昭和45年
年次経済報告
日本経済の新しい次元
昭和45年7月17日
経済企画庁
第2部 日本経済の新しい次元
第2章 インフレなき繁栄
消費者物価の上昇によつて現実の国民生活はどのような影響を受けているだろうか。第1に考えられることは,物価上昇と所得の伸びの関係から所得の不公平な再配分が生じているのではないかということであり,第2には物価上昇によつて家計資産にかなりの減価が生じているのではないかということである。
物価上昇によつて所得の不公平な配分が生じるのは,物価上昇が所得のレベルや伸びに関係なく一様に負担を及ぼすためである。
第124表 は,所得水準が異なれば家計の消費支出のパターンも異なることを考慮して,所得階層別に消費者物価上昇率を算出したものである。これによると37年~42年,42年~44年とも,いずれの階層も消費者物価はほとんど同一の上昇率となつており,所得の高い層も低い層も一様に物価上昇の影響をうけている。これはなぜ生じるのだろうか。
第125図 によつて消費の主要項目別に消費者物価上昇への寄与率をみると,低所得層では食料費の上昇による影響が大きく,高所得層では雑費とくに,教養娯楽費,教育費等の影響が大きいことがわかる。つまり,低所得層では生活必需品的なものの値上がりが大きく影響し,高所得層ではサービス関係の価格上昇が大きいために家計に対しては同一の影響を与えている。世帯主の年令階層別にみてもほぼ同様な結論がえられる。すなわち,年令階層別にみた消費者物価上昇率( 第125図 )によれば,物価上昇の著しい食料費,雑費,住居費の影響が年令別に異なつてはいるが,総合してみると消費者物価上昇率の差はほとんどみられない。
このように物価上昇は貧富,老若にかかわりなく一様な負担を家計に与えており,その意味では同一の税率による所得税にも似ている。そのなかで低所得者層では主食等生活必需品によつて物価高騰の影響を強くこうむつており,しかも,最近では若干ながら低所得者層の方が物価上昇率が高いという傾向もみられる。物価上昇に対する心理的な不満感は低所得者層でとくに強いといえよう。
このように,物価上昇による影響は概して画一的であるが,名目所得の上昇率はどうであろうか。 第126表 によつて職業別にみると,各層ともいずれも高い所得の伸びを示しているものの,卸・小売業主の伸びが相対的に低いことがわかる。また男子勤労者について年令階層別にみると,若年層では所得の向上が著しいのに対して,中高年令層とくに中高年令層の職員では所得の伸びがかなり低い。このため,物価上昇の影響が画一的であることとあわせて考えると,中高年令層では物価上昇による負担が大きいと考えられる。とくに,50才以上の世帯では,世帯主が定年退職を目前にするとか,定年退職後再就職している場合が多く,所得の相対的伸び悩みのなかで,より強く物価上昇の影響をうけているといつてよい。
また,被保護世帯についてみると,36年以降年々14%以上の生活扶助基準の引上げが行なわれてきており,一般世帯との消費支出の格差は,35年度の38%から43年度は53%へと縮小している。ただ,生活保護世帯では所得の絶対額が少ないため,消費者物価上昇による実質購買力の低下は生活への大きな圧迫になつているものと思われる。
このように所得上昇テンポ格差のあることや,所得水準に格差のあることは,物価上昇とは独立した経済問題として論ずべきかもしれない。しかし,成長の成果としての所得配分に格差があることを抜きにして,成長の代償ともいうべき物価問題の深刻さを理解することはできないであろう。
こうした物価上昇のなかで家計はどのように対応しているだろうか。物価上昇から消費生活を防衛するために消費者がとつている行動の第1は,同じものならできるだけ安く買おうという対応である。物価高騰による圧迫感が強いほどこうした動機は強くなる。スーパーの売上げが小売店やデパート売上げに比べて伸びが著しいことや,各地に団地の自治組織による生産者からの直接購入,直接廉価販売の動き等がでていることはそのあらわれである。
第2は,値上がりの著しいものへの消費はできるだけ抑え,相対的に価格上昇度の低いものへの消費によつてこれを代替するという対応がみられることである。 第127図 は品目別に38~43年までの5年間の価格上昇率と実質消費の伸び率との関係をみたものである。これによると,さんま,牛肉など価格上昇率の高いものほど実質消費の伸び率は低く,なかには実質消費が減少しているものもかなりみられる。逆に鶏肉,豚肉など価格上昇率が低いものほど実質消費の伸び率は高いことが明瞭によみとれる。
以上のように,物価上昇のなかで国民はできるだけ安く買うための努力をし,嗜好の代替の努力を行なつている。こうした消費者の行動は,流通機構の近代化や安くて供給力の大きいものへの需要のシフトによる生産構造の変化を促進しており,その意味では物価を安定させる役割を果している面もある。しかし,このような消費者の対応にはおのずから限界がある。代替品はあつてもそれらの価格がいずれも上昇している場合には,消費者としては逃げ場がない。また,価格が上がつたからといつて代替品がなく,その消費をさしひかえることの困難なもの(主食や地代家賃など)の場合には,その影響は一層深刻である。 第127図 からみると食料品のなかでは他の品目に比べ野菜に代替関係が少ないことがわかる。また,教育費等は社会の教育水準一般の向上にともないその支出を抑えることはむずかしい。
以上は消費者物価が国民の消費パターンに与える影響をみたものであるが,地価の上昇も国民生活に大きな影響を及ぼしている。たとえば東京都で38年以前に建設された住宅の平均敷地面積は182m2であつたが,地価上昇の過程で敷地面積はきりつめられてきており,39年以降は139m2に低下している(総理府「住宅調査」)。もはや,これをさらに大幅に引き下げることは因難であろう。
消費者物価の上昇は所得の配分をかえるだけでなく,預貯金などの金融資産の実質価値を減少させる。物価上昇によつて家計資産はどの程度の影響をこうむり,これに対して家計はどう対応しているのであろうか。
物価上昇下では預貯金等の定額貯蓄の実質価値は減価する。これに対して,株式や土地等の実物資産はキャピタルゲイン(元本の値上がり益)が大きいこともあつて物価上昇による減価をカバーする可能性をもつている。
第128表 は,35年初めから44年末までの10年間の各種資産の平均利回りと物価との関係をみたものである。これによると,普通預金は換金性は最も高いが物価上昇によつて最も減価しており,35年の初めに投資された100万円は,10年間利息を元本に組み入れたとしてもこの間の消費者物価上昇(年平均5.5%)により,35年価格に直すと73万円に減価している。これに対して定期預金は消費者物価上昇分をかろうじて利息によつてうめ,ようやく投資元本を保全している形である。
しかし,貯蓄の実質価値を求めるとき,消費者物価で割引くのは適当でないかも知れない。貯蓄目的に関する調査(貯蓄増強委員会「貯蓄に関する世論調査」)によると,土地家屋の購入や子供の教育など物価上昇の著しいもののために貯蓄している割合もかなり高い。したがつて,金融資産の減価は消費者物価の上昇率以上に感じられるかも知れない。貯蓄の使途目的を勘案して貯蓄デフレーターを作成することは,貯蓄の使途目的が流動的であること,貯蓄と所得との間には互換性があることなどから,いくつかの困難をともなう。しかし,かりに貯蓄目的を固定して(「貯蓄に関する世論調査」でウエイトづけ),貯蓄デフレーターを試算すると,土地代,教育費などのウエイトが高いことから,消費者物価を上回る結果となる。そしてこれによつて評価してみると定期預金,割引金融債すら減価していることになる。これに対して株式は物価上昇を若干上回る利回りとなつており,土地はこれをさらに上回つている。
しかし問題は,一般の家計では土地,株式などの資産をたくみに組み合わせることによつて資産を保存することはむずかしく,物価上昇の被害をまぬがれえないことである。このむずかしさは基本的には家計の資産ストックの低さに由来する。 第129表 は家計調査による毎年の黒字額を28~43年まで同一年令層を追つて累計したものである。これによると,たとえば定年間近かの54才の人は23年から貯蓄をつづけていたとしても,43年までの16年間で199万円にしかならない。これでは,この額に退職金を加えたとしても,物価上昇下に老後の生活をいとなむことは楽ではないであろう。またこの額では物価上昇下で十分に資産保全をすることもむずかしい。
まず第1に,貯蓄残高の少ないときには資産の大部分を流動性貯蓄におかざるをえない。なぜなら,家計は所得の高低をとわず,ある程度の流動性貯蓄を必要とするからである。これは,貯蓄目的として「病気や不時の災害に備えて」をあげる人が最も多いことからもうかがわれる。
第2に,収益性の高い土地や株式は最小取引単位が大きいため,乏しい貯蓄残高では投資が困難なことである。たとえば,東京都周辺の宅地150m2(約45坪)に投資するには最低でも220万円程度は必要であろう。株式についても投資可能額によつて銘柄の選択範囲は限定されざるをえず,10万円では東証第一部上場銘柄の4割しか,また50万円でも7割強しか選択できない(44年1月の場合)。
第3は,収益性の高いものは危険度も高いため,少ない資産では分散による危険のカバーがむずかしいことである。 第130図 は,株式と土地のキャピタルゲイン率の分布をみたものである。ここからわかるように,株式は投資のタイミングと銘柄の選び方によつてはキャピタルロス(元本の値下がり損)を生じる可能性がある。このことは,長期的に株式を保有する余力や適確な判断を欠く場合には,防衛的な保全の手段とはなりがたいことを意味している。また株式については,1969年初め以降のアメリカにみられるように,コスト上昇をともなうインフレ期には企業収益が悪化し,むしろ株価が低迷することもあるという問題がある。土地については,投資の危険度は低いようにみえる。しかし,売買の市場が整備されておらず,地域的,閉鎖的であることによる換金性のむずかしさ,投資物件の資産的確実性の問題などがあり,一般家計が資産保全のために購入することは容易ではない。
このようにストックの乏しいことが,高収益ではあるが危険な資産を組み合わせて,物価上昇から家計資産を保全することを困難にしている。総理府「貯蓄動向調査」によると,43年末の勤労者世帯では金融資産残高のうち,物価抵抗力の弱い預金が全体の45%を占めている。また,資産ストックの少ない低所得者層ほど,物価上昇の影響を深刻にうける資産体質となつている。
以上のように,物価上昇下では金融貯蓄は大きな打撃を受ける。このため物価の高騰がつづくと貯蓄意欲が減退し,貯蓄率が低下することも懸念される。しかし,わが国においてはこうした現象は起つていない。 第131図 をみると,消費者物価が大幅な上昇をはじめた30年代後半以降も,個人貯蓄率(黒字額/可処分所得)はゆるやかな上昇軌道にあり,貯金,保険等の可処分所得に対する比率も概して上昇傾向にある。このように金融貯蓄に対する選好がいぜんとして強いのは,家計が物価上昇による資産減価に対して無知であるためではあるまい。すでにみたように( 第80表 ),わが国の金融資産の蓄積残高はきわめて低い。加えて,高い所得の成長のもとでは,高い比率で貯蓄にまわさないかぎり所得レベルに見合う貯蓄残高は確保できない。こうした状況のもとで代替的な資産運用手段をもたない一般家計は,所得のかなりの部分を金融資産貯蓄においているものと理解すべきであろう。ただ,42年以降土地,建物等への投資が急増しており,これに対応して借入れがふえているため,以前に比べて負債の純減が小さくなつていることが注目される。また,37年以降低下してきた有価証券投資は44年には急増している。
こうした動きは,主として所得水準の向上にともなつて土地取得,住宅建設意欲が高まる一方,住宅ローン等の消費者信用がしだいに整備され,多くの人々がこれを利用できるようになつてきたことや( 第131図 ),44年は株式市場が活況を呈し,一般投資家の市場参加もみられたことなどによると考えられる。しかし同時に,持続的な物価上昇傾向のなかで,家計が先行き物価上昇予想を強めている面も無視できないであろう。
インフレの過程で資産保全が可能なのは一部の家計にかぎられている。経済の健全な発展と家計資産の建全性,家庭の経済生活の計画性を守つてゆくために,物価安定は国民的課題なのである。
物価安定が国民経済的にみて好ましいことは疑問の余地はないが,物価問題のむずかしさは,物価上昇と経済成長率を切り離して論じられないことにある。平均的家計にとつて,物価上昇による金融資産減価と経済成長による賃金上昇と,どちらが重要な意味をもつだろうか。 第133表 は名目所得の成長率と物価上昇率の異なつた組み合わせが,家計の所得と資産に与える影響を試算したものである。これによると,高成長・高物価のケースIIに比べて,標準的なケースIでは実質金融資産の伸びは高いが実質所得の伸びは低いという結果になつている。ケースI,ケースIIの比較はストックとしての実質金融資産残高で評価するか,フローとしての実質所得で評価するかによつて異なり,一義的な判断はむずかしい面がある。ここで,かりに各年の実質所得と実質金融資産残高を合計したものを,各年における家計の財貨,サービスに対する総合的な経済的支配力という意味で総合経済力としてとらえると,近い将来ほど現有の金融資産の持つ意味が大きく,ケースIの方が総合経済力が高くなることがわかる。しかし,年をへるごとに各年の所得および積増し分の貯蓄が重要な意味をもつようになり,これらのケースのうちではケースIIの方が総合経済力は高くなる。このように総合経済力という尺度で考えると,経済成長と物価上昇の間の選択は,近い将来が重要か,何年かをへた最終的な結果が重要かという時間に関する選択の問題も含まれていることがわかる。
以上は平均的家計についてみたものであるが,実はこのモデルでは考慮されていない重要な問題がある。それはまず,高い物価上昇率はさらに高い物価上昇率を生み出す原因となり,物価上昇のスパイラル現象が生じないかということである。また,現実のわが国において,高成長・高物価をどの程度長期間とりつづけることが可能かという問題もあろう。もし,潜在成長力が鈍化し,高物価だけが残ることになれば,高成長・高物価が究極的に,経済力を高めるという期待はうらぎられることになる。
さらに,現実にはさまざまな所得,年令階層の家計があり,経済成長と物価上昇の与える影響は個々の家計によつて大きく異なる。賃金上昇率の低い層ほど高成長の成果配分にあずかる割合は少ないし,老後に備えて貯蓄を高めている高年令層ほど高物価による資産減価の問題は深刻である。とくに,今後,わが国の人口構造の老令化を考えると,たんなる選択の問題をこえて,物価上昇の与える影響はより広がるものとみられる。実質経済成長率,あるいは実質所得上昇率が高ければ高いほど経済生活は向上するとの議論で物価問題を回避することはできないのである。