昭和36年
年次世界経済報告
経済企画庁
第2部 各 論
第2章 西ヨーロッパ
61年初めにドル不安が漸次解消した反面,それまでドル不安のかげにかくれていたポンド不安が表面化しはじめ,とくに3月初めのマルク切上げをきっかけとする為替思惑の発生から大量の短資が国外へ流出し,ポンド危機が現出したことは前述したとおりである。その後バーゼル協定による欧大陸諸国中央銀行の援助で一時小康を得たものの,ポンド危機の根因をなす国際収支の改善がはかばかしく進まなかったことや,ベルリン危機など国際環境の悪化のほか,バーゼル協定が次第にその限界に近づいたこともあって,短資の流出と外貨準備の喪失はやまず,とくに7月には3.1億ドルという過去10年来最大の減少を示し,同月末の準備高は24.5億ドルヘ低下した。この数字は表面上危機ラインといわれる20億ドルを割っていないが,3月以来バーゼル協定による援助額が約9億ドルと推定されているから,実質的には危機ラインを大きく割っていたことになる。
このような情勢に直面してイギリス政府はついに7月258,IMFからの引出し,公定歩合大幅引上げを含む一連のきびしい緊急対策を発表したが,その内容の説明に先立ち,今回のポンド危機の根因をなしたイギリスの国際収支の動向を簡単に説明しておきたい。
第2-20表から明らかなように,イギリスの経常国際収支は58年に2.9億ポンドという戦後まれな大幅黒字を出したが,これは国内景気後退と交易条件の大幅改善によるものであり,急速な景気回復をみた59年の黒字幅はわずか0.5億ポンドヘ縮小,さらに60年には3.4億ポンドという戦後2番目の大赤字となった。その結果,経常取引のほかに長期資本取引を加えたいわゆる基礎的国際収支尻は59年,60年と2年つづけて赤字となり,これまた戦後初めての経験であった。景気局面が好況からブームへ進むにつれて輸入が増加するのはやむをえないし,とくに60年には在庫輸入の大幅膨張という要因もあったしかし,輸出の増加率がわずか6.4%にとどまり,他の工業国のそれにくらべて低いところに問題がある(60年におけるOEEC諸国の輸出平均増加率は14%増)。第2の問題は国際収支構造が根本的に変化したことで,従来イギリスの国際収支構造は商品貿易の赤字を貿易外の黒字で相殺し,その結果として生じた経常収支の黒字で長期資本の流出を賄うというのが,正常な姿であった。ところが,第2-20表から明らかなように貿易外収支の黒字は58年の2.3億ポンドから60年のわずか0.2億ポンドヘ縮小した。このように貿易外の受超がほとんどゼロとなった理由は,主として海外軍事支出の増加と,海運,石油,投資収入などの収入が減少したせいである。いずれにせよ貿易外の黒字消滅により,経常収支黒字化の責任がもっぱら商品貿易に負わされることになり,輸出の促進が従来にもましてイギリス経済政策の眼目とならざるをえなくなった。
ところで,7月末にとられた緊急対策の内容を整理するとつぎのようになる。
1.直接外貨補強策-IMFから20億ドル借入れ(うち5億ドルはスタンドバイ・クレジット)
2.金融引締め
(1)公定歩合引上げ(5%から7%へ)
(2)特別預金率の引上げ(ロンドン手形加盟銀行は2%から3%へ,スコットランド系銀行は1%から1.5%へ)
(3)個人消費関係の銀行貸出しの自粛要請
3.増 税
購入税の10%引上げ,消費税および関税に対する10%の付加税増徴(本会計年度1.3億ポンド,平年度2.1億ポンドの購買力吸収)
4.政府支出削減
(1)1962年度における政府経常支出の増加を本年度の2.5%増(金額で125百万ポンド)以下におさえる。
(2)国有率業の投資は削減しないが,各種民間産業に対する特別融資を削減し,住宅購入補助金(年間4百万ポンド)を廃止する。この両者で本年度より約125百万ポンドの支出削減となる。
(3)地方政府交付金の削減等により175百万ポンドを節約。以上合計して62年度の政府支出は3億ポンド節約される。
(4)農業補助金の削減(現在年間235百万ポンド,どの程度削減するかは今後検討)。
5.賃金抑制
(1)公務員,国有産業の従業員など政府の統制下にある勤労者の賃金を一時的に凍結させる。最近決定された教員の賃上げ幅16%を14%へ削減する。民間産業に対しても賃上げは生産性上昇後に実施さるべきことを要望する。
6.海外支出の削減
(1)1962年度の政府海外支出推定総額4.8億ポンドを4億ポンドヘ削減,その方法として,(a)海外軍事支出を削減,(b)低開発国援助の増加を抑制,(c)海外の行政,外交費を62年度に10%削減
(a)非ポンド地域向け投資の審査を厳重にし,その投資がイギリスの輸出と国際収支にとって明らかな利益をもたらすことを証明させる。この原則は利潤再投資にも適用する。
(b)在外英会社の利潤の本国送金を促進する。
7.投機的利潤に対する課税
明年度予算案で株式,土地などの投機的売買から生じた利潤に課税できるようにする。
8.長期経済計画の策定について民間産業界および労組と協議する。
一見して明らかなように,今回のポンド危機対策が過去の危機対策と異る重要点は,短期の緊急対策のほかに,長期の構造対策を織込んだ点であろう。
しかし主たるねらいがあくまで短期のポンド防衛策にあったことはいうまでもない。すなわち,(1)IMFからの多額の資金引出しで外貨準備を直接補強するとともに,公定歩合を7%という危機的水準へ,引き上げることにより,ポンド防衛の断乎たる決意を内外に表明して思惑を断ち切り,あわせて金利面から短資の流出を阻止しようとした。また,(2)対内面では金融引締めと増税により国内の消費支出を抑制して輸出ドライブをかけるとともに,賃金を1時的に凍結してコスト・インフレの進行をとめようとした。
つぎに長期的な構造対策としては,
(1)長期的な経済成長の促進と対外競争力強化の観点から,民間産業や国有企業の設備投資は抑制しない。過去のポンド危機においては,初年度特別償却制や投資控除制など税制上の投資優遇措置の削減または廃止を通じて,産業投資の抑制がはかられた。
(2)これまでイギリス産業の対外競争力を阻害し,国際収支悪化の一つの重要な要因となったコスト・インフレの抑制のために,過大な賃上げを阻止して1時的に賃金ストップを実施する。これは主として短期対策ではあるが,同時に賃上げを生産性上昇の範囲内にとどめるルールを確立したいという,長期的なねらいを持っている。
(3)長期経済計画の策定もイギリスとしては画期的な政策転換であり,これによって最終的には長期的な資本成長と体質改善を促進しようというのである。
ところで以上のような緊急対策はすでに対外面で著しい効果をあげ,緊急対策前には2,785ドルだったポンドの対米為替相場は8月初めから対米パリティを回復,その後ベルリン危機などで一進一退があったものの,だいたいにおいてパリティないし上限に近い相場を維持している。金外貨準備も8月末には34.8億ドルとなり,前月比10.3億ドルも増加した。増加の主因はもちろんIMFからの引出しであったが,それまでの短資流出傾向が止まって若干の短資が流入したことも一つの原因となった。金外貨準備は9月にも約67百万ドル増加,10月には約2,000万ドル減少したものの,これはIMFへの返済2,8億ドルのほか特別支払いが少なくとも3.4億ドルあったためであって,同月中に約3億ポンドの短資が流入した。
このように7月末にとられた緊急対策は外貨面において急速かつ大幅な効果をもたらし,むしろロンドンの高金利につられてアメリカや西ドイツから大量の短資が流入するに至ったため,イングランド銀行は10月5日に0.5%,11月2日にさらに0.5%合計して1%だけ公定歩合を引下げた。
他方,経常収支面においても肝心の貿易収支が第2-21表から明らかなように過去数カ月間顕著な改善を示しており,7~9月間の平均で入超額はわずか33百万ポンドヘ減少している。これは第1四半期の月平均64百万ポンドから第2四半期の43百万ポンドにくらべて著しい改善である。これは通関べースであるから,これを国際収支ベースに換算すると,商品貿易はすでに黒字化したことになる。もちろんこの貿易尻の改善は今回の緊急対策の結果として生じたものでははく,主として本年初め以来進行していた在庫輸入の減少によってもたらされたものであり,輸出がほとんど増加していない点に問題が残されているが,この点は緊急対策のデフレ効果の浸透とアメリカ景気の上昇により今後は輸出も漸次増加の方向へ向かうものと期待されている。
他方,国内面での影響をみると,購入税等の引上げで月の小売物価指数が1.5%上昇した反面,小売売上高は8月,9月とも実質的に減少,自動車の売行きも低下し,賦払信用残高も8月以来減少に転じた。また銀行貸出額も8月,9月とも減少,とくに9月には過去6カ年間で最大の減少を示した。
このように緊急対策は対外面に関しては所期の目的を一応達成した,国内面においてもデフレ効果がすでに出始めており,今後時日の経過とともにいっそう効果を発揮することと思われる。
問題は賃金抑制策であって,すでに労組は秋の賃上げシーズンを迎えて政府の賃金ストップに強い抵抗を示しており,前途は楽観を許さない。しかし,政府もすでに数回にわたって賃金委員会の賃上げ要求を拒否するなど,賃上げ抑制に並々ならぬ決意を示しており,今後デフレ政策の浸透による景気の悪化もあって,ある程度賃金上昇テンポの抑制に成功するのではないかと思われる。
しかしながら,短期的にポンド危機の解消と国際収支の改善およびコスト・インフレの抑制に成功しても,そのあと再び拡大政策をとったばあいにまた同じような危機に見舞われるのでは何にもならない。その意味でむしろ長期的な構造対策とその成否こそ注目される。
周知のようにイギリスの経済成長率は欧米諸国のなかで最も低く,しばしばポンド危機に見舞われて国内需要の抑制をよぎなくされてきた。世界貿易におけるシェアーも低下の一途をたどり,特恵市場たる英連邦諸国においてすら,イギリスのシェアーはしだいに低下してきている。このようなイギリス経済の相対的な停滞と,ほとんど定期的ともいえる国際収支難の原因は複雑であるが,英連邦特恵制や高率の保護関税その他の保護的政策になれて企業が革新的意欲を失い,その結果近代化投資や新市場の開拓を怠ったこと,労働組合もまた完全雇用と福祉国家の下で守勢的となり,勤労意欲に乏しい反面で,賃上げ要求に熱心であり,その結果コスト・インフレが慢性化して,イギリス産業の対外競争力を弱めたことが,一般に指摘されている。このほか,軍事負担の過大さもイギリス経済の発展を妨げる要因であるようだ。
イギリス政府が,今回のポンド危機対策の採用にさいして産業投資の削減を避けたほか,適正な賃金政策の確立と経済計画の策定という長期的対策を打ち出したのも,こうしたイギリス経済の構造的体質的欠陥を是正せんがためであり,また緊急政策のすぐあとで発表されたEEC加盟の方針も,EE Cへ加盟することで,競争の新風を国内へ吹き込み,イギリス経済の体質改善を促進するとともに,貿易の重点を停滞的な英連邦から成長市場たるEE Cへ転換することで成長率を高めようというのがねらいとなっている。
イギリスのEEC加盟については後述するとして,ここでは,長期的構造政策の一つの重要な用具である経済計画の策定について述べる気,現在までのところロイド蔵相の提案が産業界と労組の双方によって検討されている段階で,まだ明確な形になっていない。ロイド蔵相の提案によると,大蔵大臣の下に,政府,国営企業,民間産業,労働組合の代表者18名からなる「国家経済開発審議会」(NationaIEconomicDeve1OpmentCouncil)と専門家から構成される独立の計画委員会をつくり,後者が生産,輸出入,労働力,投資,エネルギー需要等について今後5カ年間の計画を作成,それにもとづいて前者が適切な政策を政府に勧告する。この勧告は法的には拘束力をもたないが,事実上は政府の政策や企業および与論に強い心理的影響を与えるものど期待されている。ロイド蔵相はこの種の計画機構をできれば本年中にも実現したい意向のようである。これに対する反響をみると,財界は積極的に賛成しており,労組側は政府の今回の賃金ストップ政策に対する反発もあって,今のところあまり好意的でないが,もともと経済計画はむしろ労組や労働党の金看板であるから原則的に反対のはずがなく,細部については議論があっても結局は蔵相の構想に近い形で具体化するものと思われる。経済計画の策定に伴い当然計画の目標となるべき経済成長率が問題となるが,ロイド蔵相は本年7月末の議会討論で年平均生長率3%は可能だと言明したことからみて,一応この辺が現政府の目標であろうと思われる(1950~60年間におけるイギリスの平均成長率は2.6%,主要欧米諸国のなかで最低である)。