昭和56年

年次経済報告

日本経済の創造的活力を求めて

昭和56年8月14日

経済企画庁


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第I部 第2次石油危機を乗り越える日本経済

第1章 第2次石油危機の影響とその収斂過程

第3節 所得分配の動きとその影響

以上においては,交易条件の悪化により実質所得の大幅低下が生じたにもかかわらず,前回の石油ショック後のような厳しい景気後退が生じなかったことを指摘してきた。ではなぜそうであったか,その基本的理由は,前回と今回における所得分配と財政・金融政策の相違にある。ここではまず所得分配の面から検討してみよう(財政・金融政策については第I部第3章参照)。

1. 前回よりも安定していた労働分配率

多くの人が持つ問題意識がある。それは交易条件の悪化による実質所得の低下を国内経済の各部門がどのように負担したのかということである。

交易条件の悪化により実質所得が低下する過程では,生産性(=実質GNP/就業者数)が上昇した分をすべて賃金引上げに回すことができない。それを行うと企業の収益が圧迫され,国内インフレ圧力が高まるからである。この点については既に触れたが,もう少し詳しくいうと次のような理由によって生じる。

すなわち,まず石油価格の大幅上昇によって交易条件が悪化する過程では,国内物価(=国内需要デフレーター)は輸入物価の上昇が国内物価に転嫁されるからGNPデフレーターを上回って上昇する。このため,国内物価で評価した実質所得(=名目国民総所得/国内需要デフレーター)の伸びは実質GNPの成長率を下回る(前掲 第I-P-1図 )。したがって,実質GNPの成長によって生じた生産性の上昇率と等しい率だけ実質賃金(=一人当たり雇用者所得/国内需要デフレーター)が上昇すると,実質所得のうち家計側の取り分が増えてしまい,結果として企業収益が圧迫されることになる。極端にいうと,生産性を上げた分全部が交易条件の悪化により海外への実質購買力の移転として流出してしまう状況が生じた時,家計も企業も実質所得を増やすことはできない。一方が少しでも増やそうとすると,もう一方は必ず減ってしまう。後者が取り返そうとするとインフレの悪循環が生じる。

したがって労働分配率を不変に保ち,その意味で国内のインフレ圧力の高まりを避けうる実質賃金上昇率は,生産性上昇率から交易条件悪化による実質所得の低下率(=海外への実質購買力の移転分)を差し引いたものとなる。ここでは,それを「労働分配率を変えない実質賃金上昇率」と呼び,現実の実質賃金上昇率がそれを上回る部分を「実質賃金ギャップ」と呼ぶこととする。

このような労働分配率を変えない実質賃金上昇率と現実の実質賃金上昇率の動きを比較してみよう( 第I-1-6図 )。この両者の近年の動きをみると,労働分配率を変えない実質賃金上昇率は54年が2.4%,55年が0.2%と低下している。これは,生産性は3~4%程度の上昇を示したものの,交易条件の大幅悪化により,54年に1.8%,55年に3.0%実質所得が低下したためである。この部分は国内で生産性の上昇があったにもかかわらず,海外への実質購買力の移転として吸収された部分にあたる。

他方,現実の実質賃金上昇率も54年2.1%のあと,55年はマイナス0.6%と低下している。54~55年には現実の実質賃金上昇率は労働分配率を変えない実質賃金上昇率にほぼ等しかった。このため前回ほど大きな実質賃金ギャップは生じなかった。

その結果,大きな労働分配率の変動は生じなかった。雇用者所得を名目国民総所得(=名目GNP)で割った労働分配率の動きをみると,53年の53.7%,54年の53.8%のあと,54.5%となっている。

こうした労働分配率の動きを,第1次石油危機後の調整過程に比べると,対照的なことがよくわかる。49~50年では,急激な景気後退による生産性上昇率の低下と石油価格上昇を主因とする交易条件の悪化により,労働分配率を変えない実質賃金上昇率は大きく低下し,とくに49年はかなりのマイナスになった。ところが,名目賃金上昇率が大幅に高まり,現実の実質賃金上昇率の低下は小幅にとどまった。この結果,49~50年では大幅な「実質賃金ギャップ」が生じ,労働分配率(=雇用者所得/名目国民総所得)は大きく上昇した。すなわち,48年の48.1%から,50年の53.9%へと5.8%も上昇した。このため,企業収益の落ち込みは一層大幅となったのである。

第I-1-7図 付加価値の配分(全産業)

以上を要約していえば,第1次石油危機後の調整過程では,労働分配率の大幅上昇に反映しているように,交易条件の悪化による実質所得の低下が企業収益にしわ寄せするという形で負担されたが,第2次後では労働分配率は大きな変動を示さず,その意味で労働者の所得と企業収益の間で前回に比べればより均等に分担するという形で吸収されたのである。

大蔵省「法人企業統計年報」により全産業の付加価値に占める人件費の割合から労働分配率の動きを推計してみると,54~55年度において労働分配率は若干低下している( 第I-1-7図 )。日本銀行「主要企業経営分析」により製造業の付加価値に占める人件費の割合を見ても同様の動きが観察される。しかしながら,「法人企業統計」ベースで48~50年度間に労働分配率が12.2%ポイントも上昇したのに比べれば,53~55年度間の3.4%ポイントの低下は比較的小さい動きであったといえよう。なお,個人企業では,55年の収益の伸びが低かったので,労働分配率は前年に比ベ1.0%ポイント上昇した(総理府統計局 「個人企業経済調査」)。

2. 前回と今回の差異をもたらした要因

同じ石油価格高騰後の調整過程でありながら,前回は労働分配率が大幅に上昇し,今回は労働分配率はほぼ横ばいに推移した。このような差異は何によってもたらされたのであろうか。

労働分配率の動きを決める要因としては,雇用と賃金の動きが重要である。そこでまず,雇用の動向と労働分配率の関係をみてみよう。

雇用は物価や生産の変動に若干遅れて変動する性格がある。その理由は,労働力を雇用した時に採用のための費用がかかるし,企業内訓練等の人的投資をかなり行っているため,人件費がかなり固定費的な性格をもっているからである。したがって景気上昇局面でも短期的には雇用を増やさず,既存の労働者の時間外労働を増やして対応するほうが有利となる。このため,景気上昇の初期においては物価の上昇とともに生産性の上昇が起きるので労働分配率は低下する。

景気上昇期がさらに進むと雇用が増え始め,訓練のためのコストがかかるようになる。また,稼慟率が上昇するので性能の悪い機械も使わざるをえなくなるなどの理由から生産性は低下し,分配率が上昇し始める。やがて景気のピークに達して,景気が下降局面に入ると生産が減少しても,その減少がかなり持続的なものと判断されない限りは直ちには雇用を減らさないほうが有利である。このため,生産性は一層低下し,分配率はさらに上昇する。

このように雇用の調整が景気に遅れる性格があるため,景気後退の幅が大きい時は生産性の伸びの低下と労働分配率の上昇は大幅になる。

49~50年の局面で労働分配率が大きく上昇したのは,こうした理由がかなり働いた。すなわち,49~50年の景気後退は今回よりも急激でかつ大規模であったため,後に述べる賃金の大幅上昇に加え雇用調整の遅れにより労働分配率の上昇が生じたものとみられる。49~50年の局面ではいわゆる「過剰雇用」の問題が大きく取り上げられた。これに対し今回の場合は,景気停滞が緩やかでかつ小規模であったうえ,それまでの減量効果も加わって,このような要因はそう強く働かなかった。

労働分配率を左右するもう一つの重要な要因は賃金である。賃金上昇率は,基本的には予想インフレ率(期待インフレ率あるいはインフレ期待ともいう)とその時々の労働市場の需給ひっ迫度の要因によって左右されると考えられるが,予想インフレ率自体は過去2~3年の物価上昇率によって決まりやすいと考えてよい。したがってインフレ高進期の後期では現実の物価上昇率が低下しているにもかかわらず,予想インフレ率が高まり,それが名目賃金上昇率を押し上げるというメカニズムが働く。

49~50年にはまさにそのような力が働いた( 第I-1-8図 )。春季賃上げ率の決定に予想インフレ率の高まりが大きく寄与したのである。49年は労働需給のひっ迫度が高いうえに,予想インフレ率の高まりが加わったので大幅な賃金上昇がもたらされた。50年の場合は,前者の寄与は大きく後退したが,予想インフレ率の寄与度が高くとどまっていたので,なお相当高い賃金上昇率が続いた。

これに対して,54~55年には,労働市場の需給ひっ迫度の寄与は50年並に近いうえに,予想インフレ率がはるかに落ち着いていたので穏やかな賃上げ率におさまったものとみられる。

このほかのインフレ期待を沈静化させる要因として,石油価格上昇による交易条件の悪化が実質所得の低下をもたらすこと,そして日本経済全体としてはその負担をまぬがれることができないことがよく理解されるようになったことも見逃せない。

3. 物価,雇用,企業収益への影響

このように,今回の石油危機の収斂過程においては,前回に比べて労働分配率がより安定的に推移した。このことは次の三つの経路を通じて,石油危機の影響の収斂過程において物価上昇と景気後退の深刻化を回避させる要因となった。

第1に,名目賃金上昇率の落ち着きにより労働分配率が比較的安定していたことは,ある程度名目所得の増加率を引き下げるという形で交易条件の悪化による実質所得低下の影響を吸収することを可能にした。これにより,インフレの大幅加速化を避けることが可能となった。

交易条件の悪化による実質所得の低下が避けられないとき,金融政策の対応の仕方に2通りある。一つは抑制気味の金融政策の運営を図り,名目所得(=名目GNP)の増加率を引き下げる方法である。この場合は国内物価の上昇率が高まるのを抑えることができる。もう1つは,マネーサプライの増加率(マネーサプライについては本章第4節参照)をある程度引き上げ,国内物価の上昇率の高まりを是認する方法である。

今回の調整過程においては,前者,すなわちマネーサプライの増加率を引き下げる対応方法がとられた。この結果,国内物価の上昇率の高まりを完全に抑えることはできなかったものの,ある程度,名目GNPの増加率を引き下げる形でインフレの高進を抑制することができた。

そしてこの点に関し重要なのは「名目所得のうち大きな部分を占める」賃金所得の上昇が落ち着いていたからこそ,それが可能となったという面が強いことである。

第2に,労働分配率の大幅上昇が避けられ賃金上昇率が下方硬直的(下がりにくいこと)でなかったことが,雇用の安定を確保する面で大きなプラスになった。賃金上昇率が下方に弾力的であれば,生産の減退による労働需要の減少をある程度相殺でき,雇用調整の規模を小さく抑えることが可能になるからである。

原油価格の大幅上昇が生じた時,マネーサプライの増加率を引き上げて,ある程度物価上昇率を高めてショックを吸収すべきだという意見もみられた。その理由は,賃金上昇率が下方硬直的であれば,石油価格上昇により国内物価が上昇する局面では名目賃金や物価の上昇率の加速化は避けられない。このような時,無理にマネーサプライの増加率を抑えると失業率の大幅上昇が避けられないという判断があったからである。しかしながら,今回のわが国経済の経験ではマネーサプライの増加率は抑え気味に運営されたが,大幅な失業率の上昇は生じなかった。それは賃金上昇率は下方硬直的でなかったからであった。

第I-1-9表 売上高経常利益率の変動要因(48~50年と53~55年の局面の比較)

第3に,労働分配率の安定は,企業収益が大きく落ち込むのを防ぎ,設備投資の堅調を支える大きな要因の一つとなった。

第1次石油危機直前の48年度上期から50年度上期までの2年間と,今回石油危機直前の53年度上期から,55年度下期までの2年半の売上高経常利益率の動きを比較してみると,前回の2年間では4.6%ポイントも低下し,50年度上期には1.4%の低水準に落ち込んだ( 第I-1-9表 )。ところが,今回の場合は,0.3%ポイントの低下に留まり,依然3%台の利益率となっている。

このように前回と今回の利益率変動幅に大きな差異が生じた主な原因の一つは,前回大きな利益圧迫要因となった人件費の増加が,今回はあまり大きくなかったことである。これは前述のように,今回の賃金上昇率が落ち着いたものとなったためであり,これに売上数量の増加を背景とした労働生産性の改善も加わって,企業の人件費負担は前回に比べ,大幅に軽減されたのである。


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