昭和39年
年次経済報告
開放体制下の日本経済
経済企画庁
総説
開放体制下の日本経済
開放体制を可能にした雇用と産業の条件
しかし、これまで、日本には輸入自由化を困難にする経済的な条件もあった。その主なものは過剰労働力と幼稚産業の存在である。国際収支や中小企業、農業にも弱い点が多かった。これらの条件はどのように変化し、またどういった改善を必要とする問題が残っているか。
労働力需給バランスの変化
労働力が過剰で、失業者、あるいは、潜在失業者が多い国では、外国品が安い場合でも、輸入を制限して国内市場を確保し、余っている労働の雇用の増大を図る方が資源配分上有利な場合がある。
戦後日本は、労働力過剰になやまされてきたから、国際分業によって労働力を節約するよりも国内で食糧や、石炭等を増産して、雇用を増やす方が利益が大きく、自由化は失業者を増やすのではないかという心配があった。しかし35年ごろを境にして次第に変化しはじめ、最近では労働力の不足がかなり目立ってきている。昭和45年ごろになると、労働力不足が経済成長を妨げるおそれがみえてきた。労働力の供給超過から需要超過への変化は次のような指標にみることができる。
公共職業安定所の求人1人あたりに対する求職者の比率をみると、 第14表 の通りで、31年の2.6倍が、36年には1.0と、求職、求人が等しくなり、38年には求人超過傾向が一層進んでいる。
労働力不足は、新規学卒者で著しい。求人1人に対する求職数をみると 第14表 の通りで、31年は大体バランスしていたが38年には中卒高卒とも0.4人となった。
昭和38年になると、学卒を除く一般労働者でも新規申し込みの求人求職では求人超過となった。これは日本の経済にとっても始めての経験である。
もっとも、日本の年功賃金体系の下では賃金が安く、しかも新しい技術への適応性が高い若年層に求人が集中するため40歳以上の中高齢層では依然大幅な求職超過である。ただ最近は、若年層を採用できない企業では中高齢層を雇うところが多くなってきており、求職超過の割合も次第に緩和される方向にある。
最近若年層の規模別の賃金格差はほとんどなくなったが、入社後の昇格や福利厚生施設などに差があるので若年労働力はますます大企業部門へ就職するようになり、農業や中小企業の労働力不足が強くなった。31年には、中卒就職者の64%、高卒就職者の60%は99人以下の中小企業へ入職したが、38年には、その比率は、中卒で七%、高卒で84%に低下し、それにかわって大企業へ就職する比率が高まった。それと共に小売り、サービス、小零細工業の若年労働者の大企業への上向移動がはじまり、37年の景気調整の年でさえもこの傾向が続いた。
失業者、あるいは潜在失業者が減少した。就業構造基本調査による低収入不安定就業のために転職を希望している者は31年当時は121万人あったが、37年には57万人に半減している。また理由別就業希望者の推移をみると 第16表 の通りである。すなわち就業希望者数は、昭和31年の572万人から37年の495万人へと、あまり大きな変化はないが、その就職希望理由として、失業、学校卒業、生活困窮等失業的色彩の強いものは、260万人から130万人へと半減し、余暇ができた、学資、小遣いを得たい、収入を増やしたいなどの理由によるものが増大しており、失業とみるべきものは急減していることがうかがわれる。
労働力不足は今後一層激しくなる。それは、戦後の出生率の減少の影響が、昭和40年ごろから現れ、15歳以上の人口増加率は急速に減っていくからだ。
出生率は、昭和22年には3.4%であったが、25年には2.8%、30年には1.9%、37年には1.7%となった。人口増加率の急減はやがて生産年齢人口の増加の減少となる。15歳から64歳までの人口の年平均増加数は、昭和35年から40年までは139万人だが、40年から45年には94万人となり、45年から50年には62万人と半減する。
また、将来の労働力人口を推計してみると 第18表 、 第19表 の通りで、新規学卒者は、昭和41年がピークとなり、また労働力人口の年平均増加数は、40~45年が73万人、45~50年が44万人で、増加率は1.6%、0.9%と低下していく。実質国民総生産が仮に年7.6%で増加し、雇用弾性値がこれまでと同じ0.5のまま変わらないと仮定すると、非農業部門での雇用増加必要数は、年々上昇し、38年の100万人から、45年には130万人になると予想される。日本経済は、豊富な労働力の存在を前提として形成されてきた。この前提が変化してきているのであるから、その影響は大きい。
労働の需給が逆転し、また就職希望の性格がかわって、労働力の給源の底がみえてくれば、生産を高めるためには、惜しみなく労働を投入するというわけにはいかず、機械化による労働力の節約、中高年齢や女子労働の活用等のほか、生産性の低い部門から、高い部門への労働力の移動が必要になる。現在でも、 第20表 にみられるように、農業の従事者や農村の新規学卒者が、工業やサービス業で働くという型をとって移動しているが、今後は、国際分業によって、労働力を比較生産性の最も高い分野へ使用していく必要が強くなるだろう。西欧諸国で自由化を必要にした重要な原因は、労働力不足である。生産年齢人口の増加状況を国際比較してみると、昭和30~35年には、アメリカ1.6%、西ドイツ0.4%、イギリス0.1%、フランス0.2%に対し、日本は2%と非常に高かった。しかし最近では、日本の出生率はアメリカや西欧を下回っているので、将来は日本の労働力増加率が西欧に似たものになることが考えられる。
こうした労働力需給の変化は輸出入にも影響を与えている。労働力不足の傾向が広がっている農業では、収益性が低い作物の生産が減少し、かわって輸入が増えてきた。例えば、昭和38年の小麦の輸入は217百万ドル、大豆の輸入は167百万ドルで、10年前に比べ小麦は約2倍、大豆は3倍である。
工業生産物はまだ例が少ないが造花やがん具など低賃金の工業生産物が、香港等賃金の低い国から輸入されるようになっている。また、輸出でみると、賃金の低い部門の商品から高賃金商品への重心の変化は著しい。日本では、昔から、豊富な労働力を基礎にして、賃金の低いことの有利性を利用した産業の生産物が輸出の中心をなしていたが、最近は随分かわってきている。日本の輸出商品を、それを製造している労働者の平均賃金の高低に従って8階級に分かち、その各クラスの輸出増加率を比較してみると 第22表 に示すように、年平均賃金10万円、あるいは13万円(昭和33年)といった賃金の低い産業の輸出は、昭和33年から38年までの5年間に2割しか伸びていない。この間に20万円、あるいは25万円の賃金を支払うような中位賃金産業の輸出は、2倍にも3倍にも増加している。労働力不足は日本の輸出入構成を変化させ、労働をなるべく、能率の高い分野で使用し、能率の低い分野の商品は輸入にまつことを有利にするような経済条件が生まれてきているわけである。
幼稚産業の発達
開放体制への移行を可能にしたいま1つの条件は、産業の国際競争力が強くなってきたことである。もちろん、開放体制のもとでは、すべての産業が外国よりも競争力が強くなければならないわけではない。外国と日本とが、お互いに比較生産性の高いものを輸出し生産性の低いものを輸入することによって国際分業が成立する。しかし産業のうちには、将来、比較生産性が高くなる力を持っていながら、発達の初期にあるために国際競争力が弱いものがある。これを幼稚産業とよぶが、こうした産業は、外国との競争にさらせば、発達の芽をつむおそれがあるから、しばらく保護を加える必要がある。昭和35年貿易為替自由化計画大綱がきまった時も、工作機械、産業機械、自動車、重電機等特に機械工業について自由化をのばしたがこれは幼稚産業保護の観点からであった。高い経済成長のおかげで幼稚産業の発展は非常に速かった。
設備投資ブームによる国内市場の発達は、品質の改良や大規模生産によるコストの低下をうながしたことは前述の通りである。工業生産物は。生産の成長のテンポが速いと労働生産性が高まり、競争力が強まる傾向がある。昭和33年を基準にして、工業製品を、比較的国際競争力が強かったものと弱かったものとの2つのグループに分けて、その後の附加価値労働生産性の伸びを比べてみると 第23表 の通りで、重機械、自動車、化学等、競争力の弱かったものの方が上昇率が高く、幼稚産業の成長率は高かった。アメリカと比較してみるとアメリカでは、産業別の成長率格差はあまりみられなかった。その結果、出発点では弱かった重化学工業の競争力も国際水準に接近してきた。日本は、国内生産に占める重化学工業の比率は高いが、輸出では競争力が弱いため重化学工業比率が極めて低いという特色を持っていたが、工業品輸出に占める重化学工業の比率も次第に高まってきて、36年からは5割を上回り、38年には54%となった。 第24表 に示すように、輸出構成と出荷構成とのかい離も縮まってきた。重化学工業のうちにはまだ国際競争力の弱いものもあるが、輸入品に対する抵抗力を強め、あるいは輸出競争力が強まったものが多い。
以上のような雇用問題の改善、幼稚産業の発達などによって、開放体制へ入ることを有利とする条件がつくり出されてきた。