昭和36年
年次世界経済報告
経済企画庁
第2部 各 論
第2章 西ヨーロッパ
61年3月初めにおけるドイツ・マルクの切上げは,もちろん国内インフレ圧力の抑制が主眼であったが,同時にドル防衛に対する協力措置ともみられよう。
西ドイツの国際収支は1951年以来慢性的に黒字を示してきた。59年には政府の特別な資本輸出のほか国内の金利低下による民間短資輸出の増加で総合国際収支は21億DMの赤字となったが,これも一時的な現象にとどまり,同年末からの金利上昇により短資の流出が止まり,逆に短資の流入が起こって総合国際収支は再び黒字化し,60年には約80億DMの黒字を出した。ブンデスバンクは国内インフレ圧力の抑制のために60年6月まで公定歩合の引上げ,支払準備率の引上げ,再割枠の削減,公開市場操作等の金融引締め政策を追求してきたが,交換性回復という新しい国際的環境の下では国内金融を締めても民間銀行は在外短資を引揚げ,企業は金利の安い外国から資金を借りて国内金融の逼迫を回避することができた。また西ドイツの高金利とマルク切上げを見越した思惑から外国短資が流入した。こうしてブンデスバンクの金融引締め政策は西ドイツの対外不均衡を激化させただけで,国内インフレ圧力の抑制という本来の目的を達成することができなかった。
第2-22表から明らかなように,60年における西ドイツの国際収支を分析してみると,経常収支の黒字額は51.4億DMで,前年よりやや増加したものの,57,58年よりも少なく,この面で大きな変動はみられなかった。問題は資本勘定である。資本勘定のうち長期資本についてみると,59年には37.6億DMに達した純流出額が60年にはわずか5.2億DMへ減少した。その原因は政府資本の流出額が大幅に減ったことと,民間資本が前年は13.3億DMも流出したのに,60年には逆に3.8億DMの純流入に変わったことにある。政府資本,の流出減少は,主として59年に行なわれたIMFへの出資と戦後債務の早期返済が60年に消滅したせいであるが,民間長期資本の変動は主として証券投資の流れが逆になったせいである。すなわち証券投資の純尻は59年は9.6億DMの純流出だったのが,60年は13.6億DMの純流入に変わっており,これは一方で居住者による外国証券の購入額が半減したのと,他方非居住者による西ドイツ証券の購入額が4倍もふえたせいだ。しかも外国人による西ドイツ証券の購入の大部分が60年下期に起こっており,これは同年6月に西ドイツの金利がさらに引き上げられたのと,非居住者の銀行預金に対する利子支払いが禁止されたせいである。
他方短期資本の動きも金融政策の影響で大幅な変動を示した。国際収支統計で「誤差・脱漏」として示されている項目は実質的には主として民間短資の動きを,反映するものとされ,これに統計上記録された民間短資を合計すると,59年には17億DMの純流出だったのが,60年には41億DM余の純流入へ変わった。これは前述したように,民間銀行の在外短資の引揚げ,企業および銀行の対外借入れ,外国短資の流入等によるものである。
以上のように長期,短期とも民間資本取引の流れは60年中に様相を一変し,59年の純流出から60年の大幅な純流入に変わり,経常勘定の黒字と相まって西ドイツの金外貨準備は60年中に79.9億DM(19億ドル)も増加して同年末1には318億DM(75.7億ドル)へと異常な膨張を示した。このような事態が主としてブンデスバンクの金融引締め政策(金利引上げと銀行流動性の削減)の結果であったことはいうまでもない。
たまたま西ドイツの景気情勢とアメリカのそれとが逆の方向に動いて,両国の金利差が拡大したという背景があったことは事実であるが,それにしても60年における西ドイツの経験は交換性回復という新しい条件の下で金融政策の効果に限界があることを示したものといえよう。
金融引締めが国内過熱の抑制に役立たず,かえって対外不均衡を激成したことから,ブンデスバンクも60年11月以降その政策を転換し,対外不均衡の是正をもってその政策の主目標とするに至った。
すなわち国内金利の引下げと銀行流動性の緩和を通じて,外国短資の流入を阻止するとともに,西ドイツ短資の流出を奨励し始めたのである。もちろんこのような金融政策転換の背景にはアメリカのドル防衛に対する協力というねらいもあったが,西ドイツ自体にそれを必然的とする内部的要請があったことを見逃してはならない。
かかる金融政策の転換は,公定歩合の引下げ(60年11月から61年5月まで3回にわたり5%から3%へ引下げ)支払準備率の引下げ(60年12月から61年9月まで9回にわたり引下げ)再割枠の引上げ(61年3月)等の諸措置の形で実施されてきた。
だがこのようなブンデスバンクの政策転換に対しては国内過熱抑制の見地から経済省の強い抵抗があり,また過熱抑制策として財政面での対策をとることは61年9月の総選挙を控えて不可能であった(財政的措置としては61年5月に公共建設の若干の抑制が行なわれただけである)。しかも60年秋頃に一時鎮静化の兆候をみせた国内ブ-ムが61年初めに再び過熱の程度を高めてきたので,ついに西ドイツ政府は61年3月初めにマルク切上げ(5%)を断行した。マルク切上げについてはかねてから米英その他諸国から強い要請があり,西ドイツ政府は最後までそれに抵抗してきたものの,ついに内外両面の不均衡是正のための抜本的対策として切上げに踏み切らざるをえなかったわけである。
このマルク切上げは国際的にも大きな反響を呼び,オランダが直ちに西ドイツに追随してギルダーを切り上げたほか(切上げ幅は同じく5%),他の諸通貨のレート変更に関する思惑が発生した。すなわちスイス・フラン,イタリア・リラ,フランス・スランの切上げ,マルクの再引上げなどが予想された反面で,ポンドの切下げ予想から猛烈な為替スペキュレーションが起こり,大量の短資がロンドンからスイス,西ドイツその他へ流出した。幸い各国政府のレート変更否定声明や3月中旬バーゼルでとり決められた欧大陸諸国中央銀行のポンド協力措置により,さしもの為替思惑もしだいに平静化したもののポンド不安だけは根強く残り,7月末にイギリス政府が一連の緊急対策をとるまでつづいた。
マルク切上げはこのように国際的に一連の連鎖反応と混乱をひき起こしたが,西ドイツに関する限り,一応所期の目的を達成しつつあるようだ。第2-23表から明らかなように,マルク切上げにより輸入価格が低落,それとともに,企業の景気先行きに関する警戒心から価格政策が慎重となって,それまでじり高傾向をみせていた工業製品生産者価格も弱含み安定となった。慎重ムードの浸透は企業の投資態度にも現われ,資本財および機械工業の国内受注も頭打ちないし減少気味となった。外国からの受注も減少し始めた。その結果,工業の出荷高に対する新規受注の比率に現われた需給情勢もしだいに正常化してきた。このようにブーム鎮静化の兆候が明瞭に現われてきたが,労働力不足と大幅な出超傾向が解消されるところまではいっていない。輸出はいぜんとして伸びつづけ,他方輸入はわずかしか伸びていない。その結果出超額はむしろ大幅に増加している。これは輸出面では,輸出産業が多額の受注残をかかえていたので,新規受注の減少傾向が現実の輸出に反映するまで時間がかかるせいである。また輸入面で輸入が思ったほど伸びないのは,(1)切上げにより輸入価格が安くなった,(2)企業の在庫政策が慎重となって半製品の輸入が減少した,(3)昨年の豊作により食糧輸入がいぜん低位にある,(4)工業製品輸入はふえたものの,その増加率はむしろ鈍化している等の理由による。しかし工業製品の輸入が思ったほどふえなかったのは政府輸入(軍需品)減少したせいであって,それを除いた商業輸入,なかんづく価格弾力性の大きい最終製品輸入は61年第2四半期に前年同期を約1/3上回り,61年第1四半期の約2倍に達したといわれている。その意味ではマルク切上げの輸入促進効果がすでに出始めたわけである。
マルクの切上げ以降貿易の出超額が前述した理由から増加したにもかかわらず,ブンデスバンクの金外貨準備高が61年第2四半期に4.6億ドルも減少したのは,資本取引で大きな変動があったからである。第1に,ブンデスバンクの低金利と金融緩和政策が効果を奏して,民間銀行の在外短資運用がふえ,非居住者による西ドイツ証券の購入が減少した。第2に,ドル防衛に対する協力措置として対米英仏戦後債務が返済された。また低開発国向け政府援助が増加した。要するに,貿易収支の黒字増加にもかかわらず,長短期資本輸出の促進を目的とした金融・財政政策が効果を奏して,総合収支が赤字となり,過大な金外貨準備の減少をもたらしたのである。
第3四半期にも西ドイツの金外貨準備は約5億ドル減少した。これにはイギリスのIMF引出しに伴う西ドイツのIMF向け融資2.7億ドルや,ベルリン危機による外資の引揚げも重要な理由であったが,低金利政策の追求による西ドイツ民間短資の流出もいぜん多額にのぼっている。