第2章 成長型経済の実現に向けた課題(第2節)

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第2節 賃金の持続的増加に向けた課題

第1章第2節でも見た通り、賃上げの動きは着実に定着しつつある。また、内閣府(2025)で確認したように、賃金上昇率には産業や年齢等によるばらつきはあるものの、マクロ的にみれば、企業規模や賃金水準で見て特定の層の賃金上昇率が大きく遅れているといった傾向はみられない。そうした観点からも、賃上げの動きは着実に広がりつつあると言える。一方で、一人当たり名目賃金は2024年以降概ね前年比2%台の安定的なプラスを続けるものの、同時期の消費者物価上昇率は生鮮食品や米など食料品価格の上昇を主因に総合指数で概ね前年比3%前後と賃金上昇率を上回って推移しており、実質賃金は減少傾向が続いている。

内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2025)や内閣府(2025)では、賃上げの持続性は様々な形で、以前よりは高まっていることを指摘した。昨今の人手不足感が高い状況においては、人材確保の上でも賃金上昇が続くのは自然な流れであると言える一方、労働市場のメカニズムについての経済学的な視点からは、労働需給が競争市場で均衡した状態においては、労働の限界生産性と賃金水準は等しくなるとされており、その場合、賃金上昇率は、労働生産性の上昇率に等しくなる。現実には、労働市場には制度や慣習など様々な摩擦があるため、完全競争での均衡が実現するものではないが、長い目でみた賃金の動向を考察する上での参照点として、均衡状態における賃金水準がどのような経路を辿るかをみていくことには一定の意味がある。

これは、言い換えれば、賃金の動向を、長期的な要素である労働生産性等の要素と、生産性以外の景気循環的な要素に分けて考えることを意味する。長期的な均衡パスでは、賃金水準は基本的に労働生産性に沿った動きをすると想定される一方で、短中期的には、均衡水準の周辺を、様々な要因の影響を受けて、時に振れを見せながら推移していくと想定される。本レポートでは、この2つの観点を重視して、賃金の現状と今後を分析する。前半では、賃上げの広がり等の状況について、ビッグデータ等の分布情報を用いて議論する。後半では、我が国労働生産性の現状と課題について、人的資本という概念を用いて分析を行う1。人的資本は、業務の中で蓄積される(いわゆる「企業特殊資本」)ほか、OJTOff-JT2といった企業による訓練(以下「企業訓練」という。)、業務を離れて行う自己啓発など、様々な形で蓄積されると理解される3。こうした自己啓発の状況と、人的資本蓄積が賃金に結び付いているかについて検討する。

1 賃金の分布と賃金上昇率の広がり

内閣府(2025)では、賃上げの動きは、2024年以降、若年者に限らず中高年層にも広がりを見せていること、中小企業と大企業の賃金水準の差や賃金水準が高い労働者と低い労働者の差は、この15年程度で全体的に縮小傾向がみられたこと、一方で、新卒初任給のばらつきが拡大していることや、公的部門の影響が強く市場メカニズムが働きにくい、医療福祉や建設等の部門では、人手不足にもかかわらず賃上げに遅れがみられることを見てきた。

ただし、これらの検証は、基本的に、厚生労働省「毎月勤労統計調査」や「賃金構造基本統計調査」の集計値を用いて行ってきた。一方で、集計値の場合、例えばある属性の中で、半分は賃金が全く伸びず、残りの半分は賃金が大きく伸びていた場合、その属性の賃金上昇率は、賃金が大きく伸びた労働者の賃金上昇率の半分程度となるが、その属性の労働者で、その上昇率を経験した者は一人もいない、ということがありうる。このように、集計値と分布には大きな差が生じることがある。

そこで本節では、まず、様々な個票データを用いて、賃金の分布がどのように変化したかを検証する。具体的には、「賃金構造基本統計調査」の個票データや、給与に関するビッグデータ4を用いて、賃金の分布や賃金上昇率の分布がどのように変化したか、また、労働者の属性によってそれらに違いがあるかを確認する。

(賃金分布は全体的に上昇し、低所得者の賃金も上昇)

まず、第2-2-1図(1)は、「賃金構造基本統計調査」の個票データを用いて、2018年と2024年の月給ベース(所定内給与)の賃金分布5を描いたものである。分布を見ると、2018年、2024年共に、正規分布よりも右裾が厚い分布となっている6。一方、2018年から2024年の推移を見ると、賃金水準の分布は全体的に、分布の形を概ね保ちながら右にシフトしていることが分かる。言い換えれば、賃金上昇に大きなばらつきはみられず、所得の高い労働者の賃金上昇も、所得の低い労働者の賃金の底上げも同時に行われていたことが分かる。実際、2018年から2024年にかけて、平均賃金上昇率はプラス11.6%に対し、中央値の賃金上昇率はプラス12.2%と、むしろ、相対的に所得の低い労働者の賃金の底上げが比較的大きかったことがうかがえる。

また、賃金上昇率で見ても(第2-2-1図(2))、2018年は賃金上昇率が0%近傍に集中していたのに対し、2024年は、0%近傍の労働者が減り、プラスの労働者が増える、という分布になっている。全体として、プラスの賃金上昇率を中心とした、より尖度の低い正規分布に近い形の分布に変化していると言える。

第2-2-1図 賃金水準と上昇率の分布
第2-2-1図 賃金水準と上昇率の分布 のグラフ

(中高年や中小企業では、賃金水準や上昇率のばらつきが拡大)

次に、様々な属性別に同様の分布の違いを確認していく。まず、年齢別にみると(第2-2-2図(1)、(2))、2018年、2024年共に、年齢が上がるごとに分布の幅が広がり、特に右側、すなわち高所得層が厚くなっていく傾向は全年代で共通であり、また、2018年から2024年にかけて全体的に分布が右にシフトしている(賃金が上昇している)ことも分かる7。一方、特に賃金上昇率を見ると、20代、30代の若年層の分布は、全体的として明確に右にシフトしているのに対し、40代以上の賃金上昇率の分布は、0%近傍の最頻値への集中こそ低下したものの、若年層と比べると明確な右シフトはみられず、右側の裾が厚くなる程度も小さい。その結果、平均としての賃上げ率は中高年層の方が低くなる、ということが分かる。

第2-2-2図 年齢別賃金水準と上昇率の分布
第2-2-2図 年齢別賃金水準と上昇率の分布 のグラフ

この点について、足元までの状況を確認するため、株式会社ペイロールが保有する「給与計算代行サービス」8のデータを用いて、20代~50代までの10歳刻みで、2025年までの直近の賃金分布を確認すると(第2-2-3図(1)~(4))、同様に、20代、30代では賃金水準が全体的に右にシフトしているのに対し、40代、50代と年齢が上がるにつれて、シフト幅が小さく、また、全体のシフトではなく、右裾(高賃金層)が厚くなる傾向が見える。

第2-2-3図 給与代行計算サービスにおける賃金分布
第2-2-3図 給与代行計算サービスにおける賃金分布 のグラフ

また、内閣府(2025)では、中小企業の賃上げについて、賃上げができる企業とできない企業に二極化している可能性を、アンケート調査をもとに指摘したが、実際に企業規模別に賃上げ率の分布の変化を見ると、大企業は分布全体が右にシフトするような形になっているのに対し、中規模、小規模の企業は、賃上げ率の低い層は低いままである一方で、分布の右側が厚くなる傾向がみられる。すなわち、中高年の労働者の場合と同様で、賃上げ率があまり変わらない層が一定数いる一方で、賃上げ率が高くなった層も一定数いる、という二極化の傾向が、実際の分布からも見て取れることになる(第2-2-4図(1)~(3))。

第2-2-4図 企業規模別賃金上昇率の分布
第2-2-4図 企業規模別賃金上昇率の分布 のグラフ

(賃金動向には、産業ごとにパターンがある)

次に、産業別の賃金分布について比較する。ここでは、内閣府(2025)で、「(相対的に)人手不足なのに賃金が上がっていない」とされた「医療・福祉」「建設」「情報通信」と、「(相対的に)人手不足ではないのに賃金が上がっている」とされた「金融・保険」「卸売・小売」について、賃金分布を確認しよう(第2-2-5図(1)~(5))。まず、「医療・福祉」については、全体として分布が右にシフトしているものの、分布の右側(高賃金層)については、2018年から2024年でほぼ変化がないことが分かる。すなわち、「医療・福祉」では、医師や介護士、看護師、事務職員といった様々な職種があり、保険制度によって公定価格が定められる中で、比較的賃金の低い労働者に対して賃上げを集中させていた可能性が示唆される。結果として、平均値で見た賃上げ率が低い水準にとどまっていたと考えられる。

一方、「建設」については、賃金分布の山が二つに分かれてきたとみられる。最頻値の値は2018年から2024年でほぼ変化がないのに対し、2024年は分布全体の高さが低くなることに加え、より賃金が高いところにもう一つの山ができている。建設業では、高技能の労働者など需要の高い労働者の賃上げが進んだ一方で、それ以外の労働者の賃金が据え置かれ、結果として全体の賃金上昇率が低い水準にとどまっていた可能性がある。最後に、「情報通信」については、高所得層の割合が相対的に高い中で、全体的に賃金分布の右シフトが小さかったと考えられる。

また、「人手不足ではないのに賃金が上がっている」産業については、まず「金融・保険」については、全体的に賃金分布が右にシフトする中で、賃金水準の高い労働者の賃上げも進んでいた(右裾)ことが分かる。また、「卸売・小売」については、こちらも全体的に賃金分布が右にシフトする中で、賃金水準の低い労働者の賃金水準の底上げが進んだことがうかがえる。

賃金分布をつぶさに見ることで、「人手不足なのに賃金が上がっていない」とされた「医療・福祉」や「建設」においても、両業種とも公定価格の影響を受けるという共通点はあるものの、賃金のボトルネックは業種により異なる可能性が示唆された。賃金動向を分析する際には、平均や分位点等の集計値データだけでなく、個票等のミクロデータを用いた分布情報を活用することが今後も重要になってくると言える。

第2-2-5図 産業別賃金水準の分布
第2-2-5図 産業別賃金水準の分布 のグラフ
コラム2-3 労働組合の存在は賃上げ率に影響を与えているのか

2025年の春季労使交渉の賃上げ率は、定期昇給を含めたベースで5.25%、ベースアップのみで3.70%と、33年ぶりの高さとなった2024年を更に上回る水準となった。一方で、「毎月勤労統計調査」におけるフルタイム労働者の所定内給与の前年比伸び率は、10月でも2.6%にとどまっており、ベースアップの3.70%を大きく下回る状況になっている(コラム2-3-1図)。特に、ベアが大きく上昇を始めた2023年以降の2024年・2025年のベア率は、所定内給与の伸び率を大きく上回っている。もちろん、連合に加盟する労働組合を集計対象としている連合集計と、労働組合のない事業所も対象とする「毎月勤労統計調査」のカバレッジの違いが要因として考えられるが、ここでは別の視点から議論してみたい。

「毎月勤労統計調査」におけるフルタイム労働者の所定内給与の前年比伸び率は、「2024年に調査された事業所のフルタイム労働者の所定内給与の平均」から「2025年に調査された事業所のフルタイム労働者の所定内給与の平均」への変化率であり、その変化率には両年のサンプルに含まれる労働者の構成の変化も反映される点には留意が必要9である。

コラム2-3-1図 春季労使交渉ベアとフルタイム労働者の所定内給与の伸び
コラム2-3-1図 春季労使交渉ベアとフルタイム労働者の所定内給与の伸び のグラフ

また、連合集計のベア率は各労働組合の集計値であることを踏まえ、労働組合の有無による賃金上昇率への影響の違いによって、連合ベア率が「毎月勤労統計調査」の所定内給与の伸び率よりも高くなる可能性も指摘できる。労働組合が、賃金上昇率にどの程度、影響を与えるかについては、少なくとも日本では、必ずしも定まった評価は得られてないとされる10。ただ、少なくとも足元の賃金上昇率について、厚生労働省「賃金引上げ等の実態に関する調査」をもとにこの点を確認すると(コラム2-3-2図(1)、(2))、労働組合がある企業とない企業の一人当たり平均賃金の改定率は、2025年では労働組合がある企業で4.8%、ない企業で4.0%、2024年もほぼ同程度と、2年連続で相応の差が生じていることが分かる。逆に、2023年以前ではその傾向は明確ではなく、労働組合がある企業の方が賃金上昇率が低い年もあるなど、先行研究が示す通り、必ずしもその傾向は明らかではない。ただ、少なくとも、労働組合がある企業の方がこの2年程度の賃上げ率が高い傾向にあり、また「毎月勤労統計調査」では労働組合がない中小企業等がサンプルに多く含まれることから、結果として平均賃金上昇率が、連合が公表した春季労使交渉のベースアップ率よりも低い水準にとどまる一因となっている可能性はある。

コラム2-3-2図 賃金改定率の推移
コラム2-3-2図 賃金改定率の推移 のグラフ

それでは、労働組合を結成すれば、賃金上昇率は高まる(因果関係)のだろうか。そもそも労働組合が賃金上昇率を押し上げるメカニズムとしては、労働者側のバーゲニングパワー(賃金交渉力)が高まることにより、企業からより高い賃金を引き出すことと考えられる。一方、一部の先行研究が指摘する通り、労働組合の結成率と企業規模の相関が大きく(企業規模が大きいほど労働組合の結成率が高い)、さらに、企業規模が大きいほど賃金水準や賃金上昇率が高い傾向にある場合は、労働組合の有無による賃金への影響は見せかけのものであるとも考えられる。そこで、因果関係をより明確に特定するため、傾向スコアを用いた推計方法により、労働組合がある企業に勤める労働者と、労働組合がない企業に勤める労働者の賃金上昇率を比較すると、労働組合のある企業に所属していた労働者は、労働組合のない企業に所属していた労働者と比べると、0.6%ポイント程度賃金上昇率が高かったと試算される(コラム2-3-3図)。また、年毎の効果の大きさを、労働組合ダミーと年ダミーの交差項を入れたモデルで分析すると、2024年は、2023年と比べると労働組合による賃金押上げ効果が大きかったことがうかがえる。このことが、2024年の所定内給与上昇率(労働組合がない企業もある企業も合わせた平均)と春季労使交渉のベア率の乖離が拡大した要因の一つである可能性がある。

コラム2-3-3図 労働組合の有無による賃金上昇率の違い
コラム2-3-3図 労働組合の有無による賃金上昇率の違い のグラフ

マクロ経済統計は、特に月次ではデータの制約もあり、平均値等の代表的な集計値で公表される。一方、ここまで見てきたように、賃金分布や、様々な属性をコントロールした場合の賃金上昇の違いを把握することは現状を正確に理解し、政策につなげていくためにも有益な情報をもたらす。マクロ統計とミクロデータを車の両輪として広く様々なデータを確認していくことが重要である。

2 人的資本の蓄積と生産性向上に向けて

本節では、賃金分布、賃金上昇分布が様々な属性ごとにどのように変化してきたかについて論じたが、そもそも賃金分布、賃金上昇率の分布はどのように決まっているのだろうか。同じような属性の中でも賃金水準や上昇率が異なるのはなぜか、という点について考える必要がある。例えば、総務省「就業構造基本調査」を用いて、自己啓発の実施と賃金の関係を見ると、2017年、2022年共に、何らかの能力開発を行った労働者ほど、賃金水準が高くなっていることが分かる(第2-2-6図(1)~(4))11

第2-2-6図 職業訓練・自己啓発の実施有無別にみた年収分布
第2-2-6図 職業訓練・自己啓発の実施有無別にみた年収分布 のグラフ

ただし、「就業構造基本調査」では、あくまで「能力開発を行った労働者の賃金は高い傾向にある」ということをとらえられているにすぎず、「能力開発が賃金を引き上げる(生産性を高める)」ことまで意味するものではない点に留意する必要がある。本節後半では、人的資本の蓄積を促進し、労働生産性を向上させるための課題について議論する。

(労働生産性は上昇傾向にはあるが、主要国よりは低水準)

まず、日本の労働生産性は現在どのような状況になっているのかを確認しよう。まず、日本の時間当たり実質労働生産性について、購買力平価(PPP)ベースで比較したものが第2-2-7図である。これを見ると、日本の労働生産性はG7の中で最も低い水準にとどまっていることが分かる。具体的に水準を比較すると、6位のカナダよりも15%弱低く、1位の米国の半分程度であることが分かる。また、OECD諸国全体に比較対象をとっても、中位かやや下に位置する。

また、自国通貨建ての実質ベースで、1990年からの労働生産性の伸びを比較すると、フランスやイタリアよりは高い一方、米国や英国に比べると低い伸びとなっている。

第2-2-7図 労働生産性の国際比較
第2-2-7図 労働生産性の国際比較 のグラフ

(大企業、中小企業の間の労働生産性の差は拡大傾向)

次に、企業規模別の動向をみるために、「法人企業統計」をもとに、労働者一人当たりの労働生産性を確認すると(第2-2-8図(1)、(2))、1990年代にかけて上昇した後、2000年代にかけて、振れを伴いながらもおおむね横ばい傾向で推移した。その後、2010年代に入り、再び上昇傾向に転じ、2020年以降は、大企業、製造業を中心に上向きで推移している。大中堅企業と中小企業の間の労働生産性については、もともと1980年時点で1.5倍以上の差があったが、2020年代以降、大中堅企業では大幅な上昇がみられたのに対し、中小企業ではほぼ横ばいで推移したこともあって、2024年時点では差は2倍程度となるなど、大中堅企業と中小企業の差が拡大している12

第2-2-8図 国内企業の労働生産性の推移
第2-2-8図 国内企業の労働生産性の推移 のグラフ

(労働者のスキル開発に対する意欲は米国等より低い)

労働生産性を規定する大きな要素の一つは、労働者自身のスキルである。この観点から、日米の労働者及び採用担当者を対象として行われた「労働者のスキルに関する日米調査」13の結果を見ると、まず、職場で「仕事に関連するスキル」の重要性が高まってきていると感じるか、について、「そう思う」と「ややそう思う」を合わせた労働者の回答割合は、日本では56.2%に対し、米国では82.5%と、大きく差がついている。特に、「そう思う」と答えた労働者は、日本では18.6%であるのに対し、米国では51.3%と差が大きい(第2-2-9図(1))。

また、同様に、採用担当者に採用・評価・昇進等の基準において「仕事に関連するスキル」のウェイトが上がっていると思うかを尋ねた結果を見ると、「上がっている」「やや上がっている」の割合は、日本では48.3%、米国では80.6%と、こちらも大きく差がついている(第2-2-9図(2))。

さらに、労働者に「今後習得したい・高めたいスキル」、採用担当者に「今後、従業員に習得してほしい・高めてほしいスキル」を聴取した際の回答のうち、「今後、スキルを習得したい・高めたいとは思わない」と答えた労働者、あるいは「今後、スキルを習得してほしい、高めてほしいとは思わない」と答えた採用担当者の割合は、日本ではそれぞれ3割弱、1割強なのに対し、米国では3.7%、0.5%と、こちらも大きな差がついている(第2-2-9図(3))。

このように、日本では、労働者、採用担当者共に、スキルが仕事において重要であると考える傾向が相対的に弱いことが考えられる。雇用が、最終的に企業のニーズに合致する労働者を雇用するという形で行われるのであれば、この傾向は「どちらに原因がある」ということではなく、「企業が労働者に対してそれほどスキルを求めない」から「労働者がスキルを向上させようとせず」、その結果として「企業が労働者に対して更にスキルを求めなくなる」という悪循環になっている面もあると言えよう。

第2-2-9図 スキルの重要性についての認識
第2-2-9図 スキルの重要性についての認識 のグラフ

また、2022年に世界の主要都市で行われた「グローバル就業実態・成長意識調査」14では、日本や米国を含む18か国の回答を比較することができる。これを確認すると(第2-2-10図)、自己啓発について「特に何も行っていない」と答えた労働者の割合は、日本は52.6%と、全体平均(18.0%)を大きく上回り、調査対象国の中で最も高い。また、「現在は自己投資をしておらず、今後も自己投資をする予定はない」と答えた人の割合を見ても、全体平均の11.6%に対し、日本は42.0%と顕著に高いことが見て取れる。国際的にみても、日本の労働者は総じて自己投資に消極的であることがうかがわれる。

第2-2-10図 能力開発の状況についての国際比較
第2-2-10図 能力開発の状況についての国際比較 のグラフ

(読解力や数学力、問題解決力等は高い)

一方、そもそも日本の成人の読解力や数学力、問題解決力等は、世界的にみても非常に高いことが知られている。OECD(経済協力開発機構)が定期的に行っている、PIAACProgram for the International Assessment of Adult Competencies、国際成人力調査)では、「読解力」「数的思考力」「状況の変化に応じた問題解決力」の3分野について調査が行われている。結果を見ると(第2-2-11図(1)~(3))、日本は読解力、数的思考力、状況の変化に応じた問題解決力でフィンランドに次ぐ2位となっており、世界的にみても高水準であることが分かる15。この人的能力の高さが必ずしも労働生産性の高さに結びついていないことが、我が国の課題である。

第2-2-11図 OECD国際成人力調査(PIAAC)の結果概要
第2-2-11図 OECD国際成人力調査(PIAAC)の結果概要 のグラフ

(自己啓発に当たって将来を見据えた動機が増加傾向)

ここからは、日本の状況に絞って、自己啓発の実施状況を整理していく。まず自己啓発を行う動機について、単一回答で聴取した結果16を見ると(第2-2-12図)、2014年から2024年にかけて、一貫して「現在の仕事に必要な知識・能力を身に付けるため」とする回答が5割前後と多いが、徐々に減少傾向にあることも分かる。それに対して、「将来の仕事やキャリアアップに備えて」や「資格取得のため」といった、将来の仕事を考えた動機を挙げる人が増加傾向にある。さらに、絶対数は大きくないものの、「転職や独立のため」という動機の比率も一定の増加を見せている。

第2-2-12図 自己啓発を行った理由
第2-2-12図 自己啓発を行った理由 のグラフ

Off-JT、自己啓発共に、若年、男性、正社員、大企業で活発)

次に、Off-JTと自己啓発について、実施割合を年齢、性別、就業形態、企業規模などで比較したのが第2-2-13図である。まず、Off-JTの実施割合については、全労働者の平均が37.0%であるのに対し17、正社員は44.6%、正社員以外は18.4%と、倍以上の差がついていることが分かる。また、男女別にみると、男性が43.9%、女性が28.8%と、正社員と正社員以外の差ほどではないが、男性の方が女性よりも実施割合が高いことが分かる18。年齢階級別にみると、20代は44.3%であるのに対し、年齢が上がるごとに実施割合が低下し、60歳以上では22.1%と、約半分程度になる。この点については、若年層の方が、現在の自己投資による恩恵を将来にわたって長期間受けることができ、実質的な自己投資の価値が、若年層の方が高くなることも関係していると考えられる。また、企業規模別に正社員の受講率の差19をみると、30~49人の企業は30.3%であるのに対し、1,000人以上規模の企業では50.2%となっており、こちらも差がついている。Off-JTは、例えば一定期間、通常の業務から離れて、あるいは通常の業務に費やす時間を短縮して受講する場合も考えられるが、企業規模が大きいほど、そのような際に代替要員を確保しやすいなどの理由で、Off-JTを実施しやすい面もあると考えられる。

あわせて、自己啓発の実施率を見ると、基本的に正社員、男性、若年層、規模が大きい企業の方が実施率が高いという傾向は同様である20。大中堅企業ほど生産性が高く、伸びが高いという先述の点も含めて、人的資本蓄積と生産性向上には相関関係がみられている。

第2-2-13図 属性別の能力開発実施状況(2024年)
第2-2-13図 属性別の能力開発実施状況(2024年) のグラフ

(時間がないことや会社で評価されないことを理由に自己啓発が行われない)

OJTOff-JTは、基本的に企業が主体となって提供する能力開発である。一方、自己啓発は個人が主体的に実施の是非やその内容を主体的に判断して実施する能力開発である。自己啓発を行わない人は行わない、あるいは行いたくても行えないそれぞれの理由があるはずである。そこで、労働政策研究・研修機構(JILPT)が行った「人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査」をみると(第2-2-14図)、「自己啓発を行わない理由」(複数回答)について、最も多かったのは「仕事が忙しくて時間が取れない」(32.8%)21であり、次に「自己啓発を行っても会社で評価されない」(26.1%)、「費用を負担する余裕がない」(21.5%)、「スキルアップを求められていない」(17.5%)が続いている。大別すれば、「(時間及び費用面での)余裕がなくてできない」又は、「(会社から)求められていないので実施しない」に分けることができる。また、2024年を2020年と比べると、「余裕がなくてできない」と考えられる回答は減少傾向にある22一方、「求められていないから実施しない」と考えられる回答は若干の増加傾向にある。待遇面からの自己啓発の動機が高まっていない様子が見て取れる。

第2-2-14図 自己啓発を行わない理由
第2-2-14図 自己啓発を行わない理由 のグラフ

(実際に自己啓発の阻害理由になっているのは、時間よりも金銭的余裕)

次に、どのような人が自己啓発を行っているか、またそれが賃金に反映されているかを、リクルートワークス研究所のパネルデータを用いて分析する。まず、イベントスタディ型の差の差(DID)分析により、OJTOff-JTといった企業訓練の実施が労働者個人の自己啓発活動の実施確率を高めるかを確認すると、企業訓練の実施は、初年の自己啓発実施確率を14.8%ポイント程度引き上げる効果がみられ、その翌年でも有意に正の効果が確認された23。また、2年後以降には、企業訓練を受けた群と受けていない群の間に再び有意な差がみられなくなるものの、その後追加的に訓練を受けることで自己啓発を実施する確率が高まることもわかった(第2-2-15図(1))24

そこで、継続的な企業訓練の実施が自己啓発活動の実施に与える効果について詳細にみると、2回目、3回目と訓練を重ねるごとに、自己啓発実施の誘因効果は逓増していく傾向が確認された(第2-2-15図(2))。これらの分析結果は、OJTOff-JTといった企業訓練の実施は、労働者、この場合はその企業の従業員の更なる自己啓発のインセンティブを高める可能性を示唆している。労働者の自己啓発を促すためにも企業訓練の実施は有効であり、また複数年にわたって継続的に実施すると更に効果的であることが示唆される。

また、先述の通り、自己啓発を行わない理由として多いのは「仕事が忙しくて時間が取れない」や「費用を負担する余裕がない」といった回答であることから、こうした要素が自己啓発実施率に与える影響について確認すると、まず、金銭的余裕の変数として年収を推計式に含めると、年収が高まると有意に自己啓発実施率が高まることが分かる25。金銭面での余裕が自己啓発の実施率を高めている可能性がうかがえる。一方、労働時間の長さや家族の有無といった、いわば「忙しさ」に影響するような要素が、自己啓発の実施率に影響しないという結果となった。先述の通り、「仕事が忙しくて時間が取れない」は、自己啓発を行わない理由で最も多くの人が挙げたものではあるが、実際には、労働時間の長さは全体としてみれば自己啓発実施率に影響しておらず26、家族や子どもの有無も同様に統計的に有意でない。実際の行動が選好を表しているのだとすれば、総じて、時間的な余裕のなさよりも、金銭的余裕のなさや、自己啓発が金銭面で報われないこと等の方が、自己啓発を阻害する要因になっていると考えられる。

第2-2-15図 企業訓練が自己啓発に与える影響
第2-2-15図 企業訓練が自己啓発に与える影響 のグラフ

(自己啓発が賃金に与える効果は、Off-JTに比べて限定的)

そこで、自己啓発やOff-JTといった人的資本を蓄積するための取組が実際に賃金に反映されているかどうかを、同様の枠組みを用いて分析したのが、第2-2-16図である。まず、企業が提供する訓練機会は、5年後を除いて、賃金を有意に上昇させることが分かる。一方で、自己啓発については、3年目以降は、賃金に与える影響は限定的となっている27。また、どちらも実施した労働者の賃金上昇幅は、どちらかを実施した労働者よりも大きく、持続的であることがうかがえる。

第2-2-16図 企業訓練と自己啓発の実施が賃金に与える効果
第2-2-16図 企業訓練と自己啓発の実施が賃金に与える効果 のグラフ

この違いについてはいくつかの仮説が考えられるが、まず、個人の動機による自己啓発は必ずしもその企業で働く上での生産性を高める効果を持つとは限らない可能性がある。この点は、企業特殊人的資本の議論とも関係する。企業特殊人的資本とは、特定の企業内でのみ通用する技能のことであり、特に長期雇用・年功序列型の雇用システムの下では、企業特殊人的資本が果たす役割が高かったと考えられている。企業が提供する訓練機会であれば、少なくともその企業内における生産性を高める内容になると考えられる。また、企業としては一般的な人的資本の蓄積を社費で支援したとしても、そのスキルを身に付けた労働者は他の企業に転職してしまう可能性があり、その場合は訓練費用を回収できない可能性が高い。このため、企業訓練による人的資本蓄積は、企業特殊人的資本になることが多いと考えられている28。関連して、そもそも労働者が行う自己啓発の内容が生産性向上に寄与するものになっていない可能性が考えられる(後述)。他にも、長期雇用・年功賃金制度の下では訓練と昇進が結びついており、昇進に応じて緩やかに賃金が上がる仕組みが埋め込まれている可能性、自己啓発はむしろ転職を伴う収入増に効果がある可能性等29、様々な解釈がありうる。

いずれにせよ、自己啓発実施率の分析で「企業による訓練がある企業ほど自己啓発実施率が上がる」という結果がみられることを踏まえると、企業による訓練機会の提供は、自己啓発の実施率を高めるとともに、自己啓発と企業訓練の相乗効果が機能し、より一層の生産性向上や賃金上昇につながっていくとも言える。企業による能力開発機会を広く提供できるよう政策的に支援していくことは、我が国が人的資本向上を通じた生産性向上を実現するためにも重要である。

なお、一つの傍証として、「能力開発基本調査」(2024年度)で「能力開発と処遇への反映状況」をみると(第2-2-17図(1)、(2))、能力開発について、3割弱の企業は、労働者の能力開発を処遇に反映させていないことが分かる。また、処遇への反映内容を見ると、一時金や手当の支給を含め、賃金や賞与の引上げを行っている企業は、処遇に反映を行っている企業の8割超となっているが、全体企業の3割弱が能力開発を処遇に反映させていないことを考慮すれば、全体の4割程度の企業は、少なくとも賃金という形では、能力開発に伴う処遇改善を行っていないことになる。また、同様に厚生労働省「就労条件総合調査」で、基本給の決定要素を確認すると(第2-2-17図(3))、「職務・職種など仕事の内容」が基本的に最も多く、人的資本投資と関係の深い「職務遂行能力」については、6割台と上位ではあるが、2012年から2017年にかけて、「職務遂行能力」を挙げる企業の割合は5%ポイント程度低下している30。賃金引上げと人的資本投資の連動性が必ずしも強くないことが、労働者の自己啓発がインセンティブを低下させている可能性がある。

第2-2-17図 能力開発と処遇への反映状況(2024年)
第2-2-17図 能力開発と処遇への反映状況(2024年) のグラフ

(企業が求める能力(開発)と、労働者が行う能力(開発)にずれがみられる)

先述のように、そもそも企業が求める能力開発の方向性と、労働者が行う能力開発の間にミスマッチが生じている可能性も考えられる。「能力開発基本調査」で企業が労働者に求める能力開発を見ると(第2-2-18図(1))、「チームワーク、協調性・周囲との協働力」が6割弱を占めている。次に「職種に特有の実践的スキル」が4割弱となっており、先述の企業特殊資本を労働者に求める姿がこの結果からもうかがえる。以下、「コミュニケーション能力」、「課題解決スキル(分析・思考・想像力等)」が続く。

これに対し、労働者側の能力開発を見ると(第2-2-18図(2))、「マネジメント能力・リーダーシップ」が最も多く、次いで「課題解決スキル(分析・思考・想像力等)」となっている。企業側が求めている「チームワーク、協調性・周囲との協働力」や「職種に特有の実践的スキル」はいずれも20%を割っており、労働者側としては優先順位が相対的に低いことが分かる。

この点をもう少しわかりやすくするため、各スキルについて、労働者の回答割合と企業の回答割合の差を比較すると(第2-2-18図(3))、先述の通り、「チームワーク、協調性・周囲との協働力」や「職種に特有の実践的スキル」については、企業側の希望が相対的に強いのに対し、「語学(外国語)力」や「高度な専門的知識・スキル」、「専門的なITの知識」といった項目では、労働者側の希望が相対的に強くなっていることが分かる。言い換えれば、例えば労働者が自己啓発で英語学習や専門的なITの知識を身に付けたとしても、そのスキルと企業が生産性向上のために求めているスキルとの間にミスマッチがあれば、結果として生産性向上に結び付かず31、賃金が持続的には上がらない、という経路が考えられる32

第2-2-18図 企業と労働者の求めるスキルのミスマッチ
第2-2-18図 企業と労働者の求めるスキルのミスマッチ のグラフ

(企業は自己啓発を支援するが、労働者は企業が協力的でなくなったと認識)

また、自己啓発に関する企業と労働者の間の認識のずれとしては、企業は変わらず労働者の自己啓発に好意的であり、支援をしているものの、労働者の側から見ると、企業は自己啓発に非協力的になったと受け止められている事実もある。労働政策研究・研修機構「人材育成と能力開発の現状と課題に関する調査」は、企業と労働者それぞれに同時期にアンケートを行っている。企業側の「従業員の自己啓発に対する支援の有無」を見ると(第2-2-19図(1))、コロナ禍であった2020年は支援を行った企業が少ないものの、2016年と2024年を見ると、「行った」と答えた企業の割合は概ね同程度である。一方、労働者側の認識を「自己啓発を行うことに対して協力的か(会社の方針)」という設問から確認すると(第2-2-19図(2))、「協力的」と答えた労働者の割合は、2016年の4割超から2024年には3割超にまで低下している。「やや協力的」と答えた割合は上がっているものの、「協力的」と「やや協力的」を合わせた割合は低下しており、全体として、労働者は、企業が非協力的になったと認識していると言える。先述の、企業側が求める能力と労働者側が身に付けたい能力の違いを考えると、企業側は、企業が求める能力を身に付けるための協力を積極的に行っている一方で、労働者側は、自分が行いたい自己啓発と企業が求める自己啓発が異なることから、企業が非協力的になっている、と認識している可能性がある。能力開発の成果を企業の生産性向上に結び付けていくためにも、労働者と企業の間で能力開発についての意思疎通を十分に行うことが求められる。

第2-2-19図 自己啓発支援に対する企業と労働者の認識
第2-2-19図 自己啓発支援に対する企業と労働者の認識 のグラフ

(企業特殊資本による労働生産性の差は最大で30%程度)

企業特殊資本の存在は、転職をはじめとする円滑な労働移動を阻害する要因にもなりうる。すなわち、ある企業でのみ通用する能力を身に付けた労働者は、他の企業に転職しようとすると、自分の人的資本を十分に発揮できず、生産性(賃金)が(少なくとも一時的には)低下してしまう。そのため、人的資本に占める企業特殊資本の割合が高い場合、労働者が転職するインセンティブが阻害される。また、企業側も、労働者が転職しないよう、企業特殊資本を中心とした能力開発を行う、というメカニズムである。そこで、この節の最後に、企業特殊資本の影響が人的資本に占める割合がどのくらい高いかについて推定する。具体的には、転職した労働者の賃金水準やそのパスがどのようになるかを、「賃金構造基本統計調査」の個票データから「疑似パネル」33と呼ばれる手法を使って、同一労働者と疑似的にみなせる労働者のデータを抽出し、賃金水準を比較することで検討してみよう。賃金水準が生産性と等しい均衡水準にあると仮定すれば34、転職した時の賃金の変動は、その労働者の転職先の企業における生産性の変動とみなすことができる。ここで、生産性が、企業特殊資本とそれ以外の人的資本からなるとすると、転職直後は、企業特殊資本はゼロであり、それ以外の要素が変わらないとすれば、企業特殊資本の影響が大きいほど、転職直後に賃金水準が下がることになる。一方、例えば別の職場で働いた経験等を一般的に活かし、生産性を高めることができる場合は、企業特殊資本の差による影響が和らげられ、転職者の方が賃金水準が高くなることも考えられる35

そこで、様々な属性をコントロールしたうえで、転職の有無による賃金水準の違いを、転職からの期間や職種ごとに推計する36。結果を見ると(第2-2-20図(1))、まず、転職からの期間ごとに比較すると、転職0~2年目の賃金水準は、全ての年齢階層で、同じ年齢の、転職していない労働者よりも低くなっている37。特に45歳以上では、最大で賃金水準が30~35%程度低くなっていることが分かる。教育水準を始め、労働者の属性情報については可能な限りコントロールしていることから、この差は、企業特殊資本によるものとみなすことができる。実際、20代よりも30代、30代よりも40代の方が、この企業特殊人的資本による影響が大きくなっているが、これは、年齢が高い労働者の方が勤続年数も高く、その分企業特殊資本を身に付けていることから、転職初年の労働者との企業特殊資本の蓄積の差が大きくなるためであると考えられる。一方、転職後の勤続年数が上がるほどに、非転職者との賃金差は縮小していくことも分かる。特に、20代後半~30代前半では、勤続6~8年で賃金差が逆転している。

また、職種ごとに転職者と非転職者の賃金水準を比較すると(第2-2-20図(2))、「管理的職業従事者」や「専門的・技術的職業従事者」では転職者の賃金水準が高くなっているのに対し、「生産工程従事者」や「事務従事者」、「運搬・清掃・包装等従事者」、「サービス職業」では転職者の賃金水準が低くなっている。この違いは、マニュアル等に準拠するルーティン作業の割合が影響している可能性がある38。すなわち、生産工程等では、その企業特有の生産装置等の動かし方があり、勤続年数が長くなると、これが企業特殊資本として蓄積する。そのため、企業特殊資本の生産性寄与が大きく、転職者の賃金水準が低くなる傾向にあると考えられる。一方、「管理的職業従事者」や「専門的・技術的職業従事者」はマニュアル化が難しく、企業特殊資本による影響が相対的に小さいことから、転職者の賃金水準が高くなると解釈できる。

第2-2-20図 転職者と非転職者の賃金差
第2-2-20図 転職者と非転職者の賃金差 のグラフ

このように、企業特殊資本は、人的資本の一定割合を占めていると考えられ、その結果、転職者の賃金は、特に中高年層を中心に上昇しにくいことになる。実際、転職により賃金が10%以上上がった労働者の割合は年齢が上がるごとに低下し、逆に転職により賃金が10%以上下がった割合の労働者は年齢が上がるごとに上昇しており、本分析結果とは整合的になっている。一方で、少なくとも若年層ではその影響は相対的に縮小し、職種別にみると、管理職や専門職で特に影響が小さくなっている。すなわち、こうした職種では、相対的に企業特殊資本の影響が小さいことから、転職により個人が能力を発揮しやすい職場に移ることによるプラス効果が、企業特殊資本が失われることによるマイナス効果を上回り、結果的に転職した個人や転職先の企業の生産性が向上したと考えられる。さらに、人材の流動性を高めることにより、こうした職種を中心により個人が生産性を発揮しやすい職場への移行が進み、マクロ全体でも生産性を押し上げる効果が生じる可能性も考えられる。


1 労働生産性は資本蓄積にも影響を受けるが、資本蓄積については第3節で詳しく分析する。
2 一般に、OJTOn the Job Training)は、企業の事業活動に監督者の下で参加させ経験を積ませること、Off-JTOff the Job Training)は、企業の事業活動とは離れて、企業主催の訓練機会を提供することを指す。厚生労働省の「人材開発支援助成金」のパンフレットでは、具体例として、パソコンの操作訓練の場合、「顧客への礼状の作成はOJT」「操作習得用の練習文書の作成はOff-JT」という例が挙げられている。
3 もちろん、小中・高等学校や大学教育等でも蓄積される。
4 給与計算代行サービスを行う株式会社ペイロールが保有する匿名化された給与支払いデータ。
5 本小節のサンプルは、「賃金構造基本統計調査」のすべてのサンプルではなく、神林(2011)の手法を用いて、連続する2年について同一労働者を調査していると思われるサンプルだけを抽出した「疑似パネル」のデータセットにおけるサンプルとなっている。そのため、「賃金構造基本統計調査」全体のサンプルとは分布や平均値等が異なる可能性がある。疑似パネルについては、内閣府(2025)の付注2-6(及び神林(2011))を参照。
6 この図に限らず、賃金水準と上昇率の密度の軸の水準感が異なっているが、賃金水準は水準自体のばらつきが大きく、取り得る値の範囲も広いため、分布の密度は低くなりやすい一方、賃金上昇率は比較的狭い範囲に集中するため密度が高くなる点に留意する必要がある。
7 勤続年数で見ても同様の傾向がみられる。
8 データの詳細は、第1章第2節のコラム1-3を参照。
9 実際、「毎月勤労統計調査」では、毎年1月に30人以上規模の事業所のサンプル入替えが行われ、入れ替え前後の旧サンプルと新サンプルの両方のデータを収集することで、サンプル入替えの影響で前年比伸び率がどのくらい変わるかを試算している。2025年のサンプル入替えでは、現金給与総額ベースで、-2,541円(-0.9%)の差が生じていると試算されている。
10 労働組合と賃金の関係については、効果があるとするものとないとするものが混在しており、特に日本の場合、労働組合の組織率と企業規模の相関が大きく、また、企業規模が大きいほど賃金上昇率が高い傾向にあることから、重回帰分析を行った場合、労働組合の存在が賃金を押し上げる効果が、企業規模による効果に吸収され見えづらくなっている可能性が指摘されている(鈴木(2020))。同論文では、Blinder-Oaxaca分解の手法を用いて、組合加入者の属性のコントロールと組合効果の測定を同時に行っており、因果関係とは必ずしも言えないが、結果的に労働組合がある企業の方が賃金水準が高くなることを指摘している。
11 図は正規労働者のみを示しているが、非正規労働者でも同様の傾向がある。
12 ここでは「法人企業統計」から従業員一人当たりの名目付加価値額を労働生産性としているため、労働時間当たり実質付加価値額(GDP)で表す前述のOECD統計とは異なり、特に1990年代~2000年代における日本の労働生産性が停滞した姿になっている。この時期は短時間勤務の多い非正規雇用者の増加による総労働時間の減少もあり、時間当たりの労働生産性は一人当たり労働生産性に比べ低下していなかった点に留意する必要がある。
13 Indeed Japan株式会社「労働者のスキルに関する日米調査」(2025年)参照。
14 パーソル総合研究所「グローバル就業実態・成長意識調査」(2022年)参照。
15 成人ではなく、15歳時点の生徒・児童の学力を測る「PISA」調査も定期的に行われている。最新の2022年の調査では、日本は数学、科学で男子、女子共に1位(2位はいずれも韓国)となるなど、こちらも高い成績を収めている。
16 厚生労働省「能力開発基本調査」。
17 なお、実施時間の統計を取ることもできるが、基本的に同様の傾向である。
18 女性の方が正社員以外の雇用形態で働いているケースが多いことも影響していると考えられる。
19 正社員以外では、30~49人の企業でやや実施率が低いが、それ以上の企業ではほぼ同等である。
20 企業規模の影響はやや小さめとなっている。
21 なお、厚生労働省「能力開発基本調査」にも「自己啓発を行う上での問題点」という項目があり、こちらは「仕事が忙しくて自己啓発の余裕がない」が正社員で55.9%、正社員以外で35.3%と、JILPTの調査よりもはっきりと比率が高い。水準の差が生じる理由は明らかではないが、厚生労働省調査が「自己啓発を行う上での問題点」を尋ねており、自己啓発を行った人も含むのに対し、JILPTの調査は「自己啓発を行わない理由」を尋ねており、自己啓発を行った人はサンプルから外れていることが考えられる。自己啓発を行った人のうち一定数は、時間がない中でも様々な目的のために自己啓発を行っていると考えられる。この「時間の余裕がないことは実際には自己啓発の障害に必ずしもなっていない可能性がある」という点については、また後程触れる。
22 「家事・育児・介護等で忙しくて時間が取れない」は増加している。
23 なお、初回企業訓練の実施年の3年前、2年前の係数が統計的に有意でないことから、のちに企業訓練を受ける群と受けない群の間で、企業訓練を受ける前の時点においては自己啓発を実施する確率に有意な差が無いことが確認できる。
24 類似の結果として、労働政策研究・研修機構(2025)は、企業からの自己啓発支援制度が自己啓発実施率を高める効果があることを指摘している。ただし、同研究は、自己啓発時間自体は個人のキャリア意識、特に独立・転職志向等が影響することも指摘している。
25 ただし、規模感としてはそれほど大きくない(年収1%上昇に対して実施率の上昇は0.02%)点には留意が必要。
26 黒田・山本(2019)は、2017~2018年の働き方改革の進展期に、「残業規制の厳しさ(働き方改革の進捗度の代理変数、転じて、労働時間の短さの代理変数とも解釈できる)」が自己啓発時間を増やす効果は40歳以上の層でしかみられないことを指摘しており、本分析の結果と整合的である。
27 内閣府(2022)も同様の分析を行い、正社員については、自己啓発による賃金上昇効果がほぼみられなかったことを指摘している。また、内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2021)は、Off-JTによる賃金上昇効果は、他の種類の能力開発と比べて長期間持続する傾向にあることを指摘している。
28 古くはGary Beckerが提唱した考え方である。
29 先述の、内閣府政策統括官(経済財政分析担当)(2021)。
30 実際、Kimura et al.(2022)は、日本のデータを用いて、人的資本形成が賃金に与える影響が2000年代以降弱まっている可能性を指摘している。
31 Lazear(2009)は、企業によって労働者に求めるスキルの優先順位が異なること自体が、企業特殊資本の実体なのではないかと指摘している。
32 ただし、このミスマッチ自体は必ずしも日本特有の事情ではない。先述の「労働者のスキルに関する日米調査」でも、米国の労働者が身に付けたいと思っているスキルは上から「テクノロジーリテラシー」「人工知能・ビッグデータ運用スキル」「リーダーシップ・社会に影響を与えるスキル」であるが、採用担当者が求めているスキルは上から「信頼性・細部への注意力」「回復力・柔軟性・敏捷性」「テクノロジーリテラシー」となっている。特に、「信頼性・細部への注意力」は、米国の労働者が希望するスキルの上位10位に入っておらず(「回復力・柔軟性・敏捷性」は5位)、ミスマッチが生じていることが分かる。
33 具体的には、神林(2011)の手法に基づき、性別・学歴・年齢・勤続年数の情報を用いて、ある年と翌年の個票から、同一事業所に勤務する同一の労働者であると考えられるサンプルを抽出した。
34 この仮定の下、以下本小節では、「賃金水準が高い」と「生産性が高い」は等価であるとみなし、文脈に応じて両方の表現を用いる。
35 「転職による賃金の変化」が「企業特殊資本等の喪失による生産性の変化」であると整理した例として、Audoly et al.(2022)がある。論文では、ある労働者が長期間勤務した企業を退職し新たな企業に就職した場合の賃金の低下幅のうち、50%程度が新たな就職先企業の生産性そのものが低いこと、30%程度が企業特殊資本の喪失によるものとされている。本稿は、転職者の転職先における賃金を、転職先にいる同質の非転職者と比較しているため、企業特殊資本の喪失の部分のみを抽出していると考えられる。
36 岩上・酒井・酒巻(2026)は、給与計算代行サービスのデータを用いて同様に転職者と非転職者の賃金水準や上昇率を分析し、年齢の高い転職者の方が非転職者との給与差が大きいことや、非転職者に給与水準が追いつくためには一定の時間が必要であることを指摘している。
37 なお、本分析には事業所固定効果を含めていることから、「転職先が全体的に賃金水準の高い企業であった」という影響は取り除かれているものと考えられる。
38 企業特殊資本の影響度合いが職種によって異なる、という点は、Kwon and Milgrom(2014)等も指摘している。同論文では、セールス、建設関係職、技術サービスといった職種では、企業特殊資本の影響が強いと指摘している。
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