昭和57年
年次世界経済報告
回復への道を求める世界経済
昭和57年12月24日
経済企画庁
第1章 1982年の世界経済
第2次石油危機以降赤字を続けてきた先進工業国の経常収支(以下,公的移転前)は,第1-4-1表にみるように,80年の437億ドルの大幅赤字から81年には37億ドルの赤字に縮小した。このうち,主要7か国全体では81年に既に経常収支が黒字化したが,その他の先進工業国の経常収支の改善は遅れ,81年,82年と赤字幅が縮小するにとどまるとみられている。
産油国(サウジアラビア・ナイジェリア,インドネシア等12か国)の経常収支黒字は,80年の1.164億ドルから先進国の景気停滞と省エネルギー,代替エネルギー利用の進展等もあって81年には686億ドルとなり,82年にはさらに大幅に縮小するものと見込まれる(OPEC事務局見通しでは赤字)。これに対して非産油途上国では,81年には石油価格の前年比上昇,先進工業国の景気停滞等による輸出の伸び悩み,一次産品価格の低下による交易条件の悪化,世界的な高金利による対外債務利払いの増大などから,経常収支赤字幅が990億ドルヘ急増し,82年も同程度の赤字が見込まれる。
先進工業国の経常収支を国別にみると,アメリカでは79年から投資収益の増加による貿易外収支の大幅黒字が貿易収支の赤字を上回ったこともあって黒字に転じ,80年62億ドル,81年90億ドルと黒字幅を拡大してきた。イギリスでは77年以降黒字化し,特に80年以降は北海原油の輸出増大,国内経済の停滞などもあって黒字幅を拡大し,81年には177億ドルの黒字となった。また,日本も81年に62億ドルの黒字に転じた。これに対して西ドイツの経常収支は,景気停滞による輸入の伸び悩みなどから81年には10億ドルの赤字へと大幅に改善したが,フランスでは輸出の減少,通貨切下げに伴う駆け込み輸入増などから66億ドルの赤字となり,イタリアでも貿易収支の大幅赤字や観光収入の伸び悩み等もあって75億ドルの赤字になるなど経常収支の大幅赤字が続いている。7大国以外の先進工業国の81年の経常収支赤字は80年に比べて縮小しているものの,世界的な景気停滞の長期化などから輸出の伸びが停滞し,なお167億ドルと大きい。
最近における産油国全体の経常収支黒字は80年の1,164億ドルから急速に減少し,81年は686億ドルの黒字にとどまった。これは原油輸出量が80年に前年比12.9%減少し,81年にも16.2%減少したためである。これは,主として2度にわたる石油価格の急騰による消費国における省エネルギー,代替エネルギー利用の進展,先進工業国の経済活動の停滞,非OPEC諸国の石油生産の増大等から,産油国に対する需要が減少したことによる。このため,石油の年平均輸出価格は79年のバーレル当たり19.08ドルから,80年30.91ドル,81年34.31ドルと上昇してきたが,石油輸出金額は80年の2,812億ドルを最高に,81年は2,588億ドルへと減少した。
非産油途上国の経常収支赤字をグループ別(付注1-1参照)にみると,①純石油輸出国(メキシコ,エジプト,マレーシア等12か国)では,石油輸出の停滞と輸入の増大から80年の110億ドルから81年206億ドルへと経常収支赤字が急増している。また,その赤字のファイナンスは民間金融市場に大きく依存し,80年は短期資金に依存していたウェートも81年は長期資金の借入れへのと移った。
②純石油輸入国の経常収支赤字は,80年の752億ドルから81年には784億ドルに増大した。この主因は,石油価格の上昇,一次産品価格の値下がり,ユーロ市場金利等の上昇による利払い額の増加,先進工業国の経済活動の停滞による輸出減等によるものであった。さらに,これを主要工業品輸出国(韓国,シンガポール,ブラジル等10か国),低所得国(インド,パキスタン,中国等41か国),その他の純石油輸入国(タイ,フィリピン,チリ等)に分けてみると,低所得国の経常収支赤字は79年の116億ドルから80年は170億ドルに増加したが,81年は122億ドルへとやや減少した。しかし,これはすでに削減困難なほど抑制された輸入の一層の削減によるものである。この赤字ファイナンスの大部分は公的機関からの長期借入れでカバーされた。これに対し,その他の純石油輸入国の経常収支赤字は79年の174億ドルから80年258億ドル,81年302億ドルへと大幅に増大した。その赤字ファイナンスは,大部分が,公的機関と民間金融機関からの長期資金の借入れでまかなわれたが,低所得国とともに民間短期資金の借入れは少なかった。これらのグループに対し,主要工業品輸出国の経常収支赤字は79年の215億ドルから80年324億ドル,81年360億ドルと急増した。その赤字ファイナンスの大部分は民間金融市場に依存し,純石油輸出国と同様に,80年に短期資金に依存していた借入ウエートも81年は長期資金借入れへと移行した。
一部の先進工業国や非産油途上国の経常収支赤字のファイナンスには,公的移転,公的機関からの借入などによる方法と,ユーロ市場等の国際金融市場からの借入の方法とに分けられるが,第1次石油危機以降,国際金融市場等への依存が高まってきた。
ユーロ市場を通ずる資金調達は,81年までは順調に行われてきたとみられる。すなわち,ユーロ市場の規模を総預金残高でみると,81年末は1.86兆ドル(82年6月末1.9兆ドル)で,第1次石油危機前の72年末の2,100億ドルの約8.9倍,第2次石油危機前の77年末の7,400億ドルの約2.5倍の規模に達している。
しかし,石油輸出国のオイル・マネー運用額は,81年には石油輸出数量減,石油価格の軟化の影響をうけて539億ドルへと80年に比べ4割近くも減少してきており(第1-4-2表),さらに石油輸出国の経常収支が82年には赤字に転ずるとの見通しもある(OPEC事務局)。こうした中で,80年以降,産油国の資産運用態度が,銀行預金等から金利の高い中長期の財務省証券などへ移行している。
ユーロ市場における資金の供給と借入需要の状況をみると,81年の資金供給の最大の出し手は米国所在銀行と,米銀オフショア支店および非銀行部門で,日本の銀行も対外貸付を増加させた。一方,借入需要は非産油途上国,東欧諸国が輸出不振,既往債務の元利支払いの負担増から,また,先進国でも経常収支・財政赤字ファイナンス,企業の収益悪化から,資金需要ば旺盛であった。しかし,貸手側は融資先の選別を強め,スプレッドの国別格差の拡大がみられる。
こうしたユーロ資金をぱじめとする国際的資金の取り入れ形態に最近大きな変化がみられ,中長期資金についてはシンジケート・ローンなどの融資によるものよりも,債券発行による資金調達が急増している。第1-4-3表にみるように,ユーロ・クレジット組成額(公表されたもののみ)は80年に774億ドルで,前年比6.5%減少した後,81年は1,334億ドルと72.3%の著増をみた。しかし,82年1~10月間は744億ドルにとどまり,前年同期比では35.2%減と再び減少した(なお,81年7月に企業の買収資金を中心とする対アメリカ融資が急増した。これを除くと伸び率は同0.5%減にとどまっている)。また,82年9月以降非OPEC諸国及び社会主義国向けが大きく減少している。
このように,ユーロ・クレジット組成額に減少もしくは伸びの鈍化がみられるのは,国際信用不安の高まりから融資の選別化が進むとともに,短期信用等ヘシフトしたためとみられる。
これに対しユーロ債および外債の発行額は増加を続けている。80年は419億ドルと,ユーロ・クレジットの組成額と比べその54.2%であった。81年は530億ドルで同39.7%に低下したが,82年1~10月には前年同期比76.3%著増して669億ドル,同90.0%とほぼ同水準まで近づいている。
このようにユーロ債及び外債発行額の伸びが大きいのは,金融引締め下でアメリカやカナダの企業による買収資金の調達やゼロ・クーポン債などの発行が増加したことが主因であるとみられる。
1980年秋以降急上昇を続けてきた米ドルは,米国の金利低下に伴って,81年8月初をピークにかなりの低下をみせた。しかし,その後は,12月初をボトムとして米ドルは再び上昇に転じ7月,9月とピークをつけ,その後も強含みに推移した(第1-4-1図)。こうした米ドルの独歩高は,アメリカでの長期間の金融引締めで流動性が不足したこと,アメリカの金利が上昇したうえ物価の上昇率が落着いてきたため,長期の実質金利が上昇したこと,レーガン政権が相対的に安定しており,ファンタメンタルズの主要な構成要素の一つである経常収支が黒字であること,さらに,ポーランド問題や中東紛争,中南米諸国の債務累積問題といった政治的緊張のなかで,ドルが一時的避難通貨として選好されたことなどが原因となっているとみられる。
欧州通貨の対ドル相場は,80年後半あるいは81年初以降急落を続げたのち,81年8月から12月にかけて回復をみせたが,その後は一時的な戻しばあるものの下落傾向が続いている。
欧州通貨制度(EMS)内では,各国とも大幅な経常収支赤字と高率インフレの中,その収束速度の差等を反映して,強い独マルク,オランダ・ギルダーと,弱い仏フラン,ベルギー・フラン等という状況が続き,81年3月,10月,82年2月,6月と1年余の間に4回の中心レート調整が実施された。
独マルクは対ドル相場は弱いものの,経常収支赤字の縮小のテンポが速く,インフレ率も相対的に低いため他の欧州通貨に対しては強含みに推移し,EMSの中心レートに対して81年10月5.5%,82年6月4.25%のそれぞれ切上げを行ない,その後も堅調に推移している。(第1-4-2図)。
仏フランスは,81年5月の政権交替以後再三のフラン防衛策の発動にもかかわらず,売り圧力が続き,81年10月EMSの中心レートに対して3%の切下げを実施した。しかし,82年に入っても経常収支赤字の拡大,インフレ鎮静化の遅れもあって依然軟化が続き,市場介入金利の引上げや為替管理の強化等にもかかわらず,82年6月には再び5.75%の切下げを余儀なくされた。
その後も依然基調は弱く,9月にはフラン防衛のための40億ドルの対外借入れ計画を決定した。
伊リラ,ベルギー・フランも経済パフォーマンスの弱さや,政治的不安定もあって弱含みに推移し,81年,82年中に伊リラは3回,ベルギー・フランは1回のEMS中心レート調整を余儀なくされた。
英ポンドは,81年に入ってイギリスの金利低下,景気停滞などから他の欧州通貨と共に急落したが,9,10月の金利上昇等により年末から年初にかげて反騰した。その後はフォークランド紛争の発生により82年4~5月の間,やや軟化したものの,金利引下げが徐々に誘導されたにもかかわらず,総じて堅調に推移した。
他方,82年10月,スウェーデン・クローナが16%切り下げられるなど,北欧通貨切下げ競争ともみられる連続的な切り下げが行われた。