昭和30年

年次経済報告

 

経済企画庁


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農業

戦後農業の推移と変貌

 緊縮政策下昭和29年度農業及び農家経済の動向は以上にみた通りであるが、ここで戦後10年の経過のうちに日本農業の相対的地位、内部構造がいかに変化したかについて若干の分析を試みたい。

戦後農業の推移

農業の相対的地位の変化

 今次太平洋戦争により直接的な物的被害を被ったのは主として都市であったため工業は壊滅的被害を受け、製造工業の生産指数は戦前の昭和9-11年を100として21年にはわずか28.9というところまで低下した。これに対し戦争による直接的被害が比較的少なかった農業では生産指数の最低を記録した20年でも9-11年基準で60.8であり、工業のような急低下をみることはなかった。そのため戦後しばらくの間は農業の地位は相対的に大きく上昇したが、その後24.5年頃より鉱工業生産は急速に回復発展し、国民経済の正常化がすすむにつれて農業の地位は再び低下することになった。このことは国民所得統計にも明瞭に反映している。

 すなわち、産業源泉別国民所得構成をみると、 第133表 のように戦後数年の間は第一次産業の占める割合が著しく高まっている。特に21Nには40%近くにまで達しているが、過去の統計でみるとこの比率が4割前後を示したのは大体明治末年から大正初期にかけての頃であった。ところが、24年度以降この割合は20%台に落ち年々低落傾向を続けている。その結果二、三次産業は次第にその比重を増大し、最近においては国民所得の構成比はほとんど戦前のそれに近づいている。

第133表 産業別国民所得の構成比

 国民所得構成における第一次産業所得あるいは農業所得の比率はこのように戦後急激に増大しているが、これを物価の動きを考慮した実質値でみるとその増大は大したものではない。戦後24年頃までの第一次産業の実質水準は9-11年に対しせいぜい1割内外の上昇に過ぎない。このことから、国民所得における第一次産業の構成比が約4割に達したといっても、それは第一次産業の実質所得の増大によるというよりもむしろ第二次、第三次産業の実質所得が異常に低下したことによるものであることが明らかである。しかし25年度以降第一次産業の実質所得は急速に増大し、その相対的地位の低下にもかかわらず29年は戦前に対し相当の上昇をみている。次に第一次産業とその他の産業との一人当たり所得格差をみると、戦前に比し戦後はかなり狭められている。すなわち昭和5年においては農林水産業と鉱業、建設業、製造業との一人当たり所得の比率は1対4であったものが22年には1対2になっている。この傾向は第三次産業との間にも同様にみられる。その後この格差は再び拡大傾向を示しているが、最近でもまだ戦前ほどの開きをみせていない。

農業面における諸変化

 国民所得からみた戦後農業の相対的地位の変化については以上にみたごとくであるが、この間農業の側においてもいろいろ注目すべき変化がみられた。

農業経営の変化

 第一は経営集約度の変化である。戦争末期から戦後直後にかけての窮迫した経済状態の下で、我が国社会の特質としての都市と農村との人的なつながりを通じて、大量の人口の農村流入が行われたことは第134表によってもうかがうことができる。前述の農業と他産業との間の1人当たり所得格差の縮小あるいは農家の実質所得水準の上昇は、このような農村への人口流入を容易ならしめる一つの経済的要因であったと思われる。戦前の農業人口は長い間大体1400万人というところであったが、戦後の22年には1662万人、25年には1616万人と戦前比約2割の増加をみた。これらの増加人口は不完全な就業状態であるにせよ、何らかの形で農業生産に参加したわけであって、この間耕地面積はかなりの減少を示したのであるから戦後農業経営が労働集約化の方向をたどったであろうことは容易に想像される。米及び麦の生産費調査によって反当所要労働日数をみると、 第135表 のように戦後24、5年頃までは戦前に比べて米、麦類ともかなり投下労働量が増加している。米麦など基幹的作物の栽培技術は既に相当高度に発達しており作業組織も比較的定型化されているから、追加的労働の効果は他作物より小さいと考えられるのにかかわらずこのように投下労働量の増加をみせている。従って労働力吸収の余地の多いその他の作物の労働集約化は一層進んだものと思われる。ところが24年、5年頃を境として米麦の反当投下労働量は次第に減少し、29年には裸麦を例外としてほとんど戦前と同量あるいはそれ以下に低下している。農業人口が戦前に比し約2割増加しているにもかかわらず、米麦作の労働集約度がむしろ低下しているということは、他面畜産などの発展があるにしても農業における過剰就業状態が一層進んでいることを示すものであろう。

第134表 終戦直後における人口の農村流入

第135表 米麦の反当労働投下量の変化

 次に農業生産に投下された反当たり物財量の推移をみると、戦後24年まではまだ戦前12年の水準以下にある。特に21年は75%に過ぎず、戦後のいわゆる農村景気も農業経営における投下物財量を増大し実質的に経営を充実せしめるには至らなかった。しかし25年に至って大体戦前と同水準となり、その後次第に上昇して28年には戦前を4割以上も上回っている。

 第二は農産物各部門の生産構成の変化である。戦時から戦後の食糧不足に伴い質よりも量の、いわばカロリー本位の立場からの生産転換が要請せられ、このため直接生産に対しかなりの制度的強制が加えられた。同時にこれらの制度が効果的に運営されるために、例えば麦類、いも類の対米価比率の大幅引上げなどのように価格政策上の措置もとられた。その結果麦類の作付面積は9-11年に対し戦後は1-2割の増加をみせ、特に甘藷、馬鈴薯の作付面積は26年には戦前比約6割も増加した。しかし稲作面積は増加が容易でなく、かえって若干の減少を示している。さらに同一作物部門においても収量本位の多収穫品種への転換が行われた。このような主食あるいは主食代替農産物の作付増加は当然その他の桑、茶、果樹、蔬菜などの作付減少を伴った。しかし25年頃からの食糧事情の緩和と制度的強制の廃止などにより最近では次第に戦前の作付構成への接近を示している。

第136表 農業経営における投下物財量の推移

 要するに我が国農業は戦後数年の間はカロリー生産に偏した比較的低級財の生産を労働集約、資本粗放の形でおこないながら国民所得のなかで大きな比重を占めていたが、最近に至り戦前よりも労働粗放、資本集約的経営によりほぼ戦前に近い作付構成と規模の生産を行っているということができる。

農家経済の動き

 農業所得のあげられる時期は主として年度の後半でありその多くの部分は次年度の支出にあてられる。従って急激なインフレ進行期には年度間の収支バランスから農家経済の内容を判断するには相当な問題があり、真の意味で農家経済が好転したかどうかを判定することは容易でないが、ここでは戦後農家経済の推移のうちにみられる主要な特徴の2、3をあげてみよう。

 第一は農家の農業兼業別所得構成の変化である。戦後数年間は国民経済全体としても農業の比重が顕著に増大したように、農家経済においても農家所得に対する兼業所得の割合が低くなり、9-11年に約2割であったものが21-3年には1割強程度に低下した。しかし最近においてはこの比率は急速に高まり4割近くに達していることは後述のごとくである。

 第二は租税公課負担の変化である。農家所得に対する租税公課負担の割合は戦前約7%であったが、22年度より農業所得税の増加によりこの割合は急激に大きくなり22年度19%、23年度15%、24年度16%となり、現金所得部分に対しては約3割にも達した。しかし25年度より税制改正により負担率は次第に低下し、最近では大体戦前の割合に復している。

 第三に農家の黒字率の変化をみると、戦前の15%に対し、戦後数年間は異常に高く3割に達した年もあったが、24年度は安定政策と食糧輸入の急増などによりかえって赤字7%を出した。しかしその後10%内外の比率を続け最近では12%になっている。もっとも戦後数年間のインフレ急進期の数字は前期の理由により必ずしもそのまま実態を示しているとはいえないが、この期間の農家経済は実質的に好転したものとは思われる。その後農家経済は24年度を底として一般的に好転を続けながら現在に至っている。

食料事情の推移

 終戦直後の飢餓的食糧状態の下においてはまず食糧事情の緩和をはかることが二次三次産業復興の基本的前提であったし、また反面においてそれは農業の所得を減退させ国民経済における比重を次第に低めることになった。

 この役割を終戦後まず演じたのが21年より本格的に開始された食糧の援助輸入であった。援助資金による食糧輸入はその後次第に増加し24年度には最高の米麦合計200万トンに達したが、同年以後商業輸入に代替されて次第に減少し26年度を最後として打ち切られた。この20-26年度の7年間に輸入された米麦総量1182万トンのうち54%までは援助輸入によるものであった。このように多量の食糧が援助によって提供されたことが戦後の社会秩序の維持、国民生活の安定に極めて大きな効果を与えたことはいうまでもないが、同時にその販売代金は見返資金特別会計を通じて鉱工業の復興のため集中的に投入され、二重の意味において戦後経済の回復に貢献した。食糧の商業輸入は24年度より開始されたが、朝鮮動乱を契機として我が国の国際収支は著しい改善をみせ、商業ベースによる輸入力形成の条件は次第に整備され、援助輸入のなくなった27年後以後においても需給上必要な350万トン前後の主食輸入を毎年続けている。

 食糧事情の安定にとっていま一つ見逃し得ないのは食糧統制の効果である。これには数量確保と価格抑制の二面をあげることができる。輸入食糧については前述のごとくであるが、国内産食糧の集荷についても戦時中にみられたような高い供出率はしばらく別として、戦後24年頃まではかなり強い統制力を示していた。例えば米の供出率は27-29年度では4割程度に低下しているが、22-24年度では5割近くを保っていた。次に価格抑制については、現在まで続けられている公定価格制度を中心として行われていることは周知のごとくであるが、そのためにかなり多額の財政負担が行われた。

 またこのような情勢の下において、国として食糧増産に重点をおいたことはいうまでもない。予算総額中で農林関係予算の占める割合は戦前の3-5%程度から戦後は6-10%に増大し、また農林業国民所得に対する農林関係予算の割合も戦後はかなり上昇している。また予算の構成においても農地関係事業、耕種改善その他直接間接食糧生産の維持増進に関する経費が大部分を占めている。

第137表 戦後食糧輸入の推移

戦後における農家所得形成要因の変化

農家所得上昇の要因

 前述のように国民所得の構成比における農業の割合は次第に戦前の状態に近づき、また就業者一人当たり所得の産業別格差も戦前の形に復しつつある。ところで、農家の所得、消費水準ということになると都市のそれに比較して対戦前上昇率は大きく、水準としても戦後はほとんど戦前以上にある。これは戦後農業、農家の経済構造が変化したことによるものであり、主として農地改革の効果、農産物価格の上昇、兼業所得の増大などに原因するものと思われる。

 歴史的な農地改革により小作農及び小作兼自作農すなわちその経営が全部的にあるいは大部分小作地に依存している農家数の総農家数に対する割合は16年の48%から27年には9%に減少しており、また総耕地に対する小作地面積の割合も同期間に46%から9%に低下している。残存小作地の統制小作料も反当たり最高600円の金納制に決められており、耕地反当たり農業所得の27年における19,387円、28年における19,837円に比べれば著しく低率である。また農業経営費中に占める小作料の比率は9-11年平均で39.3%に達していたものが27-28年には0.7%にまで低下しており、農家全体としてみる限り農業経営費中ほとんどネグリジブルな支出項目になっている。しかしその反面農家の租税公課負担率は戦前に比しやや高くなっているが、小作料負担率の低下が大きいため、租税公課諸負担と支払小作料の合計が農家所得に対する割合は9-11年度の22%から28年度には8%に低下している。以上は農家全体についてみた場合であるが、従来小作農であって農地改革により自作化した多くの農家の経済条件の改善はさらに著しいといわねばならぬ。従って、産業別国民所得において農業部門の所得が戦前に比し最近では実質的に増加していることは前述の通りであるが、耕作農民についてみればその増加は一層大きいといい得る。

 農家所得増大の第二の要因は農産物購買力指数すなわち農家の受取価格と支払価格との関係の好転、特に米価の上昇である。戦後内地種の米の供給量は植民地喪失のため戦前に比し15%内外減少しているのに対し、人口は逆に2割以上増加しているため国内産米に対する需要は著しく強くなっているが、さらに戦後中間所得層の増加はこの傾向に一層拍車をかけている。このような米の需給実勢は公定米価にも反映し、9-11年を基準とする28年の実質賃金は約1割上昇しているのに対し、実質生産者手取米価指数は約3割も上昇している。農産物購買力指数についても9-11年基準で27年には8%、28年には25%も上昇している。

第138表 農家の所得と支出の構成

 次に所得上昇要因としての兼業所得の問題であるが、農家の兼業化がその困窮に由来するものであるか、あるいはより積極的な意味をもつものであるかは一義的結論を下すことは困難であって個々の場合をみればこの両者の場合がありうるであろう。しかしこの点はしばらく措くとして、農家を全体としてみて、結果として兼業所得の増大が農家の所得、消費水準の上昇を大きく支えていることは疑いない。戦前においては農家所得の2割を占めていた農外所得は最近では4割近くに達しており、現金所得部分については実に半ばを占める状態である。このような農家の兼業化傾向は農家経済そのもののうちに不完全就業あるいは他産業との所得差という圧力の存在によるものであることはいうまでもないが、他方戦時中から引き継がれた大企業の雇用増加あるいは戦後における公共事業、公務、サービス業、零細企業などの人口吸収の増加が農村人口の就業機会を多からしめたことによるものである。加えて戦後におけるバス、電車などの交通機関の発達、戦時中からの工場の地方分散、戦時中における農民の機械技術の習得などが農村からの通勤兼業を促進したものと思われる。

第139表 戦後における工場の地方分散

生産性の問題

 次に見地をかえて農業の生産性の面からみると9-11年に比べて戦後就業人口の増加が生産の上昇を上回っているためむしろ低下している。他方、製造工業の生産性は戦後26年までは戦前水準以下にあったが、27年以降は雇用の停滞にもかかわらず生産の急上昇をみたため生産性は戦前をかなり上回るに至った。このような農工業間の生産性の変動の結果、9-11年を基準とする農業の工業に対する相対生産性は24年において1.3倍であったものがその後次第に低下し26年に大体同水準となり、28年に至って約7割の水準に低下した。

 これに対し農産物価格の工業生産物価格に対する相対比は、それほど上昇をみていない。いま農業の相対生産性指数に相対価格指数を乗じたいわば相対生産額を示す指数を試算してみると、 第140表 にみるように最近においては農業は工業に比べて戦前に対しむしろ低くなっている。これは直接的ではないが農業所得を相対的に低める要因として作用するものであり、農業の生産性の低下を価格の上昇が十分カバーしていないことを物語るものである。前述のように物価賃金水準に比して高かった米価をはじめ農産物価格も、生産性との関係においては必ずしも高いとはいえないであろう。農家の兼業化傾向もこの辺にその理由の一つがあるであろう。

第140表 農業の相対生産額指数

 このように農業の生産性は工業に比べ相対的に低下を続けており、29年においてもまだ戦前水準に達していない状態である。他方、最近における農業生産手段の高度化はかなり急速に進んでいるようにみえる。農家の投資力の点からみれば農家経済は戦前に比し実質的にも改善されており、特に中上層農家においては相当の余剰をうみ出している状態である。戦前における農家の生産的支出の大きな対象は農地であったが、現在では農地の自由な移動は制限されており、土地改良投資も27年度で総純投資の1割に満たない。大規模土地改良技術が進歩し、しかも大地主の消滅した今日では個々の農家で実施し得る土地改良の範囲は比較的狭く、その多くは財政投資にまっている現状である。その結果農家の貯蓄の多くは農機具、家畜などへの投資に向けられ、その他戦後顕著に進歩した農業技術例えば農業薬剤、育苗施設、改良品種の採用などに充当されている。

 戦後我が国農業の低い生産性に対する反省から農業の近代化、機械化の風潮が急激に高まり、農家の側においては前述のように投資の余力が生まれ、他方敗戦の結果崩壊にひんした機械工業は農業機械の生産に活路をもとめその改良普及に異常な熱意を示し、電力資本も終戦直後は大量の余剰電力をかかえて農業電化に大きな関心をもつなど、農業機械化の条件は内部的にも外部的にも成熟し近年急速な普及を示している。戦前の機械化は主として脱穀調整過程の機械化であったのに対し、戦後の機械化は 第141表 からも明らかなように耕うん整地作業及び病虫害防除作業の動力化という点に特徴がある。

第141表 原動機及び動力農機具普及状況

 農業の機械化についで注目され驍フは、戦後における家畜のめざましい増加である。主要家畜のうち戦前に比べてその飼養頭羽数が減少を示しているのは馬と鶏のみで、他は牛、豚、緬羊、山羊など全て急激な増加を示している。いま家畜の増勢を家畜単位(一単位=牛馬1頭=豚5頭=緬羊、山羊10頭=兎50頭=鶏、あひる100羽)で示すと、12年の3747千家畜単位から28年には4614千家畜単位に約23%増加しており、特に乳牛のごときは約2倍に達している。

 このような農業に対する機械や家畜の導入は本来生産性の向上をもたらすものであるが事実は前述のように戦前に比しまだ低位にある。これは機械や家畜が適当な形で農業経営と結びついていないためであって、換言すれば経営面積が過小であるために機械がその性能を十分発揮することができず、家畜もそれが導入に適正な経営規模以下の経営に無理な形でとり入れられている場合が多いことによるものである。これが対策として共有、賃耕形態の採用も最近増加傾向にあるが、これにもまた種々の困難が附随している。要するに農地改革は働く農民に土地を所有させ正当な労働報酬を享受させるという理想の一端は一応達成したが、大量の過剰人口をかかえている日本農業では大経営を解体して適正経営規模農家をつくりだすというヨーロッパ型の農地改革を行うことは不可能であって、単に所有規模を経営規模に近づけるというアジア型の改革であったため、農地改革が生産性の上昇に結びつくためには大きな困難が存するのである。

第71図 戦後における酪農の発展

増大する労働力人口と農業

 農業と非農業との間の一人当たり所得差をその労働力の質を考慮に入れて正確に測定することは容易なことではないが、戦前においては就業者一人当たり実質所得は農業が相対的に低下傾向にあり、絶対水準もまた低位にあったと考えられる。しかし農村からの人口流出はこの所得差の程度に応じて比例的には行われなかった。このことは、都市と農村との間には常に人口の圧力差が存在しているために都市に雇用の機会さえあれば常に流出現象が生じたのであって、農民離村の直接の起動力は非農業における雇用機会であり人口圧力の強弱ではなかったということで説明されよう。戦前までの我が国農業就業者数は前述のように大体、1400万人の線に固定していたのであるが、このためには年成長率4%内外の日本経済の発展とこれに基づく年々約40万人の農村人口の都市への流出が必要であった。終戦直後は異常な人口現象を呈したが、25年以降農業人口は約1700万人、農家人口は約3800万人に停滞している。しかしその農業人口の中にはかなり大量の不完全就業あるいは過剰就業があることに注意しなければならない。過剰就業を計測する一つの資料として、総理府統計局調査による農業経営を行う上に必ずしも必要でないと思われる農業就業人口数をみると29年において最高157万人、最低98万人で大体130万人前後となっている。また失業という近代的概念を農業に適用することは必ずしも妥当でないと考えられるが、かりに転職希望者をもって能力に応じた労働の機会をえていない潜在失業者とみれば、その数は同じく統計局調査によると28年において89万人を示している。

 従って農業の人口収容力はほとんど限界にきているといえるであろう。今後増加する要就業人口は農業外に就業の場を見付けねばならない。「総合経済6カ年計画」によれば、昭和35年度における就業者数は43284千人に達すると推定されている。かりに農林業就業者の数を29年度の水準にとどめ、増加就業者は全て非農林業に吸収されるとすれば、35年度の非農林業就業者数は、29年度に対し16%の増加となる。もしこれだけの雇用が非農林業部門で行われなければ農業に依存する人口は現在よりもさらに増加することになるが、その場合の農業の困難、極端な過剰就業状態は前述したところによって容易に予想することができる。


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