昭和38年
年次世界経済報告
昭和38年12月13日
経済企画庁
第2部 各 論
第3章 東南アジア
962年はインドにとって多事多難の年であった。1961年3月をもって第2次5カ年計画は終了し,第1次計画発足以後の10年間に農業生産は4割増,鉱工業生産は2倍となったが,それは社会的,経済的緊張を生み出し,1962年2月の第3回総選挙は緊張した空気のなかで闘われた。
三たび政権につくこととなった国民会議派にただちに解決を迫った経済問題はつぎの三つであった。第3次計画の決定的障害となる資本不足と国際収支難,物価上昇および失業の増大である。
戦時中に蓄積され資本支出のかなりの部分をまかなってきたポンド残高は1960年までに食いつぶされてしまい,導入外資や外国借款の利払い,返済は年々増加してきている。かくして増大傾向を続ける資本財輸入をまかなうためには輸出の拡大が至上命令となりつつある。
61年来,輸出促進の諸施策が強力にすすめられてきたが効果は薄く,金外貨準備の減小が続いて輸入制限は一層強化された。このため機械部品や原料といった輸入品目の不足が起り,さらに電力,輸送が隘路となって,とくに消費財生産の上昇が抑えられた。
他方,政府部門の資本財輸入は増大を続けており,また重工業生産が一層の拡大をみたので,1962年の鉱工業生産は前年を上回る8.5%の伸びを示した。しかし,鉄鋼,化学肥料などは依然として厳しい不足状態にある。
1961/62年の農業生産は微増に止まり,とくに南インドにおける洪水の影響などから米の生産が不振で,食糧価格を中心とした生計費の上昇が続き,また失業も減少の気配をみせなかった。
第3次5カ年計画は国民所得の増加目標を年率5%としたが,1961年度は2.1%に止まり,1962年も同程度の増加であったとみられる。しかも人口増加率は過去の推定を上回って年率2.3%にも達することが判明している。
1962年10月下旬には,中国(本土)との国境,紛争が激化し,危機宣言が発せられてインドは戦時経済への転換を余儀なくされた。
戦火は収ったが,経済の安定的発展と同時に武器の輸入,,軍需生産の強化が要請され,経済は更に緊張を強めるに至っている。
1963年に入って,鉱工業生産の増加は続いているが,1962/63年の農業生産は前年度を下回り,西ベンガルなど食糧不足が危機的様相を帯びた地方もあった。
アメリカからのPL480による穀物輸入が続けられたが,物価の騰勢はむしろ強まってきており,政府は対策に苦心している。なお輸出はやや好調で,金外貨準備は増加してきた。
1962年のパキスタン経済も農業生産の停滞に悩まされた反面,鉱工業生産はほぼ前年並みの増加率10%程度を達成した。
1962年の農業不振は天候の影響が大きいが,西パキスタンのインダス河流域では,水位の上昇と塩度濃化のため,広大な耕地が失われつつあり,対策の急務が叫ばれている。一般に土質は良好といわれ,開懇可能地はまだかなり存在するけれども,旧態依然たる土地制度が生産上昇を妨げてぃる。
独立後のパキスタン経済は,急速な工業発展と農業停滞の著しいコントラストによって特徴づけられるが,工業生産の上昇は近年次第に鈍化してきている。
ほとんど皆無に近い状態から出発した鉱工業は,1950年に設立されたPIPC(パキスタン産業開発公社)を推進力とし,開発計画に助けられて軽工業とくに繊維産業中心の発展を遂げた。1962年には繊維品,紙および紙製品でインドに次ぐ生産額をあげ,製造業の生産総額でも東南アジア第2の位置を占めている。
綿製品は国内市場をほぼ満足させる段階に達し,輸出にも乗り出してきており,1950年代初めには綿製品輸入国であったものがインド,香港とならぶ東南アジアの主要な輸出国の一つとなった。またジュート工場の建設が進み輸出市場でインドの強敵となっている。
このほか紙,自動車用タイヤ,チユーブなども伸長が着しく,国内市場をほぼ完全におさえるにいたった。しかし軽工業でも上記の少数の産業以外にはみるべきものはほとんどなく,とくに重工業の発展は,はなはだしく立遅れている。鉄工業は鉄鉱石および石炭が質量とも劣るために発展をみず,くず鉄利用を目的とした製鉄所建設は失敗に終った。
輸入原料を使用する沿海製鉄所の建造計画があるほか,セメント工場,肥料工場などの建設も幾つか進められてきた。また鉄鉱石,石炭,石油,天然ガスの探鉱が続けられており,石油,天然ガスは近年急速に生産が増加している。
貿易収支は,1959年以降赤字で,その幅は年々増大し,1962年には輸出額の8割にも達している。しかし外国援助の流入に助けられてインドほどの外貨難はなく,1962年には輸入制限が緩和された。
農業生産の停滞と人口増加が重なり,PL480によるものを中心とする食糧輸入の増大が起って輸入急増の一因となっているが,その上第1次5カ年計画がはじまってから資本財輸入の増大が続き,とくに1960年以降のそれは倍増して総輸入額の40%を占めるにいたった。これらの投資は多く軽工業,消費財産業に向けられ,パキスタン国内市場から輸入消費財を駆逐してゆき1951年には総輸入額の4割を占めていた非食糧消費財は1957年以降8~9%におさえられている。1962年には輸入制限の緩和が響いて輸入はさらに15形もの上昇をみた。
輸出は,1961,62年と伸び悩みを示したが,これは繊維原料,皮革の不振によるものであって,綿製品,ジュート製品の輸出は著しい伸長を示してきている。1956年に輸出総額の1割程度に過ぎなかった繊維品輸出は1961年には23%と比重を高めた。
通貨量はほぼ同一水準に保たれ,物価は安定を続け七きた。財政経常収支は例年かなりの黒字を記録し,資本収支の赤字は外国援助で埋めることができたので,1962年には減税が実施された。
1963年に入って,輸出は増勢を示し,上半期は前年同期に比して17%の上昇をみた。他方輸入の増加も著しく前年同期の19%増となった。金外貨準備は回復を示し,物価は横這いを続けている。
様々な経済的困難に悩む国の多い東南アジアで,タイの経済はかなりの安定的発展を示してきた。1951年以降年平均5.6%,とくに1959年以後の7%に及ぶ成長率ば決して低いものではなく,投資率も14%前後を維持してきた。
この経済発展を主導したものは,まず政府の手によってはじめられ,後に民間企業が主役を担った工業および道路,鉄道等の建設業に対する投資である。1950年代の初めに国内生産の5割弱を占めた農林業の比重は1962年には36%へ低下し,かわって鉱工業・建設業が15%から20%へ増大した。運輸通信業の比重も増加してきている。なかでも建設業の拡大は近年とくに著しく1962年には国内総生産の6.7%を占めるにいたった。製造工業の面でも1954年に制定され,60年に一部改正された産業奨励法が1962年にさらに大幅改訂を受けて,租税免除期間の延長,手続の簡素化がはかられ,外資導入の一層の拡大が期待されている。綿業のみたらず,砂糖,セメント,ガラス製品,合板などは輸出も行なっており,また,乗用車,タイヤ,いくつかの化学品の生産が進み,小規模ながら鉄鋼生産も行なわれている。しかし建設された工場は輸入原料や半製品を加工,組立てるものが大部分で,国内の消費需要目当ての軽工業が主体である。
1962年の農業生産は6%増であったが,米の増産は前年の増加率に及ばす米輸出は輸出制限もあって減退している。米を中心とし,ゴムその他の高地作物の増産による農業生産の好調が工業化を支え,経済全体の発展に大きく寄与したことは事実であり,1951年から1962年のあいだの農業生産の年間平均成長率は4.3%に達する。
また資本財と原材料の輸入増に見合って拡大してきた輸出も,従来から米を主力とするものであったが,ゴム,すず,チーク材,タピオカ,とうもろこしの比重が増加して輸出内容の多様化をもたらし輸出好調の要因となった。健全財政のもとに物価は安定しており,政府の促進策に応じて外資も流入し,金外貨準備は増加を続けてきた。
ただし,1962年には,ゴムの不振もあって輸出は減少をみ,輸入は上昇を続けたので貿易収支の赤字は拡大した。物価も食料品と建築資材の上昇をみて卸売で6%,生計費で4%上昇した。
1963年に入って輸出の減少は続いたが第2・四半期にやや回復した。物価は横這いないし微減傾向に入り,金外貨準備の増大が続いている。
1961年5月マラヤ連邦首相ラーマンが発表したマレーシヤ構想は,インドネシアとフィリッピンの反対に出あい難航したが,当初の予定より半月遅れて1963年9月に実現をみた。
マラヤ連邦,シンガポール,サラワク,サバ(北ボルネオ)のマレーシヤ加盟国は戦前よりきわめて安定したマラヤ・ドノレを共通の通貨としており,統合の一つの有力な条件となっている。またシンガポールとマラヤは東南アジアでもっとも高い1人当り国民所得水準を持ち,サバ,サラワクも民度は低くない(第3-19図)。
経済は一次産品の輸出に大きく頼っているが,ゴム,すずについては世界輸出の中心であり,マラヤ,サラワク,サバの貿易収支は黒字を続けてきた。ただし主要輸出品たるゴムが近年伸び悩んで黒字幅は縮小傾向にあり,貿易外収支では赤字が続いている。加盟国相互間の貿易は貿易総額の3割にも達する。しかし,これはシンガポールの中継港としての地位や,共通通貨圏という便宜から物資の流動が起るためであって,必ずしもマレーシヤ域内で高度の分業体制が成立しているわけではない。
経済統合の効果として,輸出一次産品の品目が多様化し,生産基盤が拡大することが挙げられるが,最近工業化を推進してきたシンガポールに対し,大きな将来市場が開かれることの方が注目をあびている。
シンガポールは,インドネシアその他近隣諸国が自主貿易政策をとるに及んで中継港としての地位をじょじょに低下させつつあり,香港の例にならって工業化を進めようとしてきた。重要産業を指定して保護をあたえたり,工業地帯の造成を行なったり努力を重ね,保護関税もいくつか設定されて自由港としての立場さえいくぶん犠牲ににしてきた。しかし豊富な労働力とある程度の企業者層をもつにもかかわらず,シンガポールの輸出に占める地場製品は,いまだに僅少であって,香港のように海外市場目当てではなく,マレーシヤ地域とくにマラヤ市場を足場にし,外資の流入を期待しているわけである。
マレーシヤの発足により域内関税の廃止,対外共通関税の設定へ漸次進むことになるが,シンガポールの自由港としての地位をどうするかが問題となった。同じく自由港であるペナンも同様な悩みを持っている。またマラヤと北ボルネオ2国は財政収入のかなりの部分を関税が占めるため,対外関税の水準設定は重大な財政問題である。
マラヤ連邦とシンガポールの政府間の協定で,ゴムその他の域外向け輸出品の対外関税免除がシンガポールとペナンに認られ,さらにシンガポールに対してむこう12年間は財政用新設関税,および5年間は新設関税を免除することとなった。またシンガポール内に自由地帯が設定されて保税倉庫が作られ,納入ずみ関税は再輸出に際し払い戻すことが決められている。
なお2問題点としては経済の実権を握る華僑と,政治行政の主役を演ずるマレー人の対立,非マレー原住民の処遇といった人種問題の外,域内後進地域たるサバ,サラワクの開発問題がある。シンガポールの中継港としての機能とマレーシヤの一員としての機能の調整もなお問題を残しているようである。また,マラヤも創始産業法を制定して重点をゴム,すず,鉄鉱石の開発から工業へ移しており,サラワクも開発計画をもつので,各地域の発展計画の調整,統合にともなう権限の集中をどの程度に止めるか等多様な問題をはらんでいる。
1962年の中国(台湾)経済は,前年よりやや劣るが7%近い成長率を示して,1952年以降の10年間に所得倍増を達成した。もっとも人口増加が年率3.5%にも達するので1人当り所得の増加は44%に止った
この拡大を推進したものは年成長率12%に及ぶ鉱工業生産であったが,国内総生産の3割あまりを占める農業部門においても,1949年から53年にかけて実施された農地改革以後,年率4%以上の増産を示してきた。
1962年の農業生産は,市場条件に災いされた小麦,バナナ,砂糖などが不振で,1961年を1.5%上回ったにすぎない。米は4.8%の増産をみて輸入が激減した。畜産と漁業は4%前後増加している。
鉱工業生産は1961年に引続き12%の増大となった。1962年の特徴としては鉱業,製造業,建設業,公益事業のいずれもほぼ同じテンポで拡大したことがあげられる。
製造業では,セメント,化学肥料,一般機械,金属製品など重化学工業の生産増加が著しく,軽工業品の多くはアメリカの繊維品輸入規制,砂糖価格低落などの影響もあって不振であった。
インドを除く他の東南アジア諸国では工業化の内容がほとんど軽工業に限られているのに対し,近年における中国(台湾)の重化学工業の成長は急速である。台湾工業の発展は1959年よりはじまった成長政策,とくに資金源確保と外資誘致政策によってスパートをかけられた。過去において成長の支えとなってきた外国援助の比重は低下してはいないが国内貯蓄が国内総資本形成に占める割合は1960年以後に32%を上回るにいたった。
華僑資本を中心とする外資の流入も1960年以降飛躍的に増大し,金利は低下傾向が著しい。
かくして,外国資本との提携,技術援助を通じ私企業が近代工業の分野で発展を続けており,1952年頃には政府部門と私企業部門における鉱工業生産の比率が6:4であったものが,1961年には逆転している。
工業化の進行は貿易構造にも反映してきた。資本財輸入の増勢が著しく,輸入依存度は年を追って高まってきており,輸出に占める工業製品の割合は輸出ドライブもあって,1957年の7%から1962年の47%へ膨張した。国民総生産に対する輸出の割合もまた上昇している。
1962年の輸出増加はアメリカ向けと南ヴェトナム向けを中心に11.0%の上昇をみたが,1961年の20%増と比較すれば増勢は鈍化している。
品目では繊維品,きのこ缶詰,木材,セメント,化学品の伸びが大きかった。
輸入は総額として前年を下回ったが,アメリカの援助政策の変更から,援助輸入は削減される結果となり,銀行の保有外貨で支払われる輸入が増大を続けて,金外貨準備は減少した。
輸入に占める資本財の比重はやや縮小し,繊維原材料が拡大している。
1962年中の通貨供給量は増勢を鈍化し,物価の上昇は3%に止って,前年に引続き比較的に安定していた。
1963年第1・四半期には,鉱工業生産は前年同期を13%上回っており,物価は前年と同様なテンポでゆるやかに上昇している。上半期の輸出はセメント,砂糖,一般機械,繊維品の好調で前年同期より10%増となり,輸入は7%の上昇をみた。金外貨準備は増大に転じている。
極東における中継貿易の中心として繁栄を続けてきた自由港香港は,近年に至ってその性格を著しく変化させてきている。
1949年以降急激に発展した軽工業を背景に,再輸出の比重は年々低下を続け1962年には輸出額の76%が香港製品で占められるに至った。中継港から強い競争力を備えた工業センターへ変貌してきたのである。
生産統計が不完全なので,工場法による登録工場の数字を見ると,1940年末に約800といわれたものが,1949年に1,426,1962年には7,305に増加している。
綿製品を主力とする1959年以降の地場製品輸出の急増は,アメリカとイギリスを中心とする先進諸国向けの激増によるものである。1955年に香港産品輸出の3割以上を占めた東南アジア向けが,1962年には1割以下となり,2%に過ぎなかったアメリカ向けが26%に上昇している。先進国市場への進出につれ,製品の内容も多様化してきた。香港産品輸出の53%を占める繊維品のなかでも,綿製品のほかに毛編み物が,1962年には98%も増大し,繊維輸出の中心であるシャツ類以外の品目にも著増したものが見られる。
その他,造花を中心にプラスチック製品が急増を遂げ,香港,産品輸出の11%を占めて2位となっている。また1959年に始まったトランジスターラジオの輸出は,日本やアメリカ,イギリスから輸入したトランジスターを使用して組立てたもので,1961年後半から急増をみた。
1962年には前年の輸出台数の4倍にも達し,その9割がアメリカとイギリスヘ出荷された。冷房装置,合板,敷物,ステンレス食器,時計,双眼鏡,カメラ,扇風機などの製造もおこり,いずれも62年上半期頃から輸出増加がはじまっている。
また経済拡大が予想以上の進展をみせてきたので歳入の増加が著しく,政府財政は毎年のように黒字を記録し,物価は安定している。
しかしながらかような先進国向けの消費財輸出を原動力とする香港工業の躍進は,先進国側の防衛策という壁につき当らざるをえなかった。
短期および長期の綿製品貿易国際協定が1961年および62年に締結されたが,1962年初め,Short Term Arrangementで取上げられた64品目のうちアメリカが30品目,カナダが4品目について輸入制限を要求し,これにノールウェー,西ドイツが続いた。このため香港は,以前から実施してきたイギリス向け綿製品の輸出規制のほかに,さらに自主規制を強化せざるをえず,繊維産業の雇用は一時大きく減少した。
またアメリカ市場の混乱とアメリカ側の対抗措置を懸念して,日本はトランジスターの香港向け輸出を一時停止し,9月以降は輸出割当制を敷いた。
その他,カナダ,オーストラリア,南アフリカ,ナイジェリア等の関税引上げが1962年中に行なわれ,香港の輸出にも影響すると見られている。
内部的にも,水不足の深刻化,低賃金という利点の漸次的消滅,加工工業中心という産業構造の弱みなどがあり,今後の発展の阻害要因とされている。
韓国経済の自立的成長と工業化の基盤造成を目指して1962年1月に作成発表された第1次5カ年計画は,外資および国内資本両面にわたる資金調達の困難と物価騰貴によって発足早々幾多の障害に出合うこととなった。
革命政府は1961年5月政権をとって以来,通貨を増発してきた。経済の沈滞を破る目的で積極財政に出たわけであるが,結果はインフレの様相を呈し,1962年6月上旬の卸売物価指数は前年同月を14%上回るに至った。
かくして1962年6月10日に通貨改革が実施され,貨幣単位が10分の1に切下げられた。その後通貨発行はかなり抑えられているが,1962年の米が凶作となり,外貨危機対策が輸入原料不足をもたらして,物価上昇は依然として続いた。
このため1962年度の経済成長率は2.3%に止ることになり,人口増加率をかなり下回った。
第2次および第3次産業は比較的好調で製造工業は既存設備の増産で16.1%上昇した。しかし基幹産業に対する投資は資金難のため障害を受け計画を大きく下回った。
輸出は増加したが,輸入はそれを上回って増大しアメリカの無償援助の減少などもあって,1956年以来増加傾向をたどってきた金外貨保有高は急減した。
1963年に入って輸出の増加は続いているが,輸入は激増して金外貨準備は一段と低落した。鉱工業の拡大テンポはやや鈍ってきており,前年末から再び急上昇をはじめた物価は第2・四半期に入って1963年同期を15%上回るにいたった。