第6節 途上国の追い上げと日・米・アジアとの国際分業の変化
第1章第6節でみたように,アジアからの輸入,特に資本財の輸入が急増している。第2章第2節では,日本の貿易パターンが,他先進国に比べても,コスト競争力の産業間格差を反映した「比較優位理論」によってよく説明されていることがわかった。比較優位の高い順からみて,どの産業まで輸出競争力をもつかは,為替レートの動向に依存する。ここでは,特にアジアとの関係に焦点を当て,生産コストの日・アジア比較,及びアメリカも含めたアジアとの分業関係をみてみよう。
1. 途上国の追い上げは脅威か
(アジア諸国とのコスト比較)
「比較優位理論」が述べるように,貿易パターンを決めるのは,産業の生産コストの絶対水準ではない。日本がアジア諸国・地域に比べて全産業で生産コストが高くても,為替が極端にオーバーシュートしない限り,日本が比較優位を有する財の輸出を行うことで,日本とアジア諸国双方が分業による利益を得るのである。したがって,現在アジアからの製品輸入が急増しているのは,アジアが低賃金だからではなく,製造業の多くの業種,特に電気機器産業等の生産性が上昇することで,比較優位の序列のより上位に上がったこと,また円高により日本との間で輸出競争力を持つ財の範囲が拡大したことによると考えられる。また,生産コストは賃金だけで決まらない。例えば,ある国の賃金が日本の半分であっても,生産性が3分の1であれば,財1単位当たりの生産コストは日本の方が割安になる。事実,賃金格差は生産性格差を反映しているので,低賃金国は生産性も低いのが通常である。
ここでは今述べたような点を確認してみよう。まず,アジア諸国・地域と賃金を比較してみよう(第2節と同様,ここでの賃金も一人当たり雇用者所得を用いており,実際は賃金・俸給に加え,社会保障その他の雇主負担を含んだものとなっている)。アジア諸国・地域の製造業の賃金水準(米ドル換算)は,日本に比べてかなり低い(第2-6-1図)。NIEsでは,80年代後半以来,賃金が上昇し日本との差は縮小しているものの,90年以降では,台湾,香港,シンガポールでは約3~4割,韓国は約2~3割となっている。マレイシア,タイでは約1割,フィリピン,中国は約1~2%程度となっている。
しかし,生産性上昇を考慮し単位労働コスト(賃金/労働生産性)で比較すると,韓国で約4~6割,台湾で約5~6割,香港で約7割からほぼ同程度,シンガポールで約5割となり,またその他の国においても単位労働コストの差は賃金格差ほど大きくない(香港ドルは米ドルにリンクしているため,ドル高期には日本よりコストが割高となっている。また,92~93年以降日本との格差が再び拡大したのは,日本が低成長で生産性上昇が低下したことによる)。なお,仮に,為替レートが製造業の購買力平価程度であるとするとその差は大きく縮まり,香港では日本より割高となる。以上,アジアとの生産コスト格差は,日本の高い生産性を考慮すると賃金格差ほどは大きくない。しかしながら,円高の急速な進展によって,現実の為替レートが単位労働コストを反映した購買力平価からかい離するような状況では,日本のコスト競争力が低下していることも事実である。
(輸入増大と国内生産・雇用へのインパクト)
さきに述べたように,途上国が多くの産業において生産性を上昇させているのは事実であるが,途上国の生産性の上昇は,日本の実質所得を低下させるのであろうか。この問題については,昨年度の年次経済報告で詳述したので,ここで結論のみ述べる。途上国と日本が競争している産業のみで,途上国に生産性の上昇が起こった場合は,理論的に日本の交易条件が悪化することを通じて,日本の実質所得は低下するが,それ以外の場合の途上国の生産性の上昇は日本の実質所得を変化させないか,逆に上昇させる。実際,日本とアジアの貿易における交易条件(対アジア輸出価格/対アジア鉱物性燃料を除く輸入価格,1990年から95年まで)をみると,24%と大きく改善しており,この点をみるかぎり,現在のところマイナスの影響は観察されていない(平成7年度年次経済報告第2章第4節及び同付注2-4-13参照)。
また,輸入の増大によって国内の生産・雇用がどの程度影響を受けるかについては,平成7年経済の回顧と課題において分析したので,ここではその結果を紹介する。仮に,これらの財の価格が過去5年間と同じテンポで下落して輸入が増加したとして,賃金が硬直的である場合の生産や雇用への影響を試算すると,今後5年間で,生産は製造業全体では3%,経済全体では0.8%程度影響を受けるという計算になる。雇用者数に対する影響については,労働係数が変化しないとすれば,今後5年間で,製造業全体で約3%,40万人が減少することになる。これは全産業の雇用者数の0.8%に相当する。このように,輸入の影響は,個別の業種に対しては大きな影響が及ぶ可能性は否定できないが,経済全体としては必ずしも不可能な調整ではないと考えられる。また,輸入価格低下による需要の増加や生産性の上昇により,現実に雇用者数が減少することは回避できると考えられる(付注2-6-1及び平成7年経済の回顧と課題第4章第2節参照)。
2. 日本―アメリカ―アジアの貿易の流れ
第2節においてみたように,日本もアメリカも程度の差はあれ,貿易パターンが比較優位構造を反映しているものであった。アジアに関しては産業ごとのデータがそろわず同様の分析は出来ないので,比較優位で貿易パターンを論じることは残念ながらできない。それに代わってここでは日本,アメリカ,NIEs,ASEANの間の貿易の流れを財別に捉えて,国際分業の状況をみてみよう。第2-6-3表は,ある輸出先に対するある財の輸出が,輸出先に対する輸出全体に占めるシェアをみたものである。
第2-6-2図 日本,アメリカ,NIEs,ASEAN4間の輸出に占める情報・通信機器の比率
まとめると以下の特徴が挙げられる。第一に,日米アジア間の,自動データ処理機器,半導体等電子部品等の貿易のシェアの拡大にみられるような,情報・通信機器の双方向貿易の拡大である(第2-6-2図)。第二に,日本の対米自動車現地生産の展開を反映して,アメリカに対して自動車輸出から,部品輸出へのシフトがみられる。第三に,音響映像機器輸出における,日本から,NIEs,さらにASEANの間での輸出の主役の交替である。第四に,繊維製品,音響映像機器,家庭用電気機器等消費財において,ASEANからNIEsへの流れが高まっていることである。それでは,以下詳細にみてみよう。
(日本からアメリカ,NIEs,ASEANへの輸出)
日本の輸出について,対アメリカ,NIEs,ASEAN共通に,情報・通信機器が輸出の上位品目となっている。アメリカに対しては,その中で,自動データ処理機器,さらに,自動車,自動車用部分品が上位となっている(第2-6-3表①)。NIEsに対しては,特に半導体等電子部品や自動車等である。ASEANに対しては,金属及び同製品とともに,中でも自動車,自動車用部品,半導体等電子部品等のシェアが高くなっている。
時系列的にみると,輸出先共通にシェアを高めているのは,情報・通信機器であり,シェアを低めているのは,金属及び同製品,繊維及び同製品,音響映像機器である。さらにアメリカに対しては,自動車のシェアが低下している一方で,自動車用部分品のシェアが上昇している。
(アメリカから日本,NIEs,ASEANへの輸出)
アメリカの輸出について,対日本,NIEs,ASEAN共通に,情報・通信機器,化学製品,食料品,燃料・原料品が輸出の上位品目となっている(同②)。情報・通信機器において日本に対しては,中でも自動データ処理機器の比率が高く,NIEsやASEANに対しては,半導体等電子部品の比率が高くなっている。
時系列的にみると,日本やNIEsに対してシェアを高めているのは,半導体等電子部品,自動車,自動車用部分品である。ASEANに対しては,半導体等電子部品の占めるシェアは圧倒的に高いが,85年以降やや低下している。一方,シェアが低下しているのは,食料品や燃料・原料品である。なお,ASEANに対しては,化学製品のシェアが大きく低下している。
(NIEsから日本,アメリカ,ASEANへの輸出)
NIEsの輸出について,対日本,アメリカ,ASEAN共通に,情報・通信機器の比率が高い(同③)。日本に対しては,食料品,燃料・原料品に加え金属及び同製品の比率が比較的高い。アメリカに対しては,自動データ処理機器がかなり高いのを始め,半導体等電子部品,音響映像機器等機械製品のシェアが圧倒的に高い。ASEANに対しては,燃料・原料品に加えて,化学製品,半導体等電子部品,繊維及び同製品,金属及び同製品等が上位品目となっている。
時系列的にみると,対日本,アメリカ,ASEANに共通にシェアを高めているのは,情報・通信機器(特に自動データ処理機器と半導体等電子部品)である。シェアの低下が顕著なのは,燃料及び同製品である。音響映像機器はアメリカに対してはシェアを低めている。繊維及び同製品は,日本に対してはシェアを低め,ASEANに対してはシェアを高めている。
(ASEANから日本,アメリカ,NIEsへの輸出)
ASEANの輸出について,対日本,アメリカ,NIEs共通に,燃料・原料品及び食料品のシェアは高い(同④)。日本に対してはこれらが圧倒的であるのに対し,アメリカやNIEsに対しては半導体等電子部品,自動データ処理機器,音響映像機器のシェアがかなり大きくなっている。
時系列的にみると,対日本,アメリカ,NIEs共通にシェアを高めているのは,情報・通信機器や,音響映像機器,家庭用電気機器等の電気機器であり,シェアを低めているのは,燃料・原料品である。NIEsに対しては,加えて繊維及び同製品のシェアが高まっている。
(地域バイアスからみた貿易関係の特徴)
以上のように,日米アジアの間の貿易における輸出・輸入財のシェアで情報・通信機器がシェアを高めているが,これはこの産業の規模が大きくなっていることによる部分があろう。規模の大きい産業の財の,輸出入全体に占めるシェアは高く,成長産業の輸出入シェアは高まるのは当然である。そこで,ある財のある相手国の輸出入に占めるシェアを,他国におけるシェアと比べることにより,財の地域バイアスを測ってみよう。A国のB財の輸出について,C国にバイアスがあるというのは,A国からC国への輸出におけるB財のシェアが,A国からC国以外への輸出におけるB財のシェアより高いときをいう。
地域バイアスの動向をみると,以下の特徴が挙げられる。第一に,アメリカとNIEs及びアメリカとASEAN相互の輸出において,情報・通信機器(特に半導体等電子部品)のバイアスが高い。第二に,アメリカ,NIEs,ASEANの日本に対する輸出でバイアスが高いのは,食料品と燃料・原料品である。第三に,情報・通信機器や音響映像機器等の輸入については,日米からのバイアスが低下,NIEsやASEANからのバイアスが高まっている(ASEANは日本からのバイアスが高まっている)。
輸出について更に詳細にみると,日本の場合,自動データ処理機器や事務用機器といった情報・通信機器はアメリカに対して,また半導体等電子部品では,NIEs,ASEANに対してバイアスがある(第2-6-4表①)。アメリカの場合,全般的に,日本,NIEs,ASEANに対するバイアスは小さい(同②)。これはカナダや中南米との貿易関係の強さと裏腹にあると思われる。NIEsの場合,情報・通信機器の輸出が目覚ましいが,アメリカに対してバイアスが強い(同③)。また,産業機械や金属加工機器等の一般機器輸出はASEANへのバイアスが強い。ASEANの場合,情報・通信機器の輸出においてアメリカとNIEsに対するバイアスが強いが,半導体等電子部品では90年代にはアメリカへのバイアスが弱まりNIEsへのバイアスがやや強まっている(同④)。
一方,輸入について詳細にみると,日本では,半導体等電子部品(80年代後半),自動データ処理機器はアメリカからNIEsへとバイアスが変化し,音響映像機器,事務用機器はNIEsからASEANへバイアスが変化している(第2-6-5表①)。アメリカにおいては,自動データ処理機器は日本からNIEsへとバイアスが変化,音響映像機器は日本からNIEs,さらに近年は顕著にASEANへのバイアスが強まっている(同②)。NIEsに関しては,全般的に日本へのバイアス大きいが,それらは90年以降やや低下している(同③)。特に,自動データ処理機器等の情報・通信機器の輸入はASEANへのバイアスが強まっている。ASEANについては,NIEsと同様,全般的に日本へのバイアス大きいが,それらは90年以降やや低下している(同④)。また,半導体等電子部品や自動データ処理機器はアメリカに対するバイアスが低下し,日本やNIEsへのバイアスが高まっている。
このように,日米アジアにおいて情報・通信機器の相互貿易が高まっており,その中で供給者としての成長が目覚ましいのは,NIEsとASEANといえよう。中でも,日本のNIEs,ASEANからの輸入は食料品や燃料・原料品の輸出の比率が未だ高いのに比較すると,アメリカ,NIEs,ASEANとの間で,情報・通信機器の相互貿易の高さ(比率及び地域バイアスの高さ)が目立つ。
本節をまとめると,日本とアジア諸国・地域との間の生産コストの格差は生産性を考慮すると,賃金格差ほどは大きくない。そして,日本,アメリカ,NIEs,ASEAN間で情報・通信機器の相互貿易が拡大している。さらに,近年において,特にASEANのその他の製品類も含めた製品供給力の高まりが顕著である。このように日本とアジアの間の分業関係が,製品特に電気機器や情報・通信機器分野で進展している。
(コスト競争力と非価格競争力)
日本の産業構造の特徴は,比較優位産業,比較劣位産業,非製造業の三者において,生産性上昇率格差が大きい「重層型」の構造であることをみた。これまで,比較優位産業が比較劣位産業や非製造業との生産性上昇率の格差を拡大させつつ,日本経済を力強くけん引することでキャッチアップを実現してきた。また,日本の貿易構造も「重層型」産業構造の特徴である,産業間に存在するコスト競争力の大きな格差を反映している。数年来の円高,NIEs,ASEANにおける生産性上昇もあって,日本のコスト競争力は失われてきている。実際,NIEsやASEANは情報・通信機器の貿易拡大のなかで,急速にその存在を高めている。そして,生産拠点の移転や輸入品の流入といったアジア諸国との競合にあって,特に中小企業では厳しい調整を迫られている。
「重層型」産業構造において,産業間の生産性上昇率格差やコスト競争力格差が拡大してきた背景の一つに,円高に直面した際比較優位産業ほど大きく雇用が減少し,比較劣位産業ではむしろ雇用の減少は緩やかであったことが挙げられる。仮に,高生産性分野ほど雇用が縮小し,低生産性分野で雇用が吸収されるということが続けば,産業間の生産性格差がますます拡大していくことになろう。高生産性分野の割合が小さくなっていけば,経済全体の生産性を上昇させるのは困難となっていく。それは,国民の生活水準が向上しないことを意味する。生活水準の向上=一国全体の生産性上昇のためには,「重層構造の底上げ」,すなわち,比較劣位産業と非製造業部門において,一層の輸入の増大と規制緩和をてこに,より一層の生産性の向上を図ることが不可欠である。その際,比較優位,劣位,非製造業を問わず生産性上昇は,新しい技術を体化した資本装備率の上昇や活動効率の上昇を通じた前向きなものを目指すことが重要である。もちろん,大規模な雇用調整を避けられない業種もあるだろうが,経済全体としては必ずしも不可能な調整ではないであろうと考えられる。また,高コスト国である日本にとって,高品質,高性能,独自技術,財・サービスの差別化等による非価格競争力を強化することは,為替変動や途上国の追い上げに対しても平気な体質へと変身していく上での一つの道である。