昭和45年

年次経済報告

日本経済の新しい次元

昭和45年7月17日

経済企画庁


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第2部 日本経済の新しい次元

第2章 インフレなき繁栄

3. 物価上昇下の企業経営

つぎに物価上昇は企業経営にいかなる影響をもたらしているであろろか。わが国の場合には卸売物価の上昇率が比較的おちついていただけに,企業経営面(とくにストック面)にあたえる物価変動の影響を考えることはそれほど重要視されてこなかつた。しかし,最近,卸売物価の上昇は著しく,地価もひきつづき高騰を示していることを考慮すれば,物価上昇が企業にいかなる影響をもたらしているかを分析してみる必要があろう。

第134表 物価変動修正による比較貸借対照表

(1) ストック面からみた債務者利潤の現状

まず,物価上昇は企業の資産・負債のストックにどのような影響を及ぼすであろうか, 第134表 は,44年度上期と10年前の34年度上期における製造業主要企業435社の貸借対照表に物価変動による修正をくわえて比較したものである。

その計算方法としては,実物資産である建物,機械,土地について,それぞれのデフレーターをもちいて時価による評価をくわえる方法をとつた。この場合,デフレーターがどの程度正確に企業資産の時価を反映しているかに問題はあり,とくに,地価指数が現実の工場用地価格を示しているかどうかに疑問があるが,一応の試算では,上記435社で44年度上期には約1兆8,000億円の含み益があることがわかる。

企業成長の過程では実物資産や金融資産が増大していくが,それは他人資本と自己資本によつてまかなわれる。わが国の企業は,自己資本の比率が相対的に低く,他人資本の割合が高い。したがつて,実物資産の増大を他人資本でまかなつた部分もきわめて大きく,債務者利潤の生ずる余地もそれだけ大きかつた。いわゆる債務者利潤は,借入れによつて自己資本を上回る実物資産投資を行うことから生ずるものと考えることができる。最近10年間の実物資産の含み益は約1兆8,000億円てあつたが,このうち自己資本を上回る実物資産によつて生じた含み益を債務者利潤と考えると約9,000億円となる。また,こうした含み益を総資産に対する割合でみると44年度上期には6.6%に達する。

一方,自己資本比率は34年度上期の32.3%から,44年度上期には22.3%まで10ポイント低下を示している。しかし,実物資産を時価評価することによつて生ずる含み益も企業の支配下にある資本であると考えて,自己資本と含み益の総資産(時価)に対する比率をみると,34年度上期には34.8%,44年度上期には27.4%となる。

このように,物価上昇がつづくと実物資産に莫大な含み益が発生する。とくに,わが国の場合には地価の上昇が著しく,これが含み益を大きくした(10年間の含み益のうち地価上昇による分は1兆円)。この結果,34年以降の土地投資を全額借入れによつてまかなつてきたと仮定しても,その金利負担分は地価上昇による含み益をかなりの期間にわたつて下回つている( 第135図 )。

こうした状況は,企集行動において負債を増大させ,それによつて実物投資を積極化させようとする,いわゆるインフレマインドを発生させる可能性がある。これまでのところでは,わが国の企業がこうした債務者利潤をめざして投資活動を行なつたとは考えられない。これは,こうした含み益が企業にとつて現実に意味をもつのは,不動産担保価値の増大による借入余力の増加や,経営不振時あるいは解散時の例外的な資産売却の場合などに限られるからである。

しかし,含み益の存在が企業の行動にいくつかの影響を与えたことも否定できないであろう。含み益の存在は実質的に企業の担保力を高め,借入金の調達を容易にするとともに,自己資本比率の低下に対し企業の警戒感を弱める結果になつたとみられる。

(2) フロー面からみた物価上昇の企業収益に及ぼす影響

物価上昇はフローとしての各期の企業収益にどのような影響を与えているであろうか。もちろん,先に述べたように実物資産を時価評価すれば含み益が発生するが,これは潜在的な収益であつて,現実に企業がそうした利益を目標に行動しているわけではない。企業にとつての目標は,現実の決算に計上される生産,販売など企業活動の結果としての利益であつて,債務者としての利益ではない。

では,現実の決算利益は物価とどのような関連をもつて動いているのであろうか。これまでの景気上昇局面では,需要が堅調となつて製品価格の上昇がみられ,それが利益の増加に貢献してきた。しかし,企業利潤に対する価格の影響を考えるときには,単に製品価格の動きだけでなく,製造原価の構成要素として大きなウエイトを占める原材料費,外注費,加工費等(以下原材料関係費と称する)の価格の動きを考慮に入れなければならない。すなわち,企業の製品価格の上昇は当該企業にとつては明らかに売上増,利益増の原因であるが,他企業にとつては原材料関係費の値上がりになる場合が多く,企業部門全体としては価格上昇の効果は比較的限定されたものとなるからである。 第136図 は製造業主要企業についてこうした関係をみたものである。製品価格上昇による増収分と原材料関係費等の上昇による費用の増加分は,景気循環に対応してほぼパラレルに動いており,価格上昇によるプラスとマイナスがほぼ相殺しあつていることがわかる。増収分が費用の増加分を上回つている期間は,どの景気上昇局面にもみられ,企業収益に価格上昇がプラスの効果を及ぼした期間があることが明らがであるが,その効果はあまり大きくない。

こうした結果が生じるのは,原材料関係費等の売上高に占める割合が若干上昇しているため,他企業の製品価格上昇がコスト上昇につながる度合いが高まつていることのほか,輸入原材料価格も物価上昇期には概して上昇を示してきたためである。

さらに,物価上昇期には地価上昇や機械購入費,建設費の上昇にともなう設備投資費用の増大によつて企業収益にはマイナスの影響がでる。また消費者物価上昇にともなう賃金コストの上昇も無視できない。なぜならば,近年のように,消費者物価の上昇が著しくなると,それが賃金を引上げる度合も大きくなり企業収益にもマイナスの影響が出るからである。

以上のような物価上昇と企業収益の関係を製造業主要企業について総合的に試算してみたのが 第137表 である。物価上昇の直接的影響として製品価格上昇と原材料,外注品価格の上昇の影響を考えると,今回の好況期には12%近い純利益の増加原因となつているが,輸入素原材料を中心に原材料価格上昇の著しかつた前回には,4割を上回る純利益の減少要因であつたことがわかる。投資費用の増大や賃金費用の増大を間接的効果と考え,いくつかの前提をおいて,企業収益にあたえる影響を試算すると,前回は12%強,今回は25%弱の純利益減少要因となつている。したがつて,直接的影響と間接的影響を総合してみると,物価上昇が企業収益に貢献する度合いは,さらに限定されたものとなり,岩戸景気時よりも前回や今回の景気上昇過程で,その度合いは大きくなつている。

このように企業部門を全体としてとらえると,現実のフローとしての企業収益に物価上昇が貢献する度合いが限られたものとなるのは,一企業の製品価格上昇は他企業の原材料費上昇となるためであると同時に,企業の製品市場に,需給ひつ迫や物価上昇が生じた場合は,これがしだいに労働力など要素市場にも波及していくためである。製品市場における需給のひつ迫は,まず素原材料市場におよび,ついで労働力市場,資本市場さらには土地需給にまで及んでしだいに製造コストの上昇となると考えられる。こうして,要素市場に価格上昇が及ぶと製品価格の上昇にもかかわらず,企業収益はあまり改善しなくなり,いわゆるコストインフレ的な様相を呈してくる。

第138図 土地投資と設備投資の関係(全産業)

(3) 地価上昇と企業行動

すでに述べたように,地価の上昇は債務者利潤の発生,投資費用の増大などの面で企業経営上きわめて重要な意味をもつている。そこで,ここではとくに地価上昇に焦点をしぼり現実の企業行動との関係をふ延してみたい。

まず地価上昇と企業の土地投資との関係をみてみよう。38~39年の好況期には土地に対する投資が先行的に行なわれている( 第138図 )が,これには30年代を通じての地価上昇が企業に土地手当を促進させる要因として働いたことも影響しているものとみられる。

第139図 主要企業にみる担保能力の増大

もつとも,こうした土地に対する先行投資の動きは企業がきわめて意識的に先行投資を実施したというよりも,長期的な成長路線の上にたつて,将来必要な土地を先行的に投資した結果であろう。その結果,40年代に入つてから遊休土地の利用によつて設備投資を遂行することができたのである( 第138図 でみるとおり41年以降土地投資の伸びは設備投資を下回つている)。

以上のような38~39年を中心とする土地投資の動きは,業種別あるいは規模別にみるとその内容も異なつている。製造業に比べれば非製造業の方が,また製造業のなかでは中小企業に比べ大企業のほうが,33~39年にかけて先行投資を行なつた程度は大きいと思われる。

地価上昇のもたらしたもう一つの影響は,企業の借入担保能力を増大させたことである。 第139図 は企業10数社の抵当不動産の帳簿価格と,それによる借入金の関係をみたものである。帳簿価格は取得時点で示されているから地価上昇による資産の評価分が計上されていない。すでに(1)でのべたように同一担保不動産でも資産を再評価すれば現実にはきわめて高い価値を有することになる。このため金融機関もそれを考慮して貸出を行なうから,担保不動産の帳簿価格と不動産担保付借入金の差は40年代に入ると急速に縮まることになり,最近時点では両者の関係が逆転しているほどである。

担保能力の増大は,相対的に企業体質の弱い中小企業において,大きな効果をもたらすことになつた。相互銀行の総貸出残高に占める不動産担保貸出の割合は,38年上期27%から44年上期には37%へと上昇している。

信用力の相対的に乏しい中小企業において担保能力が増大したことは,中小企業の借入れを比較的順調にする役割をはたし,これが40年代に入つてからの中小企業金融の円滑さをもたらしている一要因ともなつているといえよう。

以上,価格変動と企業経営の関係をみてきたわけであるが,物価上昇下では債務者利潤が発生する反面,現実の企業収益は必ずしも向上を示さないことが明らかとなつた。企業は一方で債務者として債務者利潤の動きにも関心をよせているが,これは企業活動の本質をなすものではない。企業は本質的には生産者として現実の決算の動きを重視しており,それを目標として行動している。そのかぎりにおいて,インフレ抑制は企業の活動をむしろ支援する結果となる。かりに,インフレ抑制に失敗すると,企業の金利コスト観念はますます低下し,企業の投資活動が異常な動きを示すようになるであろうし,最悪の場合には簿価体系の混乱や莫大な資産含み益の幻想によつて企業を誤らせ,正常な生産,販売活動から投機的活動への逃避をうながし,経済成長を阻害する事態も懸念されよう。健全な企業活動を確保し,息の長い経済成長を実現していくためにも物価安定は基本的な政策課題である。


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