昭和62年

年次世界経済白書

政策協調と活力ある国際分業を目指して

経済企画庁


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第1章 世界経済拡大の持続

第4節 為替レート,物価の動向と金融政策の反応

1. 為替レートの動向

アメリカの大幅な貿易収支赤字等を背景とする85年春以降の米ドル相場の下落傾向は,同年9月のプラザ合意により加速され,その後ドルは若干反発する局面をみせながらも,86年から87年春にかけてほぼ一本調子の下落傾向を続けた。87年2月下旬のルーブル合意以降おおむね安定的に推移するようになったが,その後,10月下旬以降ドルは再び下落した。

(下落傾向を続けたドル)

85年春以降のドル下落傾向は,86年から87年にかけてもほぼ継続し,米ドル実効レート(モルガン銀行発表ベース,1980~82年=100)でみた下落幅は86年初から87年春にかけて23.1ポイントに達した(第1-4-1図)。継続的なドル下落の要因としては,第1に,依然として対外不均衡の拡大が持続したことがあげられる。相場調整がかなり進展したにもかかわらず,86年のアメリカの貿易収支赤字は通関ベースで1562億ドル(85年1336億ドル)と前年に比べて大幅に拡大した。このように赤字幅が拡大した理由は,①いわゆるJカーブ効果,②アジアNICsやカナダなどに対する相場調整の遅れ,③海外輸出業者による輸出価格引上げが相場変動に比べて小さかった,④過剰支出体質や財政赤字など構造的な面で改善がみられなかった-などのためとみられる。

ドル下落の第2の要因としては,アメリカの市場金利が85年に引き続いて低下し,他の主要先進国との金利格差が縮小したことがあげられる。原油価格低下を主因に86年中も物価が安定的に推移する一方,景気拡大速度が鈍化傾向を強めるなかで,FRB(米国連邦準備制度理事会)は金融緩和政策を維持し,公定歩合は86年中に7.5%から5.5%へ低下,長期金利(30年物国債流通利回り)も86年平均で7.80%と85年平均に比べ約3%低下した。この間,他の主要先進国でも国内的な要因やアメリカとの協調利下げなどがら金利水準は低下したものの,市場金利の低下幅はアメリカに比べ小さかった。

こうしたドル下落傾向が継続するながで,86年10月末の日米蔵相共同声明の発表,87年1月のEMSの多角調整,日米蔵相会談を経て,87年2月下旬,パリにおいてG7(7か国蔵相・中央銀行総裁会議)が開催され,各通貨が基礎的な経済条件におおむね合致した範囲内にあるものとなった点,各通貨間における為替レートのこれ以上の顕著な変化は,各国における成長および調整の可能性を損なう恐れがあること,また,それゆえに,現状においては,大臣および総裁は,為替レートを当面の水準の周辺に安定させることを促進させるために緊密に協力することなどをうたった,いわゆるルーブル合意が発表された。

(87年春以降安定的に推移したドル)

ルーブル合意後,しばらくの間ドルは安定するかにみえたが,アメリカの貿易収支がなかなか改善しないこと,日米半導体摩擦の激化,アメリカの景気減速,「インフレの兆し」を示すと受けとめられた経済指標の発表などからドルは再び下落し,87年4月には,ワシントンにおいて本年2度目のG7が開催され,さらに,同月末には日米首脳会談が開催された。この間に一連の国際会議を通じてのアメリカを含む通貨当局のドル安防止の姿勢が市場に浸透してきたことに加え,原油価格の上昇やドル安による市場の「インフレ懸念」の高まりからアメリカの長期金利が上昇基調に転ずる一方,日本等の長期金利はかなり低下しアメリカとの金利格差が拡大したことなどから,5月に入ってドルは底堅く推移した。

その後,アメリカの貿易収支赤字改善傾向の一時的強まりもあって,ドルは8月半ばにかけて緩やかな上昇基調を続けたが,8月に発表された貿易収支赤字が予想を上回って拡大していたことをきっかけに,8月中旬から9月上旬にかけて,ドルは再び下落した。しかしながら,ドルは4,5月の安値を破ることなく反発し,むしろ底堅さを示すとともに,87年2月下旬のルーブル合意以降のドルレートが安定的に推移してきたことを印象付けた。こうした経過を背景に,9月下旬に開催されたG7では,各国間の経済政策協調が進展し,為替レートの安定が達成されつつあることが歓迎されるとともに,今後とも為替レートの安定を促進するために緊密な協力を続けることが再び約束された。しかし,10月半ばの株価大幅下落の後,しばらくしてアメリカの双子の赤字の先行きに対する懸念が強まりをみせ,ドルは再び下落した。

2. 主要国の輸入価格の推移

すでにみたように,86年を通じてドルの下落傾向が継続した理由の1つに,アメリカの金融緩和の進展があげられる。金融緩和の進展を支えたのは,ドル安にもかかわらず卸売物価,消費者物価が安定を続けたことだが,これには原油価格,その他一次産品価格の低下が大きく寄与していたとみられる。原油価格等の低下は,その他の主要先進国に対しても,ドル高修正とともに輸入価格の低下を通じて物価安定効果をもち,アメリカと協調したかたちでの国内金融緩和の進展を可能にした。そこで主要国の輸入価格の推移をみると(第1-4-2図),アメリカでは85,86年と輸入価格は前年比で低下を続け,特に86年中はドル安によるとみられる上昇圧力にもかかわらず,それ以上に原油価格等のエネルギー価格低下の寄与度が大きく,輸入価格の低下率は86年の方が大きかった。日本の輸入価格の変動要因をみると,85年10~12月期以降為替要因が,次いで86年4~6月期以降原油価格等のエネルギー価格要因が輸入価格の低下に大きく寄与している。西ドイツ,イギリスの輸入価格もほぼ日本とパラレルな動きを示しているが,低下幅は日本の方が大きい。これは,日本円の実効レートの変動率がドイツ・マルク,イギリス・ポンドの実効レートの変動率に比べて大きかったためとみられる。こうした輸入価格の低下は,各国消費者物価安定に寄与したが,欧米と日本では消費者物価の動きに約半年のラグがあった。

85年末から急落傾向を続けていた原油価格は,86年秋以降上昇に転じ,同年12月にはOPEC総会で18ドル/バーレルの固定価格制復帰が宣告され,87年に入ってからも度重なる中東情勢の緊迫もあって,おおむね18ドル/バーレル台での推移となっている。また,85年春以降下落傾向を続けていた米ドルも,87年2月下旬のルーブル合意以降おおむね安定的に推移してきた。こうしたなかで主要国の輸入価格は,アメリカでは,ドル安の下で早くも87年1~3月期に前年比上昇に転じ,4~6月期には前年比2ケタの上昇となった。日本,西ドイツでも原油価格低下のメリット一巡から,87年4~6月期に至って前年比低下率は急速に縮小した。なお,イギリスではポンド相場が原油価格動向の影響を強く受けるため,輸入価格低下率は日本,西ドイツに比べ小幅にとどまり,86年10~12月期には輸入価格はすでに前年水準並みとなり,87年1~3月期に至って前年比上昇に転じている。こうした輸入価格の動向が直接,間接に国内卸売物価,消費者物価に一時影響し,87年春以降の市場での「インフレ懸念」発生の1つの背景となっている。

3. 市場での「インフレ懸念」発生とアメリカの金利上昇

86年から87年春にかけてのドル高修正下で,主要先進国では,イギリスを除いてほぼ一貫して金融緩和が進展し,公定歩合はアメリカで合計4回,日本で5回,西ドイツで2回引き下げられた(第1-4-3図)。その結果,日独の公定歩合はそれぞれ2.5%(過去最低水準),3.O%と極めて低い水準となっている。イギリスは,産油国でもあるという事情から,ポンド相場が原油価格動向の影響を強く受けるため,金融政策は引締めと緩和を繰り返した。

しかしながら,ドル高修正下でのアメリカの金融緩和の進展は,すでにみたように原油価格が低下し,ドル安による輸入価格上昇効果が表面化しなかったために可能であった。そのため,原油価格低下による物価安定効果が一巡し,消費者物価上昇率が高まりをみせていた87年4月時点でのドル下落は,市場での「インフレ懸念」発生の下で同時にアメリカでは長期金利が上昇し,他の国では低下するという,これまでとはやや異なった現象がみられた。こうしたなかで,FRBもややきつめの金融調節を採用するなど,それまでの金融緩和政策に一部変化がみられた。その後,5月以降ドルが堅調に推移するなかで長期金利もやや落ち着きをみせたが,8月中旬以降ドル下落と同時に再び長期金利が上昇基調を強め,9月4日,FRBは公定歩合を0.5%引き上げて6.0%とした。公定歩合引き上げ後も,市場に根強い「インフレ懸念」が存在し長期金利はなお上昇基調を続けた。しかし,市場での「インフレ懸念」発生の1つの背景となっている卸売物価,消費者物価の前年比上昇率の高まりは,昨年の原油価格低下の影響を考慮すればむしろ当然で,前年比でみた物価上昇率は年初にやや高まりをみせたものの,このところ比較的落ち着いている。したがって,「インフレ懸念」が現実化し,インフレが顕在化した事実は今のところ見当たらず,しかも,原油価格は安定的に推移しており,賃金上昇率も依然として物価上昇率を下回っていることから,今後,ただちにインフレが加速するといったような事態に結び付く可能性は小さいとみられる。

一方,アメリカ以外の主要先進国では,自国通貨の対ドル上昇圧力の下で,87年5月頃まではなお金利低下傾向が持続し,それがアメリカとの金利価格差拡大をもたらし,5月以降のドル堅調に寄与した。しかしながら,輸入価格の動向を反映して,87年4月以降消費者物価上昇率が前年比で高まりをみせ始めるとそれまでの市場における過度の金利低下期待からの反動もあって,5月以降長短金利は一斉に上昇基調に転じた。こうしたなかで,各国はそれぞれの国内通貨供給量の増大や為替,物価,景気動向等をにらみながら金融政策のカジ取りを調整し始めた。西ドイツ等では,市場金利の上昇を容認する姿勢をとる一方,イギリスは,長短金利の上昇や個人消費を中心とする国内景気拡大による国際収支の悪化等に配慮して,8月7日,貸出基準レートを1.O%引き上げて10.0%とした。しかし,10月半ばの株価大幅下落の下で主要国の市場金利は低下した。またドルが再び下落するなかでイギリスでは10月26日,11月5日と続けて貸出基準レートを0.5%ずつ引き下げて9.0%とし,西ドイツでも11月6日,ロンバート・レートを0.5%引き下げて4.5%とした。

4. 株価の下落とその背景

アメリカの株価(ニューヨーク証券取引所,ダウ平均)は87年の8月頃からそれまでの上昇傾向から転じて弱含み横ばいとなったが,これには前項でみた,その頃からの金利の上昇傾向が響いていたものと思われる。金利の上昇傾向が強まった10月半ばには連日の株価の下落がみられ,10月19日には終値で前日比22.6%という急落局面となった(第1-4-4図)。

ニューヨーク市場のこの動きは世界的な波及をみせ,各地の株式市場も株価の急落にみまわれた。

しかし,「混乱」ともいうべき事態は一応短期間で収束した。アメリカでは連邦準備制度が流動性の供給源としての役割を果たす旨を表明するなど,多くの当局者が対応を約束する発言を行ったことが,これに寄与している。

ところで,こうしたアメリカでの株価下落の背景となった金利の上昇は,根本的には,貿易収支や財政収支の大幅な赤字に根差す市場での「インフレ懸念」を反映したものであった。そこで,株価の下落はアメリカ政府の財政赤字削減努力の不足に対する市場からの警告という見方が広がった。レーガン大統領も株価の暴落の直後に,議会との協議を開き財政赤字削減のためにあらゆる問題を取り上げることを表明し,実際にも協議にとりかかった。

結局,11月20日,大統領と議会の間で,88年度について302億ドル,89年度について458.5憶ドルの赤字削減の基本的な合意が成立した。

しかし,議会との協議に時間がかかったことの為替市場への影響にもみられるように,市場がアメリカの財政赤字の削減の展望に敏感になっているだけに,世界金融市場安定のためにもアメリカの財政赤字の着実な削減努力が継続されることが望まれる。


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