昭和47年
年次世界経済報告
福祉志向強まる世界経済
昭和47年12月5日
経済企画庁
第2部 世界の福祉問題
第2章 先進国―生活の質の追求―
インフレが福祉に重大なかかわりをもつのは,それが所得分配の不公正を拡大する点にある。社会保障が所得の再分配を通じて福祉を積極的に進めているのに対して,インフレがこれをほりくずす作用をしているところに問題がある。そのインフレが近年各国で加速化していることに江目したい。先進諸国におけるインフレの加速ぶりをOECD諸国全体でみると,60年代なかばで消費者物価の上昇率は2%台で推移していたところ,後半に入ってから65~67年3%,68年4%,69年5%,70年6%と急ピッチの上昇を示すにいたった。71年にはこれが5.5%とわずかながら低下,72年央には4~4.5%とさらに落ちこんだが,これをもって世界インフレが峠を越したとは即断できない状況にある。71年の場合,とくに後半,世界的に景気が低迷した時期であったにもかかわらず消費者物価の低下幅はむしろ小さすぎたとみるべきである。しかも国別にみると,OECD諸国全体で約半分のウエイトを占めるアメリカは71年8月15日から90日間の物価凍結を行ない,そのあとも強制的に上げ幅を抑えることによって,物価抑制の効果をあげた。他方ヨーロッパの物価は一本調子に上がったあと,年末近くからわずかながら下り出した。
71年から72年前半にかけてのインフレ減速については次の2点から割引いて考えなくてはならない。
① OECD23ヵ国のうち,オーストラリア,西ドイツ,スイス,日本を除く実に19ヵ国が一般的な物価統制(法的な価格凍結ないしは自発的な価格抑制ないしその双方を含む中間的措置)を行なっている。
② 71年5月から数えると,多くの国で為替レートの切上げが行なわれた直後の1年である。自国通貨建ての輸入価格は切り上げ幅ほどではないにしても,それなりに安くなっているはずである。
切下げ国のアメリカは,本来大幅な物価上昇に見舞われるはずのところ,強力な所得政策で物価を抑えこむことに成功しているのであるから,切上げ国の物価が切上げ幅どおりに低下していたら,OECD諸国全体の消費者物価はもっと下がっていたであろう。不況,切上げ,所得政策,この3拍子そろっても物価が思うように下がらないということは,いかにインフレ要因が根強いかを物語るものである。
戦後復興が終ったあとの50年代後半,完全雇用の影に忍びよるインフレーションが関心をひく問題となった。財政支出を中心にした需要超過という昔からの原因のほかに,労働需給のひっ迫がインフレの原因であるとする声がきかれるようになった。西ドイツでは当時早くも経常収支黒字が国内通貨の増発をもたらし,いわゆる輸入インフレーションとしてとらえる見方が有力になってきた。また,農産物価格政策など政府の産業保護政策をインフレ原因のひとつとしてとりあげるなど,産業構造にも目が向けられた。さらにイギリスの場合は,設備投資の不振が供給力を弱め,生産性の上昇をにぶらせ,賃金上昇はそのまま価格に転稼せざるをえなくなっている点がとくに指摘されるようになった。
理論的にはこれらのインフレの要因を①国内要因と海外要因,②超過需要をつくりだす要因と供給不足をつくりだす要因,③景気対策で対処しうる要因と構造政策で対処しなければならない要因に分けることができる。しかし実際には,個々の国ごとに,またそれぞれの時期ごとにそのあらわれかたがちがっていて,各国政府のとる対策の重点も異なってきたのが実情である。
ここでは個別の原因探究に深入りするかわりに,西ドイツ経済諮問委員会1966年年次報告の1節を紹介しておきたい。
インフレがスパイラルを描きつつ高進しはじめたのは何をしたからなのか,何をしなかったからなのか,あるいはそれに歯止めをかけるには,どんな手段がもっとも効果的なのかについて客観的に論理を展開するのは不可能に近い。
と原因分析がそれほど簡単なものでないとし,物価水準の年間3%の上昇に社会が慣れてしまうならば,インフレーションの原因に関する従来の考え方は無意味になる。
と述べている。その西ドイツが今年も5%を越す消費者物価の上昇に直面している。本当にこわいのは,インフレ期待である。現在ECでは,インフレ期待に立って価格引上げを行なうような状況にもっとも注目している。今や,景気回復のための政策が非常にカネのかかるものになろうとしている。
所得政策にもっとも批列的であったアメリカのニクソン大統領が,71年8月15日にこれを断行したことに象徴されるように数多くの国が思いきった政策をとりだしたのは,先に述べたようにインフレが5%,6%といった水準にまで加速してきている現状を,各国政府当局者がひとしく重大視しているからである。
各国のとっている物価統制はもちろん,法的な物価凍結から政府の要請による業界の自主的な価格引上げ手控えまで多様である。西ドイツでは五つの民間経済研究所の合同報告(当時のシラー経済相が支持)がインフレ抑制を最大の課題であるとし,労組がむやみに賃上げを要求し企業はこれをのんで安易に価格に転稼していれば,いつかは企業はマーケットを失い,労働者は職を失うことになることをしらしめるため,変動相場制の実施を提唱した。
自由主義経済理念から物価統制は絶対に避け,むしろ為替レートを自由にすることによって,企業および労組の物価・賃金引上げをけん制すべきであるとの主張がなされたところに特徴がある。市場メカニズムを阻害する点は警戒されつつも,現在各国とも物価統制を継続または強化している。たとえば①アメリカは当初72年央には統制を解除すると予想されていたが,世論の支持のもとに継続されている。②イギリスでは,これまで業界が自主規制を行なってきたが,自主規則期限ぎれをまえに9月末所得政策を労使双方に提示した。しかし,11月2日公労使間の話合いが決裂したため,ついに政府は11月6日物価賃金等についての90日間凍結を主たる内容とする法案を提出した。③フランスは産業ごとに行政指導的な物価統制をはかっているが,8月末これを強化すると同時に,73年3月まで公共料金を凍結する旨発表した。
さらに景気立直りとともに財政面からの過熱が心配されはじめている。たとえば,①アメリカ経済諮問委員会年央報告(8月)は予算膨張の抑制が,インフレ対策成功のための最も重要な条件であるとしているし,②ECでは共通インフレ対策を検討しているが,まず来年度予算の伸び率は国によって多少の相違を認めるものの,ほぼ10%が妥当であるとし,ECの予算委員会が加盟国の73年予算の執行状況を四半期ごとに審査することにしている(イタリアは不況脱出のために例外)。ECの場合これまでもこういった提案はなされてきたが,インフレがすでに4年以上にわたって継続していることを重視し,雇用状況の改善がみこまれることから,各国に実施をもっと強く迫り,73年の消費者物価を3.5%に抑えようとしている。発表された西ドイツ,フランスの予算案はほぼこの線に沿ったもので,景気安定ないし中立を目標としている。
金融政策についても,各国の国内流動性の増加率を,その国のGNP伸び率に目標とする物価上昇率を加えた率にとどめるよう要請している。
欧米各国の現段階での政策態度は,今後は物価抑制を最優先すべきであるとい,うイングランド銀行の四季報(9月)に代表されている。強力な施策にもかかわらず,インフレはまだ完全に収まっていないが,いくぶんなりとも沈静化してきたこの機会に,インフレは収束させることができるという確信を,企業,労組,消費者はもつ必要がある。インフレ対策の効果は,短時日で現われるものではないという認識が強まりつつあるが,だからといってそれをおろそかにすれば,インフレは長期的に加速していく。インフレ抑制をあきらめてはならず,要因のひとつひとつをたんねんにつぶしていく努力は,今後ともつづけなければならない。
これは次の5つに分けられる。
a. 年金受給者
収入が固定されている人々の実質所得水準は,インフレの率だけ低下する。たとえ所得が増加しても物価がそれ以上にあがれば生活は逆に苦しくなる。たとえば年金の給付水準が引上げられるにしても,その実施が遅れがちであれば,インフレによる損失はまぬがれない。
b. 賃金労働者
毎年賃上げしているはずの賃金労働者の場合でも,実質所得が低下するという現象がおこりうる。第2-11図が示すように,アメリカ製造業労働者の週平均粗名目所得は,60年代前半に平均3.7%,後半に平均4.5%と増加率を高めたにもかかわらず,実質所得では前半の平均2.4%の増加に対して,65~68年は平均1.1%の増加にとどまり,さらに68~70年には平均マイナス1.1%と落ちこんだ。所得がインフレによって減価しているといえよう(70年の場合は不況による操業時間短縮が加わっている)。イタリアでも同様に実質所得の減少が問題になっていて,賃上げをめぐる年中行事のスト,そして企業家の投資手控えと,事態が悪循環している。インフレが持続しているところから,生計費の上昇にあわせて賃金を自動的に改訂していく生計費条項(エスカレーター条項)が賃金労働者の対抗手段として脚光をあびてきた。アメリカでは1950年代にかなり多くの産業でこれが実施されていたが,その後,打ちきられていた。ところが,70年11月合同自動車労組と,GMの協約で無制限生計費エスカレーター条項が復活し,以後生計費エスカレーター条項の適用をうける労働組合員の数は急速に増加している。ヨーロッパでもフランス,ベルギー,オランダ,イタリア,デンマークにおいて賃金の生計費エスカレーター条項が採用されている。エスカレーター条項はインフレを是認し,定着させるという批列もあるが,現在でばむしろ賃金の実質水準を,保障することによって,労働組合の必要以上の賃金引上げ要求をかわすことができる利点が指摘されている。
第2-12図 アメリカにおいて生計費エスカレーター条項の適用を受ける組合員数
c. 低所得階層の人々
物価が上昇しているといっても,家計に与える影響は所得階層によって一律ではない。一般的にいって長期的にみると,給料袋が薄いものほどインフレで不利をこおむるといわれている。
d. 財産の少ない人々
財産の多い人はインフレによる不利を少なくし,時によっては財産をふやすことさえできるが,財産の少ない人々にとってはそうはいかない。インフレ・ヘツジの対象としては,①預金・債券などの金融資産と,②株式ならびに土地などの実物資産が考えられてる。預金や債券は安全ではあるが,利回りが低く,株式,土地は高い値上がり益を見込すことのできる反面,下落の危険性が常につきまとっているが,インフレが定着していれば,その下落の危険性は小さくなる。そこで人々の所有資産の選好パターンは金融資産から株式や実物資産へ移行することになるが,株式や実物資産は一般に高価であって手許に余裕の少ない人たちにとってはそれは求めにくい。したがってインフレヘッジといってもそれができるのは財産家に限られる。消費者物価の上昇が長年にわたっているわが国では,財産保全への関心が一般に強いが,それの可能・不可能が所得の不平等を一層増大させる結果になっている。土地の値上がりにそれが尖鋭的にあらわれているが,この土地の値上がりは福祉をめざす社会資本建設の大きな阻害要因にもなっている。
e. 消費者(家計部門)
どこの国をとっても金融資産を全体としてみると,企業が借り手で個人が貸し手である。インフレによって借り手の実質的な負担は減少するが,これをインフレによる債務者利潤といっている。これは政府が借り手になっている場合,それが公共サービス価格の低廉につながっている限り国民一般に還元されているとみられるが,企業のそれは企業活動に参加するものだけに分配されることになる。
各国は,低所得層や経済成長に直接参加できない階層に対するインフレの不公平な影響を是正するために各種の措置をとっている。
a. 年金のスライド制
年金の主旨が,長期的な所得喪失に対してある水準以上の生活保障をすることから,年金のスライド制は当然行なわれなければならない。ILO第102号条約の第66条第8項では「老齢・業務災害(労働不能の場合を除く)。
廃疾および扶養者の死亡に関する定期的支払いの額は,生計費の相当な変動により一般所得水準に相当の変動があった場合には,検討を加えるものとする」と規定されている。この年金スライドの方法には二種類ある。一つは,政府が一定の期間をおいて政策的に調整する方法であり,ふつう政策スライドとよばれている。第二は,何らかの指標にもとづいて自動的ないしこれに近い形で調整する方法であって,自動スライド方式とよばれている。欧米先進国ではほとんどの国がこの自動スライド方式をとっている。日本のように政策スライド方式をとっている国はイギリスとアメリカしかなく,そのアメリカも75年から自動スライド制を採用することが72年央成立の法律できまった。またイギリスも75年から毎年調整する方針を明らかにしている。
この自動スライド制には,物価スライド制と賃金スライド制の二種類があり,厳密な意味でのインフレ・ヘッジとしては物価スライド制をあげるべきであろう。たとえばスウェーデンでは消費者物価が3%上昇するごとに年金額をそれだけ増やしていくし,ベルギーでは2.5%上昇ごとに,またイタリアでは2%上昇ごとにスライドすることになっている。こうした自動的な物価スライドは,インフレに対する調整をすみやかに行なえること,年金生活者に安心感を与えるというメリットがある。なお欧米諸国で広く普及している企業年金の場合には,スライド制はまだあまり実施されていないようである。
b. 最低賃金の生計費スライド制
賃金の生計費スライド制については,労使間の問題として上述したが,最低賃金制にこれを採用している国としては,フランスの例をあげることができる。それは法定最低賃金を全国消費者物価指数にスライドして決定することとし,前回決定時から同指数が2%以上上昇した場合,指数発表の次の月から同率に引上げるというものである。