第1章 マクロ経済の動向と課題 第2節
第2節 デフレに後戻りしない経済構造の構築
近年の我が国の物価動向を振り返ると、今回の物価上昇局面は、2021年から2022年にかけて、コロナ禍を経た世界的な需要回復やロシアのウクライナ侵略による資源価格の高騰を契機に始まった。円安の進行もあいまって、輸入物価の上昇を起点に、食料品等の国内物価への転嫁が進んだことにより、2023年1月のピーク時には、消費者物価(総合)の前年比上昇率は4.3%まで達した。その後、資源価格の落ち着きや、各種政策の効果に加え、食料品等の値上げの動きの一服により、輸入物価を起点としたコストプッシュ型の財の物価上昇は、一旦落ち着きをみせた。他方、賃金については、41年ぶりとなった物価上昇への対応、バブル期以来となる企業の人手不足感の高まり、さらには、官民連携による賃上げを拡大するための施策を実施するとともに、賃上げを粘り強く呼びかけてきたこともあって春季労使交渉において、2023年には30年ぶり、2024年には33年ぶりの高水準となる賃上げ率が実現した。こうした賃金上昇は、人件費の比率が高い分野を中心に、価格への転嫁を通じて、徐々にサービスの物価を押し上げる要因となり、賃金と物価の好循環が生まれつつある。過去四半世紀にわたる長年の課題であるデフレ40からの脱却に向け、これまでにない前向きな動きが出てきている。
政府は、2006年3月に内閣府が参議院予算委員会に提出した「デフレ脱却の定義と判断」において、「物価が持続的に下落する状況」を「デフレ」と定義しており、また、「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」を「デフレ脱却」と定義している41。この意味で、現在、我が国は明らかにデフレの状況にはないが、デフレから脱却しているか否かについては、物価の基調や背景を総合的に判断し、今後もデフレに「戻る見込みがない」ことを確認する必要がある。ここで、「デフレ脱却の定義と判断」において、物価の基調として消費者物価上昇率やGDPデフレーター上昇率等が、物価の背景の例示としてGDPギャップやユニット・レーバー・コスト(単位労働費用)の上昇率が示されていることから、これらの4つの指標が全てプラスになったのか否かのみに注目が集まることがある。しかしながら、過去、例えば2015年や2018年から2019年においては、これらの指標が全てプラスになった時期も存在した42。これらの時期における物価上昇の大宗はエネルギーや食料であり、2015年については、その後の原油価格の下落、2018~2019年については、その後のコロナ禍の影響もあり、消費者物価上昇率は再びマイナス圏に戻ることとなった。いずれも物価上昇は持続的なものではなかったと言える。したがって、デフレに後戻りする見込みがないかどうかを判断していくに当たっては、物価の基調に加え、幅広い指標を確認していく必要がある。具体的には、GDPデフレーターや単位労働費用の上昇率のみならず、我が国がデフレ状況に陥る前の1980年代から1990年代前半までの状況も踏まえ、賃金が持続的に上昇しているか、企業による人件費や仕入価格の販売価格への転嫁が進んでいるか、サービスを含め物価上昇に広がりがみられるか、家計や企業等は安定的な物価上昇を予想しているかなど、幅広い角度から総合的に経済・物価動向を確認することが必要である(内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2024a))。
本節では、2024年前半までを中心に、物価の動向を振り返るとともに、デフレ脱却に向けた現在地を確認するため、物価動向の背景として、特に、賃金上昇や価格転嫁、物価上昇の広がり、予想物価上昇率といった様々な指標やデータの状況を確認する。さらに、物価と賃金が共に上昇することがノルムとして確立していく中で、物価・賃金が動かないことを前提とした各種制度や慣習における課題について議論する。
1 2024年前半までの物価動向
(輸入物価は、契約通貨ベースでは横ばいも、円ベースで緩やかに上昇)
まず、財の物価について、川上の輸入物価の動向を確認する。最初に、国際商品価格を米ドルベースでみると、原油価格は、2023年末以降、中東情勢の緊迫化により、振れを伴いながら緩やかな上昇傾向にあるが、2022年2月のロシアによるウクライナ侵略以前の水準と同程度で推移している(第1-2-1図(1))。液化天然ガス(LNG)価格については、原油価格に連動する長期契約形態で調達しているものが多いことから、日本のLNG平均輸入価格は安定した水準で推移している43。食料価格のうち小麦については、主産地の一つであるロシアにおける天候不順により、2024年春以降、幾分上昇する局面もみられたが、ウクライナ侵略前の水準に抑制されている。他方、銅やアルミニウムといった非鉄金属の価格は、2024年初め以降、急速に上昇した。銅価格は、2023年末にパナマにおける主要な鉱山が閉山されるなど供給不安がくすぶる中で、AIやデータセンターなどでの堅調な需要、さらに世界経済の持ち直し期待も背景に、需給両面の要因で上昇し、高水準にある。
こうした中で、契約通貨ベースの輸入物価は、おおむね横ばい圏内で推移している(第1-2-1図(2))。一方、円ベースでみると、本章第1節でみたように、為替レートの円安が進行しており、輸入物価は緩やかに上昇している44。
(BtoBの財価格は輸入物価上昇の影響に留意)
輸入物価の上昇は、一般に、海外からの輸送期間に伴う若干の時間差を伴いつつ、財の国内企業間取引(BtoB)価格に反映される。国内企業物価をみると、2022年末頃にピークをうち、その後、おおむね横ばい圏内で推移してきたが、2024年春以降、緩やかな上昇傾向に転じている(第1-2-2図(1))。この間に、国内企業物価を基調として押し上げる要因となったのは、主に、国際市況を反映した銅などの非鉄金属価格であった45(第1-2-2図(2))。2024年5月には、年一回行われる再生可能エネルギー発電促進賦課金の改定の影響が前月比を0.4%ポイント程度押し上げたほか、7月にかけては電気・ガス代に係る激変緩和措置の終了が国内企業物価の押上げに寄与するが、8~10月分は電気・ガス料金が補助されることとなり、9月以降、一時的に国内企業物価の伸びは押し下げられることとなる46。いずれにしても、これらは政策・制度要因に伴う変動であり、これらを除いた基調として考えると、国内企業物価の上昇は緩やかなペースにあると言える。一方、円安を受けた足下の輸入価格(円ベース)の緩やかな上昇が、国内企業物価に反映されていくと考えられる点には留意が必要である。なお、為替の各種物価へのパススルーについては後述する。
次に、企業間(BtoB)のサービス取引価格をみると、2021年以前は、前年比上昇率でみて1%程度で推移していたが、2022年以降、取り扱う財価格の影響を大きく受けるリース・レンタルや、コロナ禍の落ち込みからのインバウンド需要の回復を受けた宿泊料等が主因となって、緩やかな上昇局面が続いていた(第1-2-2図(3)、(4))。これに加え、2023年春以降は、ソフトウェア開発等で賃金上昇を背景に価格が上昇するなど広がりがみられるようになり、前年比の上昇率は2%台に上昇した。さらに、2024年春には、33年ぶりとなる春季労使交渉での賃上げもあって、機械修理や建築設計、自動車貨物輸送など、より幅広い品目で、人件費の転嫁による価格上昇の動きがみられている。この点については、後段で改めて確認する。
(消費者物価上昇率は、ピーク時の4%超から縮小し、2%台が続く)
消費者物価(CPI)をみると、2023年1月に総合で4.3%と41年ぶりの水準となり、ピークを記録した後、2023年2月以降は、電気・ガスの激変緩和措置が押下げに寄与したほか、既往の原油等の資源価格の下落、さらに2023年秋以降、それまで生鮮食品を除く食料品等でみられてきた値上げの動きが一服したことから、前年比上昇率は縮小し、2023年11月以降は2%台で推移している(第1-2-3図)。2024年5月には、年一回の再生可能エネルギー発電促進賦課金47の改定の影響で、前年比上昇幅が0.5%ポイントほど拡大し、さらに6~7月には電気・ガスに係る激変緩和措置の暫時終了の影響が約0.25%ポイントずつ見込まれるが、上述のとおり、8月~10月分については、2024年夏の酷暑を乗り切るという目的から電気・ガス料金が補助されることとなり、CPI上昇率(コア)は、9月、10月は0.57%ポイントずつ、11月は0.35%ポイント押し下げられることとなる48。また、2022年1月より開始されているガソリン等燃料油価格に対する激変緩和措置は2024年末まで継続される。こうした政策・制度要因を除いて考えると、CPIの上昇は緩やかなペースにあると言える。物価の基調を、生鮮食品及びエネルギーを除く総合(コアコア)でみると、生鮮食品以外の食料品の上昇幅縮小を受けて、前年同月比で、2023年5月ピーク時の4.3%から2024年6月には2.2%まで縮小し、前月比では、ならしてみてプラス0.1%程度と緩やかな上昇ペースとなっている。
(財の消費者物価への為替変動の影響は、近年高まっている可能性)
ここで、CPIを財とサービスに分け、各種政策要因等の特殊要因49を除いた前年比上昇率の推移について、米欧と比較すると、財については、アメリカやユーロ圏と同様に、ピーク時点からは、上昇率が縮小傾向にある。ただし、アメリカではゼロ近傍、ユーロ圏で1%台の伸びとなっているのに対し、日本の場合は3%付近で推移している(第1-2-4図(1))。輸入物価が財のCPIに6か月程度先行性があることを踏まえて、両者の関係をみると50、輸入物価が2023年4月~2024年1月にかけて前年比で下落に転じていたことと対比すると、2023年秋以降の財のCPIの上昇率の縮小は過去と比べると緩やかなものとなっている。CPIの財(生鮮食品を除く。)の38%を占める食料品について、POSデータによる実際の購入価格をみると、前年比上昇率の緩やかな縮小傾向は続いているものの、2024年半ばには下げ止まりの兆しもみられる。ここで、食品主要195社に対する食品値上げ要因の調査によると、2023年と比べ、2024年は、エネルギーや原材料高といった要因を挙げる企業は減少している一方、物流費や包装・資材は回答割合がやや増加しており、それぞれ運輸業における人手不足を反映した人件費の上昇、円安・原材料費の上昇が影響している可能性がある(第1-2-5図)。価格上昇要因として、より顕著に多くの企業が挙げるようになっているのは、円安と人件費である。人件費がコストに占める割合は、一般に、財部門はサービス部門に比べて小さいが、33年ぶりとなる春季労使交渉での賃上げの流れもあり、人件費の価格への転嫁が進みつつあることが、かつてよりも財価格の上昇率の縮小を緩やかなものとする要因の一つになっていると考えられる。
次に、円安が、円ベースの輸入物価を通じて国内物価を押し上げるパススルーについて確認する。具体的には、VARモデルを用い、2000年~2019年までの期間と、近年の物価上昇局面を含む2000年~2024年までの2期間について、為替変動が、輸入物価を通じて、国内企業物価、財のCPI51に波及する状況を確認した(第1-2-6図)。結果をみると、為替レートの1標準偏差(前月比で2.2%程度に相当)の減価に対して、国内企業物価は、2019年までの期間では、8か月程度をかけて累積で0.1%強の押上げの影響があったのに対し、2024年までの期間では累積で0.2%弱の影響に拡大している。また、財のCPIについては、2019年までの期間では、10か月程度をかけて、累積で0.08%程度の押上げの影響であったのに対し、2024年までの期間では累積で0.12%程度と、円安の価格転嫁を通じた物価の押上げ効果が高まっている。
このように、為替変動は、2013年の円安局面などコロナ禍前までの過去と比べると、今回の物価上昇局面において、国内物価への影響が高まっており、企業において、円安による輸入仕入品のコスト増の転嫁に係る行動が変容している可能性が示唆される。かつては、輸入コストの増加に対して利潤の圧縮やコストカットで対応することにより、川下の価格への影響が小さかったが、近年では、こうした行動が変化し、コスト増が販売価格に転嫁されるようになっている可能性もあり、これが財のCPIが3%付近で推移していることに表れている。円安傾向が継続している中で、2023年以降、資源価格に起因する輸入物価の落ち着きがみられたにもかかわらず、財のCPIの上昇率が十分低下していない背景には、こうした企業の価格転嫁に係る行動変容も寄与していると考えられる。
一方、サービスのCPIについては、米欧では、財と対照的に、前年比上昇率が4~5%程度と高めの水準で推移している。日本は、徐々にサービス物価の伸び率が高まり、米欧の姿に近づきつつあると言えるが、米欧の伸びに比べると低く、サービス全体では2%弱程度の水準となっている。ただし、ゼロ近傍の伸び率で推移している公共サービスを除いた一般サービスでは、前年比で2%強の上昇となっており、より明確な上昇幅の拡大傾向が観察される(前掲第1-2-4図(2))。こうしたサービスへの物価上昇の広がりや、粘着的な公共サービス料金、家賃に関する考察は後段で詳述する。
(国内需要デフレーター上昇率は2%台で推移)
最後に、GDPデフレーターの動向を確認する(第1-2-7図)。GDPデフレーターは、国内で生産された付加価値の価格であり、輸入品は、国内で生産された付加価値を構成するものでなく、海外で生産された付加価値に由来するものであることから、輸入物価が上昇する局面では、GDPデフレーターを押し下げる方向に作用する。今回の物価上昇局面が始まった2021年以降をみると、2022年7-9月期にかけて、輸入物価の上昇幅が高まる中で、GDPデフレーターの押下げ幅も拡大した一方で、輸入物価の価格転嫁を通じた輸出物価や国内需要デフレーターの上昇幅の拡大が相殺し、結果としてGDPデフレーターの伸び率はゼロ近傍で推移した。他方、2022年10-12月期以降、2023年7-9月期にかけては、国内需要デフレーターの上昇率は3%台半ばから2%台半ばに縮小した一方、輸入物価の上昇幅が縮小し、下落へ転じる中で、GDPデフレーターの上昇率を押し上げる方向に寄与し、GDPデフレーター上昇率は1981年以来の高さとなる5%超まで達した。その後、2024年1-3月期にかけては、輸入物価の前年比下落幅が縮小し、上昇に転じる中で、GDPデフレーター上昇率は3%台半ばに縮小している。なお、輸入物価の下落に比して、国内需要デフレーター上昇率は、2%台で安定的に推移している。これは、上述のとおり、CPIや国内企業物価において、円安のパススルーが強まっている可能性があることに加え、直近では、賃上げに伴う人件費の上昇が前年比を押し上げる方向に作用するようになっていること等が背景にあると考えられる。具体的には、円安のパススルーは主に消費デフレーターに含まれる財価格や投資デフレーターに含まれる建設の資材価格等の上昇に、人件費の上昇は消費デフレーターに含まれるサービス価格や投資デフレーターに含まれる建設価格の上昇に反映されていると考えられる。
なお、GDPデフレーター上昇率の推移を長期的にみると、デフレ状況に陥る前の1980年代前半は、消費や投資等の国内需要デフレーターを主因におおむね1~2%程度で推移していた。また、輸入物価が上昇しGDPデフレーターの押下げ寄与がみられた1990年前後は、国内需要デフレーターの上昇がこれを上回り、GDPデフレーター上昇率としてはプラスで推移していた。近年のGDPデフレーターの姿は、こうした状況に近づいていると言える。他方、世界金融危機前の2000年代半ば以降の資源価格高騰や円安による輸入物価上昇の局面では、企業の価格転嫁が進まなかったことから国内需要デフレーターの動きは鈍く、GDPデフレーターは下落基調で推移していたが、こうした姿は、現在の姿とは大きく異なるものであることが分かる。
2 デフレ脱却に向けた現在地
次に、デフレ脱却に向けた物価動向の背景について、本節冒頭で述べたように、賃金上昇、価格転嫁、物価上昇の広がり、予想物価上昇率といった側面を中心に、各種の指標やデータを確認し、デフレ脱却に向けた現在地を分析する52。
(2023年は、人手不足への対応から、若年層を中心に高水準の賃上げが実現)
デフレ脱却への道筋を確認するに当たって、重要な指標の一つが賃金の上昇やその広がりである。我が国では、デフレ状況に陥って以降、長期にわたって物価と賃金の上昇率が共にマイナスないしゼロ近傍で推移する状態が続いてきた(第1-2-8図(1))。物価と賃金が共に動く、そして、適度な物価上昇の下で、名目賃金がこれを上回って推移するという、諸外国で共通にみられ(第1-2-8図(2))、我が国でもデフレに陥る以前には観察された状態を、いかに早期に継続的に実現していけるかが極めて重要となっている。以下では、まず、30年ぶりの高水準となった2023年の賃上げの実態を振り返るとともに、これを更に上回り、1991年以来、33年ぶりとなっている2024年の春季労使交渉での賃上げ状況の詳細や、賃上げの広がりを、賃上げ率の分布、年齢別賃金上昇率の状況、産業別・規模別の現状と課題といった観点等から確認する。
まず、春季労使交渉でのベースアップで2.12%と30年ぶりの高い賃上げ率となった2023年について、「令和5年賃金構造基本統計」により、実際の賃金への反映状況を、雇用者の属性別に詳細に確認する。まず、一般労働者(フルタイム労働者)のうち正社員の所定内給与について、性別・学歴別にみると、若年層については、特に高校卒の20代を中心に、男女ともに5%程度の高い伸びが実現していたことが分かる(第1-2-9図(1))。また、新規学卒者についても、男女・学歴を問わず、3%程度の賃金引上げが実施されていた。一方、40代を中心に中年層では、性別・学歴別を問わず低い伸びであり、特に大学卒についてはゼロ近傍と、年齢層によってばらつきがあったことが分かる。第2章第1節で述べるように、企業の人手不足感が強まる中で、転職希望が高く労働市場における流動性が相対的に高い若年層に対して、より待遇を改善することにより、労働者の確保・引留めを図っていた様子がうかがえる。他方、中年層の賃金上昇率の低さについては、転職への意欲が若年層ほど高くなく、企業側の賃金引上げの誘因が高くなかったことや、相対的に賃金水準が高い中年層の賃上げは、企業にとって優先度が低かったことが背景にあると考えられる。このほか、60代前半の高齢者は賃金上昇率が高めであるが、これは第3章第3節でも述べるように、定年引上げなど65歳までの雇用確保が浸透してきた中で、定年前後で賃金水準の低下がみられる60歳未満から60歳以降にかけての高齢雇用者の賃金引下げ幅を縮小させる企業が増えていること等によると考えられる。
次に、産業別に、フルタイム労働者の所定内給与の動向をみると、2023年は、男女とも、人手不足感の強い建設業等で高い賃上げ率となったほか、男性では運輸業等、女性では卸・小売業、宿泊・飲食サービス業で高い賃金上昇率となり、人手不足に対応して、企業が従業員の処遇を改善しようとしたことがうかがえる(第1-2-9図(2))。一方、教育、学習支援業や医療、福祉などの公定価格部門が含まれる業種では、性別を問わず、賃金はほぼ横ばいの動きであった。医療、福祉については、2024年は診療報酬や介護報酬改定等における加算措置により、賃上げが促進されることが期待されており、この点は後述する。
関連して、賃金に由来する物価上昇圧力を示す単位労働費用(ULC)の前年比について2023年度までの動向を確認すると、2022年は若干のプラスで推移した後、2023年はゼロ近傍で推移した(第1-2-9図(3))。雇用者一人当たりの名目雇用者報酬(賃金と雇主の社会保険料負担を含む。)の伸びが、雇用者一人当たりの実質労働生産性の伸びを傾向的に上回ってはいなかったということであり、労働コスト面からの物価上昇圧力は高まっていなかった。2024年1-3月期においては、ULCは前年比プラス2.9%と明確な上昇を示しているが、これは一人当たり名目賃金の上昇に加え、第1節でみたように、一部自動車メーカーの生産・出荷停止事案の影響など特殊要因により、結果として一人当たり実質労働生産性が大きく押し下げられたことが大きい。今後は、2024年の春季労使交渉において、33年ぶりとなる高い賃上げ率が実現した中で、雇用者数の約7割を占める中小企業などに賃上げが幅広く波及していくことにより、ULCの上昇率が安定的にプラスで推移していくことが期待される。
(2024年の春季労使交渉では、より多くの企業が、より高い賃上げを実現)
ここでは、2023年の賃上げ率を超え、1991年以来の33年ぶりの高さとなった2024年の春季労使交渉での賃上げの詳細な状況と、これに伴う賃金動向を確認する。春季労使交渉(最終(第7回)集計(7月3日))においては、定期昇給込みの賃上げ率は5.10%、ベースアップは3.56%となった(第1-2-10図(1))。第1-2-10図(2)のとおり、賃金改定は、2023年のパターンでは、6月半ばまでに約3分の2の企業で実際の賃金に反映され、秋口をかけて更に反映が進むことから、2024年度下半期に向けて、春季労使交渉でのベアが着実に所定内給与の伸びに反映されていくことが期待される。
次に、賃上げの広がりとして、賃上げ率の分布、年齢階級別の賃金動向、産業別・規模別の動向について確認していく。まず、春季労使交渉での賃上げ率について、カーネル関数を用いた分布の推定を行い、2024年の状況を2023年と比較すると、2023年は、定期昇給込みの賃上げ率の最頻値が3%付近、ベアが1%付近にみられていたのに対し、2024年は、それぞれ5%超、4%弱のレベルにまでシフトしており、また、分布は全体として右方向にシフトしている(第1-2-11図(1)(2))。このように、2024年春季労使交渉では、2023年に比べて、より多くの企業において、より高い賃上げを実施したことが確認できる。
次に、年齢階級別の賃金上昇率の状況について、2024年を対象とした「賃金構造基本統計」は現時点では利用できないことから、代替的に、給与計算代行サービスのビッグデータ53から確認すると、サンプルの偏りには留意する必要があるものの、以下の点が観察される(第1-2-11図(3))。第一に、20代や30代といった比較的若い年齢層では、2023年度よりも更に高い賃金上昇が実現しており、人材の確保・定着のための企業による若年層の待遇改善の動きが一層進んでいることが分かる54。第二に、2023年度において賃金の伸びがゼロ近傍であった年齢層においても、例えば40代では2%台の賃金上昇率となるなど、年齢面での賃金上昇の広がりも確認できる。第2章第1節でみるように、企業の人手不足感が若年層のみならず、中年層でも高まりつつあることを反映した動きとも考えられる。
(大企業の賃上げが先行しており、サプライチェーン全体での価格転嫁が重要)
2024年5月の「毎月勤労統計調査」のフルタイム労働者の所定内給与をみると、事業所規模5人以上の合計では、前年同月比2.6%と、遡及可能な1994年55以来の高い伸び率となった(第1-2-12図)。このうち、事業所規模5~29人と30人以上を比較すると、30人以上が3%超であるのに対し、5~29人では1%台半ばと、より規模の大きな事業所で賃上げが先行している。今後、春季労使交渉での賃上げが、春季労使交渉に参加していない中小企業を含め広く波及が進むことが期待されるが、経営側の集計における定昇込みの春季労使交渉での賃上げ率は、大企業の5.58%(経団連調査(大手企業244社対象))に対し、中小企業は3.62%(日本商工会議所調査(主に中小企業を中心とした1,979社対象))と一定のかい離がある。賃上げの裾野を広げる観点からも、引き続き、サプライチェーン全体での適正な価格転嫁の促進が重要と考えられる。
産業別の動向に関しては、2024年6月時点で得られる情報として、ここでは、「毎月勤労統計調査」のフルタイム労働者の所定内給与について、医療・福祉や教育・学習支援業とこれら以外の産業(以下、「民間産業」という。)に分けて、賃金の動きを比較する(第1-2-13図(1))。これによると、2023年から着実に賃金が上昇していた民間産業は、2024年4月以降伸びを高め、全体の賃金の伸びをけん引しているのに対し、医療・福祉等では横ばいの動きとなっている56。ただし、医療・福祉の分野については、2024年度の診療報酬・介護報酬・障害福祉サービス等報酬改定において、2024年度ベア2.5%、2025年度ベア2.0%に相当する処遇改善を実現するために必要な措置が2024年度当初予算で手当てされ57、2024年6月から実施することとされていることから、同業種における今後の賃上げ効果の発現が期待される。他方、教育分野について、学校教員の多くは地方公務員であり、地方公務員の給与改定は各都道府県等の人事委員会の勧告等を踏まえ、各地方公共団体の議会での議論を経て条例で定められ、概ね12月頃に給与改定の反映が行われる(例えば、プラス改定の場合は4月に遡るなどされる)。人事委員会を持つ都道府県・政令指定都市の2023年度における給料表の平均改定率は1.03%と、引上げ改定が行われた58。また、人事院による国家公務員の給与勧告率については、過去は、おおむね春季労使交渉でのベアと同程度であったが、2023年ではベアが2.12%に対して、勧告率は0.96%とかい離が広がっている(第1-2-13図(2))。幅広い業種における賃上げの広がりや地方経済の活性化という観点からも、公務員給与の改定も重要さを増していると言える。
(所定外給与は所定外労働時間の減少が下押し、特別給与は堅調な伸びが期待)
ここまで、フルタイム労働者の所定内給与に着目して、2024年の賃上げ動向や広がりを確認した。次に、フルタイム労働者の現金給与総額という観点から、所定外給与(残業代等)や特別給与(ボーナス等)の状況、さらにはパートタイム労働者の賃金動向も確認する。
まず、フルタイム労働者の所定外給与について、所定外労働時間(残業時間等)の動向を確認する。所定外労働時間は、2010年代終盤からコロナ禍前にかけて、働き方改革の推進の中で、緩やかな減少傾向にあった後、2020年にはコロナ禍の影響で大きく減少した。その後、2022年にかけて持ち直したが、2022年末頃以降、再び緩やかな減少傾向にある(第1-2-14図)。2022年末以降の動きを大きく規定しているのは製造業である。製造業の所定外労働時間は生産動向と密接に関係するため、2022年央から2023年後半にかけての世界的な半導体関連需要の減少の影響に加え、2023年末以降の一部自動車メーカーの生産停止事案もあって、弱い動きが続いてきた。直近では半導体関連は生産の持ち直し傾向がみられる一方で、2024年6月に生じた新たな自動車メーカーの認証不正に伴う生産停止の影響には注意が必要である。また、2024年4月からは、建設業や運輸業等において、「時間外労働時間の罰則付き上限規制」が適用開始されており、これらの産業においては2024年初頃以降、所定外労働時間の減少幅が拡大しており、規制適用開始の影響がみられ始めている点に留意が必要である。
特別給与のうち賞与については、所定内給与と支給月数により決定されることから、支給月数の動向が重要となる。この点、連合の最終集計によれば、夏季賞与の平均支給月数は、2023年の2.34か月から、2024年は2.52か月に増加している(第1-2-15図(1))。また、冬季を含む通年でみても、4.87か月から5.09か月に増加している。また、東証プライム上場企業に限ってみると、夏季賞与の支給金額は前年比4.6%と、2015年から2019年の平均の伸び率(1.6%)を大きく上回るなど、好調な企業収益を反映して、現時点では2024年の賞与は、堅調さが見込まれている(第1-2-15図(2))。
(パート時給は堅調に上昇する中、就業意欲を後押しする対策が引き続き重要)
次に、パートタイム労働者の賃金動向を確認する。人手不足感の高まりにより、労働需給が引き締まる中、パートタイム労働者の時給は、過去2年における最低賃金の高い引上げもあって、2024年5月時点では、前年同月比で3%台半ば、金額で1,300円台に達している(第1-2-16図)。また、ビッグデータで確認したパート労働者の募集賃金も着実に上昇傾向が続いている。他方、総実労働時間については、緩やかな減少傾向が続いている。結果として、時給と総実労働時間の積である現金給与総額は、時給の伸びに対して抑制されている。この背景には、主に二つの要因があると考えられる。
第一は、制度的な要因であり、いわゆる「年収の壁」による就業調整の影響である。この点は、本節後段や第3章第3節で再論するが、内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2024b)における一定の仮定の下での試算によると、例えば、妻が29歳で第一子の出産を機に退職し、第二子の6歳時に38歳でパートタイム労働者として再就職する際、年収100万円で年収の壁を超えないよう働く場合に対し、年収150万円で年収の壁を超えて働く場合は、夫が企業から受け取る配偶者手当の減少はあるものの、給与所得や将来の年金所得の増加が大きく上回ることから、生涯可処分所得で1,200万円程度増加することが示されている。こうした認識が広く社会に共有されるとともに、2023年10月より開始された「年収の壁・支援強化パッケージ」の着実な推進や、被用者保険の適用拡大等の制度の見直し等により、労働者の就業意欲を後押しするような取組を進めることが重要である。
第二は、統計的な要因である。「毎月勤労統計調査」は事業所統計であり、常用雇用者数(フルタイム労働者とパート労働者の計)は、人ベースの数でなく仕事ベースの数となる。例えば、ある一人のフルタイム労働者が、副業でパートタイム労働者として別の事業所でも就業する場合、仕事ベースの常用雇用者数としては「二人」としてカウントされる。このため、「毎月勤労統計調査」の「一人当たり労働時間」や「一人当たり賃金」もあくまで「仕事当たり」の概念となる。ここで、副業・兼業が増加する局面において、パートタイムの副業の労働時間が、パートタイム労働者の平均的な労働時間より短ければ、仕事当たりのパートタイム労働者の平均労働時間が減少する59。よって、労働者一人一人の生活水準や購買力を考える上では、本来、副業分を含む人ベースでの一人当たりの賃金を確認することが重要であるが、こうした統計情報に制約がある中では、仕事ベースの「毎月勤労統計調査」において、パートタイム労働者の賃金について、現金給与総額とともに、時間当たり賃金単価である時給も併せて確認することが重要と言える。
(購買力ベースのパート時給の伸びはプラス、一般労働者の月給も下落幅縮小)
最後に、名目賃金を消費者物価で除した実質的な購買力ベースの賃金について確認する。前掲第1-1-10図(2)のとおり、諸外国では、2023年秋以降、前年比プラスに転じているのに対し、我が国については、マイナス幅は縮小傾向にあるものの、名目賃金上昇率が物価上昇率に追いついていない中で、2年以上にわたって前年比で減少が続いている。
ここで、分子の名目賃金について、就業形態計でみる場合、「毎月勤労統計調査」上は、パートタイム労働者比率の増加傾向が続いていることから、現金給与総額の水準が低いパートタイム労働者の比率が高まることによる平均賃金の押下げ効果が影響する(第1-2-17図(1))。また、上述のとおり、事業所統計である「毎月勤労統計調査」におけるパートタイム労働者の比率は、人数ベースではなく仕事数ベースであることに注意が必要である。人ベースの雇用者数の統計である「労働力調査」により、<1>パート・アルバイトと呼称される雇用者数や、<2>週労働時間が35時間未満の雇用者数がそれぞれ雇用者数全体に占める割合と、<3>仕事ベースの「毎月勤労統計調査」のパートタイム労働者比率を比較すると、いずれも長期的に上昇傾向にあった点は共通しているが、<1><2>の人ベースの比率は、近年、頭打ちになっている(第1-2-17図(3))。これは、副業・兼業の促進により、仕事数ベースの<3>では、人ベースの<1><2>と比べて、比率が上昇しやすいという特徴が表れている可能性がある。また、パートタイム労働者の現金給与総額についても、既述のとおり、仕事数ベースのデータであることに伴い、労働時間数と現金給与総額が低めに出やすいという構造もある。こうした点を踏まえれば、名目賃金や購買力ベースの賃金の評価においては、フルタイム労働者とパートタイム労働者を区分して捉えるとともに、時給ベース・月給ベースの双方から確認することも有益であると言える。
具体的に、ここでは、就業形態別に、賃金の名目値を、消費者物価指数(総合)で除した実質的な購買力ベースの賃金を確認する。まず、5人以上事業所について、パートタイム労働者の時給をみると、2023年半ば以降、前年比がプラスに転じ、1%弱から1%程度の伸びで推移している(第1-2-18図)。また、フルタイム労働者については、月給(現金給与総額)ベースで、依然、前年比でマイナスが続いているが、マイナス幅は縮小傾向にある。また、2024年の春季労使交渉を反映して賃上げが先行している30人以上事業所に絞ってみると、フルタイム労働者の前年比の伸びの持ち直しはより明確であり、振れの大きい特別給与を除く定期給与でみると、2024年5月には26か月ぶりにプラスに転じていることが分かる。
今後は、消費者物価上昇率の今後の動向にもよるが60、パートタイム労働者の購買力ベースの時給賃金の伸びについては、募集賃金の上昇傾向が続いていることを踏まえれば、労働需給の引き締まりの中で引き続き前年比プラス圏内を維持していくものと期待される。また、フルタイム労働者の購買力ベースの月給賃金についても、2024年春季労使交渉での賃上げの効果が広がっていく中で、前年比のマイナス幅の縮小傾向が続き、2024年内には前年比プラスに転換することが期待される。ただし、円安が輸入物価を通じて消費者物価上昇率を押し上げ、購買力ベースの賃金を下押しするリスクには十分注意が必要である。重要なことは、名目賃金の伸びが、物価上昇を上回るという流れを、2025年以降も着実なものとしていくことである。その観点では、既に述べた中小企業の賃上げを後押しするような労務費の円滑な価格転嫁を進めるとともに、省力化投資をはじめとする国内設備投資、リ・スキリング支援をはじめとする三位一体の労働市場改革を着実に推進し、経済全体の労働生産性を引き上げていくことが重要となる。この点に関しては、第2章で議論したい。
コラム1-3 一人当たり名目賃金の構成に関する国際比較
物価上昇を上回る名目賃金上昇率が持続的に実現していくためには、最低限、雇用者の生活水準を維持する観点から、先行き想定される消費者物価上昇率並みの賃上げを実現することが必要である。これに加えて、物価上昇を上回る名目賃金上昇を実現していくためには、雇用者の生活水準が継続的に上昇することが必要であり、これは、労働生産性が向上し、その成果が賃金に反映されるということを意味する。こうした観点から、主要先進国における国民経済計算ベースの雇用者一人当たりの名目賃金の推移を、比較可能な2000年以降の期間で、物価、一人当たり労働生産性、労働分配率に分解する(コラム1-3図<1>~<6>)。各国によって姿は異なる面もあるが、コロナ禍前までの動きとしてある程度共通して言えるのは、日本とイタリア以外の主要先進国では、一人当たり名目賃金が、物価の上昇と一人当たり労働生産性を主因に上昇する傾向にあったという点である。これに対し、我が国においては、労働生産性の上昇を、物価の下落と労働分配率の低下が上回り、一人当たり名目賃金は2000年の水準を下回る水準で推移してきた。しかし、我が国においても、デフレ状況に陥る前の1980年代初頭から1990年代初頭にかけては、労働分配率の低下による押下げ要因もみられたが、多くの主要先進国と同様に、物価と一人当たり労働生産性の伸びにけん引されて、一人当たり名目賃金が高まっていたことが確認できる(コラム1-3図<7>)。物価が動き出した中で、我が国においても、物価上昇と一人当たり名目賃金の上昇が共にみられる姿が定着していくことが期待される。さらに、省力化投資を含む有形・無形の国内投資の拡大を通じて、労働生産性の継続的な引上げを図り物価上昇に負けない持続的な賃上げを実現していくことが重要である。
(仕入価格の販売価格への転嫁は、デフレに陥る以前の状態に回帰しつつある)
次に、企業の価格転嫁について、仕入価格(原材料)と人件費(賃金)に分けて考察する。
まず、仕入価格の販売価格への転嫁については、財の企業間取引価格やCPIに対する為替レートのパススルーの項でも論じたように、今回の物価上昇局面においては、政策努力もあり、輸入コストや仕入コストの上昇を、より販売価格に転嫁させる企業行動が定着しつつあると考えられる。こうした点について、まず日銀短観から、販売価格判断DIと仕入価格判断DI(販売価格や仕入価格が「上昇」と判断した企業の割合から、販売価格や仕入価格が「下落」と判断した企業の割合を差し引いたDI)の長期的な推移を確認する(第1-2-19図)。2000年代後半の世界金融危機直前の時期においては、資源価格の高騰等から仕入価格判断DIが高まった一方、販売価格判断DIの上昇は限定的であった。これに対し、今回の物価上昇局面では、我が国がデフレ状況に陥る以前の1980年代と同様に、仕入価格の上昇に伴い、販売価格を引き上げており、仕入価格の販売価格への転嫁が積極化した状況がみてとれる。また、2023年以降、資源価格の落ち着きもあり、仕入価格判断DI、販売価格判断DIが共に緩やかに低下していたが、2024年6月調査では、円安の進行もあって、仕入価格判断DIが高まるのと同時に、販売価格判断DIも高まっている。以上の状況は、大企業・中小企業に共通してみられており、企業規模を問わず、原材料価格の販売価格への転嫁行動が変容していると考えられる。
次に、素材系製造業、加工系製造業、非製造業といった業種別に、日銀短観における販売価格判断DIを縦軸、仕入価格判断DIを横軸にとった散布図について、<1>我が国がデフレ状況に陥る以前の1980年代~1990年代半ば、<2>デフレ状況に陥って以降の1990年代後半~2010年代初頭、<3>デフレではない期間からコロナ禍前までの2013年~2019年、<4>コロナ禍以降の2020年以降に分けて描くと、以下のような特徴がみられる(第1-2-20図)。第一に、素材系製造業については、販売価格判断DIの仕入価格判断DIに対する傾きは、いずれの期間でも互いに大きくは異ならない一方、<2>の期間では、両者の関係を示す傾向線が下方にシフトした後、<4>の期間にかけては切片が上方にシフトし、<1>の期間とおおむね同様の関係性に回帰している。第二に、加工系製造業については、<2>の期間では、販売価格判断DIの仕入価格判断DIに対する傾きがフラット化するとともに、傾向線が下方シフトした一方、<3>の期間では上方シフトし、さらに<4>の期間にかけては、傾きが<1>の期間の関係に回帰している。第三に、非製造業については、加工系製造業と同様、<2>の期間に切片と傾きが共に低下した後、<4>の期間にかけては、切片・傾きともに上昇し、<1>の期間の関係性に近づいている。こうした点からは、(1)デフレに陥った期間においては、いずれの業種でも切片が低下しており、物価が動かないというデフレ心理の下で、全体として販売価格を引き上げる性向が乏しくなったと言える。また、(2)素材系製造業は、デフレ期間においても、仕入価格の上昇に対しては、デフレに陥る前と同様に、販売価格への転嫁を行う動きがみられたが、加工系製造業や非製造業では、厳しい競争環境下において、仕入価格の上昇に対して、販売価格への転嫁の程度を抑制したとみられる。さらに、(3)コロナ禍を経た今回の物価上昇局面では、製造業については、販売価格の引上げに対する企業の性向、仕入価格から販売価格への転嫁について、デフレに陥る以前の状態に回帰し、非製造業においても、完全に回帰したとは言えないものの、デフレ以前の転嫁行動に戻りつつあると言える。
(サービス物価で、賃金上昇を販売価格に転嫁させる動きが出始めている)
次に、人件費の転嫁について確認する。まず、CPIのサービス物価と民間サービス部門の賃金を比較すると、2022年より前は、双方ともにおおむね横ばいであり、物価と賃金ともに伸びない状況であったのに対し、2023年頃以降は、サービス物価とサービス部門賃金が、緩やかなペースではあるが、ともに上昇傾向に転じていることが分かる(第1-2-21図)。アメリカのような顕著な上昇傾向にはないものの、サービス部門全体として、人件費が販売価格に転嫁されつつある様子がうかがえる。
次に、BtoBのサービス価格(企業向けサービス価格指数)とBtoCのCPIのサービス価格それぞれについて、費用に占める人件費比率の高い品目、低い品目における物価動向をみたものが第1-2-22図(1)である。これによると、BtoBのサービス物価については、リース・レンタルや宿泊など低人件費率の品目の価格が先行して上昇率が拡大したが、高人件費率の品目の価格についても2022年後半から伸びを高め、両者ともに2%台半ば程度で推移している。高人件費比率の品目については、情報・通信におけるソフトウェア開発、運輸・郵便における陸上貨物輸送、諸サービスにおける労働者派遣サービス等の幅広い品目で賃上げの動きを販売価格に転嫁する動きが広がっているとみられる。
BtoCのCPIサービスについても、高人件費率の品目の価格が徐々に伸びを高めつつあり、直近では2%台で推移していることが分かる。CPIにおいては、補習教育や講習料、運送料といった品目が上昇率の拡大に寄与しており、BtoB価格と同様、幅広い品目で、賃金上昇を販売価格に転嫁させる動きが出てきているとみられる。一方、賃金上昇を販売価格に転嫁させる動きが出てきている点は、相対的に低人件費率の品目についてもある程度当てはまると考えられる。例えば、宿泊・飲食サービスについて、日銀短観の販売価格判断DIの2021年以降の動きを、原価要因(仕入価格判断DI)、需要要因(国内需給判断 DI)、供給要因(雇用人員判断 DI、生産・設備判断 DI)に分解すると、販売価格の引上げ判断に対して、当初は原価要因が影響する程度が大きかったが、その後、2023年にかけて、需要要因、供給要因の寄与が共に高まってきていることが分かる(第1-2-22図(2))。需要要因は、宿泊におけるインバウンド需要等の回復の影響等が考えられるが、供給要因のうち雇用人員判断DIについては、労働需要の引き締まりの中で人件費が上昇し、これがサービス販売価格の引上げに影響していることを示していると言える。
ただし、中小企業における人件費の販売価格への転嫁にはばらつきがみられる。中小企業において、業種別に、労務費の価格転嫁を実施した企業の割合をみると、建設業や製造業では4割~5割と相対的に高くなっている一方、サービス業については25%程度と最も低くなっている(第1-2-23図)。原材料と労務費について、それぞれコストに占める割合と、直近6か月における価格転嫁率の関係をみると、原材料費については、コストに占めるシェアが高いほど、これをより販売価格に転嫁できており、仕入価格の転嫁が中小企業でも進んでいることが分かるが、労務費については、コストに占める割合と価格転嫁率の関係が弱く、引き続き、サプライチェーン全体での労務費を含む円滑な価格転嫁が課題であり、これを促進する取組が極めて重要と言える。
(サービス分野において物価上昇の広がりがみられるようになっている)
次に、物価上昇の広がりについて確認してみよう。まず、BtoBの企業間取引価格と、BtoCの消費者物価について、財とサービスそれぞれの物価上昇率の分布の経年変化を確認する(第1-2-24図)。まず、BtoBについてみると、財(国内企業物価指数)は、コロナ禍前の2018年に比べると、物価上昇率ゼロ%程度における分布の山が低下し、プラスの領域に分布が拡大していることが分かる。また、サービス(企業向けサービス価格指数)については、コロナ禍前においては、物価上昇率ゼロ近傍に多くの品目が集積していたが、2024年にかけて、ゼロ%近傍の山が崩れ、全体として分布がプラス方向にシフトしていることが分かる。物価が動かない状況から、幅広いサービス品目にわたって物価が上昇する姿に変化してきている様子がみてとれる。
BtoCのCPIの物価上昇率の分布をみると、財については、コロナ禍前の2018年には、ゼロ%近傍に多くの品目が集積していたのに対し、2024年時点では、この山が大きく崩れ、幅広い品目がプラス領域に含まれており、物価上昇の広がりがみられるようになっている61。サービスについては、2024年現在では、2018年に比べ、上昇率ゼロの山の高さが低下し、プラス領域により多くの品目が位置するようになっており、上述のように、賃金上昇の価格転嫁の動きもあって、BtoCのサービスにおいても、物価上昇の広がりが表れ始めていると評価できる。一方、デフレに陥る前の1984年においては、プラス2%付近に山があったことと比べると、2024年現在も、依然、分布の山はゼロ%近傍にある。ここには、粘着性が高いとされる民営家賃のほか、通勤・通学定期、大学授業料など公共サービス料金に含まれる品目が多い。公共サービスの物価上昇率が、全体としてゼロ近傍で推移している点は、米欧との比較においても確認したとおりであり、こうした粘着性の高いサービス品目の特性については後段で詳細に議論する。
また、CPIについて、物価上昇の広がりを、物価上昇・下落品目数の割合から確認すると、上昇している品目の割合は、2000年代半ばから2019年頃までは2割から6割で推移していたが、2024年時点では、8割弱と高い水準で安定している(第1-2-25図)。上昇品目の割合から下落品目の割合を差し引いたDIも、2000年代半ばから2020年頃まではマイナス40からプラス40程度の範囲内で推移していたが、2024年時点では、足下では6割強となっている。このように、いずれの指標でみても、デフレに陥る前の1980年代(1984年)と近しい姿となっており、デフレ状況に陥る以前の姿に近い物価上昇の広がりが定着しつつあることが分かる。
(各予想物価上昇率はばらつきがあるが以前より高い水準に安定化の傾向)
最後に、予想物価上昇率について、企業、家計、マーケットのそれぞれの主体別に確認しよう(第1-2-26図)。まず、企業部門について、日銀短観の物価見通しをみると、2014年の統計開始以降、2%に達したことはなかったが、今回の物価上昇局面で2%台にレベルシフトしている。1年後の短期的な物価見通しは、実際のCPI上昇率の高まりを受けて、一時プラス3%近くまで上昇したが、その後、緩やかに上昇幅が縮小し、直近では2%台半ばで推移しているほか、3年後、5年後といった中期の物価見通しは、2年程度にわたり2%程度の安定的な水準で推移し続けている。企業の予想物価上昇率は、現在、物価安定目標の2%程度に安定化されつつあるとみてよいだろう。
家計部門について、内閣府「消費動向調査」により、日頃よく購入する品目に係る1年後の予想物価上昇率について、5%以上の高い物価上昇を予想する家計の割合が2021年3月の約12%から2023年2月には約67%まで増加したが、食料品等の値上げの動きが一服する中で、2024年2月にかけては、その割合が約38%に低下し、逆に、より安定的な2%から5%未満を予想する家計の割合が約38%まで増加していた。一方、2024年春以降には、再び5%以上を予想する家計の割合が上昇傾向にあり、2024年6月には5%以上を予想する割合は約47%、2%から5%未満を予想する割合は約35%となっている。これは、食料品等の身近な商品の価格上昇が続いていることや、2024年初来円安が進んでいること、さらにはこれらに関する報道等が影響していると考えられる。こうした回答割合を基に、一定の仮定を置き、予想物価上昇率の加重平均値を算出すると、CPI上昇率のピークである2023年初に4%超まで上昇した後、徐々に上昇率が縮小し、3%台前半まで低下したが、2024年春以降は、やや反転し、3%台半ばで推移している。
次に、日本銀行「生活意識に関するアンケート調査」62における予想物価上昇率をみると、1年後の平均値については、「消費動向調査」から算出した加重平均値より上振れる傾向があるとみられ、今回物価上昇局面ではその差がより顕著となり、直近でも9%台で推移している。一方、1年後の中央値は、一頃は10%まで上昇したが、直近では5%程度となっている。これに対し、5年後の予想物価上昇率は、平均値では7%台、中央値では5%台となっている。ここで、1年後の予想物価上昇率の平均値は、世界金融危機時に現実のCPIが下落に転じた際も、2%程度のプラスであったのに対し、中央値はゼロ近傍であったことを考えると、平均値は、恒常的に高い物価上昇率を回答する世帯の影響をより受けやすいと考えられ、中央値をみることも重要である。その上で、5年後の中期の中央値をみると、企業部門と同様、今回の物価上昇局面に入って以降、家計の予想物価上昇率は、過去に比べて高い水準にレベルシフトしていると考えられる。ここで、中央値でも5%程度と高い水準にある点には留意が必要であるが、2021年以前は、企業の予想物価上昇率よりも相応に高い2%程度でほぼ推移していたことを踏まえると、統計上高い数値となりやすい傾向があるとみられる。
また、マーケット参加者からみた予想物価上昇率として、10年物の国債利回りと物価連動債利回りの差から計算されるブレーク・イーブン・インフレ率(BEI)をみると、2020年以降上昇傾向にあり、1%台半ばに達している63。一方、民間エコノミストの予想物価上昇率について、2~6年後の中期的な予想の動きをみると、第二次安倍内閣発足後は、2014年末にかけて1%台半ばを上回る水準に上昇した。その後は、予想物価上昇率は緩やかに低下し、コロナ禍の期間には0%台に低下したが、今回物価上昇局面においては徐々に上昇し、再び1%台半ばを超える水準となっている。
このように、予想物価上昇率は、各主体によってばらつきがあり、一定のバイアスもあるが、全体としてみれば、中期的な予想物価上昇率は、過去よりも高い水準にそれぞれ安定化しつつあり、特に企業やマーケット参加者においては2%程度に安定化しつつあると言える。日本銀行のアンケート調査によれば、家計・企業ともに、自身の暮らしや事業活動において好ましい状況として、「物価と収入(賃金)がともに緩やかに上昇する状態」と「物価と収入(賃金)がともにほとんど変動しない状態」のどちらが望ましいかという問に対して、前者を望ましいとする割合が、それぞれ約5割、約7割と高い状態にある。本調査結果は、過去との比較ができないことや、賃金・物価のいずれかが上昇した場合に関する選択肢がない等の留意点はあるが、家計・企業部門ともに、物価と賃金の好循環に関する認識が広がりつつある可能性を示唆するものである。こうした認識の下、各主体の予想物価上昇率が、2%前後に収れんし、定着していくことが期待される。
今後も、現実に2%程度の物価上昇率が継続的に実現すれば、各主体の予想物価上昇率も2%程度でアンカーされると考えられる。予想物価上昇率が2%程度に安定化することにより、企業は、販売価格の設定や売上計画を立てやすくなり、労使間の賃金交渉も円滑になる。家計においても、将来の生活設計を立てやすくなる。こうした予見可能性の高まりにより、家計や企業は、足下の支出に係る意思決定を効率化することができ、消費や投資の最大化を図ることが可能となる。大きな経済ショックが生じた際にも、市場参加者の中長期的な物価に関する予想がアンカーされているため、市場の不測の変動を回避することが可能となる。このように、予想物価上昇率が2%程度で安定的に推移し、また現実の物価上昇率が2%程度となるよう着実な金融政策運営が継続すれば、結果として安定的なマクロ経済環境の形成につながると考えられる64。
以上、デフレ脱却に向けた物価動向の背景に関する状況をまとめると、<1>賃金上昇については、33年ぶりの高水準となった春季労使交渉での賃上げとなる中で、より多くの企業で高い賃上げ率が実現し、年齢層別でみても賃上げの広がりが確認されつつある一方、引き続き、中小企業や公的分野などへの波及は途上にある。<2>価格転嫁について、原材料の販売価格への転嫁は円滑・着実に進み、サービス分野において賃金と物価が共に上昇する局面に入りつつあるが、中小企業の労務費の販売価格への価格転嫁については引き続き課題である。<3>物価上昇の広がりは、我が国がデフレ状況に陥る前の1980年代の姿に近づきつつある。ただし、家賃や公共料金など、物価の動きが鈍いサービス分野も散見される。<4>予想物価上昇率については、経済主体によってばらつきやバイアスはあるが、中期的な予想物価上昇率は、過去よりも高い水準に安定化しつつあると言える。このように、一部に留意すべき点はあるものの65、デフレ脱却に向けた前向きな動きは継続していると考えられる。
コラム1-4 日本企業のマークアップ率の動向
内閣府(2023)や内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2024a)においては、今後の賃上げの持続性を考えていく上で、企業の価格設定力を表すマークアップ率(限界費用に対する販売価格の比率)が適切な水準で推移することが重要であるとされている。この20年程度でマークアップ率を高めたアメリカ企業と異なり、日本企業のマークアップ率は1.0倍程度と低い水準にあるだけでなく、この20年間で横ばい、ないしは小幅に低下している。
この点に関して、最新の研究成果の一つである高田(2024)では、日米におけるマークアップ率の変動を要因分解し、アメリカでは個々の企業のマークアップ率の変動要因(within 要因)ではなく、企業間の構成要因(reallocation 要因)によりマークアップ率が上昇しており、もともとマークアップ率の高い企業へのシェア集中が進んだ一方、日本企業では、主に within 要因によりマークアップ率が停滞し、reallocation 要因は僅かにとどまっていると指摘している(コラム1-4図)。また、企業ごとに分析すると、アメリカ企業では、無形資産と生産性及びマークアップ率との間に、業種横断的に有意に強い正の関係がみられたが、日本企業では、アメリカ企業ほど無形資産投資が生産性向上につながっておらず、それゆえアメリカ企業ほどマークアップの確保につながっていない可能性が示唆されている。
このように、日米間のマークアップ率の差には、米国のITプラットフォーマーに代表される価格設定力の強い企業が日本に存在しないことに加え、日本では研究開発などの無形資産投資が相対的に不足し、イノベーションが起こらず、収益増に結び付けてこられなかったことがあると考えられる。マークアップ率の過度な上昇は、一部企業による市場の寡占化にもつながり、経済全体の厚生を悪化させる可能性があることから、一概に望ましいというわけではないが、適正なマークアップを確保することは、賃上げの原資はもちろん、将来のイノベーションを生み出す研究開発等の設備投資の原資となり、それが将来の収益増につながり、さらなる賃上げを生み出すという好循環を生み出し得る。日本企業は、長引くデフレによるコストカット型経済の下、投資や賃上げをこれまで抑制させてきたが、今後は適正なマークアップを確保し、投資や賃上げの原資とすることで、持続的成長を実現していくことが期待される。
3 2%の物価上昇を前提とした各種制度の在り方
ここまで、最近の我が国における物価動向とその背景について確認し、物価と賃金の好循環に向けた動きが前進していることをみてきたが、今後、物価と賃金が共に安定的に上昇するという認識がノルムとして定着していく中にあっては、各種の制度や社会慣習についても、物価・賃金が上昇することを前提にしたものに移行していくことが重要である。ここでは、サービスの物価上昇率が緩やかに高まる中でも、ゼロ%近傍の伸びにとどまっている公共サービスや家賃の物価動向と背景を確認し、今後の展望と課題を議論する。また、近年引上げが続き、パートタイム労働者の時給の底上げにも寄与してきた最低賃金について確認する。さらに、長年、物価と賃金が動かない状態が常態化してきた中で税や社会保障制度において、課税最低限や年収の壁といった名目水準が固定化されてきた点について確認し、その影響や政策的な含意を検討する。
(公共サービスと家賃は、今回の物価上昇局面でも強い粘着性がみられる)
本節の第1項で確認したように、我が国においても、サービス物価は、人件費比率の高い品目で徐々に上昇率を高め、米欧の姿に近づいていると言えるが、こうした中にあっても、公共サービスと家賃(民営家賃のほか持家の帰属家賃を含む)はゼロ%近傍の物価上昇率が続き、極めて強い粘着性が示されている(第1-2-27図)。公共サービスや家賃については、我が国がデフレ状況に陥る前は、1980年代を中心に2%程度ないし、これを超えて上昇していたが、デフレ状況に陥った後の1990年代末以降は、上昇率が平均的にゼロ近傍で推移してきた。他のサービス品目の物価上昇率が上昇している近年においても、公共サービスや家賃はゼロ近傍の伸びとなっており、他のサービスとのかい離が広がっている。
(公共サービスは、届出制以外の分野では特に粘着性が高い)
まず、公共サービスについて確認する。公共サービスは、公共料金のうち財に含まれる電気代、ガス代、水道料等を除いたものである。消費者物価指数において、40品目が公共サービスに当たり、消費者物価指数の12%のウェイト(サービスに対しては約25%)を占めている(第1-2-28図)。こうした公共サービス料金については、<1>診療代や介護料など、価格を「国会や政府が決定するもの」、<2>鉄道運賃やタクシー代など、価格を「政府が認可・上限認可するもの」、<3>固定電話通信料や国内航空運賃など、その価格を「政府に届け出るもの」、<4>公立学校授業料など、価格を「地方公共団体が決定するもの」と大きく4つに分類される。それぞれの分類に沿って、消費者物価指数における動きを確認すると、この中では、手続上、相対的に価格改定が容易と思われる<3>(届け出)に属する品目の物価は、比較的顕著に上昇している。また、<2>(認可)に属する品目は、2021年4月の自動車保険料の引下げや2022年10月の火災保険料等の引上げ、2023年10月のNHK放送受信料の引下げの影響を受けつつ、2020年より水準を高めながらも、ほぼ横ばい圏内で推移している。さらに、国会や地方公共団体などにおいて意思決定を必要とする<1>と<4>に属するサービス品目は、全体として2020年を下回る水準で横ばいないし下落傾向となっていることが分かる。このように、政府による料金改定への関与が大きい品目の方が、価格の粘着性が強い傾向が確認される。
ここで、公共サービスの物価動向について、アメリカやユーロ圏と比較すると、それぞれの国・地域における公共料金の定義・範囲が異なることから、厳密な比較は難しいものの、米欧においては、コロナ禍で一時的に下落に転じたことを除くと、前年比で2%ないしそれ以上の上昇傾向にあるのに対し、日本のみ横ばい圏内で推移していることが分かる(第1-2-29図(1))。欧米において、公共サービスの物価が粘着的でなく伸縮的となっている背景には、政府介入による料金の低位設定を避ける目的から、独立規制委員会への価格決定権の委譲が行われ、多数の関係者との調整を要しないため、迅速に価格改定が可能という点があることが指摘されている(新谷・倉知・西岡(2016))。公共料金は、電気代を中心に、家計の消費支出に占めるシェアに応じて、家計の負担感が高い特徴がある(第1-2-29図(2))。認可制のように、公共性の高さに鑑みて、多方面からの幅広い意見を取り込みながら民主的に価格改定を行うという考え方は重要である。一方で、価格改定の意思決定プロセスに当たっては、賃金上昇をより広範なサービス分野に広げていくという観点では、労務費の適切な価格転嫁をより柔軟に反映できるよう、総括原価方式66などの各公共サービスの価格設定の方式が、これら分野の賃上げが可能となるような考え方になっているか点検していくことも重要と考えられる。この点、本節第2項で述べたように、医療・介護等の分野では、報酬改定に当たって賃上げを可能とする措置が講じられたほか、タクシー代やバス代など人件費率の高い公共サービス品目において、近年物価上昇率が高まっている点は、変化の兆しを示していると言える(第1-2-29図(3))。こうした動きがより広範な分野で現れることにより、物価と賃金が共に安定的に上昇する姿が実現することが期待される。
(我が国の家賃上昇率は、デフレに陥って以降、ゼロ近傍が続く)
次に、家賃について考察する。家賃は、公共サービスに含まれる公営家賃を除き、民営家賃と持家の帰属家賃で消費者物価指数の18%程度(サービスの3分の1以上)を占める。前掲第1-2-27図のとおり、家賃は、1990年代前半頃までは2%、ないしそれ以上の伸びとなっていたが、その後、1990年代末以降は、長期にわたって横ばい、ないし緩やかな下落基調が続いてきた67。ここで、家賃の上昇率と、経済全体の需給動向を示すGDPギャップとの関係について、デフレ期以前の1984年~2000年と、デフレに陥って以降コロナ禍前までの2001年~2019年にわけて、コアコアと対比してみよう(第1-2-30図)。まず、家賃については、2000年までは、GDPギャップとの間に一定の正の関係がみられたが、2001年以降は、GDPギャップの動向にかかわらず、ほぼゼロ近傍で推移する姿に変化している。コアコアにおいては、2000年以前に比べて、2001年以降は、傾向線が下方にシフトし、傾きのフラット化がみられるが、GDPギャップとの正の相関は維持されている。次に、2001年~2019年について、家賃やコアコアの上昇率を被説明変数、GDPギャップのほか、適応的期待として物価上昇率の自己ラグを説明変数として推計すると、コアコアについては、GDPギャップの係数は大きくないものの有意であるのに対し、家賃については、GDPギャップの係数は極めて小さいことが確認される68。このように、デフレに陥って以降、物価上昇率の経済動向に対する感応度は、家賃とコアコアの間で違いがみられる。
この点、米欧の家賃をみると、アメリカでは、近年、移民流入増など人口増が続いていることから賃貸住宅の需給がひっ迫し、家賃の伸び率が急速に高まっているが、これを除いてみると、比較的安定的な上昇傾向が続いており、我が国とは対称的な姿となっている(第1-2-31図)。また、欧州の家賃に関して、例えばフランスにおいては、家賃の増額改定に当たって、政府が四半期ごとに公表する家賃の基準指数(IRL69)の伸び率を超えることができないという規制があり、具体的には、消費者物価(家賃とたばこを除く)の上昇率が上限となっている70。ただし、コロナ禍後の物価上昇率の高まりを受け、2022年第3四半期から2023年第2四半期はIRLの伸び率は3.5%にキャップが設定されていた。フランスでは家賃抑制の観点から、こうした制度が導入されたという面があり、物価高騰時における例外的な規制強化もみられたものの、原則としては、一般物価と連動する程度には家賃の増額改定が許容され、一種のノルムを形成しているとみることもできる。
一方、我が国については、こうした家賃規制は存在しない中で、各種の財やサービスの物価の上昇がみられても、家賃は極めて低位に安定しているという特徴がある。現在の我が国において家賃の上昇が鈍い点については、賃金の伸びが物価に追いつかない状態の中で、賃料を引き上げると、新規契約時に借り手がつかず、また更新時に借り手が他の物件に借り換えることで、貸家が空室となり賃貸収益が損なわれるリスクを恐れて、貸手側が賃料引上げを控えるという背景があると考えられる。しかし、2024年に入って以降は、民営家賃は、東京都区部では前年比0%台後半、全国でもプラス0.3%と、低水準ながらも動きがみられ始めている。家賃については、我が国がデフレ状況に陥った1990年代終盤以降はゼロ近傍の変動が続いてきたが、デフレ状況に陥る以前の1990年代半ばまでは2%ないしそれ以上の上昇率が実現していた。賃貸住宅については、人口減少下にあっても単身世帯の増加等を背景に需要が底堅いとみられる中、今後、賃金・所得の上昇が物価上昇を上回る状態が持続的に実現していけば、家賃についても安定的に上昇するというノルムが定着していくことが期待される。
(物価と賃金が共に上昇することがノルムとなっていく中での最低賃金設定)
次に、最低賃金についてみていく。我が国における最低賃金の動向をみると、近年は、2020年を除き、引上げ率が上昇し、これに伴いパート労働者の平均時給も増加傾向にある(第1-2-32図)71。現在、政府においては、最低賃金の全国加重平均について、2023年10月以降の1,004円に対し、2030年代半ばまでに1,500円となることを目指すとし、この目標をより早期に達成できるよう、労働生産性の引上げ等に取り組むこととされている72。
最低賃金の決定については、ILO条約において、「使用者及び労働者」が同数でかつ平等の条件で参加しなければならないこととされている。これに基づき、我が国では、最低賃金法が定められており、最低賃金について、公労使三者構成の最低賃金審議会において審議し、決定することとなっている。また、同法において、最低賃金の決定の際には、地域における<1>労働者の生計費、<2>賃金、<3>通常の事業の賃金支払能力の三点を考慮し、定めることとされている。
他の主要先進国をみると、最低賃金の決定に際して、例えば、英国では経済全体や競争力に与える影響等、フランスでは労働者の購買力の維持や国の経済動向との整合性、ドイツでは労働者にとって必要な最低限の保護、公正かつ機能的な競争、雇用を危険にさらさないこと、韓国では労働者の生計費、類似の労働者の賃金、労働生産性、所得分布等といった事項が考慮されている(付図1-7)。
賃金全体の動向と最低賃金の関係については、例えばフランスでは、最低賃金の上昇率は、年間賃金上昇率の2分の1を下回ってはならないとされている。これは、賃金全体の動向と最低賃金の動向の間にある程度の連動が維持される仕組みを制度化しているものと理解できる。ドイツでは、最低賃金の改定に当たって協約賃金の動向を最も重視する要素としてきている。また、オランダでは、最低賃金の改定においては原則として協約賃金の平均上昇率を反映させることとされている。これらの国においては、労使交渉に基づく賃金全体の動向が最低賃金の改定に反映されることを介して、賃金動向と最低賃金の動向に連関を持たせている。我が国では、賃金の動向を考慮要素の一つとして勘案して最低賃金を決定しており、例えば2023年の最低賃金の改定においては、労働者全体でみた賃金の上昇も勘案した最低賃金の引上げを行った。また、近年の名目賃金と最低賃金の上昇を比較すると、2013年以降名目賃金は6%程度上昇している一方、最低賃金額は30%以上上昇している73。
また、物価上昇率との関係として、今回の物価上昇局面における最低賃金の上昇の程度について、名目及び消費者物価指数(総合)で除した実質ベースで、国際的に比較する(第1-2-33図)。2020年12月を起点とした各国の最低賃金水準の累積変化をみると、我が国では、近年の高い最低賃金の引上げを反映して、おおむね物価上昇を上回る最低賃金の伸びを確保している。特に、2023年における最低賃金の改定では、三点の考慮要素のうち物価上昇を重視して最低賃金を改定したことも相まって、2023年の最低賃金改定以降も物価上昇局面が継続する中にあっても最低賃金の実質的な水準を維持している。ドイツでは2023年初に大幅な引上げがあり、実質の伸びが高くなっている。フランスでは、最低賃金について、毎年一回の定例改定に加え、直近の改定から物価上昇率が2%を超えた場合、物価上昇分だけ自動的に改定される制度となっている。
このように、各国における最低賃金の設定方法は、賃金との関係、物価への連動のあり方を含めて様々である。我が国においては、今後、物価と賃金が共に上昇することがノルムとして定着していくことが期待される。我が国の最低賃金の設定においては、今後とも、地域における<1>労働者の生計費、<2>賃金、<3>通常の事業の賃金支払能力の三点について、バランスを考慮していくことが重要である。
(年収の壁が名目値で固定されていることが労働時間の下押し圧力に)
最後に、これまで長期にわたり、物価と賃金が共に動かないことが常態化していた中で、各種制度等において、様々な名目金額の基準値が固定されてきたことによって課題が生じている例を取り上げる。
第一には、本章第1節や第3章第3節でも議論する、いわゆる「年収の壁」である。社会保険制度においては、配偶者の扶養に入り、パート労働者等の形態で従業員101人以上の企業(2024年10月からは51人以上の企業)で週20時間以上働く労働者(第3号被保険者)は、年収が106万円を超えると扶養を外れ、厚生年金や健康保険に加入することとなる。また、企業が独自に実施している配偶者手当は、103万円や130万円を基準に、これを超えると支給を停止する企業が多い74。こうした「年収の壁」については、これを超えないように労働時間を抑制する就業調整を行う誘因となっているが、「壁」の名目金額は、物価・賃金の変化に応じて改定されていない75ため、賃金が増加するに従って、同じ時間働いた場合に、より早く「壁」に到達することとなり、賃金上昇下では、パート労働者の労働時間を抑制する圧力が強まることとなる。具体的には、2017年時点においては、「毎月勤労統計調査」におけるパートの平均時給は1,124円であり、この時点では一日3.9時間程度で106万円の壁に到達する姿であったが、2024年(1-4月)時点では時給が1,325円に高まる中で、一日3.3時間程度で到達する76(第1-2-34図)。以上に基づき機械的に試算をすれば、就業調整を行うパート労働者の労働時間は6年余りで15%抑制されていた形となる。最低賃金の引上げもあって時給が増加する中で、就業調整を行うパート労働者にとって、年収の壁を形成する名目金額が固定されてきたことが、労働時間を年々抑制する方向に作用してきた。ただし、壁を形成する名目金額を物価・賃金に連動させることは、被用者保険の適用拡大という政策目的には反するものであり、これによらず、年収の壁に関しては、労働時間を追加して収入を増やしたいという労働者の意欲を阻害しないような制度の見直し等が重要と言える。
(物価・賃金の上昇局面では、税・社会保険料の負担の在り方にも留意した政策が重要)
第二に、上記とも関連するが、所得税における課税最低限や累進課税のブラケット(各税率が適用される所得金額の幅)等の水準である。現在、基礎控除と給与所得控除の合計は給与収入で103万円、社会保険料控除を加味した課税最低限は121.1万円となっている。
課税最低限以上の給与収入で勤務しているフルタイム労働者については、ブラケットが名目金額で固定されていることで、年収の上昇により、課税所得が一段階高い税率のブラケットに移り、限界税率が不連続に高まることとなるが、就業規則で所定労働時間が定められていることから、労働時間を調整する誘因につながっている可能性は低いとみられる。
他方、各種の名目金額が固定されていることにより、収入の増加に比べて、負担額が相対的に高まるという影響には注意が必要である。この点について具体的にみるため、設例として、夫婦二人の共働き世帯(給与収入は夫400万円、妻130万円を仮定)について、物価が年率2%、名目賃金がこれを上回る年率3%で上昇する場合において、実質的な手取り額がどの程度変化するかを確認する(第1-2-35図)。結果として、実質賃金(給与収入)の伸びが5年間の累積でプラス5%となるのに対し、税・社会保険料の実質的な支払額の伸びがプラス9.5%と実質賃金の伸びを上回ることから、税・社会保険料を差し引いた実質的な手取りの伸びは5年間の累積でプラス3.9%となる77。このように、物価・賃金が共に安定的に上昇する局面になれば、実質的な手取りは増加する一方で、税制上各種の名目金額水準が固定されていることにより、実質的な負担額の伸びが大きくなるため、実質賃金の伸びに比して、実質的な手取り額の伸びが小さくなる。我が国の所得税においては、過去、1970年代から80年代に物価と賃金が共に上昇していた際には、経済財政状況を総合的に勘案しつつ、他の税目も含む税制全体の見直しを行う中で、累進税率構造の見直し等と併せて各種控除の金額に関する見直しが適時行われていた78。一方、デフレ状況に陥って以降、長期にわたって物価・賃金の上昇がほとんどみられなかったため、課税最低限の名目水準は2015年以降同水準となっている(第1-2-36図)。現時点において、我が国では、物価上昇に賃金上昇が追いついていない中で、一時的に様々な所得支援策がとられている。一方、今後、物価や賃金が共に安定的に上昇する構造が実現した暁には、財政健全化の中での税収の確保に加えてビルトインスタビライザーや垂直的公平性という所得税制が持つ様々な重要な機能と、家計の実質的な負担や消費への影響という観点とのバランスを勘案した税・社会保険料の負担の在り方を検討しつつ、物価を上回る賃金の上昇が継続するような政策を講じることが重要となろう。
○「デフレ脱却」とは、「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」
○その実際の判断に当たっては、足元の物価の状況に加えて、再び後戻りしないという状況を把握するためにも、消費者物価やGDPデフレーター等の物価の基調や背景(注)を総合的に考慮し慎重に判断する必要がある。
(注)例えば、需給ギャップやユニット・レーバー・コスト(単位当たりの労働費用)といったマクロ的な物価変動要因
○したがって、ある指標が一定の基準を満たせばデフレを脱却したといった一義的な基準をお示しすることは難しく、慎重な検討を必要とする。
○デフレ脱却を政府部内で判断する場合には、経済財政政策や経済分析を担当する内閣府が関係省庁とも認識を共有した上で、政府として判断することとなる。