各論 (三)生産


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一、鑛工業生産のうごき

鑛工業部門におけるわが國の生産活動は、終戰の前年昭和十九年の春頃から急激な低落に向つたが、昭和二十年八月終戰とともに、ほとんどその活動を停止するにいたつた。このうごきを昭和十―十二年の平均を一〇〇とする生産指数をもつて示すと、終戰直後は一割にも逹せぬところまで低下し、その後逐次虚脱状況から囘復するに從つて生産も增大し、昨年九月に三〇・四まで逹した。しかしその後は十月二九・四、十一月二八・八、十二月二七・七、本年一月には二六・二、二月には二四・七と次第に低下したのである。春になつて電力と石炭の供給が幾分改善された結果この三月には三〇・八にまで持ちなおし四月には二九・二となつているこれを外國と比較するためヨーロツパの戰災國であるイタリーの例をみれば、昨年十月の 鑛工業産業は昭和十三年の実績に比し六六%まで囘復している。これにくらべてわが國の生産囘復は著しくたちおくれている。

  わが國鑛工業のこのような生産不振をさらに内容に立入つて檢討してみると次のような諸点が明かとなる。

  先づ第一に生産不振の最大の原因が設備の不足でも、労働力の不足でもなく、原料及石炭、電力の不足にもとずくことである。設備の能力は一般に現在の生産実績に對しては、大きな余裕を示している。

  このことは基礎資材生産部面の生産不振と、加工工業部面の高度のストツク資材依存となつてあらわれている。先づ基礎資材の生産についてみれば、昨年度の鋼材(普通鋼々材)の生産実績は僅かに三二万三千瓲であり、相和十―十二年の平均に對して七・一%、現有設備能力に對して四・三%又中間賠償計画にもとずく残存能力に對してさえ一一・六%に過ぎない。セメントの昨年度生産は一〇三万四千瓲で昭和十―十二年平均に對して一八%、現在能力に對して二三%にとどまる。

  われわれは食糧不足というと直接身にこたえるけれども、鉄やセメントの不足については比較的鈍感である。しかし食糧の不足が直ちに飢餓を発生させるのに對して鉄やセメントの不足は、將來十年二十年にわたつて飢餓を継続させるようなものであることを忘れてはならない。鉄やセメントの不足は総説にも述べたように工場や鉄道等の諸設備をいため、國土の荒廃をすすめて洪水その他の災害をふやし、長期にわたつて國の生産力を低下されるものなのである。

  ストツク資材依存については、終戰後の生産囘復の足どりがこれを示している。戰後の生産恢復の主体をなしているものは機械工業でありこの部門は、昨年秋には戰前の半ばまで囘復した。しかし鉄鋼を原料として消費する機械工業部門が、鉄鋼部門をはるかに上まわる生産囘復を示したということは、決して健全な状態ではない。このことは生産を增加が主として過去のストツク資材によつてまかなわれていることを示すものであり、ストツクが切れれば生産は再び低下せざるを得ない。

  一方貴重なストツク資材がさして必要でない日用雜貨品の生産に向うかわりに、炭鑛、鉄道そのほかの基礎産業部面に向けられていたならばそれ等の資材は生産の総体的な擴大にもつと役立つていたであろう。終戰二カ年間、上のような措置は十分には講じられなかつた。ストツク資材に余裕のある間であれば、これを石炭、鉄等の基礎資材生産部門に注ぎこみ、次々に生産を拡大してゆく道があるけれども、これが大体枯渇した今日となつては、以前にくらべて生産の囘復を自己の力によつて逹成することが一層困難になり、それだけ外部からの援助にまたねばならぬ部分が增加することとなるであろう。

  生産不振の第二の重要な原因としてインフレーションの進行がある。インフレーションは物價と賃金の安定をみだし、企業経営の見透しを不可能とし、あるいは又労働不安の原因となつて、正常な生産活動を阻害するばかりでなく、労働力も資産も資材も、経済の再建に不可欠な基礎的生産部面から逃げ去つて、商業部面或は囘轉率の早い消費物資ないしは贅沢品の生産部面に向い、貴重な資材は浪費され、経済の基本的たてなおしを愈々困難にする。ここにおいてインフレの進行をとどめ物價と賃金を安定せしめることが必要となる。

  賠償工場の最終的決定のすすまぬことも、生産再開に影響を與えている。極東委員會の中間賠償計画にもとづき指定を受けている工場は陸軍海軍工廠、航空機、軸承、工作機械、製鉄、造船、火力発電、硫酸、ソーダ、人造ゴム、民間兵器工場等の諸部門にわたり、現在約千工場となつている。原料、動力の不足する現下の経済事情からいえば、賠償の指定は必ずしも生産低下を意味しないけれども、最終的に残される工場が明かでないことは、生産意欲を弱めることになつている。

二、動力の不足

  次に生産囘復の重要な基礎となる石炭電力の事情は如何であろうか。我國現在の生産不振の最大原因は原料及び動力の不足に基くことは前にも述べたが、石炭電力の供給が豊富になれば國内の生産條件が改善され、不足原料の輸入も著しく容易になる。終戰當時電力は軍需産業の消滅と共に、著しく過剰になるものと一般に予想された。事実終戦の年の九月の需要電力量は九億九千万キロワツト時に低下し、昭和十―十二年平均に對して四三%でしかなかつた。その後の鑛工場の生産囘復と電熱消費の增大に伴い需要の增加は極めて急速であり、昨年三月にはすでに戰前の水準をこえるところまではいつている。次いで昨年末から今年始めにかけて水力電氣の渇水による出力減少と、これを補うべき火力発電が石炭不足と設備の劣化によつて、能力を出すことが出來ないために、未曾有の電力飢餓を招來し、特に火力発電に依存することの大きい西日本では電力の制限が生産疎外の最大原因としてあげられるにいたつたのである。

  四月以降農水期に入り水力発電の能力が增大したため、電力危機は一應緩和されたが、西日本方面では依然として強度の制限が続けられている。現状のまま推移すれば明年初の渇水期には今年よりさらに強度の電力飢餓に見舞われ全産業をまひ状態におとし入れる危險がある。

  かかる事態を防止するためには現在から火力発電所の補修を行い、また出來るだけ貯炭をふやすことが望ましい。そのほか電力の需要面においても、不急用途を抑え、必要部面の供給を確保するため、周到な準備を進める必要があろう。

  次に石炭事情についてみると、終戰以來石炭の生産は激減し、終戰の都市の十一月には五五万四千瓲となり、昭和十―十二年の平均に比べれば実に一六パーセントにまで低下した。

  その後次第に囘復し、昨年五月には一七〇万瓲、十一月には二百万瓲に逹したが、その後の生産增加は思わしくなく十二月二一七万瓲、本年一月二〇一万瓲、二月二〇三万瓲、三月二二五万瓲、四月二〇八万瓲、五月二一〇万瓲であり月産二五〇万瓲、年産三千万瓲の水準に逹するには、一層の努力が必要である。

  昭和二十一年度における石炭の生産実績は二二五二万瓲であり、年度初めの計画二、三〇九万瓲を下まわり、下期に特別增産目標を加えて改訂した二、四〇〇万瓲の目標に對してはもちろん遠く及ばなかつた。昨年以來政府はしばしば石炭緊急增産のとりきめを行つて來たが、実績は殆ど目にみえる改善を示さなかつた。このことは散発的な或は末梢的な對策では、石炭の急速な增産を逹成することが到底困難であることを物語るものといえよう。

  石炭生産についても考慮すべきことは量の目標逹成に追われて質の低下を見落としてはならないことである。カロリーの低下した石炭を産業に供給することは、粗惡な食糧を取る場合と同様大きな浪費をともなう。例えば國鉄は昭和十一年に四百万瓲、すなわちわが國石炭総消費高の八%を使用したのであるが、昨年度には列車の運轉粁が常時と大差がないにもかかわらず六九六万瓲、総消費高の三〇%を使用した。このような石炭消費の增大は機関手の技術の低下、設備の老朽化等にも一部の原因はあるが、炭質の低下が最大の原因である。われわれは石炭增産が、石や土の增産におわることないようにせねばならぬ。

  また石炭の消費の面で、僅かの石炭を多数の工場に総花式にわけるため、各工場とも操業度が低下し、同じ製品を作るために必要な石炭の量が、從前とくらべて著しく增加し、石炭不足に拍車をかけている例が少くない。

  次に石炭生産と工業生産との関連について次のような事情に注目する必要がある。すなわち石炭の用途は鉄道、船焚、煖房、瓦斯、電力等のいわゆる非産業部面と鉄鋼、機械、紡績、窯業等の鑛工業とにわかつことができる。前者の需要は、國の経済を維持する必要上、ある限度以上におさえることが不可能なことは、人間にとつて食糧の摂取をある程度以上節約できないのと同様な事情にある。石炭の総供給量が乏しい場合には、この非産業用部面の需要に出炭の大部分をさかねばならないために鑛工業に對する配炭は著しく窮屈になる。逆にいえば現在の出炭を少しでも增すことは、鑛工業の生産者增大にきわめて有效なのである。これを数学的にいえば石炭の二割の增産は工業生産を四割增加する。增加した工業生産力は炭鑛に更に大きな增産のための資材機器類の供給を可能とする。かくて增産は增産をうむ。日本経済の矛盾はまず石炭の增産によつて解決の緒を見出すべきである。

三、産業生産事情

  主要食糧の生産についてみれば、米麦の作付面積は戰前に比し減少するにいたり、その生産高も、米は昭和十二年乃至十四年の平均六、七〇五石に對し、昭和二十一年は六、一三八万石、麦は同じくに、三、二五万石に對し一、一五八万石に減ずるにいたつた。このように主食の二大支柱である米麦の作付及び生産が減つたことは、今日の食糧供給減少の大きな原因となつているが、他面これに代つていも類が增産され、その作付及び生産高は著しく增加し、甘藷の如きは昭和十二年乃至十四年の平均生産高に對し同二十年には約一・五倍の一四億三千万貫となつた。次に反當收量の点でみれば、水田の米作に大した変化はないが、畑作の麦では昭和十二年乃至十四年の平均で大麦二・〇一石、小麦一・四一石であつたものが、昭和二十一年には大麦一・〇三石、小麦〇・七〇石にそれぞれ減少し、地力の消耗はようやくおおいがたく農業生産力の減退傾向がみられる。その原因の一つは戰時中、米麦いも類等の食糧作物の作付が他作物を犠牲にして擴張されたため、或いは綠肥作物の作付をへらし、或は飼料の不足から家畜が減り、そのために自給肥料の生産が減少するという具合に、農業経営内部の合理的な生産の循環がみだされたことに基く地力の減退である。今一つはまた鑛工業と同様に農業でも、その生産資材が損耗しても、その擴充は勿論補充さえも困難なため、結局生産力を次第におとろえさせている。これを数字で示すと、まず化学肥料は昭和十二年と二十一年でくらべれば、窒素質肥料では一九〇万瓲に對し九二万瓲、燐酸質肥料では一五二万瓲に對し四〇万瓲、加里質肥料では二五万瓲に對し一一万瓲である。農機具の資材についてはもつとひどく、昭和十五年當時の二、三割程度の供給にとどまつている。食糧事情の惡化にともない家畜も人間にその飼料を奪われ、また輸入飼料の杜絶もあつて著しく減少し、昭和二十一年において役牛一八三万頭、馬一〇七万頭、乳牛一六万頭、豚九万頭、鷄二〇四〇万羽となり、過去の最大頭数に比し、役牛一五%、馬三〇%、乳牛三八%、豚九一%、鷄六二%を減少しているのである。

  なお、戰後の復員及引揚者の農村に入つため、農家一戸當りの耕地面積は從來一町歩のものが最近では八反七畝歩に下り、経営の規模をますます零細にしている。われわれは以上のように農業生産の実態が多くの弱点を持つていることを認めねばならぬが、しかしそれでも工業にくらべればなお條件が有利である。それは農業が空襲その他戰爭にもとづく直接的打撃を受けることが比較的少なかつた点にある。戰前日本國民の半ば農業に、ほかの半ばがその他の職業に從事していた。そのうち鑛工業從事者は農業從事者の半ばに足りなかつたにもかかわらず、その價値生産額は農業の二倍をこえた。戰後はこの鑛工業生産はおおむね八割程度を維持している。從つて日本経済の中に占める農業の比重は相對的に高まつているので、農地改革の遂行を通じ生産條件をととのえ、その生産力をたかめることができれば、わが國経済の囘復に大きな役割を果すであろう。

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