昭和52年
年次世界経済報告
停滞の克服と新しい国際分業を目指して
昭和52年11月29日
経済企画庁
第3章 緩慢な回復の背景と脱出の条件
今回の景気回復局面,とくに76年以後,先進主要国の財政金融政策は総じて慎重なものとなっている。この点は,高い物価上昇率や経常収支の赤字に悩まされているイギリス,フランス,イタリアなどで特に顕著であった。また,予算を編成した段階では,景気抑制を意図したものでないにしても,実際の支出が予定を下回ったり,民間需要の伸びが予想を下回ったために,結果的に景気が思ったほど上昇しなかったということも見受けられる。
以下では,財政収支の実績と,マネー・サプライの動きを中心に,回復過程の財政金融政策が,景気に対してどのような効果をもっていたかを検討する。
74~75年の不況に際してとられた各国の財政刺激策は大規模で,とくに75年にとられた対策は,過去の不況期を大きく上回っており,不況の克服に大きな力を発揮した(第III-4,5表)。たとえば,75年のアメリカの政府支出(地方政府を含む。以下,本節では同様)は,前年比16%も増加したが,これは同年の名目GNP増加率の2倍に相当する。同時に,この年には228億ドル(GNPの1.5%)にのぼる史上最大の減税も実施された。その結果,連邦政府の財政収支尻をみると,74年の赤字107億ドルから,75年には702億ドルの大幅赤字へ,595億ドル(GNPの3.9%)も赤字が拡大している。この赤字幅拡大の対GNP比率は,58年不況時の2.8%,70年不況時の2.1%をはるかに凌駕している。
西ドイツでも,75年の政府支出は前年比13.8%増大し,同時にGNPの1.3%に及ぶ減税が実施された。また連邦政府の赤字は74年の103億マルクから,75年には331億マルクヘ,228億マルク(GNPの2.2%)拡大した。同様のことはフランス,イギリスについてもみられた(第III-4表)。
しかし,76年になると,多くの国の財政政策は一転して慎重になった。
まず,アメリカについてみると,76年の財政支出ば前年比7.4%の増加にとどまり,同年の名目GNP増加率12%を大きく下回った。一方,収入は14.5%も増大し,その結果,連邦政府の財政収支赤字は75年の702億ドルから76年には540億ドルヘ,162億ドル縮小している。この赤字幅縮小はGN Pの0.9%に相当する。77年に入ってからも同様の傾向がつづいており,77年1~6月の赤字幅縮小は,GNPの0.7%に相当するものであった。
西ドイツでも76年の連邦政府の歳出は前年比3.5%増にとどまり,物価上昇を考慮すると実質ではむしろマイナスになったと思われる。一方,歳入は10%増加したために連邦政府の財政赤字は259億マルクヘ,前年比72億マルク(GNPの0.6%)の縮小を示した。77年についても,政府の予算案(1月末)によると,名目GNP増加率8.5-9.5%を予想しつつ,連邦政府の歳出は6%の伸び,一方,歳入は9%の増加となり,財政赤字もさらに27億マルク(GNPの0.2%)削減することになっていた。その後,春になって4年間160億マルク(77年度分35億マルク)の特別公共投資計画が追加されるなど若干の刺激策が打ち出されたが,全体としての慎重な性格はかわらなかった。
フランス,イギリスについても,第III-4表にみられるように,①76,77年(77年は当初予算)の中央政府歳出が名目GNPの伸びを下回っている,②歳入の伸びは歳出の伸びより大幅である,③その結果,76年度は両国とも,77年度についてはフランスの財政赤字が縮小している,という点で同様の傾向がみられる。
もちろん,以上に示した数字はただちに,財政が抑制的に働いたことを意味しているわけではない。不況期の大幅な赤字財政によって景気が回復に転じれば,翌年には支出の伸びは不況期にくらべて低めになるというのもこれまでしばしば見られたところである。また景気回復が順調に進んだ結果,所得が増大し,歳入もふえ,結果的に財政赤字が縮小するのであれば,これはむしろ望ましいことだといえる。
しかし,アメリカは別として,76~77年,とくに77年には,景気の回復が予想通りには進んでいないなかで政府支出の伸びが低下し,財政赤字も縮小した。
過去の回復期についてみると,第III-5表のように回復第2,3年目には,政府支出の伸びは不況年のそれを下回り,財政収支も赤字が縮小(または黒字が拡大)する傾向を示している。しかし,その程度は今回ほどではない。たとえば,アメリカでは70年不況後の72年,61年不況後の62年には,政府支出の増加率は名目GNPの伸びを上回っていたし,71年,62年はともに回復2年目でありながら財政赤字はむしろ拡大した。58年不況後の財政の姿は今回と似通っており,このときは他の要因も重なって回復が短命で,60年には再び景気後退に見舞われたことは見逃せない。
西ドイツでも,過去3回の景気後退についてみると,上記のような現象が2年つづいてみられたのは,67年不況後の時期だけであった。
このように76年以後,多くの国の財政政策が慎重なものになった理由としては,第一に,インフレの再燃を警戒し,過度の刺激を避けようとの配慮が働いたこと,とくに72~73年に各国が一斉に拡大策をとった結果,同時的ブームとインフレをひきおこしたことへの反省から,拡大策は多少控え目に実施しようとの考え方が広まったこともその一因と考えられる。第二に,英・仏・伊などは国際収支赤字やインフレ抑制の必要を考慮したことが挙げられる。第三に,76年前半までの景気回復が予想外に急速であったために,財政面からの刺激を加えなくても,民間需要を中心とする持続的上昇が可能であろうとの期待が生じたことである。この点も76,77年予算の編成に多少の影響を与えたものと思われる。第四に,多くの国で,財政赤字を縮小させたいという考慮も強く働いていた。75年の中央政府赤字のGNPに対する割合は,アメリカ4.6%,西ドイツ3.2%,フランス3.O%,イギリスでは6.4%にも達している(第III-2図)。また西欧諸国,とくにイギリスでは政府支出規模がGNPの40%以上に達し,経済全体の効率をたかめるためにも,財政の膨張を阻止する必要が強調されるようになったことも,政府支出を抑制する一つの原因となった。
かくして,政府支出の削減,赤字の縮小が多くの国で重視されるようになった。カーター米大統領は1980年までに連邦財政の均衝化を実現する旨,公約したし,西ドイツでも75年9月作成の中期財政計画(75~79年)により,連邦財政の赤字を中期的に大幅削減する方針が打出され,次の財政計画(76~80年)においても同様な方針が堅持された。このような事情が重なって,今回の回復過程における財政政策を慎重なものにしたとみることができる。
政策当局の慎重な態度は,マネー・サプライの動きにも現われている。76年と77年1~6月における主要国のマネー・サプライの増加率をみると第III-6表のとおりである。こねでみると,76年以後の増加率は,アメリカがひとり民間活動の活発さを反映して高い伸びとなっているほかは,流動性が急増して問題となった71~72年にくらべて著しく低いのはもちろん,比較的通貨供給が安定していた60年代と比較しても決して高くない。たとえば,西ドイツ,フランスでは,76年および77年前半におけるマネー・サプライの伸びは,60年代前半の平均を大きく下回っている。
この傾向は,物価上昇率を考慮した「実質マネー・サプライ」の動きをみるとさらに明瞭となり,名目では大きな伸びを示していたイギリス,イタリアでも実質ではどの時期に比べても小さな伸びとなる。名目マネー・サプライと名目GNPとの関係でみても同様なことがいえる。
このように,76年以後のマネー・サプライの伸びが控え目なものにとどまっているのは,民間の投資活動が概して低調で,資金需要が弱いという事情もあるが,同時に,インフレ鎮静化のために政策当局が慎重な態度を維持していることが大きくひぴいている。
以上のように,回復2年目に当る76年以来慎重な財政金融政策がとられたことは,インフレ再燃の防止,インフレ心理の鎮圧という面では効果があったとみられる。その反面,とくに西欧諸国では民間投資の伸びが予想を下回ったことも加わって,結果的にみると控え目なものになり,全体としての需要回復が遅れる一因になったとみられる。