日本経済2006(全文)第3章 鈍化する消費の伸びと家計の所得環境
第3章 鈍化する消費の伸びと家計の所得環境
今回の景気回復では企業部門の改善が先行した。その後、回復の成果が雇用の改善、所得の増加という経路を通じて家計部門に波及するにつれて回復の安定度が増すこととなった。景気回復局面を通じての実質GDP成長率に対する民間最終消費支出の寄与度をみると今回の景気回復局面では7割程度に達し、これが景気回復の長期化を支える一つの要因となったと考えられる。しかしながら、2005年後半からの踊り場脱却の過程で高まりを見せた消費の伸びは2006年半ば頃から鈍化の動きをみせ、年後半にかけて横ばいで推移している。この消費の動向が今後の景気の持続性にとってリスクとなることも懸念される。
以下では、踊り場脱却以降に加速した消費の伸びが2006年半ば頃に鈍化した背景について、家計部門の所得環境、消費者マインドなどを踏まえてみていくことにする。その上で、家計の所得に対して下押し圧力として作用する傾向のある最近の環境変化についてみた後で、今後のデフレ脱却について家計部門からみた留意点について確認する。
第1節 2006年半ば頃から伸び悩む家計消費
(2006年半ば頃から伸び悩む家計消費)
第1章でみたように家計消費は2005年後半に踊り場を脱却した過程でその伸びが高まった。特に年末にかけては厳冬などの天候要因から冬物衣料や暖房器具などの売上げが大きく伸びたこともあり、家計消費は強い増加を示した。その後、年明け以降はそれまでの加速の反動や、天候不順、梅雨明けの遅れなどから、家計消費の伸びは続いたものの一時的には弱さもみられる展開となった。
天候要因による消費への押下げ圧力は8月以降は解消したと考えられるが、実際には需要面・供給面双方の消費指標は弱い動きが続き、期待されたほどの反動増を示すような状況とはなっていない。消費全体の動向を示す消費総合指数でみると6月以降の消費は水準で低下する動きとなっており、GDPベースの民間最終消費支出でみても4-6月期0.5%の後、7-9月期は▲0.7%とマイナスに転じた。
家計消費は基本的には家計所得と消費性向(所得から貯蓄を除いて消費に振り分ける割合)で決まる。このような基本的な視点から、足下での消費鈍化の動きの説明を目指して、家計をめぐる所得環境と消費意欲の双方の動向についてみていくことにする。
(伸びが鈍化する実質雇用者所得)
マクロベースでの所得を把握するために実質雇用者所得の動きを見ると2006年半ば以降雇用者所得の伸びも鈍化する動きを示している。実質雇用者所得(後方3ヶ月移動平均)は水準でみても、2006年7月をピークに8月は前月比▲0.2%、9月は▲0.1%と頭打ちの傾向となっている。2005年半ばから2006年前半にかけて実質雇用者所得は前年比で増加を続けてきた。しかしながらその伸びを雇用者数の伸びと賃金の伸びに分けてみると、2006年に入ってからは変化していることがわかる。2005年中は雇用者数、賃金ともに増加し、両者が実質雇用者所得の伸びに寄与していたのに対して、2006年に入ってからは専ら雇用者数の増加のみが寄与していた形となっている。さらに2006年半ば以降は雇用者数の増加速度が低下する一方で賃金が減少に転じ、実質雇用者所得の伸びは鈍化している(第3-1-1図)。
(小規模企業で頭打ち傾向となる雇用者数)
規模別の雇用者数の動きをみるとばらつきがあり、規模の小さい企業部門の雇用者数の伸びが弱い動きとなっている点に留意が必要である。2005年以降の雇用者数の伸びは、主に従業員規模30人以上の企業の増加にけん引されており、従業員規模30人未満の企業についてはおおむね横ばいで推移している(第3-1-2図)。30人未満の規模でも2006年前半には雇用者数の増加があったものの2006年半ば以降は頭打ちとなっている。従業員規模別に一般新規求人状況を見ても、特に500人以上の規模の大企業の旺盛な求人の伸びが目立ち、それより小さい規模の企業では求人の伸びは鈍い(第3-1-3図)。業種別の雇用者数の動きを見ても増加している分野は一部の業種が中心となっているという偏りがみられる、製造業や医療・福祉業などで増加しているのに対して、比較的小規模事業者の比率が高いみられる卸売・小売業、飲食店・宿泊業などでは減少しており、これは規模の小さい企業部門での雇用増加が限定的であったことと整合的な動きとなっていると考えられる。(第3-1-4図)。
(小規模事業所で減少が続く賃金)
企業規模間でみられる雇用状況の相違は賃金上昇率にも反映している。従業員規模30人以上の事業所と30人未満の事業所の賃金指数の伸びを比較すると、2006年に入ってから規模が大きい方では定期給与の増加が続いているのに対して、小規模事業所の定期給与は減少している(第3-1-5図)。小規模事業所の定期給与の伸びが2006年には一定から顕著な減少傾向に転じたことについては統計上のサンプルバイアスを指摘する声もあったがその後も継続的に減少傾向が持続していることを踏まえると、このような規模間の賃金格差の動きについては注意してみていく必要があると考えられる。業種別の賃金の動きを見ると、製造業については堅調に増加している一方で、非製造業では弱含んでいる業種が多い(第3-1-6図)。
(横ばい傾向で推移する消費者マインド)
既に第1章でみたように消費動向調査の消費者態度指数や景気ウォッチャー調査の家計動向判断DIなどからみた家計部門の消費意欲は2006年前半まで改善傾向が続いたあと、横ばい傾向で推移している。消費者態度指数は今回の景気回復の開始時点から比較するとかなり改善してきている。ただし2006年に入ってからは雇用環境の改善状況が緩やかなことや賃金の増加も緩やかになっていることなどから消費者態度指数も横ばいの動きとなったと考えられる。景気ウォッチャー調査では、2006年3月に調査開始以来最高水準の現状判断DIを記録した後、4月以降原油高懸念や天候要因によって低下し始め、6月には14ヶ月ぶりに50を割り込んだ。8、9月には天候要因の剥落により50を上回ったが、主として雇用、企業動向関連が持ち直しており、家計動向関連はいまだ50を下回るなど改善傾向に減速感がみられる。
(所得要因による消費の伸び悩み)
これまでみてきたように足下での消費の伸び悩みには家計部門の実質雇用者所得の頭打ちという所得要因が寄与している可能性が高い。特に天候不順などの消費をかく乱する要因がみあたらなくなった2006年8月以降も消費について弱い動きが続いているという点については所得の動向が影響を与えているものとみられる。その背景としては、小規規模企業部門を中心に弱い動きが続く賃金、雇用者数の動きがあり、これについては今後の推移も含めて傾向的な動きを見ていくことにする。
第2節 家計所得に対する下押し圧力
(緩やかな伸びにとどまる賃金)
今回の景気回復局面を通じて賃金上昇は限定的なものにとどまっている。むしろ景気回復の初期段階では雇用の非正規化などを通じて名目平均賃金が低下することで企業はリストラを進め、収益体質を改善することとなった。この結果デフレ下でも企業収益が確保されることで景気回復が続き、最終的には景気回復の利益が家計部門にまで波及し、所得と消費の増加が実現するに至った。しかしながら家計部門からみれば賃金の上昇は依然として緩やかであり、これまで長い間デフレ状況が続いたこともあり景気回復の実感が乏しい要因ともなっている。
一方で、賃金上昇に大きな影響を持つと考えられる労働需給の動向をみると人手不足が強まっている。日銀短観の雇用判断DIをみると既に2005年後半から不足超の領域に入っており、2006年9月調査時点では8%ポイントの「不足超」を記録している。過去にさかのぼるとこれは92年3月調査時点とほぼ同じ状況であり、バブル期以来の人手不足状況となっていると言える。有効求人倍率でも2006年9月時点で1.08という高水準となっており、これも1992年7月以来の高さとなっている。
このような労働需給の逼迫は賃金上昇圧力をもたらし、通常であればある程度の時間的な遅れを伴いつつも賃金の上昇を通じて雇用者所得の拡大につながると考えられる。しかしながら今回の景気回復局面では賃金上昇圧力は限定的なものにとどまっている。
(低下傾向が続く労働分配率)
労働需給の逼迫にもかかわらず賃金上昇率が限定的であるということは、依然として低下傾向が続く労働分配率の動きにも表れている。
バブル崩壊後の1990年代に経済が低迷した期間に企業収益の悪化に対応できず過剰雇用が積み上がる中で労働分配率が上昇し、1990年代末には75%近くの既往最高水準にまで達した。その後は企業のリストラの実施による雇用の過剰の解消が進む中で労働分配率は低下傾向をたどり、今回の景気回復局面を通じてもその低下の動きは続いている。
マクロ経済全体としての動きとしては労働生産性と実質賃金上昇率が等しい関係にあれば労働分配率は変化しない。したがって今回の景気回復局面下での労働分配率の低下は労働生産性の上昇分だけの実質賃金上昇率が確保されていなかったことを意味する。
労働分配率が低下する中で企業収益の伸び率は2004年度をピークに低下傾向にある。日銀短観でみると2004年度の経常利益(全規模・全産業)は前年比2割を越える伸びを示した後、2005年は1割強まで伸びが低下し、2006年度計画では2パーセント程度となっている。このような企業所得の状況を踏まえれば家計所得に加速感がみられないのは自然な結果とも考えられる。労働分配率の低下は更に賃金上昇を抑制する圧力の存在を示唆するようにみえる。以下、景気が回復する中で賃金を押し下げる方向に作用した要因について検討する。
(賃金を押し下げる非正規雇用の高まり)
非正規雇用者の賃金は正規雇用者に比較すると相対的に低い水準にあり、企業内で非正規雇用者比率が高まることは平均賃金水準を押し下げることになる。これは企業の立場から見ると労働費用の圧縮という効果をもたらすことになる。最近の我が国の雇用動向を見ると非正規雇用者の急速な増加が続いており、これが大きな特徴となっている。正規雇用者数が97年以降ほぼ一貫して減少している一方で 、非正規雇用者数は増加を続けてきた。非正規雇用者数は95年に1,000万人を越え、2005年には1,600万人程度となっている。役員を除く全雇用者に占める非正規雇用者の割合は、90年代後半以降上昇を続けて2005年には32.6%となり、ほぼ三人に一人が非正規雇用者という状況となっている。こうした非正規化の流れは性別、年齢層別を越えて広がっている(第3-2-1図)。
非正規雇用者比率の上昇は、平均的な賃金水準の抑制を通じて労働分配率を低下させていると考えられる。この点を見るために、「労働力調査」を用いて実質雇用者所得を正規雇用者数、非正規雇用者数、正規賃金、非正規賃金に分解し、労働分配率の変化率に与える影響を確認することができる。この分析の結果では非正規雇用者比率は労働分配率を押し下げる方向に寄与し続けていることが分かる(第3-2-2図)。この分析に用いた統計の制約からこの結果は幅を持ってみる必要があるが 、雇用の非正規化の流れが労働分配率の低下に一定の役割を果たしていると考えられる。
正規雇用については2006年に入ってから前年比で増加に転じるといる変化がみられるが、企業の採用方針としては今後も非正規雇用を増加させることを計画している。このような新しい動きはいまのところ賃金の上昇や労働分配率の下げ止まりという形で影響が表れる状態にまでは至っていないといえる。
(賃金上昇につながらない雇用不足感)
最近の労働市場の動向を見ると、2005年以降は短観の雇用判断DIは不足超となっており、雇用の不足感の高まりがみられる。しかし現実の賃金上昇率は依然として緩やかにとどまっており、企業側から見た雇用不足感とは異なる動きとなっているように見える。
労働市場の需給逼迫感を示す指標としては均衡失業率と現実の失業率の乖離状況がある。両者が接近するにつれて雇用のミスマッチによる失業しか存在しない状況に近づき、このような労働市場での需給逼迫が賃金上昇に結びつく傾向が強まると考えられる。
実際の労働市場で雇用のミスマッチがどの程度発生しているかは、景気循環の影響を除去した後に残ると考えられる構造的失業率の動きをみることで計測することができる。構造的失業率の水準を、雇用失業率と欠員率が等しくなるような状況を構造的失業率と仮定するUV分析の手法を用いて推計すると、今回の景気回復局面では構造的失業率が高まったことが示唆される。雇用失業率と欠員率の関係を図に表したUV 曲線の動きを見ると2000年以降は大きく右上方にシフトしていることからそのような結果が引き出される(第3-2-3図)。また、職種別の雇用不足感を見ると、全体的に不足感を高めているものの、専門・技術職や技能工では25%以上の「不足」超となっているのに対し、管理職や事務職では「不足」超は0~5%程度となっているなど、職種によって大きなばらつきがみられる(第3-2-4図)。
これまでの現実の失業率の推移を見ると2003年以降低下傾向を示してきたが2006年後半に入りその低下ペースには鈍化の動きがみられ、上記の方式で推計した構造的失業率への接近の動きは鈍化している。こうした動きが今後の賃金上昇圧力を抑制する可能性があることに注意が必要と考えられる。
コラム3-1 アメリカの賃金二極化現象
最近のアメリカでは、賃金水準の高い層と低い層の労働者が増加し、中間層の比率が減少するという現象がみられている17。
労働者が受け取る賃金について、上位10分位と中位の賃金額の比(以下「第9/第5分位比」という。)と中位と下位10分位の賃金額の比(以下「第5/第1分位比」という。)の推移をみると、第9/第5分位比は1980年から趨勢的に上昇しているが、第5/第1分位比は1979年から1987年までは急速に伸びたものの、それ以降は横ばいで推移している(コラム図3-1)。つまり、所得中位層と下位層の賃金比は横ばいである一方で、所得上位層と中位層の賃金比は拡大しており、アメリカでは所得の高い層だけがより豊かになっている状況が窺われる。
賃金水準で分類した職種別の動きをみると、市場における労働需要の強い職種として高所得の職種と低所得の職種に二極化していることが示される。労働者を低所得の職種から高所得の職種へと並べていき、それぞれの職種に属する労働者が全体に占める割合がどう変化したかをみると、1980年から1990年にかけては、低所得職種の労働者の割合は低下した一方、中・高所得職種の労働者の割合はおおむね増加した。しかし、1990年から2000年にかけてその傾向は大きく変化し、低所得職種と高所得職種の労働者の割合が大きく増加する一方で、中位所得職種の労働者の割合が低下している(コラム図3-2)。
こうした労働市場の二極化が生じた背景として、高所得労働者が行う非定型的・課題設定型の仕事の一部をコンピューターが補完する一方、中間層ホワイトカラーが行ってきた定型的業務がコンピューターによって代替されていることなどが挙げられている。
(高齢化の進展で押し下げられる平均賃金)
我が国では社会全体としての少子高齢化の進展が企業内部での年齢構成にも反映し、この結果総賃金コストが押し下げられる傾向が存在する。さらに団塊の世代の退職も考慮すると将来的にも賃金の下押し圧力が存在すると見込まれる。
企業が負担する総賃金コストには、労働市場の構造変化だけでなく、少子高齢化の進展や、いわゆる団塊世代の企業内での動きなど、雇用者の年齢構成の変化も影響を与える。総賃金コストの変化は雇用者数要因と一人当たり賃金要因に分解して把握することができる。雇用者数要因はさらに人口動態要因(各世代の人数の違いのみの影響)とその他の要因(景気循環に伴う企業の採用行動の変化などによる影響)に分けてみることができる。総賃金コストの2000年から2005年にかけての変化についてみると、総賃金コスト全体として4.7%減少しており、雇用者数要因で2.7%押し上げられた一方、一人当たり賃金要因で7.4%引き下げられている(第3-2-5表)。雇用者数要因のうち、人口動態要因をみると、総賃金コストを1.8%押し下げていることが分かる。
次に、人口動態要因を年齢階層別に分け、団塊世代の影響を反映する55~59歳と、近年の少子化を反映する30歳未満の二つの年齢階層がもたらす影響を取り出してみる。人口動態要因を見ると、55~59歳の年齢階層の寄与は1.6%となっており、2000年から2005年という期間では団塊世代の人数の大きさが総賃金コストを引き上げている。一方、少子化に伴い若年雇用者は減少しており、30歳未満の年齢層は▲2.5%の寄与となっている。前述のように、他の年齢階層の効果も含んだ人口動態要因全体では▲1.8%の寄与となっており、少子高齢化という人口動態の変化は、既に企業の総賃金コストを抑制し始めていると言える。
今後の動向をみると、2007年を迎え団塊世代が定年退職し始めると、人件費抑制効果は更に大きくなることが見込まれている(第3-2-6図)。この試算においては雇用形態別の賃金構造をある基準点(2005年)で固定し、年齢別の人口当たりの雇用者比率、正規・非正規比率なども変化しないと仮定した上で、団塊の世代が退職していくことで総賃金コストがどのように変化していくかを計算している。この結果によると団塊の世代の退職が始まる2007年から2009年にかけて賃金コストは急速に減少することになる。2005年から5年間で団塊の世代の退職は総賃金コストを8%程度押し下げ、全体では3%減少することになる。
コラム3-2 団塊の世代の退職と消費
団塊世代の退職時期が近づくにつれて大量に支払われると見込まれる退職金が新たな消費需要の源泉となるとして注目する見方もあり、団塊世代の退職が消費に与える影響について関心が高まっている。団塊世代の退職金に関する試算例としては2004年度時点で57~59歳にあたる団塊世代の保有する金融資産は約130兆円であり、退職一時金を受け取った後の2009年度には174.9兆円に達するとするものがある18。一方で、団塊世代の人口動態要因が消費に直接与える効果として60代前半は消費性向が高い年齢階層にも当たるため、団塊世代が今後退職し60代へと移行していくに従って、消費が大きく押し上げられるのではないかとの指摘もある19。
国税庁統計などに現れている数値を基にして、団塊世代の退職により、退職一時金が今後どのように推移するかを一定の仮定を置き試算すると、2006年まで5~6兆円程度であったものが、2007年から2009年まで8兆円程度に増加することとなる(コラム図3-3)。ただし、この試算では退職一時金を得た人々における平均額を用いており、退職一時金を受け取れない雇用者がいることを勘案すると、その分過大に推計している可能性があり20、結果は幅をもってみる必要がある。また、団塊世代の退職金を2007年から2009年までで53.4兆円と試算している調査もあるが21、一人当たり退職金の資料として、原則として資本金が5億円以上でかつ労働者が1,000人以上の大企業を対象とした中央労働委員会「賃金事情等総合調査」を利用しているため、過大な推計となっている可能性がある。さらに団塊世代の退職金の金額全体が消費拡大に作用するわけではなく、単年ベースでの消費拡大に対する退職金増加の寄与を評価するためには、退職金総額の前年との差分に注目する必要がある。
こうした退職一時金受取額が消費に与える影響については、退職金の特性も考慮しながら慎重に見る必要がある。退職一時金をいつ、どのくらい受け取ることができるかは、多くの人々にとって十分に予見され得る事柄である。このため、住宅ローンの返済や子供の教育費などの原資として既に見込まれていたり、老後資金として貯蓄されるなどの部分が大きいと考えられる。したがって、団塊世代が退職し、退職一時金を手にし始めても、それが定期的に得られるフローの所得と同じような形で消費の増加に結びつくとは考えにくい面もあり、消費拡大の影響については様々な要素への配慮が必要である。
(低下する労働組合の賃金決定過程への影響)
賃金は基本的には労働需給から決まると考えられるものの、企業内部での実際の賃金決定過程では労使間の交渉も一定の役割を果たしていると考えられる。今回の景気回復局面では企業収益の好調さにもかかわらず収益の大半は有利子債務の返済に向けられており、賃金に振り分けられる部分が限定的であったことは、企業内部での交渉過程における労働組合の影響力が低下が推察される。
2004年のデータに基づく研究では、男性については組合がある企業の方が、組合のない企業よりも賃金が高いとの結果が報告され、より厳しい経済環境の中で組合は労働条件の引下げに抵抗しているという結論が確認されている22。労働組合の組織率は、1980年代、1990年代を通して下落しており、組合員数についても1995年以降急激に減少しているなど、労使交渉に労働組合が介在しないケースが増えていることから、全体としては労働者側の交渉力が弱まり、労働分配率を低下させている可能性がある(第3-2-7図)。
労働組合の役割や交渉力の変化については、賃金よりも雇用を優先するといった成果目標の変化がみられるか、規制緩和による派遣の自由化などの制度改正がどう影響しているかなどについてさらに分析を深める必要があると考えられる。
(労働分配率は先行き引き続き低下の可能性も)
長期的な均衡という観点から見ると、労働生産性上昇率と実質賃金上昇率が一致するような関係が想定される。このような状態では労働分配率は技術進歩率と労働生産性に規定され、長期的な均衡状態おいては労働生産性上昇率と実質賃金上昇率が一致して労働分配率が変化しない状態となる。実際には、短期的な景気循環による変動もあり、現実の労働分配率はこのような考え方に基づいて推計される長期的な均衡水準と比較するとある程度乖離した状態となる。ある一定の仮定の下で上記の考え方にしたがって推計した均衡労働分配率を実際の労働分配率を比べてみると、足下でほぼ均衡水準に近づいてきた状態であることが分かる(第3-2-8図)。しかし、これまで述べてきたような要因は引き続き労働分配率を下押しするものと考えられ、労働分配率が今後均衡水準程度に落ち着くというよりもさらに低下を続ける可能性も否定しきることは難しい。労働分配率の低下は家計所得を抑制することを通じて、家計消費に影響することを考えると、労働分配率の今後の動向については注視していく必要がある。
第3節 デフレ脱却と家計所得
(限定的にとどまる単位労働費用の伸び)
賃金上昇率が緩やかにとどまっていることを反映して、単位労働費用も前年比で減少が続いている。これは生産性上昇率に比べると賃金上昇率が低い伸びにとどまっていることを意味するもので、労働分配率が下げ止まりを見せていないという現象と密接な関係にあると言える。
第4章で検討するような物価状況をみると、既に持続的に物価が下落するような意味でのデフレ状況はなくなった。しかしながらそのようなデフレ状態に後戻りすることがないという保証を得るためには、安定的な物価上昇圧力の存在が必要である。そうした観点からは賃金上昇の伸びが緩やかなものにとどまっていることはデフレ脱却の判断をする際にはリスク要因として配慮する必要があると考えられる。
(依然として低下が続くサービス価格と労働費用)
第4章で見るように消費者物価という観点から物価の動きを見た場合、安定的な物価上昇に寄与する品目はサービス部門であると考えられる。物価は基本的には市場における需給関係で決まるものの市場における価格設定の際にはある程度投入された費用の動向を反映したものになるという実態がある。特にサービス部門の特徴としてはその投入費用構造の中で人件費の占める比重が高いため、単位労働費用の上昇率が低いという環境はデフレ脱却を積極的に後押しする方向への寄与を限定的なものとしている。
(安定的なデフレ脱却への道筋)
賃金上昇率の動向は単位労働費用という供給側の費用構造を通してデフレ脱却の過程に影響を与えることになると同時に、家計所得を通じて消費水準に波及することから需要面からも物価動向に影響を与えることになる。
第3章におけるこれまでの分析の結果、企業側は全体として労働分配率の低下を持続しながら賃金上昇率を抑制し、企業収益を確保している状況となっていることが示された。第2章で示したように、特に大中堅企業において労働分配率は低下傾向にある。大企業の雇用者の賃金の伸びは中小企業の雇用者に比較して高いものの、付加価値の伸び率がそれ以上に高く、労働生産性の伸びに見合うだけの賃金上昇率は実現していない形となっている。2006年半ば頃からみられる消費の伸びの鈍化はデフレ脱却という観点からは望ましい環境とは言えず、これまでみてきたようにその要因として限定的な賃金上昇率があるとすると、その今後の動きについて注視していく必要がある。