第2節 物価の安定に向けた道筋
1 デフレの定義と経緯
(デフレの定義と政策対応)
内閣府は、2001年3月の「月例経済報告」の中で、デフレを「持続的な物価下落」とした上で、「現在、日本経済は緩やかなデフレ状態にある」との判断を行った16。また、政府は、2001年12月に、「緊急対応プログラム」を策定し、デフレスパイラルに陥ることを回避するための諸施策を強力に推進した。
一方、日本銀行は、2001年3月19日に思い切った金融緩和策として量的緩和政策の導入を行った。その際、「日本銀行として、物価が継続的に下落することを防止し、持続的な経済成長のための基盤を整備する観点から、断固たる決意をもって実施に踏み切るものである」とされ、デフレへの取組について強い決意が示された17。
こうした中、経済財政諮問会議の議論の中でも、不良債権問題やデフレ対策の前提として、「持続的な物価下落」であるデフレを防止し、経済をできるだけ早く持続的な成長軌道に復帰させる必要があるという点で、政府・日本銀行の認識は一致していることが示された18。
(デフレ克服に向けた取組)
政府と日本銀行のデフレ克服への取組について、月例経済報告の「政策の基本的態度」を参考に振り返ると、2002月1月から5月までの月例経済報告では、「政府は、構造改革を断行する一方で、デフレスパイラルに陥ることを回避するために細心の注意を払い、日本銀行と一致協力して、デフレ阻止に向けて強い決意で臨む」とされており、不良債権処理の一層の促進や金融システムの安定等、早急に取り組むべきデフレ対応策の整理が行われた。2002年6月以降は、デフレ克服、金融システム安定等のため、「政府は、日本銀行と一体となって、引き続き強力かつ総合的な取組を行う」こととされ、更に強い決意が示された表現となっている。
この間、政府は、毎年度の「経済財政運営と構造改革に関する基本方針」の策定、早期の具体化に取組により、デフレ克服の前提となる構造改革を加速・拡大している。また、日本銀行は、量的緩和政策における日本銀行当座預金残高目標の引上げを行ってきたが、2004年1月20日には、「30~35兆円程度」とすることを決定した。その際、日本銀行は「デフレ克服に向けた日本銀行の政策スタンスを改めて明確に示し、今後の景気回復の動きをさらに確かなものとする趣旨から、当座預金残高の目標値の引き上げを行うことが適当と判断した」との発表を行った19。
(デフレ脱却への動き)
こうした政策努力もあって日本経済は民間需要主導で景気回復の裾野を着実に広げてきていたが、緩やかなデフレ状況が続いてきた。政府は、2004年6月に決定した「基本方針2004」において、デフレ克服への取組は依然重要な政策課題であることを改めて確認し、2005年度及び2006年度の2年間を「重点強化期間」と位置づけ、「日本銀行と一体となった政策努力によりデフレからの脱却を確実なものとしつつ、新たな成長に向けた基盤の重点強化を図ることとし、政策努力を更に強化する」こととした。
(日本銀行による量的緩和政策解除と政策金利の調整)
日本銀行は、2006年3月9日に、量的緩和政策を解除し、金融市場調節の操作目標を日本銀行当座預金残高から無担保コールレート(オーバーナイト物)に変更した上で、これをおおむねゼロ%で推移するよう促すことを決定した。日本銀行は量的緩和政策を消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)の前年比上昇率が安定的にゼロ%以上となるまで継続するとの「約束」を行っていたが、当時の消費者物価指数の前年比はプラスに転じており、先行きプラス基調が定着していくとみられるとして、「約束」の条件は満たされたと判断された20。さらに7月14日には、ゼロ金利を解除し、無担保コールレート(オーバーナイト物)を0.25%前後で推移するよう促すこととされた。
(政府、日本銀行のマクロ経済運営に関する基本的視点の共有)
こうした中、経済財政諮問会議において、政府と日本銀行の間で共有するマクロ経済運営に関する基本的視点が確認されることとなった。2006年11月2日の経済財政諮問会議では、マクロ経済運営に関する基本的視点として
(1) 民需主導の持続的成長を実現する
人口の減少傾向やグローバルな競争が激化する中で、民需主導の持続的な経済成長を実現する
(2) 物価の安定を実現する
物価上昇率を適切な範囲内に安定化させる
(3) 中期的な課題と整合的な政策運営を行う
中期的に実現すべき経済の姿との整合性を確保する
(4) 透明性と説明責任を徹底する
マクロ経済運営の信頼性確保のため、政策運営の透明性と説明責任を徹底する
との4つの視点が示され、これらに基づいてマクロ経済運営の点検を行うこととされた21。
(「デフレ脱却」の定義)
内閣府では、デフレ脱却について、「物価が持続的に下落する状況を脱し、再びそうした状況に戻る見込みがないこと」と定義した22。こうした定義に基づき、月例経済報告では、2006年7月に、それまでの「物価の動向を総合してみると、物価の持続的な下落(デフレ)という状況にはあるが、改善がみられる」との表現を削除した。これは、「再び後戻りしないかどうかについては注視する必要があるが、総合的にみれば、足下では持続的に物価が下落するという状況ではない」との判断に基づくものである。
2 物価とマネーサプライの関係
日本銀行がデフレ対応策として量的緩和政策を採用したため、マネタリーベースとマネーサプライの関係、それらと一般物価やGDPにどのような関係があるのかが注目を集めた。デフレとマネーの関係について、(1)「デフレは貨幣的な現象であるから、マネタリーベースの供給は、マネーサプライの増加を通じて物価の上昇に結びつく」という見解がある一方、(2)マネーサプライと一般物価水準との相関は、短期間では妥当せず、金融政策の一般物価に対する効果は、まず、流動性の供給を通じて実体経済に影響し、その後、ラグを伴って認められる」との見解もあった。また、(3)「金融政策運営方針の変更は、インフレ期待に影響を与えるものであるから、マネタリーベースの供給は期待を変化させ、物価の上昇に結びつく」との見解もあった。
(マネーと物価の関係)
量的緩和政策の成果について振り返ってみると、(1)金融システムの不安感が強かった時期においては、金融機関の流動性需要に応えたこと、(2)再びデフレに戻らないと確認できる時期まで量的緩和を継続すると約束したことにより、中長期の長めの金利も含めて金利水準の上昇を抑制したこと(いわゆる時間軸効果)、が挙げられ、これらに関しては非常に効果的であったと評価できる。一方、マネタリーベースの拡大による、経済活動、物価へのプラスの効果については、民間金融機関の当座預金残高保有の機会コストがほぼゼロとなったために民間の経済活動に対して追加のマネーを供給するまでには至らず、一般物価や資産価格等の上昇に対しては大きな影響を持つことはなかったものと考えられる。
また、期待への働きかけについては、日銀当座預金残高が積み増されていった時期については、期待インフレ率が高まることもあったが、その後残高を維持する中で根強かったデフレ期待を変化させることまではできなかった。このようなことから、マネタリーベースの拡大による物価の上昇はいずれのルートからも限定的であったと考えられる。
(マネーサプライの変動要因)
マネーサプライの変動要因を需要面からみると、主に、経済取引に伴う需要と、貯蓄手段としての需要の両面がある。経済取引に伴う需要は、一般に景気拡大期には需要が高まり、景気後退期に需要が低くなることで、マネーサプライに対して、それぞれ押上げ、押下げ要因となる。一方、貯蓄手段としての需要が高まればマネーサプライは増加することになる23。なお、マネーサプライ統計のうちM2+CDは、実体経済や物価との関係を長期的にみた場合において、相対的に安定していたが、近年、金融資産間の預け替えによる影響がみられ、実体経済や物価との関係を見極めにくくなっている。
(民間金融機関の貸出残高は減少)
マネーサプライの伸び率について90年代後半からの動きをみると、金融システム不安が高まる中、貯蓄手段として流動性や安全性が重視された結果、M2+CDは比較的高い伸びを示していた。
一方、経済取引に伴う需要については民間資金調達が企業による有利子負債削減などから押下げ要因として働いた。その結果、金融機関は、預金残高が緩やかに増加する中で貸出残高が減少し、預貸率を大幅に低下させた(第3-2-2図)。
経済全体を「通貨保有主体」(家計、非金融法人企業など)と「非通貨保有主体(財政(中央政府)、海外、金融機関)の2部門に分けて、通貨保有主体のバランスシートを考えることにより、マネーサプライの伸び率を要因分解して確認してみよう24(第3-2-3図)。
これをみると、財政赤字の拡大(財政要因)と経常収支黒字(海外要因)に対応する企業や家計等の貯蓄の増加がプラスとなっている一方、企業や家計等のネットの資金調達(資金調達額)が前年比伸び率を縮小し、資金調達額は2001年以降マイナスとなった。2006年半ばからマイナスの寄与がほぼなくなったが、引き続き弱いものにとどまっている。
(マネタリーベースとマネーサプライの関係)
量的緩和政策では、マネタリーベースを構成する日本銀行当座預金残高が金融政策運営上のターゲットとされ、潤沢な日銀当座預金の供給により、無担保コールレート(オーバーナイト物)がゼロ%程度で推移し、マネタリーベースは、2003年には100兆円に達した。マネタリーベースが大幅に増加する中、マネーサプライは資金シフト等もあり当初は伸びを高めたが、2003年以降にはおおむね2%を下回って推移した(第3-2-4図)
この間のマネタリーベースとM2+CDの関係を示す貨幣乗数(M2+CD/マネタリーベース)は大幅に低下した。貨幣乗数低下の要因をみると、非金融部門については、現金の保有を増やしたことから現金/預金比率要因がマイナスに寄与してきたが、2004年までにはほぼ横ばいとなっている。一方、金融部門は、量的緩和政策による日銀当預残高の積み増しが行われる中、準備(超過準備を含む)/預金比率が2005年まで大きくマイナスに寄与している(第3-2-5図)。
こうした動きを信用面(金融機関等の資産・負債の変動)からみると、マネタリーベースについては、量的緩和政策の導入後、政府向け信用が大きくプラスとなり預金通貨銀行向け信用はむしろマイナスとなっている。
量的緩和政策解除後では、日銀当預残高の縮小に伴って、預金通貨銀行向け信用と政府向け信用が縮小し、マネタリーベースは前年比大幅なマイナスとなった。また、M2+CDの前年比伸び率も低下しており、政府向け信用がマイナスとなる一方、対外資産は拡大している(第3-2-6図)。
(マネーサプライと実体経済の関係)
上記のとおり、マネーサプライ(M2+CD)については、このところ貯蓄手段としての需要の変化によって大きく動いており、経済取引の変化に伴う需要の変化やマネタリーベースの供給との関係がみえにくくなっている。ただしこれは、統計上、経済活動と密接な関連があるマネー指標をどの範囲とするかという問題であって、必ずしもマネーと経済活動の関係が弱くなっていることを示すものではないだろう25。景気回復が続く中でも金融機関は貸出を大きく増やしている状況にはないが、国内で企業や家計等のネットの資金の調達がようやく下げ止まってきていることから、経済活動に対する十分なマネーの供給が確保されていく必要がある。日本経済の息の長い回復を下支えする観点からも、経済活動への資金の流れを阻害することのないよう、適切なマネーの伸び率が確保されていくことが重要であろう。
3 デフレ脱却と物価安定に向けた道筋
(物価上昇へ向けたシナリオ)
物価が上昇しない背景として、需給ギャップの改善が緩やかであることを指摘した。第1章での「団塊世代の退職による賃金押下げ」という指摘は、雇用者構成の変化で平均賃金の伸び悩みを説明する形をとっているが、賃金が上がらないのは需給ギャップがそれほど逼迫していないことの結果とも解釈できる。この点については、今後、景気回復が持続しギャップがさらに改善すれば、やがては賃金、物価上昇につながることが考えられる。
また、消費者物価指数については、家電製品の価格や移動電話通信料などの構造的な下落も、上昇を妨げる要因となっている。
もう一つ考えられる要因として、長期にわたるデフレの結果、人々の期待インフレ率が極めて低い水準に定着してしまったことがある。消費者の期待インフレ率を試算してみると、2003年頃にはデフレ期待が存在しており、その後プラスとなったが、低い水準で横ばいとなっている。また、一方、市場が予想する消費者物価指数の今後10年間の平均上昇率(物価連動国債と長期国債の利回りから計算されるブレークイーブンインフレ率)をみると、1%を下回って推移している(第3-2-7図)。
このように考えると、第1節でみたように、消費者にとって身近な商品の値上げがきっかけとなって期待物価上昇率が高まり、これが実際の賃金、物価の上昇につながるシナリオも否定できないが、そのためには需給ギャップが着実に改善することが必要である。需給の改善なしに、海外発のコストプッシュ型の値上げが相次げば、個人消費にマイナスの影響をもたらしかねない。需要増の裏づけのない物価の上昇は景気の悪化要因となりうるものである。
(物価安定に向けた金融政策運営)
金融政策運営は、金融市場を通じて企業や消費者の先行きの期待に働きかけることが可能であり、適切な期待形成を促すためにも金融政策の役割は重要である。政府が2007年6月に決定した「経済財政改革の基本方針2007」では、「再びデフレに戻ることのないよう、民間需要主導の持続的な成長と両立する安定的な物価上昇率を定着させる必要がある」とした上で、そのため、政府と日本銀行は、マクロ経済運営に関する基本的視点を共有、政策運営を行うこととされている。日本銀行には、政府の政策取組や経済の展望と整合的なものとなるよう、金融政策運営において、物価の安定を確実なものとし、持続的な成長を支えていくことが求められている。