第一部 二 講和を迎えた日本経済の水準 1 戦後経済の回復過程

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(一)戦後回復の四段階

戦後六年有余の経済は、これを大観すると次の四段階に分けられるであろう。

 第一段階 終戦から昭和二二年初めまでの混乱期

 第二段階 昭和二二年初めから二三年末までの再建への発足期

 第三段階 昭和二四年初めから昭和二五年半ばまでの経済安定計画期

 第四段階 昭和二五年半ば以降の動乱ブームおよびその調整期

 以下上の区分に従つて戦後経済の回復過程のスケツチを試してみよう。

1 終戦直後の経済的混乱

 終戦直後の日本経済はほとんど麻痺状態に陥つていた。四四%におよび領土の哀失、終戦後二年間で六百余万人にも達する人口の増加(その大半は海外よりの復員者、引揚者)非軍事的なものだけでも四兆二千億円(昭和二三年末公定価格)を算する戦争被害、その他住宅、工場、輸送設備、河川、道路、山林などの損耗荒廃、貿易の途絶等々、直接間接に敗戦に伴う重圧が日本経済の上にのしかかつていた。

 このような戦後経済の苦悩はインフレーションと食糧危機に象徴される。もともと終戦当時、銀行券や銀行予金、国債などの貨幣的資産の堆積は、これと見合うべき物的資産の甚だしい消耗にもかかわらず数千億円にも達して、その不均衡の爆発はやがて恐るべきインフレーションの到来を予想させていたのであるが、それに加えて臨時軍事費の放漫な支出は、預金の引出しとも相まつて通貨を異常に膨張させ、物価もこれに伴つて高騰した。このため昭和二一年二月には遂に金融緊急措置令により預金の封鎖と新円の発行が行われ、同年秋には財産税が徴収されたが、これらの施策はいずれも、一時的な効果しか持ち得なかつた。さらにこの間二〇年産米の凶作とヤミ売りを中心とする経済社会秩序の混迷から、二〇年末の供米進捗率は三割にも達せず、このため二一年上期に食糧事情は甚だしく悪化して、東京都の遅欠配は一時二〇日を超え、五月には食糧メーデーによる米よこせ運動が行われるなど、社会不安もようやく経視を許さぬものがあつた。このような食糧危機は幸いにして七、八、九月における連合軍の輸入食糧の大量放出によりかろうじて切り抜けることができたのであるが、ここで注意すべきはこの期における米国の援助がガリオア(占領地救済資金)に象徴されるように救済の性格に止まつていたことであつて、それはあくまでも占領政策の支障となる惧れのある社会不安の防止することを主眼とし、「日本の経済的復興又は日本経済の強化については何ら責任を負わない」(初期の占領政策司令)という原則は依然として貫かれていた。

 この期における占領政策の最大の目的はポツダム宣言(一九四五年七月)ならびに「降伏後における米国の初期の対日政策」(一九四五年九月)に明確に規定されるように、日本の非軍事化および民主化ということである。非軍事化とは単に軍隊の解散、軍事施設および資材の破壊撤去、あるいは軍需生産の禁止ばかりではなくわが国の全経済機構からあらゆる戦爭遂行能力を根こそぎ取除くことを意図したものであつた。ポーレー案をよび極東委員会案に基く施設撤去による現物賠償計画が非軍事化の一環であつたことはいうまでもないが、さらに経済民主化としてとり上げられた財閥解体および独占の禁止、農地改革、労働民主化などもその基底において非軍事化と関連をもつことはひろく認められている。すなわち、少数の財閥による生産、金融、流通過程の支配、農村における半封建的な土地所有関係、あるいは工業における低賃金など一連の非民主的機構にメスを入れることによつて、軍事主義再現防止の補償とすることができると考えられていたのである。さて二一年下期に向つて連合軍の食糧放出や二一年産米の出回りなどに伴い、経済危機が一応回避されるとともに、一〇月には企業および金融機関再建設備法なども施行され、この頃から日本経済にも戦後の虚脱ないし混迷状態から再建への一歩を踏み出そうとする機運が生れて来た。

2 再建への発足

 戦後生産の上昇を暫く支えた資材ストツクが次第に食いつぶされんとする一方産業活動の基礎である石炭の生産は沈滞を続け、昭和二一年秋以降甚しい渇水によつて発電力は低下し、縮小再生産のすがたが次第に深刻化するとともに、いわゆる「三月危機説」が真剣に憂えられるに至つた。これに応えて二二年初めから実施されたのが「傾斜生産方式」である。その構想は、輸入重油―鉄鋼増産―炭山へ鋼材の傾斜配給―石炭増産―鉄鋼への石炭増配という径路を通じて、石炭、鉄鋼の生産を相互循環的に上昇させ、それによつて縮小再生産を食止めようとするものであつた。この間にあつて同年一月基幹産業に対する資金の供給源として発足した復興金融金庫も、その融資の集中度を特に石炭、鉄鋼に強め、傾斜生産を資金面から促進することにおいて重要な役割を担つた。復金融資とともにこの期における生産の増大をカネの面から支えたものに価格差補給金がある。すなわちこの方式は生産者価格と消費者価格との差を財政支出で賄うことによつて、物価の高騰を防ぎながら生産の増大をはかる上に重要な支柱となつたが、その反面これらの支出額が次第に膨張するにおよんで財政インフレの一要因となつた点も否めない。かくして生産の回復は緒についたものの、その反面インフレーションによる経済の歪曲はますます甚だしく、財政インフレ、復金インフレは生活費を高騰させ、賃金引上げを不可避とし、それはまた価格引上げの根源となり、「物価と賃金の悪循環」が進行した。このような事態に対し、同年七月物価と賃金の同時安定を目標として「経済緊急対策」が実施され、米価と一、八〇〇円賃金ベースを基準とする新物価体系の樹立、緊急措置による流通秩序の確立がはかられたが、インフレの高進により、その意図は達成できなかつた。

第一図 戦後におけるインフレーションの推移

 この頃から米国の対日占領政策にかなり著しい変化があらわれ始めた。すなわちこれよりさき、一九四六年六月国連における原子力国際管理問題、四七年七月ギリシヤ、トルコ反共軍事援助の宣明、いわゆるトルーマン・ドクトリンなどを転機として、二つの世界の対立はようやく表面化し、アメリカの対日政策においても共産主義防止の方向は次第に明かにされ、二二年二月二・一ストに対する総司令の中止命令を契機として、まず労働運動を共産主義の影響から切り離そうとする努力となつてあらわれた。またこれとともに経済的にはアメリカ納税者の負担軽減の意味からも日本経済の自立を促進しようとする動きが徐々に従来の非軍事化および民主化の基調にとつて代るに至つた。その先触れは二二年二月に来朝したストライク調査団の賠償計画の再検討であるが、ついで八月には制限付ながらも民間貿易の再開が許され、棉花に対する輸出入回転基金も設定された。二三年に入つてからはロイヤル陸軍長官の対日賠償および集中排除の緩和に関する演説、マツコイ極東委員会米代表の自立促進に関する声明、ドレイパー使節団の来朝などを通じてこの線は次第に明確化し、同年九月からは従来のガリオア援助に加えてイロア(経済復興援助資金)による原材料輸入も開始された。一方、対日援助政策の強化とともに、従来多くの企業の前途を不明確にしていた集中排除、独占禁止、賠償撤去などの諸問題について緩和の方針が示されたことは、これら企業の生産意欲を喚起するに役立つた。

 これらの事情に基いて、鉱工業生産は二三年に入つてから急上昇し、二三年一二月の生産指数は前年同月にくらべて六割以上の躍進を記録した。また前年七月の経済緊急対策の後いくばくもしなくして再び高進をみせていたインフレーションも二三年に入ると、徴税の強化、財政収支の調整によりやゝその勢を収め、同年再度の価格改定後は、公価の大巾値上りは別としてヤミ値ならびに実効価格上昇の勢は一段と鈍化するに至つた。しかしながらかゝる好転の蔭にはインフレにかかわらず金づまりの声高く、財政の赤字はもちろん、賃上げに伴う赤字融資など、インフレの禍根は依然後を絶つていなかつた。

3 経済安定計画の進展

 経済復興援助の進捗とともに、米国は西欧においてマーシャルプランの被援助国との間に締結した双務協定の例にならい、インフレの収束、爲替レートの設定などの措置をわが国にも要請した。すなわち昭和二三年下期においてすでに経済安定十原則、賃金三原則等が提示されていたのであるが、さらに同年一二月に至り「経済安定九原則」が本国から総司令部への指令として公にされた。翌二四年二月来日したドツヂ公使は、この九原則の日本経済に対する具体的適用として、いわゆる経済安定計画を立案し、同計画は二四年度新予算から実施された。

第二図 戦後経済の回復状況

 その構想の重点はインフレーションの収束と自由経済への復帰にある。インフレによる生産増強がすでに限度に到達し、経済秩序の混乱のみを助長しているという基礎認識に基づき、生産復興よりまず安定を主眼とし、安定した基盤の上に自力復興の種子を育てるというねらいにおいて、その以前から日本側で独自に行われていた「中間安定論」がインフレを徐々に抑え、安定恐慌の発生を避けながら、同時に生産復興をはかろうとするのと異つていた。その具体的措置としては均衡財政の確立と単一レートの設定がとられた。前者は一般会計ばかりではなく、特別会計、政府機関収支までも含む総合均衡財政であり、政府投資の削減、補給金の漸減、復金インフレの根源たる復興金融金庫の貸出停止なども包合していた。また複数レートの段階を経ず、一挙に単一レートを設立してわが国の企業および経済の能率を世界経済のそれと比較しうる契機を与え、従来裏面に隠されていた輸出入補給金を、はつきり表面に出すとともに、援助物資売上代金は、見返り資金として積立てられることとなつた。ついで来訪したシャウプ使節団による税制改革の勧告、ローガン構想による貿易手続の一層の自由化はそれぞれの面において経済安定計画を補強するところがあつた。この結果インフレ―ションはほとんど完全に収束し、物資および物価統制も大部分不要となり、自由経済への移行が企業者の意欲を刺戟するとともに合理化も進捗した。ただし国内消費の圧縮、輸出の伸長を通ずる経済の自立化は同計画の究極の狙いであつたにもかかわらず、たまたま世界市場の買手市場への移行、英国はじめ数十か国におよび爲替レートの切下げなどに遭遇して輸出の伸び方が所期の程度には達しえなかつたため、国内市場の縮小を輸出市場の拡張でカバーすることができず、滞貨の増大や合理化に伴う失業者の増加などにみられるように、不況の様相が次第に濃化し、産業活動の沈滞に陥つた。すなわち第一段階の食糧を中心とする物的窮乏の経済から再出発した日本経済は、ここにおいてはじめて市場の問題に直面するに至つたのである。

4 動乱ブームとその調整

 しかるに昭和二五年三月頃から、国際情勢の緊迫化を反映して戦略物資の輸出が伸び始め、安定計画下の景気沈滞は次第に解きほぐされて行く感があつたが、同年六月朝鮮動乱が勃発するにおよんでこの動きは決定的となり、経済の様相は一変した。特需の発生、輸出の増大により滞貨は一掃され、生産も上昇を開始する一方、輸出入価格の急騰と外爲会計の払超を主因とする通貨の膨張によつて国内価格も高騰し、かかる生産、価格両面の上昇を通じて輸出、特需関連産業の収益は増加した。企業収益の増加と先行きに対する強気の見透しから投資活動が活発化し、こゝに当初の跛行的動乱ブームは次第に一般的好況へと進展していつた。ところが二六年二月頃から世界的に動乱景気に対する反動傾向があらわれるにおよんで、日本経済も調整の過程に入らざるをえなかうたことは後述するごとくである。

(二)経済回復を速やかにさせた諸要因

 このような経過を経て日本経済は戦後六年有余の間に著しい回復を遂げた。昭和二六年度の経済水準を二一年度に比較すると、鉱工業生産において約四倍、輸出数量において約一〇倍、実質国民所得において約二倍に達しており、第三図にみるごとく、その立直りのテンポは欧米諸国と比較しても著しく高い。

第三図 主要諸国の経済回復率

 なおまたここに注目を要するのは、現在の経済水準を二三年から二四年にかけて樹てられた経済復興計画および二五年に発表された経済自立計画のそれと比較した場合、次表に示すごとく国民消費水準になお若干の遅れが認められる以外は、生産規模、貿易規模ともに、かなりこれらを凌駕しているという点である。

第一表 昭和二六年度の経済水準と経済復興自立計画との比較

 このような顕著な回復は何によつて可能になつたであろうか、それはもちろん無数の因子が働いているわでけあるが、そのうち比較的大きな要因を挙げれば次のごとくであろう。

 第一は国際情勢の変化による刺戟である。アメリカの占領政策、特に第二段階以後の再建促進策が米ソ対立の明確化に伴つて強化されたことは前述したとおりである。さらに安定計画下の景気沈滞になやんでいたわが経済界に対して、朝鮮動乱の勃発とこれに伴う世界的な軍拡景気の発生ははからざるこぼれ幸いをもたらした。このように戦後における日本経済の一張一弛は、米国の対日政策と国際情勢の起伏に照応しているといつても過言ではない。

 第二に米国による援助である。これは前述の点ともちろん関連するが、戦後の回復に寄与した役割は大きい、戦後の援助輸入額は二一億ドルを超えており(二六年末までの輸入総額の四割弱)、二二年ごときは輸入総額の中七七%までが援助輸入であつた。かかる援助輸入は戦後初期においては国民生活の物的窮乏を緩和し、また原料不足に悩む生産企業に活を入れるとともに、二四年度以降は見返資金会計による国内的操作を通じて、産業投資面においても重要な役割を果たした。

 第三は遊休設備の存在である。経団連調査によれば、二一年末の操業度は、当然ながら一般にかなり低位を示していた。例えば自転車、ソーダ、綿織物、人絹糸および織物は約三〇%、セメント、ゴムは約二〇%、鉄鋼、工作機械は一〇%であつた。従つて若干の補修さへ行えば、あとは原材料の投入に応じて生産を急速に増加する事が可能だつたわけである。

 第四には復金融資や補給金支出が一方に経済秩序の攪乱的作用をもつたインフレを助長したにもかかわらず、他面顕著な生産促進的効果を有したことは無視出来ないであろう。

 このような主要々因に加えて、二二年秋および二六年秋を除いては毎年豊水に恵まれたこと、米のかくれ生産の例にみるごとく、経済統制の解除につれてそれまで裏面に隠されていた日本経済の含みが次第に顕在化したため、統計数字上の回復が若干過大に表現されていることなども否みえない。

 戦後の急速な生活回復をささえてきたこれらの要因は最近では次第に姿を消しつつある。対日経済援助は二六年半ばを以て打切られたし、遊休設備も機械工業などにおける特殊な部門や使用不能な老朽設備を除けばほとんど利用し尽されようとしている。従つて今後は有効需要の動向いかんにかかわらず、生産の情勢は鈍化せざるをえないであろうが、むしろ従来の急速度な伸び方が回復時の異常現象だつたことを認識せねばならない。

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