。背景としては、①円ベースの輸入物価の上昇が国内企業物価に緩やかに波及したことに加え、②2024年半ば以降は、米価格5の上昇を主因に食料が押上げ要因となっていることがある。こうした基調的要因以外に、政策要因としては、2025年以降は、1月~3月に実施されていた電気・ガス料金の負担軽減支援事業が、2月~4月の物価指数に反映されたことから、2、3月のエネルギー価格を抑制した一方、支援の縮小・終了を反映して、4、5月にかけては、エネルギー価格の押上げに寄与した。他方、ガソリン等石油製品については、燃料油価格激変緩和措置を組み直して2025年5月22日から導入された燃料油価格定額引下げ措置6により、国内企業物価における5月の石油製品は下落した。先行きについては、基調的な要因としては、2025年年初以降の円安の進行の一服及び円高方向への動きによる輸入物価の下落傾向が、ラグを持って国内企業物価に波及することにより、物価上昇ペースが鈍化することが期待される。一方、米価格については、2025年5月末以降実施されている随意契約による政府備蓄米の放出が、卸売事業者から小売業者への精米の販売価格にどの程度反映されていくか等に依存する7。また、政策要因については、同年6月26日から実施された、ガソリン価格(全国平均)の上限を1リッター当たり175円程度に抑制する予防的な激変緩和措置が、石油製品価格の抑制につながるほか、7月~9月に実施される電気・ガス料金支援8が、物価指数上、8月~10月の電気・ガス代の価格抑制につながることが期待される(第1-2-3図)。
(BtoBのサービス価格は、賃金上昇の価格転嫁が進み、緩やかに上昇)
また、サービスの企業間(BtoB)の取引価格である企業向けサービス価格指数は、緩やかな上昇が続いている。これは、主に、堅調なインバウンド需要の影響等もあって宿泊が上昇に寄与しているほか、運輸やソフトウェア開発、建築設計、警備等の人件費比率が高い品目を中心に、賃上げによる人件費上昇の販売価格への転嫁が進んでいることによる。結果として、前年比でみると、2025年5月は3%台前半で推移しており、消費税の影響を除くベースでは1990年代初頭以来の高い伸びが実現している(第1-2-4図)。サービス物価における人件費の波及については、後段にて再論する。
BtoBのサービス物価に関して、国内物価とは別に、海運や空運の国際貨物運賃の状況について、米国の関税措置による影響を含め確認する。米国の関税措置は、国際貨物運賃の上昇・下落のいずれにもつながり得る。例えば、各国に高率の追加関税が発動されれば、発動前の各国から米国への駆け込み輸出需要により運賃市況の上昇圧力となるが、関税発動後に貿易活動が収縮すれば、運賃市況の下落圧力となる。一方、関税措置により、グローバルなサプライチェーンや物流網に混乱を来し、国際物流の構造が変化することにより、特定航路の供給不足につながり、運賃市況の上昇につながる可能性もある9。2025年に入って以降の実際の国際コンテナ運賃について、中国(上海)から米国(ロサンゼルス、ニューヨーク)の航路をみると、4月に米国から中国に対し145%まで追加関税が引き上げられる中で、コンテナ運賃は急落した後、5月には米中間で関税率引下げ合意を受けて輸送需要が回復し上昇したが、7月にかけてはコンテナ船の供給増もあり再び下落がみられるなど変動が大きい状況となっている(第1-2-5図(1))。一方、我が国の企業向けサービス価格における国際貨物運賃をみると、2025年4月は、為替レートの円高方向への動きがみられたこともあるが、契約通貨建てでも、外航貨物、国際航空貨物共に下落しており、我が国への各種追加関税の発動が、スポット契約市況の下押しに一定程度影響した可能性がある(第1-2-5図(2))。関税措置によるこうした国際貨物運賃への影響についても、引き続き注視が必要と言える。
(消費者物価は、2024年秋頃からの幅広い食料品価格の高騰により、高い伸びが続く)
こうした川上の物価の動きを受けた川下の物価である消費者物価指数(以下「CPI」という。)について、まず、総合指数の前年同月比をみると、2023年11月以降、約1年にわたり、おおむね2%台が継続したが、2024年秋頃以降、消費者物価の約22%を占める食料品の価格上昇幅が徐々に拡大したことを主因に、2025年1月には、前年同月比4.0%と2023年1月以来の4%台にまで高まった。こうした食料品価格の上昇幅拡大の背景には多様な要因がある。具体的には、①2024年夏の高温等の天候不順がキャベツ等の野菜の生育不良を引き起こし、2025年初にかけて生鮮野菜価格が急騰したこと、②2024年夏以降に価格が上昇し始めた米類10について、価格上昇幅が急速に拡大し、2025年5月には前年同月比+101.7%(2倍超)まで高まったこと、③米の価格上昇を受け、2025年初からおにぎりやパックご飯、すし弁当といった調理食品価格の上昇幅が拡大していること、④既往の円安進行等11により輸入原材料価格が上昇し、物流費等の上昇もあいまって、菓子類や飲料、肉類といった広範な品目で価格引上げが生じたこと等がある12。
このうち、生鮮食品については、2025年1月をピークとして、キャベツ等葉物野菜を中心に価格上昇幅が縮小し、5月には、2021年10月以来約3年半ぶりに前年同月比で下落に転じるまで落ち着いた。一方、生鮮食品以外の食料品については、2025年5月時点で前年同月比8.5%と、2023年10月以来の高水準の上昇率まで高まっており、これが、CPIコア(生鮮食品を除く総合)やコアコア(生鮮食品及びエネルギーを除く総合)の前年同月比上昇率を3~4%まで高めている主因となっている(第1-2-6図(1)、(2)、(3)、(4))。
生鮮食品を除く食料品のうち、米については、農林水産省13によれば、銘柄米やブレンド米等で価格水準は若干異なるものの、平均価格は、2025年4月はおおむね横ばいで推移し、5月半ば以降やや低下した後、6月に入って以降は、随意契約による政府備蓄米の売渡しの価格抑制効果が表れ始めた(第1-2-6図(5))。また、「米取引関係者の判断に関する調査」における2025年6月分結果では、主食用米の需給見通し判断DI(向こう3か月)14や価格見通し判断DI(向こう3か月)がそれぞれ過去最大の下落幅となっており、備蓄米の放出により需給緩和や価格抑制が進むとの見方が強まっている。一方、CPIにおいては、上記の政府備蓄米の売渡しによる価格抑制効果が直接的には反映されないことに留意が必要である。具体的には、CPIの基となる総務省「小売物価統計」における米の調査銘柄は、単一原料米について、市場で多く取引される代表的な品種(コシヒカリとコシヒカリ以外の単一品種)となっており、2025年3月以降買戻し条件付で売渡した政府備蓄米が含まれる複数原料米(ブレンド米)は調査対象外となっているほか、5月末以降随意契約により売渡した政府備蓄米についても対象に含まれていない。このように、同質の商品の価格動向を把握するというCPIの特性上15、政府備蓄米の売渡しによる直接的な価格抑制効果を捉えることは困難なことから、米を含む各種食料品価格の実勢の把握に当たっては、各種統計やPOSデータなどのデータを総合的に勘案することが重要である。
その他の食料品に関して、食品メーカーにおける価格引上げ要因の推移をみると、「原材料高」が9割超で最も多いという状況に変わりはないが、2023年は「エネルギー」が相対的に重要であったのに対し、2025年にかけては、「物流費」や「人件費」の重要性が増していることが分かる。物流費については、運輸業における人手不足の中で、人件費上昇に伴う貨物自動車運送料の上昇が顕著であり、これらコストの販売価格への転嫁が進んでいるとみられる16。人件費については、食料品製造業に占める人件費のシェアは13.6%と平均(27.7%)に比べて必ずしも高くはないものの17、33年ぶりの高水準の賃上げが続く中で、同製造業においても人件費の販売価格への転嫁が着実に進んでいる表れと考えられる。
ここで、食品メーカーの価格引上げの要因として、「円安(為替の変動)」は、2024年の急速な円安の進行の中で回答割合が増加したものの、絶対水準としては相対的に限定的であるが、これは選択肢の間で重複があることにより、円安が進むことの影響は、「原材料高」にも含まれていると解釈するのが適当である。先述したように、2025年に入って以降、円高方向への動きがみられ、円ベースの輸入物価についても下落傾向にある。こうした状況が反転しなければ、円高方向への動きを通じた輸入物価の下落は、今後、食料品価格の抑制に影響することが期待される。内閣府(2024)の手法により、為替レートの変動が食料品(生鮮食品を除く。)を含む財物価に与える影響をVARモデルにより確認すると、為替レートの変動から10か月程度をかけて、財価格への影響が高まることが分かる(第1-2-7図)。
また、川上の物価がどの程度のラグをもって、国内の食料品価格に影響を及ぼしているかについて、生産過程における川上から川下、最終需要という段階別の物価動向を把握する日本銀行「最終需要・中間需要物価指数(FD-ID指数)」を用いて確認する。第1-2-8図は、生産過程のより川上に当たる中間需要のステージ1とステージ2の物価指数(ID1、ID2)の前年同月比上昇率と、①CPIにおける食料品(外食を除く食料)、②生鮮食品を除く食料品、③食料工業製品+生鮮肉18(②から米類・鶏卵を除き、健康保持用摂取品を含む。)それぞれの前年同月比上昇率との時差相関係数について、2018年1月~2023年12月の期間と、より最近の物価上昇期間を含む2018年10月~2025年5月のそれぞれ2期間で確認したものである(それぞれ「前半期間」、「後半期間」と言う。)。まず、ID1については、前半期間、後半期間共に、いずれのCPI指標でみてもID1がCPIに対して12~13か月先行していることが分かる。つまり川上の物価上昇率の変化は、おおむね1年後にかけて徐々に食料品CPIの変化に影響すると言える。一方、前半期間と後半期間で異なる点としては、CPI食料品の中でもより広義の①や②について後半期間における相関係数の低下が顕著であるという点である。生鮮食品や米類については、2024年以降の価格上昇では、生産過程の川上における投入コスト上昇の影響が相対的に薄れていることを示していると言える19。一方、狭義の食料品CPI(食料工業製品+生鮮肉)では、相関係数の低下は限定的であり、引き続き、輸入物価を中心とした川上の物価変動が1年程度のラグをかけて影響を与えるものと解される。同様のことは、中間需要ステージ2(ID2)と食料品CPIとの相関についても言える。このように、2025年以降の円高方向への動きによる輸入物価の下落は、1年程度の期間をかけて徐々に、食料工業製品を中心とした食料品CPIの抑制につながっていくことが期待される。
コラム1-3 物価上昇が継続する下での企業の価格設定行動の変化
本章第1節の個人消費に関する議論の際にも確認したように、食料品を中心とした物価上昇が継続する中で、消費者の購買行動においては、スーパーマーケットに比べて食料品を低価格で販売するドラッグストアへのシフト、食料品の中でより安価な品目への代替(例えば、牛肉や豚肉から鶏肉へのシフト)、さらに同じ品目の中でもより安価な銘柄・商品への代替(例えば、プライベートブランド(PB)商品へのシフト等)という形で、節約志向の動きがみられる。本コラムでは、POSによるビッグデータの一つであるSRI一橋大学消費者購買指数・単価指数(以下「SRI一橋指数」という。)20を用いて、こうした消費への購買行動に対応して、企業の価格設定行動も変化してきているかについて、確認してみよう。
SRI一橋指数における単価指数は、商品価格を商品容量で割った容量単価について、容量×数量をウェイトとして加重平均した指数の前年同週からの変化率を集計したものであり、新旧商品交代や容量調整の価格への影響を受けるものである。SRI一橋指数のうち、こういった容量情報をもつ商品の売上額シェアは約65%となっている。なお、これら指数には、生鮮食品や弁当等は含まれていない。
単価指数については、継続して販売される商品の価格上昇・下落を捉えた価格変化効果、同じく継続商品の販売シェアの変化と価格の共分散をみた代替効果、新商品と継続商品の価格差及び継続商品と販売停止商品の価格差をみた商品交代効果、クロス項(交絡項)に寄与度分解ができる(Abe et al.(2015))。これに沿って、単価指数の推移をみると、2022年半ば頃から2023年秋頃にかけて、価格変化効果と商品交代効果が共に単価指数への押上げ効果を強めていたことが分かる(コラム1-3-1図)。その後、2024年夏頃にかけて、両効果共に押上げ寄与が縮小し、単価指数の上昇幅が低下したが、2024年秋頃以降には、再び単価指数の上昇幅が拡大している。もっとも、2024年秋頃以降は、価格変化効果の寄与は拡大傾向にある一方、商品交代効果の寄与は横ばい傾向となっている。これは、継続して販売される商品の値上げの効果に比べ、商品交代による値上げの効果が相対的に弱まっていることを示唆している。言い換えれば、2022年から2023年においては、継続商品の価格引上げを行いつつ、より容量単価の高い新商品を導入したり、正味内容量の変更による商品パッケージの変更を伴う実質的な価格引上げを行ったりしていたのに対し、2024年秋以降は、企業の価格設定行動において後者の重要性が相対的に低下していると言える。背景として、過去30年にわたり、物価がほぼ動かない状況にあった中で、2022年の物価上昇局面では、価格上昇に直面する経験が限られてきた消費者の値上げに対する抵抗感が強く、企業側において商品パッケージ入替えによる実質的な価格の引上げをより重視していたと言える。これに対して、2024年以降は、物価上昇が継続する下で、消費者側において既に価格上昇の経験を経てきたことから、企業側において、従来に比べ、原材料や物流費等の価格転嫁を通じて継続商品の価格引上げをより行いやすくなっている可能性があると考えられる。
こうした商品交代効果の相対的な弱まりの傍証として、商品の容量を減少させるなどのいわゆる実質値上げに関する報道の記事件数をみてみると、「値上げ」やその内数である「実質値上げ」に関する記事件数は、2022年以降共に増加した後、2023年に入り減少したが、「値上げ」は高止まりしている一方、内数の「実質値上げ」は相対的により減少した状態にある(コラム1-3-2図)。実際、「値上げ」の記事件数に占める「実質値上げ」の割合は低下傾向にあり、2024年以降においては、いわゆる実質値上げの動きは弱まっている可能性があると言える。このように、物価上昇が継続する中で、企業側では「実質値上げ」によらない直接的な価格引上げに係るコストがより低下している可能性があると考えられる。
なお、小売の業態によって、価格変化効果と商品交代効果の強弱は異なる。スーパーマーケットでは、全体の傾向と同じく、2024年秋以降は、商品交代効果は横ばいの一方、価格変化効果が相対的に強まっており、コンビニエンスストアもこれに近しい動きとなっている(コラム1-3-3図)。他方、ドラッグストアでは両効果の相対的な重要性に大きな変化はみられない。背景として、ドラッグストアにおいては、医薬品販売により安定的な収益を確保できることから、食料品等について継続商品の価格引上げを抑制しやすいという可能性があるとみられる。
(CPIのエネルギーは、前年比の上昇は続くも、政策支援により価格水準は抑制)
この間、エネルギー価格については、原油等の国際市況や為替レートの動向に加え、政府によるエネルギー価格支援策の実施や縮小等の影響を受けて変動し、2025年4月、5月は前年同月比でそれぞれ9.3%、8.1%(CPI総合への寄与度でそれぞれ0.7%ポイント、0.6%ポイント)と高い伸びとなっている。こうしたエネルギー価格の前年同月比上昇率の動向には、政策要因が大きく影響していることに留意が必要である。まずエネルギー価格の指数水準について、実際の水準と、2022年1月以降実施されてきたガソリン等の燃料油や電気・ガス料金の支援策が仮になかった場合について試算した水準を比較すると、実際の価格水準が、支援策がなかったとした場合の仮想的な価格水準を一貫して下回っており、支援策の効果が発揮されていることが確認される。一方、前年同月比としてみると、2024年2月以降は、それより前と異なり、実際のエネルギー価格の上昇率が、仮想的な場合の上昇率を上回る形に変化している。例えば、2025年4月、5月は、仮想的な場合のエネルギーの前年比上昇率は1.1%、▲3.0%(CPI総合への寄与度でそれぞれ0.1%ポイント、▲0.3%ポイント)と、実際の上昇率よりも相当程度低くなっている。これは、特に、電気・ガス料金の支援策の動向の影響が大きく、例えば、2023年2月のCPIから激変緩和事業の効果が反映され、前年比上昇率の押下げにつながっていたが、そこから一年が経過した2024年2月には、前月からの価格水準の変化はほぼなかったにもかかわらず、前年同月比としては押下げ効果がはく落したため、上昇率が大きく高まった。その後も、激変緩和事業の段階的縮小が、2024年6月にかけて電気・ガス料金の前年比上昇率の高まりに影響するなどした(第1-2-9図)。このように、CPIエネルギー価格の前年比上昇率は、政府による支援策の動向に強く影響を受けており、国際的な資源価格や為替レートとの連関性がみえづらくなっている。物価の基調を判断する上では、こうしたエネルギー価格について、指数水準の前月比を確認するほか、政策要因による影響を除いて評価していくことも重要と言える。
なお、エネルギー価格の先行きについても、支援策の動向の影響を強く受けながら推移すると見込まれる。ガソリン等の燃料油については、上述の2025年5月22日以降の定額引下げ支援や、中東情勢緊迫化による原油価格の急速な上昇を受けて2025年6月26日以降実施されたガソリン価格(全国平均)の上限を1リッター175円程度に抑制する措置により、支援がなかった場合の価格に比べて抑制された水準で推移することが見込まれる。電気・ガス代については、2025年7月~9月に実施される料金支援により、CPI上、8月~10月の価格水準を抑制することが見込まれる。
(日本は、米欧に比べ財物価は上振れ、サービスは家賃・公共料金を除くと3%近傍)
以上のように、CPIの財価格については、食料品を中心とした高い伸びが続いている。米欧と比較すると、コロナ禍からの需要の回復や2022年2月のロシアによるウクライナ侵略により、米国では2022年前半、ユーロ圏では2022年末にかけて前年比15%前後と大きく上昇した後、急速に上昇率が縮小し、2025年前半には前年比0%近傍で推移している。これに対し、日本の財価格の前年比上昇率は、2023年1月のピークでは7.2%と、米欧に比べると半分程度の伸びにとどまったものの、その後の上昇率の縮小は緩慢に推移した。2024年後半からは再び伸び幅を拡大し、2025年春時点では前年比5%程度と高い水準で推移している。これはエネルギー価格支援策の影響を除いても同様で、2025年春時点では前年比3~4%と、食料品価格の上昇を中心に、米欧対比で顕著に高い伸びとなっている(第1-2-10図(1))。
対照的に、CPIのサービス価格については、米欧では2025年は前年比3~4%程度の伸びとなっているのに対し、日本においては1%台半ばの緩やかな伸びが続いている(第1-2-10図(2))。2025年4月以降は、いわゆる高校無償化の先行措置である就学支援金の収入要件の撤廃21による押下げがみられることから、こうした政策要因を除くと、2%弱で推移している。こうした政策要因を除くサービスCPIについて、更に、公営家賃を除く公共料金22、家賃(持家の帰属家賃を含む。)、一般サービスに分けてみると、公共料金については、2023年10月のNHK放送受信料引下げ等の影響で、2024年半ば頃までは上昇率が0%近傍で推移していたが、2024年10月以降は放送受信料の影響のはく落や、郵便料金の引上げなどにより、2025年春時点で前年比は2%弱程度まで上昇率が高まっている。家賃は0%近傍の小幅な上昇となっている。これに対し、一般サービスについては、2023 年から 2024 年前半にかけて、前年比4%程度で推移した後、やや上昇幅が縮小し、3%程度で推移している(第1-2-10図(3))。一般サービスについては、過去長期間にわたり、物価上昇率が基本的に0%前後で動かなかったことと比べると、近年は人件費の転嫁もあってプラスの上昇率が定着してきていると考えられる。今後、賃金と物価の好循環が実現していくためには、人件費割合が相対的に大きいサービス部門において、賃金の継続的な上昇と、その価格転嫁を通じて、物価の安定的な上昇が継続していくことが重要であり、この点については、本節後段で議論する。
(民営家賃の上昇は、全国では緩慢であるが、東京都区部は約30年ぶりの伸びに)
CPIの家賃については、2000年代前半から長期にわたり上昇率0%ないしマイナスで推移する状態が続き、2024年以降は、プラスの上昇率が定着しているものの、2025年5月時点では0.3%程度と、極めて緩慢な上昇率となっている。一方、家賃については、都市部か否かによってばらつきが拡大している。公営家賃や持家の帰属家賃を除く「民営家賃」の前年比上昇率について、東京都区部と全国の推移をみると、東京都区部についても、2000年頃から20年超にわたっては全国と同様にほとんど動かない状況が続いてきたが、2024年初から上昇率が着実に高まり始め、同年4月以降は更に上昇ペースが高まり、前年同月比1.8%と、1993年以来の30年超ぶりの高さとなっている(第1-2-11図)。これは、不動産を購入してこれをテナントに貸し出す貸主側において、賃貸物件の建築費の上昇・高止まりや借入資金に係る金利の上昇というコスト上昇要因に対して、賃貸利回りを確保するために家賃を引き上げていることがあると考えられる。特に、東京都区部においては、外国人を含む人口の増加という需要要因が堅調であり、これを踏まえて、貸主が新規契約時等において家賃の引上げを積極化させているとみられる。
(ビッグデータから推計した東京都区部の募集家賃指数はCPIの伸びを大きく上回る)
この点に関して、東京都区部の家賃の動向をより深く分析するために、住宅情報サイトにおける募集家賃に係るビッグデータに注目する。CPIにおける民営家賃については、その時点で賃貸住宅に入居している消費者が直面している家賃を基に作成され、いわばストックベースの家賃と言える。我が国の家賃は、定期借家契約を除き、契約更新時に賃借人に合意なく賃料を引き上げることは必ずしも容易ではないことから、賃借人の新規募集時に家賃を引き上げることが一般的と考えられる。このため、家賃の上昇は、入居者変更に際しての募集タイミングで発生することが多いとみられる。言い換えると、こうしたフローベースとも言うべき募集家賃は、ストックベースのCPI家賃に対し先行性があるものと考えられる。ここでは、株式会社リクルートの協力を得て、同社が運営する住宅情報サイト「SUUMO」に掲載された2016年1月から2025年4月における東京都の募集家賃データを利用し、ヘドニック法による品質調整を行った上で募集家賃指数を作成した23。
第1-2-12図により推計結果をみると、東京都区部のCPIにおける民営家賃は2023年まではほぼ横ばい圏内で推移した後、2024年春頃から上昇し始めたものの、約9年間で累計2%程度の上昇にとどまるのに対して、東京都区部の募集家賃指数は、コロナ禍前においても緩やかに上昇し、コロナ禍では停滞したものの、近年は伸びが加速した結果、約9年間で累計2割弱上昇していることが分かる。東京23区以外についても、コロナ禍前は横ばいであったが、コロナ禍期間には、テレワーク普及に伴う郊外物件への需要が強まったこともあり緩やかに上昇し、その後も上昇が継続した結果、約9年間で累計1割弱の伸びとなっている。
こうしたフローベースの募集家賃とストックベースの家賃は、上述のとおり、前者が先行する形で、互いにある程度連動することが想定される。一方、CPIの民営家賃については品質調整が行われていないため、品質変化による違いも発生する。具体的には、我が国において、住宅の平均除却築年数は年々上昇しており、市場に存在する賃貸住宅の平均築年数も年々上昇しているとみられ、仮にこうした品質の変化(経年劣化)について品質調整が行われれば、CPIの民営家賃の上昇率はより高まるとみられる。実際、総務省(2021)では、品質調整によって、民営家賃は木造で年率0.8%ポイント、非木造住宅で年率0.7%ポイント程度高まるという試算を示している。ここでは、賃貸物件における入退去のタイミング等について一定の仮定を置き、フローベースの募集家賃指数をストックベースに転換した上で、総務省(2021)における品質変化に伴う家賃上昇率の変化分を用いて、品質未調整のストックベースの家賃指数(CPI推計値)を試算した。結果をみると、CPI推計値は、実際のCPI民営家賃を相当程度近似するものとなることが確認できる。募集家賃の上昇傾向を踏まえれば、東京都区部のCPI民営家賃について、先行き上昇傾向が続くことが見込まれる。以上のように、募集家賃に関するビッグデータから作成したフローベースの民営募集家賃指数は、ストックベースのCPI家賃に対して先行性を有し、かつ、品質調整を行っている点で実態により即した指標と言え、物価動向の把握・分析に当たっては、こうした新たなデータを活用することが極めて重要と言える。
(GDPデフレーター上昇率は2年半にわたりプラスが継続)
物価動向のレビューの最後に、GDPデフレーターの動向を確認する(第1-2-13図)。GDPデフレーターは、国内で生産された付加価値の価格である一方、輸入品は、海外で生産された付加価値に由来するものであり、輸入物価はGDPデフレーターの算定の際には控除される。このため、輸入物価が上昇(下落)する局面では、一義的に、GDPデフレーターを押し下げる(押し上げる)方向に作用する。その上で、近年の動向を振り返ると、2022 年7-9月期にかけては、輸入物価の上昇幅が高まったことが、GDPデフレーターの押下げ幅を拡大した一方で、輸入物価の価格転嫁を通じた輸出物価や、消費や投資といった国内需要デフレーターの上昇幅の拡大が相殺し、結果としてGDPデフレーターの伸び率はゼロ近傍で推移した。その後、2023 年7-9月期にかけては、国内需要デフレーターの上昇率は3%台半ばから2%台後半に縮小した一方、輸入物価の上昇幅が縮小し、下落へ転じる中で、GDPデフレーターの上昇率は押し上げられ、現行基準で比較可能な1981 年以降最も高い 5.5%まで達した。その後、2024 年7-9月期にかけては、輸入物価の前年比下落幅が縮小し、上昇に転じる中で、国内需要デフレーター上昇率は2%台で推移し、GDPデフレーター上昇率も2%台半ばまで縮小した。一方、2024年10-12月期以降は、GDPデフレーター上昇率は前年比で3%前後と再び高まっている。これは、一つには、2024年末にかけて原油価格の緩やかな下落や円安進行の一服から控除項目である輸入デフレーターの上昇幅が縮小したことが、GDPデフレーター上昇率の押上げに寄与したこと、さらには、2025年1-3月期にかけては、生鮮野菜や米価格の高騰により家計最終消費支出デフレーターの伸びが高まったことが背景にある。
以上のように、輸入デフレーターの動向によらず、内需デフレーターがけん引する形で、国内要因での物価動向を示すGDPデフレーターの上昇が2年半にわたり続いていることは、長期的に遡ってみても、我が国がデフレ状況に陥る前の1980年代初頭と1990年前後以来のことであり24、これまでとは物価の基調が着実に変わりつつあることを示していると言える。一方、CPIと同様、食料品の価格上昇率の高まりは、GDPデフレーターを上振れさせる要因となっており、2%の安定的な物価上昇の実現を通じて、より安定的に推移していくことが重要である。
コラム1-4 家計最終消費支出デフレーターと消費者物価指数の関係
本コラムでは、本論でみたGDPデフレーターに関連して、家計最終消費支出デフレーター(以下「消費デフレーター」という。)について、CPI(総合)の推移との関係を確認する。消費デフレーターとCPIは、長期的にみるとおおむね互いに整合的な動きをしているが、2024年7-9月期以降は、CPI上昇率が消費デフレーター上昇率を上回り、そのかい離が拡大傾向にある。例えば、2025年1-3月期においては、CPI総合が前年比+3.8%に対し、消費デフレーターは+2.7%と1%ポイント程度のかい離が生じている(コラム1-4図)。
消費デフレーターについては、基礎となる物価指数のほとんどがCPI由来であるため、個別品目ごとの物価動向に基本的な違いはない。その上で、CPIと消費デフレーターの間にかい離が生まれる要因としては、一般的には以下の三点がある。第一に、①指数の算出方式の違いがある。具体的には、CPIは、基準年(現行基準では2019年と2020年の平均)の品目別消費ウェイトを固定し、各品目を加重平均するラスパイレス型固定基準方式により作成されるため、より安価な品目への消費の代替が考慮されず、基準年から離れるほど上方バイアスを持つ傾向があるのに対し、消費デフレーターは、パーシェ型連鎖方式により作成され、品目別消費ウェイトの変化が随時反映されるため、バイアスが小さいという点である。第二に、②消費ウェイトの絶対水準の違いがある。例えば、現行基準のCPIにおいて食料品(外食を除き、たばこを含む。)のシェアは約22%であるのに対し、GDP統計の国内家計最終消費支出における食料品(外食を除き、たばこを含む。)のシェアはCPIと同じ2019・2020年平均で約19%とCPIより低くなっている25。こうしたウェイトの相違は、品目ごとの物価上昇率にばらつきが大きい際には、両者の動向にかい離を生じさせる要因となる。第三に、③政策要因等の取扱いの違いである。詳細は割愛するが、診療代や介護料における自己負担割合の変更、保育や教育の無償化の実施等においてかい離が発生し得る26。
その上で、2024年7-9月期以降の両者のかい離については、上記の①②の影響が大きいとみられる。つまり、本章第1節でもみたように、例えば食料品について、家計は節約行動の一環として、同じ肉類の中でも、価格の高い牛肉や豚肉からより安価な鶏肉への代替を行うなどの行動をとっており、こうした影響は消費デフレーターには反映され得るが、CPIには反映されない。また、CPIでは食料品のウェイトが相対的に高く、近年のように食料品の価格上昇が他の多くの品目よりも著しく高いような状況においては、CPIの方が消費デフレーターに比べ伸び率が高くなる傾向があると言える。物価動向の把握に当たっては、こうした違いを踏まえつつ、各種指標を総合的に勘案することが重要である。
2.賃金と物価の好循環の定着に向けた課題
日本経済は、1990年代後半以降、デフレ状況に陥り、約四半世紀にわたり、物価・賃金が共に据え置きで動かない状況が続いた。しかし、コロナ禍を経た世界的な需要回復や2022年2月のロシアのウクライナ侵略による資源・食糧価格の高騰を契機に、円安の進行もあいまって輸入物価が上昇し、これを起点に食料品等の国内物価への転嫁が進んだことにより、2023年には約40年ぶりの物価上昇となった。また、企業の人手不足感が歴史的な水準に高まる中で、政府による価格転嫁の円滑化や賃上げ促進のための後押しもあって、春季労使交渉における賃金についても、2024年には、33年ぶりの高さとなる上昇率となり、2025年はそれをさらに上回る賃上げ率が実現した。このように、我が国において、賃金と物価の好循環は回り始め、定着しつつある。一方、2025年1月に発足した米国の第二次トランプ政権による関税措置は、我が国経済に対して直接的・間接的な下振れリスクをもたらす可能性があり、これが顕在化した場合、その効果の大きさによっては、ようやく実現しつつある賃金と物価の好循環の流れに不測の影響を及ぼす可能性には十分注意が必要な状況となっている。
政府は、2006 年3月に内閣府が参議院予算委員会に提出した「デフレ脱却の定義と判断」において、「物価が持続的に下落する状況」を「デフレ」と定義しており、また、「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」を「デフレ脱却」と定義している(第1-2-14表)。我が国経済は、現在、消費者物価が上昇しているという点で、明らかにデフレの状況にはなく、経済学的に言えばインフレの状態にあるが、再びデフレに後戻りする見込みがないとまでは言えず、これについては総合的かつ慎重な判断が必要である。この点、「デフレ脱却の定義と判断」においては、物価の基調については、CPIやGDPデフレーター等が言及され、物価の背景については、例示として、マクロ的な物価変動要因である需給ギャップ(GDPギャップ)や単位労働費用が挙げられていることから、これらの四つの指標が全てプラスになったか否かのみに注目が集まることがある。しかしながら、過去、アベノミクス期においても、2015年1-3月期や、2018年1-3月期~4-6月期、2019年1-3月期~7-9月期と、これらの指標が全てプラスになったことはあるが27、いずれも1年以上継続することはなく、また、その後、消費者物価上昇率がマイナス圏に戻ることとなった。こうした点も踏まえ、政府においては、デフレに後戻りしないかを判断するに当たって、物価の基調とともに、物価の背景として、GDPギャップや単位労働費用といったマクロ的な物価変動要因のみならず、企業の賃金設定行動が変化し、賃金上昇が持続的なものとなっているか、原材料や人件費など企業の価格転嫁は進んでいるか、特定の限られた品目のみではなくサービスを含め幅広い品目で物価上昇の広がりがみられるか、家計や企業等の予想物価上昇率は安定しているか、といった経済主体の行動や認識の変化に係るミクロ的観点を含め、様々な指標やデータを総合的に考慮し、慎重に判断することとしている28。以下では、こうした物価の背景に関する様々なデータを丁寧にレビューし、デフレに後戻りするリスクがないかを総合的に点検していきたい。
(GDPギャップはゼロ近傍の小幅マイナスまで回復、単位労働費用は上昇継続)
まず、物価の背景のうち、マクロ的な物価変動要因として、経済全体の需給の過不足を示すGDPギャップと、賃金に由来する物価上昇圧力を示す単位労働費用(以下「ULC」という。)の動向を確認する。GDPギャップは、コロナ禍初期に大きく悪化し、2020年4-6月期に▲9%超のマイナスとなった後、コロナ禍からの経済活動の正常化、そして緩やかな景気回復の中で、振れを伴いながらも改善傾向を続けており、2025年1-3月期時点ではゼロ近傍の小幅のマイナス値(▲0.2%)にまで回復した(第1-2-15図(1))。一方、ULCは、2023年はならしてみればゼロ近傍のプラスで推移していたが、2024年4-6月期以降は、33年ぶりの高水準となった2024年春季労使交渉の賃上げの効果や堅調だった夏・冬のボーナスを反映して、雇用者一人当たりの名目賃金の伸びが高まったことから、明確なプラス領域で推移している(第1-2-15図(2))。ここで、上述のGDPデフレーター上昇率について、ULCの変動による部分(ULC要因)とそれ以外の要素による部分(その他要因)29に分解したものをみると、2023年中は、GDPデフレーター上昇率が高まる中で、その他要因が支配的であったが、2024年4-6月期以降は、賃金上昇の効果を反映して、ULC要因が着実にGDPデフレーターの上昇を支え続けていることが確認される(第1-2-15図(3))。
ここで、マクロ的な物価変動要因については、米国の関税措置による景気の下振れリスクを通じた影響に留意が必要である。過去、1990年代初頭のバブル崩壊以降の動向を振り返ると、1990年代後半のアジア通貨危機や我が国の金融システム危機、2000年代後半のリーマンショックを含む世界金融危機、2020年初の新型コロナウイルス感染症の感染拡大の際には、それ以前にはプラスに回復していたGDPギャップが、これらの甚大な負の経済ショックにより、大幅なマイナスに悪化することとなった。GDPギャップと物価上昇率(CPIコアコア)の関係であるフィリップス曲線をみると、アジア通貨危機後やリーマンショック後は、結果として、GDPギャップからラグをもって物価上昇率もマイナスに転ずることとなったことが分かる(第1-2-16図)。前掲第1-2-15図のとおり、ULCについても、GDPギャップの悪化に伴う形で、伸び率が低下している状況が確認される。このように、経済ショックに伴う需給バランスの悪化は、物価や賃金を下押しする要因となるが、重要な点は、ショックによってGDPギャップがマイナス局面に入ったとしても、フィリップス曲線が十分に上方に位置していれば、デフレに陥る蓋然性は低くなるということである。これは、企業や家計の物価や賃金上昇率に対する予想として、安定的なプラスが維持されているということに他ならない。つまり、賃上げや価格転嫁の促進によって、賃金と物価が共に安定的に上昇していくというノルムが確立していくことが何よりも重要であり、こうした点が、デフレ脱却の判断に当たって、GDPギャップ等に限らず物価の背景を総合的かつ丁寧に確認していくことが必要な背景である。
(就業形態計の名目賃金は、2024年度は3%の上昇と1991年度以来33年ぶりの伸びに)
こうした観点から、以下では、賃金上昇、企業の価格転嫁、物価上昇の広がり、予想物価上昇率といった経済主体の行動や認識の変化に係るミクロ的な観点を検証していきたい。
まず、賃金上昇の状況である。賃金上昇の広がりや持続性の評価といった構造的な分析については、第2章第2節で扱うこととし、ここでは、近年のマクロ的な賃金の動向を確認する。名目賃金について、「毎月勤労統計調査」により、フルタイム労働者とパートタイム労働者を合わせた就業形態計の現金給与総額をみると、2024年5月から2025年4月まで、ほぼ一貫して前年同月比で2%ないしそれ以上の上昇率が傾向的に続いてきた30。結果として、年度としても、2024年度は、現金給与総額の前年度比上昇率は+3.0%と、1991年度(+4.4%)以来、33年ぶりの高い伸びとなった。こうした就業形態計の名目賃金については、雇用者の約7割を占めるフルタイム労働者と、3割を占めるパートタイム労働者に分け(第1-2-17図)、以下より詳細に議論する。
(春季労使交渉を受け、所定内給与の改善継続が見込まれるが、中小企業の遅れに留意)
まず、フルタイム労働者の現金給与総額の7割超を占める所定内給与について確認する。日本労働組合総連合会(連合)の春季労使交渉結果の集計においては、2024年は定期昇給を含む賃上げ率で5.10%、ベアで3.56%と33年ぶりの高水準となり、これを反映する形で、「毎月勤労統計調査」の所定内給与は、2024年4月以降徐々に前年比上昇率が高まり、同年後半には2%台後半の伸びが安定的に続いた。結果として、2024年度については、フルタイム労働者の所定内給与は前年度比2.5%と、遡及可能な1994年度31以来で最も高い伸びが実現した32(第1-2-18図(1))。2025年度の春季労使交渉においては、連合の最終集計によると、定期昇給を含む賃上げ率で5.25%、ベアで3.70%と、33年ぶりの高さとなった2024年を更に上回る結果となっている(第1-2-18図(2))。過去、賃金改定が実際の賃金支払に反映されるタイミングのパターンに鑑みれば、今年度の春季労使交渉の賃上げについて、夏場にかけて、所定内給与の上昇率に徐々に反映されていくことが期待される(第1-2-18図(3))。ここで、賃金に関して、速報性の高いビッグデータである給与計算代行サービス33における2025年4―6月の所定内給与の対前年比上昇率を年齢別にみると、2024年と同様、2025年も、20代や30代の若年層の伸び率が相対的に高い一方、40代や50代といった中高年層においても所定内給与の上昇率が着実に高まっている(第1-2-18図(4))。人手不足感が歴史的に高い状況が継続する中、幅広い年齢層の雇用者について、企業が人材の確保・引留めの観点から、賃金の引上げに取り組んでいることがみてとれる。
一方、2024年度について、事業所規模別の所定内給与の上昇率をみると、5~29人の比較的小規模な事業所においては1.5%となっている(第1-2-19図(1))。日本商工会議所の調査によれば、2025年度の賃上げ率は定期昇給込みで+4.03%と、2024年度の+3.62%を着実に上回っている一方で、連合集計に比べると低い水準にとどまっている(第1-2-19図(2))。このように、中小の事業所・企業における賃上げには遅れがみられる点には留意が必要である。この点については、第2章第2節で再論する。
次に、フルタイム労働者の現金給与総額の約6%に当たる所定外給与(残業代等)について確認する。所定外給与の伸びは、残業手当の割増率が一定等の仮定の下では、所定内給与の伸びと所定外労働時間(残業時間)の伸びの和で近似されると考えられる。所定内給与については、上述のとおり、着実に伸びが高まっている一方、所定外労働時間については、2024年にかけて、減少傾向が強まった(第1-2-20図)。産業別に分解すると、製造業は、一部自動車メーカーの認証不正問題の影響もあって減少が続いたほか、建設業や運輸・郵便業において、いわゆる「2024年問題」の影響によって減少傾向にあることが分かる。2025年以降は、製造業では、上記の自動車生産に係る2024年初の影響がはく落し、生産稼働も高まったことから所定外労働時間が前年比で増加寄与となっているほか、建設業でも「2024年問題」の影響が一巡したとみられる一方、運輸・郵便業では2025年以降も引き続き前年比で減少が続いていることが確認される。働き方改革の推進の下で、所定外労働時間が構造的に増加していく環境にはないと考えられることから、当面、所定外給与の伸びは、所定内給与の伸びの範囲で推移していくことが見込まれる。また、米国の関税措置の影響いかんによっては、製造業を中心に、国内生産活動の低下を通じて所定外労働時間が下押しされる可能性がある点には留意が必要である。
(2024年度のボーナスは、人材の確保・引留めもあり、支給事業所が増加し高い伸びに)
さらに、フルタイム労働者の現金給与総額の約2割を占める特別給与(ボーナス等)34の動向を確認すると、2024 年度は、夏季で+8.0%、冬季で+6.9%と過去数年で最も高い伸びとなった35(第1-2-21図(1))。一人当たりボーナス額36の伸びを支給労働者数要因と一人当たり支給額要因に分解すると、2024 年度は夏季、冬季いずれも、両要因が共に増加に寄与しており、ボーナスが支給された事業所に雇用されている労働者が増加するとともに、ボーナスの支給があった事業所における一人平均ボーナス支給額も増加している(第1-2-21図(2))。次に、事業所規模別に支給事業所割合をみると、夏季・冬季共に、元々支給事業所割合が低かった5~29人の事業所で顕著な上昇がみられている(第1-2-21図(3))。結果として、事業所規模別のボーナス等の寄与度分解をみると、2024 年度は全ての規模の事業所でプラス寄与となっているが、夏季を中心に、5~29人事業所の寄与の大きいことが分かる(第1-2-21図(4))。このように、2024年度のボーナスが堅調だった背景には、33年ぶりの高さとなった賃上げによる所定内給与の増加を受けてボーナス支給額が増加したことに加え、人手不足の中で人材の確保やつなぎ止めのために新たにボーナスを支給する事業所が増加したこともあると考えられる。ボーナスの決定要因について、日本経済団体連合会(経団連)の調査によれば、業績連動方式を採用する企業が近年では全体の6割近くとなっており、実際、ボーナスと営業利益の関係をみると正の相関が有意にみられる。一方、両者の相関は、近年にかけて低下しており、企業が人手の確保・引留めなど業績以外の要因でボーナスを決定するようになっている可能性を示唆している(第1-2-21図(5))。
2025年度についても、夏季ボーナスは堅調さが見込まれる。連合の集計によると、支給月数は2.50か月と前年から微減となっているが、春季労使交渉の高い賃上げ率により月例賃金が着実に増加している効果から、一人当たり支給額は2024年の74.3万円から2025年は77.3万円と+4.0%増加する見込みとなっている。労務行政研究所がまとめた2025年夏のボーナス調査によれば、全産業の平均支給額は86.3万円、前年比3.8%増、4年連続で前年を上回り、過去最高額を更新する結果となっている(第1-2-22図)。このように、2024年度の堅調な企業収益と、力強い賃上げに加え、企業の人手不足への対応もあって、2025年度夏季のボーナスは引き続き増加が見込まれる。一方、米国の関税措置の影響によっては、製造業を中心に、企業収益の下押しを通じて、2025年度の冬季ボーナスは下振れする可能性もあり、今後の動向を注視する必要がある。
(最低賃金の引上げもあり、パートタイム労働者の時給も過去最高水準の伸びが続く)
次に、雇用者の約3割を占めるパートタイム労働者の現金給与総額の動向を確認すると、総実労働時間については緩やかな減少傾向が続いているものの、時給の伸びが2023年夏頃から前年比4%前後の高い水準で推移するなど、現金給与総額の着実な増加が続いている。パートタイム労働者の時給は、労働需給のひっ迫に加え、最低賃金の引上げもあって、上昇傾向が続き、2024年度は前年度比+4.3%と遡及可能な1994年度以降最も高い伸びとなり、その後も同程度の上昇ペースが続いている(第1-2-23図(1)、(2))。ビッグデータにより、パート・アルバイトの募集賃金の動向をみると、毎年、最低賃金の引上げが行われる10月初旬頃において、募集賃金が高まる傾向が確認される(第1-2-23図(3))。2024年についても、過去最大の最低賃金の引上げ幅(全国加重平均+51円)となる中、9月末以降、募集賃金は各都道府県で一段と高まり、全国平均1,193円(2025年6月時点)となっている。
ここで、最低賃金について、「賃金構造基本統計調査」の調査票情報を基に、パートタイム労働者37のうち、最低賃金近傍で働く労働者の比率を都道府県別にみると、2024年時点において全国平均で47.8%となっており、最も低い東京で37%、最も高い山口県で56%となっている(第1-2-24図(1))。最低賃金(全国加重平均)の上昇率は、2016年以降3%超が、コロナ禍の2020年を除いて継続している中、最低賃金近傍で働くパートタイム労働者の比率を2016年時点と比較すると、多くの県において同比率が高まっており、最低賃金の引上げが続く下で、最低賃金近傍で働くパートタイム労働者が増加していることが確認される。
次に、全国計について、年齢階級別・性別に最低賃金近傍で働く短時間労働者の比率をみると、学生のアルバイトも多く含まれるであろう15-19歳が最も高く(男女共に73%)、最も低い年齢層は、男性の場合は45-49歳、60-64歳で32%、女性の場合30-34歳の38%となっている(第1-2-24図(2))。男女別にみた違いとして、40代や50代などの中年層では、男性は最低賃金近傍で働く短時間労働者の比率が低いのに対して、女性の場合は、中年層が25-39歳というより若い年齢層に比べて低いわけではないという点が挙げられる。考えられる背景としては、女性の中年層の場合、出産・育児等に伴い一旦離職し、その後、子育てが一段落したところで、パートタイム労働者として復職するケースが少なくないと考えられ、その場合、同じパートタイム労働者でも、勤続年数が短く、賃金水準が低めになっている可能性が考えられる38。また、2016年から2024年への変化をみると、女性の方が男性よりも最低賃金近傍で働くパートタイム労働者の割合は高いという点は同様であるが、女性ではこの比率が8年間でおおむね変化していないのに対し、男性では多くの年齢層で同比率が上昇しているという違いがある。
次に、最低賃金の引上げがパートタイム労働者の賃金(時給)に与える影響について確認する。ここでは、都道府県別に、賃金水準を100分位別に集計したデータにより、都道府県別最低賃金の伸びが賃金上昇率に与えた効果を試算する。第1-2-24図(3)は、推計結果を基に、2021年から2024年と、2015年から2019年までの2期間に分け、70分位点(時給水準が上位30%に位置する労働者に相当)の賃金を基準に、それ未満の賃金水準の労働者における時給の相対的な変化について、実際の賃金増加率と仮想的に最低賃金の引上げが行われなかったとした場合とを比較したものである39。試算結果をみると、2015年から2019年にかけては、最低賃金の引上げの有無によらず、70分位点のパートタイム労働者の時給に対し、それ未満の賃金水準の労働者の時給の上昇率は低位にとどまったが、2021年から2024年については、最低賃金の引上げによって、相対的に賃金水準の低いパートタイム労働者の賃金上昇率を70分位点の労働者に対して明確に高める効果が確認され、この間の最低賃金の引上げは賃金分布を圧縮させる効果があったと評価される。最低賃金については、適切な価格転嫁と生産性向上支援により、影響を受ける中小企業・小規模事業者の賃上げを後押しし、2020年代に全国平均1,500円という高い目標の達成に向け、たゆまぬ努力を継続することが極めて重要である。
(実質賃金は、食料品を中心とした物価上昇率の高まりにより、下押しが続く)
以上では、名目賃金について詳細に確認してきたが、ここでは、名目賃金をCPI40で除した実質賃金について確認する。就業形態計については、2024年度は、名目賃金上昇率が上述のとおり33年ぶりの高さとなる+3.0%であったのに対し、物価上昇率も+3.0%となり、実質賃金は0.0%の横ばいとなった41。前年度比でマイナスを脱したのは2021年度以来3年ぶりとなり、33年ぶりの力強い賃上げが実現した効果がみられるが、月次の動きをみると、2024年末には上昇率が一旦プラスに転じたものの、2024年秋頃から食料品を中心に物価上昇率が高まっていった結果、2025年に入って以降は、再びマイナスに転じることとなった(第1-2-25図(1))。
就業形態別の実質賃金をみると、パートタイム労働者の時給は、名目で前年比4%前後の高い伸びが維持される下で、2023年半ばから22か月連続で前年比プラスが続いているものの、物価上昇率の高まりによって、2025年に入って伸びが縮小している。フルタイム労働者の月給については、ボーナスを含む現金給与総額の実質値は、2024年6月以降は、前年比プラス基調が続いたが、2025年に入って以降、物価上昇率の高まりから前年比マイナスに転じている。ボーナスを除いた定期給与についても、2024年10月に2年7か月ぶりに前年比プラスに転じるまで持ち直したものの、その後は再び前年比がマイナスに転じ、その状態が続いている(第1-2-25図(2))。上述したように、今後、2024年度を更に上回る高い伸びの2025年度の賃上げが、実際の賃金支払に反映されていく中で、名目賃金の堅調な上昇が続くことが期待されるが、食料品を中心に物価上昇率の高い状況が続けば、実質賃金は引き続き下押しされることとなる。引き続き、2%の安定的な物価上昇を実現すること、そして、これを持続的に上回る賃金上昇の実現が極めて重要となっている。
(原材料等の仕入価格の販売価格への転嫁は総じて確実に進展)
次に、企業における原材料費や労務費の販売価格への転嫁状況について確認していく。まず、原材料等の企業の仕入価格が、企業が産出する財・サービスの販売価格にどの程度転嫁されているかを確認するために、日銀短観の仕入価格判断DIと販売価格判断DI(販売価格や仕入価格が「上昇」と判断した企業の割合から、販売価格や仕入価格が「下落」と判断した企業の割合を差し引いた値)の推移をみる。全規模全産業では、おおむね仕入価格のDIに連動する形で販売価格DIも安定的にプラス領域で推移しており、全体の傾向として、原材料等の仕入価格の販売価格への転嫁は着実にみられていると言え、製造業(素材業種、加工業種)・非製造業別、大企業・中小企業の企業規模別にみても同様である(第1-2-26図)。一方、本章第1節で述べたように、米国の関税措置の発動後、自動車製造業において、少なくとも短期的に米国への輸出価格を引き下げる動きもみられており、関税措置やこれに対する対応が、大企業や中小企業の製造業における価格転嫁の動きに与える影響には十分留意が必要である。非製造業について、より詳細に業種別の動向をみると、建設業では、仕入価格判断DIが高止まりする中で、大企業において販売価格判断DIが顕著に上昇しているのに対し、中小企業では緩やかな上昇傾向とはなっているが、価格転嫁の動き自体は続いているとみられる。宿泊・飲食サービス業でも、中小企業において、2024年秋頃から2025年春頃にかけて、飲食サービス業の原材料となる食料品価格の上昇もあって、仕入価格判断DIが上昇したのに対して、販売価格判断DIが低下する局面があったが、2025年6月には大きく上昇しており、価格転嫁の動きが弱まったわけではないと考えられる。
こうした状況の中で、米国の関税措置に伴う影響にも留意が必要である。まず、過去における負の経済ショック時の価格判断DIの推移を振り返ると(前掲第1-2-26図(1))、2000年代後半の世界金融危機に際しては、直前の2007年後半から2008年前半においては、仕入価格判断DIが高まる下で、販売価格判断DIも1991年以来に小幅プラスとなっていたが、ショック後は、世界的な資源価格の急落等により仕入価格判断DIがマイナス(下落していると回答する企業が、上昇していると答える企業を上回る状態)となるとともに、需要の急速な悪化から販売価格判断DIもマイナス圏内に逆戻りすることとなった。また、2020年初のコロナ禍に際しては、仕入価格判断DIは低下したもののプラス圏内にあった一方で、急速な経済の悪化に伴い販売価格判断DIはそれまでのプラス傾向からマイナスに転じた。このように、過去の経験では、負の大きなショックが生じた際には、仕入価格判断DIのみならず、販売価格判断DIが低下する傾向があった。ただし、1990年代後半にデフレ的な状況に陥って以降、コロナ禍までは、物価が動かない中で、販売価格判断DIがプラスとなる場合でも極めて小幅なものにとどまっていたことに留意が必要である。これに対し、今回の物価上昇局面においては、全体として価格転嫁が進む下で、販売価格判断DIは過去にはない高い水準が維持されており、負の経済ショックに対して、マイナスに転じるリスクは過去に比べれば抑制的であることが期待される。これは、経済主体の予想物価上昇率が安定的なプラスでアンカーされているかどうかにも関係すると言え、この点は後述する。
(人件費のサービス価格への転嫁は、BtoBを中心として、着実に進展)
次に、労務費・人件費の販売価格への転嫁について考察する。ここでは、人件費が適切に販売価格に転嫁されているかを考える上で、生産額に占める人件費の割合が相対的に高いサービスを取り上げる。まず、日米について、CPI上のサービス価格と賃金統計上の民間サービス部門の賃金を比較すると(第1-2-27図)、米国では、物価・賃金が共に着実に上昇している。これに対し、日本では、2021~22年頃までは物価・賃金共にほぼ横ばいであったが、その後、緩やかなペースながら、賃金と物価が共に上昇傾向に転じていることが確認される。一方、日本について、BtoBのサービス物価(企業向けサービス価格指数)とBtoCのCPIサービス物価を比べると、前者の方が近年の伸びが幾分高く、同じサービス分野でもBtoBの方がBtoCに比べ、より人件費の販売価格への転嫁が進展しているとみられる。
続いて、より詳細に、BtoBの企業向けサービス物価と、BtoCのCPIのサービス物価について、人件費比率の高低で2グループに分けた上で、それぞれ物価上昇率の動向をみる42。まず、BtoBについては、人件費比率が相対的に低いサービス価格の前年比上昇率は3%弱程度で推移しているのに対し、人件費比率が相対的に高いサービス価格では、2023年以降、着実に前年比上昇率が高まり、2025年春時点では3%台半ばとなっている。内訳をみると、2024年以降では、道路貨物輸送等の運輸や、建築設計・警備・労働者派遣といったサービスにおいて、賃金上昇が着実にサービス価格に転嫁されているものとみられる。これに対し、BtoCのサービス価格をみると、人件費比率が低い品目では、2025年春時点で1%台半ばの伸びとなっている43一方、人件費比率が高いサービス品目においては、前年比3%近い伸びが続いている。内訳をみると、補習教育(学習塾)を含む教育が安定的に上昇に寄与しているほか、2023年は運送料やタクシー代を含む交通・通信が、2024年以降は住宅の修繕工事を含む住居が上昇に寄与している(第1-2-28図)。
ここで、運輸関係について、BtoBの運輸・郵便では着実に価格上昇率が高まっているのに対し、BtoCの交通・通信では2024年以降に伸びが鈍化している。両者で共通する品目の動向をみると、タクシーや乗合バスでは比較的近しい推移となっている一方、運送費(企業向けサービス価格指数では道路貨物輸送)については、BtoCでは2023年度後半にかけて上昇率が高まった後、2025年時点では前年比0%まで縮小しているのに対し、BtoBでは着実に伸び率が高まっており、動きが異なる。ただし、2020年を100とする指数水準でみると、過去5年間の累積上昇率としてはBtoCの方が高い状況にある(第1-2-29図(1)、(2))。これは、BtoCでは、企業による消費者向け運送費の価格改定の頻度が少なく、2023年は大幅な引上げだった一方、2024年は小幅な引上げとなったのに対して、BtoBの運送費は企業同士の価格交渉によって決定される中で徐々に伸びが高まっている、という商慣行の違いを反映していると考えられる。
また、住居に含まれる人件費比率の高い工事関連サービス44の推移をみると、2022年末から2023年初にかけて伸び率が上昇した後、2024年初にかけては伸び率が低下し、その後再び上昇率が高まっている。この2つの上昇局面については、背景が大きく異なる。つまり、2023年初にかけての上昇率の高まりについては、木材等の修繕材料の価格上昇率が大きく高まったほか、めっき鋼材や塗料等の価格も上昇していたことから、原材料価格の上昇が波及したものであったと考えられる。これに対し、2024年以降の価格上昇局面では、修繕材料等の伸びは限定的であるのに対し、大工手間代の伸びが着実に上昇しており、人件費の上昇に由来する価格上昇であることが確認できる(第1-2-29図(3))。
このように、サービス分野においては、高人件費グループのサービスにおいて、総じて、賃上げに伴う人件費の上昇が、販売価格に転嫁されつつある様子がみてとれる。ただし、CPIにおいては、高人件費グループの品目の中でも、教養・娯楽に含まれる習い事等の月謝講習料は2023年には物価上昇率が2%台半ばまで高まった後、直近では1%台半ばにとどまるなど、分野によっては価格上昇が限定的な分野も含まれる。このように、BtoCサービスの一部では、人件費割合は高い一方で、競争的な市場環境もあって、販売価格の引上げが進まない分野もみられる点には留意が必要である。
(官民を挙げた取組の効果により、中小企業の価格転嫁は着実に進みつつある)
以上の価格転嫁の状況について、中小企業庁「価格交渉促進月間フォローアップ調査結果」により、中小企業における価格転嫁状況を確認すると、2025年3月調査時点で、コスト全般の転嫁率の加重平均は52.4%と、2024年以降着実に上昇が続いている。コスト要素別にみても、原材料費、エネルギー費、労務費のいずれも転嫁率が2024年以降上昇しており、全体として価格転嫁が進んでいることがうかがえる(第1-2-30図(1))。業種別の転嫁率のばらつきをみると、2023年には最大値と最小値の格差が大きい状態にあったが、2025年3月時点ではやや縮小している(第1-2-30図(2))。また、2023年9月調査の転嫁率とその時点から直近2025年3月調査にかけての転嫁率の変化について業種間の関係をみると、おおむね、2023年9月時点の転嫁率が低かった業種ほど、この間の転嫁率の上昇幅が大きい傾向が確認される。このように、官民を挙げた価格転嫁の推進の効果が表れてきていると考えられる一方、業種によっては、価格転嫁率が低下している場合もある。引き続き、業種ごとの状況を注視しつつ、価格転嫁・取引適正化の更なる推進に努めることが重要である。
(サービス分野における物価上昇の広がりは、デフレ前の1980年代半ばに近づく)
以上のように、総じて、原材料等の販売価格への転嫁が進み、人件費についても、サービス販売価格への転嫁が着実にみられるようになっている中で、次に、物価上昇が一部の品目に偏っていないかという観点から、物価上昇の広がりについて財・サービス別に確認する。
まず、国内企業物価指数、企業向けサービス価格指数、CPIについて、前年比で価格が上昇(下落)した品目の割合を時系列で確認すると、BtoB価格では、財・サービス共に全体の7~8割の品目で上昇しており、デフレに陥る前の1980年代を超えた水準で推移している。特に、サービス価格では、物価上昇品目割合は着実に上昇し続けている。次に、BtoC価格であるCPIについて財とサービスに分けてみると、財は食料品物価の動向に影響を受け、直近では価格上昇品目割合が8割超と、1980年代半ばを上回って物価上昇が広がっている。これに対し、サービスの価格上昇品目割合は8割弱と、1980年代半ばよりは低いものの、2000年代半ば以降では最も高い水準となっており、デフレに陥る以前の物価上昇の広がりの姿に着実に近づいていることが確認される(第1-2-31図)。
次に、同様にBtoB、BtoCの財・サービスそれぞれについて、品目別の前年比の上昇率の分布を、コロナ禍前の2018年、2024年から直近の2025年、さらにデフレに陥る前の1980年代半ば45の複数時点で確認する。まず、財については、2018年や1984年に比べて、2024年以降は、国内企業物価(BtoB)、消費者物価(BtoC)共に0%の山が大きく低下するとともに、ピークがプラスの領域に移行し、分布もプラス領域にシフトしていることが分かる。近年にかけて、為替レートの円安が進行してきた中で、輸入物価の上昇が国内物価に波及し、食料品を含め幅広い品目で価格上昇が生じている様子が確認される。一方、サービスについては、企業向けサービス価格(BtoB)、消費者物価(BtoC)のいずれも、2018年にみられた0%の山が崩れ、BtoBにおいてはプラス2%付近の密度が高まるなど、1980年代半ばに比べて、より価格上昇の広がりがみられるようになっていることが分かる。BtoCにおいても、0%付近にピークが形成されている点は、2018年と変わらないものの、プラス2%付近の密度も高まり、1980年代半ばの物価上昇の広がりに相当程度近づいていることが分かる。特に、公共料金を除く一般サービスについて分布を確認すると、0%付近の山が崩れ、プラス2%付近にピークが形成されるなど、物価上昇の広がりが一層明確に観測される。このようにサービスについて、過去四半期にわたる物価が動かない状況から、幅広い品目において物価が上昇する姿に着実に変化を遂げつつある様子がみてとれる(第1-2-32図)。
(予想物価上昇率は企業では2%程度で推移するも、家計は上振れした状況が続く)
最後に、各経済主体(企業、家計、市場参加者)の予想物価上昇率の動向について確認したい。まず、企業の予想物価上昇率について、日銀短観の物価見通しをみると、全規模全産業の企業による3年後、5年後の中期的な予想物価上昇率は、2022年半ばからレベルシフトし、物価安定目標とおおむね整合的な2%台で推移している(第1-2-33図(1))。具体的に、企業がどの程度の水準の(5年後の)物価上昇率を予想しているのかについて、「イメージを持っていない」と回答した企業46を除いた回答ごとの分布をみると、コロナ禍前の2018年は、+1%程度が最も多く、次いで0%程度だったのに対し、2025年時点では+2%程度が最も多くなり、+3%程度も2018年時点よりも増加している(第1-2-33図(2))。このように企業の予想物価上昇率は、物価安定目標と整合的な2%前後が着実に定着しているとみられる。ここで、経済的なショック等に対する企業の予想物価上昇率の耐性を考えるため、過去の各種イベント時前後の状況を確認する47。2015年から2016年にかけては、中国など新興国経済の減速から、原油等資源価格の下落につながったこともあり、企業の中期的な予想物価上昇率は2014年の1%台半ばから1%程度に低下した。また、2020年のコロナ禍に際しては、国内外の経済活動が大幅に低下する下で、中期的な予想物価上昇率は、それまでの1%程度から0%台に低下することとなった(第1-2-33図(1))。こうした点を踏まえれば、大きな負の経済ショックが生じた場合には、企業の中期的な物価上昇率に対して下押し圧力が生じうると考えられる。今回の米国の関税措置が実体経済にどの程度の影響を及ぼすかには不確実性があるが、経済的な影響を乗り越え、中期的な予想物価上昇率が2%前後の水準で推移し続けるかどうかは、デフレに後戻りしない状況が確実なものと言えるかの一つの試金石であると言える。
次に、市場参加者の予想物価上昇率として、10年物の国債利回りと物価連動債利回りの差から計算されるブレーク・イーブン・インフレ率(BEI)をみると、2020年頃から上昇し、直近では1%台半ばとなっている。BEIについては、物価連動債の発行が少なく流動性が低いことから、流動性リスクプレミアムがあり、これらによりBEIが真の予想物価上昇率より低くなる傾向があるとされるが48、その点を考慮すれば、企業の予想物価上昇率とも近しい動きとなっていると考えられる。また、ESPフォーキャスト調査によるエコノミストの2~6年後の中期的な予想物価上昇率をみると、同様に2020年以降徐々に高まり、1%台後半となっている。ここで、ESPフォーキャスト調査によるエコノミストの1年後の短期の予想物価上昇率をみると、2024年半ば時点の2%超から、直近では1%台半ばに低下している(第1-2-33図(3))。この点、エコノミストにおいては、米国の関税措置の実体経済への影響を通じて、短期的に物価上昇率に下押し圧力がかかることを想定している可能性がある。ただし、中期的な予想物価上昇率には大きな変調はみられておらず、引き続き2%付近に向けて緩やかに上昇する傾向を維持しているものと考えられる。
最後に、家計の予想物価上昇率について確認する。家計部門の予想物価上昇率については、①内閣府「消費動向調査」における「あなたの世帯で日ごろよく購入する品物の価格について、1年後どの程度になると思いますか」という質問に対する回答から加重平均により算出するものと、②日本銀行「生活意識に関するアンケート調査」における「1年後の物価は現在と比べ何%程度変化すると思うか」あるいは「これから5年間で物価は現在と比べ毎年、平均何%程度変化すると思うか」という質問に対する具体的な数値による回答を集計したもの(中央値ないし平均値)がある。1年後の予想物価上昇率について比較すると、「消費動向調査」から算出された予想物価上昇率は、2023年初に6%超まで高まった後、食料品など身近な品目の物価上昇率が低下する下で、2024年初にかけては4%台半ばまで低下していた。しかし、それ以降、2024年後半からは、米や生鮮野菜の高騰をはじめ食料品全般の物価上昇率が高まり続ける中で、5%台後半まで上昇した。また、「生活意識に関するアンケート調査」の1年後の予想物価上昇率は、動きとしては「消費動向調査」のそれと近しいものの、上昇率の水準としては、中央値で10%程度と大きく高まった状況が続いている(第1-2-33図(4))。
また、家計による中期的な5年後の予想物価上昇率を「生活意識に関するアンケート調査」からみると、2010年代は、中央値2%程度で推移していたものが、今回の物価上昇局面においては、5%程度と水準がレベルシフトしている(前掲第1-2-33図(5)、(6))。1年後の予想物価上昇率と比較すると、5年後の予想物価上昇率の方が変動は小さい一方で、両者は相関係数が0.862と連動性が高い。1年後の予想物価上昇率が、同じ調査における「1年前に比べ現在の物価は何%程度変化したと思うか」という質問に対する回答(実感物価上昇率)との相関が高い(相関係数0.876)ことを踏まえると、家計の中期的な予想物価上昇率は、現在、家計が直面している(と感じている)物価上昇率に相当程度影響を受けていることとなる49。
ここで、予想物価上昇率に関して、2024年までの米国の状況をみると、家計の5~10年後の予想物価上昇率が3%強(中央値)であるのに対し、BEIは2%強と、家計の方が高く、過去期間におけるかい離の平均値は0.74%ポイント程度となっている。このように、家計の予想物価上昇率は高めとなる傾向があると考えられる。日本について、企業の予想物価上昇率をベンチマークとして考え、家計の予想物価上昇率のベンチマークからの上振れが米国並みと仮定すると、2021年半ば頃までは2%台、2023年以降は3%程度となる。この仮定に基づけば、近年においては、家計の予想物価上昇率としては3%前後が、企業の予想物価上昇率が推移している2%前後と整合的な水準と言えるが、直近の家計の予想(5%)は、食料品を中心とする実感物価上昇率の高さを背景に、明らかにこれよりも上振れしていると考えられる。
一方、過去を振り返ると、2008年9月のリーマンショック前には、実感物価上昇率、1年後・5年後予想物価上昇率がいずれも急速に高まっていたが、ショック後には、実感物価上昇率や1年後予想物価上昇率が0%に低下したのにつれて、5年後予想物価上昇率も5%から2%に低下した(前掲第1-2-33図(6))。このように、何らかの甚大な負の経済ショックが生じた場合、中期的な予想物価上昇率も大きく、場合によって物価安定目標と整合的な水準を超えて、低下する可能性も否定できない。この点を踏まえれば、2%の安定的な物価上昇率を実現・維持することにより、家計の中期的な物価上昇率をアンカーさせることが重要と言える。50
現実に2%の物価上昇率が継続的に実現すれば、各主体の予想物価上昇率もこれと整合的な水準でアンカーされることが期待される。予想物価上昇率がアンカーされることにより、企業は、販売価格の設定や売上計画を立てやすくなり、労使間の賃金交渉も円滑になるとともに、家計においても、将来の生活設計を立てやすくなるだろう。こうした予見可能性の高まりにより、家計や企業は、足元の支出に係る意思決定を効率化し、消費や投資の最大化を図ることが可能となる。大きな経済ショックが生じた際にも、市場参加者の中長期的な物価に関する予想がアンカーされているため、市場の不測の変動を回避することが可能となる。このように、予想物価上昇率が2%程度で安定的に推移し、また現実の物価上昇率が2%程度となるよう着実な金融政策運営が継続すれば、結果として安定的なマクロ経済環境の形成につながると考えられる51。
以上でみたように、物価の基調や背景について、賃金の上昇、企業の価格転嫁、物価上昇の広がり、予想物価上昇率を含め様々な指標の動向を踏まえると、総じて、企業の価格・賃金設定行動には変容がみられ、人件費のウェイトが高いサービスにおける物価上昇の広がりもみられるなど、我が国経済においては、賃金と物価の好循環が回り始め、デフレ脱却に向けた歩みは着実に進んできたものと考えられる。こうした状況の中、米国の関税措置が実体経済に与える影響については不確実性が大きいが、仮に、これが実体経済に対し大きな影響をもたらすような場合、あるいはそのような認識が各経済主体に広がるような場合、企業の価格・賃金設定行動がかつてのコストカット型に後戻りし、ようやく回り始めた賃金と物価の好循環に影響を及ぼさないか十分注意が必要である。こうしたリスクを乗り越えられるか否かは、デフレ脱却が確実なものとなるかの試金石と言え、今、日本経済は「賃上げを起点とした成長型経済」に移行できるかの分岐点にある。2%の安定的な物価上昇と、これを安定的に上回る賃金上昇の早期の実現・定着が極めて重要であり、物価上昇を上回る賃上げを起点として、国民の所得と経済全体の生産性を向上させるべく、中小・小規模事業者の賃上げを促進するため、適切な価格転嫁や生産性向上、経営基盤を強化する事業承継・M&Aを後押しするなど、あらゆる施策を総動員する必要がある。