昭和46年

年次世界経済報告

転機に立つブレトンウッズ体制

昭和46年12月14日

経済企画庁


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第2章 揺れ動く国際通貨体制

4 ユーロダラー市場の拡大と通貨投機

(1) ユーロダラー市場の拡大

アメリカの持続的な国際収支赤字と,その結果として非居住者に所有されるドルの増大は,ユーロダラー市場発生の第1の原因である。

第2の原因は連邦準備の規則(レギュレーションQ)によって,国内預金に支払われる利子率の上限が制限されていることである。ヨーロッパのドル保有者のドル預金も例外ではない。50年代末期の制限利子率はきわめて低率であったため,ヨーロッパのドルは相対的に有利なユーロダラー市場へ投資された。そればかりでなく,69年のアメリカにおける高金利時代にはこのレギュレーションQによって,国内預金の取入れを阻まれたアメリカの銀行がロンドン支店を通じてユーロダラーを大量に取り入れた。

第3の原因は,58年末の西欧諸国における通貨交換性の回復と外国為替管理の緩和が短期資金の移動を容易にしたことである。これによって米欧金利差や各国通貨間の直,先物相場の開きを利用する裁定取引が可能となり,ドル保有者がユーロダラー市場で資金を運営するのが容易となっただけでなく,ポンド,マルクなどの保有者がそれをドルに交換して,ユーロダラー市場で運用できるようになった。

第2-13表 ユーロダラー市場規模

もともと50年代の後半に,ドルを国際的に預って,国際的に貸し出す方法を考案したのはヨーロッパの銀行といわれる。出し手は中南米の農園経営者,中近東の石油王,アメリカ人および国際企業,西欧の中央銀行など多彩をきわめ,取り手は世界各国の銀行,企業,個人である。その使途は貿易金融,多国籍企業の対外運転資金,あるいは自国通貨への転換後における地方自治体,割賦金融会社その他一般企業の運転資金である。この市場に参加している銀行の数は数百行に達するとみられ,取引中心地はロンドンである。

ユーロダラーが以上のような使途に使われる限りでは問題は少ないが,マルク切上げやポンド切下げの風説のたつと同時に投機手段に使用されたし,また,ドル不安が発生すれば1967~68年のゴールド・ラッシュ時のように金への乗換えに利用された。

需要がふえれば,金利も上がり,それが魅力となって,アメリカを含めた世界各国からユーロダラー市場への出し手がふえ,市場規模はしだいに成長していった。

ユーロダラーは最初の出し手から最終的な取り手にいたるまでにいくつかの銀行を経由して動くため,全銀行の報告を単純に累計すると二重計算になる。国際決済銀行(BIS)では,これを除外してユーロダラーの市場規模を推定している。これによると50年代の数10億ドルから,65年115億ドル,68年250億ドル,69年375億ドル,70年460億ドル(いずれも年末現在)へと増大している。

69年はアメリカにとって金融引締めの年であった。アメリカの銀行は連邦準備の規制(レギュレーションQ)によって預金金利の上限を抑えられたため,預金集めが困難になり,代わりに在外支店からユーロダラーを積極的に取り入れた。連邦準備の発表ではこの年68億ドルの取り入れを行なった。

この中にはヨーロッパ諸国の中央銀行がニューヨークの預金を米銀のロンドン支店に預け直したものも含まれている。このような巨額の需要がユーロダラー金利を急上昇させ,3ヵ月ものでは年初の7.46%から6月の11.22%となり,その後一時下落したものの年末には,11.77%と異常な高水準に達した。

70年に入ってから,米銀本店は41億ドルの償還を行なったが,そのうち35億ドルはヨーロッパの8カ国に帰り,6億ドルは他の地域へ向かったと推定される。当時,ヨーロッパは金融引締めの時期で資金需要は強く,中央銀行の手持ちドルが供給されて,市場規模は一段と増大した。それまでの借り手は事実上,銀行に限られていたが,ヨーロッパ諸国では銀行の貸出枠設定や外国からの借入に対する準備率の引上げがあったため,非銀行法人に対する直接貸付が急増した。すなわち西欧8カ国(ベルギー,ルクセンブルグ,フランス,西ドイツ,イタリア,オランダ,スエーデン,スイス,イギリス)の「非銀行部門」すなわち一般企業が借り手として大きくなった。中でも西ドイツ,イギリスなど為替管理の比較的ゆるやかな国の企業が積極的に取入れた( 第2-14表 )。

一方,資金の供給者は主として西欧の中央銀行であった。かれらの手持ちドルは増大していたし,他方,これをニューヨーク市場で運用してもアメリカ金利低下からうま味がなかったため相対的に高金利であったユーロダラー市場で運用したのである。

ヨーロッパの企業は取り入れたユーロダラーの大部分を自国通貨に換えて資金化した。これがまた,通貨当局のドル買上げとなり,再びユーロダラー市場に還流することになった。

(2) アメリカのユーロダラー取入れ

アメリカは69年から71年へかけてユーロダラーの取入れあるいは返済について,いくつかの規制を行なった。まず69年6月27日,連邦準備理事会は,アメリカの銀行によるユーロダラー取入れが金融引締め政策の効果を減殺するおそれがある上に資金流出に悩む諸外国の希望もあって,10月16日から預金準備率を適用した。

第2-15表 米銀の在外支店債務と特殊政府証券保有高

しかし,12月1日公定歩合を引下げるさいに金融緩和から逆に大量のユーロダラーが出ていくことをおそれ,上記の規則を変更して,ユーロダラーの返済を抑制しようとした。すなわち上記の基準額を,70年11月25日までの4週間平均残高または総預金の3%かいずれか高い方に改め,預金準備率を10%から20%に引き上げて返済を急ぎすぎるとこの次に借入れるときに不利になる仕組にしたが,金融緩和が予想以上に進んで,銀行としてはもはやユーロダラーを必要としなくなった。

71年1月,輸出入銀行が10億ドルの短期証券を米銀の在外支店に発行し,さらに3月5億ドルを発行ついで4月には連邦政府が短期債を発行して,ユーロダラーを吸い上げ,ユーロダラーが西欧の中央銀行にもどってアメリカの公的債務が増大するような事態を少しでも防ごうとした。

この1~4月中に発行されたユーロダラー吸収目的の短期証券30億ドルはその後借り換えられたが,10月26日満期の5億5,000万ドルを最後に全額償還されたとみられる。

この1年,ユーロダラー取入れの多かった西ドイツが10月14日公定歩合を4.5%に引下げたことから,取入れの魅力は薄められた。その西ドイツのみならず,先進国は一様に景気が思わしくなく,資金需要は強くない。資金需給の緩和を反映して,ユーロダラー金利(3ヵ月もの)は6月の7.2%をピークとして10月末には6.64%まで下がっている。このまま推移すれば,一部の資金は出し手の国の中央銀行に入って,ユーロダラー市場の規模は縮小するであろう。

第2-11図 ユーロダラー金利(3カ月物)

(3) ユーロダラー対策

ユーロダラーは時によっては高金利を国際的に波及させる媒体となっている。たとえば,1969年にアメリカの銀行が米銀ロンドン支店を通じての大量ユーロダラーを取入れたさいも,低金利国からの資金流出が起こり,ユーロダラー市場の高金利が他国に波及する面があった。すなわち,資金需要が弱く,金利の安い国では,銀行や企業はその余裕資金を金利が割高なユーロダラー市場に投入する。この結果,資金輸出国の金利は相対的に引締まり,一方,ユーロダラーを取り入れた国では多くの場合,割安な資金の流入によって,金利の上昇が鈍るかあるいは横ばいに転ずる。つまり,ユーロダラー市場は,低金利国(出し手),高金利国(取り手)間の資金フローを促進し,金利差を縮小させる機能をもっている。こうした資金再配分の利点とは裏腹に,低金利政策によって景気を振興しようとする国からは資金が流出する,し,逆に高金利政策によって景気過熱を防止しようとする国では,引締め効果が減殺される。

それよりももっと深刻な影響を及ぼすのは,ユーロダラーの投機的利用である。たとえば,マルク切上げのさいには,ユーロダラーを借り入れてマルクを買う。ポンド切下げのさいには,ユーロスターリングを借りて,ドルまたはその他の強い通貨の直物を買う。このとき,ポンドの貸し手はポンドの返済日に合せてポンドの先物を売ってリスクを回避する。このため,ポンドは直物,先物両市場で売られるから,それだけ売り圧力は加重される。

金価格引上げ投機にさいしては,金の購入資金としてユーロダラーが大量に借り入れられた。67年11月に始まる金投機がピークに達した68年3月14日,ロンドン金市場では225トン(2億5,200万ドル)が取引きされた。これ,は平日の商い高の65倍である。ついに15日,ロンドン市場は閉鎖を余儀なくされ,17日には金の二重価格制移行が発表されたのである。この記録的な金取引には,当時の金プール参加国(7ヵ国)は買い出動していないので,買い手の多くは投機筋とみられる。ユーロダラー1ヵ月もの金利が当時急騰したが,投機筋のユーロダラー借入れの旺盛さを思わせる。

69年4月末から5月9日までの10日間にマルク切上げをねらって西ドイツに流入した投機的資金は41億ドルといわれている。71年5月初めの通貨投機のさいには5月4日10億ドル,5月5日には市場開始後の40分間に10億ドルなだれ込み,ついに市場は閉鎖された。このときも1カ月ものユーロダラー金利が急騰した。

西ドイツのブンデスバンクによると,マルク切上げ投機の激しかった71年4~5月には合計51億マルク相当の短期資金が流入した。その中には企業が実際に使用するものもあって,すべてが投機目的の資金とはいえないまでもこのような大量移動によって,市場は混乱した。

同様の現象は71年5月スイスとオーストリアにも現われ,スイス・フラン,オーストリア・シリング切上げの一因となった。さらに8月15日のアメリカの新政策発表後,主要ヨーロッパ通貨や日本円に対しても切上げ投機が再発し,ユーロダラーが使用されたとみられる。

たび重なる投機的短資移動に悩まされた西欧諸国では,これまでも,銀行による付利の禁止(スイス,西ドイツ,イギリス,オランダ),100%の準備預金制度(西ドイツ,スイス),企業の取入れ禁止(イギリス),企業に対する準備率適用(フランス),雑金融機関および地方公共団体による非居住者預金受入れ禁止(イギリス),中央銀行によるユーロダラーと交換される現地通貨の一時凍結(スイス),非居住者による特定証券の取得禁止(イギリス)など各種の対策を講じてきた。しかし70年末460億ドルまで成長したユーロダラーのかく乱的な影響を防止するには,個々の国の対策ではもはや不十分となった。

71年4月,国際決済銀行(BIS)月例会議で総裁J・ジールストラ(オランダ中央銀行総裁)を委員長とするハイ・レベルの対策研究委員会が設立された。6月12日,10カ国は当分の間ユーロダラー市場に公的資金を追加投入せず,適当と認められるときには,市場の実勢に照らして資金を引揚げることさえあると決定した。

10ヵ国に代わってBISがこの市場に投入した資金は合計30億ドルに過ぎないので,今回の決定はユーロダラー市場の縮小よりも,急膨張の抑制をねらっている。前記委員会は当初,ユーロダラー預金に対する預金準備率の共同適用やいっせい付利停止を検討したもようであるが,各国それぞれ特殊な事情があり,合意にはいたらなかったようである。

アメリカの対策は前述のとおりであるが,長期的な措置として,71年1月の大統領経済諮問委員会(CEA)年次報告は次の三つを指摘してはいるが,いずれも満足とはしていない。

①についてはIMF,OECD,BIS,各通貨当局の間で,大量短資移動を相殺するための国際協力があったが,それは国際収支のアンバランス防止には役立っても,このような資金移動が国内の通貨管理に投げかける問題を完全には解決できなかったとみている。

②については,国内経済の安定手段として金融政策に偏することをやめて,財政政策も併用すべきであるが,このようなポリシーミックスは国際収支面の理由だけで決定されるよりも,国内的な影響に省みて決定しなければならないという問題があるし,また税率の変更や政府支出の増減は困難を伴い,時間もかかると指摘している。

③については,アメリカは60年代に金利平衡税(1963年),連邦準備の銀行その他金融機関の自主規制(1965年),商務省の企業直接投資自主規制(1968年)を行なったがそれを廃止した場合の反動が大きいとし,この種規制は資本の有効配分をゆがめるので,恒久的な手段としてはならないという立場を確認している。そこで,これらに代わる方法として,ブレトンウッズ体制の下で,為替相場の弾力性を高めることも可能であり,これによって各国金融事情の差異による短資移動の敏感性はいくらか軽減されるかもしれないと述べている。したがって,CEAは直接的に短資移動を―とくにアメリカ側からの流出を―規制するにしても,自主規制程度のことしか考えず,むしろ市場メカニズムによる相場変動の幅を拡大し,ホット・マネーの過大な出入りを抑えることを将来の対策として考えているようである。

これに対しBISの通貨,経済部長ミルトン・ギルパートはユーロダラーその他の国際短資規制について大要次のように提案している。

①は商業銀行の非居住者外貨預金のポジションを規制する方法であって,一部の国ではすでに実施している。たとえば,中央銀行が非居住者の商業銀行預金に対し,これに均衡する外貨バランスをもたせ,対外貸借の均衡によって国内金融市場への影響を稀薄化することができる。商業銀行の外貨ポジションをグロスで規制する方法はアメリカで実施されている。このような規制をいっせいにヨーロッパの銀行か実施すればその効果は期待される反面,規制のない国にユーロダラー市場が押しやられる恐れもある。

②はイギリス,フランスで実施された制度であり,アメリカでも部分的に実施されているが,まだ十分な効果をあげていない。

③は最近一部のヨーロッパ諸国で採用されている。イギリス,フランスは国内の引締め政策を守るため,企業の外貸借入れを規制した。

以上のような諸提案はあるにしても,ユーロダラーの国際的な規制に対しては,各国それぞれの理由から反対もあり,足なみが揃っていないのが実情である。


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