第2章 産業調整をみる視点

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第1節 戦後の歩みとキャッチアップの終了

(戦後日本経済の歩み)

戦後の日本経済は,国際環境にも恵まれ,国民の英知と努力の結果,復興から高度成長を達成し,二度にわたる石油危機や円高をも乗り越え,世界第二位の経済規模を実現し,世界経済の運営に重要な役割を担うまでに発展を遂げた。

この間の推移を簡単に振り返ってみると,まず終戦によって日本経済はどん底に陥った。第一回(1947年)の年次経済報告(経済実相報告書)は,この状況を「家計も赤字,企業も赤字,政府も赤字」と分析した。この時代の経済改革のうち,それ以降の日本経済の仕組みや経済政策の体系を規定する上で重要な出来事としては,戦後の諸改革(民法改正,農地改革,労働改革,財閥解体,経済力集中排除,独占禁止法の制定等)と,49年のドッジ安定化政策を挙げることができる。前者は活発な企業家精神を背景とする競争的な市場経済の枠組みの素地をつくったという意味で,また後者は,第一にそれまでの統制的な経済政策を一挙に廃止し,より分権的な市場経済システムに切り換えたこと,第二は当時のハイパーインフレ対策として緊縮的な財政金融政策を断固としてとったこと,第三は為替レートの一本化を図り,その後の経済政策の体系の素地をつくったという意味で極めて重要な制度改革であった。こうしたなかで,日本経済は朝鮮特需もあって回復を続け,50年には一人当たり国民所得が戦前の水準にまで回復した。昭和31年度「年次経済報告」はこうした状況を分析し「もはや戦後ではない」と明言した。

55年以降70年代の前半までは,いわゆる高度成長の時代であった。この間,国際収支の天井による引締めや,景気後退を幾度かは経験したが,神武景気(50年代後半),岩戸景気(50年代後半から60年代初頭),いざなぎ景気(60年代後半)と平均10%以上の高い成長を遂げた。この間,60年に策定された「国民所得倍増計画」は,国民に給料倍増という夢と本格的な将来展望を与え,これが企業の設備投資を加速させるなど高度成長の道筋を決定付けた。また,このころは貿易自由化政策の積極的な推進等,開放経済体制の整備を図っていた。そして,64年には「IMF8条国」に移行したのである。こうした変化の中で60年代後半からは,しだいに国際収支の黒字構造が定着するようになった。

70年代以降,世界経済は国際通貨制度の動揺(71年のニクソンショック,73年の変動相場制への移行),二度にわたる石油危機(73年,78年)等,外からのショックに見舞われ,おりからの「列島改造ブーム」もあり,狂乱物価とその後のスタグフレーション,構造不況業種の出現,大幅な財政赤字等様々な困難に直面した。この時代の外的ショックのうち,国際通貨制度の動揺に関していえば,既に60年代後半から固定相場制においては国内均衡と対外均衡の同時達成をマクロ政策で図ることは不可能であるというジレンマ・ケースに陥っていた。その矛盾が表面化したのがニクソンショックである。その意味では変動相場制への移行は,金融政策の自由度をある程度高めることになったとともに,その後の石油危機の悪影響を小さくする効果もあった。また石油危機に関していえば,それまでのエネルギー依存型の産業構造では日本経済は世界で生きていけないことを学んだ。また,輸入インフレ(交易条件の悪化)によって国内の所得が海外に奪われた場合に,賃金の上昇によって消費水準を維持することがその後の調整を更に厳しくすることを学んだ。この教訓は第二次石油危機の際にいかされ,適切なマクロ政策とマクロ経済環境に配慮した労使の自主的な賃金決定,さらには省エネ化等の産業構造の転換を進め,インフレを克服し,日本経済は先進国の中では相対的に良好なパフォーマンスを維持するとともに,国際競争力を強めて持続的成長の基礎を再び築いた。

また,60年代の後半から70年代前半にかけては,それまでの高度成長のゆがみが表面化した時代でもあった。すなわち,成長と福祉のギャップの表面化,公害問題,都市問題,分配問題,社会保障問題への対応が政策課題の中心になった。すなわち,効率よりも分配が,競争よりも規制が,市場の役割よりも政府の役割がより重要視された時代であった。

80年代に入ると先進国でいわゆる新保守主義的経済思潮が台頭した。我が国においても,臨調・行革審の提言を受けた行政改革や民営化の下で,民間企業の活力が喚起された。他方,アメリカのゆがんだマクロ経済政策を背景に先進国間の対外不均衡が拡大した。そして,85年以降国際協調の下で大幅な通貨調整が行われるとともに,景気刺激的なマクロ政策が展開された。こうして日本経済は当初の「円高不況」を克服し,内需主導の経済成長を実現することができた。しかし,この時期日本経済を襲ったのが,異常な資産価格の高騰,すなわちバブルの発生であった。

バブルは必ず崩壊する。90年代に入り金融環境の変化や個別の規制政策をきっかけにバブルは破裂した。こうして日本経済は90年以降厳しい経済調整を強いられるとともに,経済構造・経済システムを根底から見直す時代に入ったのである。

(キャッチアップの終了)

以上のような戦後の発展の歩みを生産性のキャッチアップのプロセスとしてとらえると,この間の発展のスピードがいかに順調であったかが分かる。全産業ベースでの労働生産性(一人当たりGDP)をアメリカとの対比でみると(第2-1-1図),50年にはアメリカの2割にしか満たなかった日本の生産性のレベルも,90年にはほぼキャッチアップを終えた。ここで注目すべきことは,このような生産性のキャッチアップは,単に資本や労働の投入量の増大によってもたらされたのではなく,高い技術進歩率によって達成されたという点である。

しかし,先進国の労働生産性がアメリカの水準にかなり収束してきた70年以降,先進国の労働生産性の上昇率に鈍化がみられる。これは,二度にわたる石油危機のような交易条件の悪化による部分もあるが,先進国とアメリカとの生産性格差が縮小し,キャッチアップの余地が小さくなったことが一つの要因と考えられる。キャッチアップの余地が大きいときには生産性の急激な上昇が達成され,余地が縮小すると急激な生産性上昇は困難になるとみられる。この点を,OECD加盟国について検証してみよう。データの制約から70年以降の全要素生産性上昇率を民間資本ストック,物価,社会資本,技術ストック及び70年代前半ダミーで説明する式を推計すると(第2-1-2表①),民間資本ストックの影響が強いのに対して,社会資本ストックや技術ストックの影響はあまり強くない。この推計式を使って70年代前半から80年代後半にかけての生産性上昇率の低下の背景を試算すると(第2-1-2表②),生産性上昇率の鈍化の4分の3を70年代前半ダミーが説明している。これは,70年代初めから80年代後半にかけて外生的な生産性上昇率の鈍化が生じたことを意味するが,例えば,戦後の高い生産性上昇による技術進歩の余地の縮小等が考えられるであろう。こうした要因による生産性上昇率の鈍化は,つまり,社会資本や技術ストックの増加率をかつての水準に戻したとしても生産性上昇率は元に戻らないということであり,生産性についての状況は厳しいことが確認できよう。

このように,キャッチアップのサクセスストーリーは,今後の大きなチャレンジにつながってきている。その解決のためには,産業構造の徹底的な見直しが必要とされるであろう。以下では,まず,戦後の産業構造の限界を指摘し,続いて非製造業,中小企業,対外貿易等に関連した産業構造改革の必要性を検討する。

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