第1章 マクロ経済の動向(第2節)

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第2節 デフレ脱却に向けた展望

我が国の物価情勢をみると、今回の物価上昇局面は、2021年から2022年にかけて、コロナ禍を経た世界的な需要回復や、ロシアのウクライナ侵略による資源価格の高騰を契機として始まった。為替レートの減価もあいまって、輸入物価を起点に国内物価が上昇し、2023年初頭には、消費者物価(生鮮食品を除く総合)は、前年比上昇率でプラス約4%と40年ぶりの物価上昇となったが、その後、2023年9月~12月は2%台まで低下している。政府は、「物価が持続的に下落する状況」を「デフレ」と定義しており、また、「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」を「デフレ脱却」と定義している1。この意味で、我が国経済はデフレの状況にはないが、デフレから脱却しているか否かについては、物価の基調や背景を総合的に判断し、今後もデフレに「戻る見込みがない」ことを確認する必要がある。

30年ぶりの高さとなる春闘の賃上げや、過去最大規模の名目設備投資、解消されつつある負のGDPギャップなど、経済には前向きな動きもみられ、デフレ脱却に向けて、千載一遇のチャンスを迎えている。本節では、2020年後半以降の物価の動向やその背景を確認し、我が国経済のデフレ脱却に向けた進捗を確認する。

1 2020年後半以降の物価動向

ここではまず、2020年後半以降の物価の動きを振り返る。2023年末にかけては、食料品など財を中心に、消費者物価の前年比上昇率は低下傾向にある一方、物価上昇の裾野が、財だけでなくサービスにも広がってきていることを確認する。

(資源価格の上昇は、総じて落ち着いてきている)

今回の物価上昇局面は、新型コロナウイルス感染症の影響により落ち込んだ世界経済が回復に向かう中で始まった。まず、原油をはじめとした国際商品の市況を、契約通貨ベースでみると(第1-2-1図(1))、コロナ禍の経済悪化の影響により、原油価格は2020年4月に大きく落ち込み、石炭価格も2019年中から供給が過剰気味となっていた中で、2020年にかけても経済活動の低迷により低水準で推移した。その後、各国で経済活動の再開が徐々に進み、需要が回復してくることにより、原油や石炭価格は2020年後半から2021年中にかけて上昇傾向に転じた。2022年に入ると、2月24日のロシアによるウクライナ侵略を契機に、各種商品価格は大幅に上昇した。その後、原油と小麦は同年の前半、石炭も年後半にはピークを付け、それぞれ下落傾向に転じ、2022年後半以降、ウクライナ侵略前よりもおおむね低い水準で推移している2

この間、円ベースの国際商品価格の動向をみると、2021年から、欧米において金融政策の引締めが進み、我が国との金利差が拡大する中で、為替レートが円安方向で推移した。特に、ロシアによるウクライナ侵略後から同年10月にかけてその動きが加速したため、円ベースの国際商品価格の伸びは、契約通貨ベースより更に大きくなった(第1-2-1図(2))。円安の進行は、2022年10~12月頃は一服したが、2023年1月から再び円安方向に転じた。ウクライナ侵略前に比べると引き続き減価した水準となっており、その結果、原油価格については、ウクライナ侵略前とほぼ同じ水準となっている。

第1-2-1図 国際商品市況の動向
第1-2-1図 国際商品市況の動向 のグラフ

(資源価格上昇や世界的な物価上昇が輸入物価を通じて国内企業の取引価格に転嫁)

こうした国際商品の価格高騰に加え、米欧では財政刺激策の効果もあって、コロナ禍からの需要の回復が進む中で、2021年に入って以降、これら諸国において急速な物価上昇が生じた(第1-2-2図(1))。

我が国の輸入物価は、上述した資源価格の上昇を受けて2020年後半から上昇傾向に転じ、更には世界的な物価上昇、そして円安の影響も受けて、急速に伸びを高め、円ベースの前年比はピークとなる2022年7月には、第二次石油危機時の1980年6月以降では最大の+49.5%に達した(第1-2-2図(2))。このピーク時点での寄与度について、為替の要因(すなわち円ベースと契約通貨ベースとの差)とそれ以外の要因を分けると、両者の寄与が同程度となっている3。2022年秋以降は、資源価格の落ち着きに伴い、それまでの急速な上昇の反動もあって輸入物価の前年比は低下し、2023年4月には2年2か月ぶりにマイナスに転じた。

輸入物価の上昇は、海外からの輸送期間に伴う若干の時間差を伴いつつ、国内企業の取引価格に転嫁される。財の取引価格である国内企業物価は、まず、原油・石炭市況の上昇を受けて、ガソリンなど国内の石油・石炭製品の価格が上昇し、次いで、燃料費調整制度4を通じて電力料金が上昇することなどにより、大きく押し上げられた(第1-2-2図(3))。2022年秋には、国際商品市況が落ち着いてきたことで輸入物価の前年比はプラス幅が縮小に転じていたものの、電気等の燃料費調整が時間差を伴って徐々に行われることや、輸入物価上昇によるコスト増が国内価格に転嫁されるに当たってもプラスチック製品等の加工品では一定の時間差を伴うことから、国内企業物価の前年比ピークは、輸入物価の前年比ピークからおおむね半年遅れの2022年12月(+10.6%)となった。その後、輸入物価の上昇幅の縮小が進み、下落に転じる中で、国内企業物価の前年比プラス幅も縮小し、2023年末の国内企業物価は前年比+0%程度まで縮小している5

一方、サービスの企業間取引価格である企業向けサービス物価は、2020年前半に、コロナ禍の影響を強く受けて広告や不動産を中心に下落した後、2021年前半にかけては、その落ち込みから回復する形で前年比がプラス圏に戻り、2022年初め頃までは前年比1%前後と、輸入物価や国内企業物価と比べると落ち着いた状況となっていた(第1-2-2図(4))。その後、まず、リース・レンタルにおいて、取扱対象の財価格の上昇を受け上昇幅が拡大するとともに、コロナ禍からの経済社会活動の再開に伴い、宿泊をはじめ各種サービス需要が回復してきたことにより、前年比プラス幅の拡大が継続し、2023年7月以降は2%を超える上昇率が続いている。特に2023年以降では、人件費の高まりも受け情報通信サービス(ソフトウェア開発等)の上昇幅拡大が顕著となっている。このように、企業間取引価格においては、財に加えて、サービスでも徐々に価格転嫁が進んでいる。

第1-2-2図 世界の消費者物価と日本の輸入物価・企業物価の推移
第1-2-2図 世界の消費者物価と日本の輸入物価・企業物価の推移 のグラフ

(消費者物価は当初エネルギー価格、次いで食料価格の上昇により40年ぶりの上昇)

輸入物価や企業物価の動きが徐々に波及する形で、消費者物価の前年比は2022年中に大きく上昇した(第1-2-3図(1))。結果として、総合の前年比は2023年1月に+4.3%と、1981年12月の+4.3%以来、また、生鮮食品を除く総合(コア)の前年比は、同じく2023年1月に+4.2%でピークを付け、1981年9月の+4.2%以来、それぞれ約41年ぶりの上昇率となった。

今回の物価上昇局面における総合・コアの上昇は、世界的な物価上昇による輸入物価の上昇を起点としたものであったが、この間、政府としては、ガソリン・灯油等の燃料油価格や、電気・ガス価格について、激変緩和対策事業を実施し、物価高に対応してきた(第1-2-3図(2)、(3))。そうした政策要因が消費者物価に与えた影響をみると6、まず燃料油価格激変緩和事業が2022年1月27日から開始され7、2023年初頭にかけてコアの前年比上昇率を最大0.8%ポイント抑制してきた。2023年4月以降、前年比上昇率の押上げに寄与しているが、これは、前年同月の押下げの反動によるものであり、ガソリン等の価格水準が抑制されていたことに変わりはない。次に、電気・ガス価格激変緩和対策事業は2023年1月使用分から開始され、その効果は2023年2月以降から反映され始め8、同年9月までは、コアの前年比上昇率を最大1.1%ポイント押し下げる効果があった。同年10月以降は、補助の半減により、コアの前年比上昇率の押下げ幅は0.5%ポイントとなっている。加えて、この間、観光需要喚起が目的であるが、2022年10月から全国旅行支援が実施され、旅行商品の単価の引下げが行われ、コアの前年比上昇率を最大0.3%ポイント押し下げる効果があった9

こうしたエネルギー関係の激変緩和措置や全国旅行支援といった政策要因が仮になかった場合のコアの前年比上昇率を試算し、その前年比上昇率の内訳をみる。2022年前半頃にかけてはガソリンや電気・都市ガス代などのエネルギー価格の上昇が寄与し、同年後半になると、それまでの資源価格や穀物価格の上昇の価格転嫁が進んだことにより、食料(食料品及び外食)の寄与が大きくなった(第1-2-3図(4))。コアの前年比は、政策要因がなければ、2022年11月、12月の+4.7%をピークに、2023年3月以降は縮小傾向となっているが、これは、電気代やガス代について、既往の資源価格の落ち着きが燃料費調整制度を通じて徐々に反映されたことや、食料価格の前年比も2023年春頃から上昇寄与としては拡大が止まったことによる。

一方、生鮮食品及びエネルギーを除く総合(コアコア)について、全国旅行支援等の政策要因を除いたベースでみると(第1-2-3図(5))、2023年に入ってからも、食料品の寄与が頭打ちとはいえ高止まりしてきたこと、その他の財の寄与も拡大したこと、更に、経済社会活動の正常化、インバウンド需要の回復に伴い、外食や宿泊料などサービス物価の上昇が続いたことにより、前年比4%台前半でのプラス幅拡大が続いた。ただし、輸入物価上昇を起点とした食料品の値上げの動きが一服したことから、前年比上昇率でみると、2023年秋頃からは食料品のプラス寄与が縮小傾向に転じている。この点は、速報性が高いビッグデータである、スーパーのPOSデータの動きからも確認される(第1-2-3図(6))。一方で、価格転嫁の広がりもあって、外食を除くサービス物価も緩やかに上昇を続けている(外食の上昇は、食料品価格の影響も含まれると考えられる)。この点は、後述するように、デフレ脱却に向けた道筋を展望する上で注目すべき動きである。

第1-2-3図 消費者物価の推移
第1-2-3図 消費者物価の推移 のグラフ

(財物価の上昇が緩和していく一方、今後はサービス物価の安定的上昇が重要)

このように、今回の物価上昇局面においては、当初は資源価格を含む世界的な物価上昇を背景に、輸入物価の上昇を起点として、消費者物価の約半分を占める財物価、具体的には7%を占めるエネルギー、そして22%を占める食料品を中心に波及する形で消費者物価上昇率が高まってきた(第1-2-4図(1))。

他方、輸入物価は、上述のとおり、資源価格の落ち着きにより2022年7月をピークに急速に低下しており、2023年4月以降、前年比では下落に転じている(前掲第1-2-2図(2))。財の消費者物価は、輸入物価の上昇に6か月程度遅れる形で動く傾向があることから(第1-2-4図(2))、2023年に入って以降、ピークアウトし、上昇幅は緩やかながら縮小しつつある10

これに対し、今後は、景気の緩やかな回復が続く下で、賃金が継続的に上昇し、それが消費需要の増加や賃金の適切な価格転嫁を通じて物価の緩やかな上昇につながり、そして企業の売上増が再び賃金増につながることで、賃金・物価が安定的に上昇していくという好循環の実現が重要である。特に、人件費の占める割合が大きいサービス物価において、賃金と連動した形で安定的な物価上昇が生じていくことが重要となる。消費者物価指数のウエイトの半分を占めるサービスの物価は、これまで財物価の上昇に比べて遅れていたが、2023年に入って以降、上昇率を徐々に高め、消費税率引上げの影響を除くと1995年以来の2%台となっている。内訳をみると(第1-2-4図(3))、外食や宿泊料が大幅に伸びていることに加え、その他サービス(家賃や公共サービス、通信料を除く)についても、2023年春頃には2%台半ばまで上昇している。需要回復とともに、サービス業の人手不足などを反映して賃金が上昇し、それが価格に転嫁される動きが進んできている可能性がある。

第1-2-4図 消費者物価の財・サービスの動向
第1-2-4図 消費者物価の財・サービスの動向 のグラフ

GDPデフレーター上昇率は、輸入物価の下落により、伸び率を高めている)

最後に、国内で生産された付加価値の価格であるGDPデフレーターの近年の動向を確認する。GDPデフレーターの前年比上昇率は、2020年は主に輸入物価の下落により若干のプラスで推移した後、2021年から2022年半ばにかけては、輸入物価が上昇しGDPデフレーターの下落に寄与する一方で、輸出物価の上昇、そしてラグを伴って始まった国内需要デフレーターの上昇が相殺する形で、ゼロ近傍で推移した(第1-2-5図)。その後、2022年7-9月期をピークに輸入物価、輸出物価の双方の上昇幅が縮小する中、国内物価の上昇は続き、GDPデフレーターの前年比上昇率は明確なプラスに転じた。2023年7-9月期には+5.3%と、比較可能な1981年以降では最も大きな伸びとなっているが、これは、輸入物価が下落に転じ、GDPデフレーターの押上げに大きく寄与する一方で、この間、国内需要デフレーターの上昇幅の縮小が緩やかなことによる。この背景には、①2023年7-9月期にかけては、輸入物価上昇の転嫁により財物価の上昇率が高止まっていたほか、②これまで粘着的であったサービス物価にも徐々に上昇がみられるようになっていることが考えられる。今後、輸入物価が安定化していく場合には、国内需要デフレーターの動きがGDPデフレーターの動きを規定していくことになるが、消費者物価と同様、サービスを中心に賃金と物価の好循環が実現する下で、安定的なプラスが確保されていくことが重要である。

第1-2-5図 GDPデフレーターの動向
第1-2-5図 GDPデフレーターの動向 のグラフ
コラム1-2 食料品に係る消費者物価と購入単価の比較

今般の物価上昇の影響を大きく受けてきた食料品について、家計の購買行動を分析するため、「消費者物価指数」と「家計調査」における購入単価の動きを比較してみよう。「消費者物価指数」は、家計の消費構造(購入する品目のウエイト)を一定の時点に固定し、全国の家計が購入する財とサービスの価格を総合した物価の変動を指数化して測定するものであり、各品目のウエイトには総務省「家計調査」の結果が主に用いられている(現行のウエイトは2019年と2020年の平均が用いられている)。また、各品目の価格は、食料品については、原則として、総務省「小売物価統計調査」による小売価格が用いられており、品目ごとに代表的な銘柄を選定し、その価格を継続的に調査している。これに対し、「家計調査」は、各世帯が家計簿を付け、日々の収入・支出、購入数量を記録するものであるから、支出額と購入数量から得られる平均購入単価は、消費者が実際に購入した商品の単価を示している。したがって、同じ食料品について、消費者物価指数と家計調査の購入単価の推移を比較することで、調査銘柄が限られる消費者物価指数では捕捉しきれない家計の購買行動をみることができる。

具体的には、消費者物価指数については個別品目の価格指数を2019年・2020年のウエイトで加重平均し、家計調査については家計の平均購入単価を2019年・2020年の平均消費支出額で加重平均し、それぞれの推移を比較する(コラム1-2図(1))。これをみると、2021年1月以降、消費者物価指数に比べて家計調査の購入単価が下回って推移しており、家計が様々な節約行動をとっている可能性が示唆される11

特に、短期間のセール時の買いだめについては、消費者物価指数においては上述のとおり価格指数を作成する際に原則として小売物価統計調査による調査価格を用いているため、短期間(7日以内)の特売価格等が価格指数に反映されないが、家計調査ではこのような銘柄も含めて購入単価が算出される。実際に、鶏肉とケチャップを比較してみると、保存性が高く買いだめしやすいケチャップにおいては家計調査の購入単価が消費者物価指数を下回って推移してきたのに対して、生もので相対的に買いだめしにくい鶏肉ではこのような傾向がみられない(コラム1-2図(2))。

こうした食料品における消費者物価の小売価格と実際の購入単価の差については、小売の業態におけるシェアの変化も背景として考えられる。本章第1節で述べたように、ドラッグストアは、コロナ前の2016~2018年対比で+36%販売額が増加し、その半分近くが食料品となっており、食料品価格の高騰の中で、ドラッグストアが、相対的に安価な食料品への需要を取り込んでいると考えられる。こうした消費行動の変化も、購入単価には反映されるが、消費者物価指数には必ずしも反映されない点に注意が必要である。

コラム1-2図 消費者物価指数と家計調査上の購入単価の比較
コラム1-2図 消費者物価指数と家計調査上の購入単価の比較 のグラフ

2 デフレ脱却に向けた進捗と今後の展望

前項では、コロナ禍を経て、輸入物価の上昇を起点として国内物価への波及が徐々に生じ、40年ぶりの物価上昇に至ったことを振り返った。現在の状況は、持続的に物価が下落する状況にはないという意味で、明らかにデフレではないが、名目賃金の上昇が物価上昇に追いついておらず、個人消費など内需は力強さを欠いており、こうした状況が続けば再びデフレに戻りかねない。本項では、我が国がデフレに入る前の状況との比較や、海外における物価安定の状況との比較を通じて、どのような状況になればデフレ脱却を展望できるのか、様々な角度から検討を行う。

(四半世紀にわたるデフレとの闘い:過去3回の物価上昇局面は結果的に持続せず)

はじめに、我が国経済がデフレに陥る前の1980年代以降の40年超の長期的な消費者物価の動向について振り返る中で、我が国がデフレに陥った後、今回の物価上昇局面より前の三度の物価上昇の際にデフレから脱却できなかった背景等を確認する。

消費者物価(コア)の前年同月比上昇率をみると(第1-2-6図)、まず1980年代の初めは1978年秋からの第2次石油危機の影響があり、ピークの1980年6月の前年比は+8.5%に達している。急激なインフレが鎮静化した後、1983年頃から1985年9月のプラザ合意までの間は2%前後の安定的な上昇率で推移していたが、急速な円高もあって1987年1月には一時的にマイナスに転じた。その後はいわゆるバブル景気の到来もあり物価上昇率はプラスとなり、1989年4月には消費税の導入もあって上昇幅は拡大していったが、1990年12月の+3.3%をピークとして、バブル崩壊とともに上昇幅は縮小傾向に転じていった。その後、1995年春に一時的に小幅なマイナスとなった後、1997年秋頃にかけて同年4月の消費税率引上げの影響を除いた前年比で+1%程度まで物価上昇率が高まる局面もあったが、1997年7月以降のアジア通貨危機、同年11月以降の我が国の金融危機の中で景気が悪化し、1998年夏頃から物価上昇率はマイナス傾向に転じていくこととなった。

過去、政府の月例経済報告において「デフレ」と記述していた期間は、2001年4月から2006年6月までの期間と、2009年11月から2013年11月までの期間の二度ある12。最初のデフレ期間に関しては、上述のとおり、コアの前年比のマイナス傾向は2001年より前の1998年夏頃には始まっており13、日本経済は、1990年代の終盤からデフレ状況に陥っていたといえる。その後、月例経済報告において「デフレ」との記述が一旦なくなった2006年7月から2009年10月までと、二度目に記述がなくなった2013年12月以降、現在に至るまでの期間については、物価が持続的に下落する状況という意味でのデフレではないものの、デフレに再び戻る見込みがないというという意味での「デフレ脱却」の判断には至っていない。このように、我が国経済のデフレとの闘いは、既に約四半世紀に及んでいる。

この四半世紀の間においても、消費者物価の前年比上昇率が、一定程度の期間、プラスを継続する局面は何度か訪れた。それは、①2007年秋頃からリーマンショックを経た2008年終わり頃までの期間、②アベノミクスの「三本の矢」の取組が始まった後の2013年夏頃から2015年の初め頃までの期間、③2017年初め頃からコロナ禍の2020年初め頃までの期間である。しかし、①については、資源価格高騰による輸入物価上昇が主にエネルギーや食料に波及して生じたコスト・プッシュ型のインフレであり、リーマンショックに端を発する世界金融危機の発生に伴い、資源価格が下落に転じる中で、再びデフレに陥ったという点で持続性のないものであった。②と③についても、後述するように物価上昇の大宗がエネルギーや食料であった中、②は原油価格の下落、③はコロナ禍の影響の中で、消費者物価上昇率は一時的にマイナス圏に戻った14。外生的なショックの影響もあるとはいえ、物価上昇が持続的でなかったという点では、いずれも、事後的にみて、デフレ脱却の判断を行う局面ではなかったといえる。

その上で、今回の世界的な物価上昇から始まった物価上昇局面についても、既に確認したように、当初はエネルギー、そして輸入物価上昇の価格転嫁による食料の上昇が多くを占め、専ら外生的なコスト・プッシュにより主導されてきた。こうした物価上昇は、上記①や②の局面を振り返っても分かるように、資源価格や輸入物価の動向に左右されやすく、「再びデフレに戻る見込みがない」という意味で、デフレ脱却の環境が整ったとは評価し難かった。しかしながら、2023年の終わり頃にかけて、輸入物価の上昇を起点とした食料等の物価上昇が落ち着きをみせつつある一方、価格が上昇している品目の割合が8割を超え、価格粘着的なサービス分野も含めて物価上昇の広がりが生じているなど、局面の変化がみられる。こうした中、再びデフレに戻る見込みがないかどうかを判断する上で、どのような指標を確認していくべきか、本稿では様々な角度から議論していく。

第1-2-6図 消費者物価の推移とデフレの状況
第1-2-6図 消費者物価の推移とデフレの状況 のグラフ

GDPギャップ等はデフレ脱却に向けた進捗を示唆するが、総合的な判断が必要)

上述した内閣府が2006年に示したデフレ脱却の定義においては、デフレ脱却の実際の判断に当たって総合的に考慮すべき物価の背景として、需給ギャップやユニット・レーバー・コスト(単位当たりの労働費用)といったマクロ的な物価変動要因を例として挙げている。そこで、マクロ経済の需給を表すGDPギャップをみる(第1-2-7図(1))。コロナ禍の影響により、2020年4-6月期にGDP比約-9%と過去最大のマイナス幅を記録したが、その後は、経済の回復に伴い、振れを伴いながら改善傾向で推移し、2023年4-6月には+0.3%と、2019年7-9月期以来、3年3四半期ぶりに小幅なプラスに転じた。その後、2023年7-9月期は、実質GDP成長率が4四半期ぶりのマイナスとなったことから、-0.6%となったが、大局的にみて、負のGDPギャップが解消に向かいつつあるという流れに変わりはない。

負のGDPギャップが解消されることは、需要不足により物価下落圧力がかかる状況ではなくなるという点で、デフレ脱却に対して前向きな動きといえる。しかしながら、第1節でも確認したとおり、現状、我が国経済は、企業部門の好調さが賃金や投資に必ずしも回っておらず、個人消費や設備投資といった民間需要が力強さを欠く状態にあり、注意が必要である。特に、名目賃金上昇率が物価上昇率を下回り、実質賃金上昇率のマイナスが続いている中で、GDPの55%を占める個人消費は、財消費を中心に回復力に欠ける状況にある。

また、賃金に由来する物価上昇圧力を示すユニット・レーバー・コスト(単位労働費用。以下「ULC」という。)の前年比を確認すると、2022年は若干のプラスで推移した後、2023年はゼロ近傍で推移している(第1-2-7図(2))。雇用者の一人当たり名目雇用者報酬(賃金のほか雇主の社会保険料負担を含む)の伸びが、雇用者一人当たり実質労働生産性の伸びを傾向的に上回ってはいないということであり、労働コスト面からの物価上昇圧力が明確に高まっているとはいえない状況にある。

次に、GDPギャップやULC上昇率と、消費者物価上昇率との相関関係を確認する(第1-2-7図(3)、(4))。GDPギャップと消費者物価上昇率(コアコア)の関係、すなわちフィリップス曲線については、我が国経済がデフレに陥る前の1984年~2000年においては、プラスの相関関係があり、切片もプラスであったのに対し、2001年からコロナ禍前の2019年までをみると、傾きがフラット化し、相関関係が緩やかなものとなると同時に、切片がゼロ近傍に低下している。デフレに陥って以降のフィリップス曲線の変化は、①切片の低下については、家計や企業など経済主体の予想物価上昇率が低下したこと、②傾きのフラット化については、需給が引き締まる方向に動いても物価が上昇しにくい構造に変化したということであり、価格転嫁が弱まるなど企業の価格設定行動が消極化していったことを示している。

また、ULC上昇率と消費者物価上昇率(コアコア)の関係については、デフレに陥った後は、同様に切片、傾き共に低下していることが分かる。これは、①デフレ以前に切片がプラスであったのは、同じ単位労働費用の伸びで、より高い物価上昇率が実現していたということであり、議論を単純化するため費用は労働費用のみと考えると、単位利潤の伸びがプラスであったことを示している15。換言すれば、2000年以降の期間については、企業のマークアップが低下するなど価格設定力が低下したことを意味する。また、②傾きのフラット化については、人件費の変化が販売価格に転嫁されにくい構造に変化していたことを示唆している。なお、コロナ禍後の今回の物価上昇局面については、消費者物価は、輸入物価の急激な上昇に伴うコスト・プッシュ要因により、過去のGDPギャップやULC上昇率との関係からかい離して、上昇率を高めている。

以上のように、単に、GDPギャップやULC上昇率がプラスになったかどうかという基準により、デフレ脱却の判断を行うことには慎重であるべきである。デフレに後戻りする見込みがないかを判断するに当たっては、物価上昇の中で名目賃金がこれを持続的に上回る状況となるか、コストに占める人件費の割合が高いサービス分野を中心に労務費が適切に価格転嫁されるか、企業の価格設定行動が積極化しているか、幅広い品目で物価上昇がみられるようになるか、家計や企業の予想物価上昇率が安定的なプラスを維持するようになるか、など経済全体の動向について様々な角度から総合的に確認していくことが重要である。

第1-2-7図 GDPギャップ、ULCの動向
第1-2-7図 GDPギャップ、ULCの動向 のグラフ

(春闘以外でも賃上げの流れが広がっていくことが重要)

以上の議論を踏まえ、デフレ脱却に向けて確認すべき様々な指標や動向として、賃金上昇、価格転嫁、物価上昇の広がり、予想物価上昇率に焦点を当てて確認する。ここではまず、賃金上昇の持続性という観点で、今回の物価上昇局面における賃金上昇の実態を整理するとともに、今後の継続的な賃上げに向けた展望を行う。

まず、2023年の春闘の結果と、それがどのように労働者の給与に反映されているかを確認する。40年ぶりの物価上昇が生じる中で、2023年の春闘では、いわゆる月例賃金労働者について、定期昇給分を含む賃上げ率として+3.58%と、30年ぶりの高い賃上げが実現した(第1-2-8図(1))。この賃上げ率は、雇用者一人一人にとっての年齢や勤続年数等に応じて上昇する定期昇給分と、賃金表の改定などのいわゆるベースアップからなる。このベースアップについても、2023年は+2.12%と、やはり30年ぶりの賃上げとなった。

春闘におけるベースアップ分は、概念的には、「毎月勤労統計調査」では、一般労働者の所定内給与の上昇率に近しい16。過去10年(2013~22年)において、その年の企業の賃金の改定が、いつ頃から給与計算に反映され始めたかの平均的な姿をみると、5月に47%となった後、9~10月頃には100%近くに達するとされる(第1-2-8図(2))。2023年4月以降の一般労働者の所定内給与の水準をみると、今回もおおむねこのパターンと同様に賃金水準が高まってきたことがわかる(第1-2-8図(3))。

前年比増加率という点でみると、毎月の回答事業者の構成比の変化もあって、月々の変動がみられる点に留意が必要であるが、2023年5月以降、+1.6%~+2.0%と、春闘ベースアップの2.12%より幾分低い伸びで推移している(第1-2-8図(4))。これは、一つには、①春闘における賃上げ率は、賃上げを行った企業と賃上げを行わなかった企業(0%と記録)のみが報告されているため、賃下げ事業所分も含む平均賃金上昇率を示す「毎月勤労統計調査」の方が低くなる面がある17。加えて、②「毎月勤労統計調査」は、公務を含んでいないが、国公立の学校や、診療報酬や介護報酬といった公定価格により賃金を受ける医療・福祉が含まれること、③春闘でカバーされる労働組合を持たない企業やそもそも労働組合を持たない企業の事業所が含まれることなどが影響し得る。このうち②について、医療・福祉や教育・学習支援業を除く産業計の一般労働者・所定内給与について、月々の事業所規模・産業別の常用雇用者の構成が2022年から一定とすると、おおむね2%程度の前年比増加率となっていることがわかる(第1-2-8図(6))。逆に言うと、2023年は医療・福祉等における賃上げ率が相対的に低位にあることから、産業計の所定内給与の伸びとしては、春闘ベースアップから下振れている面がある。春闘のベースアップは対象労働者の実際の所定内給与の伸びに相応に反映されているが、経済全体の一般労働者の所定内給与の引上げという観点では、公定価格分野や中小企業を含めて、賃上げの流れの裾野が広がっていくことが重要である。この点、2024年度は診療報酬・介護報酬・障害福祉サービス等報酬の三つが同時に改定され、その中で、医療・介護・障害福祉分野の職員の処遇改善のための加算措置が講じられることとなっている。こうした取組も通じ、公定価格分野で力強い賃金上昇が実現することが期待される。

第1-2-8図 春闘の結果等
第1-2-8図 春闘の結果等 のグラフ

(名目の一人当たり賃金は上昇しているが、物価上昇を下回っている)

次に、所定外給与やボーナス等の特別給与を含む一般労働者の現金給与総額をみると、①製造業を中心に所定外労働時間が減少し、所定外給与を含む定期給与の伸びが所定内給与のそれを若干下回っているが、②2023年夏(6~8月)のボーナスは産業計の一般労働者で前年比3.0%と堅調であったことや、通常ボーナスがほとんどない5月の特別給与が大きく伸びたことから18、2023年度前半(4~11月)平均の前年比としては所定内給与+1.7%、定期給与+1.6%を上回る+2.0%となっている(第1-2-9図(1))。2023年末のボーナスについても、堅調な企業収益等を背景に、2023年12月時点では、2023年夏よりも高い増加率が見込まれている(第1-2-9図(2))。

パート労働者の賃金動向をみると、時給(時間当たり所定内給与)は、最低賃金の引上げ(全国加重平均で2022年10月から前年比+3.3%、2023年10月から前年比+4.5%)や人手不足もあって、水準として明確に切り上がっており、前年比でみると2023年度前半(4~11月)平均で+3.1%程度、特に6月以降は3~4%台と高い伸びが継続している(第1-2-9図(3))。ただし、現金給与総額でみると、労働時間が減少傾向にあることから、時給ベースよりも低い伸びとなっている。

一般労働者やパート労働者を合わせた就業形態計の平均賃金(現金給与総額)の前年比増加率は、賃金水準が相対的に低いパートタイム労働者の比率の上昇傾向が継続していることから、2023年度前半(4~11月)平均で+1.5%程度と、一般労働者やパート労働者のそれぞれの伸びを下回っている(第1-2-9図(4))。

次に、実質賃金の状況を確認すると、2022年4月以降、名目賃金(就業形態計の現金給与総額)の伸びが、消費者物価の伸びを下回っていることから、実質賃金の前年比は、1年半以上にわたりマイナスが続いている(第1-2-9図(5))。ここで、「毎月勤労統計調査」においては、名目賃金を消費者物価指数で除す際、慣習的に、消費者物価の総合ではなく、持家の帰属家賃を除く総合が用いられている。我が国の消費者物価指数で計測された家賃は粘着性が非常に高く(前掲第1-2-4図(3))、物価上昇が進む下でも、前年比で+0.1%程度となっている。持家の帰属家賃のウエイトは15.8%であるため、持家の帰属家賃を除く総合の前年比としては、総合に比べて、物価上昇の高さに応じて0.5~0.8%ポイント程度高く推移している。この点、名目賃金を消費者物価の総合で実質化した姿をみると、マイナス幅は緩やかになるものの、1年半超にわたり実質賃金が減少傾向である点は変わらない。

また、各雇用者にとっての賃金の購買力をみる観点で、一般労働者とパート労働者に分けてそれぞれ実質賃金を計算すると19、実質賃金の減少が続いている姿に変わりはないが、マイナス幅はそれぞれ幾分抑制され、パート労働者はプラス圏に近づいている。なお、一般労働者とパート労働者それぞれについて、月給ベースではなく、時給ベースの実質賃金を計算すると、一般労働者では明確なマイナス圏にあり月給ベースと比べて大きな姿は変わらないが、パート労働者では2023年10月には、名目時給の伸びが物価上昇を上回り、実質時給の前年比がプラスとなっている(第1-2-9図(6))。これは、第2章でもみるとおり、2023年10月の最低賃金引上げが影響している。また、同章で述べるように、「毎月勤労統計調査」は事業所調査であり、「一人当たり賃金」は、厳密には「仕事当たり」の賃金である。パート労働者を中心に副業実施などにより一人当たりの労働時間が拡大している場合は、月給ベースの「一人当たり賃金」は、毎月勤労統計が示すよりも強くなり得る点に留意が必要である。副業をめぐる状況や課題については第2章で詳述する。

第1-2-9図 現金給与総額の状況
第1-2-9図 現金給与総額の状況 のグラフ

(物価上昇率に負けない名目賃金上昇率が実現、継続していくことが重要)

このように、我が国では、今回の物価上昇局面において、名目賃金上昇率が物価上昇率に追い付いておらず、実質賃金上昇率のマイナスが続いている。この点、2021年以降、極めて高い物価上昇に見舞われた米欧諸国(アメリカ、英国、ドイツ)の実質賃金を確認すると、いずれの国でも、短くても1年、長い場合2年程度にわたり、実質賃金の減少局面が続いていた(第1-2-10図(1))。しかしながら、これらの諸国では、物価上昇率が2022年のピークから着実に縮小に向かう中、アメリカでは労働需給のひっ迫もあって名目賃金上昇率がコロナ禍前の3%程度を上回る4%台となり、独英では2023年に入り名目賃金上昇率が6~8%に高まっていることから、実質賃金上昇率はプラスを回復している。

これらの国を含む主要先進国では、過去20年程度を振り返ると、年による変動はあるものの、平均してみれば、消費者物価上昇率が2%前後の安定的な水準を確保する中で、名目賃金上昇率が物価上昇率を一定程度上回っている、すなわち一定のプラスの実質賃金上昇率が確保されてきたことが分かる(第1-2-10図(2))。これに対し、我が国においては、過去20年程度の平均的な姿としては、物価、名目賃金上昇率共にゼロ近傍であり、結果として実質賃金上昇率もほぼゼロであった。

しかし、我が国の名目賃金上昇率と物価上昇率、そして実質賃金上昇率を長期に遡って確認すると、我が国経済がデフレ状況に陥るより前の1980年代初頭~1990年代半ばまでは、上述の諸外国と同様に、物価上昇率が2%前後の中で、名目賃金上昇率が物価上昇率を1%前後上回る状況、つまり実質賃金上昇率について一定のプラスが実現していた(第1-2-10図(3))。

物価上昇に負けず、これを上回る名目賃金上昇率が持続的に実現していくためには、最低限、雇用者の生活水準を維持する観点から、先行き想定される消費者物価上昇率並みの賃上げを実現することが必要である。これに加えて、実質賃金上昇率のプラスを実現していくためには、雇用者の生活水準が継続的に上昇することが必要であり、これは、労働生産性が向上し、その成果が賃金に反映されるということに他ならない。

そこで、主要先進国における雇用者一人当たりの名目賃金の推移を、比較可能な2000年以降の期間で、物価、一人当たり労働生産性、労働分配率に分解する(第1-2-10図(4)①~⑥)。各国によって姿は異なるところもあるが、コロナ禍前までの動きとしてある程度共通していえるのは、日本とイタリア以外では、一人当たり労働生産性と物価の上昇を主因に、一人当たり名目賃金が上昇する傾向にあったという点である20

これに対し、我が国においては、労働生産性の上昇を、物価の下落と労働分配率の低下が上回り、一人当たり名目賃金は2000年の水準を下回る水準で推移してきた。しかし、我が国においても、デフレに陥る前の1980年代初頭から1990年代初頭にかけては(第1-2-10図(4)⑦)、労働分配率の低下による押下げ要因もみられたが、物価と一人当たり労働生産性の伸びにけん引されて、一人当たり名目賃金が高まっていたことが確認できる21

以上の理解の下、今後の持続的な賃金上昇に向けた展望と課題を整理する。30年ぶりの高さとなった2023年度の賃上げに当たって企業が最も重視した要素を振り返ると、「企業の業績」が最も大きい点は2022年度から変わらないが、「労働力の確保・定着」という人手不足対応の動機がバブル期以来の大きさに、そして「物価の動向」が40年ぶりの大きさとなったことが特徴的である(第1-2-10図(5))。

このうち物価面については、消費者物価上昇率(コア)は2%台(2023年12月時点で+2.3%)にある。また、政府や日本銀行による2024年度の見通しは、2%台半ばが想定されており22、後述するように、企業の1年後の予想物価上昇率も2%程度に収れんしつつある。こうした中、企業業績は、経常利益や営業利益、あるいは売上高利益率でみるといずれも過去最高水準にあること等23から、力強い賃上げの継続に向けた環境は良好であるといえる。さらに、人手不足面については、本章第1節でみたように、企業の人手不足感はバブル期以来の高さとなり、人口減少が進行する中で強まり続けている。現下の環境にあっては、企業は人手不足への対応のために、雇用者の賃金引上げを積極的に用いるようになっており、労働需給面では、賃金が上昇しやすい環境にある(第1-2-10図(6))。一方で、限られた人手でより高い付加価値を生み出すための省力化投資への取組は依然として限定的である(第1-2-10図(7))。こうした省力化投資をはじめ、政策的な後押しを着実に進めることにより、有形・無形資産への国内投資の拡大を通じて、労働生産性の継続的な引上げを図り物価上昇に負けない持続的な賃上げを実現していくことが重要である。

第1-2-10図 賃金と物価をめぐる状況
第1-2-10図 賃金と物価をめぐる状況 のグラフ

(企業の価格転嫁はアメリカに比べれば遅いものの、価格上昇はサービスにも広がり)

次に、企業の価格転嫁の動きについて確認する。まず、今回の物価上昇局面は輸入物価の上昇を起点としたものであったことから、生産過程における川上から川下、更に最終需要といった各段階で投入される財やサービスについて、段階別の物価動向を、最終需要・中間需要物価指数(FD-ID指数)により確認する24

日本のFD-ID指数をみると(第1-2-11図(1))、資源の少ない我が国においては、輸入物価上昇の影響を受けて2021年以降、原油などの素原材料が含まれる中間需要ステージ1の物価が大幅に上昇している。しかし、その後のステージ2からステージ4にかけての物価上昇は川上から川下への転嫁が徐々に進む形で現れ、段階ごとに上昇率がおおむね半減していくような姿となっている。

比較のため、アメリカにおけるFD-ID指数をみてみると、中間需要ステージ1の物価上昇は日本と比べて低く抑えられている中で、中間需要ステージ2やステージ3の物価はステージ1とほぼ同時に、かつ、時期によってはステージ1以上の上昇率を示している。また、中間需要ステージ4から最終需要にかけては上昇率が相対的に低くなるものの、日本と比べると、川上における物価上昇はかなりの程度が最終的に需要される財・サービスにまで価格転嫁されている。このように、アメリカに比べ、我が国においては、川上から川下にかけての転嫁が強くないといえる。

日米における価格転嫁の速度の違いを捉えるために、中間需要ステージ1の物価と最終需要の物価の時差相関係数をみると(第1-2-11図(2))、アメリカでは、当月の最終需要の物価と中間需要ステージ1の物価との相関は、2か月のリード(ステージ1が最終需要に2か月先行)で最も高くなり、1か月前や当月のステージ1との相関も相応に高くなっているのに対し、我が国では、7か月前のステージ1の物価との相関が最も高くなっており、当月に近接する月のステージ1の物価との相関は低い。このように、日米で比べると、日本は価格転嫁の程度が弱いとともに、転嫁の進む速度についても遅いことが分かる。

そうした中、徐々にではあるが、我が国でも2023年以降、川上の物価上昇が落ち着いてきている中、最終需要における内訳をみると、価格転嫁に広がりがみられるようになっている(第1-2-11図(3))。すなわち、最終需要における物価上昇は、当初は、資源価格上昇によるエネルギー価格の上昇や、その他財の輸入物価にけん引されて始まり、それらが食料品に転嫁されることでプラス幅を拡大させてきたが、2022年の秋以降は、輸入財やエネルギー価格の上昇が落ち着き、財物価の上昇幅が縮小傾向にある一方で、サービス物価の上昇寄与が拡大してきている。内訳をみると、企業向けサービス価格でもみたように(前掲第1-2-2図(4))、宿泊やソフトウェア関連サービスなどの寄与が大きくなっているが、宿泊についてはコロナ禍からの経済社会活動の正常化により需要が回復する下で上昇している側面と、人手不足に直面する下で賃金が上昇し、それが転嫁されている側面の両方があると考えられる。また、ソフトウェア関連サービスについても、デジタル化の需要増により上昇している側面と、賃金上昇の転嫁による側面が両方あると考えられる。

第1-2-11図 企業の価格転嫁の動向
第1-2-11図 企業の価格転嫁の動向 のグラフ

(今回物価上昇局面では過去と比べ、企業による仕入価格の販売価格への転嫁が進展)

次に、企業の価格転嫁の状況について、過去の物価上昇局面と比べた変化が起きているかどうかを確認する。まず、労務費以外の仕入価格の販売価格への価格転嫁の実態を、日本銀行「短観」における企業の価格判断をみると(第1-2-12図(1))、2021年に入り、仕入価格の上昇に直面する企業の割合が大幅に上昇する中で、企業は徐々に販売価格の引上げを行っていた。販売価格を上昇させた企業の割合は、バブル期の1990年10-12月期や、世界金融危機(リーマンショック)以前の2008年4-6月期及び7-9月期の19%を大幅に上回る35%程度に達している。販売価格を下落させた企業の割合も過去最低水準となり、加えて、仕入価格上昇の割合も頭打ちから下落に転じた。

こうした価格転嫁状況について、現在と同様、原油価格の高騰に起因する物価上昇がみられた、2008年の世界金融危機が起きる前の時期と比較すると、当時も仕入価格が大幅に上昇する中で、一部の企業は価格転嫁を行い、販売価格を引き上げていたものの、その割合は最大で19%と限定的だった。むしろ、販売価格の引下げを継続していた企業も15%程度と少なくなく、現在の方が企業の価格転嫁のスタンスがより積極的になっている。

また、2008年頃ほどではないが仕入価格が上昇していた1990年頃と比べると、この時期も販売価格の上昇割合が大きく高まった一方、販売価格下落の割合は低水準となっており、比較的広範に価格転嫁が行われていたことが分かる。現在の方が、仕入価格上昇の割合が大きい分、販売価格上昇の割合も当時と比べて大きくなっているものの、企業が仕入価格上昇に対して価格転嫁で対応している点では、日本経済がデフレに入る前の時期に近づいてきている可能性がみてとれる。

販売価格DIと仕入価格DI(販売価格又は仕入価格が上昇した企業の割合から下落した企業の割合を差し引いたDI)の推移を業種別にみると、まず、素材型製造業では、2008年のリーマンショック前に仕入価格が大きく上昇した時は、販売価格の上昇は限定的であったが、今回の物価上昇局面では、仕入価格が2008年並みに上昇する中、販売価格への転嫁が進んだ(第1-2-12図(2))。次に、加工型製造業や非製造業では、この30年間、販売価格引上げ企業の割合が十分高まらなかったが、今回は販売価格への転嫁が進展している(第1-2-12図(3)、(4))。なお、非製造業では、1980年代~90年代初めは仕入価格と販売価格の動向の連動性が高かったことが分かる。

以上の点について、販売価格DIを仕入価格DIに対して回帰して得られるパラメータを「価格転嫁性向」として、①日本経済がデフレ状況に陥る前の1984~1994年、②デフレ状況に陥り脱却ができなかった2001~2012年、③アベノミクスが始まってからコロナ禍に入るまでの2013~2019年、④今回の物価上昇局面である2020年以降に分けてみると、大企業・中小企業、製造業・非製造業を問わず、価格転嫁性向は、①の期間には高く、②③の期間では低下し、今回の④の期間では、総じて、デフレに陥る前の①の水準に近づきつつあることが分かる(第1-2-12図(5))。このように、中間投入の販売価格への転嫁力は、今回の物価上昇局面で、デフレに陥る以前の状態に回復しつつあることを示している。

第1-2-12図 企業の価格転嫁の状況の過去との比較
第1-2-12図 企業の価格転嫁の状況の過去との比較 のグラフ

(一方で、人件費の価格転嫁は、サービス部門を中心にいまだ途上にある)

さらに、人件費の転嫁状況を確認する。人件費の割合が高いサービス分野で、賃金上昇が価格に転嫁され、賃金と物価が共に持続的に上昇していくことが重要であることから、まずサービス部門における物価と賃金の関係について、我が国とアメリカを比較すると(第1-2-13図(1))、我が国のサービス部門では賃金と物価は上昇しつつあるものの、その伸びは緩やかなものにとどまっているのに対し、アメリカでは賃金が着実に増加する中でサービス物価も上昇していることが分かる。

次に、我が国のサービス物価について、公定価格で決まる診療代や介護代などを除いた上で、「平成27年産業連関表」を基に、人件費比率が上位25%の品目、下位25%の品目に分け、2022年初以降の物価の前年比上昇率をみたところ(第1-2-13図(2))、人件費比率が低い品目の方が、人件費比率が高い品目より、物価上昇が顕著にみられている25。ただし、人件費比率の低い品目の上昇分には、経済社会活動の再開等により、大幅に価格が上昇している宿泊料の影響がかなりの部分を占めている点には留意が必要である。他方で、人件費比率が高い品目についても、徐々に物価上昇率が高まってきている。これは、講習料、補習教育、自動車整備費、自動車オイル交換料、運送料などの上昇が寄与しており、自動車整備費など人件費以外の要因で上昇しているものもある一方、講習料や補習教育など人件費上昇の転嫁が起きている可能性がある品目もみられる。

次に、中小企業における発注企業との間の価格交渉について、原材料費と労務費で転嫁の動向に違いがあるかどうかをみてみると(第1-2-13図(3))、2023年9月時点で、原材料費については、業種ごとのコストに占める原材料費の割合が高いほど、原材料費から販売価格への転嫁率も高くなっており、比較的転嫁がしやすくなっていることがみてとれる。しかし、労務費については、コストに占める割合と販売価格への転嫁率の関係性が弱く、原材料費と比べて転嫁が進みにくい状況にあることがわかる。また、労務費の割合が相対的に高い業種においては、価格交渉自体は行われたにも関わらず、全く転嫁できなかった企業の割合が多い傾向もみてとれる。内閣官房・公正取引委員会「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」(2023年11月29日公表)によれば、労務費は、受注者側からすると、コストの中でも特に価格転嫁を言い出しにくく、そうした状況を改善するため、同指針では発注者側に、①経営トップの関与、②発注者側からの定期的な協議の実施、③受注者側に説明・資料を求める場合は最低賃金の上昇率や春闘労使交渉の妥結額・上昇率など公表資料とすること26、を求めている。こうした取組も通じ、持続的な賃金上昇に向け、受発注者間の価格交渉の環境改善が進むことが望まれる。

第1-2-13図 賃金コストと消費者物価
第1-2-13図 賃金コストと消費者物価 のグラフ

(物価上昇の広がりはサービス分野にも徐々にみられる)

次に、物価上昇の広がりについて概観する。ここでは、日本経済がデフレ状況に陥る前の1980年代初頭から1990年代半ば頃までを「デフレ前」という比較対象とし、その後、結果的にデフレ脱却には至らなかったものの、消費者物価の上昇がみられた局面として、本節冒頭で示した三つの期間(①2007年秋頃から、世界金融危機が起こるまでの2008年終わり頃までの期間、②アベノミクスの「三本の矢」の取組が始まった後の2013年夏頃から、原油価格が大幅に下落する2015年の初め頃までの期間、③2017年初め頃から、コロナ禍が発生する2020年初め頃までの期間、そして④今回の物価上昇局面との比較を行う。

消費者物価の上昇率を比較すると、調査品目は財・サービスとも現在とは異なっていることに留意が必要であるが、デフレ前の時期における物価上昇は、食料品などの財だけでなく、サービス価格の上昇による寄与が大きかったことが確認できる(第1-2-14図(1))。例えば、プラザ合意前の1984年の物価上昇への寄与をみると、現在では上昇寄与が非常に小さい家賃や公共サービスの寄与が相応に大きかったことに加え、それ以外のサービスの寄与も比較的大きかったことが特徴的である(第1-2-14図(2))。これに対し、2000年代に入ってからの過去三回の物価上昇局面(①~③)においては、原油価格の上昇による石油製品価格や電気・ガス代の上昇や、これらコスト増を受けた食料品価格の上昇がほとんどである。サービス物価の上昇は限定的で、ほとんどが国際商品市況の上昇を背景とした輸入物価の上昇と、それを反映した国内財物価の上昇にとどまっていたといえる。

一方、今回の物価上昇局面においては、当初(2022年)は①~③と同様、エネルギー価格や食料品価格の上昇が主要因となって始まったものの、足下(2023年)では、資源価格の落ち着きや激変緩和措置の影響もあって、エネルギー価格が下落に転じる中で、食料品の寄与は引き続き大きいとはいえ、①~③の局面と比べると、外食やその他のサービスの価格上昇が顕著に表れている。その他のサービスの上昇には、コロナ禍からの経済社会活動の正常化に伴う宿泊料の上昇も含まれていることには留意が必要であるが、前節でもみたように宿泊料を除いたベースでみてもサービス物価は上昇してきている(前掲第1-2-4図(3))。こうした流れが進み、賃金と物価の好循環がサービス分野で持続的に起きていくことが重要である。

また、物価上昇の広がりを品目の割合でみると、上昇している品目の割合が8割を超えており、上昇品目の割合から下落品目の割合を引いたDIも70%と、2006年以降の物価上昇局面と比較してそれぞれ最高値となっている。また、1984年と比較しても、上昇品目の割合やDIは近しい姿となっており、デフレ前に近い広がりが生まれてきている(第1-2-14図(3))。

こうした物価上昇の広がりは、品目別の前年比上昇率の分布からも確認できる(第1-2-14図(4))。また、財・サービスを併せた全体をみると、2018年には物価上昇率がゼロのところに高い山が位置していたものが、2023年12月は大きく低下している。財についてみると、1984年も山はゼロのところにあり、むしろ現在の方が広がりがある姿となっているが、この要因として、1984年はウエイトの大きい電力などエネルギーや新聞といった品目の価格がこの年に変動しなかったことが挙げられ、特に規制料金である電力については1996年の燃料費調整制度の導入前であったことが影響していた可能性がある。一方、サービスについてみると、2023年12月は、上昇率ゼロの山の高さは低下しているが、2018年と同様に山が上昇率ゼロに位置している一方、デフレ前の1984年は山がプラスの領域(+2%)に位置していた。現在の状況は、サービス価格上昇の広がりが生まれてきていると評価できる一方、デフレ前と同様の状況にまでには達していないことがわかる。後述するように、米欧におけるコロナ禍前の2018年の分布をみると、財の分布は上昇率ゼロのところに山があり、サービスの分布はプラス領域に山があるという点で共通しており、安定的な物価上昇のためにサービス価格上昇の広がりが重要であることがうかがえる。

最後に、小売物価統計から計測される前月からの価格改定頻度を推計すると、財・サービス共に、特売などの「一時価格」に加えて、定価に代表される「正規価格」の改定頻度も上昇している(第1-2-14図(5))。特に、サービスの正規価格の改定頻度については、過去期間について先行研究(倉知他(2016))の推計を用いて比較すると、1990年前半頃には6%を超えていた一方、デフレ状況に入っていくとともに低下していったが、現在は、1990年前半当時に近い水準になっており、こうした点からもサービス物価の上昇に広がりが生まれつつあることがわかる。

第1-2-14図 消費者物価の長期的な動向
第1-2-14図 消費者物価の長期的な動向 のグラフ

(コロナ禍前の先進各国は、サービス物価の安定的な上昇の下で安定的に物価が上昇)

物価上昇の広がりという点について、米欧の状況も確認してみよう。まず、コロナ禍前の時期における消費者物価上昇率をみると(第1-2-15図(1))、2017-18年の平均で、アメリカや英国は+2%強、ドイツは+2%弱、そして日本は+1%弱と、米欧についてはそれぞれ物価上昇率の目標に近い水準となっている27

内訳をみると、アメリカについては、家賃を含む住居費の寄与が半分程度と大きく、次いで、その他サービスの寄与が3割弱となっている。このように、家賃とその他サービスを合わせると物価上昇の大宗がサービス価格の上昇で生じていたことがわかる。英国とドイツについては、家賃とその他サービスを合わせた寄与がそれぞれ半分以上、4割強を占めている28。コロナ禍前の米欧では、サービス物価の安定的な上昇が続く下で、予想物価上昇率についても、それぞれの目標におおむね近い水準でアンカーされていた(第1-2-15図(2))。

コロナ禍前の2018年における品目別の前年比上昇率の分布という観点からみると、財について上昇率ゼロに分布の山がある点は日米欧とも変わらない一方、サービスについては、アメリカは4%29、ユーロ圏は1~2%程度に山が位置しており、マイナス圏にはほとんど分布がみられないことから、米欧では幅広いサービス品目で物価上昇がみられる姿となっている(第1-2-15図(3))。また、上述したように、日本についても、2023年末時点では、そうした姿に徐々に近づきつつある。

このように、コロナ禍前における米欧では、財は、世界的な低インフレ傾向の中で、消費者物価の上昇にさほど大きな寄与をしていたわけではなく、むしろサービスの物価上昇の寄与が大きかった。我が国のデフレ脱却を展望する上でも、財物価は輸入物価の動向に影響を受けやすいことを踏まえると、サービス分野を中心に、幅広い品目にわたって、賃金の継続的な引上げが適切に価格に転嫁されることが安定的な物価上昇の実現のために重要であるといえる。

第1-2-15図 日米欧の消費者物価上昇率
第1-2-15図 日米欧の消費者物価上昇率 のグラフ

(予想物価上昇率はレベルシフト)

企業や家計の予想物価上昇率にも変化が生まれている。まず、日銀短観における企業の物価見通しをみると、統計上、遡及可能な期間は2014年までであるが、2021年以前は、1年後、3年後、5年後の予想物価上昇率のいずれも2%以上となったことはなく、アベノミクス後の物価上昇局面である2014~2015年においても1.5%程度で頭打ちとなっていた。これに対し、今回の物価上昇局面では、1年後の短期的な物価見通しは一時+3%近くまで上昇し、2023年12月調査でも+2.4%と比較的高い水準にあり、さらに、3年後、5年後といった中期の見通しについては、2%程度で安定化しつつあり、明確なレベルシフトが生じている(第1-2-16図(1))。今回局面では、企業の予想物価上昇率は、「物価は動かない」という過去のノルムからは脱しつつある可能性がみてとれる。

この物価見通しは、各企業に対し、それぞれの時点(1年後、3年後、5年後)における物価全般の「前年比」の予測を尋ねているのに対し、日銀短観においては、各社の主要製商品・サービスの価格について「現在との比較」での予測を尋ねる「販売価格の見通し」も調査されている。その推移をみると(第1-2-16図(2))、1年後が最も低く、5年後が最も高くなるが、これは現在と比較して1年後、3年後、5年後と徐々に販売価格の水準が引き上がると企業が予測しているためである。しかし、この販売価格の水準変化を、1年当たりの平均上昇率に引き直した上で物価全般の予測と比較してみると(第1-2-16図(3)、(4))、3年後や5年後の販売価格の平均上昇率が1%前後と、物価全般よりも低く予測されている。一方、1年後の販売価格の上昇率は、一時+3%を超えていたなど2022年以降は物価全般の予測よりも高くなっている。こうした企業の物価全般の予想と自社の販売価格の見通しとの関係については、各企業が、短期的には、現実の高い物価上昇もあり強めの販売価格引上げを見込んでいるものの、中期的には、販売価格の見通しや価格設定戦略にまだデフレ的なマインドが残っていることを示している可能性もある30。今後、企業において、販売価格の上昇率の見通しも引き上げられていくかどうか、確認していくことも重要と考えられる。

次に、家計の予想物価上昇率をみると、日ごろよく購入する品目の物価に係る1年後の上昇予想は、今般の物価上昇局面で、5%以上の高い物価上昇を予想する家計の割合が増加していたが、食料品等の値上げが一服する中で、2023年末にかけてはその割合が減少し、より安定的な5%未満の物価上昇を予想する割合が高まった結果、両者の大小関係は2022年2月以来初めて逆転している(第1-2-16図(5))。一定の仮定を置き、予想物価上昇率の加重平均値をとると、今回の物価上昇局面において、2023年初には、比較可能な2004年以降で最高の4%超となった後、実際の食料品等の値上げの動きが一服したこともあり、2023年末には3%台半ばまで低下し、より安定的な水準に落ち着きつつある(第1-2-16図(6))。それでも、5%以上を予想する世帯の割合は依然高く、直接比較はできないものの、安定的な物価上昇が実現していた1980年代~1990年代前半は、「高くなる」と答える割合が比較的抑制される一方、「やや高くなる」と答える割合が多くを占めていたことを踏まえると、その当時に比べると家計の予想物価上昇率は切り上がった状態にあると推測できる。家計の予想物価上昇率は実際の物価上昇率から上振れる傾向があることも踏まえつつ、今後は、賃金と物価が共に安定的に上昇するという環境が実現していく中で、物価上昇予想世帯割合としては5%未満を予想する割合が相対的に増加し、加重平均値としては、2%~3%程度の安定的な水準が継続するようになるかが重要といえる。

第1-2-16図 企業と家計の物価上昇予想
第1-2-16図 企業と家計の物価上昇予想 のグラフ

(デフレ脱却に向けて、これまでとは異なる前向きな動き)

以上、デフレ脱却に向けた進捗を評価する観点で、物価の基調として、消費者物価上昇率をはじめ様々な物価指数の動向を確認するとともに、物価動向の背景として、可能な限り、我が国経済がデフレに陥る前の1980年代の状況とも比較する形で、GDPギャップやULCに限らず、賃金上昇の持続性、人件費を含む企業の価格転嫁の動向、人件費比率が高く、粘着的なサービス分野を含む物価上昇の広がり、さらには企業や家計の予想物価上昇率のレベルシフト・安定化といった様々な指標の状況をみてきた。30年ぶりの賃上げ率、リーマンショック前の物価上昇局面とは明らかに異なる価格転嫁への企業の積極性、1980年代の姿に近づく物価上昇の広がり、予想物価上昇率のレベルシフトなど、いずれの側面においても、デフレ脱却に向けて、これまでとは異なる前向きな動きが出てきているといえる。

一方で、名目賃金の上昇は物価上昇を下回っており、日本経済がデフレに陥る前、あるいは諸外国でみられる、名目賃金上昇率が物価上昇率を上回る状態の実現は道半ばである。物価上昇に負けない名目賃金の引上げが実現し、家計の購買力が改善する中で、サービス分野を中心に人件費が適切に企業の販売価格に転嫁され、売上増加につながり、これがさらなる賃上げや設備投資の原資となることで、賃金と物価の好循環が実現する。そして、こうした状態がノルムとして定着し、家計や企業の予想物価上昇率と実際の物価上昇率が安定的に推移していく、という状態が実現することが重要である。引き続き、賃金上昇を中心に、様々な角度から総合的に経済・物価動向を確認し、デフレに後戻りする見込みがないかどうかの判断を行っていく必要がある。

コラム1-3 食料品・日用品の物価変動における需要要因・供給要因

ここでは、物価変動の背景として、需要要因・供給要因のどちらが大きいのかという点をみる観点から、詳細な品目別に価格データと売上データがセットで得られる食料品・日用品のPOSデータを利用した分析を行う(要因分解の詳細は小寺他(2018)を参照)。

経済学で一般的に想定される右下がりの需要曲線と右上がりの供給曲線を考えると、正の需要ショックがあった場合、需要曲線が右にシフトし、販売数量の増加と価格の上昇が同時に起きる。負の需要ショックがあった場合は、その逆に販売数量の減少と価格の低下が同時に起きる。一方、正の供給ショックがあった場合には供給曲線が右にシフトし、販売数量の増加と価格の下落が同時に起き、負の供給ショックがあった場合にはその逆に販売数量の低下と価格の上昇が同時に起きる。

この考え方を踏まえ、品目別に、毎月の販売数量と価格の変化を分類し、「販売数量の増加と価格の上昇」の組合せか、「販売数量の減少と価格の低下」の組合せのどちらかが起きていれば需要曲線のシフト、それ以外のもう二つの組合せであれば供給要因による価格変化とみなすことにする。

このように、数量と価格の変化から食料品・日用品の価格上昇について需要要因と供給要因を識別すると、2022年以降における価格の変化は供給要因の方が大きかったことが分かる(コラム1-3図)。特に、エネルギーや原材料の価格上昇など、コスト・プッシュによる負の供給ショックを反映していると考える「価格上昇・数量減少」の部分は、2021年中頃の20%前後の水準と比べると、2022年末には40%を超えており、大きく上昇している。また、前年比寄与度の前月差でみても、供給要因の方が全体の価格上昇をけん引している。

他方、需要要因については、2021年中頃と比べ、負の需要ショック(需要減)に相当する「価格低下・数量減少」の割合は着実に低下してきているものの、正の需要ショック(需要増)に相当する「価格上昇・数量増加」の割合の上昇は限定的である。前年比寄与度の前月差でみても、経済社会活動の正常化が進み、消費が緩やかに持ち直していた2022年後半にかけて需要要因の寄与が拡大しているものの31、その後は再び寄与が縮小し、力強さに欠けていた。また、2023年9月以降は、昨年の急速な上昇からの反動や、食料品値上げの一服もあり、前年比前月差は供給要因を中心にマイナスに転じている。

POSデータによる需給要因の分析は対象が食料品・日用品に限定されることから、マクロ全体の分析に適するものではないが、物価動向の背景の一端を把握するためには有効なツールの一つであり、定期的に注視していくことが重要である。

コラム1-3図 食料品・日用品の物価変動における需要要因・供給要因
コラム1-3図 食料品・日用品の物価変動における需要要因・供給要因 のグラフ

1 内閣府の参議院予算委員会提出資料「デフレ脱却の定義と判断について」(2006年3月)において、次のとおりデフレ脱却の定義を示している。
○「デフレ脱却」とは、「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」
○その実際の判断に当たっては、足元の物価の状況に加えて、再び後戻りしないという状況を把握するためにも、消費者物価やGDPデフレーター等の物価の基調や背景(注)を総合的に考慮し慎重に判断する必要がある。
(注)例えば、需給ギャップやユニット・レーバー・コスト(単位当たりの労働費用)といったマクロ的な物価変動要因
○したがって、ある指標が一定の基準を満たせばデフレを脱却したといった一義的な基準をお示しすることは難しく、慎重な検討を必要とする。
○デフレ脱却を政府部内で判断する場合には、経済財政政策や経済分析を担当する内閣府が関係省庁とも認識を共有した上で、政府として判断することとなる。
2 原油価格については、2023年7月以降、産油国の減産に伴い再び上昇基調に転じ、更に、同年10月には中東地域をめぐる情勢もあり、不安定な動きとなったが、アメリカにおけるガソリン需給が緩んだこともあり、本稿執筆時点(2024年1月)では、ウクライナ侵略前より低い水準で推移している。
3 なお、為替以外の要因は、2022年7月のピーク時点でみると、鉱物性燃料である石油・石炭・天然ガスの価格上昇がほとんどを占めているが、2021年から2022年前半にかけての時期は、鉄鉱石や銅などの影響を受ける金属・同製品の価格上昇なども輸入物価の上昇に一定の寄与をしている。
4 電気料金は、燃料費調整制度により四半期ごとに、2四半期前の貿易統計における各燃料(原油、石炭、LNG)の輸入価格の平均値(3か月分)に基づき自動的に調整される。例えば、1~3月の燃料価格を反映して同年7~9月の電気料金が決定される。
5 輸入物価と国内企業物価は、指数の水準でみると、2020年平均との比較で、国内企業物価は+2割程度、輸入物価は+6割程度となっている。
6 ここでは、激変緩和措置等の政策要因の影響のみをみる観点から、2021年4月等の携帯電話通信料の引下げについては、政策要因に含めていない。(4)、(5)も同様。
7 燃料油価格激変緩和事業は、2022年1月27日から開始されているが、消費者物価における燃料油価格の調査時点が毎月中旬のため、消費者物価指数への押下げ効果が表れるのは翌月からとなっている。
8 電気・ガス価格激変緩和対策事業は、2023年1月の電気・ガス使用分から適用されているが、消費者物価指数への反映は、検針時点から反映されるため、2023年2月からとなっている。その後の制度の変更についても消費者物価指数への反映は、制度適用月の翌月となっている。
9 全国旅行支援は、2023年末までに終了した。なお、2023年8月時点で消費者物価の前年比への押下げ寄与がほぼゼロとなった。
10 ただし、2013年頃の輸入物価の上昇局面と比べると、当時は2013年央に輸入物価の上昇幅が縮小を始め、2015年初から下落に転じているが、その際と比べて、財の消費者物価の上昇幅の縮小は幾分緩やかなものとなっている。これは、40年ぶりという物価上昇に直面する中で、企業が価格設定行動を変容させている可能性がある。
11 割安の代替品が購入された場合、消費者物価では当該銘柄が価格調査の対象に指定されておらず価格指数にその価格情報が取り込まれない可能性がある。一方、対象家計の購入銘柄を基に作成される家計調査においては当該銘柄の価格も含まれた形で購入単価が算出されるため、家計調査の購入単価が消費者物価の価格指数を下回る。
12 2001年3月の月例経済報告において、本文ではないが、「今月のトピック」において「『持続的な物価下落』をデフレと定義すると、現在、日本経済は緩やかなデフレにある」と記載しており、翌月の2001年4月の月例経済報告において、本文中(各論の物価判断)で「持続的な物価下落という意味において、緩やかなデフレにある」と記載している。
13 1998年7月からコアの前年比のマイナス傾向は始まっており1999年5~9月のゼロ%を挟み、1999年10月からマイナスが継続することとなった。
14 この時期の消費者物価上昇率には、2019年10月からの消費税率引上げ及び幼児教育・保育無償化の影響、2020年7月事業開始のGo Toトラベル事業の影響(同年12月停止)、2021年4月からの通信料(携帯電話)下落の影響が含まれていることに留意が必要であるが、これらの要因の影響を受けない2021年1月のコア前年比は-0.7%と、エネルギー価格の下落を反映して比較的大きなマイナス幅となっていた。
15 厳密には、物価上昇率がGDPデフレーターの場合の議論であり、GDPデフレーターと消費者物価上昇率の概念・カバレッジ・計測方法の違いも影響している。
16 ただし、「毎月勤労統計調査」の一般労働者所定内給与の上昇率については、事業所における前年からの労働者構成比の変化(賃金水準が相対的に高い高齢の雇用者の退職と、賃金水準が相対的に低い若年の雇用者の採用など)の影響を含む。
17 ①について、厚生労働省「賃金引上げ等の実態に関する調査」(公務、農林水産業等を除く常用雇用者100人以上の民営企業を対象)では、ベースアップ分の把握はできないものの、定期昇給分を含む2023年の賃上げ率をみると、賃下げ企業分を含む平均賃上げ率で+3.2%、賃上げ企業分のみの平均賃上げ率で+3.4%となっており、賃下げ企業の影響は幾分存在する(第1-2-8図(5))。
18 2023年5月の一般労働者の特別給与は、前年同月比+37.1%(15,549円→21,316円)と大幅に増加しているが、これは、2023年度の賃上げのうち、4月分が、同月の所定内給与ではなく、5月の特別給与として遅れて支給された可能性がある。
19 ここでは消費者物価の総合で実質化。
20 イタリアについては、労働生産性が低下する中で、名目賃金は物価上昇見合いの上昇にとどまっている。
21 バブル崩壊後は、物価と労働生産性が共に伸び悩む中で、名目賃金も横ばいとなった後、1997年前半頃にかけては、労働生産性の回復とともに名目賃金の緩やかな増加傾向もみられた。
22 政府経済見通し(「令和6年度の経済見通しと経済財政運営の基本的態度」(令和6年1月26日閣議決定))においては、2024年度の消費者物価上昇率(総合)の見通しは+2.5%となっている。また、日本銀行の展望レポート(「経済・物価情勢の展望(2024年1月)」)においては、2024年度の消費者物価上昇率(コア)についての政策委員見通しの中央値は+2.4%となっている。
23 2022年には、輸入物価の上昇から交易条件が悪化し、企業が賃金を上げにくい環境につながっていた可能性があるが、2023年に入って以降は、輸入物価の落ち着きにより、交易条件の面でも環境は良好であるといえる。
24 最も川上に位置する中間需要のステージ1には、財では原油などの素原材料のほか、素原材料を直接の投入要素とする石油製品や粗鋼、また、サービスでは労働者派遣サービスが含まれる。ステージ2には、財ではステージ1の石油製品や粗鋼を加工して製造されるプラスチック製品や鋼材、また、サービスでは、広告や道路貨物輸送、インターネット附随サービスなどが含まれる。ステージ3には、財ではプラスチック製品や鋼材を用いて生産される自動車部品のほか、集積回路、液晶パネルなど、また、サービスでは航空輸送や機械器具卸売などが含まれる。ステージ4には、清涼飲料、乗用車、工作機械、パソコンのほか、個人向けの比率が高い宿泊サービスなどが含まれている。
25 日本銀行(2023)は、物価上昇から賃金上昇への流れについては、日本経済がデフレ状況に陥る前の状態に回復しつつある一方で、賃金上昇から物価上昇という流れについてはいまだ戻っていないと分析している。その証左の一つとして、人件費比率の占める割合が高い品目と低い品目に分けると、今回の物価上昇局面においては、輸入比率の高い品目が低い品目より、人件費比率が低い品目が高い品目より、それぞれ物価上昇が顕著である点を指摘している。
26 同指針においては、「発注者が過度に詳細な理由の説明や根拠資料を求めたり、受注者が明らかにしたくない内部情報に係るものの説明や根拠資料の提出を求めたりした結果、受注者が転嫁の要請を断念したなどの事例がみられた」としている。
27 アメリカにおいては、FRBは、物価の安定化について、PCEデフレーターの前年比が2%で推移することが最も望ましいとしている(FOMC statement of longer-run goals and policy strategy)。英国においては、消費者物価指数(総合)の前年比を目標値である2%を中心に上下1%の範囲に収める必要がある。また、2016~17年当時のユーロ圏においては、ECBは、消費者物価指数(HICP:Harmonized Index of Consumer Prices)の前年比が中期的に2%を下回り、かつ2%近傍に維持することを目指していた(2021年7月以降は2%が目標となっている)。
28 なお、ドイツを含むユーロ圏全体でみると、持家の帰属家賃が含まれておらず単純に比較できないことに注意が必要であるが、その他サービスの寄与が4割弱と最も大きくなっている。
29 アメリカのサービス物価における上昇率4%の山は、ウエイトの高い家賃の上昇が影響している。
30 可能性としては、仕入価格の上昇に対して販売価格を転嫁できるかという点で弱気の見通しを持っている場合や、自社の販売価格を物価全般に対して低めに抑えて売上を維持しようしている場合などが考え得る。他方で、上述したように、そもそも企業に対する質問の仕方が異なっている(物価全般の見通しは年当たり上昇率を尋ねているのに対し、販売価格の見通しは水準感を質問しているに近い)ことから、両者が不整合となっている可能性もある。
31 需要要因の寄与は2022年9~11月にかけて拡大しているが、9月の需要要因の拡大は、10月に多くの品目での値上げが予定され、それが報道等でも予め注目されていたことから、駆け込み需要が生じていた可能性も考えられる。また、10~11月についても、10月の値上げ対象が飲料など食料品中心であったことから、価格上昇の中でも必需品として需要が底堅かった可能性も考えられる。
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