平成3年

年次世界経済報告 資料編

経済企画庁


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III付属論考

3 ソ連のペレストロイカから独立国家共同体までの経緯

海外調査課 古川 茂樹

1985年にゴルバチョフによって始められたペレストロイカは,当初の目的から大きく離れて一人歩きを続け,ついに1991年末,共産党支配と連邦制による「赤い帝国主義」を解体に追い込んだ。1917年のロシア革命はレーニンの指導の下,世界の列強の帝国主義とそれを支える経済システムである資本主義を打倒して平等で民主的な新しい形態の国家システムを作ることを理想とした。しかし,建前と現実は次第にかい離していき,共産主義イデオロギーの下でロシア人が連邦内の他民族・地域を植民地的に支配する今世紀最後の「帝国主義」国家が,ペレストロイカを契機に崩壊に至ったのである。91年12月8日にスラブ系3共和国が「独立国家共同体」創設協定に調印し,同月21日には独立したバルト3国と政治的混乱が続くグルジアを除いた8共和国も調印を行った。こうして新たに発足した「独立国家共同体」は,旧ソ連を構成した15共和国のうち11共和国が,独立した国家として対等な関係を形成するものである。しかし,共同体各国の意思は必ずしも一致しておらず,今後とも紆余曲折が見込まれ,将来の確実な予測は困難である。そこで,現状を理解し,今後を見通す際の基礎知識として,以下では,ペレストロイカの開始から「独立国家共同体」創設までの経緯を整理する (表1及び表2参照)。

(1)ペレストロイカの開始と試練

1985年3月にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは,翌4月の党中央委員会総会でペレストロイカ(立て直し)路線を打ち出し,停滞したソ連経済を立て直そうとした。特権階級(ノメンクラツーラ)に蔓延した縁故主義(ネポティズム),贈収賄の横行,マフィアとの癒着といった腐敗堕落を追放し,他方,勤労意欲の低い労働者に対して勤勉さを求めた。特権階級に対する綱紀粛正は,保守派の激しい抵抗を受けつつも,権力内においても次第に支持者を増やしていった。ゴルバチョフを中心として改革派と呼ばれる政治集団が形成され,政治の民主化とグラスノスチ(公開性)の推進により社会主義の活性化を図ろうとした。このように,初期のペレストロイカは,経済の立て直しによる社会主義の強化発展を目的とし,その手段として綱紀粛正とグラスノスチを用いたのである。

初期のペレストロイカは,旧来の基本的な政治・経済・社会構造を変えずに部分的な改良によって経済停滞からの復活を図ろうとしたものであったため,十分な成果を挙げることができなかった。このためゴルバチョフは,経済改革を成功に導くには,政治システムの抜本的な改革が不可欠との認識を強めるようになり,88年6月には政治改革のための全ソ共産党協議会を開催し,複数候補・秘密投票による人民代議員大会の創設を決定した。ゴルバチョフは人民代議員大会を通じて国民の意見を政治過程に反映させることで,ペレストロイカに対する保守派の抵抗を排除しようとした。

(2)政治改革と民族問題

89年3月の第1回人民代議員大会では,保守派の大物共産党員が落選するなど一定の民主化の兆しはみえたものの,大部分の議員は共産党出身の保守派であった。87年10月に党指導部を批判して失脚していたエリツィンは,この選挙で当選して政治的復活の足がかりをつかみ,共産党内の急進改革派による院内会派「地域間代議員グループ」を結成した。

こうした政治改革が推進される一方,経済の不振はその後も続き,89年夏には全ソ的な炭鉱労働者のストライキが発生した。労働者階級の政治機関である共産党の政権に対して労働者集団がストライキを行うことは従来では考えられないことであり,ソ連ではロシア革命以来初めての事態であった(東欧ではポーランドの「連帯」運動等の例がある)。

民族問題もこの頃から目立ち始め,89年4月にはグルジアの首都トビリシでのデモに治安部隊が武力行使を行って十数名が死亡,同年秋にはアルメニアとアゼルバイジャンとの民族対立が激化して翌90年1月に連邦軍がアゼルバイジャンの首都バクーを武力鎮圧するなど,武力による秩序維持に訴えなければならない事態が頻発した。

こうした社会秩序の混乱と経済の不振を打開するため中央権力の強化が必要との理由から,90年3月に連邦大統領制が導入され,ゴルバチョフが初代大統領に就任した。他方で民主化も一定の進展をみせ,90年2月に共産党は一党独裁の放棄を決定した。共産党は依然として強力な権力を保持していたものの,いくつかの民主派政党が続々と誕生していった。

(3)非共産勢力の台頭

89年秋の東欧革命の影響を強く受けたバルト3国では,すでに非共産党勢力が議会の過半数を制していたが,連邦大統領制の導入によって統制・弾圧が強化されるとみて相次いで独立を宣言した(リトアニア,ラトビア90年3月,エストニア5月)。

他方,90年5月にロシア共和国最高会議議長に就任したエリツィンは,議会を主導して同年6月,ロシア共和国の国家主権宣言を行い,共和国の主権が連邦の主権に優位することを宣言した。これ以後,ゴルバチョフ・連邦中央政権に対するエリツィン・ロシア共和国政権の権力奪取の試みが激化し,これに独立を目指す各共和国の民族政権が加わって,ソ連全土に激しい政治闘争が展開されることとなった。

(4)政治闘争の激化

90年秋に急進改革振の市場経済化案である「500日計画」が否定されて以降,保守派の急速な巻き返しが始まり,同年12月には,改革派のバカーチン内務大臣が解任されて保守派のプーゴ(91年8月のクーデターの際自殺)が就任し,改革派で新思考外交の立役者であるシェワルナゼ外務大臣は「独裁が到来する」と警告して辞任した。91年に入ると,1月にリトアニア,ラトビアへの軍事介入が行われ,KGB(保守派のクリュチコフ議長は8月クーデターに参加し逮捕)の経済取締り権限を強化するといった統制的手法が復活した。これに対し,エリツィン議長ら民主派勢力はゴルバチョフ政権の打倒を呼び掛けるまでに対立が激化し,炭鉱労働者は連邦中央政権の退陣を掲げて再び3月から大規模なストライキに突入した。こうした事態に対し,保守派は,秩序回復のために全土に非常事態宣言を布告し,武力の行使も含めた断固なる措置をとるよう大統領に圧力をかけた。このような保守派による独裁政権の復活を懸念した民主派勢力はゴルバチョフ大統領と協調する姿勢に方向転換し,新連邦条約の早期締結と経済危機打開プログラムの早期実施を内容とする「9+1合意」が,9共和国指導者と連邦大統領との間で91年4月に成立した。

新連邦条約は,各共和国の主権強化を認めつつも連邦制を堅持しようと図るゴルバチョフ大統領によって,90年11月に最初の草案が提出され,以後,数度にわたって改訂がなされてきた。「9+1合意」の後,エリツィン議長等急進改革派の意向を強く受けて更に改訂が進められ,91年8月20日に調印が予定された最終草案では共和国権力が圧倒的に強化された内容となっていた。この調印によって連邦制が崩壊の危機に立たされると判断した保守派は調印前日の8月19日,軍事クーデターを発動した。しかしロシア共和国を中心とする反クーデターの抵抗運動により保守派政権の樹立は失敗に終わり,その反動で共産党の解党,バルト3国の独立といったソ連消滅へ向けてのプロセス(8月革命)が開始されることとなった。

(5)8月革命から独立国家共同体へ

「8月革命」と呼ばれる政治変革の過程は,1922年以来69年にわたる連邦制の清算の過程といえよう (表2)。ゴルバチョフ大統領は8月24日,兼務する共産党中央委員会書記長の辞任を表明し,同中央委を解散するよう勧告,ソ連共産党は解党に追い込まれることとなった。こうした中央での共産党解党の動きは共和国や地方の共産党組織にも波及し,各地で共産党の活動禁止や党資産の没収が行われた。

9月以降,各共和国の独自路線の傾向が顕著となった。グルジア,モルドバ,ウクライナは物資の共和国外への持出しを禁止する「囲い込み」を実施し,ウクライナ,ウズベク,グルジア,モルドバ,アゼルバイジャン,アルメニア等は独自軍創設の決定を行った。

経済共同体約は,10月18日に12共和国中ウクライナ等を除く8共和国が調印(11月6日にウクライナ,モルドバも調印)したものの,実際の経済政策の調整は後に締結する付属協定によることとされ,また,各共和国議会で経済共同体条約の批准がなされない等,速やかに機能するには至らなかった。こうした中,エリツィン大統領は,連邦省庁への資金拠出を停止するとともに連邦資産の接収に乗り出し,10月28日にロシア共和国独自の急進的な経済改革プログラムを発表,自ら首相職を兼務して改革の実施に当たることとした。

ウクライナでは12月l日,独立を問う国民投票が実施され,投票者の90.3%が独立に賛成した。12月3日には,エリツィン大統領がウクライナの独立を承認し,5日にウクライナ最高会議は正式に独立を宣言した。こうした事態を受けて,中央指令機関を持たない緩い国家連合の構想が急速に浮上し,8日,ロシア,ウクライナ,ベラルーシの3共和国指導者によって「独立国家共同体」(CIS)創設協定が調印され,ソ連の消滅を宣言した。21日にはカザフの首都アルマアタで,独立したバルト3国と政治的混乱の続くグルジアを除いた8共和国が新たに創設協定に調印した。

エリツィン・ロシア共和国大統領は,各共和国が独立国として外国から承認されるためにゴルバチョフ・連邦大統領の存在が障害になっているとして,ゴルバチョフ大統領の辞任を強く要求,12月25日にゴルバチョフ大統領は辞任を発表した。翌26日にソ連最高会議もソ連消滅を宣言したことで,1922年の連邦条約で成立したソ連は消滅することが決定した。

しかし,今後の「独立国家共同体」(CIS)が政治・経済の混乱をより適切に解決できるかどうかは不透明である。民族間の対立は相変わらず根強く,軍の再編についても対立がみられ,「独立国家共同体」が連邦に代わって旧ソ連地域に政治的安定をもたらすことができるかは,依然として困難な問題である。政治の安定がなければ経済の回復も難しく,外国からの経済支援や直接投資も消極的になるという懸念がある。このため,経済回復のために,安定した政治システムを速やかに形成することが望まれている。


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