昭和47年
年次世界経済報告
福祉志向強まる世界経済
昭和47年12月5日
経済企画庁
第2部 世界の福祉問題
第2章 先進国―生活の質の追求―
1972年は第1回「国連人間環境会議」(United Nations Conferenceonthe Human Environment)が開かれた年,歴史上の一つの転換点として後世に語りつがれよう。場所はスウェーデンのストックホルム,期間は6月5日から16日までの2週間,会議には世界114ヵ国代表約1,200名のほか,各種の主要国際機関の代表が出席した。
Only one earth(かけがえのない地球)というキャッチ・フレーズが示すように,このままではわれわれの生命と福祉の基盤である地球上の環境に対して大規模で取り返しのつかない害を与えることになる,といった切迫した懸念がこれほどまでの大会議にまでもりあがったものといえる。採択された「人間環境宣言」では26の原則をうたっているが,その第1が環境に関する権制と義務とでもいうべきもので「人は尊厳と福祉を保つに足る環境で,自由,平等および十分な生活水準を享受する基本的権利を有するとともに,現在および将来の世代のために環境を保護し,改善すべき厳粛な責任を負う」としている。
この会議は環境問題を大気汚染,水質汚濁といったいわゆる公害問題ばかりではなく,きわめて広い視野に立った,一言でいえば人間を含めた生物のエコシステム(生態系)の問題としてとりあつかっている。それだからこそ,現在の世代の問題としてばかりではなく,将来の世代のためにも人間環境を守り改善することを人類にとって至上の目標としているのである。環境問題に対する意識は70年代に入って大きく変革したといえる。
ここでストックホルムまでの道程を振り近ってみよう。公害問題自体は,けっして新しいものではない。産業革命以降,技術の発展,経済の成長にともなって,ひとの健康または生活環境に被害をおよぼす公害の種類は増加し,今では大気の汚染,水質の汚濁,土壌の汚染,騒音,振動,地盤の沈下,悪臭など多岐にわたり,ますます深刻化している。ここではもっとも問題になっているものの一つとして大気汚染問題の歴史を簡単にとりあげてみよう。
大気汚染は鉄と石炭の時代に入って,まずばい煙の問題としてとりあげられた。イギリスでは1836年の公衆衛生法において,ばい煙を法定の生活妨害と規定している。また,アメリカでは1864年,セントルイスで民事訴訟が提起されている。その後主要都市でつぎつぎにばい煙防止のための条例が制定されたが,一般的には工場から立ちのぼる煙は町の繁栄であり誇りであるとされ,これが実際にどの程度まで健康に有害であるか確かめることもできないまま,大気汚染は先進国の主要都市で進行の一途をたどっていった。
これが社会問題になりだしたのは20世紀の30年代であるが,戦後の経済成長はこれを加速化した。大気汚染のおそろしさを宣伝させた事件としては,1948年10月アメリカのペンシルバニア州の工業都市ドノラで5日間にわたって煙霧がおおい,住民に多大の被害を与えた事件(工場からの亜硫酸ガス,硫酸ミストおよび浮遊粉じんの相乗作用により,死者20名のほか,人口14,000人のうち呼吸器系統の重症者多発),1952年12月のロンドン・スモッグ事件(石炭燃焼による高濃度の亜硫酸ガスおよび浮遊粉じんにより,2週間に4,000人の死亡,全年齢層に呼吸器系の疾患が多発)などがある。
1962年になると,ロサンゼルス市で石油エネルギー時代に入ったことを思わせる光化学スモッグが生じている(自動車,石油精製工場などから排出されるオキシダント,炭化水素,窒素酸化物,亜硫酸ガスなどのため,全市民が不快感を訴え,家畜,植物,果実も損害を受けた)。
大気汚染は上述した都市にとどまらず,その他の大都市で深刻化する一方,中小都市にもこれが拡がっていった。
アメリカでは多くの州,地方自治体は,大気汚染に対して法的規制にのり出したが,1955年連邦政府は「大気清浄法」を制定し,大気汚染除去のため技術開発に援助を与え,州などの規制対策に対しては技術的,財政的援助を行なうこととした。63年改正法は,大気汚染の予防および規制は第一次的には州および地方政府の責任であると明記しているが,州際間の大気汚染問題が意識され,これに対する連邦政府の関与を認めている。公害の発生が地域的なものだけでなく,州間にまたがる問題も出てきて連邦政府の介入が必要になってきたのである。
1970年「大気清浄法改正法」(マスキー法)が成立してアメリカの環境対策は大きな変革を遂げた。変革の第1は環境保護庁が全国大気環境基準と,重要な新しい汚染発生源や有毒物質を排出する全施設に対して,全国基準を設けることである。そしてさらに,各州が全国大気環境基準を達成するために,既存の汚染発生源に対して排出基準を設けるきいの大綱を設定したことである。すなわち環境対策の第1次的責任はそれまでの地方優先から国に移行・したのである。変革の第2は,アメリカ国民の足であり,GNPからみても最大の産業である自動車の排出ガス規制を強化したことである。すなわち,1975年以降の生産車から排出される炭化水素と一酸化炭素の排出量を現行より90%削除すること,また,76年以降の生産車から排出される窒素酸化物を同じく90%削除することとしている。
次に,1952年ロンドン・スモッグ事件のあと,イギリスがどのような措置をとったかをみてみよう。ここでも住民,地方,国の3者の協力がみられる。
1956年「大気清浄法」が制定され,これによって自治体が住宅・地方行政省の承認をえて特定の地域をばい煙規制区域に指定した場合には,その地域内の炉,ボイラーの燃料を無煙炭,ガス,電気などに切換えなければならない。そのための設備改造費用の7割は国,自治体が負担することとした。この効果があって第2-15図に示すようにばい煙の排出量は急減している。
大気汚染に限らず,公害問題に対する国の役割が増大してきている。スウエーデンの環境保護法(69年),アメリカの連邦環境政策法(69年),日本の公害対策基本法(67年,70年改正)など汚染対策の基本法とも呼ぶべきものが相ついで立法化されるとともに,67年のスウエーデンの環境保護庁の設置を皮切りに70年イギリス,アメリカで,71年,カナダ,日本などで環境行政の一元化が行なわれ,また,アメリカ,イギリス,日本などで環境問題を総合的見地からとらえるべく環境白書が発表されている。日本の公害問題は,国土の狭小さと急激な経済成長から欧米先進国以上に深刻化している。地方自治体では,ばい煙に関して早くから条例を出していたが,国が公害問題をとりあげたのは,1958年の水質保全法からである。その後,各種法律によって規制対象となる公害の種類を拡げ,67年には国民の健康を保護するとともに,生活環境を保全することを目的とする公害対策基本法を制定したが,生活環境の保全については経済の健全な発展との調和を図るべきこととしていた。この調和条項が削除され,環境保全自体に絶対的意義を認めるという考えを明確にしたのは70年の改正法においてであり,その後も規制の強化が一段と進められている。
規制の強化に関して,最近,アメリカでは環境保全論者と企業家との間の論争がさかんである。後者の主張は「Wait a Minute」の一言に象徴され,公害防止が,雇用,物価,国際収支におよぽす影響を考慮すべきだと主張する。72年3月,環境委員会,環境保護庁,商務省の共同調査「汚染対策の経済的影響」は,こういった批判にこたえたものである。それによると汚染対策の影響として,72~76年にGNPは0.29%低下,先業率は0.1%上昇,消費者物価は0.23%上昇するが,77~80年になれば影響は薄くなるとしている。
72年,OECD環境委員会は汚染防止コストの配分と,それが貿易に与える影響を検討した結果,「汚染者負担の原則」(Po11uterPaysPrinciple,略してP.P.P.)を含む「環境政策の国際経済面に関するガイディング・プリンシプル」を採択した。ほとんどの国が汚染問題の緊急性,地域問題,中小企業問題などから過渡的な手段として補助金制度や租税優遇措置などP.P.P.の例外措置を行なっているが,先進諸国はP.P.P.に原則的に賛成している。
公害の問題は1国だけの問題にとどまらない。実際の被害としては水の汚染にその例が多い。とくに注目されているが代表的な国際河川,ライン川であるが,「ヨーロッパの排水路」とよばれるほどに汚染がすすみ,このため1950年,関係国によるライン川保護委員会が設置された。しかし,69年には西ドイツ領内で殺虫剤による汚染から大量の魚が死に,飲料水源としている下流のオランダの強い非難を受けるといった事件が発生している。次に,漁業資源の宝庫,北海では,河口からの排水や航行船舶からの油汚染を主因に汚染が目立ってきたため,沿岸諸国の間で69年「北海油汚染処理協力協定」が結ばれた。また,ボスニア湾沿岸の工業化がすすむにしたがい,7ヵ国,約60の都市にかこまれるバルト海の汚染は急速に進んでいる。このためスウエーデンは一国だけの努力では汚染防止は不可能であるとして,沿岸諸国の協力をよびかけ,関係国会議の開催に成功している。さらに72年2月,ヨーロッパ12ヵ国により海の汚染防止を目的として投棄禁止対象物質を具体的に指定したオスロ条約が結ばれている。また,カナダ国民はアメリカと国境を接する東南部のセントローレンス河,五大湖沿岸で人口,生産の集中から汚染が急速にすすんでいることを心配している。
先進諸国において集中的にみられる環境汚染はこのような周辺国にとどまらず,今や全地球的な規模にまで広がってきているうえに,その汚染速度が速くなっている。こうした状況を背景にストックホルム会議では,行動計画のひとつとして国際的な汚染物質の把握と規制がとりあげられた。
まず,海洋の汚染が油汚染の急激な進展を中心に大問題となっている。これは単に美観をそこなうだけでなく,水産資源の90%を占めるといわれる大陸棚の汚染による水産食糧の危機や,地球上の酸素の重要な部分を生産する植物プランクトンの減少という人類の生存にまで影響をおよぼすほどの意味をもっている。またDDTなど農薬による汚染も極地動物やそれを食糧とするエスキモーの体内にまで蓄積されるにいたっている。次に,大気汚染に関してみると,人間活動の稀薄なグリーンランドの氷雪調査によれば,氷雪に含まれる鉛の農度はガソリンに鉛を添加しだした20年代から大幅な上昇を示し,50年代以降これが著しくなっている(第2-16図)。また,大気中の炭酸ガスは燃料の燃焼によって年0.2%づつ増加しているといわれ温室効果による地球気温の上昇が懸念される。他方,浮遊粉じんの増加が大気の透明度低下から逆に地球気温の低下をもたらすという説もでている。
人間環境宣言の中にエコロジー的観点が強いことを指摘したが,1970年8月のアメリカ環境委員会第1次年次報告はその意味で先駆的である。その中でアメリカにおける環境問題の推移を次のように述べている。「1950年代には,連邦大気,水汚染防止法が制定され,60年代には環境立法制定の速度が劇的に早まった。いまや保全運動は拡大されて,汚染,人口,環境生態学,都市環境を中心とした人間環境全体への関心を包含している。」そして,カリフォルニアの石油漏出事件,国立公園近くの空港建設計画ガソリン中の鉛,洗剤中の燐酸塩,DDTなどの事例をあげ,「生物の相互依存関係一人間,動物,植物,土地,大気,水,日光-がすべての人に影響をおよぼしていることを何百万もの市民が認識するにいたった」と述べている。ひとつの例として,アスワン・ダムは発電を行なったが,同時に地中海の魚を減少させ,ナイル川流域の肥沃度を著しく低下させたとしている。
人間環境宣言をもう一度引用するならば,「水,大気,地球および生物における危険なレベルに達した汚染,生物圏の生態学的均衡に対する大きな,かつ望ましからざるかく乱,かけがえのない資源の破壊と枯渇,および人工の環境,とくに生活環境,労働環境における人間の肉体的,精神的,社会的健康に有害なはなはだしい欠陥」といった人工の害が増大していると警告し,われわれの行動が環境に与える影響にいままでより一層細心の注意を払わなければならないと訴えている。
環境問題に対する意識のたかまりの基盤は市民運動にあることを付け加えておかなければならない。住民に密着した問題であることと,これまで政治・行政に成長優先の思想が強かっただけに,市民みずからが組織をつくって,企業,地方自治体,国に対して運動を展開せざるをえなかった面がある。アメリカでは71年現在3,100の組織があると推定されている。
アメリカの市民運動が企業や政府に対する告発をつづける一方で,大量の廃棄物を生ずる自分自身の消費のあり方にも反省の目を向けている点が注目に値する。
ニューヨーク市環境問題委員会が71年作成した「今F311よ鳥が,そして明日は人間か」といった標題のパンフレットをみると,「アメリカ的生活様式-それが私たちを死に追いやる」という章の中で「自動車に依存し,電力を存分に消費し,見栄えのよい包装を当然と思っていた」アメリカ的生活態度を改めようとよびかけている。消費は美徳と考えられた時代は終ろうとしている。それは,浪費が生産を刺激し,その結果,経済が発展し,生活は豊かになるという考え方に対する大きな反省である。自然資源は,それを無限に許すほどに豊富ではなく,生産過程で出る排出物,消費の末に廃棄される物資のぼうだいさはもはや自然の循環作用には耐えきれなくなっているのである。