昭和33年
年次経済報告
―景気循環の復活―
経済企画庁
総説
景気後退のメカニズム
財政金融政策の展開
昭和32年度の経済基調の大転換をもたらした引締政策の主役が金融であって、財政はいわば脇役に過ぎなかったことは、28~9年の引締めのときに、財政、金融が相携えて景気抑制の役割を果たしたのと大きな相違である。
そもそも財政の経済動向に対する影響には三面ある。その一は、年末から年初にかけて翌年度の予算編成方針が討議される過程において経済界に与える心理的な効果である。その二は、財政の対民間収支における揚超、散超が金融市場に与える影響であり、その三は、財政購買力の水準の上下によって有効需要に及ぼす変動である。32年度の財政は、その編成過程の心理効果において大きな積極的役割をもった。32年度財政の意図したところが、当をえていなかったとは必ずしもいえない。なぜならば29年度以来予算は緊縮を続け、この間民間経済は著しい膨張を続けたため財政の担う産業基盤の造成には著しい立ち遅れが生じた。さらに国民経済規模の拡大と財政支出の抑制によって一般会計の収支尻は年々巨大な黒字を続け、早晩この黒字を何らかの形で国民に還元しなければならない情勢に直面していたのである。しかるにこのような基礎認識によって32年度予算が1,000億円施策、1,000億円減税の積極方針を打ち出したときは、あたかも神武景気の最中であって業界の強気をますます上りつめさせ、外貨危機の到来を促進する作用を及ぼした。その結果5月8日の金融引締めに続いて6月19日には財政投融資の繰り延べを中心とする抑制策を打ち出さざるを得なくなったのである。第二に対民間収支の影響に関しては年度当初デフレの浸透がいまだ十分でなかった間は、財政は税収の好調や国際収支の赤字継続による外国為替資金特別会計の揚超を通じて民間資金を大幅に吸収し、民間の金詰りを一層はなはだしくし、金融引締めの効目を良くするという役割を果たした。しかるに年度下期に至ってデフレが次第に浸透し、国民所得が伸び悩むとともに、税収は頭打ちとなり、国際収支も赤字から黒字に転化して、財政は次第に揚超の幅を狭めさらに散超に転化するに至り、金融の逼迫を緩和する大きな要因となった。第三の財政購買力の水準に関しては、一般会計で前年度より9%、財政投融資で18%増加したため、財政投融資の一部繰り延べを講じてもなお相当の膨張を示した。この点は29年度予算が前年度より3%減、財政投融資計画において13%減の緊縮を示したのと大いに異なっている。このため32年度の財政は景気下降が進展するに伴い、前に述べた最終需要の堅調の一因となり結果的には景気降下の下支えをするという役回りを果たすようになったのである。
そこで、景気抑制策はもっぱら金融の担当するところとなった。元来、我が国の金融は諸外国のそれ以上に、企業の資金調達において大きな役割を占めている。すなわち、アメリカにおいては企業の投資所要資金は企業の貯蓄によってほぼ賄われるというのが原則であり、個人の貯蓄は住宅、自動車、その他耐久消費財の月賦金融などによって個人に還元し、企業及び個人の投資と貯蓄は 第13図 にみる通り、ほぼバランスしている。これに対して我が国においては企業は著しく貯蓄不足であって、それを個人経済の著しい貯蓄超過で補い、個人貯蓄が銀行を経て企業の所要資金に流れ込まなければ企業投資が行えない仕組みになっている。すなわち企業は前年よりも投資を増やさなくとも、換言すれば前年と同一規模の投資水準を維持するにさえ、銀行からの借入れを増大しなければやってゆけない。しかるに31年及び32年の前半においては企業の投資意欲が異常に熾烈であったために、銀行はその資金を預金の増加だけによっては供給することができず日銀からの借入に仰いだ。31年以後の全国銀行の預金増を上回る貸出、日銀借入の増大の状況は 第14図 に明らかである。
32年に入ってからの企業の強気は次のような事情によって助長されたものと考えられる。まず政府が積極財政によって経済拡大をはかっていた。海外景気は依然上昇を続け輸出の一層の拡大を約束するようにみえた。戦後12年間の経験によって市場は絶えず拡大し、積極経営方針は必ず有利に報いられるという経験をもっていた。
そこで技術革新の波に乗って積極的に設備の近代化をはかり、同種企業の競争に打勝つために厖大な設備投資計画が次々と着手され、輸入を含めて原材料、仕掛品あるいは流通在庫の仕入れが増大した。これに対して企業の現金、預金はたいして増加せず、金融緩慢のときにいったん回復した企業の資産の流動性は低下していった。しかし、このことは企業の積極的な意図をくじく何物でもなかった。なぜならば企業は銀行からの借入れによって滞りなく決済することができたからである。銀行は30年の金融緩慢時に貸出先のないのに悩んだ苦い経験にかえりみて貸出競争に走り、資金の枯渇を日銀借入によって補いながら企業の借入要請に従った。いわば企業者は市場は絶えず拡大し続け、資金の手当は絶えず銀行によって供給されるという安易な強気を抱き、銀行は預金の増加だけで貸出に足りない部分はいつでも日本銀行に駆込んで調達できるという安易な期待をもって、外国の童話にあるように自分の靴のひもを自分で引っぱりながら体を空中に持ちあげているような姿で経済拡大が続けられていたといえるだろう。
このときにおいて金融引締めの鉄槌が下されたのである。引締策は28~9年当時のそれよりも厳しかった。当時は28年10月に第1回の金融引締めが行われ、翌年1月、3月と強化され、4月の1兆円緊縮予算の実施によって仕上げがなされた。すなわち約半年にわたって第1ブレーキから第4ブレーキが次々にかけられたに等しい。しかも財政散超期たる第3・四半期に引締めがスタートしたことはその効果を減殺する結果となった。それに対して今回は財政揚超期の5、6月に全ブレーキが一挙にかけられ、企業-銀行-日銀の二段バネの経済拡大の機構は、日銀の窓口規制を契機に景気下降を加速するものとなった。
なるほど、金融引締めの旗じるしはいわゆる日銀公定割引歩合の2銭1厘から2銭3厘への引上げであった。しかし金利が高いから銀行や企業が投資を手控えるというよりは、むしろいくら高い金利でも借りたいが貸してくれないからやむを得ず投資をあきらめなければならなくなったというのが真実の姿であろう。従って引締めの本体は金利引上げではなくて実は日銀の窓口規制なのである。この金融引締めに対する企業側の抵抗が、在庫投資と設備投資とでその強度を異にしたことは前にも述べた通りである。引締めの直後は、いわば全ブレーキをかけた後に自動車が軋って進行するように、企業の資金需要の惰性は続いた。その状況は各論「金融」の項に詳しい。しかし10月以降生産過剰、デフレの自動進行の傾向が次第に明らかとなり企業のデフレ順応態勢が進むとともに、資金需要は次第に鈍化し、一方財政の揚超から散超への変化もあって、金融は次第に引緩みをみせ、本年6月には日銀公定割引歩合は再びもとの2銭1厘の水準に引き下げられたのである。
かくして引締下にありながら32年度全国銀行の貸出増加額は8,474億円に達した。前年度の1兆428億円に比べれば、約2割減少しているものの、30年度の3,300億円よりもはるかに大きい。他方全国銀行実質預金の増加は5,038億円にとどまったため、3,118億円の日銀貸出の増加によって資金不足が賄われた。欧米諸国の金融引締めの常識からみれば、これは不思議に思われる現象に違いない。何となれば、欧米においては金融引締めをやれば、貸出残高が減少する場合が多いが、我が国においては引締めをやりながら貸出が8,000億円も増えたのである。
しかし、その効果はたびたび述べるごとく極めて顕著であった。その理由としては第一に我が国の企業は投資の同一水準を維持するためにも巨額の貸出を銀行から仰がなければならないこと、第二にあたかも銀行が企業に無限に貸出し、日銀が銀行に無制限に資金を供給するかのごとき前提で支えられていた経済界の強気をくじき、それがデフレの自動進行の緒を開いたこと。第三に実際には貸出額をはるかに上回る資金要請があったのをこの程度に切り詰めたことなどが考えられる。企業の営業性預金は31年度3,000億円の増加に対して、32年度は横ばいにとどまり、借入不足を預金の取くずしによって賄ったことを物語っている。これらの事情を考慮することによってはじめて我が国の金融引締めの意義を理解することができよう。
既に金融は逼迫の峠を越えて漸次緩慢の方向に入っている。そして再び銀行の貸出競争を恐れる声も聞かれるようになった。しかし30年の金融緩慢が輸出増加、新設設備の稼動、設備に固定していた資金の流動化によってもたらされたことを思えば、今後は当時のような金融の超緩慢が即座に現出する可能性は少ないであろう。