昭和34年

年次世界経済報告

世界経済の現勢

昭和三四年九月

経済企画庁


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第二部 各  論

第五章 「躍進」的発展をうち出した中国

第四節 経済の「躍進」的発展をもたらした諸要因

(一) 建設速度に関する指導原理の確立

第一次五カ年計画の第四年度,つまり一九五六年はかつて「躍進の年」といわれた。しかし同時にその年の経済拡張は,五六年末から五七年にかけて建設資材を中心とする重要生産資材,金属材料の不足をもたらし,いわゆる「経済のアンバランス」を露呈したとされ,そのような状況のもとでかなりひろく「反盲進」の気運が生まれた。その結果五七年の基本建設投資は逆に前年より一一・六%だけ減らされ,五七年は「生産戦線における低調の年」(劉少奇報告の規定-五八・五)となつた。この段階での非積極的な気運は当初五七年なかばごろ立てられた五八年度生産計画目標にも反映しており,たとえば五七年九月七日の「人民日報」社説では,工業八~一〇%増,農業四・八%増と慎重に提起されている。

五八年五月の劉少奇報告は以上のような消極的なかんがえに対して次のように批判を加えている。「当時一部の同志はこうした[五六年の躍進の中での]欠点を不当に誇張し,当時おさめた偉大な成績を過少評価したために,一九五六年の躍進を一種の『盲進』とかんがえた。」「その結果,大衆の積極性がそこなわれ,一九五七年における生産・建設戦線,とくに農業戦線での発展が影響をこうむつた。しかしまもなく党はこの誤りを是正した。」「党中央のこうした正しい指導と,整風運動,反右派闘争によつてうみ出された大衆の積極性が結合してこそ,一そう大きな規模で,いまの社会主義建設事業の全面的な躍進がうまれるのである。」五八年の経済の急速な発展は,建設速度の問題に関する以上のような積極的方針への転換によつて主導されたものである。そしてこのような指導原理は五八年二月二八日の人民日報社説「ふるいバランスを破つて新しいバランスをうちたてよ」の中で理論化されて,いわば「積極的バランス論」として提起されている。この社説はまず発展過程においてアンばランスが現われることはむしろ正常な現象であることを指摘し,アンバランスと緊張を恐れず,積極的な態度でアンパランスを解決し,たえずおくれた指標とノルマを引き上げて,進んだ指標に歩調をあわせるように努力することを主張したものである。

建設速度についての以上のような指導原理が確立されて,五八年度の経済発展は急激に推進されて行つた。二月に規定された同年度の公式の計画目標は工業一四・六%増,農業六・一%増であつたが,三月には「躍進目標」として工業三三%増という数字が提起された。粗鋼の生産目標を例にとると二月には六二〇万トンであつたものが,五月には八〇〇~八五〇万トンに,八月末には,一,〇七〇万トンと五七年度の二倍の目標がかかげられるにいたつた。興味あることは,実際の生産も月を追つて尻上りに高まり,建設速度についての積極的な方針が時を追つて実際の生産に貫徹していつたことを示している。上の数字は五八年度の毎月の工業生産額の,前年同期に対する増加率である。

図表

(二) 「社会主義建設の総路線」の提起

五八年度以降における中国国民経済が大幅な発展をとげた要因について「ニュー・ステーツマン」はつぎのようにのべている。

「中国の工農業革命の背後にある基本原則はしごく簡単である。遊休労働力を,最初はあまり消費をふやさずに運輸と農業を中心とする投資に直接動員することなのだ。社会主義以外の国のばあいだと,経済発展の努力はインフレーションを招き,発展計画を大幅に縮めなければならなくなる。この問題の解決に成功できる政府は,たしかに大きな直接の利益をかちとるだろうし,思想的にも政治的にも,後進諸国のあいだで支配的な地位を獲得するであろう。このようなことが異常な成果をもつて中国に起つているようだ。相対的に遊んでいた中国の農村労働者大衆を動員できた協同組合組織を基礎に,そのような発展がおこなわれたのである。」「大部分の西方の観測者が,大量の機械化設備がなければできないと判断したような仕事で,中国は労働力を投資として活用したのである。この点でインドが非常に複雑な輸入機械設備に頼つたことは,[インドの]第二次五カ年計両を削らねばならなくなつた外貨危機の主な原因の一つだつたのである。」(五八・一一・二九)「ニュー・ステーツマン」の以上の見解は生産躍進の根拠として「労働力を投資として活用する」という点を強調したものであるが,これはたしかに問題の一つの側面を指摘しているように思われる。このことは,五八年度以降において,中国では中国の現実的特殊的諸条件により多く適応した建設方針が採用されたことと関連している。ここにいう中国の特殊的諸条件とは,工業的基盤がなおきわめて薄弱であり,資金の蓄積に乏しいこと,農業が大きな比重を占めていること,広大な国土とぼう大な人口をかかえていること,豊富な資源が存在しているがまだ十分に開発されていないことなどがあげられるであろうし,問題はこのような国においてどのようにして社会主義建設を急速にまた有効に推進するかというその方針についてである。このような諸条件のもとで急速な経済発展をすすめるには,大規模な近代的重工業だけを一面的に重視し,発展させることはたしかに非現実的である。またそのために急速な資本蓄積をおこなうことはきわめて困難である。そこで正常な資本蓄積を補充するものとして,中国のようなばあいには「労働力を投資として活用する」という方針が意味をもつてくる。中国の最近の経済発展を論じたインドの経済学者ギル(K.S.Gill)の興味ある論文「労働の資本への転化」(Monthly Review五八・一二)もまた「余剰労働力は地方企業の設立,およびそのための設備をつくり出す上での主要なインプットであつた」とのべている。ギルによれば,さらにこれらの企業の大部分は生産手段を生産するのであるから,そこに雇用される余剰労働力は同時に「資本形成」にも貢献することになるという。

このような現実は西方流の考え方からすればいわゆる「人海戦術」ということにもなろうが,また中国のばあいには同時に漸進的,現実的な「技術革新」(現在の段階ではいわゆる「半機械化」)とむすびついていることに留意しなくてはならない。そのうえギルの指摘するように「中国は,その経済を社会化したために,剰余労働力」をかくも成功的に資本形成のために利用することができた」という点がもつとも基本的な要因であろう。

経済の「躍進的」発展をもたらした要因についての以上の見解は,中国側の問題のたてかたと一致する側面をもつている。中国側の公式文献は「社会主義建設の総路線」の確立を「躍進」の根本原因として指摘している。たとえば五九年四月の人民代表大会での報告で,周恩来はつぎのようにいう。

「一九五八年の大躍進のもつとも重要な原因は,われわれが一九五八年の春に第一次五カ年計画の経験をしめくくり,わが国に社会主義を建設するよりよい方法をさぐりあてはじめ,『張りきつて力いつぱい働き,もつとも高い目標をめざして,多く,速く,りつぱに,むだなく』社会主義を建設するという総路線を定めたことにある。」「五八年の大躍進はこの総路線に導かれてあらわれたものである。」中国側のいう「社会主義建設の総路線」は五八年五月の劉少奇報告ではじめてやや体系的にのべられたが,その内容はほぼつぎのように要約できるであろう。

以上のような「総路線」が五八年の前半にうち出されたことの意義は,中国が第一次五カ年計画の時期における建設方針に批判的検討を加え,中国の具体的特質によりよく適応したいわゆる「わが国に社会主義を建設するよりよい方法」をうち出したことにある。第一次五カ年計画の時期における建設方針は重工業の優先的発展を中心とする過去におけるソ連の方式に近いものであつたが,五八年以降においてはそれから以上のようなより現実に即した新しい方針に大胆に転換したことが「躍進」をもたらした原因であるとみることができる。

(三) 「総路線」下における生産発展の特徴的局面

(1) 地方中小工業の全面的発展

毛沢東は五七年二月次のようにいつている。「われわれは,一系列の大規模な現代化された企業を建設してこれを骨幹としなくてはならない。」「しかし多数の企業についてはこのようにすべきではなく,より多く中・小型の企業をたてるべきであり,また旧社会がのこした工業的基礎を十分に利用し,つとめて節約し,より少い金でより多くのことをやらなくてはならない。」この方針は五八年に入つてから「総路線」の下に一斉に実施にうつされ,「県ごとに工業をもち,郷ごとに工業をもつという工業戦線の上での新形勢」を生みだすことになつた。

前出のK・Sギルの指摘によれば,インドの村落小工業が手紡車,米や油料種子の粉砕器など「古風な手工業」を意味しているのと異なつて,中国の地方小工業は小炭坑,熔鉱炉,化学肥料工場,農機具工場など「中小規模の近代工業」を意味している点が注目にあたいするという。この点からも,地方中小企業の経済建設における発展的な役わりをうかがうことができる。

もちろん,近代的な目でみればこれら土法小工業は多くの非能率的な面をもつている。小土法高爐は近代的な方式を採用する値に比べて三~五倍の労働力を必要とし,土法による採炭は近代的炭坑の四~五倍の労働力を必要とする。しかし一面からみると,このような特質こそ当面の中国の具体的諸条件に符合する側面をもつているのであつて,許立群のいうとおり「若干の経済が発達し,人口の多くない国からみれば”不経済”なことがらも,貧困で空白な,人口の多いわが国ではかえつて“経済的”なことがらに変つてしまう」(五九・三・一六「紅旗」)のである。

こうして五八年上半期に完成された小高炉は六〇万基,小型水力発電所は二万余,小型セメント工場は一万余,小型の炭坑は八千余となつており,「小(小規模)・土(土法技術)・群(大衆路線)」ということが当面の工業発展のスロ―ガンとされた。国家経済委員会主任薄一波は,以上の方針を「工業建設方針の上での大革命」(五八・二・一六「紅旗」)とよんでいる。

こうして五八年度中に全国で新設された中・小鉱工業企業は七五〇万にのぼり,そのうち六七〇万は人民公社と農業生産協同組合によつて建設されたものであつた。これら中小企業によつて生産される額は,銑鉄では全生産額の約四〇%,粗鋼では約二〇%にのぼつた。農村小水力発電所の発電能力は五八年だけで九〇万KWふえた(五七年末にはわずかに二万KW)が,これはインドの第一次五カ年計画下における全増加量一三〇万KWに接近するものである(前掲ギルの指摘による)。

以上の若干の事例をみても,地方中小工業が五八年の生産の「躍進的」発展に果した役割はかなり大きいことがわかる。このような中小工業は適当な技術的改善と合理的な陶汰をへて,五九年にもつづけて発展させる方針で,重要工業部門について近代企業と中小企業との「二本足で歩く」方針が強調されている。

(2) 生産と「大衆運動」との結合

五八年の生産は,工業においても農業においても大規模な「大衆運動」としておこなわれたことがその特徴である。農業増産の基礎をきづいた灌漑・水利建設運動では,一カ月に動員された労働力は一億人にも達したといわれ,五八年一〇月におこなわれた「鉄鋼増産週間」には五,〇〇〇万人の労働力が動員されたといい,またその指導についても「党書記が高炉のかたわらで眠るようになれば,高炉の生産力はかぎりなく増大する」といわれるほど人の力が重視されている。またいわゆる反当り数百石といわれた「試験田」にしても,限られた面積の土地に惜しげもなく労働力を投入して「農産物増産のスプートニク」をうち上げることが強調された。

このようなぼう大な労働力の動員が可能となつたことの背後には,いくつかの社会経済的要因が存在していることが注意されなくてはならない。すなわち,第一次五カ年計画をとおして,国民経済のうちにおける社会主義セクターの支配的地位が確立したこと,五七年以降の反右派闘争と整風運動をとおして,いわゆる「政治思想戦線における社会主義革命を徹底させ, 「人民内部の矛盾」を合理的に解決して社会主義企業の中に新しい気風をつくり出すことに成功したことなどがその背景としてあげられる。

(3) 漸進的な「技術革新」-「半機械化」の推進

五八年度の農業の増産は「大量の農業機械と化学肥料とがまだない状況のもとでかちとられた」(「人民日報」五八・一〇・一)といわれる。また現在農業増産の基本的方法は「八字憲法」(水利・肥料・土壌改良・深耕・優良品種・密植・病虫害防除・工具改良・管理)とされており,急速な機械化の方針はいまだ提起されていない。当面その中間段階においてできるかぎりの現実的な工具改良=半機械化の推進によつて増産を実現しようとしているのが注目される。「人民日報」は「改良きれた新式の農具をもつてすべてのふるい能率のわるい農具にかえることは,当面わが国の農業生産力を発展させる中心の環である」とし,「大衆的な農具改革運動」が「農業機械化および近代化の唯一の正しいみちである」(五八・八・二一)とのべている。

このような方針の下で,全国的な農具改良運動が展開され,運搬用具への土法製ボールベアリング使用,ロープ索引機,深耕犁など多くの創造的な改良と能率化がおこなわれた。施肥においても大量の堆肥生産によつて化学肥料の不足がおぎなわれている。このような方法にたよつて五八年度には単位面積あたり収穫量が次の第5-6表のように顕著に増大した。


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