第1節 物価動向を巡る論点

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最近の物価の基調を見ると、国内企業物価はおおむね横ばいで推移する一方、消費者物価は振れの大きい生鮮食品や石油製品などを除くベースで前月比-0.1~-0.2%の緩やかな下落が続いている。また、名目GDP成長率が実質成長率を下回る名実逆転の状態が続いている。さらに、リーマンショック後の急速な景気後退により需給ギャップが大幅なマイナスとなっており、継続的な物価下落圧力が生じている。こうしたことなどから、持続的な物価下落という意味において、我が国経済は現在、緩やかなデフレ状況にあると判断される。本節では、2001年頃のデフレ期と比較した現在の物価動向の特徴、国際的に見た日本の物価動向の特徴、さらに、デフレの弊害について議論する。

1 2001年頃との対比で見た最近の物価動向

最近の物価動向について、前回「緩やかなデフレ」にあると判断した2001年春頃と対比しつつ、その特徴を明らかにしよう。結論を先取りすれば、次の3つが主な特徴といえる。第一は、原油価格等の輸入物価が高騰した後の反動減という要素が強かったことである。第二に、需給ギャップのマイナス幅が2001年頃よりも大きいことである。第三に、景気局面としては、2001年が後退局面であったのに対し、今回は持ち直し局面であり、その違いが期待物価上昇率の変化にも現れていることである。

(原油価格高騰の反動減という要素が強い)

まず、消費者物価指数(生鮮食品除く総合(コア))の前年比を比べよう。2001年頃は-1%程度の下落であったが、2009年は年内の動きが激しく、7-9月期には-2%を超える大幅な下落となっている。このような違いが生じた要因を含め、主要品目別の寄与度によって前回と今回の物価変動の内訳を比べてみよう(第3-1-1図)。

第一に、今回は石油製品のマイナス寄与が大きく、7-9月期の下落幅の3分の2はこれで説明できる。さらに、電力料金等を含む公共料金などのマイナス寄与を含めると、大部分が原油価格の下落を反映した動きであるといえる。いいかえれば、2009年の下落は、2008年における原油価格等の高騰の反動という面が大きい。2000~2001年にも石油製品の上昇寄与が見られたが、2008年とは比較にならないほど緩やかであった。

第二に、その他の品目でも、今回は前年の一時的な上昇の反動減と考えられるものが多いのに対し、2001年当時は前年に引き続き下落が続いた品目があった。すなわち、今回は個人サービス価格の下落や外食価格の鈍化が見られるが、これらは前年の原油や穀物価格の上昇の影響を受けた航空運賃や食料品価格の上昇の反動の側面が大きいと考えられる。一方、前回はその他工業製品や一般食料工業製品が基調的に弱くなっていた。

第三に、今後、前年比でのマイナス寄与が予想されるものに、一般食料工業製品がある。2008年には、小麦、大豆などの穀物価格を中心に輸入食品価格が高騰し、これが石油製品と並んで大きく物価を押し上げた。しかし、穀物価格は原油に先行して下落に転じており、その影響が一般食料工業製品の前年比寄与度の縮小という形で緩やかに現れてきている。

こうした輸入物価の下落の影響は一時的であるため、国内需給の緩和による消費者物価の下落とは区別して考える必要がある。「生鮮食品を除く総合」(コア)に加え、内閣府では、「生鮮食品、石油製品、その他特殊要因を除く消費者物価」(コアコア)を試算している。これを見ると、前年比では5月以降、前月比では4月以降、緩やかながら下落が続いている。最近のように輸入食料価格の変動が大きい場合はコアコア指数もその影響を受けやすく、コア指数と同様に、個人サービスや一般食料工業製品の下落が続いている。しかしながら、直近、例えば2009年7-9月期の特徴としては、これら品目に加え、日用品などが多く含まれる「その他工業製品」の下落幅が拡大していることが挙げられる。

また、ホームメイドインフレ(デフレ)の指標となるGDPデフレーター(生産量1単位当たりの付加価値(雇用者報酬、利潤等)を表す)の動きも併せて見ておく必要がある。2001年前後のGDPデフレーターは前年比マイナスであったが、2008年10-12月期、2009年1-3月期はプラスとなっており、この限りでは、ホームメイドデフレの色彩は弱かった。しかしながら、2009年4-6月期以降は前年比でマイナスに転じ、ホームメイドデフレの要素は徐々に強まっている。

(需給ギャップは大幅なマイナス)

もう一つの違いは、マクロ的な需給ギャップの大きさである。2001年頃と2009年では、どちらもGDPギャップで測ったマクロ的な需給ギャップがマイナスであり、これが物価の下落圧力となっている。2009年の場合、第1章で見たように、リーマンショック後の急速な景気悪化のあと景気は持ち直しつつあるが、経済活動の水準は依然として低い。その結果、2009年4-6月期、7-9月期のGDPギャップは-7%前後である(前掲第1-3-1図)。2001年頃でも最大で-5%程度であり、当時としては大きなマイナスではあったが、今回はさらに大きいものとなっている。

GDPギャップの大きさは、物価にどのように影響しうるのかを調べてみよう。GDPギャップを横軸に、物価上昇率を縦軸にプロットし、いわゆるフィリップス曲線を描くと、右上がりの関係が見られる(第3-1-2図)。すなわち、GDPギャップがプラス方向に変化すると物価上昇率は高まる(物価下落時には下落率は縮小する)関係にある。なお、ここでは需給環境の変化が価格改定に反映されるまでには時間がかかるとの考え方から、GDPギャップと物価上昇率の間には両変数の相関が最も高くなる4四半期ラグをとっている。

この相関を見ると、次のような点が指摘できる。第一に、両変数のラグを考えれば、現在の大幅なGDPギャップは、今後、継続的な物価下落圧力となる可能性が高い。第二に、景気の持ち直しが続きGDPギャップが縮小に向かったとしても、それが物価上昇圧力に転化するには相当の時間がかかると見られる。第三に、より構造的な変化として、近年では景気変動と物価上昇率の関係が過去に比べて緩やかになっているとともに(フィリップス曲線のフラット化)、GDPギャップが解消してゼロになったとしても、物価上昇率はゼロ近傍にとどまる傾向が見られる(切片の下方シフト)(第3-1-2図(2))。

フィリップス曲線のフラット化については、インフレ率の傾向的な低下による企業の価格改定頻度の低下、価格競争の激化などによる価格改定に対する需要側の反応増大(需要の価格弾性値の上昇)、あるいは、企業が個々の需給動向よりも世間相場を重視した価格設定を行うようになったことなど、様々な仮説やその実証分析がある1。そこでは経済のグローバル化やそれに伴う競争激化などが共通の要因として指摘されている。また、フィリップス曲線の下方シフトについては、人々の期待インフレ率(インフレ予想)が低下していることを示していると考えられる。さらに、インフレ予想が低下すると家計や企業の行動に影響を与え、さらにフラット化を促す面もあると考えられ、インフレ予想と景気・物価関係には密接な関係があるといえよう。

(インフレ予想は低下基調だが、2001年頃と比べるとやや高め)

2001年当時と2009年後半では、内外の景気局面が違っていることにも注意が必要である。当時はITバブル崩壊に伴う景気後退局面であり、しかも国内的には不良債権問題の重石が残る状態にあった。こうしたことを受けて、デフレスパイラルへの懸念が高まっていたのが当時の状況である。これに対して、2009年4-6月期以降は世界的には金融危機の最悪期から脱し、資源価格も底を打つとともに、国内の景気は厳しいながらも持ち直してきている。前述のGDPギャップについても、2009年4-6月期以降は、緩やかながらもマイナス幅が縮小している。こうした景気局面の違いは、家計や企業のインフレ予想にも影響を与えている可能性がある。ここでは、サーベイ調査を用いながら、家計と企業それぞれのインフレ予想を両時期で比較する(第3-1-3図)。その結果から、次のような点が指摘できる。

第一に、家計は一貫して物価上昇を予想しているが、1998年から2001年にかけてそのインフレ予想が低下した。その後、景気の持ち直しとともにインフレ予想は高まったが、リーマンショック後は急落している。このように、インフレ予想は内外の景気動向に連動する。ただし、今回は、景気の反転が早かったこともあり、2009年におけるインフレ予想は2001年のときと比べやや高い状態にある。

第二に、企業はおおむね物価下落を予想しているが、その点を別にすれば、家計のインフレ予想の動きに沿った形で物価予想を形成している。2001年のデフレ期には景気後退を受けて下落幅が拡大していたのに対し、2009年では景気の持ち直しとともに下落幅は縮小している。現時点では企業の物価予想も2001年頃ほどは低下していない。もっとも、企業のインフレ予想が依然マイナスであることには注意が必要である。価格改定の決定などは最終的に企業が物価や需要動向等を踏まえて判断することを考えれば、企業側の恒常的な物価下落予想は、日本経済にとって継続的なデフレ圧力になっているものと考えられる。この点は、前述のフィリップス曲線の下方シフトをもたらした一つの背景としても指摘できよう。

2 国際的に見た日本の物価動向の特徴

世界的には景気が持ち直すにつれインフレを懸念する見方も出てきているが、我が国ではデフレの長期化が懸念される状況にある。また、2000年代を振り返ると、長期にわたる物価下落という意味でのデフレに陥った国は、主要先進国では我が国だけである。ここでは、国際比較の視点から、最近の状況を中心に、2000年代における我が国の物価動向の特徴を整理しておこう。

(日本の物価上昇率の相対的な低さはサービス価格の安定が原因)

まず、日本、アメリカ、ユーロ圏の消費者物価の前年比を、主要な品目の寄与度に分解した上で比較してみよう(第3-1-4図)。これによれば、我が国の物価変動の特徴として、以下のような諸点を挙げることができる。

第一に、どの国・地域においても、消費者物価が2008年において急激に上昇し、2009年には下落するという現象が共通して観察される。その主な原因は、石油製品価格の高騰と反落である。また、食料価格が2008年に上昇したあと、2009年7-9月期の段階では反動減が目立っていないことも共通している。ただし、石油製品の下落寄与はアメリカで特に大きい。これは、ガソリンの消費に占めるウエイトの高さや税率の低さを反映したものと考えられる。

第二に、2000年代を通じて見ると、日本の物価上昇率は相対的に低い。日本のような2000年代初め頃の長期にわたる物価下落は、アメリカやユーロ圏では観察されない。その原因の一つは、日本では石油製品、食料以外の財価格がすう勢的に下落していることである。ただし、アメリカでも時期によっては財価格の下落が生じており、このことだけでは物価全体の基調の差は説明できない。

第三に、日本の物価の基調が弱い最大の原因は、サービス価格の上昇が見られないことである。サービス価格は、アメリカやユーロ圏では常に上昇を続けており、消費者物価が全体として下落した2009年においても前年比で上昇している。もっとも、日本でもサービス価格が下落基調にあるわけではなく、長期にわたって安定している点が特徴的である。

それでは、日本の物価上昇率の基調的な低さに寄与している、石油製品、食料以外の財価格の下落と、サービス価格の安定の背景には何があるのだろうか。考えられる要因としては、2000年代における需要不足期間の長さ(この間のアメリカ、ユーロ圏のGDPギャップの推移は後掲第3-2-1図参照)、賃金上昇率の低さ、それらを受けた期待インフレ率の低さなどがある。これらを念頭に置きつつ順次検討しよう。

(日本の最終財価格は中間財等の価格とは独立して下落)

財価格について、素原材料から中間財、最終財といった需要段階別の動きを国内企業物価指数で見ると、日本では、素原材料と中間財の価格はおおむね同様の動きを示しているのに対し、最終財の価格はそれらとは独立に傾向的な下落を続けている(第3-1-5図)。他方、アメリカや欧州諸国(ここでは代表例としてドイツを図示)ではこのようなかい離は見られない。また、韓国においても、最終財と素原材料・中間財の価格動向に日本のような顕著なかい離は観察されない。日本で最終財を生産する企業にとっては、投入財価格の変動コストの大部分を企業内で吸収せざるを得ない状態にある。

   それでは、最終財の傾向的下落は何によってもたらされているのだろうか。財別の動向を見ると、振れの大きな石油製品や食品等を除いて考えれば、第一に、電気機器の恒常的な下落、第二に、「その他工業製品」の柔軟な動きが特徴的である(第3-1-6図)。電気機器については、時期を問わず価格が下落しており、常に最終財価格の押下げ要因となっている2。電気機器の場合、パソコンやデジタルカメラなど技術革新による品質向上の顕著な品目が多い。実際、国内企業物価指数において、ヘドニック法による品質調整を採用する全6品目のうち、5品目が電気機器に分類されている3。このため、電気機器の恒常的な価格下落については、必ずしも需要不足のみに起因するものではなく、品質向上を反映した表面価格以上の実質的な下落、広い意味での生産性上昇要因も含まれていると考えられる。

(日用品や文具など「その他工業製品」の価格が需給動向を敏感に反映)

最終財価格の動向でもう一つ特徴的なのは、「その他工業製品」の動きである。最終財価格が全体として上昇に転じるとき、あるいは下落幅が縮小するときには、石油・石炭製品や加工食品といった原材料価格の影響を直接受けやすい品目に加え、「その他工業製品」の価格が上昇に転じる傾向にある(例えば、2005年後半から2006年)。いわば、「その他工業製品」の価格動向は、最終財全体の価格動向を映し出す鏡のような役割を果たしているように見える。

「その他工業製品」には、文具や玩具、靴やサンダル、ペットフードなどの非耐久消費財が多く含まれる。いわゆる雑貨類、日用品と呼ばれる品目が多い。消費者の視点で見れば、スーパーマーケットなどで日常的に購入する商品が多く、また、代替品も多いため、店頭での価格比較に意識が向かいやすい商品ともいえよう。また、企業にとっては、品質の違いなどの非価格競争よりも、競合品との価格競争、値下げ競争を強く意識するような製品が多いといえるのではないだろうか。製品固有の需給環境のみならず、マクロ的な需給環境と価格が直接的に連動しやすい商品群と捉えることもできる。この点を確認するため、消費財の財別に需給ギャップと価格変動の関係を調べると、「その他工業製品」の価格変動はGDPギャップとの相関が高い結果となった(第3-1-7図4。景気回復に伴い需給が引き締まれば価格が上昇しやすく、景気後退で需給が緩めば価格は下落しやすい傾向が観察される。他方、消費者物価の中でも、耐久消費財とマクロの需給ギャップとはほとんど相関が見られない。テレビや乗用車、あるいはパソコンなど品質面での競争、すなわち非価格競争の要素が相対的に強い耐久消費財では、マクロ的な需給と価格の相関が低くなっているものと考えられる。それ以外の財・サービスにおいても、その他工業製品と比べると、価格と需給ギャップの相関は不明確なものとなっている。

(日本ではサービス業の賃金が下落傾向)

  次に、サービス価格について見てみよう。日本のサービス価格(消費者物価のうち公共料金等を除いたサービス価格)は、下落こそしていないものの、横ばいないしわずかな上昇にとどまっており、アメリカや欧州諸国に比べて傾向的に低い伸びとなっている。一般に、サービスは在庫が持てず、労働集約的であるため、供給側の賃金との連動性が高いといわれる。そのため、日本のサービス価格の上昇率の低さは賃金上昇率の低さを反映したものと考えられる。それでは、実際に各国・地域での賃金の動きはどうなっているのだろうか(第3-1-8図)。

日本とアメリカ、ユーロ圏について、サービス価格とサービス業の賃金の関係を見ると、アメリカとユーロ圏では賃金上昇率が2~4%程度で推移しており、サービスの価格もほぼ同じペースで上昇が続いている。一方、日本では賃金の動きは弱く、前年比で下落している時期が多い。サービス価格が上昇しないのは、賃金の上昇によるコスト押し上げが働かないからといえそうである。なお、日本では賃金の動きからすればサービス価格が下落してもおかしくないが、実際には安定している。このようなサービス価格の下方硬直性については、価格弾力性が低く、供給側としては価格を下げる誘因に乏しいことや、サービス業の収益性の低さから収益を圧迫するような価格引下げを行い難いことが指摘されている5

ところで、日本以外に2000年代初めにデフレ的状況となった香港と台湾では、賃金の下落があったのだろうか(第3-1-9図)。まず、香港の消費者物価(総合)は、2000年前後から2004年にかけて前年比マイナスを続け、その間、サービス価格も下落した時期が多い。最近では、2009年に入ってから、消費者物価、サービス価格ともに前年比で下落に転じている。賃金の動きを見ると、サービス価格と軌を一にして下落していることが分かる。また、台湾については、2000年代初めに消費者物価(総合)が小幅な下落となる一方、サービス価格も弱めの動きで推移していた。また、2009年に入ると消費者物価、サービス価格ともに下落に転じている。他方、賃金は2002~2003年頃に弱含む局面があったほか、2008年以降は下落しており、サービス価格の動きと連動している6

以上のように、欧米や東アジアの国・地域における物価・賃金の動向を照らし合わせてみると、日本や香港、台湾では賃金上昇率が相対的に低く、それがサービス物価の安定ないし下落をもたらしていることが分かる。ただし、賃金が下落傾向にもかかわらず、サービス物価が下落せず安定している点は、我が国特有の現象である。

(日本の予想インフレ率はアメリカや英国に比べて傾向的に低い)

以上のように、国際比較から見た我が国の物価上昇率の基調的な低さの背景としては、品質向上等を反映した最終財価格が継続的に下落していること、需給ギャップのマイナス期間が長かったこと、サービス業の賃金が下落傾向であったことが指摘できる。我が国におけるこのような物価を取り巻く環境は、インフレ予想の低下をもたらし、賃金上昇の抑制という形で国際的に低めの物価上昇率を定着させた可能性がある。ここでは、インフレ予想の国際比較として、アメリカとの対比で日本の特徴を抽出してみよう(第3-1-10図)。

まず、日本とアメリカの家計のインフレ予想をサーベイ調査で比較すると、変化の方向に大きな違いは見られないものの、両者の間には2~3%ポイント程度の継続的なかい離が観察される。このかい離については、1年後の物価変動を聞くというサーベイ調査の性格もあるが、家計が直近の物価上昇率を基準にしてインフレ予想を立てる傾向にあることを反映したものと理解することができる。例えば、2008年の消費者物価(食料及びエネルギーを除く)前年比上昇率は、アメリカが2.3%であったのに対し、日本は0.0%であった。

また、金融資本市場におけるインフレ予想として、名目債(固定利付債券)と物価連動債の利回りの差で求めた予想インフレ率(損益分岐インフレ率)を見ると、リーマンショック以降、各国とも予想インフレ率が急激に低下している。なかでも、日本は元々の予想インフレ率の水準が低かったこともあって、物価の下落が予想されている。各国とも予想インフレ率の変化の方向は似通っていることから、変化前の予想インフレ率の水準の違いがそのままその後の各国の予想インフレ率の差となって表れているということもできる。金融資本市場におけるインフレ予想からも、日本の予想インフレ率の傾向的な低さが示されている。

なお、ここで用いた損益分岐インフレ率の計測については、特に日本の場合、物価連動債の市場流動性が低いため、一部の市場参加者の行動が反映されやすいことに注意が必要である7。実際、リーマンショック後の国際金融市場の混乱を受け、一部の市場参加者が物価連動債の売却を急いだため、物価連動債の利回りが上昇し、その結果、損益分岐インフレ率の急激な低下が起きたとの解釈も存在する8

3 デフレの弊害

デフレの弊害として理論的にいわれていたことが、実際に2000年前後の時期に起きたのだろうか。デフレの弊害として指摘される主な論点としては、第一に、名目賃金の下方硬直性による実質賃金の高止まりとそれがもたらす雇用への影響、第二に、名目金利の非負制約(ゼロ金利制約)による実質金利の高止まりがもたらす実体経済への影響、第三に、貸借契約が名目値に基づいて行われることに起因する、実質債務負担の増加、債務者から債権者への意図せざる所得移転、などが挙げられる。これらについて順に検討しよう。

(名目賃金の下方硬直性は見られず)

まず、名目賃金の下方硬直性に伴う実質賃金の高止まりの有無を、一人当たり現金給与総額の動きを見ることで概括的に捉えよう(第3-1-11図)。その結果、次のようなことが分かる。

第一に、2000年前後以降、マクロ的な名目賃金は大幅に減少しており、下方硬直性は見られない。この間、消費者物価は下落しているが、その分を考慮した実質賃金の動きは、緩やかながら減少している。

第二に、2000年前後以降における名目賃金の減少は、主にボーナスの削減によって達成されている。現金給与総額の変化率を定期給与(所定内及び所定外給与)と特別給与の変化に分解すると、98年以降、ボーナスを含む特別給与の減少が賃金押下げに最も大きく寄与していることが分かる。すなわち、企業収益の減少に直面した雇主は、雇用者に対してボーナスの削減による負担を求めることで、賃金の柔軟な調整を行うことができたと考えられる。

第三に、2000年前後以降は、特別給与のほかに所定内給与も恒常的に名目賃金の押下げに寄与している。そこで、定期給与(所定内給与+所定外給与)の変化について、フルタイムとパートタイム労働者の給与、パートタイム労働者の比率の変動に要因分解すると、定期給与の減少は主としてパートタイム比率の上昇によってもたらされていることが分かる。

以上から、企業側としては、フルタイム労働者を中心にボーナスを削減する一方、相対的に賃金の低いパートタイム労働者を柔軟に活用することにより、名目賃金を引き下げたということができよう。その結果、物価が緩やかに下落するなかでも、実質賃金が高止まりすることはなく、デフレを直接の原因とする厳しい雇用調整は回避されたと考えられる。

(5年以下の金利は非負制約に直面)

名目金利の非負制約に伴う実質金利の高止まりについてはどうか。まず、短期金利については、明らかにこうした障害が生じたといえよう。すなわち、99年2月から2001年3月までのいわゆるゼロ金利政策期、2001年3月の量的緩和政策導入から2006年3月の量的緩和政策解除を経て同年7月のゼロ金利解除まで、無担保コールレート(オーバーナイト物)はゼロ%近傍で推移した。また、それより期間の長い短期金利についても、ゼロに近い金利水準となっていた。その間の予想インフレ率は、計測方法による差はあるものの、企業の主観的なインフレ予想がマイナスであったと考えられるため、実質短期金利は名目金利のゼロ制約により高止まっていたと見ることができる。

それでは、1年以上の長期金利についてはどうだろうか。実質長期金利の上昇、ないし高止まりは、企業の設備投資、家計の住宅投資などへの意欲を減退させるため、景気にとってマイナスの効果を持つ。ここでは、現実の国内需要デフレーターの変化率が予想インフレ率であったとして、量的緩和政策導入後の2001年度と2002年度について期間ごとの実質長期金利を計算してみた(第3-1-12図)。

その結果、2001年度から2002年度にかけて、名目金利のイールドカーブはフラット化したものの、5年以下の実質金利については、2001年度から2002年度にかけてむしろ上昇していたことが分かる。この間の国内需要デフレーターは2001年度が-1.4%、2002年度が-1.6%であったため、ゼロ近傍で推移した1年以下の短期金利は、物価下落分だけ実質金利が高止まりした。また、5年以下の金利については、2001年度から2002年度にかけての物価下落率拡大分が名目金利の低下分を上回ったため、実質金利は上昇する結果となった。

第1章で見たように、2000年前後の潜在成長率は1%程度、内閣府「企業行動アンケート調査」による企業の期待成長率(1年間)もそれに近い状況であった。また、現実の設備投資行動から逆算した期待成長率は、振れが大きいため年によってはゼロ近傍になっていた。仮に潜在成長率や期待成長率が実質均衡金利を表しているものと考えれば、実質金利はそれを超える水準であったことが示唆される。こうしたことを踏まえると、1~5年程度の期間の実質金利はデフレのために幾分高止まりしていた可能性があるといえよう。

(デフレによる実質債務残高の増加)

最後に、デフレによる実質債務負担の増加について検討しよう。家計、企業(金融機関を除く)、政府の純資産・純債務の状況を見ると、家計が一貫して純資産を有している一方、企業と政府は負債超過が続き純債務主体となっている。とりわけ、政府の債務拡大ペースは急速であり、2001年度以降、政府の純債務残高は企業のそれを上回った。さらに、企業が債務削減努力を行う一方、政府は財政赤字による債務残高の累増を続けており、企業と政府の純債務残高の差は顕著に拡大している(第3-1-13図(1))。

こうした状況を踏まえると、デフレ期には企業と政府から家計に対して意図せざる所得移転が生じた可能性が高い。この点を確認するため、国内需要デフレーターが明確に下落に転じた98年度以降2006年度までについて、実際の物価下落率を予期せぬ物価下落とみなして簡易な試算を行った。その結果を見ると、家計の実質資産はデフレにより継続して増加した一方、企業と政府の実質負債は累増し、企業と政府から家計への所得移転が生じていたことが分かる(第3-1-13図(2))。

なお、家計の中でも住宅ローンなどの負債が資産残高を上回る純債務世帯にとっては、デフレによって実質債務負担が増加していたと考えられる。また、「家計調査」(2008年)を用いて世帯主の年齢階級別に貯蓄残高と負債残高を比較すると、高齢世帯ほど貯蓄超過となる一方、39歳未満の世帯では負債残高が貯蓄残高を上回る状態となっている。39歳未満の世帯では、住宅ローンを含む「住宅・土地のための負債」が貯蓄残高を上回っていることが負債超過の主因である。こうしたことを踏まえれば、家計の中においても、デフレにより、負債超過世帯から資産超過世帯への所得移転があり、それを年齢階級別に捉えれば、若年世帯から高齢世帯への所得移転が生じていたということができよう。

問題は、こうした所得移転の景気への影響である。家計全体としての実質資産残高の増加は企業の実質負債残高の増加を上回っているが、企業のほうが家計より限界支出性向が高いと考えるならば(第2章第1節参照)、必ずしもネットで景気にプラスの効果があったとはいえない。また、家計においても、若年世帯のほうが高齢世帯よりも限界支出性向が高いと考えるならば、それも景気の下押し圧力となりうる。さらに、当時は企業が大きな過剰債務を抱える一方、金融機関のバランスシートも厳しい状態にあった。そうした中での企業の実質負債残高の増加は、金融機関の貸出態度を一層悪化させ、物価下落と信用収縮、景気悪化が循環する形での「デフレスパイラル」を生じさせる懸念があった。実際には、物価下落が緩やかなうちに輸出にけん引されて景気が回復に向かい、この間、過剰債務と不良債権の処理が進められ、「デフレスパイラル」は回避されたが、デフレに伴う所得移転の危険性はまさにこの点にあったといえよう。

コラム3-1 消費者の低価格志向

最近、家計の低価格志向がしばしば指摘されている。その度合を調べる方法として、「消費者物価指数」と家計調査の「平均購入単価」の動きに着目することが考えられる。前者は、代表的な銘柄の小売価格の動きを捉えたものであり、後者は銘柄に関係なく消費額を購入数量で除したものである。家計消費が低価格商品へシフトすると、両者の変化率の差は拡大する。そこで、この差を「低価格志向度」と呼ぶことにしよう。

実際に、生鮮食品を除く食料品について両者の動きを比べると(コラム図3-1(1))、平均購入単価の伸びは、90年代後半から2003年頃まで消費者物価の伸びを下回っており、この間、低価格志向の高まりが見られていた。その後、景気が緩やかに回復する中で、一時、平均購入単価が消費者物価の伸びを上回ったものの、2008年以降は再び下回る状況が続いている。

次に、景気後退期であった2001年と2008年について、都道府県別に賃金と低価格志向の関係をプロットした(コラム図3-1(2))。その結果、2001年は両者に明確な関係が見られなかったが、2008年では賃金の低い都道府県で低価格志向が高まっている。また、こうした地域は地方部が多い。2008年は景気後退と食料品価格の上昇が同時に生じた時期であり、こうした中で、地方部を中心にディスカウント・ストアの利用を増やしたり、プライベート・ブランド等の低価格品を購入したりする動きが目立ってきたと考えられる。

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