第1章 新型コロナウイルス感染症の影響と日本経済 第2節
第2節 賃金物価の動向と財政金融政策
第1節では、専ら実質面、数量面から感染症の影響をみてきたが、本節では、賃金や物価といった価格面での動きをみていく。その後、政府と日本銀行による対応策の概要を紹介しつつ、財政金融面の動きについても概観する。
1 賃金の動向
●労働需給は緩和したが、企業の雇用保蔵と非労働力化の動きが失業率の上昇を抑制
賃金の動きは労働需給にも影響されることから、まずは雇用情勢を示す代表的な指標の動きからみていこう(第1-2-1図(1))。2020年に入り、有効求人倍率は大きく低下することになった。これには、本来的な労働需給の動きの中に、求人票の記載項目の変更という技術的な影響27が含まれているが、こうした要因を除外しても、3月頃には感染症の影響によって求人数は大きく減少した。有効求人倍率の変動を有効求人数と有効求職者数に要因分解すると、低下に寄与しているのは専ら有効求人要因を構成する繰越求人と新規求人である。新規求人数は、製造業、非製造業ともにマイナス寄与が続いているが、6月に入り、非製造業の新規求人数のマイナス幅が縮小している(第1-2-1図(2))。
失業率についても、長期に渡る低下傾向が終了し、このところ上昇へと転じている。需要変動の大きさに対して悪化の程度は相当抑制されているものの、失業率は需給指標(GDPギャップ)に遅れて悪化する傾向があり、今後の動きに注意する必要がある(第1-2-1図(3))。
需要が大きく減少しているにもかかわらず、これまでのところ失業者の増加が抑制されている背景には、多くの企業が短期的な需給調整を行わず、雇用を維持していることがある。企業による雇用維持の程度について、労働生産性の動きから活動に必要な雇用者数を推計すると、2020年4-6月期(期中平均)は、生産に対して製造業で200万人程度、非製造業で400万人程度の雇用者を追加的に抱えている様子がうかがえる(第1-2-2図(1))。こうした企業の雇用保蔵行動には合理的な根拠があり、例えば、今回の需要急減が一過性のものにとどまり、以前の生産水準を回復するのであれば、その際に新たな雇用者を探すよりも既存雇用を維持する方が費用面で妥当と判断する場合がある。実際、生産年齢人口が減少する我が国においては、これだけの需要ショックが生じても有効求人倍率が1倍を超えており、企業が先行きの人手不足を見通して判断することには妥当性がある。
こうした企業の取組を支えることは社会的にも有益であり、雇用調整助成金による公的な雇用の下支えは重要となる。2008年から2009年のリーマンショック時においては、雇用調整助成金の活用により失業の増加を約0.5~1.0%程度抑制したとの分析結果もあるが28、今回は、従前の仕組みを大幅に緩和することで利便性を高め、支援額も拡充している(第1-2-2図(2))。その結果、休業者数は4月に652万人と大幅に増加したものの、大量解雇にはつながらず、その後の経済活動の再開に合わせ、7月には207万人へと減少することとなった29。このように、一旦休業した就業者の現場復帰は進んでいると思われるが、3月に比べれば7月の就業者数はなお84万人減少した状態にあるなど30、需要水準は低いところにとどまっており、当面の間は、雇用に対する下支えが必要となっている。
また、労働需給に関連して生じている注目すべき動きは、就業者、特に雇用者の非労働力化である。2019年末以降、雇用法制の変更に向けた対応と思われる正規雇用化の動きが顕在化していたが、緊急事態宣言が発出された4月以降の経済活動の低下を受けて、多くの非正規雇用者が非労働力化した(第1-2-3図(1)、(2))。正規雇用者数は全体として前年を上回っているが、非正規雇用者は大幅に減少し、その過半をパート・アルバイト、64歳以下の女性が占めている。マクロ的にみると、経済変動と性別・年齢別労働参加率の関係には違いがあり、64歳以下の女性や男女合計の高齢者の労働参加率はGDPの増減に対して変化しやすい傾向がみられる(第1-2-3図(3))。
●平均賃金は弱い動きとなったが、休業と残業時間の減少も影響の影響
雇用者の賃金動向について、厚生労働省「毎月勤労統計」の現金給与総額の推移でみると、所定内給与は底堅い動きをしているものの、感染症の拡大に伴う経済活動の低下の影響から、残業時間の減少を背景に所定外給与が大きなマイナスに寄与となった(第1-2-4図)。
現金給与総額は5月を底に反転しているものの、自粛や休業要請の影響が現れた。現金給与総額を労働時間の変化と時間あたり賃金の変化に分解すると、4月以降、労働時間の減少が下押し要因となり、総額が減少したことが分かる(第1-2-5図(1))。こうした労働時間の減少は、就業中の雇用者の所定内外の労働時間が短くなるだけでなく、休業者が増加した影響も含まれている(第1-2-5図(2))。休業者(所定内労働時間がゼロ)の増加も考慮して現金給与総額の動きを分解すると、「宿泊・飲食サービス業」や「生活関連サービス・娯楽業」を中心として、休業者の増加が下押ししたことが分かる(第1-2-5図(3))。なお、労働時間の変化については、第2章第1節において詳細に分析している。
●労働需給の緩和や雇用環境の悪化は賃金を下押しするおそれ
労働需給の緩和は、ある程度の期間をとると賃金の下押し要因となる。例えば、失業率水準と一般労働者の所定内給与の増加率には負の相関がみられる(第1-2-6図(1))。また、非労働力人口に含まれる求職の意思を失った者の15歳以上人口比率と所定内給与の増加率にも負の相関がみられる(第1-2-6図(2))。さらに、非正規で就業している者の中に含まれる不本意型(正規の職員・従業員の仕事がないから非正規で働いている)の比率と所定内給与の増加率にも同様に負の相関がある(第1-2-6図(3))。これらのことから、現状の労働需給の緩和が続くと賃金に下押し圧力が生じるおそれがある。
2 物価の動向
●企業は自身の稼働状況を踏まえて販売価格を設定
マクロの需給バランスが緩和的になれば、物価にも下押し圧力が生じることになる。まず、企業の取引価格である国内企業物価や企業向けサービス価格の動向をみると、需給に応じて大きく変動していることが分かる。2020年に入り、国内企業物価は国際市況の軟化を反映し、石油・石炭製品の寄与を背景に大幅に低下している(第1-2-7図(1))。また、化学製品や非鉄金属等、市況や生産活動に影響されやすい財の価格も低下に寄与した。サービス価格については、これまで労働需給の逼迫や堅調な内需を背景に上昇基調がみられたが、財価格と同様に大きく低下している(第1-2-7図(2))。特に、今回の下落には広告が大きく寄与しており、消費活動の自粛や店舗・施設の休業に伴う影響が顕著に現れている。
こうした企業物価の変動は、企業収益等には影響するものの、一時的なものであれば、ある程度の時間経過(トレンド)を踏まえて形成される予想物価やメニュー改定のコストが発生する小売価格(消費者物価)には大きく影響することはない。しかし、今回の感染症は長引くと企業が予想すれば、その期待は価格決定にも反映され得ると考えられる。そこで、消費動向調査や市場金利動向(BEI)から予想物価上昇率の動きを確認すると、いずれの指標も横ばい圏内の動きにとどまっており、8月までのところ、予想物価が大きく低下したとはみられない(第1-2-8図(1))。ただし、日本銀行の短観における企業による販売価格や物価の1年後の見通しの動きをみると、大幅に低下することが示唆されている(第1-2-8図(2))。特に、販売価格についてはマイナスになっており、これは、需要が低迷すると見込むなかで、価格を引き下げるスタンスを取る可能性を示唆している。製造・非製造別に販売価格の見通しをみると、いずれも1年先にはマイナスと答えており、特に非製造業の販売価格の下降幅が大きい(第1-2-8図(3))。
こうした将来の販売価格は、企業の抱えている資本や労働という生産資源の稼働状況と対になっている。日本銀行の短観に示されている資本や労働の過不足判断DIを用いて、製造・非製造業別に、現在の生産資源の過不足状況と販売価格の変化率を描くと、両者の間には強い相関がみられる(第1-2-9図)。製造業においては、過不足感が10ポイント変化すると、販売価格は0.3%変化し、非製造業では0.4%変化することが示唆される。したがって、緩和的な需給バランスが続けば、企業は価格を引き下げることで販売数量を確保する傾向がある。
●エネルギー価格による下押しはみられるものの、消費者物価の基調は横ばいの動き
次に消費者物価の動きをみると、消費税率引上げ等の影響31を除く生鮮食品を除く総合(コア)の前年比は、エネルギー価格の低下により、このところマイナス圏で推移している(第1-2-10図(1))。他方、コアからエネルギーを除いた総合(コアコア)の動きをみると、サービス関連が下押ししているものの、食料やその他の一般財の押上げにより、前年比もプラス圏で推移している(第1-2-10図(2))。
コアを押し下げているエネルギー価格が軟調となっている背景には、企業物価と同様に国際市況の軟化がある。具体的には、ドバイの原油価格が感染症の影響もあって大幅に低下し、それが輸入価格を経由して、消費者物価を構成するガソリンの店頭価格につながっている(第1-2-10図(3))。ガソリン価格は5月までは低下傾向にあり、その後は緩やかながら上昇へと転じているが、前年に比べると大幅に低い水準にとどまっており、当面は前年比の動きを下押しするとみられる。
なお、消費税率の引上げが物価に与える影響について補足すると、今回の引上げ幅が2%ポイントにとどまったことに加え、軽減税率制度の導入により税率が据え置かれた品目等もあったことから、上昇寄与は0.9%ポイント程度にとどまっている。同時に導入された幼児教育・保育無償化の下降寄与はマイナス0.6%ポイントであったことから、2019年10月の制度改正によって消費者物価の変動した幅は0.3%ポイントにとどまっている(第1-2-10図(4))。
●マクロの需要不足がもたらすデフレ圧力に留意
マクロ的な需給の緩みと企業にみられる価格設定の方向感を勘案すると、消費者物価にも下押し圧力が顕在化するかもしれない。そこで、消費者物価のうち、エネルギー価格等の一時的な変動の影響を受けにくいコアコアの動きについて、経済的な因果関係のある指標の動きで説明する式を推計し、先行きを考えてみよう。具体的には、需給バランスを表すGDPギャップ(3期前)、先行き期待を表す予想物価上昇率(前期)、外生的に影響を与える輸入物価(4期前)、そして価格形成の粘着さを表す自己ラグによって、コアコアを推計した。これによると、2019年の物価上昇率は、過去の物価上昇の慣性によって半分程度説明され、予想物価上昇率が残りを説明している。GDPギャップは若干プラス側に寄与している(第1-2-11図)。2020年に入ってからもプラス圏にいるが、4-6月期には、4月に実施された高等教育の無償化や自賠責保険料の引下げ等を含む「その他要因」が押下げに寄与している。2020年7-9月期以降は、こうした制度改正によって前年比が下押しされることに加え、3期前のGDPギャップが影響することから、マイナスへの圧力が続くことになる。
次にデフレ状況を確認する指標の一つである単位労働費用(ULC)の動きをみていく。ULCは、労働生産性の変化に対して労働費用である単位賃金がどのような動きをしているかを示す指標である。すなわち、労働生産性の上昇に見合って賃金が上昇する場合にはゼロとなり、生産性が上昇しているにもかかわらずに賃金が上昇しない場合には低下する。景気循環の文脈においては、景気後退に伴う雇用調整が遅れると上昇し、景気拡張に伴う人手不足が賃金上昇につながれば、これも上昇することになる。2020年の動きをみると、生産活動の低下によって労働生産性が低下(押し上げ要因)し、雇用保蔵の影響から単位賃金が上昇(押し上げ要因)することで、ULCの前年比は上昇が続いている(第1-2-12図(1))。
現状では、人件費抑制によるデフレ圧力はないものの、単位賃金の上昇を持続させるためには、労働生産性の上昇が必要となる。雇用を維持しながら労働生産性の上昇を実現するためには、まずは早期の需要復元を図りつつ、企業が人件費等を適切に販売価格へと転嫁していくことが必要となる。なお、ULCと消費者物価の間にはプラスの関係が色濃くみられてきたが、2012年以降の景気拡張局面のデータにおいては、両者の関係が希薄化しており、賃金と物価の連動性は薄らいでいる(第1-2-12図(2))。
3 財政金融面の動向
●主要地域の中央銀行は大規模な金融緩和を実施
感染症に伴う景気後退に対し、我が国のみならず、主要地域の中央銀行は、いずれも大規模な金融緩和を実施している(付表1-2)。政策金利はゼロ近傍へと引き下げられ、国債や社債等の資産購入枠を引き上げることで量的な緩和も実施している(第1-2-13図(1)、(2))。さらに、いずれの中央銀行でも、民間金融機関への流動性供給や資金繰り融資の支援を意図した資金供給等を行っている。日本銀行のバランスシートをみると、最近は「その他」に含まれる貸付金や短期国債、長期国債、ETFが増加している(第1-2-13図(3))。
こうした結果、2019年後半以降、おおむね3%程度で推移していたマネタリーベースの前年比は12%へと上昇している(第1-2-14図(1))。日本銀行の緩和措置は、貨幣乗数が安定する下で、運転資金向け貸出の高い伸びを背景としたマネーストック(M2)の増加へとつながり、こちらも8%と高い伸びを示している(第1-2-14図(2))。
●リーマンショック時と異なり、民間企業の資金調達環境は緩和的
各国中央銀行の緩和措置もあり、金融資本市場は一時の急変を脱して安定している。株価や為替レート、長期金利について、今回の動き(2020年3月=0期)をリーマンショック時(2009年2月=0期)と比較して、その特徴を示そう。株価の変動は、我が国でもアメリカでも、今回の下落幅は大きいものの、リーマンショックの時と比べると、下落に要する時間も反発に要する時間も短い。また、今後の推移如何ではあるものの、リーマンショック時には、危機から1年過ぎても株価水準は戻っていない(第1-2-15図(1))。為替は、一時的な変動はありながらも、ドル円もユーロ円もおおむね横ばい圏内の動きを示している(第1-2-15図(2))。長期金利については、我が国ではおおむねゼロ近傍で安定的に推移している。他方、アメリカの長期金利は、リーマンショック時には3か月程度を過ぎたところから上昇し、危機前の水準へと戻ったものの、今回は低下したまま推移している(第1-2-15図(3))。
こうした緩和策が講じられている下での民間企業の資金繰り動向を企業規模別にみると、いずれも業況判断の悪化に比べると、資金繰り判断の低下は抑制されていることがうかがえる(第1-2-16図(1))。また、借り手企業がみた金融機関の貸出態度は、大企業で若干厳しさが増しているという回答割合が増えたものの、中小企業においては、リーマンショック時とは異なり、金融機関の貸出態度は緩和しているとの回答割合が増えるという動きが生じている(第1-2-16図(2))。こうした背景には、金融機関の貸出運営スタンスの積極化がある。通常であれば、金融機関は危機に際して貸出運営スタンスを厳格化するが、今回は急激に積極化している。
金融機関の貸出運営スタンスの積極化は、融資等の動きからも観察される。2020年に入り、銀行貸出残高は社債やCPといった市場からの資金調達の増加に比べても急激に増加しており、その使途は専ら運転資金となっている(第1-2-17図(1)、(2))。事業環境の悪化や休業要請により、売上げによるキャッシュインが無くなったため、資金需要が急速に高まったことに呼応した動きとなっているが、こうしたことが可能となった要因は、感染症対策として実施されている資金繰り支援(実質無利子・無担保融資)である(第1-2-17図(3))。公的金融機関による融資残高も増加しているが、民間金融機関による資金繰り支援は、5月末の2.7兆円程度から8月末には12.4兆円程度と急増している。こうした動きが、企業側がみる金融機関の貸出態度や金融機関側の貸出運営スタンス、さらには実際の融資増加に現れている。
●機動的な財政出動で経済を下支え、早期の成長軌道への回復が財政の持続性確保にも重要
感染症への対応策は金融支援だけでなく、家計や企業への直接的な資金移転(給付金)や公共投資といった需要喚起を伴う政府支出も含まれている(第1-2-18図)。特に、給付金は、家計や企業の支出増へと転じることで需要創出効果を発揮することが期待される。財政負担を伴う支出の増加は、先々の負担増になるものの、民間主体の対応余地を大きく超えた経済ショックによって将来の成長基盤を失いかねない危機に際しては、積極的な公的支援を行うことで、政府が保険機能を発揮することが求められる。
では、今回の積極的な財政運営によって政府債務はどうなるのだろうか。内閣府の中長期の経済財政に関する試算では先々の経済と財政の姿が描かれているが、ここでは過去の実績値と2020年7月の試算値を利用して、債務残高対GDP比が変化する要因について確認する。なお、ここでの債務残高とは、国民経済計算上の中央及び地方政府が保有するグロスの債務残高32であり、政府や社会保障基金が保有する資産は含めていない。
債務残高対GDP比の前年差について、定義関係を利用すると、基礎的財政収支要因、利払費要因、GDPデフレーター(物価)要因、そして実質GDP成長率要因に分解できる。2020年度の債務残高対GDP比の前年差は23.2%ポイントの増加となっているが、このうち、基礎的財政収支要因によって12.8%ポイント、実質経済成長率要因によって9.9%ポイントが説明される(第1-2-19図)。また、物価要因は-0.9%と債務残高対GDP比を引き下げる要因となっている。これまでも、基礎的財政収支の赤字は債務残高が増加する主要因であり、そのコントロールは、引き続き、政策目標として重要である。しかし同時に、基礎的財政収支は歳入と歳出の差であり、歳入は名目経済成長率によっておおむね規定され、歳出は総需要の一部を構成して名目経済成長率を規定する要素である。基礎的財政収支要因の悪化拡大は、現下の危機対応による歳出増によって大きくなっている面もあり、これは早晩低下すると考えられるが、その際、直接的な給付から民需を引き出すワイズスペンディングと呼べる支出へと切り替えていくことが重要であり、規制改革等を合わせて講じていくことが求められる。また、歳入減は経済活動全般の低迷によって生じており、欠損金が翌期以降に繰り越されること等によって課税ベースが縮小すれば、回復には時間を要するかもしれない。したがって、デフレ状況に戻さないこと、自律的な成長経路への回帰を急ぐことは、財政健全化を図る前提である。